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(小林尹夫-哲学ルーム)

アメリカ発世界恐慌(1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第10回)

 

  1929年の恐慌勃発によってアメリカ(と世界)経済は急速に崩壊を開始し、それは1932-33年に底を打つまで低落・崩落し続け、アメリカの労働者・民衆に残酷な影響をもたらした。

 秋元英一氏はその著書で、アメリカの歴史家ギルバート・セルデスの分析を参考に、29年の大暴落から33年のニューディール開始までを三つの時期に分け、その残酷な影響の実態を明らかにしている。

  ●1929年10月~1930年9月

    1929年の失業者155万人 労働人口の3・2%

    1930年の失業者434万人 労働人口の8・7%

  • 1930年10月~1931年12月

             1931年の失業者802万人 労働人口の15・9% 

  • 1932年1月~1933年3月

        1932年の失業者1200万人 労働人口の24%

 多くの失業者にとって仕事の確保は遠い夢、寒さと飢えからどう身を守るかが最大の問題であった。遠方政府や州政府や民間団体の救護事業は、失業者の急増によって財源が枯渇し、危機に瀕していった。解雇を免れた就業者も労働時間が大幅に削られ、1932年の週平均賃金は1929年の3分の1に減じていた。

建設業の場合は75・4%減であった。黒人の失業率は白人よりもはるかに高く、悲惨であった。

 秋元氏は、1931年初めのニューヨーク職業斡旋所を取材したある記者のレポートを紹介している。

 

『部屋はまったく静かだ。かすかな、求職者たちの絶望的なさざめきが聞こえる。この侮辱を強いる社会システムの上で辛抱強くしていて、彼らはまったく無言で立っている。何も出ていない状態は苦痛だ。私の近くのデスクの向こうでは事務員が鉛筆をもてあそびながら、すわっている。待つ。電話が鳴った。新しい仕事だ。せかすような会話。カードが記入され、半白髪の、丸い顔をして、あごひげがカールした「競売人」に手渡された。メガホンをつかんで、素早く壇上に立って、彼は叫ぶ。 「タイプライター修理、男性、一時間一五セントで、四時間労働。デスク、ナンバー2」。群衆の中に動きがある。固まった一団が揺れる。半ダースの人々が人波をかきわけて出てきた。仕事が、至福の恵みが、おそらくは手の届くところにある。彼らはあらん限りのアピールをしながら事務員にむしゃぶりつく。「どうか、ミスター、私は熟練の機械工です」「どうぞ、私は家族もちなんで」「チャンスをく だせえ」。すばやく、その事務員は二人を選びだす。幸運な二人の競争者はこぶしのなかに貴重なカードを握りしめて部屋から走りだす。どちらも「相手をやっつけ て仕事をとる」ことを望みながら。一つの仕事に二人が送られ、雇主が選ぶのだ。 事務員は彼の机に戻る。重い足を引きずりながら、二人の失望した人々がゆっくりと戻り、辛抱強い群衆と再び一体化する。二人をのぞいた残り1000人の絶望的な人びとが無言の訴えのなかに凍りつく。もう一度電話が鳴るまで 。

平均すると五〇〇〇人が毎日このフロアに仕事を求めてやってくる。一万人になることもある。およそ三〇〇~四〇〇人が仕事を得る。ほとんど全部が臨時職だ。』

 秋元氏は、恐慌に直面した民衆のホームレスへの転落過程を次のように描いている。

 『何の警告もなく、 人口一万九〇〇〇人の中西部のある町では、1932~33年の冬、銀行破産の波がおそった。この町を訪れたある記者は、以下のように報告している。

 銀行と銀行家が売った債券の崩落がこの町のデフレーションの直接的な原因とな った。学校の教師、保険のセールスマン、ブルーカラー、歯科医、退職した農民たちは、生涯の貯金が消え去り、保障がなくなる体験をした。

この町のファースト・ナショナル・バンクが破産第1号だ。事前警告は何もなかった。営業日の日中に検査官がドアを閉めた。この銀行は、合衆国財務省支店と見なされていて、州でももっとも古い銀行の一つだった。2~3時間以内に誰もがこの破綻を知った。預金者たちは驚愕して信じられない面もちで小グループごとに集まってドアに張り出された通告を読んでいる。…もっともショッキングな例は老齢のギアマン夫人だった。彼女は閉められた厚いガラスのドアを拳でたたき、大声で、あるいはしくしくと、人目をはばかることなく泣いた。彼女は貯蓄口座に彼女の夫の保険金から2000ドルと、粗末な敷物作りで25年間かかって貯めた963ドルを貯金していた。何も残らず、慈善に頼るほかなかった。』

そして、やがて人々は「自分の住宅から追いだされる」ことになる。

『 一家の主たる働き手が失業してしまった場合、まず貯金が使われ、それもやがてなくなると、住宅が自分の所有であれば、融資返済ができないから抵当解除で追いだされる。親戚や知人の好意にすがって身を寄せることもできるが、失業の長期化でストレスもたまり、いづらくなる。ひとり、またひとりと個人が、そしてやがては家族全体が家やコミュニティの絆を捨てて新たな生活を求めて彷徨しはじめる。このようなホームレスの人びとの群がしだいにあちこちで目立ちはじめ、恐慌の比較的初期でも「国中に移動民の新たな群が動き回っている」ことが確認された。

 こうした人びとの動態を把握する調査が1933年1月に行われたが、全米809 の都市で救済を受けている人びとの数は37万403人であった。調査の網にかからない、橋の下や壊れた建物、野外で夜を過ごしている人びとをカウントすれば、おそらく122万5000人を下らないであろうといわれた。その約半数が短期滞在者である。

大恐慌下の移動民たちは、かつての浮浪民とちがい、放浪自体が目的ではなく、新しい家を探し、あるいは仕事があって定着できそうなコミュニティに行き当たれば、そこで立派な市民になるはずの人びとだったといわれる。

フランクリン・ローズヴェルトが知事をしていた時期(1929~33年)のニューヨーク州では、3500もの工場が閉鎖され、工場労働者は110万人から73万人へと減少し、賃金支払総額も16.5億ドルから7.5億ドルに減少した。スープ・キッチン、ミルク・ステーショ ン、過剰に混雑した宿泊施設は当たり前のこととなった。救済や公共事業の拡大にもかかわらず、状況は悪化するばかりだった。)

 たとえばバファロー(ニューヨーク州北西部の都市)でもホームレスで市の宿泊施設に登録した人びとの数は1929年の6万5493人から1933年には75万人へと激増し、宿泊者 数も46万人となった。ニューヨーク市では、登録者数は1929年の15万8000人から1934年には223番人へと急増した。1日平均にすると、433人から6120人への増加である。予算と施設の制約から、非居住者の宿泊は一月に一日と 制限された。居住者の場合には登録した後、5日間の単位で延長することができた。 最大の施設では一晩に1500人が泊まることができた。

 ここへ泊めてもらう手続きは、誇りを捨てて、中央登録所に行こうと決意したときからはじまる。氏名、年齢、「昨晩どこで寝たか」を福祉事務員が記録する。各応募 者は二年以上居住しているニューヨーカーかどうかを尋ねられる。答えがイエスな ら、少なくとも二週間は泊まれる。そうでなければ、一晩だけだ。うそをつく人も多 かったであろう。

 そこから人は、困窮者のための生活様式をなす多くの行列の一つに入るように進む。午後五時の食事の行列は午後早くからつくられ、警察がきちんと監督している。夕食時間がくると、ガードマンが「牛を追い出すのとよく似たやり方で陰気な群衆を通路に沿って」誘導する。「OK」のサインと同時に飢えた人びとが最初の席を確保しようとする競争がはじまる。 …

都市によっては「定着」する人たちの「村」が作られた。あり合わせの材料で雨露をしのぐ家が集まったものである。ニューヨーク市にもブルックリンの一角に「フーヴァー・シティ」ができた。1933年の冬、600人程度の人が住んでおり、子どもも一人生まれた。警察が大目に見る限り、そこでの生活は自由で住民は友好的、そこから仕事探しに毎日通っていたという。こうした人びとも大半はアメリカン・ドリ ームを継承すべき中産階級や労働者階級の出身だった。ほんの昨日まで、彼には家と、家族と友人とコミュニティがあった。ほとんど自分の力のおよばない理由で彼の夢は壊され、彼自身がその不可欠の部分をなしていたアメリカから切り離されてしまったのである。

 女性の放浪者もいた。1933年に約40,000人いたとの推計がある。これは、男性の場合とちがって、恐慌前には見られなかった光景である。…

 アメリカ南部の農業生産に従事していた黒人たちが、本格的に北部都市に移動しはじめるのは第一次大戦前後からである。戦争によってヨーロッパからの移民が途絶え、企業は増大する労働力需要を黒人でたすことを考えなくてはならなかったから である。

 黒人男性の多くは底辺の単純肉体労働に従事した。恐慌前の黒人男性の週賃金の平均は18ドルだった。既婚黒人女性の就業率は60パーセントで、白人女性の4倍以上だった。恐慌になると「最後に雇われ、最初に解雇される」黒人の失業率は50パ ーセントをこえ、賃金は半分以下に減少した。 伝統的に黒人男女の仕事だった職種に、失業している白人が「侵入」してきた。家内サービス、ゴミ収集人、エレベータ ー・オペレーター、ウェイター、ベルボーイ、街頭掃除夫などに白人が優先して雇われるようになり、黒人は締めだされた。

 南部では経済状態の悪化とともに黒人にたいするリンチの件数がふえる傾向にあった。 黒人の都市における居住環境はこれまでにもまして悪化した。ニューヨークのハーレム地区では25年間に人口が6倍、35万人にふくれあがり、人口密度がこれまでになく高くなった。家族全体で1部屋という場合が珍しくなかったし、アパートの所有者は条件からすればきわめて割高な家賃を徴収した。廃棄されたビルや冷暖房や水道の使えないビルに多くの家族が住んでいた。恐慌下にもかかわらず、南部からは 1930年代に40万人が北部に向かった。』

 以上が恐慌に巻き込まれ、アメリカ民衆の哀れな、悲惨な実態であった。

 これはアメリカだけのことではなかった。世界のすべての資本主義国で同様の悲惨が発生していたのである。

 さて、いよいよ、こうしたアメリカ発世界恐慌が1929年にも、そして現代の2008年にも、な発生したのか。次回より、その根本原因に迫っていきたい。

 

アメリカ発世界恐慌(1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第9回)

 

 前回(第8回)、「猫も杓子も株式ブームに吸い込まれていった」と書いたが、この問題について若干補足しておきたい。

 ガルブレイスは、一般の人々が「猫も杓子も」市場に対する関心を強く抱いていた、というのはいくらか誇張されているきらいがある、とし、次のように述べている。

 1929年には誰もが「株に手を出していた」とよく言われているが、これは事実にほど遠い。当時は、いやいまもだが、労働者や農民や事務員の大半にとって、つまりはアメリカ人の大半 にとって、株式市場は手の届かないところにある薄気味悪い場所だった。それに、どうやって株を買うのか知っている人はそう多くはなく、まして信用買いをするなどという行為は、モンテカルロのカジノで賭けるのと同じぐらい無縁のことだったのである。後年、上院のある委員会が証券市場について調査し、1929年に株投機に関与した人の数を突き止めようとしたことがある。当時アメリカには29の取引所があり、会員証券会社は顧客数を記録しているが、それによると1548707人だという(その約9割に当たる1371920人はニューヨーク証取会員の顧客)。つまり当時13000万あったアメリカの全人口 のうち、さかんに株取引をしていたのは 150万人強に過ぎない。しかも、全員が投機をしていたわけではない。証券会社が委員会に 提出した数字によれば、信用取引をしていたのは60万人程度だというから、残り95万人は現金取引だったということになる。…全体としてみれば、1929年のピーク時にさかんに投機をしていた人の数は100万人以下であり、おそらくは100万を大きく下回っていたと言ってまちがいあるまい。28年末から29年7月末にかけて、アメリカ人は株式市場に押し寄せたとされているが、信用取引をする顧客の数は、国内の取引所全部を合わせても1年間に5万人強ほど増えたに過ぎない、と。

 ただ、次のことは指摘しておかねばならない。確かに一般庶民で「株式投機」に走るものは決して多くはなかった。しかし、銀行・保険会社によって集められた一般庶民の貯金や様々な保険金は、「高配当」「高利子」を謳う銀行や保険会社を通じて株式市場に投下され、株式ブームに注ぎこまれていった。

 さて、第7回の冒頭に次のように記した。

『第1次大戦後、しばらくは、アメリカは未曾有の好景気「黄金時代」に酔いしれることができた。しかし、ヨーロッパの戦後復興が始まり、特にヨーロッパでも農業生産が再開され始めると、まずアメリカ農産物の輸出が減り、農産物価格が低落し、農民の収入は激減し、農民の生活困窮が始まった。工業部門は、競争力の強い自動車産業は好調を維持していたが、石炭・紡績部門は不振に陥っていた。当然のことながら、戦争特需が終えた結果、農業部門だけでなく、工業部門の実態経済は、確実に「過剰生産」になっていたのである。

 しかし、アメリカ国民も、経済界も、クーリッジ大統領(在任は1923~29)と政府も、こうした実態経済にまったく目を向けていなかった。それは、当面、株式市場は右肩上がり状態の中にあり、世論の勢いや雰囲気は「黄金時代」の夢の中にあり、酔いから覚めることなく、人々は「合衆国は買いだ!」と信じ続けていたからである』と。

 確かに、1929年10月24日、ニューヨーク株式市場で大暴落が始まり、世界恐慌が始まった。もっとも、イギリスではその半年前から株価が下がり始めていた。しかしながら、1929年10月24日を境に一気にアメリカ経済、世界経済が崩壊していったわけではない。アメリカ、ヨーロッパの各国、世界各国の株価は乱高下を繰り返しつつ下がり続け、1932~3年頃になってようやく底に達した(アメリカ市場の株価は1929年最高時の6分の1になった)。

 1929年当時の最大の問題は、株を売っても、もはやその投資先がどこにもなかったことである。アメリカ、ヨーロッパ、世界(ソビエトロシアを除いて!)の実態経済は完全に行き詰まり、過剰生産に陥っており、一方、人民大衆には生産物を消費するだけの賃金・生活費がなかった。株式の暴落によって、金融機関の破綻が始まり、貯金は0になり、ますます手元資金が無くなる。モノが売れなくなる。労働者の解雇が始まり、会社の倒産が始まり、失業者が一気に増え、ますます消費は低下していく。悪循環である。

 1929年中だけでアメリカ国内の659行の銀行が倒産し、1933年までにはなんと9500もの銀行が破たんに追い込まれた。膨大な銀行の倒産―金融恐慌―は当然、全預金者を文無しに突き落とし、全産業に波及し、無数の企業を倒産に追い込み、大量の失業者を生み出した。更にこのアメリカ発の大恐慌は忽ち世界中に飛び火し、欧州、アジア、全世界に波及、その結果として、世界で2400万の労働者が失業のため飢餓と窮乏のドン底に突き落とされ、農業分野でも数千万の農民が困窮生活に陥り、或いは土地を失い、流亡生活に追い込まれた。1929年10月24日のこの日より3年間に亘って世界の資本主義は恐慌を深化させ続けていくことになる。

 

アメリカ発世界恐慌(2008年リーマンショック・1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第8回)

  ジョン・K・ガルブレイスの著作『大暴落 1929』(2008年11月・日経BP社)を紐解きつつ、いったい何が起こったのかを辿ってみよう。

 1927年、アメリカの「株式ブーム」をバブル化させる大きな国際的変動が起こる。その伏線は1925年に当時蔵相であったウインストン・チャーチルが断行した「金本位制」への復帰であった(大戦中、国際的な金本位制は崩壊)。第1次世界大戦中、ポンドは下落し、1920年の為替レートは、戦前の1ポンド=4.861が1ポンド=3・2ドルになっていた。ポンド安はイギリス帝国主義の政治的経済的力・権威の低落の結果であり、旧帝国イギリスの没落、新興帝国アメリカの台頭という、帝国主義陣営の主人公・中心的支配者・リーダー、基軸通貨の歴史的移動・転換の始まりを物語っていた。大チャーチルは、この威信低下が我慢ならなかった。そこで、金本位制への復帰を打ち出したのである。しかし、「原因」(植民地からの輸入・収益に頼るという他力依存に陥り、国内生産力の強化を怠って来たために国内の生産・経済構造は古くなり、他国特にアメリカに決定的に立ち遅れてしまっていた)を変えずに「結果」だけを変えてもうまくいくはずがなかった。このチャーチル金本位制復帰による急激な「ポンド高」が齎したものは、値上がりした英国製品の一層の購買不振・輸出不振であり、外国製品特にアメリカ製品のイギリスへの輸出増大であり、イギリスの一層の経済・財政力の低下であり、国際的な威信低落であった。それに更に輪をかけた悪材料が、イギリス経済を支えていた石炭市場の低迷であった。大戦終結の結果、石炭の需要が急激に低下していた。イギリス政府・企業は石炭の値段を下げ、コスト削減を強行、その結果イギリス国内では階級闘争が激化し、ゼネストが打たれ、政治不安が拡大していく。

 こうして、1926年になると、アメリカの金利高と成長性に魅かれ、イギリス・ヨーロッパから大量の金がアメリカに流出し始めた。慌てた英・独・仏の銀行界幹部はアメリカを訪れ、「金融緩和」を求めた。アメリカ政府はこれを受け止め、FRBアメリカの中央銀行たる連邦準備理事会)は公定歩合を4%から3・5%に引き下げ、更に大量の国債を買い上げた。その結果、大量のマネー―余剰資金―が銀行・市中にもたらされた。

こうした資金が生産活動に投資され、活発な生産活動・経済運営に回っていけば問題はないのであるが、先に述べたように第2次世界大戦が終わるや、アメリカも生産過剰・設備過剰が目立ち始め、実際の経済活動は停滞期に入りつつあった。そのため、大量の資金を手にした金融資本・大投資家は、これを株式相場に投じ、株高を煽り、小金・大金を手にした人々を株式投資に誘っていった。資本主義は こうした生産過剰・設備過剰、大量の余剰資金の出現を必然としているだけでなく、こうした状況を利用し、金もうけを企む、金融資本・大投資家の存在を必然としている。

 当時、アメリカでは次のような大物相場師がこの機を狙い、活発な動きを見せていた。ジョン・J・ラスコブ―GMの財務担当副社長を務め、デュプンのピエール社長の片腕となり、28年大統領選挙では民主党の全国委員会会長に指名された人物であり、皆が認める「卓越した投資家」であった。ウイリアム・C・デュラント―GMの創設者で、GMを追い出された後は株相場師一本やりとなった。そのほかにも、7人のフィッシャー兄弟、カナダ生まれの穀物相場師アーサー・W・カッテンなどがいた。金融資本と組んだ彼らの手によって、株式ブームが作り出され、1928年末には株式市場は凄まじい熱狂に包まれていった。

 1928年秋の大統領選挙で当選したフーバーは「投機は人殺しよりも悪質な犯罪であり、犯人を告発し罰しなければならない」という信念の持ち主であったが、それは胸の内に秘められていただけで、外に出されず、結局パニックも起こることなく、株式市場には過去最高の買いが殺到していった。銀行は連邦準備銀行から5%という安い金利で金を引き出し、それに上乗せした高い金利12%で証券会社・投資家に貸し付け、また証券会社は株を担保に入れさえすればいくらでも金を貸し出した。またこの頃新たに登場した投資信託銀行により企業はその資産に縛られることなく、自由に株・債権を発行することができ、資産の2倍、3倍、数倍の株・社債が発行され、売りに出されていった。既に「レバリッジ」的手法も生まれ、運用されていた。金もうけに貪欲な金融資本・大投資家たちの「欲求」が、こうした「新発明」を次々を生み出し、その欲望を満たしていった。こうして「猫も杓子も」株式ブームに吸い込まれていったのである。

 1929年10月、株式ブームはついにその頂点に達し、恐るべき崩壊が始まる。

 

アメリカ発世界恐慌(2008年リーマンショック・1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第7回)

  第一次世界大戦中(1914年~1919年1月)、戦場となることのなかったアメリカ(日本もまた)は、その戦争特需、戦後復興需要を一手に引き受け、空前の好景気を謳歌し、「黄金の20年代」を経て、遂に「大英帝国」に代わる、国際資本主義のトップ・リーダーの地位に上り詰めようとしていた。しかし、「20年代」最後の1929年の10月24日、アメリカは「突如」、未曾有の大恐慌に見舞われ、奈落の底に突き落とされていく。

 大戦後、しばらくは、アメリカは未曾有の好景気「黄金時代」に酔いしれることができた。しかし、ヨーロッパの戦後復興が始まり、特にヨーロッパでも農業生産が再開され始めると、まずアメリカ農産物の輸出が減り、農産物価格が低落し、農民の収入は激減し、農民の生活困窮が始まった。工業部門は、競争力の強い自動車産業は好調を維持していたが、石炭・紡績部門は不振に陥っていた。当然のことながら、戦争特需が終えた結果、農業部門だけでなく、工業部門の実態経済は、確実に「過剰生産」になっていたのである。

 しかし、アメリカ国民も、経済界も、クーリッジ大統領(在任は1923~29)と政府も、こうした実態経済にまったく目を向けていなかった。それは、当面、株式市場は右肩上がり状態の中にあり、世論の勢いや雰囲気は「黄金時代」の夢の中にあり、酔いから覚めることなく、人々は「合衆国は買いだ!」と信じ続けていたからである。

アメリカ政府と中央銀行FRBは、こうした景気後退対策として、公定歩合を引き下げ、大量の貨幣を市中に流し、経済活動の刺激策を繰り出した。だが、過剰生産の下では、その貨幣は生産活動には投資されず、フロリダ不動産売買や株券市場に集中し、不動産バブル、そして株取引バブルを生みだした。

 投機的バブル「フロリダ不動産ブーム」が始まったのは1925年頃からであった。「黄金時代」の記憶―世の中には努力しないで手っ取り早く稼いで金持ちになる方法、そんなチャンスがある―が、人々を「フロリダ買い」に走らせた。「フロリダは暖かく、日光浴には最適で、しかも首都からも遠くなく、レジャー時代の最高の楽天地となる!」とのキャッチフレーズが人々を煽り立てた。こうして「フロリダ不動産ブーム」が一気に膨らんでいった。いかがわしい土地が10%の手付金だけで買えた。「2週間後に売ったら大儲けだ」ということで、人が住めるかどうかなどどうでもよいことであった。しかし、26年に入ると買い手が減り始めた。26年秋には2度のハリケーンに襲われ、400人が死亡し、数千世帯お屋根が吹っ飛び、大ダメージを受けた。実際には「フロリダブーム」は終わっていた。それでも、しばらくは「気候的地理的優位性は変わらない!」との宣伝が繰り返され、ブームが維持された。しかし、28年には債務不履行が続出し、バブルは崩壊した。

 しかし、「フロリダ不動産ブーム」が崩壊しても、人々の「一攫千金」の夢は消えず、こうして「株式ブーム」が始まる。株は1924年後半あたりから値上がりを始めていた。26年には、「フロリダ・ハリケーン」の影響もあり、一時急落・暴落するが、直ぐに市場は反発し、27年から本格的な「上げ相場」が始まったのである。1928年12月、時のアメリカ大統領クーリッジは、一般教書において、「いまだかつてないほど、国内には平和と満足と繁栄期の最高の記録がある」と豪語していた。事実、1929年9月3日の株価―生産活動を活発に繰り広げていた企業の株価―は最高値を示していた。株価は、実体経済―過剰生産―をまったく反映していなかった。

 だが、その僅か1ヵ月半後の1929年10月24日、後に「暗黒の木曜日」と呼ばれたこの日、ニューヨーク・ウォール街アメリカ株価市場は大暴落に襲われ、株価はあっと言う間に半値に落下、大量の会社が倒産に追い込まれ、ついには、株券は紙くず同然となってしまったのである。

 いったい何が起こったのか。

アメリカ発世界恐慌(2008年リーマンショック・1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第6回)

    ここで、再び、最初に取り上げた浜矩子同志社大教授の、『「21世紀型恐慌」は、今まで繰り返し起こってきた恐慌とは、根源的に違う部分があると同時に、古典的な恐慌としての性格も多分にある。新しいものと古いものの両方の側面を持ちながら、最も恐ろしい経済現象』となっている、との指摘を取り上げ、その意味するところを掘り下げてみよう。

 浜教授は、「21世紀型恐慌(リーマンショック)は、今まで繰り返し起こってきた恐慌とは、根源的に違う部分があると同時に、古典的な恐慌(代表的なものが1929年大恐慌)としての性格も多分にある」としているが、結論的に言えば、「恐慌」としては本質的に全く同じ「経済現象」であり、そうした「経済現象」(恐慌)は、彼女が言うように繰り返し起こっている、のである。

 この点について、ヌリエル・ルービ二NY大学経営大学教授は、スティーブン・ミームジョージア大学歴史学准教授との共著『大いなる不安定』(2010年9月 ダイヤモンド社)は明確に次のように述べている。

『すでに多数の解説や分析が発表されているが、そのほとんどすべてで、今回の危機は過去に例がなく、二十一世紀の金融に特有の特異な出来事なのだとされている。(本著の)第四章では、今回の危機を過去の危機と比較して、このような単純で素朴な見方を否定する。2008年の出来事(リーマンショック)は、百年前どころか二百年前の金融論者にとってもなじみ深いものだったはずであり、危機の始まりから終息までの道筋もそうだが、 世界各国の中央銀行が最後の貸し手になって危機の鎮静化に努めた点もなじみ深かったはずだ。今回の危機はそれ以前の危機とは細部が違っているが、さまざまな点でよく知られた台本にしたがっている。歴史はめったに繰り返さないが、韻を踏むことは多いという格言の通りになっているのである』と。

「21世紀の金融危機」(リーマンショック)と「過去の大危機」(代表的な1929年世界恐慌)とは、細部では異なっていたが、その本質的部分においては何一つ変わるところがなかった―この見解の正しさは、ルービ二教授がリーマンショックが起こる2年前の2006年に、その発生を予告・予言・警告していたという事実によって証明されている。

『NY大学の経済学教授、ヌリエル・ルービ二は、世界経済が順風満帆だった2006年(9月7日)に、権威ある会議(国際通貨基金の会議)で、極めて明確な警告を発している。…説得力のある警告だったが、聴衆の多くは懐疑的であり、馬鹿げていると考えた人も多かった。

(ルービ二は)アメリカ経済で近く、一生に 一度しかぶつからないほどの住宅バブルの破裂、厳しい石油ショック、消費者信頼感の急激な落ち込み、その結果として避けがたい深刻な不況が起こる、と予想したのである。何とも厳しい予想だが、ルービニはさらに恐ろしいシナリオを示した。住宅所有者がモーゲージ・ローンで債務不履行を起こしているので、数兆ドルのモーゲージ証券(MBS)が混乱しはじめ、世界の金融システム全体が機能を停止するというシナリオである。結論として、住宅バブルが近く崩壊し、「金融システムでシステミック・リスクが発生し」、ヘッジ・ファンドや投資銀行、さらにはファニーメイ(連邦抵当金庫)とフレディ・マック(連邦住宅金融抵当金庫)という巨大な政府系機関が経営困難に陥り、破綻すらしかねない、と論じた。

 ルービニがこうした懸念を表明したとき、IMF会議の参加者はまったく懐疑的であった。

 その後一年半、この予想通りの事態になっていったとき、ルービニは悲観的な見方をさらに詳しく論じていった。2008年初め、「アメリカがぶつかっている問題は流動性の逼迫にすぎない」とエコノミストのほとんどが主張していたとき、ルービニははるかに深刻な信用危機によって家計や企業が打撃を受け、とくに金融機関が劇的な打撃を受ける、と予想した。ベアー・スターンズの崩壊のはるか前に、大手証券会社(つまり投資銀行)のうち、二社が破綻し、他の大手も独立を失う、と予想している。いまの形のウォール街はすぐに消滅し、1930年代以降にはなかった規模の激変が起こる、とルービニは警告した。その数か月後、ベアー・スターンズ(の破綻)はすでに遠い記憶になっていた。リーマン・ブラザーズは破綻した。メリルリンチバンク・オブ・アメリカに買収され、モルガン・スタンレーゴールドマン・サックスは結局、銀行持ち株会社になって、これまでより厳しい規制を受けるしかなくなっている』と(『大いなる不安定』)。

 全てはルービ二教授の予測・予言・警告の通りであり、彼の見解・分析理論の正しさを裏付けるものであった。

更に『ルービニは危機が世界的な規模のものである点も、他の論者よりはるかに早い時期から指摘している。他国はアメリカの金融危機の影響を受けないと市場の論者が断言していたとき、ルービ ニは危機がすぐに他国に伝染し、アメリカ経済の病が世界的な金融危機へと発展する、と警告した。正しい警告だった。さらに、世界的な金融危機が過去数十年で最悪の世界的不況を引き起こし、 中国、インドなど、アメリカの問題からは影響を受けないとみられてきた国も打撃を受ける、と予想した。他のエコノミストがインフレの危険に注目していたとき、ルービニは世界経済が大恐慌以来のデフレの悪循環に陥って大打撃を受けかねない瀬戸際にあると、正確な予想を発表している』と(同著)。

 そのルービ二教授は「1929年世界恐慌」について、どのように語っているのか? 驚く勿れ!次の記述は、現代の危機であるリーマンショックに関するものではなく、1929年の危機に関するものなのである。

『ブームはどの時点ではじまったのだろうか。不動産売買熱が突然起こったときであり、株式を売買するように分譲地を売買する投機をはじめて行った人が、数日ではなくても数週間に二倍から三倍もの利益をあげたときなのかもしれない。あるいは、新しい技術と新しい産業に基づく新しい経済の魅力にひかれて、庶民が一生の蓄えをウォール街に投じるようになって、安定が崩れたのかもしれない。

 政治家や政府高官は短期間で利益をあげようとする動きを抑えるどころか、奨励しさえしている。アメリカ大統領という権威ある政治家すら、政府がビジネスに干渉するべきでないと語り、 FRBも投機熱を抑える政策はとらなかった。金融のイノベーションと実験が経済成長に貢献していると賞賛された。新しい種類の金融機関が登場して、未熟な投資家にほとんど理解されていない証券を売り込み、多数の借り手に信用を供与していった。

 ある時点から、ブームはバブルになった。野心的な銀行から庶民にいたるまで、誰もが限度いっぱいまでレバレッジを高め、価格は上昇する一方だという疑わしいが奇妙なほど説得力のある見方に賭けた。経済学者の大部分はこの動きを歓迎し、市場はつねに正しいのだから干渉しないのが最善の方法だと主張した。ごく少数ながら、いずれ暴落が起こると警告した経済学者がいたが、馬鹿にされるか無視された。

そして暴落が起こった。ウォール街は大揺れに揺れ、由緒正しい金融機関がよろめき、恐怖にかられた債権者が押しかけた。嵐が少し静かになると、最悪期は過ぎたという主張があらわれたが、状況はすぐにまた悪化する。金融機関は奈落の底へと転落していき、投資銀行の一部、とくにゴールドマン・サックスは炎上をまぬがれたが、伝統を誇る金融機関がいくつも、一夜にして崩壊した。信用枠は消え、金融システムの精巧な資金取引の仕組みが機能しなくなり、信用力の高い機関すら債務の借り換えに苦労するようになった。

 株式市場が暴落し、差し押さえが急増し、企業が倒産し、消費者は消費を控えるようになった。 大規模なポンジ式詐欺が発覚し、金融業界全体に詐欺や腐敗が横行していたことも明らかになる。 そのころにはアメリカの病が他国にも波及しており、各国の株式市場が暴落し、銀行や投資機関 が崩壊していった。失業率が急上昇し、鉱工業生産は急落し、価格の下落でデフレの亡霊があらわれてきた。一つの時代が終わったのである。

以上の動きが起こったのは二年ほど前ではない。八十年以上前(1929年)、大恐慌の前夜である』と。

 おそらく読者は、この記述を読み、これが現代の危機(リーマンショック)について語られたものと錯覚したであろう。それほど、二つの経済危機・恐慌は「細部では異なる」ものの、本質においては全く「同じパターンの繰り返し」でしかないのである。

ここで、1920年代から30年代のアメリカ経済に何が起こったのか、詳しく見てみよう。

アメリカ発世界恐慌(2008年リーマンショック・1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第5回)

 経営破綻し、世界的経済危機の要因となった投資会社はリーマン・ブラザーズだけではなかった。2007年からの住宅市場の大幅な悪化とともに、投資銀行ベアー・スターンズもたちまち危機に陥った。

 投資銀行ベアー・スターンズは過大なほどのレバリッジ(小さな元手で大量の借り入れを行う…例えば1ドルの元手で33ドルの借入)を活用し、リスクは高いが大きな収益が見込める「サブプライム・ローン」を積極的に扱うヘッジファンド(限られた大投資家を集めたファンド)を通じて、巨額な取引を展開していた。ところが、2007年7月、傘下の二つのヘッジファンドが急激な住宅市場悪化で破産宣告に追い込まれた。本来ならば本体の投資銀行ベアー・スターンズがそれを救済しなければならないのであるが、ベアー・スターンズ自身何かあればすぐに引き上げられるレバレッジを使った資金運用をしていたため、彼らを救済するだけの資金・体力がなかった。手持ちの証券を担保に資金を調達する「レポ取引」があったが、その手数料が、かつては0%だったのが51%にまで一気に上昇し、もはやレポ取引も崩壊状態にあった。そして、更に問題になったのは、投資銀行ベアー・スターンズの「レポ取引」の決済銀行を務めていたのが、米国を代表する大銀行JPモルガン銀行だったことだ。JPモルガンが手を差し伸べなければベアー・スターンズは倒産となり、その影響はベアー・スターンズと繋がっている多くの金融機関・投資銀行ヘッジファンドに広がり、一気に大金融恐慌に突入してしまう。「あちこちと繋がりすぎていてベアー・スターンズは潰せない」-それがアメリ財務省連邦準備制度理事会FRB)とJPモルガンの判断であった。結局、JPモルガンが、買収資金300億ドルはFRBがすべて持つという条件で、ベアー・スターンズを買収し、その破産を救済したのである。

 ここで、明確になったように、ブッシュ政権アメリ財務省連邦準備制度理事会FRB)はその国家資金(本はといえば国民の税金)を無条件的に投入し、主要な銀行・投資銀行ヘッジファンドを救済する、そうすることで何が何でもとこの金融危機を乗り切る腹であった、ということだ。

 問題になっていたのはベアー・スターンズだけではなかった。かつて政府によって創設され、その後株式会社化された、政府系住宅金融公社「ファニーメイ」と「フレディマック」も危機に瀕していた。アメリカ政府とグリーンスパン議長を先頭としたFRBは、かねてから、この二つの公社を積極的にバック・アップし、住宅不動産金融を膨張させ、サブプライム・ローンの拡大に大きな役割を果たしていた。政治家たちもこれに手を貸し、議会と二つの公社の癒着は公然の秘密であった。アメリカ政府は、売れない不動産証券があると、これをこの公社に買わせ、問題化を回避させた。2007年夏には、この公社が抱え込んだ債権は5兆ドルに達していた。あまりにも「金額が大きすぎてつぶせない」-それがブッシュ・アメリカ政府とFRBの結論であった。これを潰したら、たちまち世界金融大恐慌となり、金融分野の企業だけでなく、あらゆる分野の企業が大量に倒産し、生産活動はストップし、国民はその貯金をすべて失い、惨めな失業に追い込まれる。米政府は、「バズーカ砲」と言われた巨額な公的資金の投入に踏み切り、9月初め、二つの公社の国有化に踏み切った。

 同じような理由で、世界最大級の保険会社であり、「格付け会社」であり、巨大ヘッジファンドと化していたAIGの危機もまた、公的資金の投入によって救済された。「大きすぎてつぶせない」-それがアメリカ政府とFRBの判断であった。

そうした中で、リーマン・ブラザーズだけが、政府・FRBから見離され、倒産に追い込まれた。リーマン・ブラザーズ自身はそれほど大きな投資銀行ではなかったが、過大にレバレッジを効かせていたので、その世界に与える衝撃は小さくはなかった。結局、リーマン・ブラザーズ公的資金は投入されず、あっけなく倒産に追い込まれ、世界に大きな混乱を及ぼし、衝撃を与えた。確かに、金融機関間の「取り付け騒ぎ」が起こり、いくつかの投資銀行は破綻したが、世界の全金融システムと全生産システムが土台から崩壊し、一般国民・市民を巻き込んだ大恐慌に陥ることは回避された。

 では、何故、リーマンだけが他の金融機関同様に、政府によって、公的資金によって救済されなかったのか?リーマンの頭取ファルド氏は「この疑問は墓に埋められるまで続くでしょう」と呟いたそうだが、その理由ははっきりしている。一言でいえば「生贄」(いけにえ)にされたということである。「多少、世界に衝撃を与えても、これを無傷で収めることは出来ない。どこかで犠牲を出さないと、国民の怒りは収まらないであろう」-それがブッシュ・アメリカ政府の腹であった。

 どこの国であれ、資本主義国の政治家・政府は、資本主義体制(実質は独占資本主義体制)を守るためなら、なんでもやる。それが彼らの最大の使命なのである。彼らは決して自らそのブルジョア権力の座を去ることはない。彼らは最後の最後まで、独占資本主義体制を守るために必死になり、あらゆる手を尽くす。彼らにとって、共同体と社会主義を目指す労働者・人民に対する攻撃・弾圧は必要不可欠であり、死に物狂いで抵抗し、反撃を加える。労働者・人民もまた自らの革命的権力―人民評議会―をもってこれに対抗することが不可避となる。激突は避けられない。

 しかして、資本主義体制にとって、恐慌は避けて通ることのできない病気、死の病に他ならない。この問題を解明した歴史上の人物こそが労働者階級の頭脳、カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスであった。