人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第8回)

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

                               20221010日更新  次回更新は1020

 

 

 

   独ソ戦の軍事に関する幾つかの「疑問・批判」について

  さて大木氏は、本書で、独ソ戦の軍事に関する幾つかの「疑問・批判」を提示している。即ち、スターリン独ソ戦が迫っているにも拘わらず、あらゆる情報に耳を貸さず、ソ連軍部隊は無防備かつ無警戒のままドイツの侵略―一大奇襲攻撃―に直面し、また「粛清」によって赤軍を弱体化させてしまった。こうした、スターリン個人の「誤謬や先入観、偏った信念が、そのまま国家の方針になってしまった」結果、緒戦で、またそれ以外の戦闘でも、大敗北、大損害を被ったのではないか、と。整理すると―

スターリンはその根深い「猜疑心」からあらゆる情報に対して不信を抱き、特に根強い対英不信からイギリスよりもたらされた情報を全て謀略と決めつけ、「不愉快な事実」から目を背け、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の奇襲に対して必要な警戒措置を取らず、無防備のまま奇襲攻撃を受けることになった。

スターリンは、1939年の「大粛清」によって『時代に先んじた用兵思想―「縦深戦」なる作戦術―を完成させたトハチェフスキー元帥』を銃殺し、『自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまった』。これにより赤軍は完全に弱体化してしまった。

③その結果、ソビエト軍は緒戦で、その他の戦闘で大敗北を喫し、不必要な大損害を被った、と。

 この大木氏の見解は、フルシチョフを先頭に、多くの反マルクス主義的反共的政治家、評論家、歴史家が繰り広げている「スターリン批判」であり、独ソ戦をめぐる軍事的な「スターリン批判」はこれに尽きるといって良い。

 結論から言うと、これらはすべて出鱈目で、歴史的事実に反している。更には、英国のかの有名な軍事史研究家で、大著『第二次世界大戦』(中央公論新社)を著わしたリデル・ハートの見解にも反している。

 これらの「疑問・批判」について、一つ一つ筆者の見解を以下に対置しよう。

 

スターリンは全ての情報を無視した」という批判について

 大木氏は、スターリンはその根深い「猜疑心」からあらゆる情報に対して不信を抱き、特に根強い対英不信からイギリスよりもたらされた情報を全て謀略と決めつけ、「不愉快な事実」から目を背け、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の奇襲に対して必要な警戒措置を取らず、無防備のまま奇襲攻撃を受けることになった、という。

 確かに、スターリンは幾つかの情報を無視した。英国ルートの情報については特に警戒した。それは、チャーチル自身が述べているように、彼の一貫した作戦(謀略)が「ヒトラーソ連を戦わせる」(漁夫の利を得る)というものであったからである。

 既に述べたように、スターリンは、1934年1月開催の第17回党大会、1935年7月開催のコミンテルン第7回大会を通じて、迫りくる戦争の最大の根源は、西のドイツ(とイタリア)のファシズムであり、東の日本軍国主義であることを明らかにし、ファシズム軍国主義の本質は野蛮極まるテロ独裁であり、反共・反ソビエトであり、さらに民主主義の完全な否定であり、そのために英米仏はじめ他の資本主義国との間に重大な矛盾を抱えていることを明らかにし、明確な政治目的―ファシズムの打倒・民主主義の回復―を指し示し、全世界の国々、国民、人民に対して、これを政治目的とする統一戦線への参加を呼び掛けている。後にこの呼びかけにより、ソ英米仏による反ファシズム連合が形成され、その結果、第二次大戦は反ファシズム解放戦争へと発展したのである。だが、反共主義者の英首相チャーチルは、最後まで、即ち独ソ戦争が始まるまで「ドイツを東方に向かわせる」「独ソ共倒れを狙う」という作戦を追求していた。「火中の栗を拾わされるな」と国民・人民に呼びかけているスターリンが「英国ルートの情報」に警戒心を持つのは当たり前のことであった。

 スターリンが、当時、様々な情報に対してとった極度に慎重な態度について、それを解明する資料を次に紹介しよう。

 マルクス主義者にとっては「古典的教典」とも言うべきクラウゼヴィッツの『戦争論』に次のような記述がある。

『「情報」という語は、敵および敵国に関する知識の全体を意味し、従ってまた戦争における我が方の計画ならびに行動の基礎を成すものである。ところでこの基礎の本来の性質、即ち絶えず変遷してけっきょく当てにならないという性質を考えてみるがよい、すると戦争はぐらついている建物のようなもので、いつ崩壊して我々がその下敷きになり、瓦礫や土砂のなかに埋没するかも判らないということを感じるだろう。我々は確実な情報だけを信用すればよいとか、情報をみだりに信用してはならないなどという忠言は、確かにどの軍事学書にも載っているが、しかしこれは言葉のうえだけの、取るに足らない慰めであって、体系や綱要を拵えようとする人達の猿知慧にすぎない。つまり彼等はそれ以上のことを知らないからこういう知慧に頼らざるを得ないのである。

我々が戦争において入手する情報の多くは互に矛盾している、それよりも更に多くの部分は誤っている。そして最も多くの部分はかなり不確実である。…

危険に関する情報は、いわば大海の波のようなもので、いったん高まった波は絶えず崩れ去りながら、これまた波と同様にかくべつ眼に見える動因がないにも拘らずまたしても打ち寄せるのである。しかし情報の本来の性質を弁えていれば、この種の情報を是正することができるわけである。それから指揮官は、自己の信念に徹して常に毅然たることあたかも海中に屹立して波の砕け散るにまかす巨岩のごとくでなければならない』と。

 スターリンの行動をつぶさに追ってみれば、彼がこのクラウゼヴィッツの教えをよく守って行動していることが理解できる。

次は 独ソ戦当時、ソビエト国内に滞在し、独ソ戦の取材活動にあたっていた毎日新聞モスクワ特派員・渡邊三樹男の観察記録『ソ連特派五年』からの引用である。

 『1944年2月21日、私は何度目かのレーニン博物館訪問をした。いつもはやっていな い館内の映画ホールにいたると、折から何かの映画がはじまろうとしていたので、早速はいってみた。それは「ソ連の歴史」と題する記錄映画であった。革命時代のレーニンから…いよいよ新憲法による第一回の最高会議選挙となった(一九三七年十二月十二日)。…モスクワの「スターリン選挙区」の投票場があらわれた。投票用紙を持った人がつぎつぎと投票箱の中へ投票してゆく…有名人の姿もみえる…カリーニンモロトフ…それらの人たちはみな一様に無雑作に投票用紙を箱の中へ放り込むと、スタスタと向こうへいってしまう。あッ、長外套を着たスターリンがやってくる! スターリンは、投票用紙を注意深く箱の口から中へ入れ、これを落し込んだが、普通の人のようにすぐその場から立去りはしない、箱の上にかがんで口をのぞき込み、投票用紙が完全にはいったかどうかをたしかめ、さらに箱の横をポンポンと軽く打った。 そうして自分の投票がまちがいなく遂行されたことをみとどけて、それから手袋をはめて去っていった。

 何という用心深さであろうか! 私は、スターリンの政治家としての極度の慎重さにはかねがね敬服していたが、この場面をみて、あらためて彼の百バーセント、否百二十パーセン確実主義 (という表現もおかしなものだが…)に驚いたのであった。

 すでに私は本書のはじめの方で、ソ独戦争第一年、スターリンによる戦争勃発直後のラジオ演説と、4か月経過した革命記念日前夜祭の演説のあいだに、対独勝利の見通しについて根本的な相違がみとめられることを指摘した(注:後者の演説は「われらの事業は正しい。勝利はわれらのものである」という言葉で結ばれていた)。もちろん、スターリンの対独戦争観とその信念は当初から一貫したもので、百二十パーセント確実とならない「勝利」について安易に云々するような態度はとらないのである。ヒトラーや日本の戦争指導者が、口を開けば「勝利はわれにあり」と喚いたのと対比せよ。…

 実際、スターリンは手堅い! この感は彼の伝記や著書、わけてもレーニン没後の重要な演説を採録した「レーニン主義の諸問題」と今次大戦中の演説集「大祖国戦爭について」をひもとくと、よけい深くなる。国民にぬか喜びなど与えない。情勢が悪いときはハッキリ「悪い」と断言し、官僚主義の弊や党員の理論的低下に関しては、徹底的な自己批判をおこなうゆき方である。…

 こういうスターリンの態度は、敵からみれば(友でさえも)、あまりに手堅くガッチリし過ぎていて近づきにくいとの印象を与えるので、しばしば「陰険」とか「強迫観念」とか「冷酷」 と攻撃されるもととなるのだが、味方からすれば、これくらい力強い、頼りになる人物はいないということになる。

 テヘラン会談の折、スターリンは、ドイツの殺人スパイが狙っているとの理由でルーズべルト大統領をアメリカ大使館から安全なソ連大使館に連れ出したものだが、これまたスターリンの百二十パーセント主義が如実にあらわれた一例として興味深い。』

 新聞記者である渡邊氏は、「スターリンの政治家としての極度の慎重さにはかねがね敬服していたが、この場面をみて、あらためて彼の百バーセント、否百二十パーセン確実主義 に驚いた」というのである。大木氏が「猜疑心」などといって批判している「スターリンの慎重さ」について、渡邊氏は高い評価を与えているのである。

 次は、日本の著名な独ソ戦研究家・山崎雅弘氏が、その著『新版・独ソ戦史』(朝日新聞出版・2016年刊)において明らかにしている、開戦に纏わる注目すべき事実である。氏はどちらかというと「独裁者スターリン」に対して批判的立場の人物である。それだけに、彼のこの指摘には十分信頼がおける。

 『一九四一年六月十三日、国防人民委員ティモシェンコ元帥は、西部国境地帯に展開する各部隊に戦闘準備をとらせ、防御陣地に展開させるよう進言したが、スターリンは「検討する」と答えただけで、明確な指示を出そうとはしなかった。翌六月十四日、ソ連国営夕ス通信は、対ソ国境に集結しているドイツ軍部隊の存在や、世界中で流布している「独ソ開戦間近」との噂を指摘した上で、「そのような噂には何の根拠もなく、独ソを戦争状態に追い込もうとする勢力(イギリス)の謀略である」との声明を発表した。

 そして、開戦前日の六月二十一日深夜、越境したドイツ軍の脱走兵が、翌朝の対ソ侵攻作戦についての情報をもたらしたとの報せを受けたスターリンは、ようやく戦争の準備に着手した。彼は、午後十一時三〇分に国境付近の防御態勢の強化を指示する次のような命令文書に署名すると、前線の各部隊に伝達するよう命じた。

 「一九四一年六月二十二日から二十三日の間に、レニングラード、沿バルト特別、西部特別、キエフ特別、オデッサの各軍管区において、ドイツ軍が奇襲攻撃を実施する可能性がある。しかしわが軍は、戦争拡大を招くような敵の挑発行為に乗ってはならない。各軍管区の部隊は、敵の不意打ちに備えて戦闘部隊を展開し、防御陣地と空軍基地の航空機には偽装を施すこと。防空部隊に臨戦態勢をとらせ、主要都市や目標物の灯火管制を準備すること。ただし、特別の指示がない限り、上記を超える行動をとってはならない」

 参謀総長第一代理のヴァトゥーティン中将は、この命令文書を携えてクレムリンから参謀本部に戻り、六月二十二日の午前〇時三〇分に各軍管区への送信を完了した。だが、こ の命令を受け取った各段階の司令部は、暗号で発信された内容を解読するのに貴重な時間を費やしてしまう。西部特別軍管区司令部は、午前一時四五分に命令内容を理解した後、 再び暗号に変換して、午前二時三十五分に配下の軍司令部へと転送した。国境の防備を統括する各軍司令部の手許に命令が届いたのは、現地時間の午前三時前頃だった。軍司令部の将校は、上から伝えられた命令をさらに配下の軍司令部へと伝達せねばならなかったが、彼らにはもはや、その時問は残されていなかった。 それからわずか一五分後に、ドイツ空軍の爆撃が開始されたからである。』

 『(ドイツ南方軍は幾つかの不利な条件を負わされていた)開戦前夜の六月二十一日、ドイツ国防軍の脱走兵が国境のブーク川を泳ぎ渡ってソ連側に投降し、翌朝に実施される侵攻作戦の内容を通報していた…。これにより、国境付近のソ連軍部隊は限定的ながら臨戦態勢を整えており、(ドイツ軍)南方軍集団戦区では北方や中央軍集団戦区のような戦術レベルでの奇襲効果を得ることができなかった。

 この戦区を管轄するソ連南西方面軍司令官のミハイル・キルポノス大将は、 最前線から報告されるドイツ軍部隊の集結情報を吟味した上で、この投降兵が現れる一週間以上前からドイツ側の侵攻開始を予見しており、国境に面した部隊の体制強化を繰り返しスターリンに進言していた。結局、この進言は聞き入れられず、キルポノスは不本意な形で開戦を迎えることとなったが、それでも他の戦区に比較すれば、ソ連部隊の指揮系統は奇襲による麻痺に陥ることもなく 国境を越えたドイツ軍部隊は事前の予想を上回る、ソ連軍の頑強な抵抗に遭遇することとなった。…

 キルポノスは開戦初日の未明に発令された国防人民委員部指令第2号に続く、新たな攻撃命令(指令第3号)に従い、反撃の準備に取りかかった。キルポノスは、スターリン直々の指令により「最高司令部代表」という肩書きでモスクワから急きょ、南西方面軍司令部へと派遣されたジューコフ(注:スターリンが最も信頼していた司令官)と相談した上で、第8、第9、第15、第19、第22 の五個機械化軍団に、それぞれの反撃開始地点への移動を命令した 』と

 以上から、「百二十パーセント確実主義」「極度の慎重派」であったスターリンは、最前線の信頼のおけるキルポノス大将が「ドイツ軍投降兵」から入手した情報を元に、初めて「ドイツ軍の奇襲攻撃」を確認し、「反撃の準備」に取り掛かった。これが真実である。「絶対に挑発に乗ってはならない」とする「百二十パーセント確実主義」のスターリンにとって、これが唯一の正しい判断の仕方であり、対処法であった。この対処法はあまりにもきわど過ぎたとの批判もあろう。が、それはあくまでも結果論であり、その瞬間は、クラウゼヴィッツの言うように、不動の信念を以って対処する以外にないのである。

 この投降兵のもたらした情報の詳しい内容は不明であるが、指令から推測できることは、ドイツ軍の攻撃がどの程度のものであるかについての情報は得られていなかったようだ。指令伝達の時間的ロスは、やってみて分かることで、避けられないことである。暗号に係るこの種の問題は日本軍の真珠湾攻撃、日米間の宣戦布告問題をめぐってもあったことで、これも避けられないことであった。

 いずれにせよ、ここから明らかなことは、大木氏らが言うような「猜疑心の強いスターリンはどんな情報も無視し、必要な警戒措置をまったく取らなかった」などいう事実はどこにも無く、真実はその正反対であった、ということである。

 また、大木氏やフルシチョフは、スターリンは「情報を無視」しただけでなく、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の攻撃に対して全く無防備であったなどと批判しているが、これもまったくの中傷である。

 スターリンソビエト政府が、独ソ戦前に如何なる準備・対策をとっていたか、大木氏は何も知らない。恐るべき無知である。或いは、知っていてもこれを無視したのか、どちらかであろう。後者であるとするなら、軍事史研究家として落第であろう。

 スターリンソビエト政府の対独政治戦略、国防・軍事方針については、既に第二次世界大戦独ソ戦の開始」及び「スタハーノフ運動と社会主義的競争」の項で述べた通りであるが、ここで今一度、そのエッセンスを纏めてみよう。

 その前に、まずはクラウゼヴィッツが残した有名な言葉を今一度ここに紹介しておこう。即ち『戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない。戦争とは単に政治行動であるのみならず、まったく政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行である。政治的意図は目的であって、戦争は手段であり、そしていかなる場合でも手段は目的を離れては考える事はできない』との言葉を。

 さて、スターリンは、1934年1月(第二次世界大戦勃発の5年前!)に開かれた第17回党大会の『一般報告』で、早くも次のように述べている。

 『再び、1914年と同じように、好戦的な帝国主義の諸政党、戦争と復讐の政党が、前面に進出しつつある。事態は明らかに新しい戦争に向かっている。…次のように考えている者もある。――戦争は、「高等な人種」たとえばゲルマン「人種」が、「下等な人種」何よりもスラブ「人種」に対して仕掛けなければならない…と。また…戦争は、ソ同盟に対して仕掛けなければならないと考えている者もある。彼らは、ソ同盟を打ち砕き、その地域を分割し、ソ同盟を犠牲にして利益を得ようと考えている。こんな風に考えているのは日本の若干の軍閥連中だけだと考えたら、それは間違いである。ヨーロッパの幾つかの政治指導者の間にも、この様な計画が企まれていることを、我々はよく知っている』と。

 また、スターリンは、同大会の報告の中で「ソ同盟は、極東地方・西部国境の情勢を鋭敏に監視しつつ、極東・西部国境の国防力の強化に努めなければならない」と呼び掛け、次のように述べている。

 『わが国の対外政策は明らかである。それは、すべての国との平和を維持し、通商関係を強化する政策である。ソ同盟は誰かを威嚇しようなどとは考えていないし、まして誰かを襲撃しようなどとは、なおさら考えていない。われわれは平和に味方し、平和の事業を固守する。だが、われわれは威嚇を恐れないし、戦争放火者の打撃にたいしては打撃をもって応える用意がある。平和を欲し、われわれと実務的関係を持とうと努力するものは、常にわれわれの支持を見出すであろう。だが、わが国に襲いかかろうとするものは、今後わがソビエトの菜園にその豚の鼻づらを突っ込むなどということを二度としなくなるように、壊滅的な反撃をうけるであろう。われわれの任務は、今後ともこの政策を粘り強く、徹底的に実行していくことである』と。

 このスターリンの「平和政策」は、レーニンが述べた、次のような「平和政策」を引き継いだものであり、それはソビエト人民の根強い要求でもあった。

ソビエト権力の対外政策の諸任務を考慮する場合、現在、無謀な或は性急な行動によって、日本またはドイツの主戦派の極端な分子の手助けをしないためには、最大の慎重さ、熟慮、堅忍不抜さが必要とされる。それというのは、これら両国における極端な分子が、ロシアの全土を占領し、ソビエト権力を打倒する目的で、ロシアに対する即時の総攻撃を主張しているからである。…本格的な戦争の軍事的準備を強化する上に必要なことは、発作でもなければ、喚くことでもなく、戦闘スローガンでもなく、大衆的規模での長期の、緊張した、極めて粘り強い、規律ある行動である』(1918年5月 現在の政治情勢についてのテーゼ)。

 更に、1939年3月10日に開催されたソビエト共産党第⒙回大会において、スターリンは、世界情勢について、自国の国防・外交方針について、ヒトラーの動向を念頭に、次のように語っている。

 『侵略国諸国(注:独伊日の反共ファシスト国家)は、ヨーロッパではオーストリアやズデーテンやスペインを奪い、アジアでは日本が中国大陸で広大な土地を奪っている。このように、侵略諸国家は、イギリス・フランス・アメリカの権益を至るところで侵している。にもかかわらず、これらの被侵略諸国家はおとなしく引きさがり、譲歩に譲歩を重ねている。その原因はどこにあるのか?…彼らは、侵略国家の悪業を防止しようなどとは考えていない。つまり、日本が悪業を続けている内にソビエトとの戦争に巻き込まれたり、ドイツがソビエトとの戦争を始めるかもしれないから、別に日本やドイツの悪業を防がないでもよろしい、というわけである。そして、これらの交戦国が互いに力を消耗し尽くして弱ってしまった時、自分たちは新手として登場し、自分たちの思うように世界を処分しようという寸法なのである。』と。

 そう述べた上で、スターリンソビエトの「対外政策」「対外政策の基礎となる主体力強化策」「党の任務」を次のように提起した。

 「ソビエトの対外・外交政策について」―民族独立闘争を支持し、帝国主義の戦争準備を暴露し、互いに実務関係を結べる国々とは正常な関係を結び、国境を接する国々とは互いに国境を尊重し合うこと。

 「ソビエトの対外政策の基礎としての対内政策について」―ソビエトにおける人民の団結、ソビエト権力の強化と拡大(注:経済建設と生産力増強も含む)、ソビエト赤軍の強化と国防力の強大化、政府の平和外交、万国の労働者との国際的団結を推し進めること。

 「ソビエトの党の任務について」―先の二つの政策実現を責任もって指導すること。そして、党が、あらゆる現実の分析と理論上の根拠に立って、「火中の栗を拾わされる」(注:自分の利益にならないのに、そそのかされて他人のために、即ち英仏のために危険をおかす)ことのないような革命的外交政策を展開すること、と。

 更にまた、スターリンは1931年2月に開かれた『産業の働き手第1回会議』の席上、第1次5ヶ年計画を総括し、レーニンの「戦争は仮借なきものであり、戦争は容赦なき峻烈さで問題を立てる。即ち、滅亡するか、それとも先進諸国に追いつき、且つ経済的にもこれらの国を追い越すか」「滅亡するか、或は全馬力をかけて前方に突進するか。歴史はかくの如く問題を立てている」を引きつつ、次のように訴えている。

 『少しばかり速度を緩め、運動を抑える事はできないだろうかという質問が時々なされるが、それはできない!速度を下げてはいけない!速度を引き留める事は落伍である!落伍者は殴られる。我々は殴られたくはない。断じて殴られたくない!…旧ロシアの歴史は遅れたために間断なくやっつけられた記録である。…我々は50年も100年も先進諸国から遅れている。この距離を我々は10年間で走り抜けねばならない。我々はこれをやり遂げるか、打ち潰されるか。…これは我々にかかっている!』と。

 第二次世界大戦独ソ戦前、当時のスターリンソビエトにとって、第1次・2次5ヵ年計画を一日でも早やく成功させること、ソビエトの経済力と国力を強めること、内部体制をより強固にすることが至上命題であり、その軍事・国防方針はあくまでも「防御的」であって、「他国を襲撃する」などもっての外のことであった。「我々は絶対に敵の挑発に乗ってはならない。平和を求め、ソビエトと友好を求める如何なる国とも不可侵条約を結ばねばならない」―ここにソビエト政府の外交・国防方針の核心があった。

  スターリンソビエト政府は、これらの方針を忠実に守り、忠実に実践、実行し、独ソ戦の準備に万全を尽くした。これは動かし難い事実である。

 実際、独ソ戦開始前、ソビエト政府は全力を挙げて「戦争準備」を進めている。そこには一かけらの油断も見られない。第1次・2次5ヵ年計画は既に完了し、第3次5ヵ年計画(1938年~1942年)は、1941年6月の開戦時には、工業生産計画予定の86%を達成済みとし、鉄道輸送計画は予定の90%が達成済みであった。特に国防産業部門は強行軍で推進され、スターリンはこの部門の工場長、主任技師、党組織者としばしば会見し、彼らを激励していた。また、敵の攻勢・侵入に備え、戦略的工業の各種工場は、ドイツ陣営と国境を接する西部から遠く離れた領内奥地、東部地域への移動、建設が推進された。1939年9月にはソ連邦最高会議は「全国民兵役義務法」を制定し、1940年6月には「8時間労働制・週7日制・勤務者の自由離職禁止」が公布され、更に次々と熟練工養成制度が創設された。

 当然のことながら、ソビエト赤軍の戦略的軍事方針もまた、あくまで防御を旨としていた。勿論、防御といってもフランス軍の「マジノ線」に表徴されるような「立てこもり防御」などではない。スターリンの片腕となって独ソ戦を指揮したジューコフ元帥の『回想録』(朝日新聞社・1969年刊)が明らかにしているように、主力軍を全て国境付近に配置するなどということはせず、国境から領内深さ100~150キロ以東(南西方面軍は国境から30キロ以東)に250万の兵力を配置し、残りの200万は国境から500キロ内側の地点に配置した。そして、その主要な作戦方針は、あのナポレオンと戦った「祖国戦争」におけるロシア軍の勝利の経験に学んだもので、反撃を加えつつ敵を内陸部に誘い込み、十分引き付けた後、主力部隊(と予備軍)が総力を上げて反撃を加える、というものであった。これは〝敵の挑発〟に乗せられないための、賢明で唯一正しい戦略配置・作戦措置であった。こうした防御的方針については、クラウゼヴィッツも『一般に防御は攻撃よりも強力であり…我々の確信するところでは、(正しい意味の)防御は攻撃よりも著しく強力であり、しかも我々がかいなでに(注:深く知らずに)想像するよりも遥かに強力なのである』と説いている。

  

 フルシチョフらは、スターリン死後、「参謀本部は、なぜ国内の主力部隊を動員して国境に配置し、直ちに敵を撃退しなかったのだ」などと非難攻撃し、「スターリン批判」を繰り広げているが、これに対し、参謀総長ジューコフは、その回想録で、『わが軍は、対戦車、対空両方面で敵に対抗するだけの実力はなかったし、また機動性にも乏しく、堰を切ってなだれ込んでくる強力な敵装甲部隊の進撃を支えられ得るものではなかった。国境警備の部隊がどんなに苦しい破目に陥っていたか、想像はついていた。しかし、もし主力部隊を国境に移していたら、その後、モスクワやレニングラード、南方で事態はどう進展していたか?』と明快に答えている。そして、前線の赤軍兵士たちも、国境に近い地元人民も、それだけでなく全国人民もまた、このこと、即ち、前線は、犠牲を恐れることなく、最大限の抵抗・反撃をもってドイツ軍に打撃を加え、侵入を遅らせ、時を稼がねばならず、この間に後方戦線・銃後は必要な戦争準備を急ぎ、主力軍はここぞという時に総反撃に移るのだという方針を、よく理解していた。スターリンと最高軍司令部も祖国防衛に決起した人民も、目前の戦術レベルの決戦ではなく、あくまでもこの戦争の将来を決する戦略レベルの決戦を見つめていたのである。

 マルクス主義者であるスターリンは、徹底した内因論者である。やがてやって来るであろう戦争の運命を決定するもの、それはソビエト国内の経済的、政治的、軍事的体制と人民の結束であり、「防御」を主とする軍事・国防方針であり、他国との「平和と友好」の外交方針、国際プロレタリアートの団結強化であることを、よく知っていた。かの「トハチェフスキーらの粛清」も対独戦の前哨戦であり、内部体制固めの一環であった。

 大木氏は、スターリンは「不愉快な事実」から目を背け、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の奇襲に対して必要な警戒措置を取らず、無防備のまま奇襲攻撃を受けることになったというが、そんな事実は何処にもない。

 

 「トハチェフスキーの粛清によって赤軍が弱体化された」という批判について 

 大木氏によれば、スターリンは1939年の「大粛清」によって、時代に先んじた用兵思想―「縦深戦」なる作戦術―を完成させたトハチェフスキー元帥を銃殺し、自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまい、赤軍を弱体化させてしまった、という。

 これも全く間違った批判である。だいたい、「時代に先んじた用兵思想を完成させた云々」も何も、トハチェフスキーは「ヒトラーと通じていた裏切り者」であったのだ! この事実については『独ソ戦の前哨戦としての「赤軍元帥トハチェフスキー粛清」』の項で詳しく述べた通りである。大木氏は、フルシチョフの「スターリンの粛清批判」をそのまま鵜吞みにし、何の疑問も持たずにその批判を踏襲しているだけである。

 独ソ戦は突然始まったことではない。「戦争は政治の継続である」とは、戦争前、既に熾烈な政治的戦闘が戦われている、ということを意味する。「赤軍元帥トハチェフスキー粛清」はまさに、独ソ戦争の前哨戦であった。既に紹介してあるが、さすがに知将マウントバッテンの洞察力は見事なものである。彼は、開戦前、既に、スターリンソビエト軍が「粛清」断行によってこの前哨戦に完全に勝利していることを見抜いており、ソビエトの完勝を予告し、結果その通りとなっている。

 フルシチョフの「粛清批判」をそのまま鵜吞みにしている大木氏は、『軍の脊柱は将校であるとは、しばしばいわれることである。もし、それ(トハチェフスキーらの粛清)が真実であるとするなら、スターリンは、自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまったことになろう。事実、大粛清の影響は深刻だった。…つまり、大粛清は、高級統帥、すなわち大規模部隊の運用についての教育を受けた将校、 ロシア革命後の内戦や対干渉戦争での実戦経験を有する指揮官の多くを、ソ連軍から排除してしまったのである。折しも、1938年に開始された第3次5ヶ年計画によって、物的準備は拡充の途上にあった。しかし、将校団が潰滅したとあっては、いかに兵器や装備を整えようと、精強な軍隊を保持することは望めない』などと言っている。彼にとって、「粛清は独ソ戦の前哨戦だった」などという見立ては思いもよらないことであったようだ。

 こういう「批判」に対する最良・最大の反論・反証こそ、独ソ戦におけるスターリン赤軍の圧倒的勝利である。その事実が、大木氏の「批判」―トハチェフスキー擁護―を完膚なきまでに粉砕している。

 その上で、かの有名な軍事理論家リデル・ハートが『第二次世界大戦』の中で語っている一文を、再度取り上げ、紹介しておこう。

 『ソ連軍の改革は上層部から始まった。当初からの高級指揮官を思い切って整理し、その後釜に大部分が40歳以下の、若い世代の活動的な将軍を登用した。彼らは前任者よりもいっそう専門家であった。かくしてソ連軍統帥部は平均年齢でドイツ軍のそれよりも、20歳近くも若返り、活動性と能力の向上をもたらした。…

 ソ連軍の戦車はどこに出してもひけをとらないばかりか、多くのドイツ軍の将校にいわせれば、最高のものであった。…戦車自体の性能、耐久性、備砲では最高度な水準に達していた。ソ連軍砲兵は質的に優秀であり、またロケット砲の大規模な開発が行われ、これがきわめて有効であった。ソ連軍のライフル銃はドイツ軍のものより近代的で、発射速度も大きく、また歩兵用重火器の多くも同様に優秀だった。…

 ソ連兵は、他国の兵なら餓死するときにも生きつづけた。ソ連軍は西欧の軍隊なら餓死するはずの環境にも生存でき、他の国の軍隊なら破壊された補給が再開されるまで停止して待つはずの場合にも、彼らは前進を続行することができた。このときの印象を、ドイツ軍のマントイフェル将軍(独ソ戦開始時、第七装甲師団長)はつぎのように要約している。「ソ連陸軍の進撃ぶりは西欧軍の想像を超えたものがあった。兵士はザックをひとつ背負い、その中に前進の途中、畑や村々から集めた乾いたパンの外皮や生野菜を詰め込んでいた。馬匹は家々の屋根わらを食べさせていた。ソ連軍は前進にあたって、このような原始的な訓練によっても長期の戦闘に慣れていたのである」と』

 まったくその通りである。いったい、どこに「赤軍の弱体化」の事実があるというのだ!

 更に、大木氏は「粛清による赤軍弱体化説」を吹聴しているだけでなく、「トハチェフスキーは“赤いナポレオン”と称されたソ連屈指の用兵思想家である」として天まで持ち上げて褒めたたえ、「独ソ開戦時のソ連軍のドクトリン(基本原則)はトハチェフスキーらが策定した卓抜なドクトリンであったが、いかんせん、粛清によってそれを使いこなす高級将校や現場指揮官が排除されてしまい、無謀な攻撃を繰り返すのみに終わり、その結果ソ連軍の大敗を招いた」などと述べている。

 その「卓抜なドクトリン」とは何か。『トゥハチェフスキーが完成させた「縦深戦」の構想とは―。空軍と砲兵、前線部隊の攻撃により、敵の最前線から中間陣地、さらに後方陣地までも、一気に制圧する。砲兵や前線部隊の手が届かぬ後方は、迅速に突破した戦車・機械化部隊、空挺部隊が押さえ、敵の再編成や予備兵力召致の阻止にあたる。このようにして、最初の打撃が成功したのちも、問断なく攻勢を続け、ついに敵国を屈服させるに至るのだ』という。

 スターリン赤軍司令部は、対独戦に向けて、こんなドクトリン、こんな基本原則(即ち戦略)など採用していないし、また、それは元々一つの戦術(攻撃方法)であって、戦略などではない。スターリン赤軍司令部の戦略はあくまで防御的戦略であり、敵の攻撃に反撃を加えつつ、敵兵力を大陸の奥へと引きずり込み、十分に引き付け、更に自然条件等も味方にして敵兵力を弱らせ、その上で機をみて戦略的反撃、総攻撃に打って出るというものであり、「トハチェフスキーが考え出したドクトリン」とは全く逆である。もし、戦闘中にそのような「ドクトリン」を実行に移したものがいるとすれば、それこそ重大な裏切りであり、軍規違反ものである。一言付言するなら、緒戦後、解任・処刑された西正面軍司令官パヴロフは、トハチェフスキーと同じロシア帝国軍人出身であり、同じような過程を経て赤軍司令官になっており、トハチェフスキーと無関係ではない。特に、緒戦の最前線におけるミンスクベラルーシ)の戦いにおいて、戦況に絶望したパブロフが、徹底反撃の指令を守ろうとせず、総司令部にミンスクの放棄と撤退を求め、6月26日には西方面軍司令部をミンスクから東方のボブルイスクに移転させ、各軍司令部との連絡を途絶させ指揮系統の寸断に拍車をかけたことは、重大な軍規違反であった。

 トハチェフスキーが完成させた「縦深戦」の構想、即ち「作戦術」について、大木氏自身、次のように語り、つまるところ、それが「戦術」でしかないことを自ら認めている。 

 『まず、戦争目的を定め、そのために国家のリソースを戦力化するのが「戦略」である。作戦術は、右の目的を達成すべく、戦線各方面に「作戦」、あるいは 「戦役」(正確な軍事用語としては、一定の時間的・空間的領域で行われる、戦略ないし作戦目的を達成しようとする軍事行動を意味する)を、相互に連関するように配していく。個々の作戦を実行するに際して、生起する戦闘に勝つための方策が「戦術」である。…作戦術はむしろ戦略次元の下部、もしくは戦略次元と作戦次元の重なるところに位置するものであることを強調しておきたい』と。

 大木氏は、この作戦術は「戦略次元と作戦次元の重なるところに位置する」などと言っているが、自らも認めているように、「作戦術」は「戦争目的」「戦略」を達成する手段であり、結局のところ「戦術」でしかないということである。こうした戦術は「空軍、戦車、機械化部隊、空挺部隊といった新しい時代の軍備」の登場によって必然的に生み出された戦術(攻撃方法)であり、ドイツの「電撃戦」、リデル・ハート推奨の「間接アプローチ」も本質的には同じ類の戦術である。

 クラウゼヴィッツが教えているように、戦術は戦略に奉仕してこそ意味もあり、価値もある。したがって、戦略―政治戦略・軍事戦略―から離れて戦術を論ずることはできないし、論ずる意味もない。

 

 「独ソ戦緒戦でソビエト軍は大敗した」という批判について

独ソ戦の緒戦でソビエトは大敗した」とよく言われるが、これは本当のことか? フルシチョフも大木氏も、当たり前のように、そう主張している。

 しかし、リデル・ハートはその大著において、『ドイツ軍は、ついに包囲の輪を閉じる試みには失敗した。この初期(注:独ソ戦開始からの九日間)の大包囲作戦の不首尾により、ヒトラーの短期決戦勝利の夢ははかなく消え去った』と断言している。さすがに戦略重視のリデル・ハートである。ヒトラーの「短期決戦勝利の夢」は消え去った、ヒトラーの戦略的軍事方針であった「短期決戦」は完全に失敗した、と断定している。

 少し長くなるが、リデル・ハートの大著『第二次世界大戦』を紐解きつつ、彼の独ソ戦の緒戦に関する記述を辿ってみよう。

 【 (一九四〇年)十二月五日、ヒトラーは東部作戦に関するハルダーの報告を受け、そして十八日『指令第二一号』《バルバロッサ作戦》を発令した。指令は次の決定的な一文に始まっていた。「わがドイツ国防軍は、対英戦終了以前にソ連邦を迅速な作戦により蹂躙する準備を進めるべし」。《…西部ロシアにおけるソ連軍を、戦車部隊による四個のくさびを敵陣内深く果敢に打ち込むことにより壊滅せしめるべし。戦闘能力を有する敵部隊の、広大なる敵領内への退却は阻止せねばならない。》…

 侵攻軍は三個軍集団分けられ、それぞれに以下のような作戦任務が当てられた。《北方軍集団》(レープ元帥〉は、東プロイセンからバルト海沿諸国経由レニングラードを目指す。《中央軍集団 》(ボック元帥〉はワルシャワ地区からモスクワ街道沿いにミンスクスモレンスクに突進入。《南方軍集団》(ルントシュテット元帥〉は、プリピャチ沼沢地帯南部を攻撃、 さらにルーマニアに戦火を拡大し、ドニェプル川およびキエフに向かう。

 このうち最大の力点は中央軍集団に置かれ、最強戦力を編成配備する。…

 (一九四一年)六月二十二日、日曜日の朝まだき、北はバルト海沿岸から南はカルパチア山脈に至る広大な戦線において、くつわを並べ満を持していたドイツ軍三個軍集団は怒濤の進撃を開始し、またたく間に国境を越えて突き進んでいった。…

 ドイツ軍首脳は、装甲集団の活用に戦いの帰趨がかかっていることに全員異論はなかった。しかし、その使用方法に関しては意見が分かれ、その理論の衝突は深刻な影響を及ぼすことになった。

 一部の指揮官は、国境突破後すみやかに古典的な包囲戦(注:正統派的作戦)による決戦を挑み、ソ連軍を壊滅させることを主張した。…敵主力軍を撃破しないうちに領内深く侵人する危険を懸念した彼らは、いっそう強くこの理論に肩入れした。そして確実な成果を収めるには、装甲集団は歩兵軍団に協力し両側面から内側へと挟撃体制で旋回し、敵部隊後部を封鎖して包囲戦を全うすべきであると強調した。

 グデーリアン将軍を長とする戦車専門家らの考えは、根本的に異なっていた。彼らはすでにフランス戦で立証済みの方法により、装甲車集団をできうる限りの速度で深く浸透するのを求めた。 グデーリアンは、自分の第二装甲集団とホートの第三装甲集団は、時を移すことなく首都モスクワに向かってできる限り迅速に直進し、少なくともドニェプル川の線に到達してからはじめて内旋回すべきである、と主張した。

 この理論の衝突は、ヒトラーの断によって正統派が勝ちを占めた。…ヒトラーは…彼自身の強い幻想に取りつかれていた。赤軍の大兵力をひとつの巨大な輪の中に封じ込め一網打尽にするという想念に起因した決断であった。

 この幻想が鬼火となって、彼をロシア領内深く深くへといざなっていった。第一次、第二次攻勢は不成功に終わったからである。三回目の攻勢により大量の捕虜こそ得たが、ドニェプル川のはるか向うにまで引き込まれていた。そして第四次攻勢では五〇万のソ連軍兵士を罠に掛けることに成功したが、厳しいロシアの冬が到来し、ドイツ軍は敵正面に生じたすき間を拡大することができなかった。これらはそれぞれ華々しい戦闘であった。しかし、挟撃のはさみを開き閉じる操作に時間がかかりすぎ、戦術意図の達成に努力している間に、戦略上の目的を遂げることができなくなるという結果をもたらしたのである。…

 ‶理論の衝突〟が正統派戦略に有利に決着したため、ドニュエプル川到達以前にソ連軍主力部隊を一網打尽にして全滅に追い込むための大包囲作戦が立案された。これにはボック(中央軍集団下)の第四軍、第九軍の歩兵軍団による小範囲包囲作戦と、その外側においていっそう深く浸透したのち内側へ旋回する(第二、第三)装甲集団のさらに広範囲な包囲作戦が含まれていた。…

 中央軍集団は…各地点で深い漫透に成功した。二日目には、右翼の装甲部隊がブレスト=リトフスクの先四〇マイルのコブリンに達し、また左翼もグロドノの要塞および鉄道の要衝を占領した。…しかし、ソ連軍は頑強このうえない抵抗を示し、前進は妨げられた。ドイツ軍は機動作戦においては、優位に立ったが、戦闘で敵を撃ち負かすことはできなかった。包囲されたソ連軍は時には降服を余儀なくされたが、それとても長い抵抗を行なったあげくであり、また戦略的に見込みのない状況にありながら彼らは愚鈍とも思える執拗さを見せた。そして、これが攻者の計画の遂行に重大な妨げとなった。交通連絡網の不便なロシアの国土にあっては、この前進の遅滞がさらに重大な結果を招ことになった。

 緒戦のブレスト= リトフスク攻撃時に、早くもその影響が生じていた。この古い歴史をもつ城砦の守備軍は、陸空からの集中砲爆撃にもかかわらず一週間も持ちこたえ、ドイツ軍急襲部隊に甚大な損害を与えたのちようやく屈服した。その後も繰り返されることになったこの最初の苦い経験が、今後の戦局展開に対するドイツ軍将兵の眼を見開かせた。各道路中枢でドイツ軍は強い抵抗に出会い、道路以外は前進不可能な補給縦隊の予定経路がふさがれたために、迂回行動に大きなブレーキが掛けられてしまった。…

 両翼の主力装甲部隊は一〇〇マイル以上を踏破し、一九三九年当時のソ連国境を越え、(注:独ソ戦開戦の日である一九四一年六月二二日から)九日目の六月三十日、ミンスクを攻略してその先で内旋回を行なった。同夜、広く拡散したグデーリアンの先遣部隊のひとつがミンスク南東九〇マイル、ドニェプル川から四〇マイル足らずのボブルィスク付近で、 史上名高いベレジナ川に到達した(注:ナポレオン軍は‶冬将軍〟の到来でモスクワから撤退、ロシア軍の追撃を受けて西方へ後退、ベレジナ川東岸に追いつめられ、包囲全滅の危機に見舞われた)。しかしドイツ軍は、ついに包囲の輪を閉じる試みには失敗した。この初期の(注:開戦からわずか9日間の最初の攻撃の機会における)大包囲作戦の不首尾により、ヒトラーの短期決戦勝利の夢ははかなく消え去った。…ベレジナ川はかつてのナポレオン軍の後退を阻んだと同様、ヒトラーの前進を阻止した。

 大包囲作戦の挫折は、今やドイツ軍総司令部を刺激して、従来は彼ら自身が避けたいと望んでいたドニェプル川以遠への前進に着手させることになったのである。】 

 以上が、リデル・ハート独ソ戦の「緒戦」の戦況分析である。

 リデル・ハート独ソ戦の戦術面ではなく戦略面を重視して戦況を観ている。それ故、ドイツ軍の緒戦の奇襲による戦術面の勝利などは評価せず、ヒトラーとドイツ軍の「戦略目標の未達成」をこそ問題にし、短期決戦戦略を目指したドイツ軍の敗北(大敗)と断定しているのである。

 リデル・ハートの念頭にあるのは、クラウゼヴィッツの次の指針であろう。

『戦争指導は…第一は、個々の戦闘をそれぞれ按排し指導する活動で動である。そして前者は戦術と呼ばれ、後者は戦略と名付けられるのである」「戦略の旨とするところは、戦争。そして前者は戦術と呼ばれ、後者は戦略と名付けられるのである」「戦略の旨とするところは、戦争とっては勝利、即ち戦術的成果は、もともと単なる手段にすぎない』『戦略は軍にあるのではなくて内閣にある』(内閣そのものが大本営と見なされる場合)。

 ここであらためて、ドイツ政府首領・ナチス党党首・ドイツ軍最高指揮官ヒトラーの政治戦略とは何であったのかを振り返ってみよう。それは「東方・ロシアの地にゲルマン民族の生存圏を獲得すること」―これこそが至上命題であり、武力戦争によってそれを実現することこそがその最大の政治目的であり、「総計画」であった。すなわち、それは「ボルシェビキ支配からロシア国民を解放する」などというものではなく、「ボルシェビキ支配を打倒・粉砕し、社会主義者を抹殺し、ロシア国民をナチス・ドイツ支配下に置き、奴隷として酷使し、ロシアをしてドイツの植民地たらしめる」というものであった。

 したがって、ヒトラーは、どうしても「ロシア民族を完膚なきまでにやっつけ、その戦意を粉々に打ち砕き、戦意を喪失させ、完全に抵抗力を骨抜きにする」必要があった。そこで、ヒトラーナチス・ドイツは、北方、中央、南方から一気に攻め入り、ソビエト中枢と主力軍を一気に包囲・殲滅し、首都モスクワを占領・支配し、ロシアをわがものとすべく、ドイツ軍団の総力を挙げて〝乾坤一擲〟の大勝負を仕掛けたのであり、あくまでも奇襲的短期決戦で勝利することがその戦略定目標であった。そのための戦術の一つが集中的電撃的攻撃であった。それは、先兵として大量の戦闘機・空軍部隊を送り込み、敵の軍事基地・都市に集中的爆撃を加え、その後に大量の戦車・機械化部隊と歩兵部隊を繰り出し、一帯を占領・支配する。こうして一気に目標を破壊し、敵の戦意を挫き、戦意を喪失させ、敵地を占領・支配するという攻撃方法であり、こうした戦術を駆使しつつ、赤軍の大兵力・主力軍をひとつの巨大な輪の中に封じ込め一網打尽にする。その上で、首都モスクワを占領支配する、というのがヒトラーの軍事戦略であった。

 このように、ヒトラー独ソ戦、特に首都モスクワ攻略戦を「短期決戦」としたのは、ロシア特有の難敵‶冬将軍〟が襲い掛かる前に決着をつける必要がある、と判断していたからでもあった。かつての「祖国戦争」におけるナポレオン敗北の教訓は、ヒトラーもこれをよく学んでいた。そして、ヒトラーはこの「奇襲的短期決戦」の勝利を確信(盲信)していた。その証拠に、ドイツ軍の補給体制は杜撰であり、準備不足が目立ち、特に冬季用装具の必要性はほとんど考慮されていなかった。

  独ソ戦開戦前、ヒトラーは「我々はドアを蹴破りさえすればよい。そうすれば、あのちゃちな建物はひとたまりもなく崩れ去ってしまうだろう」と豪語し、外相リッペントロップもまた松岡外相に「もしも独ソ戦争になれば2、3ヵ月で片付いてしまう。ドイツは対ソ戦で日本の援助など夢にも考えていない」とうそぶいていた。奇襲攻撃によって得られた緒戦のほんの一時の「勝利」に酔い痴れた前線のドイツ軍将兵も「ロシアとの戦争は1カ月足らずで終わるだろう」と楽観視していた。

   しかして、こうした見方は、何もヒトラーとドイツ軍将兵の「専売特許」ではなかった。チャーチル始め英米の政府・軍首脳、軍事専門家、海外情報機関、国際世論もまた同様に、「ソビエト赤軍の崩壊、敗北は時間の問題」「短期間でのソ連の敗北必至」としていたのである。そうした判断の根拠は、「トハチェフスキー元帥始め大量の赤軍幹部・将校を逮捕、解任、処刑するという粛清によって赤軍は壊滅的打撃を受けている」というものであった。しかし、現実はそうはならなかった。

 リデル・ハートが断定しているように、ヒトラーナチス・ドイツ軍にとって、初期の大包囲作戦の不首尾により、短期決戦勝利の夢ははかなく消え去ったこと。これは、ヒトラーの戦略計画から見れば、単なる敗北」ではなく、「戦略的敗北」であり、「大敗」であり、事実上、この緒戦で「独ソ戦におけるヒトラーナチス・ドイツの運命」(敗北の運命)が決したとも言えよう。

 ただ、リデル・ハートの戦況分析にも問題はある。彼は、緒戦におけるソビエト赤軍兵士と赤軍部隊の素晴らしい戦いぶりにしばしば触れてはいるが、スターリンの政治戦略、軍事的戦略についてはほとんど触れていない。そして、ドイツ軍敗北のその理由(らしきもの)を、次のように説明しているのである。

 【 独ソ戦における戦闘の成否は戦略や戦術よりも、国土の広さ、兵站の問題、部隊の機械化の程度いかんにかかっていたといえる。作戦上の一大英断が時として重大な要因であったことはもちろんだが、より基本的な要素である広大な国土、機械化の優劣問題に比較すれば、それはあくまで副次的なものであることを免れない。】

ヒトラーソ連侵攻失敗の根本的原因は、ソ連の指導者スターリンが広大な領土の深みからどれだけの予備軍を繰り出すことができるかについて、予測を誤った点にあった。この点では参謀本部とその情報部は、ヒトラーと同じ誤りを犯していた。…僕秀な技術と訓練を誇るドイツ軍は、連続的大包囲戦においてソ連軍撃破に成功したとはいえ、結局は秋の泥濘の中へのめり込む羽目となったのである。】

 つまり、ドイツ軍の緒戦の敗北は、スターリンソビエト軍司令部の優れた指揮の結果というより、ドイツ軍の機動力が「国土の広さ」「泥濘」によって不発に終わった結果であり、ヒトラーとドイツ軍の「ソ連予備軍予測の誤り」であった。いわば、ヒトラーとドイツ軍の「自滅」であった、というのである。彼らを自滅に導いた最大の要因、スターリン赤軍司令部の戦略的方針と戦闘について、誇りある英国軍人にして反共的思想の持ち主であったリデル・ハートはあまり語りたがっていない。

 また、緒戦におけるドイツ軍の大敗を認めていない大木氏は、オーストラリアの研究者デイヴィッド・ストエールの「独ソ戦に関する画期的な新説」なるものを引き、こう主張している。

 『兵站システムの決定的な過重負担、装甲ならびに自動車化歩兵師団の疲弊といったことは、ワーテルローやタンネンベルクなどといった歴史上の例に比べれば、敗北をはかる上では、取るに足らない物差しにみえるかもしれない。が、それは、根本的で、最後には破滅をもたらす敗北に通じていた。ドイツが「バルバロッサ」作戦に失敗したのは、大戦闘で惨敗したことによるのでもなければ、ソ連軍の善戦故というわけでもない。彼らは、戦争に勝つ能力を失うことによって失敗したのである』と。

 つまるところ、バルバロッサ作戦の失敗―ドイツ軍の独ソ戦敗北―は、自滅であった、戦術的失敗・ミスの積み重ねの結果であった、というのである。大木氏が語っているのは、結局のところ戦術レベルの勝敗でしかない。

  独ソ戦に備えた、スターリンソビエトの政治戦略、軍事戦略はどういうものであったのか。これについては、前項で述べた通りである。また、反撃しつつ敵軍を領内奥深くに引きずりこみ、機を見て総反撃を加えるという軍事的戦略方針は、当然ソビエトの「国土の広大さ」「機動力を奪う秋冬の自然的条件」等を踏まえたものであり、ドイツ軍の自滅は決して単なる自滅ではなかった。

 『第三帝国の興亡』の著者シャイラーによると、ドイツ軍の参謀本部情報局長であったクルトは戦後に著した『第二次世界大戦史』の中で、こう語っている。

『全戦線に亘って、激しい戦闘が7月3日まで続いた。ロシア軍の後退速度は非常に緩慢で、敵陣を突破したドイツ軍戦車隊は、しばしば痛烈な反撃を受けた。…ドイツ軍は、今までのどの戦場よりも遥かに複雑で困難な戦場で闘わねばならなかった。われわれは、敵の頑強な抵抗や逆襲して来るおびただしい戦車の数に驚かないわけにはいかなかった。これは無情な鉄の意志をもった敵なのだ。その上、敵の作戦は極めて巧妙であった。…ロシア軍は、たとえ包囲されても、驚くほど頑強に、粘り強く闘い、崩れなかった。彼らはこれによって時を稼ぎ、はるか後方から予備軍を投入してドイツ軍に反撃を加えて来た。…敵は信じられないほどの抵抗を示した』と。

 どうして自滅などと言えよう。

 赤軍の総参謀長ジューコフは、この一連の戦闘の経緯・事情について、回想録の中で次のように語っている。

 『ドイツ軍総司令部は開戦当初から、予期に反して、すべての計画を順調に進めることができなかった。ドイツ軍がそれまで連戦連勝していたにもかかわらず、どうしてヒトラー指導部の企図はつぎつぎと挫折していったのか、歴史家たちはその原因を考察してみる必要があろう。結局、この原因のためにドイツはもっと重大な結末をまねくことになるのだが…。

 ソ連領土に踏み込んだファシスト軍は、一体何につまずいてそれまでの電撃的な進撃速度を鈍らせてしまったのだろうか? それはソ連将兵の英雄的精神、不屈の敵概心であり、ソ連国民の偉大な愛国心であった。相手にまさる装備をもつ軍隊が急速に戦意を喪失して逃走してしまった例は、歴史上少なくない。軍隊の装備と士気が戦闘で果す役割を明確に規定することは誰にもできないが、次のことだけは断言できる。すなわち、大規模な戦争で両軍の装備と兵員数が同じ場合に最後に勝利を収めるのは、 勝利への執念に燃えて一つの旗の下に堅く結束している軍隊である、ということである』と。

 われわれは、あらためて、クラウゼヴィッツが『戦争論』に記した、『政治的目的(注:スターリンの政治戦略をみよ!)が大衆を動かすほどに大衆に大きな影響を与えると考えるならば、われわれは政治目的を力の尺度として認めることができる。…軍事的行動を強化あるいは弱化させる原理を大衆の内に見出すか否かによって、政治的目的による結果がまったく異なることは言うまでもない。両方の国民と国家間にこのような緊張があり、敵対要因が蓄積されると、戦争の政治的動機自体は極めて小さくとも、その性格を遥かに越えた作用を及ぼし、本物の爆発を生み出すことがある』『いかなる勝利でも、それから生じる精神的効果を考慮に入れない限り、とうてい説明せられるものではない。…刀剣に譬えれば、物理的原因及び結果は木製の柄であり、精神的原因及び結果は精鋼からなる刀身であり、磨ぎ澄まされた白刃である』との指摘の正しさを、ここで再確認しておこう。

 

 なお、フルシチョフはその『秘密報告』で次のような「スターリン批判」を展開している。『スターリンは、最初の重大な失敗と戦線における敗北の後、万事休すと考えていた。その後、スターリンは長い間、実際に軍事活動を指導せず、一般に活動を止めてしまった』と。大木氏はこの説を取り上げていないが、巷間広く流布されているこの「批判」について、次の二人の証言を紹介しておこう。

ジューコフはその『回想録』できっぱりと、次のように反論している。

『1941年6月22日に入ろうとする深夜、参謀本部と国防人民委員部の全勤務員に対して、職場に居残るようにという指令が下された(注:勿論スターリンによって)。一刻も早く、各軍管区に対して、国境警備隊員を戦闘配置につかせるよう伝達する必要があったのである。…全ての報告が、刻一刻とドイツ軍が国境に近付いて来ていることを伝えていた。このことについて、われわれは深夜零時半にスターリンに報告した。スターリンは、軍管区に指令を出したかどうかを尋ねたので、私は処置済みであることを報告した。スターリン死後、6月22日早朝に、若干の司令官や参謀部員は、何も知らず気楽に眠っていたとか、のんきにはしゃいでいた、というような説が伝えられた。しかし、それはまったく実情に沿わない』と。

  更に、先にも登場願った独ソ戦史の研究家・山崎雅弘氏は、『新版・独ソ戦史』において、次のような、注目すべき事実を明らかにしている。

独ソ戦開戦直後のスターリンの動向について――独ソ戦史の研究では、長い間、ドイツ軍の侵攻にショックを受けたスターリンが呆然自失の状態となり、丸々1週間近くも指導部の実務から離れていた、と信じられて来た。これは、スターリンの政治的後継者であるフルシチョフが「スターリン批判」の文脈で述べた説明を、多くの歴史家がそのまま鵜呑みにした結果であるが、ソ連崩壊後に進んだ研究により、そのような説明はまったく事実に反するものであることが確認された。例えば、パヴル・スドプラトフ、アナトリー・スドプラトフ著の『KGB―衝撃の秘密工作』の巻末には、1941年6月22日から28日のクレムリンへの要人来訪を記した公式記録が収録されているが、スターリンは独ソ開戦の6月22日以降も、何故か表舞台に出ないよう配慮しながら(注:開戦直後に組織された最高軍司令部の長は、形の上ではスターリンではなく、国防人民委員であったティモシェンコだった)、党要人や軍の最高幹部に応対し、各方面からの報告を受けるなどの実務をこなしていたことが確認できる』と。

  これ以上の説明は不要であろう。

 

 

 

 

 

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~  (第7回) 

    2022930日更新  次回更新は1010

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ― 

 まずは大木氏の見解を聞こう。

 大木氏は『総統アドルフ・ヒトラー以下、ドイツ側の指導部が、対ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等人種」スラヴ人を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボリシェヴィズム」との闘争と規定したことが、重要な動因であった。彼らは、独ソ戦は「世界観戦争」であるとみなし、その遂行は仮借なきものでなければならないとした』と基本的に正しく規定した上で、『そうした意図を持つ侵略者に対し、ソ連の独裁者にして、ソヴィエト共産党書記長であるヨシフ・V・スターリン以下の指導者たちは、コミュニズムナショナリズムを融合させ、危機を乗り越えようとした。かつてナポレオンの侵略をしりぞけた一八一二年の「祖国戦争」になぞらえ、この戦いは、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」であると規定したのだ。これは、対独戦は道徳的・倫理的に許されない敵を滅ぼす聖戦であるとの認識を民衆レベルまで広めると同時に、ドイツ側が住民虐殺などの犯罪行為を繰り返したことと相俟って、報復感情を正当化した』とし、エレンブルグの対独宣伝はその最大の証である、と断定する。

 そして、更に、こう主張する。『ウクライナや旧バルト三国では、ドイツ軍はスターリン体制からの解放者として歓迎された。また開戦半年の間に数百万のソ連将兵が捕虜になったのは、スターリニズムに対する一般的な拒否意識の表れだったとするのは、おおかたの西側研究者が同意するところである』と。

 更にまた、『この「大祖国戦争」の名は、ドイツ 軍侵攻の翌日、一九四一年六月二三日の共座党機関紙「プラウダ」に発表された論説に初めて現れ、すぐに対独戦の公式呼称となった。この呼称は、スターリニズムへの嫌悪を抑えるとともに、 ロシア革命以来、共産主義政権が達成してきた工業化や生産水準向上などの成果を訴え、そうした果実を生み出した体制と祖国とを同一視させるメタファー(注:あるものごとを言いあらわすのに,その名称をもちいず、それと類似した異種のものの名称をもちいて暗示的に表現する方法)であった。つまり、ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合されたのだ』と主張する。

   そして、こう結論づける。「ナチス・ドイツスターリンボリシェビキも、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすナショナリズム―偏狭な民族主義―を戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、「世界観戦争」としてのこの戦争の本質がある」と。

 即ち、大木氏はここで、「スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ―」の問題点について、次の4つの問題を提起しているのだ。

 第1の問題。「大祖国戦争」呼称の「祖国」はナショナリズム民族主義的呼称である、ということ。

 第2の問題。「スターリニズムに対する拒否意識」は一般的なものであった。ウクライナと旧バルト三国ではドイツ軍が「解放者」として歓迎されたこと、独ソ戦開戦半年で大量の捕虜が生まれたこと等がそれを裏付けている、ということ。

 第3の問題。「大祖国戦争」の呼称は「ナショナリズム共産主義体制の擁護を融合」させ、一般国民の「スターリニズムへの嫌悪」を失くさせるメタファーであった、ということ。

 第4の問題。スターリンソビエトは「ドイツ人、ドイツ民族の絶滅」を目指し、「非道徳的・非倫理的」な民族的憎悪を煽りたてた。作家エレンブルグの対独宣伝はその最たる証だ、ということ。

 結論から言えば、大木氏のこの四つの問題提起は根本的に間違っており、反共・反スターリン主義の「たわごと」である。また、何よりも問題なのは、大木氏が「スターリンソビエトイデオロギー」を論じながら、戦前あるいは戦争中に行ったスターリンの報告・演説を何一つ正面切って取り上げていないことである(まさかそうした資料をまったく読んでいないということではあるまいが)。これはおよそ天下の岩波書店が新書として世に出すべき書籍では到底ありえない。草葉の陰で岩波茂雄も泣いていよう。

 

 第1の問題は極めて重要な問題である。マルクス主義者―勿論スターリンマルクス主義者であった―は、「国家」「国民」「祖国」の概念を、極めて厳密に、階級的に捉える。つまり、それがブルジョア的「国家」「国民」「祖国」なのか、プロレタリア的人民的社会主義的「国家」「国民」「祖国」なのか、階級的に明確に区分・区別する。

(注:人民の概念は労働者・農民・中小商工業者・知識人など、権力支配者たる独占資本・財閥以外の存在をその内容としている)

 マルクス主義社会主義思想が理解できない人、大木氏のような反共的な哲学・歴史観の持ち主にとって、こうした区別は非常に難しい問題であるに違いない。

 大木氏は、スターリンソビエト政府が、独ソ戦争を、あのナポレオン軍を撃退した英雄的戦争に因んで「大祖国戦争」と公称したことを取り上げ、まるで鬼の首でも捕ったかのように、ここに非道徳的・非倫理的な「ナショナリズム」がある、と声高に触れ回っている。しかしながら、ここで問題なのは「祖国」「大祖国」のその具体的中身である。

 レーニンも、対ロ干渉戦争の時代、「祖国防衛」のスローガンを採用している。

『数千万の労働者と農民…は、この息つぎ(ブレスト講和による休戦)の1週間ごと、1ヵ月ごとに、新しい力を汲み取っていること、自分がソビエト権力を強化していること、不動なものにしつつあること、新しい精神を持ちこんでいること、…外部の力がソビエト社会主義共和国に襲いかかる時には、最後の決戦に応じようとする毅然たる態度と覚悟のできた状態を、自分が創り出しつつあること、を知っている。われわれは、1917年10月25日以後は祖国防衛論者である。…われわれが擁護しているのは秘密条約ではない。…われわれが擁護しているのは大国的地位ではない。…また民族的利益でもない。われわれは、社会主義の利益・世界的社会主義の利益が民族的利益・国家の利益に優先することを主張する』(1918年5月の全ロシア中央執行委員会とモスクワ・ソビエトの合同会議における演説)。

 一方、レーニンは、こうも言っている。

『世界支配をめぐり、他民族の隷属化をめぐって戦っている大国(レーニン注:大略奪者と読め)のいう、防御戦争とか祖国防衛とかいう文句は、すべて偽りであり、無意味であり、偽善である!…バーゼル宣言(1912年に第2インターのすべての社会主義者が署名した帝国主義戦争反対の宣言)は、1914~1915年の戦争で「祖国擁護」を認めたりするような社会主義者が、口先だけの社会主義者であり、実際には社会排外主義者であることを、証明している』(1915年に執筆し、1924年に発表された『日和見主義と第2インタナショナルの崩壊』)。

 レーニンは、一方で『われわれは、1917年10月25日以後-10月社会主義革命勝利以後-は祖国防衛論者である』と言い切り、他方で『大国(大略奪者)のいう防御戦争とか祖国防衛とかいう文句はすべて偽善である』と言い切り、第2インター内の日和見主義者が持ち出したスローガン「祖国防衛」「祖国擁護」を徹底的に批判し、その裏切りを厳しく暴露・非難している。祖国は祖国でも、前者と後者ではその内容・中身が全く異なる。正反対である。

 マルクス主義創始者であるマルクス(とエンゲルス)は、1948年に発表された『共産党宣言』において、次のように述べており、ここに、「祖国」を論ずる場合の拠って立つべきマルクス主義の原則がある。

 『共産主義者は、祖国を、国民性を、廃止しようとしているといって非難されている。

労働者は祖国を持たない。持っていないものをとりあげることはできない。プロレタリアートは、まずもって政治的支配を獲得して、国民的な階級の地位にのぼり、みずからを国民としなければならないという点で、ブルジョアジーのいう意味とはまったく違うが、それ自身やはり国民的である。…ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、 内容上ではないが、形式上は始めは一国的である。どの国のプロレタリアートも、当然、まずもって自分の国のブルジョアシーをかたづけなければならない』と。

 現代資本主義の世界では、諸民族、諸国民は、それぞれ歴史的に(人為的に)形成された行政的区分としての「国」(国民国家、民族国家、あるいは祖国)に属し、社会的・経済的・政治的生活を送っている。大資本家階級にとって、それは他国・他民族の大資本に対して自らが独占的に支配する「国」(領地・領土)であり、そういうものとしての内容と実態を持った存在である。しかし、労働者階級にとって、それは、単なる形式としての「国」「祖国」「国民性」に過ぎない。資本によって搾取され収奪される賃金奴隷としての労働者階級は、世界中のどこの国でもまったく同じ境遇に置かれており、互いに対立し合う理由は何もなく、労働者階級に国境はない。「万国の労働者団結せよ!」のスローガンの意味はここにある。そういう意味において、労働者階級には「国」も「祖国」も「国民性」も無い。しかし、実際の政治生活・社会生活においては、労働者階級も、この形式的存在を無視することはできない。そして、ロシア革命以後、社会主義国が生まれ、「社会主義的祖国」が生まれた。それ故、階級的な内容と形式をきちんと区分し、「祖国」「国民性」という言葉を使わねばならないのである。重要なことは、「祖国」のその階級的中身を明確にしなければならない、ということである。

 レーニンが対ロ干渉戦争において、「祖国を守れ!」のスローガンを採用したのと同様に、スターリン独ソ戦争を戦う上で、『わが国は強いられた戦争のために、もっとも兇悪・狡猾な敵、ドイツ・ファシズムとの決死の格闘に入った。…赤軍将兵の勇敢さは比類がない。敵に対するわが反撃は強化し増大しつつある。赤軍と共に全ソビエト国民は祖国防衛のために闘っている』と宣言している(1941年7月の「ラジオ演説」)。

 「大祖国戦争」との呼称の採用にはそれなりの意味がある。「大祖国戦争」のスローガンを採用することによって、民族的ではあるが英雄的な歴史的戦争、ナポレオン軍を撃退したあの「祖国戦争」の記憶を呼び覚まさせ、そうした記憶を動員するべく、誇りある「社会主義祖国」の防衛の戦争を「大祖国戦争」と呼称し、反ファシズム戦争の戦力増強を図らんとしたのである。社会主義ソビエトプロレタリアートは、ドイツファシズムに対し、自らが主力となって戦いつつ、あらゆる勢力とあらゆる種類の記憶・戦力を総動員し、更なる増強を図った。それは間違いか? 正しい当然の措置であろう。

 独ソ戦の最中、ソビエトを訪れ、取材した米ジャーナリストのエドガー・スノーはその著『ソヴィエトの型態』(1946年 時事通信社)で、次のような報告を行っている。

 『一九四四年十二月十一日付の「プラウダ」紙によれば、イワン雷帝は現実には「国家の分割を志向する反動的な封建貴族に対する進歩的で建設的な国策」の指導者であつたということだ。同じ傾向は新聞界や講壇、科学研究所でも顕著となった。昨年はソヴェト時代以前の発明家や科学者、技師等の世界知識に対する寄与に関心を向けるために特別の会議が召集された。…一九四四年十二月にイヴォリューク博士がリガ国立大学で行った「ロシア古典哲学の普遍的歴史的重要性」に関するような講義は、…(かつての時代には)全然不可能だったろう。

 とはいえ、以上の事態をもって、ソ連ではマルクス主義が衰え始めたとか、ロシアの過去に対する新しい讃美の風潮が旧時代の経済政治体制への復帰を意味すると結論するならば、これに過ぎる謬見はない。それどころか、かかる傾向は党の自信と安定感がいよいよ強化されていることを示すものと思われる。党はもはやこれらの根を承認することが社会主義の樹そのものを枯らすとか、 或はそれを再びブルジョア資本主義的反動の樹木に変貌せしめるなどと危惧しない。むしろ、国家の毀し難い文化遺産のなかに、ソヴェト体制をはぐくみ保護しうる社会の生命の根を見出しているのだ』と。

 こうした新しい対応や事態の背景には、第二次世界大戦を「ソ英米仏反ファシズム連合」として戦うという歴史的要請もあった。過去のあらゆる「歴史的遺産」を正しく評価し、現代の戦いに奉仕させることがぜひとも必要であった。

 いずれにせよ、大木氏は「祖国」の階級的な用法が理解できないでいるようだが、「大祖国戦争」のスローガンの下に戦ったソビエトの労働者階級と人民、赤軍兵士たちは、この「大祖国戦争」の意味を正確に理解し、自覚し、至る所でこのスローガンを掲げて戦った。

 

 序でに、ここで、ソビエト連邦政府の民族政策について触れておこう。

ソビエト連邦は、アジアとヨーロッパにまたがる世界最大の多民族国家であり、その面積は地球の全陸地面積の6分の1弱を占め、アメリカ合衆国の約2.4倍、日本の約60倍に相当し、国内には100以上の民族が住んでいた。帝政時代には、当然民族的対立もあり、ユダヤ人に対する差別・迫害もあった。それ故、レーニンスターリンボリシェビキ党は、革命前から、民族問題についてしばしば触れており、革命後、その民族政策は社会主義ソビエトのものとなった。

 レーニンは1914年に執筆し、1924年に発表した『民族政策の問題によせて』において次のように宣言している。

 『われわれ社会民主主義者(当時の共産主義者のこと)は、あらゆる民族主義の敵である。…われわれは、他の諸条件が同じなら大国家が小国家よりかはるかに成功的に経済的進歩の諸任務や、プロレタリアートブルジョアジーとの闘争の諸任務を解決できることを、確信している。しかし、われわれが尊重するのは、自由意志にもとづく結合だけであって、けっして暴力によるそれではない。われわれは、ぜがひでも各民族は分離せよと宣伝するのではけっしてないが、諸民族間の暴力による結合が見られるいたるところで、各民族の政治的自決、すなわち分離の権利を無条件に、きっぱりと主張する 。こういう権利を主張し、宣伝し、承認することは、民族の同権を主張することであり、力による結合を承認しないことであり、どの民族であろうと、ある民族が国家的特権をもつことにすべて反対してたたかうことであり、 さまざまな民族の労働者のなかに完全な階級的連帯をそだてあげることである。 さまざまな民族の労働者の階級的連帯は、暴力による結合、封建的な結合、軍事的な結合を、自由意志にもとづく結合と取りかえることによって利益をえる。…われわれは言う、どの民族のどのような特権でもなく、諸民族の完全な同権とすべての民族の労働者の結束および融合、と』。

 ソビエト連邦は、10月革命が勝利し、対ロ干渉戦争に勝利した後、1924年スターリンが決裁したソビエト憲法に基づいて、この民族自決権と連邦制を実現させた。グルジアアルメニアアゼルバイジャンなどの少数民族も、ロシア・ウクライナ白ロシアなどの民族が先に加盟していたソ連邦への参加を決定し、フィンランドポーランドバルト三国などはその自由意思が尊重され、自決権が行使され、 独立国家を形成した。これがマルクス主義にもとづく正しい民族自決権と連邦制であり、この制度が1936年の『スターリン憲法』に引き継がれていったのである。

 ユダヤ人問題について、スターリンは、1931年1月、JTA(ユダヤ電報通信社)が送った「ヒトラー反ユダヤ主義について如何に考えるか」という質問に寄せた回答の中で、明確に語っている。

 『ご質問にお答えします。 民族的および人種的排外主義は、食人時代に特有の人間的憎悪的な風習の残存物です。人種的排外主義の極端な形としての反ユダヤ主義は食人主義のもっとも危険な残存物であります。反ユダヤ主義は、搾取者にとっては、資本主義を勤労者の打撃からまぬがれさせる避雷針として好都合なものです。だが、反ユダヤ主義は、勤労者にとっては、正しい道から迷わせてジャングルへ連れ込ませる偽りの小路として、危険なものです。だから首尾一貫した国際主義者である共産主義者は、反ユダヤ主義の和解することのない仇敵たらざるをえません。ソ同盟では、反ユダヤ主義ソビエト体制に対する奥底からの敵対的な現象として、法律によってもっとも厳重な追及を受けます。積極的な反ユダヤ主義者は、ソ同盟の法律に従って死刑に処せられることになっています。  1931年1月12日 イ・スターリン』と。

 当然のことながら、スターリンは明確に反ユダヤ主義を批判し、その反動的本質を鮮明にしている。いったいこの何処に、ヒトラーの「人種的民族的差別思想」との共通性があるというのか!

 多民族国家ソビエト連邦は、ボリシェビキ党とソビエトプロレタリア―トを核に、他民族の労働者・人民が固く団結し、社会主義建設へと向かったのである。勿論、ソ連国民・人民、特に遅れた層の中に存在していた「歪んだ民族意識」が全て、すぐに克服されたわけではない。マルクスが指摘していうように、下部構造が変革されても、上部構造の思想的・文化的意識はすぐに全て一気に変わるものではない。しかも、ソビエトの場合、世界中の資本主義軍団が周囲を取り巻き、ブルジョア思想、ブルジョア文化を撒き散らし、ソビエト国内へも伝播させているのだ。長期にわたる思想改造、思想闘争抜きには、また世界の革命化抜きには、到底解決しうるものではない。歴史は一足飛びに進化するものではなく、多くの歴史的制約の下で、その力と水準に応じて、一歩一歩前進する以外にないのである。

 

 第2の問題。大木氏は、ソビエト国民は「スターリニズムへの嫌悪」を抱いていたと主張する。その最大の根拠として、ウクライナや旧バルト三国エストニアラトビアリトアニア)ではドイツ軍がスターリン体制からの「解放者」として歓迎された、という「史実」を挙げている。(独ソ戦初戦において大量の捕虜が出たことも「根拠」の一つに挙げているが、この問題は後で取り上げる)

 この大木氏の主張こそ、まったく事実・史実に反している。しかも、大木氏は、既に1922年にソ連邦に参加しているロシア・白ロシア等の国、ウクライナ(西端の一部地域は1939年に編入された)、そしてドイツ軍によるポーランド侵攻独ソ不可侵条約破棄(第2次世界大戦勃発)後、1939年に初めてソ連邦に参加することになったバルト3国とを一緒くたに論じているが、これもまた不適切である。

 バルト三国はヨーロッパ北東部のバルト海沿岸に位置する。三国とも、ドイツ帝国に支配されたり、ポーランド王国に支配されたりした後、18世紀末、ロシア帝国支配下に置かれた。そして1917年のロシア革命に伴って三国とも独立を実現、共和国を成立させた。20年の平和条約によってソ連から独立が承認され、22年には三国ともに国際連盟に加盟している。が、三国ともその内部には民族間対立、多党乱立があり、政情は不安定であったため、1929年の世界恐慌に直面る中、民族主義的独裁体制が生まれた。1938年9月のミュンヘン会談の結果、英仏政府はチェコスロバキア(その国境は東端でソ連邦ウクライナに接していた)のズデーテン地方(ドイツ人が多くいた西端外縁部)をヒトラーに与える約束を交わした。翌年の8月、スターリンは直ちに独ソ不可侵条約を締結し、その秋にはバルト三国と次々に相互援助条約を締結、ソ連軍の駐屯を実現させた(独ソ不可侵条約付属の秘密協定により、ポーランド東半分、バルト三国ソ連側範囲とすることが約されていた)。それらは全て独ソ戦に向けた準備であった。40年8月、三国の国会・政府はソ連邦への加盟を決議。勿論、反対派はいたが、反ソ親独の民族主義抵抗勢力の指導部はシベリア強制収容所に送られ、ある者はドイツ、アメリカ、スウェーデン、カナダ、オーストリアへ亡命した。そして41年6月、独ソ戦争が始まる。41年から44年まで、三国ともナチス・ドイツの占領下に置かれた。多少の違いはあるが、ナチス・ドイツに期待したバルト三国の反ソ民族主義派勢力はドイツ軍を「解放者」として歓迎し、それぞれ「国民政府」樹立を試みる。が、ナチス・ドイツにその気は全くなく、三国(と白ロシア=現ベラルーシ)を植民地として支配下に置き、更にその民族主義派勢力を動員して大々的なユダヤ人虐殺(ホロコースト)を決行した。

 勿論、バルト三国の多くの人民は、ナチス・ドイツの占領に反対し、スターリンソビエト軍司令部の呼びかけに応え、ソ連赤軍兵士と共にパルチザン闘争を戦っている。残念ながら、その資料は少ない。次に紹介する鳥飼行博氏(経済学者、東海大学教養学部教授)のブログ『鳥飼行博研究室』(2009年2月10日開設)の記事『独ソ戦 バルバロッサ作戦と捕虜・パルチザン』に、豊富な写真資料と共に、ソ連邦赤軍兵士とパルチザン部隊が共同して戦い、多くの捕虜・犠牲者を出していることが述べられている。

 『独ソ戦開始-バルバロッサ作戦直後から、SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー指揮下の親衛隊は、ユダヤ人など下等劣等人種に対する殲滅戦争を開始,住民の家畜,食料を徴発し,住民を追放した。過酷な扱いを続けたドイツに対して、占領下の住民は、パルチザンとなり、武器を取ってドイツ占領軍を襲撃し、ドイツの通信交通網を破壊した。さらに、ドイツに協力する現地の住民にも報復した』

『ドイツは、ユダヤ人、共産党員、ボリシェビキ、インテリ、将校などを占領地から排除した。そこで、敵性住民、潜在的な敵対者は拘束されたり、迫害されたりした。このような住民弾圧的な軍政は、反ボリシェビキだった住民も、反ドイツの側に立たせることになった。スラブ人もユダヤ人同様、下等劣等人種と見下した人種民族的な偏見は、テロ容疑者を捕えるという名目で正当化された。が、これがドイツ敗北の一つの要因となった』と。

 1944年8月、バルト三国は、スターリンソ連赤軍、国内のパルチザンの手によって再び解放された。反ソ的民族主義派のゲリラ活動は戦後もあったがやがて消滅、三国ともソ連邦の中で社会主義建設に邁進していく。

 つまり、1939年になってソ連邦に参加したバルト三国は「社会主義建設の時代」をほとんど経験することのないままに、ナチス・ドイツに占領されてしまったのである。国内に、ドイツ軍を「解放者」として歓迎した民族主義者が少なからず居たことは事実であり、ある意味、それは「やむを得ない現象」であったとも言える。いずれにせよ、この事実を以って、バルト三国の大半の国民が「スターリニズムへの嫌悪」「スターリン体制」からの「解放」を求めて闘ったと主張し、更に、これを以って、ソ連国民全体が「スターリニズム嫌悪」に抱いていたとするのは、あまりにも無謀な暴論である。

 では、ウクライナはどうであったのか。1922年にソ連邦に参加しているウクライナは、社会主義建設に参加し、貴重な経験を積んでいる。ただ、『物語 ウクライナの歴史』(黒川祐次 中公新書 2002年刊)にも記されているように、農業国ウクライナで多数を占めていた農民は、伝統的に土地に対する執着心が強く、「土地の国有化」や「農業集団化」に対する抵抗感が他の連邦の農民よりもはるかに強かった。また、ロシア帝政時代の「ウクライナ民共和国」はドイツ帝国と手を結び、ドイツに大量の穀物を提供し、ウクライナ西部には多くのドイツ人が居住していた。ロシア革命後、ソ連邦に参加したウクライナでは農業集団化を巡る様々な問題が発生しているが、それほど農民・農村問題の解決は難しいものがあった。しかし、スターリンソビエト政府、ウクライナ政府は、そのことを踏まえた上で、第1次・第2次5ヶ年計画において、東部ドネツクで大々的な工業化政策を展開した。既にロシア帝政時代にウクライナ東部ドネツク州は石炭と鉄の大宝庫であることが分かっていて、工業化も進み、労働者階級も存在感を示していたが、スターリンに導かれたソビエトは第1次5ヵ年計画で大製鋼所を設立。その後、製鋼、製鉄、コークス、機械 、化学、食品など多くの工場を建て、ソビエト有数の重工業地帯に発展させ、農村の社会主義化を視野に入れた社会主義的工業化(農業集団化を助ける機械化の推進)を積極的に押し進めた。スターリンが高く讃えた「スタハーノフ運動」の主人公スタハーノフも、この東部重工業地帯を支えるドネツ炭鉱の鉱夫であった。

 独ソ戦開始から4カ月後、ナチス・ドイツウクライナ全土を一気に占領支配した。ドイツは最初から食料と労働者の供給源としてのウクライナを重視し、実際、東部地域から徴発した食料の85%がウクライナからのものであり、ドイツに移送された労働者280万の内230万がウクライナからであった(黒川氏の『物語ウクライナの歴史』より)。ウクライナでも民族主義者に手伝わせてユダヤ人の大量殺戮も強行している(バービ・ヤールの虐殺)。また、このような悪逆非道のナチス・ドイツ軍を「解放者」として迎えた勢力も確かに居た。そうした勢力が多く存在したのは、1939年に社会主義ウクライナに新たに編入されたウクライナ西部地域であった。彼らのその期待と願望はドイツ軍によってすぐに裏切られ、惨めな結末を迎える。ウクライナパルチザン闘争は、ソ連赤軍司令部の指揮・統制下、ドイツ軍侵入の当初から始まった。1941年8月から1942年3月の初めにかけて、3万人のパルチザンが1800以上の支隊に組織された。北部の森林地帯・沼沢地帯、南部の山岳地帯がパルチザン活動の舞台となった。1944年10月、ウクライナ全土がソビエト赤軍によって解放されるのであるが、パルチザン戦士及び村人たちの英雄的で不屈の闘争が無ければ、その勝利は不可能であった、と言われている。『戦争は女の顔をしていない』をまとめたアレクシェーヴィチさん一家もこのウクライナ出身であり、パルチザン戦争の担い手であった。

 F・グルニエはフランスの労働者出身の小説家・代議士で、何度もソ連を訪問している人物であるが、その著『スターリンの国』(1953年1月 黄土社書店刊)の中で、独ソ戦下のウクライナについて、次のように記している。

『戦争もまたソ同盟―この100の民族からなる国家―の民族融合の事実を明瞭に立証した。もともとウクライナ共和国は長い間、民族分離主義者どもの活躍舞台であった。

戦前、反ソ新聞はウクライナの対ソ反感が依然として強いことを人の好い読者に繰り返し信じさせようと努めた。「モスクワのくびきを脱せんと欲する」「クレムリン支配下にある」「いけにえウクライナ」に向けた宣伝戦はいまなお人の記憶するところである。

さてそのウクライナは、戦争初期から占領された。ヒトラーの軍隊がモスクワの門前に迫った時は、この「いけにえ」民族にとって、「支配者のくびきを脱する」絶好の機会であった。ところが事実はどうであったか。占領者たちは…協力的政府をキエフもしくはハルコフに樹立するに足るだけの人間をどうしても見出すことができなかった。

反対に侵略者に対するレジスタンスは極めて激しく、―それもドネツの鉱夫だけでなく、伝説的なユバック将軍(注:かつての民族主義者将軍で農民の支持が厚かった)の勇猛な部下たちの…いた地方においても同様であった。ソ同盟に忠誠を誓った故にナチスに殺害され、流刑に処せられたウクライナ人の数は何十万という数に上っている』と。

 以上のような事実からも、多くのウクライ国民やバルト三国の国民―あるいはソビエト国民全体―が「スターリニズムへの嫌悪」抱いていたとする大木氏の見解が如何に間違っているか、が明らかとなろう。

 つまるところ、ウクライナでも旧バルト三国でも、ドイツ軍を「解放者」などと歓迎した裏切り者はごく一部の民族主義者でしかなく、パルチザン戦士たちは、赤軍兵士と共に、彼ら裏切り者を憎み、厳しく追及し、反撃を加えた。裏切り者たちは、結局ドイツ軍にも裏切られ、そのドイツ軍が敗退した後、皆厳しく罰せられ、悪質な者は銃殺刑に処せられた。ウクライナは元より、バルト三国でも、圧倒的多数の住民が「祖国ソビエト」を擁護し、多くの人民がパルチザン部隊に参加し、協力者となり、ファシスト・ドイツ軍と勇敢に戦っている。これが史実であり、真実である。

 『スタハーノフ運動』の項で紹介したカラシニコフの証言―『戦争中、私が操縦していた戦車には、「祖国のために、スターリンのために」というスローガンが書かれていた。私たちがどれほど彼を信じていたかが分かるであろう』との証言を見よ!

 勿論、この証言は、一人カラシニコフだけのものではない。大木氏には信じられないであろうが、当時の多くのソビエト人民にとって、「祖国」と「スターリン」は同じ一つのことを意味していたのである。

 大木氏は、「スターリニズムへの嫌悪」故に生まれた反ソ的裏切りは、「一部の事実」ではなく「ソビエト全体の事実」であるかのように述べているが、もし「全体の事実」であるというのが真実であるならば、圧倒的多数のウクライナ国民・バルト三国国民がドイツ軍を「解放者」として迎えたことになり、至る所で「全国民的全民族的的」な‶反スターリン・反ソビエト戦争〟が繰り広げられたはずである(例えば、現在の「ウクライナ戦争」におけるウクライナ国民の‶反ロシア戦争〟のように)。そんな事実・史実は何処にもない。大木氏の主張は、白を黒と言いくるめる典型的な「詭弁論法」であり、笑止千万である。

 

 ところで、大木氏も読んでいるはずの、アレクシェーヴィチさんの『戦争は女の顔をしていない』には、裏切り者のいるドイツ軍占領下の村に潜入し、村人の協力を得て勇敢に戦うパルチザン女性兵士(パルチザンは地元の出身者が主力)の英雄主義的史実、密かにパルチザン戦士を匿い、食べ物を与え、こっそり協力する村人たちの英雄的行動を物語る史実が、数多く、詳しく証言されている。

 因みに、次に紹介する証言者ザハロワさんの出身地ゴメリ州(ホメリ州)は、バルト三国の隣国白ロシアの州であり、その全土を1941年6月にナチス・ドイツに占領された(1944年8月末に赤軍パルチザンに解放されるまで)。ナチスの侵略によりゴメリ州は大きな打撃を受け、工場、発電所が破壊され、1,000以上の村が焼き払われた。首都ゴメリは80%以上が破壊され、占領期間中、ナチスによって20万9千人以上が殺害され、4万人以上がドイツに連行されている。

アレクサンドラ・ニキフォロヴナ・ザハロワ  ゴメリ州第二二五連隊パルチザン (人民委員) 

 村の人が助けてくれたの。人々の協力がなかったらパルチザン活動なんてありえなかったわ。民衆はわたしたちと一緒に戦っていた。時には涙ながらにだったけど、とにかく食料を出してくれた。

 「苦しみも分かち合うんだよ、一緒に勝利を待つんだから」と家畜の餌にしかならないこまかいクズ芋を出してくれる。パンもくれる。森に持って行くように袋一杯。 一人一人が出せるだけ、「おまえんとこは?」「イワン、おまえは?」「マリヤ、あんたんとこは?」「みんなと同じ、でもうちは子供たちがいるから」という具合。

 村の人たちがいなかったら、どうにもならなかったわ。大きなパルチザン部隊が森に隠れていたけど、村の人たちの助けがなかったら、私たちは全滅だった。村の人たちは種を蒔いたり、畑をたがやしたり、子供たちや私たちの世話をして、着る物の心配をしてくれたのよ。夜、銃撃のないうちに畑を耕していた。ある村に行った時、年老いた農夫の葬儀に行き遭ったの。夜、殺されたんです。ライ麦を蒔いていて…….しっかり麦の粒を握ったままで、その握りこぶしを開かせることができなかった。麦粒と一緒に畑に埋めました。

 私たちには武器があり、身を守ることができる。でも村人たちは? パルチザンにパ ン1個を与えただけで銃殺よ。私が一夜泊めてもらったら、そのことを誰かが密告すれば、その家の人は全員銃殺。その家には女の人が小さな子供3人と住んでいた。夫はいなかった。女の人は私たちが行くと決して追い返さなかった。ペチカを焚いてくれて、みんなの洗濯をしてくれた。とってあったなけなしの食料も全部出してくれる、「お食べ」。春先のジャガイモはこまかくってまるで豆粒だった。私たちは食べているのに、子供たちはペチカの寝床で泣いてる。その豆粒のようなクズ芋が残っていた最後の食べ物だったの…』

フョークラ・フョードロヴナ・ストルイ   パルチザン

 私はいつも信じていました......スターリンを......共産党員たちを......自分も党員でした。共産主義を信じていた......そのためにこそ生きていた、そのためにこそ生き延びたんです。フルシチョフが第二十回党大会で「スターリンのいくつもの誤り」を報告したあと、私は病気になって寝込んでしまいました。それが真実だとは思えなかったのです。 恐ろしい真実。戦争中私自身叫んでいました。「祖国のために!」「スターリンのために!」と。誰に強制されたわけでもなく......私は信じていた......それが生きているということだった.....。

 パルチザンで戦っていたのは二年間......最後の戦いで私は足を負傷し、意識を失った。 冬の寒さは厳しく、気がついた時には両手が凍傷になっていました。今は生き生きしたよく動く手ですけど、あの時はすっかり黒ずんでいた......もちろん両脚も凍傷にかかっていました。あの寒さでなければ両脚を救うこともできたでしょうけど。出血したまま長いこと放っておかれました。発見されて、他の負傷者と一緒にされたけど、そこもドイツ軍に包囲されました。部隊は退却する......突破を試みます......私たちは薪のように橇に放り込まれました。治療するまもなく、森の奥へと運んで隠してくれました。何度も退却してから、私は最高会議の議員だったのでモスクワに私の負傷が知らされました。 私自身は下層の出身、ただの農民の出ですが、パルチザンの自慢でした。早い時期に人党したんで.....。

 両脚がなくなりました......切断されたんです。やはり、森が救ってくれた......手術用具はもっとも素朴な物しかありませんでした。普通のノコギリで足を切るんです。両足を. ...手術台に載せて、しかもヨードは無し。ヨードをもらいに6キロ先の他の部隊に使いが出されました。麻酔もありません。麻酔の代わりに密造酒1本。何にもないんです......普通のノコギリ以外......家庭大工用の...... 。

 飛行機をよこしてくれるようモスクワに連絡がいきました。飛行機は3回飛んで来たのですが、旋回するばかりでどうしても着陸できません。四方から銃撃されたからです。四回目にやっと着陸した時には、すでに私の両足は切断されたあとでした。それから、イワノヴォーとタシケント市で4回再切断手術が行われました。四回ともまた壊疽を起こしました。毎回少しずつ切ったんです。それで脚の付け根に近い位置で切ることになってしまいました。初めのうちは大声で泣いていました。地面を這って行くことを考えて、もう歩けない、這うことしかできないんだ、と。自分でも分かりません、何が助けてくれたのか、どうやって良くない考えに打ち克ったのか、どうやって自分を説き伏せたのか。もちろん親切な人たちはいました。良い人たちがたくさん。私たちのところにいた外科医は、その人自身も両足がないんです。その人が私のことを言っていたそうです。「あの人には頭が下がる。私はたくさんの男たちの手術をしてきたがあんな人は初めてだ。悲鳴一つあげない」わたしは我慢してたんです...人前ではしっかりしている習慣がついてたんです......。

 それから故郷のジスナ市に戻りました。松葉杖をついて。 今はよく歩けませんが、それは年のせいです。あのころは街を走り回ってました。どこでも徒歩で。義足で走りました。コルホーズにも車で行きました。地区執行委議会副議長に任命されました。大仕事です。執務室にじっとしていないで、始終あちこちの村や畑を回りました。同情されれば腹が立ちました。当時、教育のあるコルホーズの議長は少なく、特別大事なキャンペーンを行うときには地区の代表が現場に派遣されるんです。毎週月曜日に私たちは党の地区委員会に呼び出され、そこで各自が派遣される任務 を与えられます。窓辺に座っていると、地区委員会にみなが続々と出かけていくのが見 えます、私は呼び出されないんです。これが辛かった、みんなと同じにしてもらいたかったんです。

 とうとう、電話がありました。第1書記からです。「ワョークラ・フョードロヴナ、 来てください」村から村へ移動して行くのはとてもとても大変だったのですが、私は大喜びでした。十キロも二十キロも先まで行かされました。乗り物で行けるところもありますが、歩くしかないところもあるんです。森の中を行く時、転んだりするともう起きあがれません。手提げをおいてそれを支えにして、木にしがみついたりして起きあがってまた先に進みました。年金をもらっていましたから、自分のためだけに生きても良かったんです。でも、みんなの役に立ちたかった。私は共産党なんですから......自分のものなんかありません。勲章やメダル、表彰状ばかり、家は国が建ててくれました…

 二人で暮らしています。過去を生きる支えにして。私たちの過去は美しいんです。大変でしたけど、美しく、正直な暮らしでした。私は自分のことで恨んでいません。自分の人生を......私は正直に生きてきた......』

アレクサンドラ・イワーノヴナ・フラモワ   地下組織書記

 友だちのカーチャ・シマコーワパルチザンの連絡員だった。彼女には二人の娘がい た。まだ六歳と七歳。その子たちと手をつないで街を歩きながら、戦車がどこにあるかを記憶する。歩哨に呼び止められると、口をぽかんと開けて頭が弱いふりをする。それを2、3年...。母親は自分の娘たちを危険な目にあわせてました......

 仲間のザジャルスカヤという女性にはワレーリヤという娘がいたんです。七歳だった。 食堂を爆破しなければならなくなって、爆弾をペチカのなかに仕掛けるために持ち込まなければならない。ザジャルスカヤは自分の娘に運ばせる、と言ったのです。手かごに爆弾を入れて、子供の服やおもちゃをいくつか、そして卵を十個とバターの包みを載せました。そうしてこの子が食堂まで爆弾を運び込んだんです。母性本能は何より強いと言われていますが、そうじゃありません。思想のほうが、信じていることの方が、勝る。私はそう思います......確信してます。ああいうおかあさん、ああいう娘がいなかったら、その人たちが地雷を運ぶ役をやらなかったら、私達は勝利できただろうかって。命、これは大事です。素晴らしいこと。でももっと大事なものがあるのです……』

 ここに登場しているパルチザン女性戦士はウクライナ人やバルト三国人ではない。しかし、ここに、「祖国のために!」のスローガンを掲げて戦ったすべてのパルチザン女性戦士の典型があり、真実の姿がある。彼女らの戦い、彼女らを匿い、食料を与え、援助した村人たちの戦いは、実に崇高に満ちている。レーニンスターリンに導かれたソビエト社会主義は、こうした英雄的民衆像を生んだのである。

 レーニンスターリン時代、社会主義ソビエトはこのような素晴らしく、美しい人間像、女性像を創出した。この厳粛な事実は、何人も否定できない。彼女らにとって(その全員とは言わないが)、フルシチョフの「スターリン批判」―「スターリニズムへの嫌悪」の扇動―などは、耐え難く、許し難く、到底認めることのできないものであった。

 

 第3の問題。大木氏は、「大祖国戦争」の呼称は「ナショナリズム共産主義体制の擁護を融合」させるメタファーとなり、それによって対独報復感情の正当性が付与された、という。そして、その「具体的説明」としては、「アメリカのソ連研究者ロジャー・R・リースの説明が有効だ」とし、その説を次のように紹介している。

 『リースは、圧倒的な数の国民がソ連軍に志願するにあたっては、七つの理由が考えられ、それらは内的要因と外的要因に区分できるものとした。内的要因は、自らの利害、個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、スターリン体制の利点に対する評価、先天的な祖国愛である。この祖国愛は、ロシアという歴史的な観念、あるいは、社会主義の実験に向けた信念を基盤にし得た。これら、二つの要素により、必ずし もスターリニズムの国家を支持していなくとも、国民に愛国的な動機付けを持たせることができた。外的とみなされる要因は、国家によって形成されるか、社会的に生成されたものだった。すなわち、志願せず、また、徴兵逃れをして、処罰されることへの恐れ、公式プロパガンダがかき立てた敵に対する憎悪、社会の同調圧力であった。それらの要因によって、ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された上に、対独戦の正当性が付与された』と。

 つまるところ、「ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された」ものとは、具体的には、内的要因としての、①自らの利害、②個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、③スターリン体制の利点に対する評価、④先天的な祖国愛(この祖国愛にはロシアという歴史的な観念が含まれており、必ずしもスターリニズム国家に対する祖国愛ではない)。外的要因としての、⑤志願せず、また、徴兵逃れをして、処罰されることへの恐れ、⑥公式プロパガンダがかき立てた敵に対する憎悪、⑦社会の同調圧力、の「七つ理由」、即ち‶七つの要素〟からなるものだ、という。

 ところで、この「リース説」はただ単に可能性として有り得る「七つの理由」を並列的に並べているだけであって、これは「融合」ではなく、「ごちゃまぜ的総合」ともいうべきものでしかない。要するに、この「七つの理由」の「ごちゃまぜ的総合」が「スターリンソビエトイデオロギー」だというのである。

 いったい、この「七つの理由」の中の、何が決定的な理由であったのか?事実に基づいて、それを追求し、解明することこそが歴史家のなすべきことではないのか?

 この大木氏の「見解」について、筆者の反論を述べる代わりに、ブログ『紙屋研究所』で公開されている《2019-07-29付記事》を紹介したいと思う。紙屋高雪(かみやこうせつ)氏―プロフィールとして「ブロガー・ライター・マンガ好き・コミュニスト」と紹介されている―が、大木氏の著作『独ソ戦』に関して述べた書評である。紙屋氏は、信頼のおける「証言」を取り上げ、深く洞察し、本質を突いた、素晴らしい書評を書いている。部分的には異論があるが、筆者は高く評価する。以下が、その書評の一部である。

 『ぼくも、本書(大木氏著書)の「文献解題」で「一読の価値がある」として紹介されているスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を読んだ時、ソ連の女性兵士たちがどのような経過で志願していくのかを注意深く読んだ。彼女たちはドイツ軍の蛮行を目の当たりにするよりも前に、開戦と同時に志願している場合が多い。共産主義的な動機もあれば、祖国防衛というナショナリズムの感情もあるし、家族を守りたいという素朴な感情もある。しかし、総じて、今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっているように読めた。…「大祖国戦争」という形でナショナリズムに訴えた宣伝が功を奏したことはぼくから見ても間違いないとは思うのだが、ぼくが気になっているのは、リースがあげている「スターリン体制の利点に対する評価」という点なのである。スターリン体制によって成し遂げられた工業化はベースのところでソ連国民によって支持されていたのではないか?と思うのだ。前述の『戦争は女の顔をしていない』で出てくるインタビューには、露骨な体制支持やイデオロギー支持はそれほど多くないが、守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれるが、そういう日常を支持している庶民が、志願をしている。つまりそれは「スターリン体制の利点に対する評価」があったのではないかと推測できるのである。加えて、ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ。それはスターリン体制が工業化を達成したことと不可分の話ではないだろうか』と。

まさにその通りであり、筆者も同意見である。「理由」をただ並列的に並べただけの、形式論的で無内容の「リース説」に対するこれ以上の「批判」「反論」はない。

 ソビエト国民にとっては「スターリン体制によって成し遂げられた工業化」「守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれる、そういう日常」こそが、社会主義ソビエトであり、ソビエト国家であった。彼女らの祖国愛とは、そんな風に存在していたソビエト国家への‶愛〟だったのである。イギリスの知将マウントバッテン伯が『ロシアに長く君臨した王朝の末端につらなるものとして、これを認めることは私にとってつらいことではありますが、ロシア国民はいまや防衛すべきものを持っております。今後は、ロシアは全国民が自分の国を守るために戦うでしょう』と述べたその「自分の国」とは、まさに紙屋氏が指摘している「スターリン体制によって成し遂げられた工業化」された国、「守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれる、そういう日常」を持った国のことであり、ロシア国民にとってはそれこそが「今や防衛すべきもの」―‶わが愛する祖国・社会主義ソビエト〟―であったのだ。女性兵士の証言に、またカラシニコフの伝記の中に、戦場では「祖国のために!スターリンのために!」と祈り、口にしながら戦闘に赴いたとの記述が出て来るが、彼らの愛すべき「日常の国」とはまさに「スターリン体制の祖国」であったのだ。

 紙屋氏は、アレクシェーヴィチさんの『戦争は女の顔をしていない』に出てくる女性兵士のインタビューから、彼女らが「今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっている」様子が読み取れる、としている。また、大木氏は『開戦半年の間に数百万のソ連将兵が捕虜になったのは、スターリニズムに対する一般的な拒否意識の表れだったとするのは、おおかたの西側研究者が同意するところである』などとしているが、逆に、紙屋氏は『ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ』としている。

 残念ながら、同じ本を読んでも、大木氏には、紙屋氏が読み取ったような真実が読み取れなかったようである。「スターリンへの嫌悪」を抱いているのはソビエト国民ではなく、大木氏自身のようだ。

 また、大木氏は『この「大祖国戦争」の名は、ドイツ 軍侵攻の翌日、一九四一年六月二三日の共産党機関紙『プラウダ』に発表された論説に初めて現れ、すぐに対独戦の公式呼称となった』とのみ述べているだけで、その発表・公表にあたって、共産党内部で「ナショナリズム共産主義体制の擁護の融合」について、如何なる論議がなされたかについては、何も語っていない。大木氏の言うように、「大祖国戦争」の名称が「ナショナリズム共産主義体制の擁護の融合」を図るものであったとするなら、それは重大な路線変更であり、党内での大論議が必要となる。マルクス主義者なら誰でもそう考える。

 実際はどうだったのか。そんな論議はなされていない。「ドイツ軍侵攻の翌日、一九四一年六月二三日」の公表、それも初公表である。そんな論議をやっている暇などあるはずがない。また、そんな論議は不要であった。何故なら、それは表現形式の問題であって、路線問題でも思想問題でもなく、特別の論議などまったく不要であったからだ。ソビエト国民は、恐らく、「大祖国戦争」の名称について、誰一人、大木氏のような間違った理解などしなかったであろう。ロシア人民は皆、祖国が1812年にナポレオンのモスクワ遠征を撃退し、偉大な勝利を獲得した歴史をよく知っていた。史上初の社会主義革命を達成した自らの歴史に無上の誇りを持つソビエト人民は、今回の戦争を「大祖国戦争」と呼称する意味をたちまち理解したに違いない。

 

 第4の問題。大木氏は、「大祖国戦争」の呼称を見て、そこに邪悪なナショナリズム民族主義の匂いを嗅ぎ取り、スターリンソビエト国民は「ドイツ人、ドイツ国民、ドイツ民族の絶滅」を目指した、と断定しているが、そんな馬鹿なことをスターリンは本当に言っているのか?言っているとしたら、何処で言っているのか? 言うまでもなく、スターリンがそのような発言をしたという事実は全く無い!

 ロジャー・R・リースの「説明」を「有効なもの」としている大木氏は、ここで、スターリンの発言でもなく、アレクシェーヴィチさんが世に出した女性兵士たちの証言でもなく、ユダヤ人作家エレンブルグの発言を取り上げ、こう語っている。『戦時中、対独宣伝に従事していたソ連の作家イリア・エレンブルグは、1942年に、ソ連の機関紙『赤い星』に激烈な筆致で書いている。《ドイツ軍は人間ではない。いまや「ドイツの」という言葉は、もっとも恐ろしい罵りの言葉となった。〔中略〕もし、あなたがドイツ軍を殺さなければ、ドイツ軍はあなたを殺すだろう。ドイツ軍はあなたの家族を連れ去り、呪われたドイツで責めさいなむだろう。〔中略〕もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、つぎの一人を殺せ。ドイツ人の死体にまさる楽しみはないのだ》このような扇動を受けて、ソ連軍の戦時国際法を無視した行動もエスカレートしていった』と。

 当時、ユダヤ人作家エレンブルグが書いたような、「ドイツ軍」と「ドイツ人・ドイツ国民」を一緒くたにして人種的民族的憎悪を煽り立てる対独宣伝があったことは、事実である。また、エレンブルのこうした宣伝は「大衆受け」したようでもある。『戦争は女の顔をしていない』に紹介されている証言の中にも、しばしば兵士たちが「ドイツ人」「ドイツ野郎」に対する憎しみを爆発させる場面が出て来る。戦争は殺し合いであり、非理性的な感情の爆発は避けられない。が、戦場の彼女彼らにとってそれは一時的なものであって、負傷したドイツ人捕虜に親切を施す場面も多々語られている。

 人種的憎悪丸出しのエレンブルグの宣伝文は、筆者から見ても、あまり評価できるものではない。「低劣な感情」に訴えた宣伝は本当の力を持たず、人民に本当の確信、勇気、戦闘力を与えることなどでき得ない。実は、党機関紙『プラウダ』(1945年4月15日付)もエレンブルグのあまりに酷い内容の宣伝文については批判を加えている。「エレンブルグによる‶ドイツ国民の集団的犯罪〟なる見解は…明らかに誤謬である。ソ連国民は、ドイツ国民と、ドイツを支配する犯罪的ナチ一派とは同一物だとは決して考えない」と(1947年刊・渡辺三樹男著『ソ連特派5年』より)。
 それはさておき、大木氏の最大の過ちは、この問題においても、「スターリンはどう言っているのか」を全く追求していないことである。それ故、私は、ここでスターリンの有名な「ラジオ演説」を紹介したいと思う。独ソ戦争開始から11日後の1941年7月3日に行われた演説であり、それは、「同志諸君!市民諸君!兄弟姉妹諸君!わが陸海軍の戦士諸君!わが友よ、私は諸君によびかける!」で始まっている。その中で、スターリンはこう呼びかけている。

 『…わが国は強いられた戦争のために、もっとも兇悪・狡猾な敵、ドイツ・ファシズムとの決死の格闘に入った。…赤軍将兵の勇敢さは比類がない。敵に対するわが反撃は強化し増大しつつある。赤軍と共に全ソビエト国民は祖国防衛のために闘っている。

ファシスト・ドイツとの戦争を、通常の戦争と考えてはならない。この戦争は、単なる二つの軍隊間の戦争ではない。それは同時に、ドイツ・ファシスト軍に対する全ソビエト国民の偉大な戦争である。ファシスト圧迫者に対するこの全国民的祖国戦争の目的は、わが国に襲いかかった危険を一掃するだけでなく、ドイツ・ファシズムのくびきのもとにあえいでいるヨーロッパのすべての国民を援助することでもある。われわれはこの解放戦争において、孤立しないであろう。われわれはこの偉大な戦争において、ヒトラー支配者どもに奴隷化されたドイツ国民を含めて、ヨーロッパとアメリカの諸国民という忠実な同盟者をもつであろう。わが祖国の自由を守るわれわれの戦争は、ヨーロッパとアメリカとの諸国民の独立と民主主義的自由をめざす闘争に結び付いている。それは、ヒトラーファシスト軍による奴隷化とその脅威に反抗して自由のために闘う諸国民との統一戦線となるであろう』と(ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争・1953年5月・大月書店)。

 ここでスターリンは明確に語っている。「われわれソビエト国民の真の敵はドイツ・ファシズムであり、ドイツ・ファシスト軍であり、ヒトラー支配者どもである」と。更にまた、「われわれはこの偉大な祖国防衛戦争において、ヒトラー支配者どもに奴隷化されたドイツ国民を含めて、ヨーロッパとアメリカの諸国民という忠実な同盟者をもつであろう」と。つまるところ、敵は「ドイツ・ファシズム」「ドイツ・ファシスト軍」「ヒトラー支配者ども」であって、決して「ドイツ国民」ではない。「ドイツ国民、そしてヨーロッパとアメリカの諸国民はわれわれの忠実な同盟者である」と。

 これが、「ラジオ演説」で語られた、独ソ戦を戦うスターリンの思想であり、スターリンイデオロギーであり、社会主義ソビエトイデオロギーである。これ以上、何を付け加える必要があろうか。何もない!

 

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~  (第6回) 

   2022年9月20日更新  次回更新は9月30日

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 ヒトラーナチスイデオロギー

 

 ここで、独ソ戦第二次世界大戦の戦況に触れる前に、大木氏が「残酷無惨」と酷評している「ヒトラーナチスイデオロギー」及び「スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ―」について、それがどういうものか明らかにしておこう。

 

 まずは、「ヒトラーナチスイデオロギー」である。

 もし、大木氏がこう書いていたなら、問題はなく、敢えて「批判の書」を上梓することもなかった。「ドイツ軍、ナチスヒトラーは、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争(独ソ戦)の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行をいくども繰り返したのである」と。

 しかし、大木 氏は、次のように書いているのだ。

 『独ソともに、互いを妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツソ連のあいだでは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行がいくども繰り返されたのである』と。

 大木氏のイデオロギー・史観によると、「独ソ戦は、ドイツ民族とロシア民族(ソビエト内の諸民族)が互いにそのイデオロギーに基づいて、それぞれの民族の絶滅を目指して、残酷な闘争と蛮行を繰り返し、未曾有の惨禍をもたらした、まったく無意味な戦争であった」ということになる。つまり、大木氏は〝大真面目〟にこう主張しているのだ。「ソビエトナチス・ドイツと全く同類であり、ソビエトスターリンボリシェビキもまた、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすナショナリズムを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ソビエトは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行をいくども繰り返したのである」と。

 後で詳しく触れるが、言うまでもなく、ソビエトスターリンが目指したのは「ドイツファシズムの打倒・絶滅」であって、大木氏が主張するような「ドイツ人・ドイツ民族の絶滅」などではけっしてない。そうであったが故に、英米仏政府もまたソビエトを支持し、ソビエトと連合し、独日伊ファシズム同盟と敵対し、対決し、反ファシズム解放戦争を戦い抜いたのである。従って、大木氏は、その主張によって、ソビエトだけでなく、英米仏をも批判し、反ファシズム連合そのものを批判し、非難しているのである。つまるところ、彼の頭脳は、未だに戦前の日本軍国主義者のそれとまったく同じ思考回路に支配されている、としか言いようがない。

 

 ヒトラーナチス・ドイツが、第二次世界大戦独ソ戦において目指した国家的・戦略的目標とその内容については、既に第二次世界大戦独ソ戦の開始」の項で明らかにしている。それは、ヒトラードイツ帝国宰相ベートマンの「九月綱領」を引き継いでまとめ上げた『東方占領地総計画』であり、その基本的中身は次のようなものであった。

①東方の500万~600万のユダヤ人の絶滅。

ポーランド民族(スラブ系民族)はドイツにとって極めて危険。住人の80~85%(1600万~2040万人)を西シベリアに追放。

ソ連ウクライナ―東ウクライナ―のスラブ人は危険であり、全てシベリアに追放。

西ウクライナ人は北方人種的要素が強いので35%だけ残し、ドイツ人の手でこれを酷使または同化する(65%はシベリアに追放)。

白ロシア民族は75%をシベリアに送り、後は酷使・同化。

チェコ人は比較的ドイツ人に近いので50%は残し、後はシベリアへ追放。但し知識人はドイツ憎悪が激しいので全員追放。

⑥こうして追放した後には25年かけておよそ455万人のドイツ人を移住させる。

⑦各地に「基地」を創設し、ここに強大な兵力を蓄えて置き、反抗の気配があれば直ちに鎮圧する。原住民は不衛生な村落に隔離して住まわせ、死亡率を高め、人口減少を図る、等々。

 これがヒトラーの戦争目的であり、まさに「東方・ロシアの地にゲルマン民族の生存圏を獲得すること」、これこそが至上命題であり、武力戦争によって「スラブ民族ユダヤ民族の追放・絶滅を目指すこと」こそがその最大の目的であり、「総計画」であった。

 言うまでもなく、それは、ベートマンの「九月綱領」を引き継いだものであることからも明らかなように、決して彼ヒトラーの個人的な計画でも、個人的な目標でもなかった。

 1913年(大正2年)生まれで、東大文学部西洋史学科に進み、ドイツ現代史を専攻し、生涯をドイツ史の研究に捧げた村瀬興雄は、『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』(1997年6月・中公新書)を著し、その中で「ヒトラーの異常な歪んだ精神は、不幸で歪んだ家庭環境の産物である」との捉え方を明確に否定し、「異常な性格者の一面もあった」としつつも、「ヒトラーの性格と思想とを、ドイツ保守主義ないし民族主義そのものの性格と思想を元にして眺めないで、ただ異常な面からだけ眺めることには反対である」と明確に述べているが、まったく同感である。

 そこで、このような「総計画」を持つに至るアドルフ・ヒトラーの歩んだ道を、1924年に書かれた『わが闘争』(1973年10月・角川文庫)を紐解きつつ、しばらく辿ってみよう。

 「誇り高きゲルマン民族の子孫」であったヒトラーは、「多民族国家」たるオーストリア帝国で生まれた。この帝国の内部は、ドイツ人、チェコ人、ハンガリー人、ポーランド人、ユダヤ人などいくつかの民族―主としてゲルマン系民族、スラブ系民族、ユダヤ民族―が混在し、複雑に絡み合い、常に緊張が支配し、民族間の争いが絶えなかった。そうした激しい‶民族的抗争の坩堝〟となっていた首都ウィーン―その渦中で育ち、学んだ若きヒトラーは反スラブ民族主義たるドイツ民族主義ゲルマン民族主義に目覚め、自らの思想的基盤を作っていく。そして、1870年代、資本主義の必然の産物たる経済恐慌が荒れ狂い、経済的危機と不安に包まれた首都ウィーンに暮らすドイツ系住民は、「富と地位と高い教育」を得て豊かな生活を築いていたユダヤ系住民に対する憎しみを募らせ、その不満と怒りを彼らに集中させた。更に、1897年に始まったシオニズム運動(ユダヤ人国家建設運動)を目の当たりにしたヒトラーは、「ユダヤ人問題は宗教問題ではなく、人種・民族問題となった」と断ずるに至る。ここから、‶主イエス・キリストをローマに売り渡したユダヤ人〟に対する「宗教的社会的差別」は「人種的民族的差別」へと発展、ゲルマン民族主義は反ユダヤ主義と一体化し、たちまちオーストリア全土に広まっていった。若きヒトラーはこのような時代の中から生まれた、反スラブ的・反ユダヤ的ドイツ民族主義の申し子であった。

 このようなオーストリア国内の激しい民族的抗争を生み出した背景、それこそ他国領土の強奪、植民地の征服、市場の拡張を目指す資本主義国家同士の醜い抗争であった。そして、あたかもヒトラーが青春期を送った19世紀末期から20世紀初頭にかけて、資本主義はその最高の最後の段階たる帝国主義へと昇り詰める。帝国主義的資本主義の主人となった金融独占資本は新市場・新植民地を求めて、新たな侵略的欲望を燃やしていく。すでに世界は幾つかの資本主義国によって分割し尽くされていたが、資本主義の不均等発展は各国の経済力・軍事力の相互関係に変化を生み出し、新たな世界再分割の熱望を生み出し、爆発させた。かくして、1914年7月、第一次世界大戦たる帝国主義戦争が勃発する。戦争準備の過程で、それぞれの帝国主義国はその民族的利害から、一方にドイツ・オーストリア、そしてイタリア(後に離脱)の同盟を形成、他方にイギリス・フランス、そしてロシア(その産業は英仏資本の支配下に置かれていた)の連合を形成、この2群が正面から激突したのである。

 この第一次世界大戦の結果、ロシアの地には「社会主義ソビエト」が生まれ、ドイツの地には「ワイマール共和国」が生まれた。即ち、スラブ民族・ロシアのプロレタリアートは、ウクライナはじめ諸民族のプロレタリアートと結束し、団結し、レーニン、そしてスターリンに導かれたマルクス主義の党ボリシェビキ党の指導下、「帝国主義戦争を国内戦争に転化せよ」とのスローガンを掲げ、ロシア・ツァー帝政を倒し、社会主義革命を勝利させ、「社会主義ソビエト」を誕生させた。一方ドイツでは、プロシアドイツ帝国は戦争に敗れて崩壊したが、左翼一揆主義に指導されたプロレタリア革命の蜂起は失敗、右翼日和見主義たる社会民主主義に導かれる「ワイマール共和国」が誕生した。戦前に、オーストリアから母国ドイツに移っていたヒトラーは、第一次大戦を戦うドイツ軍に従軍し、その苛酷を極めた戦場地獄を体験し、敗戦で荒廃した母国たるワイマール共和国に戻って来た。

  ‶歴史上もっとも民主的〟と言われたそのワイマール共和国は、戦勝国の英仏に押し付けられた苛酷なベルサイユ講和条約に苦しめられ、経済的苦境、凄まじいインフレに見舞われ、更に、終始、左翼と右翼が徒に激突し、破局的な混乱に襲われ、ドイツ国民の不満と怒りが渦巻いていた。そんな時、ヒトラーの目に映ったのは、その中心になってマルクス主義運動・左翼運動を推進している多くのユダヤ人の姿であった。かくして、ヒトラー反ユダヤ主義は反マルクス主義と結びつく。ヒトラーとドイツ民族主義にとって、ユダヤマルクスが創始したマルクス主義ユダヤ民族思想そのものであった。

 ヒトラーマルクス主義社会主義について、こう述べている。『私は今や、運動(社会主義運動)の基礎を研究するために、この教説の創始者たち(マルクスエンゲルス)と親しくし始めた。私は初めに自分で考えていたよりも多分早く目的(マルクス主義の理解)に到達したが、これは私が当時既にただ僅かながらも、ユダヤ人問題の知識を獲得していたからである。その知識があったので、私は社会民主党建設の使徒マルクス)の理論的大言と活動とを、実際に(ユダヤ思想と)比較することができたのである。ユダヤ思想を隠すために、少なくとも偽装するために語った彼ら(マルクスとその信奉者たち)の言葉を、社会民主党が私に理解させ、教えてくれたからである』と。

 そして、こう結論づける。『マルクシズムというユダヤ的教説は、自然の貴族主義的原理(弱肉強食の競争原理)を拒否し、力と強さという永遠の優先権の代わりに、大衆の数と彼らの空虚な重さとを持ってくる。マルクシズムはそのように人間における価値を否定し、民族と人種の意義に異論を唱え、それと共に人間性からその(民族と人種の)存立と文化の前提を奪い取ってしまう。…ユダヤ人がマルクス主義的信条の助けを借りてこの世界の諸民族に勝つならば、彼らの王冠は人類の死の花冠になるだろうし、さらにこの遊星は再び何百万年前のように、住む人も無く、エーテルの中の世界を回転するだろう』と。

 あたかも、1917年11月、スラブ民族の国ロシアでは、マルクス主義に導かれたロシア革命が勝利し、社会主義ソビエトが成立する。反スラブ主義・反ユダヤ主義・反マルクス主義を一体不可分のイデオロギーとしたナチスヒトラーの憎悪の矛先は、「社会主義ソビエト」(ヒトラーにとってのユダヤ思想の国)へと向けられ、やがては「ユダヤ民族の抹殺」「ボリシェビキ社会主義ソビエトの撲滅」を目指すことになる。

 戦場から敗戦の母国に帰って来た‶ドイツ民族主義の革命児〟ヒトラーは、ナチス党(国家社会主義党)を組織し、「ドイツが戦争に敗けたのは売国奴、左翼、マルクス主義者、ユダヤ人による背後からの一撃、即ち‶匕首(あいくち)の一撃〟があったからだ」「国民を苦しめる最大の元凶はフランス・イギリスが押し付けたベルサイユ条約である」と主張し、ドイツ国民の不満と怒りを煽り、突撃隊を先頭に反共・反スラブ・反ユダヤ的ドイツ民族主義運動を大々的に展開。1933年1月、遂にナチスヒトラーは政権を獲得する。

 こうして形成されたナチスヒトラーの「社会主義ソビエトの撲滅」「スラブ民族ユダヤ民族の絶滅」を目指す「総計画」とそのイデオロギーは、既に、1924年に書かれた彼の自伝『わが闘争』において、その骨格が明確に示されている。ヒトラーは、その著書において、自らの思想・イデオロギーを次のように明確に規定している。

 『わたしにとっては、そして全ての真の国家社会主義者にとっては、ただ一つの信条だけがある、即ち民族と祖国だ。われわれが闘争すべき目的は、わが人種、わが民族の存立と増殖の確保、民族の子らの扶養、血の純潔の維持、祖国の自由と独立であり、またわが民族が万物の創造主から委託された使命(現在の優れた人類文化を創造したアーリア人種・ゲルマン民族が全ヨーロッパを支配し、ユダヤ民族・マルクス主義を絶滅するという使命)を達成するまで、生育することを目的としている。およそ思想や理念、教説や一切の知識というものは、この目的に奉仕すべきである』

『国家は目的ではなく、手段である。国家は、勿論、より高い人類文化を形成するための前提であるが、その原因ではない。その原因はむしろ文化を形成する能力のある人種の存在にのみあるのである。地球上に幾百の模範となるような国家がありうるとしても、文化を担っているアーリア人種が死滅したならば、今日の最も優秀な民族の知的高さに相応しい文化というものは、存在し得ないだろう』と。

 そして、ヒトラーは、レーニンスターリンボリシェビキ党に導かれた国・社会主義ソビエトについて、次のように断定する。

 『人々はとにかく次のようなことを忘れてはならない。つまり、今日のロシアの統治者達は血でよごれた下賤な犯罪者であること、またかれらは人間のくずであり、悲劇的な時期の情況に恵まれて大国家を打倒し、その指導者的なインテリ数百万を粗野な残忍さでもって惨殺し、根絶し、今やざっと十年ばかりの間どんな時代にもなかった残酷きわまる暴政を行なってきていることを忘れてはならない。さらにまた、これらの権力者達が、野獣のような残忍さをとらえがたい嘘の技術に非凡な融合方法で結びつけて、自分達の残虐な圧制を全世界に加えるのには今日こそもっともよいという使命感をもった一民族(ユダヤ民族)に属していることを忘れてはならない。次にまた忘れてならないことは、ロシアを今日完全に支配している国際主義的ユダヤ人がドイツを同盟国と見なさず、自国と同じ運命に定められている国家(社会主義革命を起こす国家)と見ているということである。…ロシア・ボルシェヴィズムは二十世紀において企てられたユダヤ人の世界支配権獲得のための実験と見なされなければならぬ』と。

 まさに、ドイツ、ナチスヒトラーは、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争(独ソ戦)の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行をいくども繰り返したのである、と言って間違いない。

 

 では、「スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ―」とはいったい如何なるものか。

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第5回) 

   2022年9月10日更新  次回更新は9月20日

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 独ソ戦の前哨戦としての「赤軍元帥トハチェフスキー粛清」 

 独ソ戦突入前に起こった「独ソ戦の前哨戦」としての重大事件―「ソビエト国内の粛清」について、触れておきたい。特に、「赤軍元帥トハチェフスキーの粛清」は「独裁者スターリンが行った事実無根の捏造劇」として広く喧伝されている。

 大木氏も「赤軍元帥トハチェフスキー赤軍将校の粛清」を大きく取り上げている。しかも大木氏は、フルシチョフが持ち出した「野蛮で専制的性格のスターリンがやった事実無根の粛清」論をそのまま引き継いでいるだけでなく、「トハチェフスキーは〝赤いナポレオン〟と称されたソ連屈指の用兵思想家である」として彼を天まで持ち上げ、彼の「軍事理論」を高く評価している。この「トハチェフスキーの軍事理論」については本書後半で詳しく論じることして、ここではフルシチョフの「独裁者スターリンによる事実無根の粛清」論について、はっきりとその嘘八百・出鱈目ぶりを指摘しておこう。

 言うまでもなく、こうしたフルシチョフの「スターリン批判」を受け入れ、「スターリン批判」を口にしているのは、大木氏のような反共的な人だけでなく、「良心的知識人」「良心的大衆」を含め、世界に「ごまんといる」のが実情である。例えば、『戦争は女の顔をしていない』の著者アレクシェーヴィチさんも然りであり、彼女の著作の中に出て来る何人かの証言者も然りであり、彼女の著作の「解説」を書いている澤地久枝さんも然りである。ある意味、この問題はそれほど根深い問題でもある。

 【注:著名な独ソ戦史研究家である山崎雅弘氏は『新版・独ソ戦史』(2016年・朝日 
 新聞社)において次のように指摘している。『過去の独ソ戦研究では…「大祖国戦争 
 史」(注:フルシチョフが編纂させた戦史)とフルシチョフの回想録…を参考文献に
 挙げるのが慣例となっていたが、本書ではこの二種類の書物は書斎の棚に置いたま
 ま、ほとんど参照しなかった。その理由は、両者とも政治的意図に基づく事実の歪曲 
 や曲解、無視、粉飾などがはなはだしく、既に別の研究によって否定されている部分 
 も多いからである。前者は…断片的なデータは参考になるが、後者は…「作り話」と
 事実の見極めが難しく、とりわけスターリンの戦争指導についての記述や、第二次ハ
 リコフ戦で自らが果たした役割についての弁明など、他の研究者による実証的研究で 
 ほぼ否定されていることもあり、執筆中は混乱を避けるため、これらの文献は仕事机
 から遠ざけていた』と。「スターリン批判者」である山崎氏の証言であり、耳を傾け
 るべきであろう】 

 そもそも「トハチェフスキー粛清事件」とは何か。それは、1937年5月にソビエト赤軍参謀総長・陸軍元帥のトハチェフスキーらの赤軍幹部がナチスと通じたスパイとして摘発され、6月に軍法会議軍事法廷―で有罪判決を受け処刑された事件である。この時、トハチェフスキーらと共に多くの赤軍幹部・反革命分子が逮捕され、処断された。 

この事件は世界を驚かせた。日本でも、1937年(昭和12年)6月12日付朝日新聞が、「ソ連摘発の嵐 愈々急」「ト元帥等八巨頭逮捕」「軍律違反で審理開始」と報じ、次のような「ソビエト政府発表のコミュニケ」を公表した。曰く―

 『罪名は軍律違反大逆罪、ソビエト人民に対する背信罪、労働者農民赤軍に対する背任罪、ソビエト連邦に対して非友好的政策を遂行しつつある或る一外国の軍部首脳と連絡し、祖国に対し、反逆行動をとったことが判明した。以上共犯は…外国の軍事的諜報機関の手先となり、外国軍機関のため間諜行為を働き、ソビエト赤軍に関する情報を供給し且つ赤軍の実力を弱めるため破壊行動を営み、ソビエトに対する軍事的攻撃、赤軍の敗撃等につき、準備を試み、ソビエトにおける地主及び資本家の権力回復を支援する事を目標として種々画策した』と。

 1937年(昭和12年)6月13日付朝日新聞が載せた通信記事《パリ12日発同盟》は、「トハチェフスキー元帥始め赤軍首領8名の処刑」に関する「パリ外国消息通」として、次のような記事を掲載している。『最近ソビエト政界では、反独政策は単に民族的理由に基づくに過ぎず、宜しくドイツと友好的関係を回復すべきだとの意見が台頭し、トハチェフスキー元帥はその急先鋒だった。…今回の断罪により、スターリン書記長・ウォロシーロフ元帥が国内の親独傾向を完全に圧えつけ得るかどうかは甚だ疑問だ』と。どうやら、当時のヨーロッパでは、トハチェフスキーの「親独傾向」はいわば公然の秘密になっていたようだ。

 トハチェフスキーは旧ロシア皇帝に連なる貴族の出身であり、旧ロシア時代の陸軍士官学校を出てツアー帝政の貴族将校となった。そして第一次世界大戦では西部戦線の指揮官として出陣、1915年にドイツ軍の捕虜となった。やがてドイツは敗北。戦争が終ったあとロシアに帰国し、十月革命後のソビエト赤軍の将校となった。干渉戦争の時代、レーニンボリシェビキ党は、彼をソビエト赤軍内の数少ない高級教育を受けた指揮官として重用し、赤軍強化の任に就けた。党内に反対もあったが、レーニンは「生まれたばかりの労農赤軍には高度な軍事知識と軍事科学を学んだ人材はいない。この人物を通じて多くのことを学び、少しでも早く赤軍幹部を育成する事が重要だ」としたのである。トハチェフスキーは、当時ソビエト革命軍事評議会議長(国防相)であったトロツキーによってひきたてられ、赤軍の最高首脳にまでなった。トハチェフスキートロツキーと親しい関係にあり、思想的にも近く、「軍事部門におけるトロツキー」であった。そのトハチェフスキーは、1922年4月にソビエト政府が英仏と独の矛盾を利用してドイツ政府と結んだラッパロ条約によって独ソ間の交流が進められた際、ドイツ国軍のブロンベルグ(後の国防相)らとの交流を深め、ドイツ国軍との間に太いパイプを築きあげていた。第一次大戦時に捕虜となった際に親しく交際したドイツ及びヨーロッパの軍人連中との親交も続いていており、彼の「親独傾向」は実に根深いものがあった。

 折しも、1934年12月、レニングラード市内で、人民から深く敬愛されていたボリシェビキ党中央幹部のキーロフが暗殺された。犯行はニコラエフという男によるものであったが、背後に反革命組織の暗躍があったことは明らかな事実であった。党中央は直ちに『特別書簡』を発し、「我々に必要なことは、寛大ではなくて、警戒であり、本当のボリシェビキ的革命的警戒である。我々の記憶しなければならぬことは、敵が絶望状態に陥れば陥るほど、ソビエト政権との闘争において、命尽きた者の唯一の手段―〝最後の手段〟にますますかじり付くことである。これを肝に銘じて、警戒を強めねばならない」と全人民に呼びかけた。ここから、いわゆる「清党運動」「粛清運動」が始まったのである。

 さて、この「トハチェフスキー粛清」は、フルシチョフの言うように、全く根拠のない、出鱈目な事件であり、独ソ戦争でソビエトに重大な損害を与える結果をもたらした「スターリンの大失敗」であったのか?フルシチョフは、『秘密報告』(1977年12月 全訳解説・志水速雄 講談社刊)において、至る所で、繰り返し、次のように言いふらしている。

 『いわゆる「スパイ」とか「破壊分子」の事件を幾つか調査したところ、このような事件は全て捏造されたものであることが確認された』『スターリンはまるで人を信用しない人間で、病的なほど疑い深かった。彼は至る所に「敵」「偽善者」「スパイ」を見た。彼は無制限の権力を持っていたので、人々を精神的、肉体的に抹殺するという点で大変横暴に振舞った』『戦争初期の非常に痛ましい結果(注:独ソ戦緒戦のいわゆる「大敗」を指している)は、1937年から41年まで(注:トハチェフスキー粛清は1937年6月)、スターリンがその猜疑心と中傷的な告発によって、多くの幹部と政治活動家を一掃したために引き起こされた』と。

 こうしたフルシチョフの「スターリン批判」は正しいのか?否である!断じて否である!そうではなく、逆に独ソ戦争の前哨戦としてこの「粛清」があったからこそ、独ソ戦の勝利があり、第二次世界大戦―反ファシズム解放戦争―の偉大な勝利があったのである。その根拠を示す、信頼のおける幾人かの〝第三者〟の証言を紹介しよう。

 その第1の証言は、既に冒頭で紹介した、イギリスの貴族出身で海軍軍人の知将ルイス・マウントバッテン伯の証言である。繰り返しの紹介になるが、彼は、独ソ戦開始の1日前―1941年6月21日―に、はっきりと次のように明言しているのだ。

 『私は…アメリカやわが参謀本部の見解にも同意できません。さらに、首相閣下(チャーチル)、あなたとも意見を異にするものであります。ロシアが負けるとは思わないのです。それは、ヒトラーの最後で、大戦の転換点になるでしょう。…まず、第一に、スターリンの国軍粛清によって、ナチスが利用できるような内部的対立の芽がすべて摘みとられてしまっているからです。第二に、ロシアに長く君臨した王朝の末端につらなるものとして、これを認めることは私にとってつらいことではありますが、ロシア国民はいまや防衛すべきものを持っております。今後は、ロシアは全国民が自分の国を守るために戦うでしょう』と。

 マウントバッテンはヨーロッパ・ロシアに張り巡らされていた独自の情報ルートを通じてすべてを見抜いていた。ナチスソビエト軍の内部に多くの手先を送り込み、トハチェフスキーのような人物と連絡を取り合っていたこと。そして戦争を仕掛けた時、混乱に乗じてこの手先を通じて反乱を起こし、一挙にスターリンソビエトを葬り去ろうと計画していたこと。そしてそれが、スターリンの国軍粛清によって完全に失敗に帰したこと。ロシアの国民はそのスターリンを支持し、祖国愛に燃えていること。その結果、ドイツは独ソ戦において決定的敗北を喫し、第二次世界大戦の大転換を招来することになるであろうこと、を。だから彼は、確信を持って、アメリカ政府、イギリス参謀本部、時の英国首相の見解に正面から異を唱え、「ドイツは敗北し、ソビエトが勝利する」「独ソ戦におけるヒトラーの敗北は第二次大戦の転換点となる」と断言することが出来たのである。

 第2の証言は、独ソ戦当時の駐ソアメリカ大使ディビーズのものである。彼は、1937年1月から1938年6月までソ連に滞在し、1941年夏、自身が国務省に提出した公式記録を元に『モスクワへの使命』という本を書いているが、その中で、次のように述べている。

 『(独ソ戦中の)口シアには、ドイツ軍最高司令部と協同した、いわゆる「内部からの侵略」というものがなかった。1939年のヒトラーのプラーグ(チェコの首都プラハ)入城のかげには、チェコスロバァキヤのヘンライン団体の積極的な軍事的支持があった。彼のノルウェイ侵攻の際にも同様な支持があった。しかし、ズデーテンのへンライ、スロバァキヤ のティーソ、べルギーのド・グレル、ノルウェイのクウィスリングのような者は、ロシアには見られなかった(注:彼らは皆ヒトラーに呼応して自国の内部から〝侵略行動〟を起こした裏切り者)。…物語(注:トハチェフスキーらの陰謀物語)は、1937年と1938年のいわゆる大逆公判または清党公判において明らかにされた。私は、これらの公判を傍聴したが、事件の記録、並びに当時私が書いたものを出して、再び調べてみると、今われわれが第五部隊と呼んでいるもののあらゆる計画が、みずから「ロシヤのクウィスリング」(クウィスリングはナチス・ドイツと通じていたノルウェイの裏切り者)と認めた者どもの、法廷において為さざるを得なかった自白と証言とによって、ことごとく暴露され、赤裸にされていたことに、私は気付かざるを得ない。

 当時、実に乱暴に見え、世界を愕然とさせたところのこれらの公判、清党工作、反対派の掃蕩は、今になって見れば、国内の反革命のみならず、国外からの攻撃に対して、スターリン政府の行なった徹底的な、そして断平たる防衛努力の一部であったことが明らかにわかる。

 ソビエト当局は国内のあらゆる売国的分子を徹底的に清掃し、これを社会から追放するための仕事にとりかかったのであった。疑念を持っていた者も、結局政府の措置の正しかったことを知ったのである。1941年(独ソ戦争開戦時)にロシアには第五部隊は存在しなかった。第五部隊は銃殺刑に処せられていたのである。掃蕩工作によって国内は清掃され、逆徒は除去されたのであった』と。

 (注:第五列…敵対勢力の内部に紛れ込んで諜報などの活動を行う部隊や人。スペイン内戦の際、4個部隊を率いてマドリードを攻めたフランコ派のモラ将軍が「市内にも攻囲軍に呼応する5番目の部隊がいる」と言ったことによる)

 当時、第五列問題は関係者の間で強い関心を呼んでいた。このアメリカ大使のソビエト国内の第五列問題に関する証言は、実際に清党(粛清)裁判を目撃し、傍聴したアメリカ大使の証言であり、信頼に足る重要証言であり、フルシチョフを痛撃するものとなっている。

 第3の証言は、「ゾルゲ事件」で有名なあのゾルゲの証言である。トハチェスキーの「親独傾向」については、ゾルゲもまた『ゾルゲ事件‐獄中手記』(2003年5月・岩波書店)の中で、次のように語っている。

『たしか1938年初めのことだったと思うが、トハチェフスキー将軍が排除される少し前までは、東京にいるナチ連中は、ソビエト連邦が今にも内部的に崩壊するのを心ひそかに待ち設けていたかのような口ぶりであった。そして、この事に関連してトハチェフスキーとロンドンにいた陸軍武官プトナ(注:トハチェフスキーと共に逮捕され、処刑された軍人)の名が挙げられていた。この考えは党員の間に広く行なわれていたものであるが、これを宣伝した張本人はドイツから帰ってくるナチの連中であった。私はまた彼らから、ドイツの反革命運動家連中がプトナと連絡しており、プトナはトハチェフスキーと連絡しているという話を聞いた』(1942年~43年の手記)と。

 この手記からも、ドイツ国内のナチス党・軍部の中では、トハチェフスキーらの「裏切り」「クーデター」「反乱計画」はよく知れ渡っており、彼らから大いに期待されていたことがよくわかる。

 第4の証言は、当時フランスの女性政治記者であったジェヌヴィェーヴ・タブイのものである。彼女は、その著『人は私を女予言者と呼ぶ』(1942年・CSSinNY刊) で、トハチェフスキーとの出会いについて、次のように語っている。

 『私が初めてトハチェフスキーを知ったのは、モスクワへの〝ヘリオットの旅〟の間のことである。…私のトハチェフスキーとの最後の会見は、ジョージ5世 (注:英国王で1936年1月20日没)の大葬の翌日であった。ソヴェト大使館の晩さん会ではこのロシヤの将軍はポリティス (ギリシャ公使)、ティトウレスコ、エリオー(フランス元首相)、ボンクール(フランスの元外務大臣陸軍大臣) などとしきりに会話を交えていた。... 彼はドイツ旅行から帰ったばかりで、 ナチを賛美すること実におびただしかった。彼は私の右の席についたが、列強とヒトラーの国との間の航空条約を論じ、幾度も繰り返して、「ドイツはもう天下無敵ですよ、タブイさん」といった。 何故彼はこれほど確信をもって語ったのであろうか。ドイツの外交官たちが、この古きロシア人とならば気軽に語ることができることを発見し、彼を盛んに歓迎したために、彼の頭がどうかしてしまったからであろうか。いずれにしても、あの晩、彼の熱狂的なナチ礼賛を聞いてびっくりしたのは私だけではなかった。賓客の一人であった某重要外交官は、私とともに大使館を出て帰途についたとき、私の耳に口をよせ、「まあ、ロシア人がすべてああいう感じを抱かないように、というのがわたしの願いです」と不満そうに言った。それから2年後、ソビエト政府が、ドイツによって目論まれた軍事的陰謀に関与したとして、トハチェフスキーを告発し有罪とするに至った時、私の思いはしばしば、あの晩さん会の間の彼の態度に立ち戻っていた』と。

 ある意味、「トハチェフスキーの裏切り」は、ヨーロッパの上流社会・軍人世界では、いわば「公然の秘密」であったのだ。

 第5の証言は、かつてアメリカの諜報機関の一員であったジョン・H・ウォラーの証言である。彼は、第二次世界大戦の最後の2年半を対敵諜報機関OSS](その後進がCIA)のカイロ支局に勤務。戦後は国務省に在籍し、CIA監察官となり、退職後は軍事史や諜報に関する著書の執筆にあたった人物である。彼の著書『ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争』(2005年1月・鳥影社刊)の中に次のような一文がある。

 『一九三六年二月、ツハーチェフスキー(トハチェフスキー)元帥はロンドンで行われた英国王ジョージ五世の葬儀にソ連の公式代表として参列した。これが不満分子であったツハーチェフスキーに便利な隠れ蓑を与えた。彼は葬儀参列を隠れ蓑にしてフランスやドイツに亡命した白ロシア反革命主義者と密会し、共同謀議をした。 ツハーチェフスキー元帥はロンドンからモスクワへの帰途、ベルリンに立ち寄り、現地の亡命ロシア人と秘密に会合し、謀議をこらした。亡命ロシア人のグループの中には「トラスト」 (亡命ロシア人を標的にしたソ連の秘密警察)の魔手が漫透し、秘密は完全に筒抜けであった。 特にロシア王政主義者連盟のリーダーであったが、実は秘密のNKVD(内務人民委員部)の 挑発者でもあったV・スコブリン将軍に亡命ロシア人の秘密は完全に握られていたので、謀議を図った密談の内容がドイツ共産党のブリミエルという名前のスパイの耳に入った。ブリミエルはそれを即座にベルリンのソ連大使館に伝えた』と。

 このアメリカの対敵諜報機関が掴んでいた情報内容は、フランスのジェヌヴィェーヴ・タブイ記者の証言内容と完全に一致しており、トハチェフスキーナチス・ドイツと謀議を繰り返していた事実は疑いようがないのである。

 第6の極め付きの証言は、大木氏もその訳書に「解説」を書いている、リデル・ハートの証言である。彼は元英国軍人であり、エリザベス女王から勲章を授与されたことのある、国際的に著名な軍事評論家である。膨大な調査資料を収集し、その卓越した軍事理論を駆使してまとめ上げた大著が『第二次世界大戦』(1999年8月・上村達雄訳 中央公論新社)である(リデル・ハートは1970年1月に死去し、大著は死後に公刊された)。彼は、その中で、独ソ戦スターリングラード戦におけるスターリンの勝利という歴史的事実を踏まえ、トハチェフスキー粛清と赤軍改革に関して、次のような評価を披歴している。

 『ソ連軍の改革は上層部から始まった。当初からの高級指揮官を思い切って整理し、その後釜に大部分が40歳以下の、若い世代の活動的な将軍を登用した。彼らは前任者よりもいっそう専門家であった。かくしてソ連軍統帥部は平均年齢でドイツ軍のそれよりも、20歳近くも若返り、活動性と能力の向上をもたらした。…

 ソ連軍の戦車はどこに出してもひけをとらないばかりか、多くのドイツ軍の将校にいわせれば、最高のものであった。…戦車自体の性能、耐久性、備砲では最高度な水準に達していた。ソ連軍砲兵は質的に優秀であり、またロケット砲の大規模な開発が行われ、これがきわめて有効であった。ソ連軍のライフル銃はドイツ軍のものより近代的で、発射速度も大きく、また歩兵用重火器の多くも同様に優秀だった。…

 ソ連兵は、他国の兵なら餓死するときにも生きつづけた。ソ連軍は西欧の軍隊なら餓死するはずの環境にも生存でき、他の国の軍隊なら破壊された補給が再開されるまで停止して待つはずの場合にも、彼らは前進を続行することができた。このときの印象を、ドイツ軍のマントイフェル将軍(独ソ戦開始時、第七装甲師団長)はつぎのように要約している。「ソ連陸軍の進撃ぶりは西欧軍の想像を超えたものがあった。兵士はザックをひとつ背負い、その中に前進の途中、畑や村々から集めた乾いたパンの外皮や生野菜を詰め込んでいた。馬匹は家々の屋根わらを食べさせていた。ソ連軍は前進にあたって、このような原始的な訓練によっても長期の戦闘に慣れていたのである」と』

 リデル・ハートのこの一文からも、トハチェフスキー粛清事件を通じてスターリンが遂行したソビエト赤軍内の粛清と赤軍の根本的再編成によってこそ独ソ戦における偉大な勝利が戦い取られたことが読み取れる。リデル・ハートはもちろん資本主義陣営の将軍である。だから政治的には反ソ陣営の人間である。が、それでも事実は事実としてスターリンソビエトの偉大さを認めざるを得なかったのである。

 以上6人の証言を紹介したが、ここに真実がある。「天網恢恢疎にして漏らさず」という格言があるが、やはり、心ある人は見るべき所、見るべきものをちゃんと見ており、それらが真実であるが故に重要な歴史的記録として遺され、今なお生き続けているのである。

 以上のような独ソ戦争に関する各分野の専門家、ジャーナリスト、軍人、軍事研究家の証言・言説は、スターリンが断行したソビエト赤軍幹部の粛清には十分な根拠があったこと、それによって「内部の反乱」の芽が摘み取られ、赤軍指導部の再編成が実現されたこと、これによって独ソ戦争の勝利が保証され、偉大な成果が戦い取られたこと等々を、みごとに証明し検証している。まさに「トハチェフスキー赤軍指導部の粛清」は独ソ戦争の前哨戦であり、「トハチェフスキー赤軍指導部の粛清」抜きに、独ソ戦の勝利はあり得ず、反ファシズム解放戦争の勝利もなかったのである。

 

 ところで、反スターリン派は、やれ何千人何万人もが粛清され殺されたと、好き勝手な数字を並べ立てているが、それは権力を握った裏切り者フルシチョフとその衣鉢を継いだ者たちが流した数字であって、およそ信頼できないものである。南京虐殺論争と同じで、大事なことは、その人数が問題なのではなく、「血の粛清は間違いなくあった。部分的には行き過ぎや混乱があったかもしれないが、基本的に、それは必要で、断固として遂行しなければならない階級戦争―独ソ戦争の前哨戦―であった」という事実を確認すればよいのである。

 いずれにせよ、大木氏の著作『独ソ戦』を読んでも、なぜソビエトがドイツに勝利し得たのか、その要因は何であったのか、さっぱりわからない。それは、氏の頭脳が、こうしたソビエトの内政における先進的な闘いをまったく理解できない非科学性と浅薄な反共主義に支配されているからであろう。そう推察する外ない。

 

 

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第4回)   

  2022年8月30日更新  次回更新は9月10日

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 ソビエトと東部戦線

 1939年9月半ば、ソビエト政府は、ドイツによるポーランド占領を見届けるや、直ちに独ソ不可侵条約で協定した通りに、ドイツの攻撃からソビエトを防衛すべく、ポーランド東部に進攻し、この地域を占領。さらに、9月から10月にかけて、北方バルト3国にも進出し、各国と相互援助条約を結び、また、反共反ソの王国政府の支配するルーマニアの一部を占領した。1939年10月にはフィンランドに相互援助条約締結を提案。しかしフィンランド政府はこれを頑なに拒否。ここは独ソ条約でソビエトの勢力圏であることが確認されていたが、ドイツはこの地のニッケルと木材を欲し、しきりにフィンランドへの介入を強め、反ソ反共宣伝を繰り広げていた。ドイツに先手を打たれることを恐れ、ソビエトフィンランドのカレリア地方―レニングラードに近い地域―に軍事基地を置くための土地租借を提案する。が、フィンランド政府はこれを拒否。遂にソビエトフィンランドの間に戦争―冬戦争―が勃発した。翌年3月、両国の間で講和条約が結ばれ、ソビエトはようやくカレリア地方を確保した。ソビエトにとって、北方の中枢都市でレーニンの名を冠したレニングラードの防衛は、政治的に見て極めて重要な意味を持っていた。対独戦に備え、レ二ングラードに近いこのカレリア地方を押さえておくことはぜひとも必要であった。それ故、対フィンランド外交での譲歩・妥協は絶対に許されなかったのである。スターリンソビエト政府は、独ソ戦はいずれはやって来る避けられない戦いである、との認識を片時も忘れていなかった。実力に訴えてでもカレリアの地を押さえておかねばならなかったのである。実際、ヒトラー独ソ戦が始まると「ソビエトの聖地」とも言うべきこのレニングラードを包囲し、兵糧攻めの凄まじい攻撃を加えたのである。

 更に、ソビエトは、トルコとの国境付近の軍区の強化、黒海艦隊の戦闘力増強にも力をいれ、近隣のイラン・アフガニスタンとは中立・相互不可侵条約を結び、安全保障を実現させ、将来に備えた。実際、これらの国々との安全保障の実現は、その後、独ソ戦―特にスターリングラード攻防戦―に重大な影響を及ぼした。

 すべては、対独戦に備えての措置であった。外交は内政の反映である。当時のソビエトの内政が、そうした対独戦に備えた外交、近隣外交を強く要求していた。第1次・2次5ヶ年計悪で社会主義建設の土台作りは出来たが、国内の経済力。軍事力はまだ弱く、課題が山積みであった。当時の「内政固めのための時」を必要としていたソビエトにとって、対独戦への備え―近隣外交の展開―は絶対不可欠の課題であった。こうした当時の具体的情勢と条件抜きに独ソ不可侵条約を論じたり、ソビエト外交を論じたりする結果として、「悪魔ヒトラーと手を結んだスターリンの狡猾外交」「スターリンの強権的大国的外交」などという「的外れな批判」が出て来るのである。

 この点、その著『第二次世界大戦前夜』(1969年8月・岩波新書)の中で、かならずしもスターリンに好意的ではなかった朝日新聞記者・笹本俊二(1938年5月~1948年5月までヨーロッパに滞在)が、時のスターリン外交―独ソ不可侵条約締結―について見事な分析を披歴しており、いささか驚かされる。

 『(1939年8月に締結された)独ソ協定の中身をみて目につくのは、ソビエトが自分の勢力圏として要求し、ドイツに認めさせた地域が、いずれもソビエトの防衛と密接に結びつく地域だったということである。つまり、スターリンヒトラーに東部正面を安全にしてやる代償として、ソビエトの西部正面の安全をある程度強化することができたわけである。その点は、スターリンが英仏との交渉で求めたものと符号が一致する。ソビエト軍ポーランドルーマニア通過権やバルト諸国の安全保障など、英仏が最後まで拒んだものとほぼ同じものを、スターリンヒトラーとの協定によって、手に入れることができた。この事実から判断すれば、当時スターリンにとって最大の関心事は祖国ソビエトの防衛体制を少しでも強化することにあったように見える。それには、ソビエトにとって直接のまた最大の脅威であったヒトラーが、自分の方から接近して来たこの時機は、またとない好機であったに違いない。弱みを持つヒトラーからより多くを譲歩させることができたのである』と。

 更に、モスクワでの独ソ不可侵条約調印に臨んだスターリンの人間像についても、次のように記している。

 『とにかく、〝第二のビスマルク〟になったつもりで有頂天だったリッペントロップを、スターリンは、礼儀正しく、しかし飽くまでも冷静に扱っていたようである。この時のスターリンの応対ぶりを、リッペントロップの通訳を務めたヒルガー参事官(ドイツ人官吏)は、「えらぶろうとしない、飾り気のない静かな態度。しかも、あらゆる分野で深い知識を持ち、専門的な事柄についてさえ立派な考えを持っているのに驚いた」と敬意を込めて述べている』と。

 いずれにせよ、スターリンソビエトは、独ソ不可侵条約締結によって、「ソビエトはイギリス側に立ってドイツとの戦争に巻き込まれないで済むし、またドイツの側に立って、イギリスとの戦争にも巻き込まれないで済む」(1939年8月のソビエト最高会議におけるモロトフ首相の報告)ということになり、「火中の栗を拾う」ことなく、ぜひとも必要だった息継ぎのひと時を手に入れた。スターリン外交の偉大な勝利であった。

 ここであらためて当時のソビエトの内政が如何なるものであったのかを見てみよう。

 

ソビエトの第1次・第2次5ヶ年計画

 1917年10月に歴史上初めて社会主義革命を勝利させたソビエトソ連邦)が、本格的な社会主義建設である第1次5ヶ年計画に着手するのは、革命勝利からようやく11年後の1928年10月のことである(1933年9月までの5ヶ年)。

 その間、生まれたばかりの労働者・農民の政府、ソビエト政府は、国内の反革命分子の反乱活動との戦い、その反乱軍と結びついた反共連合たる資本主義・帝国主義国連合の西から東から加えられた「武力干渉」との戦いに忙殺され、膨大な犠牲を強いられており、経済建設どころではなかった。「危険な赤色政権は芽のうちに摘み取れ!」―こうした独善的で一方的な目的を掲げ、国際資本家連合は対ロ武力干渉に乗り出したのである。だが、ソビエト政府と人民はこの干渉戦争に決して屈することなく、見事に勝利し、社会主義の祖国を守り抜いた。内戦中、威力を発揮したのは労働者・人民の「祖国のために!」という英雄的な「共産主義的土曜労働」であり、過酷な「戦時共産主義」であった。

 そして、1925年12月に開かれたボリシェビキ党第14回大会において、スターリンの「一国社会主義建設論」が圧倒的多数で支持され、トロツキーの「永続革命論」が否認され(後に国外追放)、ようやく社会主義建設スタートの内的環境が整えられた。1927年12月の第15回党大会は、農業集団化―コルホーズとソフォーズ(国営農場)建設―の推進・拡張に関する方針を決定すると共に、第1次5ヶ年計画作成の指令を打ち出した。かくして、1828年10月、第1次5ヶ年計画がスタートした(1033年9月までの5ヶ年間)。

 因みに、1925年当時のソビエトの全生産高の3分の2は農業生産であり、僅かに3分の1だけが工業生産であった。ソビエトが遅れた農業国であるという事実は歴然としていた。近代化された資本主義・帝国主義連合の、今後も予想される第2次・3次の武力干渉に抗し、祖国を防衛するためには、何としても国内経済建設、社会主義建設、特に農業の集団化を飛躍的に発展させねばならなかった。ソビエト人民はその歴史の要請に応えた。全世界の資本主義国が、1929年のニューヨーク発世界恐慌によって、壊滅的大混乱に陥っている中、第1次5ヶ年計画は素晴らしい成功と勝利を収めた。スターリンは、5ヶ年計画の期限前達成の事実を踏まえ、1933年1月に発表した『第1次5ヶ年計画の総結果』において、その勝利を宣言し、次のように報告している。

 『五ヵ年計画の基本的任務とは、わが国・ソ同盟をして…後れた、往々中世紀的な技術をもつ国から、新しい、現代的技術の軌道に移すということにあった(注:『世界大百科事典』によると、1913年のロシアでは総人口の85%を農民人口が占めていた)。農業国から…工業国に転化して、資本主義的要素を徹底的に駆逐し、社会主義的経済形態の戦線を拡大し、ソ同盟における階級を根絶させるための、社会主義社会の建設を完成させるための、経済的土台を築き上げることにあつた。…全体としての工業だけでなく、運輸交通も、農業も、社会主義の土台の上に再装備し、且つ再組織する能力を有する工業を、わが國に築き上げることにあった。…小規模な、且つ分散した農業を、大規模な集団経営の軌道に移し、それによって、農村における社会主義の経済的土台を保障し、かくしてソ同盟における資本主義復旧の可能性を絶滅させることにあった。最後に…国外からの軍事的干渉のありとあらゆる企図に対して、、決定的な反撃を組織する可能性を与える防衛力を、最大限に高めるために必要な、一切の技術的経済的前提條件を、国内に築き上げることにあった』と。

 この第1次5ヶ年計画が目指し、且つ達成したのは、第1に遅れた農業国から近代工業国への転換であり、第2に農村の社会主義化(集団化・共同化)を推し進め、小ブル的土壌を消滅させ、資本主義復旧の可能性を絶滅させることであり、第3に今後も予想される外国からの軍事的武力干渉に決定的な反撃を加えることの出来る防衛力を高めるために、あらゆる技術的経済的条件を国内に築くことであった。第1次5ヶ年計画はその目的をみごとに達成した。公式資料(日本銀行統計局『本邦主要経済統計』1965年7月)によれば、世界各国の生産高は、大恐慌の年1929年の生産高を100とした時、1933年のそれは、ソ連-201.6 アメリカ‐64.9 イギリス‐86.1 フランス‐77.4 ドイツ‐66.8 であり、ソビエト社会主義建設の成功は歴然たるものであった。

 このソビエト社会主義建設の闘いは、更に、1933年から1937年にわたる第2次5ヶ年計画へと連続的に継続されていく。この第2次5ヶ年計画によって農業の集団化・機械化が基本的に達成、完成される。かくして、ソビエトはようやく社会主義経済の確固たる土台を築き上げることに成功した。

 

 ところで、第1次・2次5ヶ年計画による国内経済の社会主義的工業化と農業集団化を押し進める過程では、スターリンボルシェヴィキ派と、トロツキー派・ジノビエフ派の反党ブロックとの間で、熾烈な階級闘争が展開された。反党ブロックは一貫して「労働者と小ブル的農民の同盟に反対」「小ブル的農民の集団化など不可能」「ヨーロッパ革命抜きにロシアの社会主義の勝利は不可能」と主張し、至る所で妨害活動、破壊活動、分裂策動を展開した。スターリンボルシェヴィキ派はこれとの闘争を徹底的に推し進め、1927年11月、ボルシェヴィキ党中央委員会は遂にこの反党ブロックを党外に追放した。勿論、国外からの破壊活動、妨害活動もあった。また、しばしば外国に滞在する大使・公使が襲撃され、暗殺された。ソビエト領土内にもぐりこんだスパイ・挑発分子は、国内の反党ブロック・腐敗分子と糾合し、至る所で生産活動破壊事件を引き起こした。あちこちで激烈な階級闘争が展開された。

 海外の亡命ロシア人は150万から200万人もおり、パリには「ロシア軍事同盟」なるものの本部が設置され、欧米・極東の各地に武装団体が組織されていた。旧帝政ロシアの大実業家たちは「トルプロム」(カルテル)を組織し、チャーチルや欧米の大富豪と共に、ソビエト国内の反革命集団を支え、ロシア軍事同盟或いはソビエトを追放されたトロツキーが創立した「第4インター」を支援し、ソビエト国内に次々と反革命分子・破壊工作員を送り込んだ。キーロフ暗殺、産業党事件(生産妨害工作事件)等々の破壊妨害事件の背後には、強力な海外・国内一体となった反革命組織の暗躍があった。

こうした問題を詳しく解明している好著として『大陰謀―対ソ秘密戦争―』(1951年・ナウカ社刊)という本がある。その内容は、「大陰謀」「対ソ秘密戦争」との題名が示す通りの、スターリンボリシェビキ党・社会主義ソビエトに敵対する国内・国外の反革命分子・反社会主義派によるスパイ活動・挑発活動・破壊活動―秘密裡に行われたソビエト政府転覆の反革命的大陰謀―を詳細に語った〝歴史ドキュメント〟である。著者は、秘密外交の研究と第五列の調査で国際的名声を博したアメリカ人作家のマイケル・セイヤーズと、アメリカ人法律家のアルバート・イー・カーンである。この著者たちは、冒頭に『「大陰謀」の中に出て来る事件や会話で著者等の作り出したものは一つもない。その資料はいろいろな文書からとったものであって、これらの文書は本文または「引用書に関する控え書」に示してある』との宣言を掲げている。実際、「控え書」には膨大な量の資料が紹介されている。この書は、「スターリン問題」を語る上で、欠くことのできない重要資料である。

 

 「世界に冠たる大英帝国」のイギリス政府もまた、ソビエト政府の5ヶ年計画発表の報に接するや、1927年5月、ソビエトとの国交断絶を声明。1932年10月には英ソ通商協定の破棄を通告した。

 資本主義国の多くの経済学者・政治学者たちも、反党ブロックと同様、「農業の集団化は無理、不可能」「失敗は不可避」との論調を繰り広げた。

 日本では、「ソビエトの5ヵ年計画」を巡る論争において、当時最も注目を集めたのは小泉信三(1888~1966年)の発言であった。氏は著名な経済学者・慶応大学教授であり、名高い反マルクス主義の闘将であった。戦後は、平成天皇の皇太子時代の教育係を務め、文化勲章を受章しており、昭和の日本を代表する一流の、最高の知識人である。

 その小泉教授も、最初は「5ヵ年計画はうまくいかないであろう」との予測であった。彼はソビエトの第14回党大会(1925年12月)の論争について、「大会で争われた重要なる問題は、労農政府対農民の問題であった。…農民は大地主の所有地に対しては社会主義者であるが、己が耕す土地に対しては私有主義者である。ここに農民の利害と共産主義者との衝突が起こる」との見解であり、「労農政府は何らかの変更・譲歩を加えるであろう」との見通しを立てていた(1926年執筆の『労農政府の新々政策とその将来』)。言うまでもなく、それはソビエト国内のトロツキー派・ジノビエフ派の反党ブロックの主張と同様のものであった。

 しかし、氏は、1933年(昭和8年)には、先の論文に付与した追記で、『本省末段における予想は1928年以後における5ヵ年計画の実施によって明らかに覆された。…しかして、この謬りが経済ではなく、政治に対する観測の困難による』と述べ、自らの見解を訂正し、新論文『ソビエト計画経済』で、率直に自らの誤りを認め、ソビエトと5ヵ年計画への評価を改めた。反マルクス主義の闘将であるその人が、5ヵ年計画の巨大な発展に驚き、その成功に目を見張り、自らの誤りを率直に認め、成功の最大の政治的要因としてスターリンの「洞察眼と実行力」を高く評価したのであった。

 更に、氏は、その後『マルクス死後五十年―マルクシズムの理論と実践―』(1933年・好学社)を著し、率直に次のように述べている。

 『ソビエト経済の発展は従来、しばしば、局外観察者の予想を驚かせた。ことに1928年以降における累次五個年計画の成績は、懐疑的批判者の意表にでるものが多かった。この点において、著者もまた対ソビエト観察において一再過ちを犯したことを自認しなければならぬ。…勿論ソビエト経済は、ソビエト当路者少数人の力によって発展して来たものではなく、当路者その人がすでに一面環境の所産であることは、これを争うべくもない。しかもそれ自身一面環境の所産に外ならぬソビエト政治家その人の洞察眼と実行力とが、最も重要な点でその発展を左右して来たことは、否定し難きところである。著者はこの予測し難きものの予測において一度ならず誤った』と。

 このように、小泉教授は自らの認識不足を謙虚に認め、特にスターリンの並々ならぬ力量、そのみごとな「洞察眼と実行力」に脱帽した。さすがに一流の人物、昭和日本を代表する最高の知識人である。

 こうした事実・批評・評言からも明らかなように、スターリンボリシェビキ党は、見事に第1次・第2次5ヶ年計画をやり遂げ、内外の政敵やブルジョア経済学者・政治学者の「不可能論」「失敗論」を完全に打ち砕いた。こうして、スターリンソビエト社会主義建設5ヵ年計画の成功と勝利は、全世界を驚かせ、歴史的な勝利を獲得したのである。

 

 再びソビエト国内に立ち戻ろう。第1次・第2次5ヶ年計画の前に立ちはだかったトロツキー派・ジノビエフ反党ブロックは党から追放された。だが、これによって党内外の抵抗勢力が全て、完全に一掃されたわけではない。思想的先進分子である党員は未だ少なく、中間層・遅れた層が大半であり、抵抗勢力は社会の至る所に潜んでいた。経済的土台構造が変わっても、思想的意識的文化的上部構造の変革が自動的に進むわけではない。党員、そして労働者・人民の思想建設には、長期に亘る実践と経験と教育の蓄積、継続が必要であった。レーニンは、1921年6月に開かれた「共産主義インタナショナル第三回大会の基調演説」において、労働者人民につぎのように呼びかけ警告している。「われわれは革命に勝利したからといってけっして安心してはならない。まだわれわれの内部、社会主義国家の内部には、旧世界の生き残り組や、旧思想を捨てきれない者たちや、旧支配層の子孫や、社会主義に移行しきれない落ちこぼれや、国外の資本主義と通ずる裏切り者たちはいくらでも存在している。彼らは常に資本主義の復活をねらっている。世界革命が終了するまでは国際資本主義の圧力と攻撃は終わらず、故にプロレタリアートとその国家と党は絶対に油断してはならず、階級闘争を忘れてはならない」と。まったくその通りであった。1950年代の裏切り者フルシチョフの出現、そして現在の「プーチン帝国」と称される帝国主義ブルジョア国家体制の出現を見よ!歴史は決して一直線に進むものではなく、曲がりくねった道を歩む。しかし、現象的には一見後退しているかに見える中にあっても、労働者階級と人民は常に多くの教訓を学びつつ、更に、前へ前へと前進し、歴史を発展させ続けるのである。

 

スタハーノフ運動と社会主義的競争 

 一連の経済建設、特に第1次・第2次5ヶ年計画の戦いの中で、スターリンは、レーニンがそうしたように、ソビエト人民に対して、繰り返し、「もっと速く!更に速く!」と呼びかけ続けていることにも注目しなければならない。「わが産業の発展速度を減少する必要についておしゃべりする連中は、社会主義の敵である!」「社会主義建設の更にボリシェビキ的速度を確保せよ!」「速度を下げてはいけない!速度を引き留めることは落伍である!我々は50年乃至100年も先進諸国から遅れている。この距離を10年間で走りぬかねばならない。これをやり遂げるか、それとも、打っ潰されるかだ!」と。

 有名な「スタハーノフ運動」は、そうした党の呼びかけに応えた、ソビエトの労働者・人民の英雄主義的生産性向上運動であり、ここに‶社会主義とは何か〟〝ソビエト人民の祖国とはいったい何か〟という問いに対する明確な答えがある。

 1935年8月、29歳のドンパス炭鉱の採炭夫スタハーノフは、党の「もっと速く!」の呼びかけに応え、一交替時間中に102トンの石炭を採掘した。それは通常の採炭量の14倍を超えるものであった。それは旧い「管理者・経営機関」の妨害との思想闘争に勝利した結果でもあった。この事実に対し、旧い慣習に染まった頑迷な「古い人間」や反共主義者は、「人間というものは、自分の利益になることでなければ絶対に能動的・積極的に働くことはない」「社会主義は競争を否定する平等主義だから、労働者は真面目に働かず、成長が望めない」「これは政府が強制・強要した結果であり、一部の熱狂的な労働者のみが行った生産性向上に過ぎない」などとケチをつけたが、資本主義的思考と私的競争至上主義(個人的自由競争思想)に毒された彼らには、「全体の利益のために、社会的利益のために、祖国のために、最大限の自己犠牲的精神を発揮して生産活動にあたる」という労働者的英雄主義が、全く理解できない。自覚した労働者は「人間は一人だけでは、生活していくことも、生きていくこともできない」「人間は社会的存在であり、社会的動物であり、共同・協力抜きには存在できない」ということをよく知っているのだ。

 勿論、社会主義社会にも競争はある。ただし、それは個人主義的競争ではなく、「祖国のため」に、お互いに切磋琢磨し合い、学び合い、教え合うという、人間的な競争である。ボリシェビキ党は、1929年4月、第1次5ヵ年計画取り組みの最中、「労働は資本主義の下では奴隷的・懲役的苦役であったが、今では労働は名誉なこと、栄誉なこと、勇敢で英雄的なことになった。今こそ労働者階級は社会主義競争を展開しよう!」と呼びかけた。その結果、第1次5ヵ年計画は予定より9ヵ月も早く達成された。第2次5ヵ年計画の闘いの中で生まれたスタハーノフ運動は、「共産主義的土曜労働」など過去の英雄的な社会主義的競争運動の延長線上で生まれた、革命的で画期的な運動であった。

 当然のことながら、このスタハーノフ運動は、ドンパス炭鉱の一職場に止まることなく、スタハーノフの後には、機械製作工業技術者のブシーギン、製靴工業技術者のスメターニン、製材工のムシンスキー等々が続々と続き、全国へと広がっていった。その中でも、特に注目される人物は、兵器に関心がある者なら誰でも知っている、あの「AK‐47」(1947年型カラシニコフ自動小銃)を完成させたカラシニコフである。

カラシニコフが発明・開発した「AK‐47」は操作が簡単で、砂漠やジャングルや極地などどんな極悪な環境でも正確に作動する銃であり、卓越した信頼性と耐久性を有する自動小銃としてつとに有名であり、「世界で最も多く使われた軍用銃」としてギネス世界記録に登録されている程の優れた銃である。

 彼の生涯ついては、エレナ・ジョリー(フランス人ライター)が聞き取りによって著した『カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男』(2008年4月・朝日新聞社)に詳しい。カラシニコフは11歳の時、家族と共にシベリア流刑にあっている。彼の家族は、1930年代の「クラーク追放闘争」の際、クラーク(富農)と認定され、シベリア送りになった。器用者だったカラシニコフは、18歳の時に登録書を偽造し、シベリアを脱出、1938年秋、西ウクライナ赤軍入隊を果たす。かねてから機械工作に情熱をもっていたカラシニコフは戦車隊に配備され、軍事テクノロジーに関するあらゆる学科を学び、そして座学と実技を通じて射撃に関する様々なことを学んだ。ちょうど、スタハーノフ運動が高揚期を迎えつつあった頃である。誰もが「祖国のために」という熱情に燃えていて、彼の才能を愛する周囲の者たちは皆、熱心に惜しむことなく彼を助けた。「第二次世界大戦中の銃器の最高傑作」と言われていた短機関銃の発明者スダレフとは、お互いに良きライバルであり、互いに刺激し合い、学び合い、技術を交換し合い、切磋琢磨し合い、強い友情で結ばれていた。戦前最後の「コンペ」(銃設計の競技会)の真っ最中、彼はそれまでのアイディアを一変させる想を得た。だが、コンペ中の「改造」はコンペ違反だった。彼はコンペ敗退を覚悟した上で、「構造を一変させた銃」を作り上げた。彼の協力者たちも寝る間も惜しんで協力してくれた。でき上がった銃は銃身が規定のものより長かった。落選を覚悟しての出品であった。最大のライバル銃はデグチャレフ将軍の製作した銃であった。会場で、二人は互いに労作を解体し、「手の内」を見せ合った。突然、将軍が「カラシニコフ軍曹のモデルの部品設計は、私のものよりずっと巧妙で、間違いなく将来性があります。私は最終審査への参加を辞退します」と宣言し、カラシニコフだけでなく、そこにいたすべての人々を驚かせ、感動させた。

 カラシニコフはその波乱に富んだ自らの人生を、こう回想している。『私はまさしく社会主義システムの申し子である。自分が働いて来たのは国のためであって、個人の財産を築くためではない…。私がこの生涯でなしてきたことは全て、ロシアのものである』と。また彼は、シベリア流刑にされた問題についても、「許し難いほど残虐だった」「まったく納得のいかないでき事だった」と批判しつつも、『私は自分の生家を襲った悲劇をスターリン個人と結び付けて考えたことはない。過ちは地方の小役人たちのせいと思っていたからだ。…スターリンを疑うなど、考えてもみなかった』と記している(注:これは党自身が認めていることであるが、1930年代の「クラーク一掃」の闘いの過程で、党の本来の指導に反した「左翼的行き過ぎ」が発生し、少なからず問題が発生したことは事実であった)。

 カラシニコフは、回想の締め括りで、率直にこう語っている。『私は、スターリンを20世紀の偉大な国家指導者のひとりであり、偉大な軍の統率者だったと思っている。戦争中、私が操縦していた戦車には、「祖国のために、スターリンのために」というスローガンが書かれていた。私たちがどれほど彼を信じていたかが分かるであろう。第20回大会でフルシチョフスターリン批判として様々な暴露話をしたのは、単に私怨を晴らそうとしたのだと思う。恐らく、スターリンに侮辱されたか、或いは、自分の前に立ちはだかって影を落とすこの「最高指導者」の偉大さや功績を貶しめたかったのかも知れない。今なお、私は、このフルシチョフの発言を喜んだのは、ごくわずかしかいなかったのではないかと思っている。…いずれにせよ、スターリンが頭の切れる卓越した人物であったことは間違いない。側近たちは口を揃えてこう証言する。スターリンは並はずれた記憶力の持ち主で、一度会っただけの人の苗字や名前も決して忘れることはなかった、と。私は、個人的にはスターリンと面識がなかった。それが残念でならない。だが、私がスターリン賞を授与される前、彼は数日間、自分の執務室にAK47を置いていたらしい』と。

 これもまた、スターリンの偉大さと、ソビエト社会主義建設とその社会主義的競争の偉大さを物語る貴重な証言である。

 

 マルクス主義は「すべて勝敗を決定づけるのは内因である」とする。一たび戦争がやってきた時、最後に勝利を決するもの、それは内因たるソビエト国内の思想的政治的結束と、それに支えられた自己の経済力・軍事力である。これは自明のことであった。ドイツのファシズム化が進み、独ソ戦が不可避であることが明らかになってくる中、ソビエトの現状及びその力量を正確に掴んでいたスターリンは、一刻も速い社会主義建設の勝利・成功、内部の敵、反共分子、スパイ・挑発者の追放・排除が不可欠であることをよく理解していた。また、革命勝利後わずか10数年、ソビエトプロレタリアート・人民の思想政治水準もまだそれほど高くはなく、思想教育、政治教育も急がれていた。時間がいくらあっても足りなかった。しかして、時は待ってはくれない。短い期間で多くの仕事を成し遂げねばならなかった。焦ったり、性急になってはならなかったが、一瞬の怠慢も許されなかったのである。

 第2次世界大戦・独ソ戦前のソビエトが当時置かれていたこうした緊張状況は、当然のことながら、スターリンボリシェビキ党に「厳しくもまた過酷な政策の実行」を要求した。歴史時代がそうした「非情で過酷な政策」の実行を彼らに要求し、彼らは、ソビエト人民はこの歴史時代の要求に応え、全力を挙げてその責任と任務を果たしたのである。すべては歴史時代の産物であって「スターリン個人の性格」などの問題では断じてない。「スターリン問題」「独ソ戦争」を語る多くの人々は、当時のスターリンソビエトを取り巻くこうした過酷な現状を全く無視し、極めて一面的な、偏狭な視野を以って問題を論じている。この悲しむべき現実に改めて注意を促しておきたい。

 もしスターリンボルシェヴィキ党が、ソビエト人民が、凄まじいばかりの英雄主義を発揮して過酷な犠牲を引き受け、断固たる闘いを以てこの国内外の敵とのし烈な階級闘争を勝利させ、第1次・第2次5ヶ年計画を勝利させていなければ、しかもその闘いを短期間で勝利させていなければ、「近代的兵器と軍事力で重武装した史上最強の軍隊」と言われたナチス・ドイツ軍に打ち勝ち、これを打ち破ることは、到底不可能であったろう。独ソ戦争を前に、この党内外・国内外の階級闘争の先頭に立って闘い、第1次・2次5ヶ年計画を立案・推進し、社会主義的競争を組織し、その任務を短期間で勝利に導いた指導者スターリンの偉大さがここにある。

 

日ソ中立条約締結

 ここで、日ソ問題について、若干触れておこう。

 独ソ戦前の激動する政局の渦中で、日本問題が登場する。「日ソ中立条約」締結である。1941年4月、独ソ戦開戦の2ヶ月前、第二次近衛内閣の外相・松岡洋右はモスクワを経由してベルリンに向かい、ヒトラー・リッペントロップと会談し、再びモスクに寄り、ここで突如「日ソ中立条約」に調印した。ドイツは、日本軍に「対ソ攻撃」を強く期待していたが、日本は南下政策の実施―英米のアジア植民地への攻撃と侵攻―をドイツ側に伝え、日ソ中立条約の締結をほのめかした。対ソ侵攻作戦を準備していたドイツは勿論反対であったが、松岡はこれを無視。松岡の関心はあげて対英米戦の成功にあった。松岡は、日独伊、そしてこれにソ連を加えた「4国同盟」を夢見、これを梃子に、対英米仏攻撃作戦たる南下政策の成功を目論んでいた(注:1939年5月、日本軍とソビエト赤軍ノモンハンで激突し、日本軍は手痛い敗北を喫し、この時点で既に北進を断念していた)。

 スターリンソビエト政府は、「日本の意図」と「南下政策の野望」を見逃さなかった。ソビエトにとって、対独戦に備えて、東方・シベリア地方の防衛強化を図ることは必須であった。そこへ松岡外交が登場したのである。渡りに舟であった。日本側にはもはや「北進」(対ソ攻撃)の意図は皆無であり、こうして独ソ戦開始の2か月前、日ソ中立条約が締結されたのである。それは不可侵条約ではなく、お互いに中立を守る(お互いに敵対国を援助しない)という程度の中立条約であった。日本に北進の意図がない以上、ソビエトはそれで十分であった。

 しかし、この時、スターリンは、わざわざモスクワ駅頭に赴き、松岡の出立を見送り、松岡を大いに褒めあげ、激励し、感激させる、という見事な外交的演出を繰り広げている。この日本との中立条約締結により、東方シベリアの安全をしっかり確保することができ、対独戦上大いに利するものがあったからである。

 1941年4月当時、東京日日・大阪毎日新聞記者として、ソビエトに滞在していた前芝確三は、その著書『蘇連記』(1942年12月・中央公論社)で、この日のモスクワ駅頭の模様を次のように伝えている。

 『4月13日5時50分、駅に着いた松岡さんが…別れの挨拶を交わしながら緑色の特別列車の前まで来た時、遥か彼方の入り口の人垣がどっと崩れて波立った。そして「スターリンスターリン!」という低い声ながら興奮にうわずった囁きが次々に伝わってくる。伸びあがって見れば、まさしく観兵式や最高会議で顔見知りのスターリン書記長だ。未だかつてどの国の高官をも駅頭に送ったことのないそのスターリン書記長が、いつものようにカーキー色の軍帽型スターリン帽、灰色の長外套に長靴という出で立ちで、白髪交じりの太い髭の下に微笑を浮かべつつ、モロトフ首・外相とともに悠々たる足取りで松岡さん、建川さん(注:当時の駐ソ大使)の方へまっすぐに進んでくる。居並ぶ列国の外交使臣はこの思い設けぬ情景にただ茫然として言葉なく互いに顔を見合わせている。…スターリン書記長は、建川さんを初め各国の大公使武官らとも握手を交わしているが、日本以外の他の国の人々に対してはまことに寡黙である。いつも距離をおいて見ていたスターリン氏の顔色はむしろ蒼黄色く見えたが、この日は両頬にポツリと赤みがさし、ちょっと垂れ下がった上瞼、目尻の小皺にむしろ柔和さがあり、その敵との苛烈な闘争歴を考えるとむしろ不思議な気さへする。片手を上げて人々に会釈を送るその態度はまことに気軽だが、さすがに一国の指導者としての貫録は堂々辺りを払う。しかも私は1メートル以内の距離に相対したが、いささかの圧迫感も感ぜず、やさしく人の心を抱きとるような不思議な魅力すら、その大きな全身から感じられた。…早耳を誇るUPのシャピロ君…その他英米系の記者諸君も、それまでほとんどたかをくくっていたため、条約の成立、あまつさへスターリン書記長の駅頭見送りというこの歴史的事実に、まさに青天の霹靂以上のうろたえようだった』と。

 あまりにも見事なスターリンの演出に、居並ぶ全ての人々が驚き、興奮している様が、まざまざと目に浮かぶではないか。松岡外相と日本政府・軍部がこの「日ソ中立条約」を忠実に守ったことは言うまでもない。

 

 

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~  (第3回) 

    2022820日更新  次回更新は830 

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅 岩波新書)批判

 

 第二次世界大戦独ソ戦の開始

 1941年6月22日未明、ヒトラーナチス・ドイツソビエトへの攻撃・侵攻が始まった。独ソ戦争の開始である。既にヒトラーはあっと言う間にフランスを降伏させ、イギリスを海峡の向こうに封じ込め、西部戦線を抑え込んでしまった。そうした状況を踏まえ、東部戦線・ソビエトへの奇襲的侵攻、即ち《バルバロッサ作戦》を開始したのである。

 ソビエトの外相モロトフは、直ちに、次のような声明を発した。「本日午前4時…ドイツはソビエト同盟の平和的態度にもかかわらず、攻撃を加えてきた。…いかなる地点においても、わが軍、或いは飛行機が、国境を侵犯したことはない。ソビエトの飛行機がルーマニアの飛行場を銃撃したという今朝のルーマニア放送はまったくのウソであり、挑発である」と。

 独ソ戦勃発当時、ナチス占領下にあったハンガリーの首都ブタペストに滞在していた朝日新聞記者・笹本俊二は、その著書『第二次世界大戦下のヨーロッパ』(1974年11月・岩波書店)において、このドイツ軍のソビエト侵攻について、「公平に検討した後」の結論として、次のように記述している。

 『最後通牒もなく、宣戦布告もない、まったくの〝やみ討ち〟だった。古来より、侵略者は〝やみ討ち〟を好む。しかし、これ程壮大な規模の〝やみ討ち〟は歴史に例がない。ドイツ軍地上兵力約150個師団、ルーマニアフィンランド同盟軍30個師団、その総兵力は500万。3300台の戦車、2500機の飛行機、大砲5万台という巨大な戦力が、バルト海から黒海を結ぶ1300キロの戦線に渡って、一斉に侵略行動を始めたのである』。そして、『いわば〝寝首をかかれた〟ソビエト軍の、緒戦における敗北は痛ましいものがあった』と。

 実際、ヒトラー・ドイツ軍は独ソ不可侵条約を一方的に破り、バルト海から黒海に至るソビエト国境の全線で、怒涛の如き侵入・進撃を開始した。最後通牒も無い、宣戦布告も無い、全くの闇討ち的奇襲攻撃であった。

その奇襲攻撃によって得られた緒戦のほんの一時の「勝利」に酔い痴れた前線のドイツ軍将兵は、「ロシアとの戦争は1カ月足らずで終わるだろう」と楽観し、ヒトラーもまた、開戦後わずか3週間目には、「陸軍兵力は大幅に削減し、軍艦建造と飛行機製作の軍需生産に力を入れ、英国場合によってはアメリカに対する戦争の完遂に当たることになろう」との〝ロシア勝利後の指令〟を出していた。

 

 この独ソ戦開始に纏わる、興味深く且つ驚くべきエピソードを一つ紹介しておこう。

そのエピソードは、第2次大戦に関する歴史記録作家で、数々のベストセラーを出したフランス人ジャーナリストのドニク・ラビエール(パリ・マッチ誌の特派員)とアメリカ人ジャーナリストのラリー・コリンズ(UPI・ニューズウィーク誌の特派員)の共著『今夜自由を』(1977年5月・早川書房)に紹介されている。

 1941年6月21日―つまり、ドイツ軍300万がソ連に侵攻し独ソ戦が開始される6月22日の前日のことである。ロンドンに近いイングランド南部の古都ケント州ウェスターハムのチャーチル邸で午餐会が持たれた。この午餐会には英国の3人の重要人物が集まっていた。一人は、この午餐会の主宰者であった67歳の首相ウィンストン・チャーチル。言わずとしれたイギリス政界の大立者である。もう一人は、この時62歳のマックス・ビーヴァブルック卿で、彼はカナダで実業家として成功して財を築き、イギリスで政治家・新聞事業者となり、今やイギリス新聞界の大御所であった。彼はチャーチル戦時内閣の軍事関連閣僚にも名を連ねていた。後の一人は、この時弱冠41歳だったルイス・マウントバッテン伯。英国貴族出身の海軍軍人で、その世界では人望のある人物であり、チャーチルのお気に入りであった。後に、東南アジア連合軍総司令官、ビルマ戦線指揮官、インド総督、イギリス軍総参謀長などを歴任する知将である。注目すべきはこのマウントバッテン伯の血縁である。彼の直系の祖先は8世紀末~9世紀初にかけてヨーロッパの統一を果たした偉大なフランク王国国王カール大帝である。また彼は英国のヴィクトリア女王のひ孫にあたり、ドイツ皇族とも血縁があった(彼の父親がドイツの皇族出身)。かつて栄光を誇ったドイツのウィルヘルム2世、ロシアのツァー・ニコライ2世は伯父にあたった。そのため以前からドイツ・ロシアの両国と交流があり、この当時にもそれぞれの国の内部にはいくつかの情報チャンネルを持っていた。そのため彼はドイツ・ソビエト、ヨーロッパのあらゆる情報に通じていた。

 ラビエールとコリンズの両記者は、この日、この三人の重要人物が語り合った談話の内容を、次のように伝えている。

 『 チャーチルはこの日、上機嫌であった。「きょうはすばらしいニュースがある」。彼は口を切った。「ヒトラーが明日早朝ロシアを攻撃するというのだ。今まで午前中ずっと、どういう情勢になるかを検討していたところだ。」

「情勢がどうなるか、申し上げましょうか」。ビーヴァブルックが話をさえぎった。「ドイツ軍はロシアに入り、手もなくロシアを捻り上げるでしょう。そしてどんなにこっびどく叩きのめすことか!1ヵ月も経たないうちに、遅くも6週間で万事終わりとなるでしょう。」

「いや」とチャーチルが制した。「アメリカはドイツのロシア征服は1ヵ月以上かかるとみている。わが参謀本部も同じ意見だ。私個人としてはロシアは少なくも3ヵ月は持ちこたえると思う。だがロシアがやっつけられた後になると、われわれはまた、背水の陣に追いこまれることになる。」

 この遣り取りの間ほとんど忘れられていた拾好のマウントバッテンと視線が合うと、チャーチルは弁解するような口調で、若い友人にこう言った。「ああ、ディッキー(注:彼の愛称)、クレタの戦闘の話をしてくれたまえ。」

「それは過去のことです」。マウントバッテンが答えた。「しかし、発言をお許し載ければ、ロシア戦線の見通しについて私は申し上げたいと存じます。」

 チャーチルはうるさそうにしたが、仕方なく承知した。

「私はマックス・ビーヴァブルック卿の意見には反対です。またアメリカやわが参謀本部の見解にも同意できません。 さらに、首相閣下、あなたとも意見を異にするものであります。ロシアが負けるとは思わないのです。それは、ヒトラーの最後で、大戦の転換点になるでしょう。」

「ではだね、ディッキー」、チャーチルが面白がって反論した。「どうして君の見方はこうも違うのかね。」

「まず、第一に、スターリンの国軍粛清によって、ナチスが利用できるような内部的対立の芽がすべて摘みとられてしまっているからです。第二に、ロシアに長く君臨した王朝の末端につらなるものとして、これを認めることは私にとってつらいことではありますが、ロシア国民はいまや防衛すべきものを持っております。今後は、ロシアは全国民が自分の国を守るために戦うでしょう。」

 チャーチルは少なくも納得したように見えなかった。「ディッキー、君のような元気な若者の意見を聞くのは気持が好いものだ。どうなるか、そのうち分ることだ。」…』と。

 その後の、第2次世界大戦と独ソ戦の歴史は、「国軍粛清を断行したスターリンソビエトは勝利する」としたマウントバッテンのこの断定の正しさを、完全に、見事に証明した。この問題については後でまた触れるが、スターリンの「国軍粛清」が独ソ戦争の前哨戦として重大な意味を持っていたことを、このエピソードは雄弁に語っている。

あらためて、歴史を大局的、俯瞰的、全体的に見つめ、その中で個々の事件を評価することの重要性を強調しておきたい。

 

 さて、その独ソ戦が始まる2年前の1939年9月1日早暁、ナチス・ドイツ軍はいっせいにポーランドに向かって進撃を開始した。西ヨーロッパを征服した上で、その後で「東へ」という、帝国主義的・ファシズム的大侵略計画の実現に向かって、その第一歩を踏み出したのである。英仏は直ちに宣戦布告。第2次世界大戦の開始である。第2次世界大戦は、その起源から見る限り、帝国主義戦争に他ならない。1929年のアメリカ発大恐慌によって疲弊した各国帝国主義・資本主義国は市場・植民地分割を巡る抗争を激化させていた。それは「世界の帝国主義者のうちでもっとも貪欲で強盗的な帝国主義」(スターリン)であるドイツ、そしてイタリア・日本の帝国主義同盟と、英仏米帝国主義連合との、新たな「市場分割」を巡る戦いであった。

 このファシズムはイタリアで生まれ、ドイツで発展、完成された。ファシズムの特徴は次の点にあった。第一に、国家権力による資本主義統制、即ち国家独占資本主義の実現。第二に、狂信的なブルジョア民族主義・右翼民族主義(ドイツの場合は反ユダヤ民族主義)、そして激しい反共主義。第三に、政治的にはテロ独裁・軍事独裁、市民的自由や議会制度などの一般民主主義の全面的否定、である。

 1933年1月に誕生したヒトラーナチス政権は、典型的なファシズム帝国主義国家であり、最も排外主義的なテロ独裁体制の国家であった。ヒトラーは、政権獲得直後、陸軍総司令官ハマーシュタインの自宅で、様々な軍管区の司令官たちと会見し、次のような演説―ファシズム宣言―を行なった。そして、ドイツの資本家たち、ヒンデンブルグ元帥とドイツ国軍幹部たちも、ヒトラーのこの演説を大いに歓迎し、ヒトラーの軍門に下った。

 この演説について、アメリカの歴史学者リチャード・ベッセルはその著『ナチスの戦争1918-1949 民族と人種の戦い』(中公新書)の中で、次のように書いている。

 『ハマーシュタインの娘が記したと思われる議事録によれば、新首相は自らの目的を明確に示している。ヒトラーは、人生は人種間の戦いであるという独自の考えから話を始めた。「個人の人生ではより強い者やより優れた者がかならず勝つが、それは民族に置き換えても同じだ」。それから…本題に移った。

 「今、ドイツ人(注:大恐慌ベルサイユ条約で疲弊した今日の惨めなドイツ民族)はどうすれば救われるか。どうすれば失業を逃れるか。…方法は二つしかない。一つ目はどんな価格でもよいから何としても輸出を増やすこと。二つ目は大規模な移住策をとることで、これはドイツ国民の生存圏の拡大を前提条件とする。私が提案するのは二番目の方法だ。…これらの計画は必要な前提条件が整って初めて実行に移すことができる。前提条件とは国の強化だ。…民主主義や平和主義などありえない。民主主義がお話にならないことは誰でも知っている。民主主義は経済においても有害だ。労使協議は兵士の協議会と同じくらい無意味だ。…政権を掌握し、徹底的に破壊分子の考えを抑圧し、道徳的規律(注:国家社会主義思想とドイツ民族主義)に沿って民衆を教育することがわれわれの仕事だ。反逆を試みるものがいれば死刑をもって冷酷に罰しなければならない。あらゆる方法でマルクス主義(注:ヒトラーはその最大の担い手こそユダヤ民族であるとしていた)を抑圧することが私の目標だ。…マルクス主義に毒された兵士の軍隊で何ができるというのだ。私はマルクス主義を完全に粉砕するのに6年~8年という期限を自分に課そう。そうすれば陸軍は活発な外交政策を指揮でき、ドイツ人の生存圏拡大という目標は戦闘によって達成できるだろう。目標はおそらく東方にある。…栄えあるドイツ陸軍には、世界大戦の英雄的な時代と同じ精神が、今日も宿っていて、陸軍は自主的にその義務を遂行することだろう。…私は国内の闘争のために自分の武器を作り上げた。陸軍があるのはただ外国との戦闘のためである」。

 その後の数年間で明らかになるナチの計画が、ここで数多く述べられている』と。

 ベッセルは、この項を、「ナチの主要な政策」は「人種戦争という総合的な目標」だった、と結論付けている。まさにその通りであり、これはもはや「世界史の常識」である。大木氏も、この点では、「世界史の常識」に従っている。

 一方、スターリンはどうか。スターリンもまたヒトラーばりの「人種戦争論」を展開しているのか。大木氏は、スターリンが「独ソ戦争」を「大祖国戦争」と命名したということだけを以って「スターリンもまたロシアの民族主義ナショナリズムを正当化し、ドイツ民族の絶滅を煽り立て、絶滅戦争の惨禍を引き起こした」と断定している。この問題については後で詳しく触れるが、あまりにもその認識が浅薄に過ぎ、驚く以上に呆れかえさせられる。

 では、こうして成立したドイツファシズム第三帝国―について、スターリンはどう語っているのか。1934年1月(第2次世界大戦勃発の5年前!)に開かれた第17回党大会の『一般報告』で、次のように述べている(なお、スターリンの発言・演説などは全て『スターリン全集』『スターリン著作集』『ソ党史』からの引用である)。

 『再び、1914年と同じように、好戦的な帝国主義の諸政党、戦争と復讐の政党が、前面に進出しつつある。事態は明らかに新しい戦争に向かっている。…好戦的なブルジョア政治家たちの間で、ファシズムが今や最新の流行になっている…。私が言っているのはファシズム一般のことだけでなく、何よりもまずドイツ型のファシズムのことである。…ドイツにおけるファシズムの勝利…それは、ブルジョアジーの弱さの兆候としても、即ちブルジョアジーが議会制度とブルジョア民主主義という古い方法では、もはや支配し得なくなり、その結果国内政治ではテロリスト的支配方法を取らざるを得なくなった兆候としても、またブルジョアジーがもはや平和的な対外政策に基づいては、現在の情勢から活路を見出し得なくなっており、その結果として彼らが戦争政策を取らざるを得なくなっている兆候としても、見なければならない。…次のように考えている者もある。―戦争は、「高等な人種」たとえばゲルマン「人種」が、「下等な人種」何よりもスラブ「人種」に対して仕掛けなければならない。このような戦争だけが、現状からの活路を見出し得る。何故なら「高等な人種」は「下等な人種」に実を結ばせ、これを支配する使命を持っているからである、と。また…戦争は、ソ同盟に対して仕掛けなければならないと考えている者もある。彼らは、ソ同盟を打ち砕き、その地域を分割し、ソ同盟を犠牲にして利益を得ようと考えている。こんな風に考えているのは日本の若干の軍閥連中だけだと考えたら、それは間違いである。ヨーロッパの幾つかの政治指導者の間にも、この様な計画が企まれていることを、我々はよく知っている。…

 諸君は思い出すであろうが、このような戦争は既に15年前にあった(注:ロシア10月革命直後の武力干渉戦争のこと)。周知のように、皆がいとも尊敬するチャーチルは、当時この戦争に詩的な表現を、即ち「14ヶ国の進軍」という名を付けた。…この戦争は、わが国のすべての勤労者を、献身的な戦士からなる、生命を投げ出して自己の祖国を外敵から防衛した戦士からなる単一の陣営に、結集させた。この戦争がどういう風に終わったか、諸君はご存じである。この戦争は、わが国から武力干渉者を追い出し、ヨーロッパに革命的な「行動委員会」(注:ヨーロッパ各国で生まれた対ロ武力干渉に反対する労働者・人民の革命的委員会)を結成することで終わった。ソ同盟に対する第二の戦争(注:これから仕掛けられようとしている新しい対ソビエト干渉戦争)が、攻撃者の完全な敗北、ヨーロッパとアジアの多くの国での革命、そしてこれらの国のブルジョア・地主政府の潰滅をもたらすことは、まずもって疑いの余地がないであろう』と。

 スターリンは、既に1934年1月のこの時点で、再び戦争に向かおうとしている国際情勢の動向、新たに出現したファシズム国家の本質、ナチス・ドイツの国家目標と対外政策について、極めて正確な見解・予測を持ち、ソビエト人民に警戒を呼びかけている。その後の国際情勢はスターリンの指摘した通りに進んでいる。なんという炯眼であろうか。

 このどこに、大木氏の言うような「ロシア的民族主義ナショナリズム―人種主義―のイデオロギー」があるというのか。その欠片も無いではないか。

 

 さて、スターリンが注意を呼びかけている、ヒトラーとドイツファシズムが持ち出した「新しい外交政策」とはいったい何か。それは、旧ドイツ帝国の宰相ベートマンによって纏め上げられた、ドイツ帝国の伝統的外交政策を継承する『九月綱領』を更に継承・発展させたものであった。その核心は「西部・中部ヨーロッパへの支配権を確保しつつ、東部ヨーロッパと東方ロシアを占領・支配する」というものであり、まさにそれはヒトラーの「人種戦争論」を具体化したものであった。

 ドイツ史の第一級の研究者フィッシャーは、その著『世界強国への道』(1972年・村瀬興雄訳・岩波書店刊)の中で、次のように指摘している。『第一次世界大戦当時のドイツの戦争目的―九月綱領―は、軍部や保守派だけによってではなしに、政党や実業界のほとんど全てのグループや、穏和で民主的な政治家、思想家によって支持されて来た。しかも、この当時の戦争目的は、その後、ワイマール共和制やナチス政権時代になっても維持され、かつ強化され、ついには(ナチスなどによる)非人間的な政策の実行にまで発展した。とにかく、1945年に至るまでのドイツ史の中では、ベートマンの「九月綱領」が…大きな役割を演じ続けてきたのである』と。

 まさに核心をついた指摘である。実際、ヒトラーは、『九月綱領』を引き継いだ『東方占領地総計画』なるものをまとめ上げている。フィッシャーによると、その基本的中身は次のようなものであった。

 ①東方の500万~600万のユダヤ人の絶滅。

 ②ポーランド民族(スラブ系民族)はドイツにとって極めて危険。住人の80~      

 85%(1600万~2040万人)を西シベリアに追放。

 ③ソ連ウクライナ―東ウクライナ―のスラブ人は危険であり、全てシベリアに追 

 放。西ウクライナ人は北方人種的要素が強いので35%だけ残し、ドイツ人の手でこれ

 を酷使または同化する(65%はシベリアに追放)。

 ④白ロシア民族は75%をシベリアに送り、後は酷使・同化。

 ⑤チェコ人は比較的ドイツ人に近いので50%は残し、後はシベリアへ追放。但し知識

 人はドイツ憎悪が激しいので全員追放。

 ⑥こうして追放した後には25年かけておよそ455万人のドイツ人を移住させる。

 ⑦各地に「基地」を創設し、ここに強大な兵力を蓄えて置き、反抗の気配があれば直 

 ちに鎮圧する。原住民は不衛生な村落に隔離して住まわせ、死亡率を高め、人口減少 

 を図る、等々。

 なんという「計画」であろうか!ヒトラーの戦争目的の核心はここにあった。まさに「東方・ロシアの地にゲルマン民族の生存圏を獲得すること」を至上命題とし、武力によって「スラブ民族ユダヤ民族の追放・絶滅を目指すこと」にあったのである。ヒトラーにとって、戦争以外に問題を解決する道はないことは、もはや自明のことであった。

 『ナチズム』(中公新書・1968年刊)の著者でもある村瀬興雄は、著書の中で、『もしも、ドイツ軍が長期間にわたって全ロシアを占領していたら、大ロシア人に対するナチスの暴虐行為はまことに言語に絶したものがあったに違いない。あらゆる資料は、「大ロシア人に対する途方もない虐殺と殺人の実施を予測させている」と述べているが、この予測はけっして根拠のないものではなかった。第二次世界大戦における、ヒトラーとドイツファシズムによる悲惨な「ホロコースト」と、苛酷を極めた「ソビエト侵攻」という歴史的事実がそれを証明している。そして、「ホロコースト」が抵抗なき民への一方的迫害であったのに対し、他方の「ドイツのソビエト侵攻」(独ソ戦争)は国家と国家の正面衝突であり、死活をかけた激烈な戦闘を要するものであったが故に、ヒトラーにとって、独ソ戦争はドイツ民族・第三帝国の命運を掛けた、歴史的戦闘に他ならなかったのである』と語っている。

 もっとも、こうした「計画」のバックボーンをなす根本思想については、ヒトラーは既に『我が闘争』の中で明瞭に語っている。1933年に国家権力を握ったヒトラーナチスが自らの国家目標を追求し、実現させていくために最初に行った政治行動は、同年2月の「国会放火事件」と「有事立法」による共産党・左翼・労働運動への大弾圧・大虐殺であり、その後の容赦なきユダヤ人迫害であり、密かに進められた再軍備強化であり、結局は「ロシア占領」を目指したものであった、。

 1929年秋に始まったニューヨーク発世界恐慌の勃発は世界経済と資本主義世界を根底から揺り動かし、やがて恐慌は慢性化し、1930年代に入るや、それぞれの帝国主義国は自らの生き残りをかけて軍事拡大競争に走りだした。第1次世界大戦で敗れ、過酷な「ベルサイユ体制」を強要されたドイツ―ヒトラーナチス―もまた、ファシズム国家たる日本・イタリアと同盟し、生き残りを懸け、新しい大戦へと突入していった。レーニンの「帝国主義戦争は不可避である」との予言はまさしく現実となった。

 しかして、この第2次世界大戦は、先に記したように、1941年6月にドイツがソビエトに侵攻、独ソ戦争が開始されたことにより、「独日伊ファシズム同盟」対「ソ米英仏を中心とする反ファシズム連合」との戦いとなり、第2次世界大戦は反ファシズム解放戦争へと質的転換を遂げるのである。

 

英仏の対独宣戦布告と欧州情勢 

 1939年9月1日、ナチス・ドイツポーランドに侵攻を開始。9月3日、英仏は直ちに対独宣戦布告を宣言した。ドイツのポーランド侵攻、それは「ことあらばポーランド防衛に立ち上がる」と約束していた英仏に対する挑戦であった。既に独ソ間には不可侵条約が締結されていて、ドイツの目は「西へ」と向けられており、英仏はもはやドイツに宣戦布告する以外に選択の余地はなかった。と言うのも、スターリンは、1938年9月のミュンヘン会談を通じて、英仏政府の「ヒトラーの目を東へ向けさせ、ドイツとソビエトを戦わせる」という彼らの卑劣な目論見を見抜き、英仏とドイツの間の対立を巧みに利用し、1939年8月に独ソ不可侵条約を締結、逆にヒトラー・ドイツ軍の矛先を西へ―英仏―へと向けさせた。英仏政府の危険な企みは封殺され、英仏はドイツと戦う以外の道を選べなくさせられていたのである。

 ドイツ軍は、最新鋭爆撃機と大量の戦車部隊を出動させ、いわゆる「電撃戦」によって、たった1週間で、ポーランド軍の主力を潰滅させた。ポーランド軍約200万の部隊は、あっという間に大混乱に陥り、崩壊した。「英仏の牽制」に全てを託すという「他人頼み」のポーランド軍が、ち密な侵略計画―世界征服計画―を準備し、満を持してこの日を迎えたヒトラーナチス軍の敵たり得なかったのは当然である。ドイツ軍の空襲に晒されたポーランド政府から、英仏両政府に対して「ドイツの飛行場を爆撃してくれ!」との火急の訴えがあったが、両政府ともまったく耳を貸そうとはしなかった。まさに文字通りの〝見殺し〟であった。

 ヒトラーは、「ミュンヘン会談」で、既に英仏には戦う気が全くないことを見ぬいていた。英首相チェンバレンと仏首相ダラディエは、妥協と宥和による「平和」を求め、ナチス・ドイツの要求するチェコ分割・割譲を容認してしまっていた。この英仏の弱腰を見たヒトラーは密かに「英仏攻略」の決意を固め、その上で独ソ不可侵条約締結を決断したのである。

 ただ、これは単にチェンバレン個人が腰抜けであったというような問題ではない。イギリスは、かつては〝七つの海を支配する〟一大強国であり、紛れもなく、七つの海に〝ユニオン・ジャックの旗〟を翻す、世界に冠たる大帝国であった。しかし、このパワーポリティックスの本家本元であるはずのイギリスは、その〝パワー〟を遂に発揮することができないほどに衰えていた。一口で言えば、大英帝国は、第1次世界大戦で勝ったはずであったのに、その実体は、既に〝黄昏と衰亡の季節〟に入っていたのである。第2次世界大戦を迎えた時、大英帝国の内実は〝落日前の太陽〟であり、〝最後の輝き〟を待つばかりの哀れな存在でしかなかった。かろうじて、この大英帝国の「栄光」を背後から支えていたのは、日の出の勢いの新興大アメリカだった。

 フランスはどうか。ドイツの憎悪の的となっていた悪名高き「ベルサイユ条約」の当事者、フランス。そのフランス帝国第三共和政―もまた、決して安泰ではなかった。第1次世界大戦の莫大な犠牲、悲惨な戦争体験がフランスに根強い「平和願望」をもたらし、フランス軍部に極端な「防御的軍事方針」を取らせることになった。フランスの対独軍事方針、それは仏独国境に築かれた要塞「マジノ線」に象徴されるような、要塞に立て籠もって敵と対峙し、同盟軍の支援を得て戦い、敵が疲弊して敗北するのを待つ、という、完全に防御中心の受身的軍事方針で、到底ドイツとの近代戦に耐えうるものではなかった。更にまた、伝統的な多党政治を専らとしたフランス第三共和政は、第1次大戦後も小党乱立状態が続き、内閣の平均寿命はわずか半年、政治不安が常態化していた。1929年の大恐慌の影響が農業に及ぶや、「農業大国」でもあったフランスは忽ち大混乱に陥り、「過去の栄光」と「古き良き時代」をひたすら懐かしむ退嬰ムードに支配された〝落日の大国〟と化していた。

 更に、英仏両国の関係もまた決して強固なものではなかった。イギリスは自らのヘゲモニーを維持するために、昔から、大陸勢力図においてフランスが強くなりすぎることを警戒して来た。それ故、1935年5月に仏ソ相互援助条約が結ばれると、それに対抗すべく、同年6月に英独海軍協定を結び、ドイツの再軍備を公認して大陸の勢力均衡を図る、という破廉恥な外交を展開していた。

 1940年5月10日、ポーランド侵攻・征服に勝利したヒトラー・ドイツ軍は満を持して西部戦線における大攻勢を開始する。この日、イギリスでは宥和主義のチェンバレン内閣が総辞職し、チャーチルを首班とする戦時内閣が発足した。軍人首相を自任していたチャーチルは、自ら国防相に就任し、三軍の指揮権を握った。チャーチルは名うての反共主義者ではあったが、ミュンヘン会談におけるチェンバレンの〝ヒトラーへの妥協〟を厳しく批判し、ナチス・ドイツを倒すためには「英仏同盟、更には英ソ同盟も…」と考え始めていた。チャーチルはそれなりに「英国と英国軍の力量」を正確に掴んでいたのである。

 5月10日、ドイツ軍は全速力でオランダ・ベルギー・ルクセンブルグへ向かう。5月14日、たちまちオランダが降伏。他方、ドイツ軍主力部隊は、フランス国境を超え、北フランスの森や平原を西に向かって突進し、マジノ線の西を抜け(マジノ線は財政困難で西左端が中途で切れていた)、そこから南下し、突破不能と見られていたアルデンヌの深い森を破竹の勢いで駆け抜け、パリに迫った。

 恐るべきはドイツ軍の電撃作戦―空爆と戦車を動員した破壊力と奇襲・スピードに富んだ進攻作戦―であった。それはまったく英仏軍の「予想外」のものであった、このドイツ主力軍によるアルデンヌの森突破により、フランスが頼みとした東西800キロに延びる防衛線は完全に分断され、頼みの「マジノ線」は無用の長物と化してしまった。

 5月28日、ベルギーがドイツに降伏し、遂に大西洋へと通じる道が開かれた。ドイツ軍は攻撃開始からたった2週間で大西洋に到達してしまった。その結果、ベルギー国境付近にいたフランスとイギリスの連合部隊は完全に分断され、バラバラにされてしまった。つまり、緒戦の10数日で大勢が決してしまった。ドイツ軍はまさに破竹の勢いであった。1940年6月14日、ドイツ軍がベルギーへの侵攻を開始した5月10日から僅か1ヵ月後のこの日、ドイツ軍はパリに無血入城を果たす。フランス国民会議は、「秩序安寧」を求め、休戦派の老英雄ペタン元帥を担いで休戦協定に調印。更に彼を、対独協力を担う「ヴィシー政権」の頭に就けた。ドイツはフランス国土のおよそ5分の3を占領した。ヒトラーはものの見事にフランス占領をやり遂げた。しかも、それに払った犠牲は実に微々たるものであった。この勝利は、何よりもドイツ軍内におけるヒトラーの威信を決定的に高めた。もはやヒトラーに正面切って楯突く将軍は一人もいなくなった。

 イタリアのムッソリーニは、1940年6月10日、パリ陥落を目の当たりにし、慌てて英仏への宣戦布告を果たし、フランスへの侵攻を開始した。結局のところ、ムッソリーニのイタリアはあくまでも脇役でしかなかった。

 1940年夏、ヒトラーの英本土大空襲が始まった。英本土への上陸を果たすためには、海峡の制海権・制空権を握ることがぜひとも必要であった。まずは英空軍の飛行基地へ、そして次には首都ロンドンに対する爆撃を繰り返した。しかし、この攻撃は英空軍とロンドン市民の不屈の抵抗の前に、失敗に終わった。

 1940年秋、イギリス攻撃が行き詰りつつある中、ヒトラーはいよいよ次なる決断を下す。ヒトラーにとって、これ以上イギリスに関わり続けることに何の意味もなかった。ドイツにとって、ヒトラーにとって、この戦争の最大の目的は、最初から「東方へ、東方におけるドイツ生存圏の獲得」であった。イギリスに関して言えば、海の向こうに封じ込め、大陸に渡って来ないようにしておけば十分であった。そこで、ヒトラーは密かに、ハルダー参謀総長らドイツ陸軍首脳に、対ソ侵攻作戦の検討を命じた。かくして、1940年12月、対ソ侵攻計画たる《バルバロッサ計画》がヒトラーに提出された。その骨格は、「1941年5月15日までに攻撃準備を完了させ、遅くとも5ヵ月で、ロシアの冬が始まる前に戦闘を終結させる」というものであった。

 

 独ソ開戦の日、かつてはコチコチの反共主義者で、1940年5月に成立したイギリス挙国連合内閣の首相となったチャーチルは、独ソ開戦の報に接するや、「これでイギリスは敗北せずにすむ」と安堵しつつ、「ヒトラーと共に歩む者は、人も国もわれわれの敵である。…ヒトラーソビエト攻撃によって、偉大な民主主義国家が攻撃から少しでも逃れうると想像するならば、とんでもない間違いである。わが家の炉のために戦うロシア人の立場は、あらゆる自由人、自由国民の立場と同じである。ロシアの危険は我々の危険である」と声明した。アメリカのルーズベルトもまた、これに同調した。英首相チャーチル米大統領ルーズベルトも、ドイツを先頭とするファシズム勢力に対抗・勝利するためには、スターリン社会主義ソビエトと手を組み、その力に頼る以外にないことを悟っていた。リベラリストだったルーズベルトはさて於いて、チャーチルは自らの反共主義を抑制し、スターリンソビエトを主力とする反独・反ファシズム解放連合に参画していったのである。

 ところで、この時期、ソビエトと東部戦線はどうであったのか。特に大木氏はソビエトの内政についてほとんど語っていないので、少し詳しく見ておこう。

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第2回)

      (第2回) 2022810日更新  次回更新は820

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 

 

 

 はじめに・その2

  なお、この論文では、岩波新書独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅著 2019年7月発行)を、「批判の俎上」に載せていることを、予め断っておきたい。

 その新書の著作者である大木毅(おおきたけし)氏は、1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史).。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、現在は著述業。主な著書―『「砂漠の狐ロンメル』(角川新書 2019)。『ドイツ軍事史』(作品社2016)ほか。 訳書一エヴァンズ『第二帝国の歴史』(監修、白水社 2018)、ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社 2018)、フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳、中央公論新社 2003) ほか、がある。

 大木氏の経歴で、特に注目されるのは「防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師」を務めていることである。実際、彼のこの著作『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』を貫いているのは、客観的に見て、それは紛れもなく「反共的」なイデオロギーであり、私のマルクス主義的哲学・イデオロギーとは完全に対蹠的である。

 大木氏は、「はじめに 現代の野蛮」の中で、「独ソ戦」の核心は次の点にある、と明確に断定している。

 『この戦争は、あらゆる面で空前、おそらくは絶後であり、まさに2次世界大戦の核心、主戦場であったといってよかろう。…しかし、独ソ戦を歴史的にきわだたせているのは、そのスケールの大きさだけではない。独ソともに、互いを妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツソ連のあいだでは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行がいくども繰り返されたのである』と。

 大木氏の歴史観によると、独ソ戦は「ドイツ民族とロシア民族(ソビエト内の諸民族)が互いにそのイデオロギーに基づいて、それぞれの民族の絶滅を目指して、残酷な闘争と蛮行を繰り返し、未曾有の惨禍をもたらした、まったく無意味な戦争であった」ということになる。

 これに対し、私のマルクス主義歴史観によれば、「独ソ戦」の核心は次の点にある。

 「第2次世界大戦は、自国の民主主義を徹底的に破壊し、テロ独裁を打ち立て、ファシズムによる世界支配を公然と声明して侵略行動に乗り出したナチス・ドイツ、日本軍国主義ムッソリーニ・イタリアの三国同盟に対する英仏米連合との戦いという、帝国主義戦争として始まったが、イギリス・フランス・アメリカなどからなる連合にソビエトが参加することによって、この戦争全体の性格は反ファシズム解放戦争となった。そして激戦を極めた独ソ戦―特にスターリングラードの攻防戦―におけるソビエトの勝利は反ファシズム解放戦争たる第2次世界大戦全体の勝利を決定づけた。スターリン社会主義ソビエトこそ、全世界をファシズム支配の惨禍から解放した最大の功労者である」と。

 私は、この著作を通じて、大木氏のその歴史観独ソ戦争観が如何に間違ったものであるかを徹底的に明らかにしたい。そこに本書執筆の目的がある。 

私がぜひともそうする必要があると考えた理由として、大木氏のこの著書が、私が尊敬している同郷人岩波茂雄が創立した〝天下の岩波書店〟から「岩波新書」として刊行されている、ということもある。そもそも「岩波新書」発刊の目的、意義とは何か。岩波書店は、2006年4月出版の新書の末尾に、「岩波新書新赤版一〇〇〇点に際して」と題して格調高い一文を掲げ、その決意を次のように述べている。

 『…岩波新書は、日中戦争下の一九二八年一一月に赤版として創刊された。創刊の辞は、道義の精神に則らない日本の行動を憂慮し、批判的精神と良心的行動の欠如を戒めつつ、現代人の現代的教養を刊行の目的とする、と謳っている。以後、青版、黄版、 新赤版と装いを改めながら、合計五〇〇点余りを世に問うてきた。そして、いままた新赤版が一〇〇〇点を迎えたのを機に、人間の理性と良心への信頼を再確認し、それに裏打ちされた文化を培っていく決意を込めて、新しい装丁のもとに再出発したいと思う。一冊一冊から吹き出す新風が一人でも多くの読者の許に届くこと、そして希望ある時代への想像力を豊かにかき立てることを切に願う』と。

 果たして、この大木氏の著作は、新書刊行の目的たる「道義の精神に則らない日本の行動を憂慮し、批判的精神と良心的行動の欠如を戒め」るものとなっているのか。「人間の理性と良心への信頼を再確認し、それに裏打ちされた文化を培っていく」だけのものとなっているのか、甚だ疑問である。それ故、ここに新たに「独ソ戦の真実」を明らかにする一書を上梓せんと決意した次第である。

 

 はじめに・その3

 本書では、独ソ戦における両軍の戦略戦術について論ずる場合、独ソ戦に関する客観的な軍事的研究書として最も名高い著書、リデル・ハートの『第二次世界大戦』(1999年7月 中央公論新社刊)を取り上げている。なお、この大木氏はこの書の「まえがき―復刻にあたって」と「解説」を書いており、当然大木氏自身もその内容をよく知っている書である。
 リデル・ハートは1895年にパリに生まれ、1970年1月イギリスで没している。彼の死後、夫人らの手によって大著『第二次世界大戦』(日本語版上下二巻)が発刊された。リデル・ハートケンブリッジ大学に学び、第一次世界大戦には英軍の将校として従軍、重傷を負い、以後軍事科学の研究に没頭、軍事科学に関する多くの著作を発表した。彼の軍事問題に関する科学研究はヨーロッパ各国で高く評価され、その功績によりイギリス女王から「ナイト」の位を授けられている。
リデル・ハートは、独ソ戦をあくまでも戦略的観点から俯瞰的に観察し、客観的に評価している。筆者はこの点を何よりも高く評価し、彼の著作を参考文献・参考資料として取り上げさせて貰った。

 

 また、本書でぜひ取り上げ、詳しく紹介したい「独ソ戦」に関する貴重な文献がある。それは、群像社刊『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著・三浦みどり訳 2008年7月発行)である。彼女は2015年ノーベル文学賞を受賞している。

 【注:なお現在、この『戦争は女の顔をしていない』は、残念ながら、最初にこの本を出版した群像社からは出版されていない。群像社(設立者・島田進矢氏)の公式サイト発表によると、2015年10月に群像社は、アレクシェーヴィチさんのノーベル賞受賞を受け、注文が殺到したため、1000冊の増刷を予定していた。だが、著者の著作権を管理する代理人から「権利消失のため出版できない」と通告された、という。その後―アレクシェーヴィチさんのノーベル賞受賞後―に、岩波書店が翻訳権を獲得し、2016年に岩波現代文庫から刊行された。なお、群像社の厚意により岩波版でも三浦みどりさん(2012年12月死去)の翻訳文が使われている】

 アレクシェーヴィチさんは戦後の1948年5月にウクライナソビエト社会主義国に生まれた。彼女の母方のウクライナ人の祖父は独ソ戦争で戦死し、ハンガリーのどこかに葬られているという。ベラルーシ人の祖母、つまりアレクシェーヴィチさんの父親の母親はパルチザン活動に加わり、チフスで亡くなった。このパルチザンに加わった母親の3人の息子の内2人は戦争が始まったばかりの数ヶ月で行方不明になり、3人兄弟のうち一人だけが生きて戻って来た。それが彼女の父親である。こうした出自から、彼女は子供の時から死のことを考えないではいられなかったという。彼女は、ベラルーシ大学でジャーナリズムを専攻し、卒業後にジャーナリストとなった。

 三浦みどりさんは「訳者あとがき」で、この作品について、次のように語っている。

 「アレクシェーヴィチさんのこの本は彼女の作家活動の出発点だ。取材を始めたのは一九七八年とあるが、戦争物は男が書くことになっていた時代に雑誌記者だった二十歳代のスヴェトラーナがそれまでまったく触れられたことのなかった従軍女性の記録を発表するのは相当の困難があり、完成後二年間は出版できなかった。当時既に作家としての権威があったベラルーシのドキュメンタリー作家アレーシ・アダモヴィッチ…の後押しがあっても一部の発表しか許されなかった。ソ連では第二次世界大戦で百万人を超える女性が従軍し、パルチザン部隊や非合法の抵抗運動に参加していた女性たちもそれに劣らぬ働きをした。英雄としてでなく生身の人間としての彼女たちに初めて光をあてたこの作品を紹介して、作家アダモーヴィチはこう書いている。『この本には勝利のために国民が払った犠牲が、従軍少女たち、娘や姉妹、母親 たちが流した血や涙が書かれている。この本ができるには登場人物たちの娘にあたるほどの年若い作家の誠実な努力があった。五百人を越える一人一人の聞き書きというこのスヴェトラーナの書き方は妥協を許さないものだが、他人の痛みに対して人間の心を塞いでいる邪魔物を突き破るにはこれが必要だった。この本は問違いなく大好評となるだろう。従軍した女性たち、パルチザンの女性たちから何千という手紙が送られてくるだろう。あと五年はこの本と切れることはできないだろうが、スヴェトラーナが他人の痛みを、現実の重みを、その心で受け止めて、耐え抜いてくれることを祈りたい。…戦争は女の顔をしていない。しかし、この戦争で我々の母親たちの顔ほど厳しく、すさまじく、また美しい顔として記憶された物はなかった』…」と。

 まさに、ドキュメンタリー作家アダモヴィッチが書いているように、この作品の最大の特徴は『この戦争で我々の母親たちの顔ほど厳しく、すさまじく、また美しい顔として記憶された物はなかった』という点にある。この作品―独ソ戦争に従軍、参戦した女性たちの細部に亘る生々しい証言―は、まさに独ソ戦争の本質とは何であったのかを物語る貴重な資料であり、ここに書き記されている彼女たちの証言は紛れもなく「ダイヤモンドの原石」である。「原石」というのは、この作品には部分的にいくつかの問題点も記されていて、それが真実・真相を曇らせるものとなっているからである。

 三浦みどりさんは「訳者あとがき」で次のような事実に触れている。

 第1点は、『ソ連の従軍女性たちは十五歳から十歳で出征していった人たちで、他国のように看護婦や軍医というだけでなく、実際に人を殺す兵員でもあった。ところが戦争で男以上の苦しみを体験した彼女たちを、次の戦いが待ち受けていた。従軍手帳を隠し、支援を受けるに必要な戦傷の記録を捨てて、戦争経験をひた隠しにしなければならなかったのだ。「戦地に行って男の中で何をしてきたやら」と戦地経験のない女性たちからは侮辱され、男たちも軍隊での同僚だった女性たちを守らなかった。取材される女性たちもあの地獄を体験しなおしたくないと語りたがらない、取材を断ってきたひとも多い。元パルチザンの女性は、隊長が家族を見殺しにせざるを得なかったあと、不思議な死に方をしたことを語り、「死人は語れない、語ることができたら、わたしたちは生きていられないだろう」と黙り込む』との事実である。

 第2点は、『そういう(最初は何も語らなかった)女性たちが、戦友たちを紹介し、アレクシェーヴィチさんの取材は終わることがなく、二〇〇四年の最終稿ではペレストロイカ直後ではまだまだ語れなかったことが加わっている。新しく付け加わったのは、仲間を殺さなければならなかったときのこと、ソ連軍の男たちがドイツの女性に何をしたか、そして、戦争が終わるとただちに占領地で暮らしていた捕虜であったという経歴のせいで国賊扱いされ極北の地に流刑にされたことなど。「今は何でも話せる世の中になった。どうして戦争が始まる前に軍の幹部を抹殺したの? 我が国の国境はしっかり守られていると国民に請け合ったのは誰? 弾丸は最初から足りなかった。今はもう訊いてもいい。でも、やはり怖いから黙っている」。相変わらず恐怖の陰は残している』といった事実である。

 いずれにせよ、『戦争は女の顔をしていない』の中で女性たちが語っている証言は、戦場の体験の「細部の事実」を隈なく描き出しており、基本的には、それは「独ソ戦の真実」を語るものとなっている。しかし、原石は磨かれてこそ、宝石ダイヤモンドとして限りなく美しく光り輝く。原石は磨かれることによって、汚れた付着物が洗い流され、洗い落とされ、初めて本来のその美しい輝きを浮かび上がらせるのである。『戦争は女の顔をしていない』の中の証言の数々はまさに原石そのものであり、それはぜひとも磨きを掛けねばならないものである。

 それ故、細部に亘る事実の積み重ねとしてのこうした証言集を読む時、私達は特に次の点に留意しなければならない。

 第1、すべての証言の根底に流れる共通の認識、即ち本質を、全力を挙げて捉えること。そうすればこの悲痛に満ちた女性たちの証言の底に流れる通底音、それが「祖国防衛のために私たちは皆戦場に赴くことを切望した。そして独ソ戦の戦地・戦場に立ち、愛する祖国、社会主義ソビエトのために、命がけで戦ったことを人生最大の誇りにしている」ということが容易に分かるはずである。アダモヴィッチの評価『戦争は女の顔をしていない。しかし、この戦争で我々の母親たちの顔ほど厳しく、すさまじく、また美しい顔として記憶された物はなかった』はまったく正しいものである。

 第2、ここに紹介されている証言・事実の本質を正確に捉え、深く理解せんとするなら、ロシア革命の歴史について、史上初めてのレーニンスターリンによる社会主義建設40年の歴史について、或いはナチス・ドイツ社会主義ソビエトとの対戦史について、反ファシズム解放戦争としての第2次世界大戦について、その大局的・俯瞰的・総体的理解を深めなければならない。俯瞰的視点(大局的観点)が無ければ、細部の本質、真実を見通すことはできない。「木を見て森をみず」という格言がある。細部のみを見て全体・全局を見ることをしないなら、その人は森の中で迷子になってしまい、目的地に到達することができない。作者も訳者も「戦争前に軍の幹部を粛清し、軍の力を弱めるようなことをなぜ行ったのか?」というような疑問を幾つか提起しているが、こうした問題は、フルシチョフによる「スターリン批判」の影響的産物であり、大局的観点、哲学科学的認識抜きには絶対に解明できない問題なのである。

 第3、どんな問題もその時代状況と力関係の産物であり、歴史の発展段階と発展水準、力関係の水準を超えた問題解決はありえない。このことを踏まえて事実を観察し、評価しなければならない。例えば、戦後、従軍女性たちは戦場の体験を誇り、語ることを許されず、「女のくせに…」「女だてらに…」と陰口され、沈黙を強制された。戦地では身を以て庇ってくれた男たちも、普通の生活に戻るや、一般の男に逆戻りし、女性たちを置き去りにしてしまった。まさに「男社会」そのものである。しかし、それが当時の社会主義ソビエトの歴史的到達水準であったのだ。土台における階級制度が改善されても、自動的に直ぐに上部構造の様々な思想認識・社会的意識が変化、改善されるわけではない。マルクスエンゲルスレーニンが語っているように、何千年も続いた階級社会が生み、育てて来た旧い思想認識・旧い社会認識が克服されるには長い長い時間と経験と教育が必要なのである。

 大木氏もこの著書の「文献解題」の中で、アレクシェーヴィチさんのこの著作に触れており、どうやら執筆前に読んでいるようだが、どこまで正当に評価し得ているか、甚だ疑問である。

 後で詳しく触れるが、大木氏は、私が提起した3つの観点、独ソ戦・第2次世界大戦を大局的・俯瞰的に見るとの視点をまったく欠いている。また、「社会主義国としての祖国ソビエト」についても、まったく理解していない、理解し得ないでいる。「スターリン批判」を繰り返しながら、当事者たるスターリンの発言をまともに取り上げて論じた箇所がまったくと言ってよいほど見られないのも、大きな欠陥である。これでは「独ソ戦の真実」など語ることなどできるはずがない。

 大木氏は、独ソ戦と第2次世界大戦の全体像についてほとんど触れることなく、いきなり、アプリオリに、前提抜きの先験によって、「独ソともに、互いを妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために残酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある」と断定し、当該書の執筆を始めている。始めから終わりまで、ドイツ側からの分析が大半を占め、ソビエト側からの分析は極めて少ない。特に当事者たるスターリンの報告・演説についてはほとんど触れられていない。  

 そこで、本書では、独ソ戦と第2次世界大戦の全体像を明らかにしながら論考を進めていくことにする。