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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第6回) 1960年代の大学・東京・日本

『[君たちはどう生きるか]』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート


 私は、中学高校時代を通じて、主として『路傍の石』『君たちはどう生きるか』から、次に『岩波茂雄伝』から実に多くの影響を受けた。その根底には、常に「如何に生きるべきか」という哲学的テーマがあったことは確かなことだ。
この3冊は少なくとも高校卒業まではずっと私の本棚にあった。大学進学で上京した時もおそらく携えていったはずである。しかし、『路傍の石』以外の2冊は、いつの間にか行方不明になり、『路傍の石』一冊だけが今日に至るまで、私の手許に残った。理由ははっきりしている。『路傍の石』の主人公愛川吾一の境遇―貧困家庭の育ちという境遇―が自分のそれと同じであり、自分の人生と重ね合わせて読んでいたからである。確かに、「コペル君」も母子家庭・片親家庭の子ではあったが、彼の家は裕福であり、インテリ家庭であり、私の現実とはかけ離れていて、主人公にそれ程感情移入できなかったのである。いずれにせよ、その後の人生を振り返ってみる時、私はこの3冊の作品から実に多くの影響を受けていることに驚かされる。
 さて、私は、1964年の東京オリンピック開催の年に上京し、早稲田で大学生活を始めた。部屋は大学近くの小さな民間の下宿屋の2階、同宿人は学生6人で、あたかも合宿所のような雰囲気であった。私の入学当初の意気込みがどんなものであったかは、国文科Bクラス(A・B2クラス制)が入学時に発行したガリ版刷の文集『塔影』(夏休み前に発行された創刊号)に記されている。それにはクラスメンバー(男22人・女21人)のそれぞれの「抱負」が記されており、私は「僕は大学生活に何を求めるか」と題し、次のように書いている。
『…?振幅の大きい生活?を送りたい。出来る限りの経験をしてみたい。できるだけ多くの人と語り合いたい。経験を読書にも求めよう。その読書によって単に知識の増大を図るだけでなく、より多くの思想と接し、より多く感化されて真に自分の血肉となり得る思想との邂逅を求めよう。尚且つ、文学の世界だけに閉じこもらず、絵画・演劇・映画の分野にも自己を拡大していこう。更に、哲学とか歴史とか経済とか宗教とか、或いは現代の政治・社会問題にも自分なりのアプローチを試みたい。…?自己を見極めたい?と思う。自分が自分に妥協することなく、あるが儘の自分をしっかりとこの手で掴みたい。…』と。
 ここには、中学高校時代に抱いていたテーマ「如何に生きるか」探求への意気込みがしっかりと書き込まれており、大学生活への確かな希望と期待が記されている。こうした期待感は私だけのものではなく、当時の新しい大学生活を始めたクラスメート全員に共通するものであった。
 しかし、現実は厳しいものであった。早速アルバイトに走り回ることになり、それも大変なことであったが、私にとってそれ以上に衝撃的だったことは劣悪な大学の学習環境と貧しい授業内容であった。悪名高き「マスプロ教育」である。ちょうど私が大学に入った頃、その弊害はようやく顕著になりつつあった。都心に在った学生数の多い私立伝統校、とりわけ文学・社会科学系の学部にこの傾向が目立った。こうしたマスプロ化は大学進学率が急激に高まり、大学の大衆化が急速に進んだ結果であった。1960年代に大学進学率は3割を超えるようになり、その頃から大学の「マスプロ教育」の弊害が指摘されるようになった。学生数の多い首都東京の私大のそれは特に酷いものがあった。大教室におけるマイクを使った講義は講師から学生への一方通行的な説明に陥りがちであり、学生も講義に対して受け身的になり、そこには血の通った教育はどこにもなかった。
 当時の早稲田の文学部の場合、1年次は教養科目の選択が多く、専門科目の授業は僅かであった。そうした中で、私が特に大きな期待を持って選択した教養科目は、直良信夫教授の「考古学」であり、荒正人教授の「文芸批評」であった。直良教授は言わずと知れた明石原人の発見者として有名な考古学者であり、荒教授は埴谷雄高平野謙佐々木基一本多秋五山室静らと共に『近代文学』を創刊し、「第二の青春」などの評論を発表し、世代論や知識人論等の論争で名をはせていた当時新進気鋭の著名評論家であった。その講義は大教室に100名以上の学生を集めたマイクによる「独演会」のようなものであった。多くの学生は「単位取得」が目的で、元々「考古学」「文芸批評」にそれほど興味のない生徒が多く、彼らにはおよそ学ぶという姿勢はなかった。先生方もまた、教室のそんな雰囲気を察してか、「講義をこなす」というような状況であった。また、私立大学の文学部、特に国文科などは女子学生がクラスの半数近くを占めており、こうした状況を捉え、「女子大生亡国論」(大学を花嫁修業くらいにしか考えていない女子学生が多くなり、これでは日本の国文学研究は駄目になる)等という暴論がマスメディアを賑わしていた。
言うまでもなく、こうした「やる気のなさ」は、決して個々の教授、個々の学生の責任に帰することは絶対に出来ない。そうではなく、「高度経済成長」の波に乗り、企業の要求に煽られ、無暗矢鱈と、無計画的に大学の拡大・大衆化を進め、発生するその弊害に何の手も打とうとしてこなかった大学当局・文部省・政府の社会的責任に他ならなかった。
こうした大学の現実は、多くの学生から学ぶという意欲を喪失させていった。期待幻想が大きかっただけに、その反動もまた大きかった。私もそうした学生の一人であり、大学に対する期待と希望を完全に失い、深い幻滅を味わい、ここから大学生活における本来的な方向感覚を狂わせていくことになる。
 大学や学生が抱える問題は、勿論のこと、時代によって異なる。1960年代のそれが現代の2010年代のそれと同じであるはずがない。ここで、当時と現代の違いについて論じてみよう。
 まず、東京オリンピックが開催された1960年代とはいったいどのような時代であったのか。ここに一冊の本がある。石井正己氏編集の『1964年の東京オリンピック』(2014年1月・河出書房新社)である。氏は、東京都生まれ、東京学芸大学卒、東京学芸大学教授。日本文学研究者で、専門は説話論。遠野市立博物館・図書館長を経てその顧問となった人物である。手許にあるこの書には、1964年当時活躍した日本を代表する識者の「東京オリンピック論」が集められている。例えば、三島由紀夫大江健三郎開高健井上靖山口瞳松本清張小田実瀬戸内晴美岡本太郎、座談会-大宅壮一×司馬遼太郎×三島由紀夫亀倉雄策、対談-市川崑×沢木耕太郎石原慎太郎中野好夫、松永伍一、星新一等々である。編集責任者である氏は、この書に『東京オリンピックの時代』という一文を寄せ、この時代を簡潔に次のように描写している。
第二次世界大戦後、1952年に国際舞台に復帰した日本は、なんとかして国際的な威信を回復したいと模索した。その中で浮上したのがオリンピック東京大会の招致であった。1955年、第17回大会の開催は ローマに決定したが、招致を諦めることはなかった。その熱意が実って、1959年には、1964年の第18回大会が東京で開催されることが決定した。1940年に開催されるはずであった第12回東京大会を返上して以来の悲願であった。
1960年、内閣総理大臣池田勇人は、10年間で国民所得を倍増するという「所得倍増政策」を発表する。以来、「高度経済成長期」と呼ばれる急速な経済成長 を遂げ、豊かな国民生活が実現されてゆく。しかし、その陰で、物価の上昇や農村の過疎化、公害の発生などの諸問題も生まれた。
 そうした時代の雰囲気の中で行われたオリンピックは、国際スポーツの祭典であることを遥かに超えていた。国際社会に力強い日本を印象づける一大イベントとして、国家の威信をかけた事業になっていったのである。9千億円と言われる総事業費は、競技場や選手村などの施設を整備するだけでなく、首都圏の整備計画を一挙に実現しようとするものだった。1956年に「もはや戦後ではない」と宣言していたが、オリン ピックによって戦後の復興を完結させようとしたように思われる。
よく知られるように、東海道新幹線はオリンピック開催の直前に営業運転が開始されている。国鉄は3400億円の工費を投じ、東京・新大阪間515キロメートルの距離を4時間で結んだので、「夢の超特急」と呼ばれた。日本は高速輸送の時代を迎えたのである。東名高速道路の全線開通は1969年と後れるが、首都圏の交通網で言えば、オリンピックに合わせて、日本橋本町・羽田空港間を結ぶ1号線をはじめとする首都高速道路、浜松町・羽田空港間を結ぶ東京モノレール、都心から8キロメートル圏内にある5路線の地下鉄が開通している。「東京はオリンピックのために 整備された」と言われる所以である。
実は、東京オリンピックは日本人の生活の変革にも大きく関わったところがある。例えば、東京オリンピックの放送は、多くが白黒放送であったが、各家庭で受信機を購入して、競技場に行かなくても家族で楽しむことができた。「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールチームが宿敵ソ連を破った決勝戦の視聴率は85パーセントに達した、と言われる。ラジオを通して情報を知る耳の時代から、テレビの映像を通して認識する目の時代に変わったのである』と。
石井氏の指摘通り、まさに、1960年代は「高度経済成長」の真っただ中にあり、世の中は活気に満ち、上昇気運にあった。が、そのマイナス的副産物として、「マスプロ教育」や「公害」や「物価高騰」や「出稼ぎ・農村過疎」等の問題が生じつつあった。ただ、いずれにせよ、当時の学生には、現代の学生諸君が抱えているような「就職不安感」「先行き不安感」「居場所不安」といった問題は、まったくといってよいほど無かった。大学卒業後についても、将来についても、「なんとかなる!」という楽観論が強く、それなりの「精神的余裕」があった。こうした若者の「なんとかなる」という気分は、各種の調査によると、1970年代半ばから減速していったが、「バブル時代」までは、それなりに続いていたようである。  
 そのバブル時代とはいかなる時代であったのか。それは「高度経済成長」が最終的に行き着いた先、その頂点であった。1986年(昭和61年)12月に「円高不況」対策として打ち出された金融緩和によって「地価・不動産価格暴騰」「好景気」「浮かれた世相」「狂乱の時代」が出現した。これがバブル時代の始まりであった。札束が飛び交い、世相は狂乱化し、求職率は大幅にアップ、学生の就職戦線は完全な「売手市場」となった。だが、5年後の1991年(平成3年)3月、大蔵省・日銀によって突如打ち出された「土地関連融資の抑制」(総量規制)と「金融引き締め」によって「地価・不動産価格暴落」が始まり、やがて、北海道拓殖銀行拓銀)、日本長期信用銀行長銀)、日本債券信用銀行日債銀)、山一證券、三洋証券など大手金融機関が次々と倒産し、日本は深刻な「デフレ不況」に転落する。若者・青年が「なんとかなる」というようなのんきな気分に浸って居られる時代は完全に終わった。代わりに「就職氷河期」と呼ばれる時代が始まる。先行きの見えない「閉塞時代」の到来であった。
その後、2008年9月発生したアメリカ発のリーマンショック・世界不況を経て、安倍内閣・日銀による「異次元の金融緩和-アベノミクス」が発動されるが、これによって「持てる者」と「持たざる者」との所得格差が大幅に拡大し、不正規雇用が大幅に増大し、若者・青年の「先行き不安」「閉塞感」は更に拡大していったのである。もはや、政府・日銀がいくらカネをつぎ込んでも、生産活動も商業活動も消費生活も高揚することはなく、「経済成長」の停滞は完全に常態化してしまった。ここにあるのは、現代資本主義の完全なる行き詰りであり、資本主義は崩壊・終焉という歴史的危機に直面しているのである。
【こうした現代資本主義の危機の問題については、後半で、哲学歴史科学的に、経済学的に、全面的に、本格的に論ずる】
 いずれにせよ、1960年代に青春時代を送った我々と、1990年代〜2010年代に青春を送っている現代の若者とが有するその「時代感覚」「時代気分」が、まったく異なっていることは、確かな事実である。「存在」即ち社会的時代的環境が「意識」即ちその社会的時代的感覚・気分を生み出し、規定している。存在が違えば意識が違うのは当然のことだ。 
 だがしかし、どんな時代にも若者特有の苦悩、困難、不安はある。現象的違いはあっても、その「存在」の本質を掘り下げてみれば、その根底には共通した何かがある。コペル君が生きた時代は、悲惨な戦争が繰り広げられていた1930年代であり、それは軍国主義が支配する息苦しい時代、生と死とが隣り合わせしていたような戦争最中にあった時代であり、現代のそれとは大きく異なっている。しかし、後で詳しく述べるが、コペル君の抱えた問題と現代の若者のそれとは、その本質において深く共通しており、それ故に『君たちはどう生きるか』は現代の若者の心に切実に迫っているのである。