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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第14回)・哲学独習―「どう生きるか」を求めて

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート

1966年9月、私は大学を中退した。徹底的に哲学を学び、根本から自らの生き方・考え方を変革し、正しい生き方を確立したかった。ただそれだけが中退の理由であった。勿論大学には無届であった。故郷に帰り、母親にだけは自らの考えを伝え、了解を得た。貧しい暮らしの中で苦労して大学まで行かせた息子が、突然「辞める」と言ってきたことに驚き、がっかりしたであろうが、「お前の好きなようにしなさい。ただ、来年の3月までは何としても授業料を出してやるから籍だけは置いておきなさい」と言ってくれた。「来年の3月まで」としたのは、「中退」が単なる一時の気紛れであることを心配してのことであった。
東京に帰り、直ぐに私は神田の古本屋街を訪れ、伊藤吉之助編集『岩波哲学小辞典増訂版』第10版(岩波書店・1953年刊)と務台理作著『哲学概論』(岩波書店・1958年刊)を買い求めた。信州教育の哲学的伝統の中で育った私には、「何から始めるべきか、哲学からだ」というのがごく自然な結論ではあった。また、「哲学書といえば岩波書店」というのもごく自然な選択であった。買い求めた二つの哲学書には、あの懐かしいミレ―の「種播く人」のロゴマークが刻印されていた。
では、何故マルクスの著作ではなく、務台理作の『哲学概論』から始めようしたのか。勿論、氏がかつてわが恩師手塚先生が尊敬した人物であり、また信州教育に多大な影響を与えた著名な哲学者であったからということもあったが、それだけではなかった。言うまでもなく、私の最大の関心は社会主義思想の祖・マルクスの哲学にあったのであるが、まずはそこに至るギリシャ哲学以来の西洋哲学の基本的な歴史を学びたい(学ぶべきだ)と思ったのである。『哲学概論』を書いた務台氏はカント・ヘーゲル・西田哲学の流れを汲む観念論者であり、マルクス主義者ではなかったが、親しみもあり、彼のこの著書が哲学・哲学史を初めて学ぶ私に適していると思えたのである。幸い、『岩波哲学小辞典』は、一つ一つの哲学用語について、それぞれの哲学流派がその用語をどのような使い方をしているか、きちんと説明してくれていた。
私が、いきなりマルクスに取り組むことを控えたのは、当時の複雑で、或る意味危険に満ちていた左翼運動の状況にも原因があった。
現代の多くの青年学生諸君は、1989年11月の「ベルリンの壁」撤去、1991年12月のゴルバチョフソ連大統領の「ソ連邦消滅宣言」、1992年1月のブッシュ米大統領の「冷戦勝利宣言」以後に生れ育っており、「最早社会主義は死んだ」「マルクス主義の時代は終わった」などという宣伝文句ばかりを聞かされて育って来ており、多くの青年学生にとって、「社会主義」という言葉も、「マルクス主義」という言葉も、非現実的な言葉―死語―になっているであろう。
だがしかし、われわれの時代―国家権力との激突を繰り返した1960年代に青春を送ったわれわれ世代にとっては、「社会主義」も「マルクス主義」も「革命運動」も極めて身近な現実であった。ただ、当時は、その「社会主義運動」「マルクス主義運動」の解釈・実践を巡ってさまざまな見解が飛び交い、激しい論争・抗争が繰り広げられていた。まず、毛沢東中国共産党が「米ソ平和共存路線」を歩むソビエト共産党を「現代修正主義・フルシチョフ修正主義」として厳しく批判し、中国国内では「右派打倒」の文化大革命が発動され、激烈な紅衛兵運動を繰り広げられていた。日本の国内では、宮本顕治の代々木共産党が「フルシチョフ支持・スターリン批判」「徳田球一批判」「毛沢東文化大革命批判」を展開し、文革左派は「宮本顕治批判・徳田球一批判・毛沢東文化大革命支持」を主張し、学生運動の内部では「トロツキー支持・反スターリン・反徳田球一」「反代々木共産党」を叫ぶ新左翼が激烈な党派対立を深めていた。そして中退後に出会った幾つかの「毛沢東派」「武装闘争派」はゲリラ戦術を主張し、「武器を取れ!」と呼び掛けていた。「今は行動と蜂起の時代である。行動なき者は去れ!」が時代の風潮であった。まさに一歩誤れば危険極まりない世界に向かってしまうという時代であった(実際その後に起こった「連合赤軍事件」「三菱重工爆破事件」「日本赤軍の飛行機ハイジャック事件」等々の発生は、こうした危惧が決して根拠の無いものではなかったことを証明している)。
そうした中で、全共闘運動に全力投球していた私は「造反有理」「革命正義」を叫ぶ中国文化大革命に共感をよせつつ、一方で、「日本共産党徳田球一ソビエトスターリンの戦前の反ファシズム闘争・反戦運動・革命運動をどう評価するか」という問題を真剣に考え始めていた。私は多くの党派の活動家と交流し、意見を交し、彼らの考えを聞いた。彼らは一様に、「徳田球一は革命理論を知らない単なる暴君・独裁的指導者でしかなかった」「一国社会主義を支持した徳田球一は国際主義を裏切った民族主義的革命家に過ぎない」「徳田球一などは過去の人、まったく新しく一から党を作るべきだ」「徳田球一はただ獄中に居ただけで権力と闘っておらず、戦争を阻止できなかった」「暴力的粛清を行ったスターリンヒトラーと同じ冷酷な独裁者でしかなかった」などという「批判」を激しい口調で語った。
勿論、当時は単なる文学青年でしかなかった私に、こうした大問題に簡単に結論の出せるはずがなかった。ただ私の素朴な感情・直観は、「徳田球一は、大半の左翼運動家が軍国主義に屈し、侵略戦争を賛美する中、権力の弾圧、投獄、拷問を恐れず、自らの信念を曲げず、不屈の闘いを貫き通した(この程度のことは当時の学生は「歴史の知識」としては知っていた)。いろいろ問題があったにせよ、何はともあれ、最悪だったファシズム軍国主義と闘ったことに敬意を表すべきであり、そこから学ぶべきである。独ソ戦ナチスヒトラーを倒したスターリンに対する態度もそうあるべきだ」とし、自らに徳田球一スターリンに対する一方的批判を許さなかった。更に、高校時代に、恩師から聞いていた「力無き正義は無力であり、正義無き力は蛮力である」との箴言高山岩男が書にしたパスカルの言葉)が、私に、「問題は暴力ではない。問題はそれが正義か否か、なのだ」との問題意識を持たせてくれてもいた。
結局、当時の全ての党派・活動家に共通していたのは、一種の清算主義であった。歴史の否定であった。私は、この歴史清算主義がどうしても納得できず、肯定出来なかった。過去の歴史をあっさりと否定し、清算するのではなく、歴史から徹底的に学ばなければならない。多数少数に因ることのない科学的真理とは一体何か、正義とはいったい何かを究明しなければならない。それが私の思いでであった。そして、それを究明しようとすれば徹底的に哲学を学び、歴史を研究するほかない。「あくまでも真理と正義を探求し、正しい道を歩め!」―それが、私を育ててくれた中学・高校以来の「哲学的環境」の教え―潜在意識にまで刷り込まれた確信―であった。もし、この確信がなく、深く考えもせず、一時の感情で、軽々に行動していたとすれば、私は重大な間違いを犯していたであろう(後で述べるが、その可能性は多分にあった)。
さて、そのような時、私は、自らの「素朴な感情・直観」が決して間違ったものではなかったことを証明してくれた、貴重な出来事と遭遇する。一つは、大学中退時、親しくしていた友人Hが私に贈ってくれた、かつて父親が読み彼自身も読んだことのあるという『獄中十八年・徳田球一伝』(1947年1月・時事通信社刊)である。この本には、徳田球一の「非転向18年の獄中闘争」の苛酷な闘争が詳しく語られており、特に、徳田球一が「期待すること無き人民への献身」を座右の銘とし、その銘通りの生涯を貫いた事実が生き生きと語られており、私の徳田球一に対する尊敬心を一層高めさせた。もう一つは、大学を中退してしばらく経った頃、夜警のアルバイトをしていた京浜工業地帯の工業炉製造工場の薄暗い風呂場で、夜勤で遅くに風呂に入って来た70歳位の嘱託のKさんと二人だけになり、言葉を交わす機会があり、そこで学生デモの話しになった時のことであった。私が当時の代々木共産党・民主青年同盟の日和見振り(事の成り行きをみて有利な方・多数の側につこうとして形勢をうかがうこと)を嘲笑的に語ったところ、中学卒業以来この工場でずっと働いて来たというKさんが、しみじみと、「今の共産党はそんな風なのかね。徳球さん(徳田球一の愛称)の時代は本当によかったなぁ!」との言葉を口にした。私は、場末の工場で働く、名もない一老労働者が、感慨を込めて洩らしたこの言葉を聞いて、「あぁ、この様な労働者の心の中に生き続けている徳田球一は、偉大な革命家であったに違いない。その闘いから徹底的に学ばねばならない」と確信し、自らの立場の正しさを再確認したことであった。
1966年10月末、私は郊外の安い学生下宿に移り、本格的に哲学の独習、研究を始めた。文学青年で小説の類しか読んだことのなかった私にとって、哲学的文献を読み、理解することは困難を極めた。一日中、哲学辞典を引き続けねばならない日々が続いた。だがしかし、この「如何に生きるか」の答え探しの旅は、困難ではあったが、希望と期待に満ちていた。