人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第5回) 信州教育と哲学的伝統

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート


 ところで、この「哲学を学べ!」というメッセージは、決して手塚先生や藤沢先生個人のものではなく、信州教育が持つその哲学的伝統の中から生まれたものであった。
 手塚先生は、信濃教育会(小・中学校教師の職能団体)の中にあった哲学会のメンバーであった。信州では、多くの先生方が哲学、特に『善の研究』を著した京都大学哲学博士・西田幾多郎を師と仰ぎ、戦前も戦後も、西田門下の哲学教授・木村素衛氏や信州出身の西田門下・務台理作氏などを郷土に招き、勉強会を開催していた。手塚先生もそうした勉強会に参加し、時には直接京都の地を訪れ、哲学を学び続けていた。中1の担任・藤沢先生もまた、信濃教育会の一員であり、戦前に15年間も僻地山村に座り込んで小学校教員を務め上げた藤森省吾先生から?トルストイの三つの問い?とされる「人は何のために生まれたのか」「人は何を為すべきか」「人は死ねばどうなるか」という教育の探求すべき根源的課題を学んだという。その先生から紹介されたキリスト者にして教員・教育者であった小原福治先生から「教育とは人なり、愛の実践なり」を学び、昭和23年に長野教会で小原牧師によって受洗入信し、以後、信仰家として教壇に立ち、「教育とは人なり、愛の実践なり」を探求し続けていた。
 お二人をはじめ信州の小・中学校の先生方は大半が長野師範の出身者であり、長野師範こそが特色ある信州教育の最大の担い手であった。その長野師範の深部には伝統的にペスタロッチの教育思想(その根本はルソーの?自然に還れ?)が深く息づいていた。信州教育における哲学・自然科学探求の風、哲学会・博物会の存在とその隆盛は、このペスタロッチの教育思想の存在抜きには到底考えることはできないであろう。
 明治初期、時の政府・文部省は、主としてアメリカから近代的教育制度の導入を図った。札幌農学校アメリカ人・クラーク博士を招聘したのもその一環であった。そのため、小学校の教授方法として「アメリカ式開発主義教育」(アメリカナイズされたペスタロッチ風教育論)が導入された。当初、その教育論は民権派教育追放という側面を持っていたため、すんなりと受け入れられることはなかった。だが、ペスタロッチの教育思想、即ち「自然的直観的経験に基づく人格陶冶の教育こそが真の教育である」「教育とは本来的に子供たちの中にある素晴らしい能力を発見し、引き出し、伸ばすことだ」とする教育論はごく自然に信州の若き教師たちの魂を捉え、心の奥底に浸透していった。それには、ペスタロッチの故郷スイスと信州の自然的風土―「山岳高峻湧水清冽」「山紫水明」の地という土地柄―が近似し、両者の有する精神的風土に強い共通性があったことが大いに関わっていたと思われる。その後、時の政府によって「国家主義的教育法」、即ちプロシャ(ドイツ)風教育法―教育勅語明治23年)に基づく統制的・画一的・詰め込み的教育法―が押し付けられると、逆にそれがペスタロッチの教育思想を更に深く定着させていくという結果を招いた。というのは、明治20年代・30年代、このドイツ風教育法の導入が信州教育にドイツ哲学、特に「人格主義」「人格の陶冶と完成」を唱えるカント哲学への関心をもたらし、ペスタロッチ教育論の更なる哲学的発展をもたらしたのである。西田哲学、特に『善の研究』等への傾倒はその産物であった。その結果、博物学(自然科学)と共に哲学の自主的な研究活動が県内各地で活発に展開されていく。戦前の有名な教育弾圧事件、いわゆる「教員赤化事件」(昭和8年2月・信濃教育会教員138名が逮捕された)には、そうした自主的な教育活動・研究活動の盛り上がりが背景にあった。明治初期に導入されたペスタロッチの教育思想は、かくの如く、信濃教育の大地の奥深くを流れる地下水脈となり、自然科学や哲学研究を盛んにし、信州の教育風土をより豊かにし、より生気溢れるものとしていったのである。
 いずれにせよ、信州の小・中学校には、自らの教育に確固たる自信と誇りを持つ先生方が数多く存在し、その影響力は並々ならぬものがあった。藤沢先生も手塚先生も、まさにそうした信濃教育会の一員であり、その優れた伝統の体現者であった。
深志高校に進んだ私は、同じ松本市内にあった手塚先生の自宅をよく訪れた。その書斎には『西田幾多郎哲学全集』が備えられ、京都大学の哲学博士・高山岩男の『正義無き力は蛮力であり、力無き正義は無力である』という扁額が架けられていた。その額の意味を問うと、先生は「この言葉は、戦時中は大東亜戦争を称揚する右翼の思想として利用されたが、それは勝手な解釈であって、本当の意味はそんなものではない。この言葉の出典は、実はフランスの数学者・物理学者にして哲学者・信仰家であったパスカルの『パンセ』だ。「人間は考える葦だ」という箴言で有名なあの『パンセ』が出典なのだ」と教えてくれた。後に私は「戦争とは何ぞや」「正義とは何ぞや」という問題を真剣に考えるようになるが、その背景には手塚先生のこの教えがあった。私の家族はかの戦争の影響を蒙り、東京の家と夫・父を奪われ、母は悲惨な境遇を強いられ、兄も私も苦痛と屈辱と貧困の暮らしを余儀なくされた。それ故、私にとって戦争の問題は絶対に避けて通ることのできない大問題であった。そして、人間の歴史・戦争の現実を直視する時、「真理とは、正義とは、人間とは何ぞや」という、哲学抜きには解決しえない課題にぶつかる。それ故、「哲学を学べ!」というメッセージは私にとって極めて重要な意味を持っていたのである。
 さて、先に述べたように、高校時代の私の最大の関心は生徒会自治の一環たる新聞委員会活動にあった。が、同時に、私の関心は文学にも向かい、文芸ジャーナリズムにも興味を抱くようになった。教育方面への関心がなかったわけではないが、先に触れたように、最終的には「平家物語における日本文芸思想」に興味を抱き、数学が不得手だったこともあり、国立ではなく私立の早大文学部国文科へと進んだ。「ジャーナリスト界の雄・早稲田」に対する憧れがあり、更にその先には岩波書店があった。
1964年春、私が上京した東京は、オリンピック開幕を控え、空前の発展期を迎えていた。