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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第9回) 重大な失敗の経験から学ぶ

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート


 明らかに「署名活動」は、バリスト派の立場から見れば、誤りであった。それは真剣な論議の場を生み出すものとはならず、ただ単にバリスト解除派を勢いづかせただけであった。署名に集まって来たバリスト反対派は「バリケードを解除した上で、闘争を継続し、話し合いを続けていけばよいではないか」と口を揃えて主張したが、自らこの闘いを担う気はまったくなかった。
そうした現実を踏まえ、H君と私が中心になっていたクラス闘争委員会はその非を認め、クラス総会を開催し、署名活動中止を提案した。しかし、直ぐにはこの提案は認められなかった。何度も真剣な論議が繰り返され、3回目の採決でようやく中止が決定された。激しい議論はクラス内部を真二つに分け、深刻な対立を生み出した。だが、この激論によって、間違いなく、「何故我々はこの闘争を勝利させねばならないのか」、その理解は一層深まっていった。結局のところ、それまでの闘いは、感性的感情的怒りの爆発という範疇を出るものではなく、この闘争の本質を捉えるものではなかった。
 そして、この重大な誤りと失敗が、私を『君たちはどう生きるか』が教えてくれたあの教訓に立ち返らせた。「誤りや失敗から目を逸らすな!」「自分の経験、特にその誤りや失敗から深く学べ!」「哲学に返れ!」、そして「今こそ真剣に考え、自らが如何に生きるかを決定せよ!」と。
 この時、私個人にとって最大の問題となったのは「多数は真なりや?」という哲学的テーマであった。自治会総会を求めた我がクラスの署名活動は、つまるところ運動の是非を多数決で決めようとするものであった。だが、その署名活動はその過程で既に「闘わない」という流れを強めるものとなっていたのである。そして、この問題を更に「政治的」たらしめたのは、左翼的党派の中で、「新左翼」(反代々木派の戦闘的な左翼的青年・学生組織)と激しく対立していた「民青」(民主青年同盟―代々木に本部を置く宮本顕治を委員長としていた日本共産党系列の青年・学生組織)が、「スト続行か否か、自治総会を開催し大衆的に多数決で決定せよ」との方針を打ち出していたことであった。
「多数決で事を決めることは本当に正しいのか?正しくないのではないか」、また「正・不正の判断を多数に委ねて良いのか?自らの判断・決定を放棄すべきではないのではないか」―スト続行派であった私の思いであった。そんな私の脳裏に浮かんだものこそ、あの『君たちはどう生きるのか』の主人公「コペル君」のあだ名の由来であるコペルニクスの地動説が辿った運命であり、そしてその地動説を支持して投獄・幽閉されたガリレオの故事であった。
 1543年、ポーランド人のコペルニクスは『天体の回転について』を刊行し、十分な検証を加えた上で地動説―宇宙の中心は太陽であり、地球は他の惑星と共に太陽の周りを自転しながら公転しているという学説―を発表した。それは、当時のローマ教皇を頂点とするキリスト教世界が常識としていた、宇宙の中心は地球であるとする天動説(地球中心説)と真っ向から対立する学説であった。勿論この書は教会勢力から激しい攻撃を受けた。ただ、元々聖職者であったコペルニクスは本を出版した直後に亡くなったこともあり、キリスト教会による断罪・投獄を免れた。
 後世、その地動説を是認し、支持し、擁護したのはイタリアの物理学者・天文学者・哲学者であったガリレオ・ガリレイであった(コペルニクス没20年後に生れている)。ガリレオは、当時発見された望遠鏡を使って天体観測を行い、その観測結果に基づいて地動説に賛同し、その支持を表明、教会の修道士らと論争を展開した。その結果、ローマ教皇庁が開いた第1回異端審問所審査(1616年)において、ガリレオは地動説を唱えないよう注意を受け、同時に コペルニクスの『天体の回転について』の閲覧禁止が宣告された。しかし、ガリレオは、1632年に『二大世界体系についての対話』を刊行し、地動説の正しさを再確認。そのため、第2回異端審問所審査(1633年)で有罪判決を受け、終身刑を言い渡され、投獄された。その際、ガリレオは「それでも地球は回っている」と呟いたという有名な逸話が残されている。後にトスカーナ大公国ローマ大使館への軟禁に減刑され、最後は故郷フィレンツェ郊外の別荘に幽閉され、そこで生涯を終えた(1642年没)。
 当時は多数の世論が否定していた地動説は、今では常識となり、真理として学校教育でもしっかりと教えられている。コペルニクスガリレオも、「多数は必ずしも真ではない」と考え、科学的観察と研究と検証に基づいて「真理」を明らかにし、少数であろうと信念をもってそれを守り抜いた。問題は、何が多数かではなく、何が正しいか、何が真かである。大事なことは、自らの判断で保持した見解に関する科学的観察と研究と検証とを徹底的に追求することだ。「自分の体験したことから出発し、何が正しいのか、正直に考えろ!」(叔父さんがコペル君に伝えた言葉)―それは「自分はどう生きるのか、自らの体験を見据え、真剣に考え抜け!孤立を恐れず、信念を持って生きよ!」ということであった。
 もう一つ、私の脳裏に浮かんだ『君たちはどう生きるか』の教え―それは、「雪の日の出来事」(コペル君が、仲間を見捨てないという約束を破り、友達が上級生にやられているのに、何もせず、卑劣な裏切り行為を冒してしまった、という出来事)について、叔父さんが語った「失敗や過ちを男らしく認め、逃げずにしっかりと反省し、悔い改め、そこから自己の思想を打ち立てていけ!」という教えであった。「そうだ、絶対に逃げず、自らの冒した過ちを認め、正面からその誤りと対決せねばならない」というのが私の結論であった。
 私は、このクラスの署名撤回・自己批判運動の先頭に立った。何回ものクラス討論を経て、3回目の採決で漸く自らの誤った決定を覆すことが出来た我々は、直ちに署名活動を中止し、クラスとしての「自己批判声明」を発表、署名者一人一人に謝罪文を送り、同時に「この闘いの本質とは何か―何故我々は闘わねばならないのか」について、本格的な学習を開始した。
 ただ、ここで付言しておかねばならないことは、こうした「署名撤回」を決定する過程で、その激しい論争の中で、何人かの級友との間に深刻な人間的軋轢を生み出したことである。その苦い経験は今なお忘れ難い記憶となって残っている。クラス内のバリスト反対派を代表する形で「署名撤回」に真っ向から反対したのは文才豊かなS君だった。「人にはそれぞれの事情というものがある。早く卒業して就職しなければならない者もいる。そういう者に犠牲を強要して良いのか。そういう者が多数ならばストライキは解除して当然であろう」―彼は頑強にこの主張を展開した。私は、そうした意見を「この闘争はこれから後に続く多くの貧しい学生たち、より良い学生生活を求める多くの学生たちの未来を拓く闘いであり、社会的に価値ある闘いである。故に個人的利益を優先することは出来ないし、すべきではない」と一刀両断に切り捨てた。我々より3つ年上のМ君―定時制高校からの入学者で、学費も生活費もすべて自分のバイトで賄っていた母子家庭育ちの典型的な苦学生―は、そんな私に「彼も君や俺と同じ母子家庭の出身で、田舎で母親が食堂をやりくりしながら随分と苦労して彼を大学まで入れてくれたらしい。そういう個人的な事情を頭から否定すれば反発を買うだけだ。反対者に対してもっと配慮した言い方をしなければだめだ」と忠告し、背後に回ってS君に対する粘り強い説得工作を続けてくれていた。しかし、私もS君もいざ論争になると忽ち感情的になり、一歩も引かず、激しい非難応酬を繰り返し、その亀裂は修復不可能なものになっていった。当時の私たちは若く、熱かった。やむを得ない面もあった。しかし、苦い想い出・忘れ難い記憶となって、今も尚心の片隅に残っている。
 さて、例年より1ヶ月遅れの1966年5月 1日、大量の新入生が大学キャンパスに雪崩込んで来た。「共闘会議」(バリスト派)と「有志会」(バリスト解除派)と、双方からの激しい呼びかけ、工作が繰り広げられた。勿論、私たち「バリスト賛成派」のクラスとして、積極的に国文科の新入生たちに闘争への参加を呼び掛けていった。彼らも否応なく闘いの中に巻き込まれていった。全ては時代の産物であり、それが1960年代の青春の運命であった。
 ただ、この新入生の登場は、キャンパスの雰囲気を一変させていった。サークル活動や部活への加入を呼びかける看板が林立し、華やいだ空気が漂い、闘争ムードの雲散霧消を引き起こしていった。
 そうした中で、我がクラスは、一方的な演説・説明によってオルグ工作(闘争組織への参加工作)をするのではなく、新入生とのクラスぐるみの懇談会・討論会を追求していった。同時に、我々は真剣に内部の学習に取り組んでいった。というのも、新入生の素朴な疑問、例えば、新入生である自分たちが学費値上げを認めてしまっているのに、あなた方は入学試験に反対したり、進級試験を拒否したりし、自らの社会的地位を危うくしてまで何故この闘争をやるのか、そこまでしてやっているこの闘争の正統性・正義性・社会的意義とは一体何なのか、という問いに十分答え得ない自らの認識の低さを自覚せざるを得なかったからである。真剣な学習が求められた。学習テーマは「産学共同路線について」「戦後の文教政策について」「大学管理法案について」等々であった。