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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第11回)1966年当時の時代状況―水俣病公害事件

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート


 1966年当時の学生を取り巻く状況で最も特徴的な事件・出来事、それは一つは水俣病イタイイタイ病光化学スモッグ(大気汚染)等の公害問題であり、もう一つはベトナム戦争であった。第2次世界大戦終結後およそ20年、ちょうど内外の政治的諸矛盾が爆発する時期を迎えていた。その集中的典型的問題が水俣病公害事件とベトナム戦争であった。学園闘争が単なる学園闘争に終わらず、反体制・反権力闘争に発展していった最大の理由は、これらの政治問題がわれわれ闘う学生に、「君はこれらの問題に対して如何なる立場に立ち、如何なる行動をとるのか」ということを、鋭く問いかけていたからである。当時の時代状況を少しくわしく見てみよう。
 水俣公害事件とは何か。それは、以下の説明を、2011年3月に起こり今なお未解決のままとなっている福島原発事故を想起しながら読んで貰えば、その本質がよく判るはずである。
 1950年代半ば、熊本・水俣湾の魚を食べている水俣市民の中から、手足の感覚が無い、まともに歩けない、視野が狭くなった、うまくしゃべれない、痙攣が起こり意識不明になって倒れる、などの症状を訴える人が次々に生まれた。海辺ではあちこちに野良猫の死体が転がり、妊婦からは胎内奇形児が生まれ、何人もの罹病者が「原因不明」の死を遂げ、何人かの住民がこの奇病故の差別偏見に苦しみ自殺を遂げていた。まさにそこに起こっていたことは「毒殺殺人事件」だった。地元の漁民と地元熊本の医療関係者は早くから、水俣チッソ化学工場が水俣湾に垂れ流しにしている工場廃液に含まれる有機水銀こそが奇病の原因だと指摘し、チッソ工場に改善と対策を申し入れていた。だが、チッソ経営陣は頑として水銀中毒説を認めなかった。また、企業側に立つ多くの医学研究機関・衛生保健機関の研究者もまた「科学的因果関係が証明されない」とし、企業責任を不問に付した。チッソ経営陣は僅かな「見舞金」をばら撒き、責任回避を図った。当時の岸内閣、政府、与党政治家も水俣漁民と市民のこの塗炭の苦しみを無視し、チッソ経営側に立ち、あくまでもその因果関係は不明とし、緊喫に必要な対策を怠った。野党陣営も、この問題を当時大きくなりつつあった安保闘争と結び付けて闘うのではなく、逆に隅に追いやってしまった。陰では、「伝染病だ」「遺伝病だ」などのデマがばら撒かれ、水俣市民に対する差別攻撃が至る所で始まり、根拠のない「いじめ」が広まっていった。その結果、1959年11月、水俣の漁民・市民は怒りを爆発させ、チッソ水俣工場に乱入し、警官隊と衝突、多くの逮捕者が出て、ようやくこの問題の存在が世に広く知られるようになったのである。それからも幾多の闘いが繰り広げられ、9年経った1968年、厚生省はようやく「水俣病の原因はチッソ工場の排排水に含まれるメチル水銀である」ことを認めざるを得なくなる。が、1966年当時は、まだ「水俣病と窒素排水との因果関係は認められない」とする政府・企業側に立つ医療機関の臨床的・薬学的見解が大きく取り上げられていて、われわれ青年学生の憤激の的となっていたのである。
 勿論、こうした環境破壊は水俣だけで進んでいたわけではない。1960年代に入ると、東京では光化学スモッグが頻発し、スモン・サリドマイド薬禍問題やカネミ油症・PCB食品公害問題が顕在化し、さらに富山のイタイイタイ病阿賀野川水銀中毒問題が取り沙汰され、四日市では喘息患者が大気汚染の責任追及に立ち上がっていた。高度経済成長が急激に進み、日本の至る所の海、河、森や林、小川や湖、田や畑、空気、食物が汚染され、環境破壊は凄まじい勢いで進行していた。しかし、国・企業、それと癒着した多くの科学技術者・医者・学者は自らの責任を回避し、犠牲者救援は遅々と進まず、多くの市民・国民が生命と生活の危機を感じ始めていた。こうした現状に、正義感に溢れた青年学生が黙っていることができるはずがない。われわれが敵として闘っている政府・大手企業・産学共同を進める大学当局が、こうした公害問題を引き起こしている元凶でもあることを知り、資本主義的経済政治制度の悪辣さを知るや、当然のように、われわれの反体制・反権力闘争は嫌が上にも激しさを増していったのである。
 ところで、2016年5月11日付の東京新聞の「社説」は、『「事件」はまた繰り返す―水俣病公式確認60年』と題し、次のように述べている。
『「水俣で起こったことは、事件です。事件として解決しようとしないから、誰も責任を取ろうとしない。だからまた繰り返す」。水俣の〝語り部〟、石牟礼道子さんの全集を刊行した藤原書店社長の藤原良雄さんは指摘する。
 1956年5月、新日本窒素肥料(現チッソ水俣工場附属病院が、水俣湾周辺で多発する原因不明の中枢神経疾患を保健所に届け出た。これが「公式確認」だ。熊本大学医学部は研究班を組織し、半年後には既に〝奇病の正体が汚染魚の摂取による中毒症状だと結論づけた。そして、水俣工場の排水が汚染源ではないかと疑った。
 折しも日本列島は高度経済成長への助走に沸いていた。学界の主流は企業の擁護に回る。化学工場は高度成長の柱の一つ。チッソはその担い手だった。古式確認から12年間(注:1968年まで)…大量の有機水銀不知火海に流れつづけた。生命よりも経済を優先し、止められるもの、止めなければならないものなのに、誰も止めなかったのだ。だから、それはただの「病」とは言い難い。人間(注:人間全体ではなく、政府と利潤追求を専らとする企業)の欲と不作為が引き起こし、拡大させた「事件」とよぶしかない。
 時がたち、全国から新たな患者が次々と名乗り出る中で、政府は幕引きに血道をあげる。(注:新たに名乗り出た患者に対して)95年の政治決着、2009年の特措法ともに、賠償の費用がかさむ「患者」とは認定せずに、「被害者」として一時金を支払うことで「救済」しようと試みた。まぎれもない弥縫策でえある。水俣病の病象、つまりその正体を明らかにしないまま、厳しい認定基準だけを課し、地域がのぞむ健康診断も実施せず、被害を小さく見せるのに躍起である。潜在患者は数十万人ともいわれている。…
 「事件はまた繰り返す」。藤原さんの指摘が不気味に心に迫る。「福島原発事件」が二重写しになるからだ。原発で故郷を追われた人々は「被災者」ではなく「被害者」なのだ。なのにいまだ、命より経済優先、原発は止められない。放射能の影響や健康被害の実態をつまびらかにしないまま、補償の負担を軽減するためか、規制を緩め、避難者の帰還を急ぐ』と。
 まさに、60年前にその発生が公式確認された「水俣事件」と同質の問題が、今再び「福島原発事件」として「繰り返されている」のだ。
 2011年3月に発生した福島原発事故における東京電力経営陣と「原子力村」(政府とその原発推進機関)の無責任極まりない態度(それは今もなお続いている)。放射能汚染による住民の深刻な生命の危機と生活破壊。農業・漁業・自然の潰滅的破壊。強制移転による「ふるさと」喪失。さらに、仮設住宅・移転先での生活困難、「ホウシャノウ怖い!」と囃したてる子供のいじめと自殺者の頻出。先の見えない不安。それらが次々と被害者を襲った。そうした中、事故を起こした原発の処理がようやく緒についたばかりだというのに(深刻な炉心溶融が確認されて更に深刻な問題となっているというのに)、何の反省もなく、安倍内閣は早々と「原発推進」「安全宣言」「終息宣言」を打ち出し、苦悩・不安の中に置かれている被害者・被害地を完全に見捨てしまった。ある者は危険の残る「既成緩和地区」への帰還を強いられ、ある者は未だに故郷への帰還がままならず、将来不安に怯える被害者住民は数知れずというのが実情なのである。それだけではない。今や被災地域は各地の「放射能汚染物質」のゴミ捨場にされんとしているのである。
 そして、こうした社会状況の中、2011年の東北大地震福島原発事故をきっかけに、長らく「個人主義の世界に閉じこもっている」「志を持たない単なる不満分子」などと「批評」されてきた日本の若者の意識が、深部で確実に変わり始めていると、多くの識者・学者が明言し始めている。
 2012年1月9日付産経新聞の「主帳・成人の日」は次のように言う。
『故郷の村は福島第1原発事故で避難を余儀なくされており、成人式も避難先の町で行われた。…新成人の中には、彼ら(注:震災で亡くなった友人・知人たち)の分まで社会貢献をしたいと話す人もいる。「復興に尽くす」「社会貢献」―若者の口から出るこのような言葉には、むしろ大人の心が洗われる思いである。震災を きっかけとして、若者の人生観や倫理意識、ものの考え方が明らかに変わってきているといえよう。…これまではともすれば、広がる一方の経済格差など先の見えない閉塞(へいそく)感に不満を募らせているとみられがちだった若者が、お金やモノに縛られない新しい価値観を見いだしたようにも見受けられる。絶望の中で命の大切さを知り、人や故郷、社会との絆を考え、本当の幸福とは何だろうと見つめるようになったのではなかろうか。勉強も仕事も自らの成功のためと考える風潮もある中で、ささやかながらも「世のため人のため」に働き、生きようとする若者は確実に増えている』と。
 確かに「世のため人のため」に生きんとする若者が確実に増えている。だが、問題はその中身である。その中身について、次の報告が一つの解答を示している。それは、2017年6月、北海学園大学大学院経済学研究科の本間啓子氏が北海学園大学経済学部1年生(467人)を対象に行った「東日本大震災および福島第一原発事故に関する意識調査」である。その調査結果は次のようなものであった。
『学生の関心が高かった以下3点を整理して紹介しておく。
 第1に「被災地の復興と被災者の支援」について、学生のほぼ全員が復興支援への長期的継続の必要性を認めており、風化に対して応援する前向きな姿勢をみせた。被災地の復興と原発事故の収束に要する歳月に、答えは当分見出せない現実がある。…この社会に原発はもう要らないという強い意志表示が込められている。
 第2に「政府の取り組み」に対して、学生は被災地・被災者のための復興が、なされていない現状があることに注目しているとみられる。2012 年12 月に発足した安倍政権での、原発再稼働路線は国民の「脱原発」の声を無視したものである。賠償、廃炉などの事故対策費をたびたび電気料金に上乗せするなど、批判されるべき行為を見てのことと思われる。
 第3に学生のなかに、原発が離せないという意見があるにも関わらず、ほとんどの学生は、将来の持続可能なエネルギーに「再生可能エネルギー」を迷うことなく選択している。原発は、確実に縮小の道へと転換されようとしている』と。
 現代の若者は、国民の声を無視し、原発事故対策費用を全て国民に押しつけている安倍政権の、無責任極まりない「原発再稼働路線」を明確に否定し、「再生エネルギー」による安全な社会の実現を求めている。彼らは、国民・人々に奉仕すべき政府が、実際は国民・人々の切実な要求を顧みる事なく、逆に「反社会」的存在となっていることを厳しく批判している。産経新聞の「主帳」の見解とは逆に、現代の若者が「広がる一方の経済格差など先の見えない閉塞(へいそく)感に不満を募らせている」という現状は深まる一方であり、その怒りと批判は確実に拡大していっている。現代の若者のこのような根本的な「政治・社会認識」は、1966年代に全共闘運動を闘ったわれわれのそれと何ら変わることはない。その「批判」は確実に蓄積されていき、いずれ、何らかの事件を契機に、再び、政治・経済・社会制度の根本的変革を目指す激烈な「反体制・反権力闘争」として爆発する時が来るであろう。