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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第16回)・人類最高の英知であるマルクスの哲学・思想

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート

 

マルクスの哲学―弁証法唯物論(宇宙・世界の根本的な運動法則・原理)、史的唯物論弁証法唯物論に基づく人間・人類の根本的な歴史法則・原理)とは何かについては後で詳しく語るつもりであるが、ここでは次のことを強調しておきたい。

 それは、マルクスの哲学・思想は、ギリシャ時代から近代に至るまでの人類の哲学・経済学・革命学説の集大成であり、人類最高の英知である。ロシア革命の指導者で、初めて社会主義革命を成功に導いたレーニンは、マルクス・エンゲルスの膨大な著作を全て読み、研究し尽くした後で執筆した論文『カール・マルクス―略伝とマルクス主義の解説』(1914年)で、次のように記している。『マルクス主義とは、マルクスの見解と学説の体系である。マルクスは、人類の3つの最も先進的な国に属する19世紀の3つの主要な思想的潮流の継承者であり、天才的な完成者であった。それはドイツの古典哲学、イギリスの古典経済学、そして一般にフランスの革命的諸学説と結びついたフランス社会主義である』と。実際、マルクス・エンゲルスドイツ古典哲学のカント、ヘーゲルフォイエルバッハ等の著作、イギリス古典経済学のスミス、リカードマルサス、ミル等の著作、フランス社会主義とフランス階級闘争パリ・コミューンの経験、サン・シモンやフーリエの学説と実践、イギリス人オーウェン空想的社会主義の理論と実践を、深く研究し、学び、発展させている。まさに、マルクスの哲学・思想は19世紀に人類が到達した最高の英知の止揚―継承・発展・完成―であった。

私が、マルクスとその盟友エンゲルスの伝記を読んで一番驚かされたのは、その学習・研究量、仕事量の膨大さと、その人間性の高潔さであった。2人とも、人類がそれまでに到達した学問的成果を一つ一つ洗い出し、その成果を正しく評価し、先人たちの偉大な発見を称え、その発見の真の歴史的意義を明確にし、更に、その成果を引き継ぎつつ、その説を止揚させ(正しい側面を継承し、弱点を克服し、新しい段階に発展させ)、自らの哲学―弁証法唯物論(宇宙・世界の根本的な運動法則・原理)と史的唯物論弁証法唯物論に基づく人間・人類の根本的な歴史法則・原理)を完成させているのである。マルクスエンゲルスも自分の哲学・学説に絶対的な自信を持っていたが、同時に、偉業を成し遂げた先人たち・過去の歴史に対しては実に謙虚であり、自惚れとはまったく無縁の人であった。

ところで、そうした人類の英知、普遍的な真理としてのマルクスの哲学が、「労働者階級の哲学」と呼ばれるのはなぜか?勿論、それは「マルクスの哲学は労働者階級の人間にとってのみの真理である」などいうことではない。

哲学の研究・学習・習得においては、常に「仮借ない理論的批判的精神」と「私利私欲の無い公平な精神」が求められる。かつて、封建制打倒を目指すブルジョア革命の時代には、資本家もその代弁者たるイデオローグ(グルジョア的理論家・思想家たち)もそうした「仮借ない理論的批判的精神」「私利私欲の無い公平な精神」を持っていた。しかし、資本家や資本主義的イデオローグが権力を握り、その権力を守る時代に入ると、そうした精神はまったく消えうせてしまった。「無難でどっちつかずの中途半端な意見」と「卑俗きわまる立身出世主義」「卑屈な忖度的態度」がはびこり、「栄達と収入にたいする臆病な心づかい」が、かつての優れた「仮借ない理論的精神」「私利私欲の無い公平な精神」にとって代わってしまった。そして、今では、彼らが公然と対立している労働者階級とその擁護者としてのイデオローグのもとでだけ、「仮借ない理論的批判的精神」と「私利私欲の無い公平な精神」が、委縮しないで、健全な形で存続しているのである。労働者階級の中からは「栄達や利殖やお上からの恵みぶかい保護的心づかい」は生まれようがない。反対に、科学が顧慮もなく忖度もなく囚われるところもなく前に進めば進むほど、科学はますます労働者たちの利益と要求とに一致するようになる。即ち、「栄達や利殖やお上からの恵みぶかい保護的こころづかい」に囚われることのない労働者階級、人民大衆、良心的で公平で先進的な知識人だけが、マルクスの哲学―弁証法唯物論史的唯物論―を人類最高の英知として、普遍的真理として、率直にこれを受け止め、よく実践することができる、ということである。

つまるところ、偉大な真理、全人類的英知は、私的個人的利益の追求に汲々としている近視眼的な資本家たちとブルジョア的権力支配者たち、その知的代弁者たちには、絶対に理解不能だ、ということである。この真理を理解し、自らの思想として実践することができるのは、その存在を共同と協力の世界に置いているが故に公平無私の精神を豊かに持つ労働者階級と人民、先進的な知識人だけである、ということである。

 

さて、哲学を独学独習する中で辿りついた私の結論は、マルクス主義哲学は正しく、偉大である、ということであった。とりわけ私が共鳴し、共感したのはマルクス・エンゲルスの〝止揚〟という考え方・哲学法則であった。

特に、エンゲルスが『空想から科学への社会主義の発展』(1880年)や『自然弁証法』(1875年)で語っている次の一文が、私の頭脳を強烈に捉えた。

『素朴な革命的な態度でこれまでの一切の歴史を簡単に排斥し否定するやり方に対して、近代唯物論は歴史を人類の発展過程とみなし、その運動法則を発見する事を自分の課題とするものである。…弁証法における否定とは、単に否というのでもなければ、何かのものを存在しないと言い切ることでも、またそれを任意な仕方で壊してしまうことでもない。…ただ否定するだけでなく、またその否定を再び止揚しなければならない』と。

この一文を読んだ時、頭の中の霧のようなもやもやは完全に晴れ、この止揚の思想、即ち《事物の核心的真理を継承し、不十分を反省・克服し、事物をより豊かなものへと成長・発展させる》という思想に拠らない限り、現代の大問題である徳田球一スターリン問題を正しく解明することは絶対に不可能である、と確信することができた。

この止揚という考え方は、特別に難しい考え方ではない。私たちも、自分の人生を振り返り、自分の生き方を決め、自己を正し、自己をより良く発展・成長せしめようとする時、無自覚的に止揚の哲学を応用しているはずである。もし、われわれが自分の人生の全てを否定し、清算するなら、それは自らの存在そのものを否定することになり、そこからは生産的なものは何一つ生れてこない。自分という存在の核心的真理(己を生み、育て、導いてくれたもの)を確認し、それを引き継ぎ・継承し、その上で、自らの不十分・未熟さ・失敗経験を反省し、克服し、己をより成熟した段階へと成長・発展させること、これが止揚であり、多くの人々が実践していることである。個人の歴史と人類の歴史とは規模・スケールが違うが、しかし、対処する根本的な態度・姿勢は同じである。

こうした考え方は、『君たちはどう生きるか』を読んでいるような、真面目で、哲学的な読者の皆さんにとって、たいへん身近な考え方のはずであり、既によく実行・実現しているに違いない。