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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第17回)・哲学―再び唯物論と観念論について

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート

 

 マルクスの哲学は勿論唯物論の立場に立つものであり、観念論とは正反対の立場に立っている。どんな考え方もそれを突き詰めていけば、唯物論か観念論か、いずれかに帰着する。中間はない。ここで、哲学の根本である観念論と唯物論について、その根本的な違いを総論的に説明しよう。

 まず、観念論とは何か。

 観念論とは、宇宙や地球や生命や人間など、この世の全ての存在は皆、意識・精神を持った神、ある種の創造主・絶対者が創ったものである、と主張する。かつては、動物にはない人間だけが持っている精神世界は、神が人間のみに与えた偉大な力である、と信じられていた。観念論は、全てにおいて意識や精神を絶対的優位に置き、物質や現実存在は一段と低い存在である、と考える。勿論、だからと言って、観念論者は皆一様に神仏を崇める熱心な宗教家・信仰家であるというわけではない。しかし観念論的立場に立つ限り、何らかの天地創造主・絶対者の存在を前提とせざるを得ないことだけは確かなことである。

 また、意識や精神はいかなる制約も受けず、完全に自由な現象である、と考える観念論は、個人の理性・道徳・倫理を最も重視し、精神・心が善に変われば人間関係も人間世界は全て善に変わる、すべては精神・心の持ち方次第である、と考える。つまり、この世の様々な矛盾、人間の不幸、悲劇などは全て精神・心の改善によって解決される、と考える。したがって、現実に存在している世の中(社会)の仕組み(環境)を変えるのではなく、人間の意識・精神・心を善なるものに変えればどんな悩みも矛盾も解決する、ということになる。したがって、ここからは社会変革という発想はまったく出てこない。結局のところ、「人は生まれながらにして悪である」とか、「彼は生まれ付き根性が悪かった」などという性悪説に行きつくか、「すべて、その人個人の考え方・精神に責任がある」などという自己責任論に行きつく。そして必然的に、観念論は、法律や権力(力・腕力)を使って「個人の考え方を強制的に矯正する」という「解決」に至るのである。

 このような観念論は、現在の社会体制を是とし、その社会体制を維持し守らんとする人々のもの、現在の社会体制の変革を否定する人々のものであり、その意味において、観念論はまさに保守的な人々の哲学思想である。

 これに対する唯物論の考え方はどうか。

 この宇宙は永遠の過去から永遠の未来に向かって発展する物質の運動であり、宇宙の一部たる地球や人間もそうした物質運動の一部であり、常に変化し発展し続けている、と主張する。主張するというより、現実が実際にそうなっているということである。従って宇宙の全て、地球も生命体たる生物も人間も全て物質であり、意識や精神も物質たる人間の頭脳が生み出したものであり、当然意識や精神は客観的に存在する物質世界(土台)を概念的に反映させたものである、と考える。簡単に言えば、先に山という存在があり、その反映として山という言葉(意識・概念)があるのであって、その逆ではないということである。

 そして、重要なことは、本来行動的で実践的な生命体・動物である人間の頭脳の産物たる意識・精神は、土台(存在)を反映するだけでなく、生命体本能としての能動性を持っているということである。人間の意識・精神は物質世界(土台としての存在)を概念的に認識する(反映する)だけでなく、土台・存在に能動的に働きかけ、その存在に強力な作用を及ぼし、その存在の運動の変化と発展に強い影響をもたらし、運動の発展を促進し、飛躍的前進を実現させる、そうせずにはおれない、ということである。その意味で、唯物論は、観念論とはまったく異なる観点から、意識・精神の果たす決定的な役割を重視する。

 唯物論は、観念論と違って、人間は現実に存在する土台を正しく反映させた意識―科学的な理論・思想―を発見し、これをもって更に自然・社会の土台に働きかける、そういう存在である、と主張する。つまり、その理論・思想(必然性・法則性の認識)を、実行者・技術者・労働者・人民が自らのものとすることによって、自らの変革的目的意識的行動力を高め、強力な力を発揮し、必然性・法則性に沿って(必然性・法則性の認識を運用して)、現実の物質的世界を成功裡に変革し、自然や社会を変革していくことができる、ということである。

 観念論や宗教が説くように、ただただ頭の中の意識、精神、心の持ち方を変えれば現実世界の不幸や悩みが解決するというのは、単なる幻想・誤魔化しでしかなく、そんなことで現実の存在や環境が生みだしている現実的な悩み、苦しみ、矛盾が根本的に解決されるはずがない。「精神が変われば全ては良くなる」というのはあくまで一時的な幻想でしかない。「宗教は一種のアヘンである」と言われるのはそれ故のことである。

 繰り返しになるが、マルクスの到達した唯物論は科学的な目的意識・精神というものを非常に重視しており、決して軽視しているなどということはない。観念論と違って、現実の存在を科学的に正しく反映した意識(科学的理論・法則)を重視し、その意識(科学的理論・法則)に基づく現実変革の実践―革命的実践を求める。それが人間の必然的な本性であり、本能であり、人間存在の本質なのである。

 エンゲルスが「この一文の中には新しい世界観の天才的芽生えがかくされている」とし、《フォイエルバッハ関するテーゼ》と命名した、マルクスの書き残した短い文書の第11項に、次のような一文がある。「哲学者は世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」と。ここに、マルクスの魂の叫びがあり、真の哲学者たる者の保持すべき人格、人間性、人間像がある。哲学の実践、哲学に基づく変革、ここにマルクスの哲学のもっとも重要な核心がある。