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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第20回)・叔父さんが語った「生産関係論」について・1

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート

  叔父さんが語った「生産関係論」は、実はマルクスの歴史哲学たる史的唯物論の一部である。当時の治安維持法下では、マルクスの哲学を全面的に論じる事が出来なかった。それ故、その一部を論ずることしかできなかったという事情があった。

 そこで、コペル君の問題意識を踏まえつつ、マルクスの哲学―史的唯物論について、詳しく、全面的に述べることにしよう。

 マルクスが定式化した哲学思想、史的唯物論とは何か。史的唯物論とは、弁証法唯物論という哲学科学思想によって世界と人類の歴史をみつめ、とらえ、判断し、解明した科学的歴史観のことであり、実践と行動のための指針である。  

 マルクスは『経済学批判・序言』(1859年)において史的唯物論を定式化しているが、エンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』(1845年)において、その思想内容を詳細に展開している。その核心は次のようなものである。

(1)人間の生きる力、エネルギー(生きる意欲)こそが人間社会の根本であり、そのエネルギーを源泉とする生産力こそが人類社会を発展させてきた原動力である。

 人間は生きるためには、生命を維持し、生き延びるためには、まず何よりも食わねばならず、更に住居・衣服が必要である。人間の歴史、人間存在、人間の歴史や文化を語る時、これを抜きに語ることは出来ず、もしこの土台を欠いて人間を、そして自己を語り、哲学を語り、宗教を語るならば、その言説は全て砂上の楼閣でしかなく、虚しいおしゃべりに過ぎなくなる。

 その重要な食・住・衣を作りだす活動、それが生産活動である。その生産活動は二つの要素からなっている。一つは、労働力、人間の労働能力である。もう一つは、生産手段、つまり道具、機械、土地、建物、原料などである。勿論決定的なものは一つ目の労働力である。生産手段を作ったり、集めたりするのも労働力である。労働力抜きには一切の生産活動は実現できず、何も産み出せない。そして、人間の生きるためのエネルギーの発現たる労働力と生産手段からなる生産活動とその力―生産力―は常に向上、発展、前進、成長という特質をもっている。生産力の発展が人間の歴史発展の根源・原動力である、という意味がここにある。

 そして、重要なことは、この生産活動と生産力は必然的に社会的性格を帯びざるを得ない、ということである。なぜなら、人類は生れたその瞬間から、互いに協力し合い、共同し合い、連帯し合って生産活動を行い、生産力を高めて来たからである。石器時代縄文土器時代当時を描いた挿絵をみれば、こうした人類の生活ぶりがよく判るであろう。人類社会は、生産活動と生産力に携わる人びとの協力と共同と連携という社会性なしには成立しないし、生産目的もまた多くの人びとと社会のためという社会的な性格を持ち、常に社会的性格を高めて来たからである。

 当然共に暮らす人々の中には子供もいれば老人もおり、病人もいたし、怪我人もいた。生まれつき障害を持った人もいたはず。そうした人々を含めて、人類は類として、群れとして、共同体社会として生産活動を展開し、その生存を守り、生産力を向上、発展させてきた。それが当たり前であったのだ。今はやりの「自己責任」などという馬鹿げた概念など存在せず、そういう馬鹿なこと言う人は一人もいなかったであろう。

 人間にとって、生きる意欲(エネルギー)・生きる力・何かを生み出そうとする労働能力、そして不断の生産力の向上を目指す努力と闘い、そしてそれを成すための共同性・社会性こそ、それこそが人間存在の本質にほかならないのである。叔父さんがコペル君の「人間分子 網目の法則」の「発見」を高く評価し、更に浦川君一家の「油揚げの労働」について、「生産する人」について、」「病気の若い衆」について詳しく語っている背景には、こうした史的唯物論の重大な理論が存在しているのである。