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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第20回)・叔父さんが語った「生産関係論」について・3

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎-私の読書体験ノート

 

(3)生産関係が土台となり、その上にそれに照応した社会的感情・感覚・意識が生れる。

人類、人間は動物(或る種の猿)から分化し、進化して来た。気の遠くなるような長い年月をかけて、その姿、形、機能を変化・発展させてきたが、特にその脳―脳も物質・筋肉であり、言葉・意識もその脳が生み出しているものである―は人間だけが保有する機能、立って歩いて手が自由に使えるようになるというその機能によって大いに発達を遂げた。そしてその脳が様々な欲望、感情、感覚、知能を生み出し、発展、変化させた。こうして、人間とその脳は低い段階から高い段階へと、一歩一歩発展して来たが、こうした脳が生み出され、発達したのは、すべて環境の産物であり、環境によってすべて作り出されてきたのである。そして、重要なことは、人間とその脳はまた、その知的能力によって逆に環境を支配していった、という事実である。人間はその頭脳活動によって自然界の様々な性質(法則)を知るようになり、自然界に存在するものを目的意識的に利用する術を学んでいったのである。

さて、人間の欲望や道徳感情というものは常に環境によって変化してきたのであるが、人類の採集生活、原始的共同体社会、共同的生産関係が土台(物質的環境)となって生れたのが、共同的で協力的な社会感情であった。

ここに2017年11月に筑摩書房から出版された『日本の人類学』という興味深い本がある。山極寿一氏と尾本恵市氏の対談である。山極氏は京都大学の総長を務めた人物であり、人類学と霊長類学を専門とし、ゴリラの生態観察から人類や文明の起源を探究して来た学者である。尾本氏は、東大の理学部出身で理学部教授、国際日本文化研究センター教授を歴任し、アイヌやフィリピンのネグリト族(東南アジアに住む身長が小柄な少数民族で、これらの地域にマレー系民族が広がる前に住んでいた先住民族)の起源の研究者として世界的に有名な学者である。

尾本…皆さんは、狩猟採集民のことを学ぶ意味がわからないと思うでしょう。

しかし私は、現代文明を知るためには、逆に現代文明を採用しなかった人たちのことを学ぶ必要があると思うのです。人類にとって、農耕よりも狩猟採集のほうが古い、初原的な生業形態です。

山極…もっと極端に言ってしまうと狩猟採集というのは私有を否定する文化なんですよね。私有ではなく共有です。

尾本…そうですね。本来土地は私有する物ではなく、みなで共同利用するものでした。

山極…ぼくもピグミーと一緒に仕事をしてますが、彼らは道具を私有化せず、常に仲間と交換している。昨日は相手が持っていたものを今日は自分が使い、明日はそれを相手に貸し出す。そういうやりとりをすることにより、食料をも分配の対象とする。だから彼らは、ものを限定しない。

一方で資本主義というのは価値の共有から起こってくるわけですが、価値を共有しつつそれを私有化しますよね。私有化することによって個人間の差異を付け、そこに階層や社会関係を当てはめていく。そこが狩猟採集民と大きく違うところです。我々は私有化からなかなか逃れられず、それが大きな価値観になってしまっている。われわれは狩猟採集民から「私有というのはそんなに大切なのか」ということを学ぶべきだと思います。彼らの生活を見ていると、「わかちあい」の精神が暮らしの隅々まで行き届いていることがわかります。よく言われるように、死ぬ時には何も持っていけない。ものを持っていられるのは、生きている間だけですよね。』

山極…平等ということに関して、面白い話があります。ぼくが付き合っているピグミー系の狩猟採集民は自分でも道具を持ってるんだけど、狩りに行く時には自分の道具を使わず にわざわざ仲間の道具を借りていく。それは、仲間に獲物を分配するという前提があるからです。彼らの間では、あらゆるものは共同と見なされている。これは我々にとっても、 すごく参考になることです。一人だけでなく誰かと一緒に何かをやったほうが自分も相手も幸せな気持ちになれる。狩猟採集民は、そういう状態をつくりだすための仕掛けをたくさん持っている。ところが今、われわれが生きている現代では、自分が充足するための仕組みはいくらでもあるんだけど、他者と共同して両方が楽しくやるための仕組みはなかなか見つからない。それは自分で探し出し、相手とも合意しなければならないのでハードルが高い。しかし狩猟採集社会では、そういう仕組みがあらゆるところに張り巡らされている。我々は、それを 学ぶ必要があると思います。

尾本…そうですよ。これは「裸で暮らせ」という意味ではない。狩猟採集民の生活、アニミズムの思想には、限界を超えて発展し続ける文明にとって、参考になる点がいろいろある。とくに言いたいのは、自然に対して謙虚になれということです。』

 ところで、マルクスは―後でまた詳しく触れるが―この原始的ではあったが共同と共生と連帯を靭帯とする人間的な社会は、螺旋的発展過程を経て、近代コミュニティー社会たる社会主義社会・共産主義社会の中に再現・復活されると述べている。

かつての原始時代 それは極めて人間的な社会であった。現代の資本主義社会では、全てが「自己責任」とされ、全てが「個人の責任」とされている、極めて冷たい世の中である。だが、原始共同体社会においては、決して「自己責任」「個人の責任」など問題にならなかった。恐らく―いずれ学問的にも明確に証明されるであろうが―老人であろうと、病人・怪我人・障害者であろうと、皆共同体の一員として、共同体によってしっかりと守られていたはずである。