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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第25回)・資本主義とは何か (5)

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎-私の読書体験ノート

 

(3)「個人的で私的な生存競争」は資本主義の本質的特性であり、資本主義発展のエネルギー源である、ということ。

 「個人的で私的な生存競争」を徹底して追求している典型的な資本主義体制の国家、それはアメリカである。アメリカ社会を語る時にいつも「アメリカンドリーム」という言葉が出て来るが、その核心にあるもの、それが「個人的で私的な生存競争」の原理である。「自由」を求めてヨーロッパから新大陸にやって来た移民による建国の歴史、移民白人にとっては未開拓地であった西部の自由勝手な開拓の歴史、それらがアメリカ資本主義に濃厚な「個人的で私的な生存競争」的色彩を与えたのである。そのアメリカの「大成功」が、激しい「個人的で私的な生存競争」を一気に世界化させた、ともいえる。

 いずれにせよ、「個人的で私的な生存競争」の原理は資本主義の本質的特性であり、その行動・闘いの原動力である。そして、重要なことは、資本主義の上昇期、発展期には、この原理はその「成長のエンジン」として活発に作用する。だがその反面において、労働者の貧困化・小企業の倒産・公害・マスプロ教育・荒れる学校・暴力的事件・金権政治が多発し、下からの、民衆の側からの様々な抗議行動が発生する。しかし、現代のような資本主義が行き詰り期に達するや、「個人的で私的な生存競争」の原理は「成長のエンジン」どころか、社会全体に対して深刻な破壊的作用を及ぼしていく。

 戦後の日本の歴史を振り返ってみよう。

 1950年代半ば、朝鮮特需をきっかけに日本は高度経済成長期を迎える。1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博はその成長と発展の大きなテコとなった。「欧米大国に負けるな、追い付け、追い越せ」という競争的スローガンが旗印であった。そして1968年には国民総生産(GNP)が当時の西ドイツを抜き、遂にアメリカに次ぐ第2位となって世界を驚かせた。

 日本は、企業家も国民も、敗戦後の破壊の中から、経済復興目指して死に物狂いの行動を開始した。互いに競い合って、経済復興を目指した。「欧米に追い付き、追い越せ」のスローガンのもとに。まさしく、競争原理は戦後日本の発展の原動力であった。

 しかし、「平和で豊かな国」の建設を目指したこの戦後復興は、アメリカナイズされた、その激しい競争主義によって、経済至上主義・拝金主義が煽りたてられ、公害・マスプロ教育・荒れる学校・暴力的事件・金権政治等々を多発していったのである。教育面では、「受験戦争」という言葉に代表されるような、成績至上主義・学歴至上主義が煽りたてられ、子供たちの世界もまた激烈な「競争原理」に支配され、その人間的絆はバラバラに破壊されていったのである。

 その頂点で起こったのが、既に述べた、1960年代末から1870年代にかけて爆発した学園闘争・全共闘運動、公害反対運動、反米闘争等々、であったのだ。

 そして、21世紀を迎えた今、資本主義はその高揚期を過ぎ、その行き詰りは明々白々となっている。法政大学の経済学教授・水野和夫氏はじめ多くの経済学者が「資本主義の終焉」を宣告している。この資本主義の後退・崩壊は、もはやかつてのように競争原理が前進発展の動力としての作用を失っていることを教えている。景気刺激のために膨大な投資・資金補給を行っても、もはや生産が活発になることはない。なぜか、過剰生産体制が定着し、モノが有り余っているのである。一方それを消費する民衆は貧困化し、買う金がない。生産が停滞する時、社会の至る所に「やる気のなさ」が蔓延し、「不正」「詐欺」が蔓延り、世の中全体も子供の世界も、閉塞状況の中におかれる。そうでありながら、資本主義体制はなお競争を強いられ、そのエネルギーと矛盾は内攻化し、それは子供たちの心の破壊へと向かい、引きこもり、いじめ、精神異常を生み出し、前代未聞の「異様な事件」を次々と引き起こしていくのである。

 しかし、競争原理は資本主義特有の活動エネルギー源であって、資本家階級にはそれを投げ捨てることは絶対にできない。したがって、「不正」も「詐欺」も「異様な事件」も絶対に解決することはできないのである。逆に、彼らは「個人責任」を言い立て、人々の「個人間競争」「私的競争」を一層煽りたて、ますます人々を息苦しい世の中へと追いやっているのである。