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(小林尹夫-哲学ルーム)

アメリカ発世界恐慌(1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第10回)

 

  

1929年の恐慌勃発によってアメリカ(と世界)経済は急速に崩壊を開始し、それは1932-33年に底を打つまで低落・崩落し続け、アメリカの労働者・民衆に残酷な影響をもたらした。

秋元英一氏はその著書で、アメリカの歴史家ギルバート・セルデスの分析を参考に、29年の大暴落から33年のニューディール開始までを三つの時期に分け、その残酷な影響の実態を明らかにしている。

  • 1929年10月~1930年9月

1929年の失業者155万人 労働人口の3・2%

  1930年の失業者434万人 労働人口の8・7%

  • 1930年10月~1931年12月

1931年の失業者802万人 労働人口の15・9% 

  • 1932年1月~1933年3月

  1932年の失業者1200万人 労働人口の24%

 多くの失業者にとって仕事の確保は遠い夢、寒さと飢えからどう身を守るかが最大の問題であった。遠方政府や州政府や民間団体の救護事業は、失業者の急増によって財源が枯渇し、危機に瀕していった。解雇を免れた就業者も労働時間が大幅に削られ、1932年の週平均賃金は1929年の3分の1に減じていた。

建設業の場合は75・4%減であった。黒人の失業率は白人よりもはるかに高く、悲惨であった。

 秋元氏は、1931年初めのニューヨーク職業斡旋所を取材したある記者のつぎのようなレポートを紹介している。

『部屋はまったく静かだ。かすかな、求職者たちの絶望的なさざめきが聞こえる。この侮辱を強いる社会システムの上で辛抱強くしていて、彼らはまったく無言で立っている。何も出ていない状態は苦痛だ。私の近くのデスクの向こうでは事務員が鉛筆をもてあそびながら、すわっている。待つ。電話が鳴った。新しい仕事だ。せかすような会話。カードが記入され、半白髪の、丸い顔をして、あごひげがカールした「競売人」に手渡された。メガホンをつかんで、素早く壇上に立って、彼は叫ぶ。 「タイプライター修理、男性、一時間一五セントで、四時間労働。デスク、ナンバー2」。群衆の中に動きがある。固まった一団が揺れる。半ダースの人々が人波をかきわけて出てきた。仕事が、至福の恵みが、おそらくは手の届くところにある。彼らはあらん限りのアピールをしながら事務員にむしゃぶりつく。「どうか、ミスター、私は熟練の機械工です」「どうぞ、私は家族もちなんで」「チャンスをく だせえ」。すばやく、その事務員は二人を選びだす。幸運な二人の競争者はこぶしのなかに貴重なカードを握りしめて部屋から走りだす。どちらも「相手をやっつけ て仕事をとる」ことを望みながら。一つの仕事に二人が送られ、雇主が選ぶのだ。 事務員は彼の机に戻る。重い足を引きずりながら、二人以外の失望した競争者がゆっくりと戻り、辛抱強い群衆と再び一体化する。二人をのぞいた残り1000人の絶望的な人びとが無言の訴えのなかに凍りつく。もう一度電話が鳴るまで 。

平均すると5000人が毎日このフロアに仕事を求めてやってくる。1万人になることもある。およそ300~400人が仕事を得る。ほとんど全部が臨時職だ。』

また、秋元氏は、恐慌に直面した民衆のホームレスへの転落過程を次のように描いている。

『何の警告もなく、 人口19000人の中西部のある町では、1932~33年の冬、銀行破産の波がおそった。この町を訪れたある記者は、以下のように報告している。

銀行と銀行家が売った債券の崩落がこの町のデフレーションの直接的な原因となった。学校の教師、保険のセールスマン、ブルーカラー、歯科医、退職した農民たちは、生涯の貯金が消え去り、保障がなくなる体験をした。

この町のファースト・ナショナル・バンクが破産第1号だ。事前警告は何もなかった。営業日の日中に検査官がドアを閉めた。この銀行は、合衆国財務省支店と見なされていて、州でももっとも古い銀行の一つだった。2~3時間以内に誰もがこの破綻を知った。預金者たちは驚愕して信じられない面もちで小グループごとに集まってドアに張り出された通告を読んでいる。…もっともショッキングな例は老齢のギアマン夫人だった。彼女は閉められた厚いガラスのドアを拳でたたき、大声で、あるいはしくしくと、人目をはばかることなく泣いた。彼女は貯蓄口座に彼女の夫の保険金から2000ドルと、粗末な敷物作りで25年間かかって貯めた963ドルを貯金していた。何も残らず、慈善に頼るほかなかった。』

そして、やがて人々は「自分の住宅から追いだされる」ことになる。

『 一家の主たる働き手が失業してしまった場合、まず貯金が使われ、それもやがてなくなると、住宅が自分の所有であれば、融資返済ができないから抵当解除で追いだされる。親戚や知人の好意にすがって身を寄せることもできるが、失業の長期化でストレスもたまり、いづらくなる。ひとり、またひとりと個人が、そしてやがては家族全体が家やコミュニティの絆を捨てて新たな生活を求めて彷徨しはじめる。このようなホームレスの人びとの群がしだいにあちこちで目立ちはじめ、恐慌の比較的初期でも「国中に移動民の新たな群が動き回っている」ことが確認された。

こうした人びとの動態を把握する調査が1933年1月に行われたが、全米809 の都市で救済を受けている人びとの数は37万403人であった。調査の網にかからない、橋の下や壊れた建物、野外で夜を過ごしている人びとをカウントすれば、おそらく122万5000人を下らないであろうといわれた。その約半数が短期滞在者である。

大恐慌下の移動民たちは、かつての浮浪民とちがい、放浪自体が目的ではなく、新しい家を探し、あるいは仕事があって定着できそうなコミュニティに行き当たれば、そこで立派な市民になるはずの人びとだったといわれる。

フランクリン・ローズヴェルトが知事をしていた時期(1929~33年)のニューヨーク州では、3500もの工場が閉鎖され、工場労働者は110万人から73万人へと減少し、賃金支払総額も16.5億ドルから7.5億ドルに減少した。スープ・キッチン、ミルク・ステーショ ン、過剰に混雑した宿泊施設は当たり前のこととなった。救済や公共事業の拡大にもかかわらず、状況は悪化するばかりだった。

たとえばバファロー(ニューヨーク州北西部の都市)でもホームレスで市の宿泊施設に登録した人びとの数は1929年の6万5493人から1933年には75万人へと激増し、宿泊者数も46万人となった。ニューヨーク市では、登録者数は1929年の15万8000人から1934年には223番人へと急増した。1日平均にすると、433人から6120人への増加である。予算と施設の制約から、非居住者の宿泊は一月に一日と 制限された。居住者の場合には登録した後、5日間の単位で延長することができた。 最大の施設では一晩に1500人が泊まることができた。

ここへ泊めてもらう手続きは、誇りを捨てて、中央登録所に行こうと決意したときからはじまる。氏名、年齢、「昨晩どこで寝たか」を福祉事務員が記録する。各応募 者は二年以上居住しているニューヨーカーかどうかを尋ねられる。答えがイエスな ら、少なくとも二週間は泊まれる。そうでなければ、一晩だけだ。うそをつく人も多 かったであろう。

そこから人は、困窮者のための生活様式をなす多くの行列の一つに入るように進む。午後五時の食事の行列は午後早くからつくられ、警察がきちんと監督している。夕食時間がくると、ガードマンが「牛を追い出すのとよく似たやり方で陰気な群衆を通路に沿って」誘導する。「OK」のサインと同時に飢えた人びとが最初の席を確保しようとする競争がはじまる。 …

都市によっては「定着」する人たちの「村」が作られた。あり合わせの材料で雨露をしのぐ家が集まったものである。ニューヨーク市にもブルックリンの一角に「フーヴァー・シティ」ができた。1933年の冬、600人程度の人が住んでおり、子どもも一人生まれた。警察が大目に見る限り、そこでの生活は自由で住民は友好的、そこから仕事探しに毎日通っていたという。こうした人びとも大半はアメリカン・ドリ ームを継承すべき中産階級や労働者階級の出身だった。ほんの昨日まで、彼には家と、家族と友人とコミュニティがあった。ほとんど自分の力のおよばない理由で彼の夢は壊され、彼自身がその不可欠の部分をなしていたアメリカから切り離されてしまったのである。

女性の放浪者もいた。1933年に約40,000人いたとの推計がある。これは、男性の場合とちがって、恐慌前には見られなかった光景である。…

アメリカ南部の農業生産に従事していた黒人たちが、本格的に北部都市に移動しはじめるのは第一次大戦前後からである。戦争によってヨーロッパからの移民が途絶え、企業は増大する労働力需要を黒人でたすことを考えなくてはならなかったから である。

黒人男性の多くは底辺の単純肉体労働に従事した。恐慌前の黒人男性の週賃金の平均は18ドルだった。既婚黒人女性の就業率は60パーセントで、白人女性の4倍以上だった。恐慌になると「最後に雇われ、最初に解雇される」黒人の失業率は50パ ーセントをこえ、賃金は半分以下に減少した。 伝統的に黒人男女の仕事だった職種に、失業している白人が「侵入」してきた。家内サービス、ゴミ収集人、エレベータ ー・オペレーター、ウェイター、ベルボーイ、街頭掃除夫などに白人が優先して雇われるようになり、黒人は締めだされた。

南部では経済状態の悪化とともに黒人にたいするリンチの件数がふえる傾向にあった。 黒人の都市における居住環境はこれまでにもまして悪化した。ニューヨークのハーレム地区では25年間に人口が6倍、35万人にふくれあがり、人口密度がこれまでになく高くなった。家族全体で1部屋という場合が珍しくなかったし、アパートの所有者は条件からすればきわめて割高な家賃を徴収した。廃棄されたビルや冷暖房や水道の使えないビルに多くの家族が住んでいた。恐慌下にもかかわらず、南部からは 1930年代に40万人が北部に向かった。』

以上が恐慌に巻き込まれ、ある日突然地獄に突き落とされたアメリカ民衆の哀れな、悲惨な実態であった。

これはアメリカだけのことではなかった。世界のすべての資本主義国で同様の悲惨な状況が発生していたのである。

さて、いよいよ、こうしたアメリカ発世界恐慌が、1929年にもそして現代の2008年にも、なぜ発生したのか。次回より、その根本原因に迫っていきたい。