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(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第1回)

 独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅 岩波新書)批判

    2022年8月1日更新  次回更新は8月10日

 

  はじめに・その1

 現在、世界中で「スターリン冒涜」「スターリン批判」なる“妖怪”が跋扈している。その直接の要因・原因は「ウクライナ戦争」の勃発にある。この戦争の本質は、NATOの東への拡大を目指す「アメリカ帝国」と〝旧領土ウクライナ〟の奪取を目指す「ロシア帝国」の領土・国境争いであり、まさに帝国主義戦争そのものである。

この戦争において、「ロシア帝国」の大統領プーチンは、自らの侵略主義を正当化するために、「ナチスファシストを打ち破った独ソ戦争はロシア民族の偉大な勝利であり、誇りである。我々は再び必ず米国と西側のファシストの手から神聖なかつての我が領土ウクライナを解放する」とし、2022年の「5・9戦勝記念日」(1945年5月9日、ナチス・ドイツが降伏文書に調印し、ソビエト独ソ戦争に完全に勝利した記念日)を大々的に祝い、自らの「ウクライナ侵略」の美化を図った。だが言うまでもなく、ナチスを倒した独ソ戦争は、社会主義ソビエトのものであり、スターリンのものであり、第二次世界大戦を戦った全世界の人民のものであり、断じて「プーチンとロシア民族・ロシア帝国の手柄」などではない。ナチスドイツ・ファシズムからの解放を闘い取った「独ソ戦争」と帝国主義侵略戦争たる「ウクライナ戦争」とはまったく違う性質のものであり、何の共通性もない。むしろプーチンの言っていることやっていることはヒトラーと同じである。プーチンの言動は「偉大で英雄的な独ソ戦争・スターリン社会主義ソビエト」に対する卑劣な冒涜以外の何ものでもないのである。

 一方、米国とNATO側もまた、自らの覇権拡張の野望と侵略主義を棚に上げ、封建時代のロシア皇帝ピョートル大帝プーチン大統領スターリンとを横並びにし、「昔も今も、独裁と専制主義はロシア民族の伝統だ」「プーチンの独裁は、ヒットラーの同類たるスターリンの独裁とまったく同じものだ」などと断じ、ここぞとばかりに、プーチン批判に止まらず、プーチンになぞらえて「スターリン独裁批判」「スターリン冒涜」を繰り返している。

 

 こうした勝手きままな「スターリン冒涜」「スターリン批判」が公然と繰り広げられ、世界中に広められる決定的原因を作ったのは誰か?フルシチョフである。当時のソビエト共産党の最高責任者・第1書記であったフルシチョフは、スターリン死後開かれた、1956年2月の「ソビエト共産党第20回大会」において、内部における組織的討議抜きに、いきなり秘密報告―いわゆる「スターリン批判」―を行った。その内容はまことに驚くべきもので、まさに「スターリンは血の粛清をやった冷酷な独裁者」というものであり、人々を唖然とさせた。そして、この内容は6月4日にはアメリ国務省によって全世界に大々的に公表され、世界中に衝撃を与えた。フルシチョフと米国務省は互いに通じ合っていたのである。

 では、いったい、当時の世界の労働者、人民、一般世論はスターリンをどのように見て、どのように評価していたのであろうか。

 1953年(昭和28年)3月5日のスターリン死去に際し、3月6-7日付『朝日新聞』は、その死去発表、葬儀の様子、スターリンの人となりについて、客観的に、また事実に沿って、次のように報じている。

 「ソ連共産党中央委員会、ソ連閣僚会議(政府)、ソ連最高会議幹部会は六日次の通り発表した。

 全ソ連共産党員およびソ連全労働者諸君、親愛なる同志および友人たちよ、ソ連共産党中央委員会、ソ連閣僚会議、ソ連最高会議幹部会は深い悲しみをもってソ連共産党および全労働者諸君に対し、三月五日九時五十分(注:日本時間六日午前三時五十分)ソ連閣僚会議議長(首相)、ソ連共産党中央委員会書記ヨシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ・スターリンが死去したことを発表する。

 同志の魂であり、レーニンの意志の継承者であり、また共産党ソ連国民の賢明なる指導者であり、教師であったスターリンは呼吸を止めた。スターリンの名はわが党ソ連国民および世界の労働者にとって無限の親しみを与えている。同志スターリンレーニンとともに強力なる共産党を作りあげ、これを育成強化した。同志スターリンレーニンとともに偉大なる十月革命の鼓吹者、指導者であり、そして世界初の社会主義国家の創設者であった。同志スターリンレーニンの不滅の教義を継承し、わが国においてわが国民を社会主義の世界史的勝利に導いた。同志スターリンは全国際舞台に激変をもたらした第二次世界大戦において、わが国民をファシズムに対する勝利に導いた。

 その一生を共産主義に対する無私の奉仕にささげた同志スターリンの死は、ソ連共産党ソ連の労働者および全世界にとって測り知れない損失である。同志スターリンソ連において共産主義を建設するという偉大な明快な計画をもって党および全国民を武装した。同志スターリン死去の報道はわが祖国の労働者、集団農場の農民、知識級階、全労働者、わが輝かしき陸海軍の戦士の心に、また何百万の全世界の労働者の心に深い痛心をもたらすであろう。…」

 「手離して泣く運転手 死の街と化したモスクワ  【モスクワ六日発=エディー・ギルモア記者=AP】一般ソ違国民にとってどうしても考えたくないことがついに起った。クレムリンのヨシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ・スターリンが死んだのである。六日の朝まだき、記者 (ギルモア記者)は雪深いモスクワの街を自動車で走っていた。このとき車内のラジオが「同志スターリンは発病してから四日後の五日午後九時五十分遂に死去した」と放送した。運転手は以前ソ連陸軍の軍人であったそうだが、この放送を耳にしてぼう然としてしまい、中央電信局へ自動車を運転して行くことができるかと危まれるほどだった。彼のほおからは涙がボトボト落ちた。そして「かんにんして下さい。 彼こそ真の人間だったのです」というのであった。多くのソヴィエト市民の気持ちはおそらくこの一言に尽きていると思われる。…まだ夜の明けきらぬうちからモスクワの人々は黒い布をつけた国旗を建物に掲げ出した。…この日、モスクワは何もかも死んだようだった。ずべての人が打ち沈んでいた。赤の広場もほとん物音なく、静けさそのものだった。クレムリン宮の上にかかる半旗がとくに印象的だった。なおスターリンの遺体が安置された労働組合会館は赤の広場からほんの二、三百メートルしかれ離れていない。…レーニンが一九二四年に死去した際にもここに遺体が安置された。」

 「花に埋れた遺体 市民の告別はじまる  【モスクワ六日発=AP】六日午後、スターリン首相の遺体をのせた霊柩車がクレムリンの聖スパッシー門をくぐって労働組合会館へと静かに向かうと、数千の民衆は赤の広場に集って声をのんでこれを見送った。会館に安置された遺体は美くしい花や花輪の山にうずもれた。会館の前にももう数千の人たちが一列に並んで待っていた。やがて、民衆のための門が開く。人々は二列になって廊下を通り、しのびやかに階段を上って大広間の中央へ進む。そして、花に囲まれて眠る「同志スターリン」に悲しい“ダスヴィダーニヤ”(さよなら) するのであった。人々の列は終りがないようにみえる。こうしてこの告別は昼夜を問わず葬儀の日まで続けられるのである。」

(こうしたスターリン葬儀の光景は、2020年末に日本でも上映された、ウクライナ出身のセルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリー映画国葬』にもあますところなく描かれている。この作品については、同年11月13日付『読売新聞』も「特に頭と心を揺さぶったのは『国葬』で映し出されたスターリンを見送る群衆の顔であった」との映画評を掲げている。その映画は、赤の広場、工場、鉄道駅、モスクワからはるか離れた地方の労働現場等々に自主的に集う何千、何万、何十万…という群衆の悲痛な表情をした顔を延々と映し出していた)

 「冷徹の人・スターリン 敵側には〝恐怖〟 〝大衆〟への愛情で貫く【注:朝日新聞の無署名論評】 ソ連の、それは古いロシアから通じての、そしておそらくは世界の歴史の中においてもごくまれにしか出ないであろうと思われるヨシフ・スターリンソ連首相は…5日夜遂に死亡した。…世界が二つの陣営に分れて冷たい対立を続けている現状では、今は亡きスターリンは西側陣営にとってはむしろ『恐怖』に近い存在だったという事実は否めないようだ。…たしかにスターリン首相はその敵にとっては対外面ばかりでなく対内的にも『恐ろしい』存在だったことは事実のようだ。…(注:西側陣営と反対者によって)スターリン首相については彼のこうした冷たい面の報道のみが比較的多く伝えられているが、人間スターリンはこれだけの人ではないようだ。たとえば第二次大戦を連合諸国が勝利に終えて、一九四五年六月廿五日、クレムリンのまばゆいばかりの大広間で戦勝祝賀の宴が開かれたことがある。この席には武勲かくかくたるソ連の将軍たちがキラ星の如く並び、外国武官たちも数多く出席していた。しかしこの一番はじめにスターリン首相のいった言葉は何だったろう。それは『小さなネジのために乾杯しよう』というのである。つまり『この戦いを勝利に導いた最高の功績者はここに並んでいる将軍諸君ではなく、名も知れずソ連国家の各部署をつつましく守っている素朴な大衆の一人一人だ』というのである。

 この言葉は彼の政治家としての素質を示しているが、やはりその裏には「大衆」というものに対する本当の愛情なしにはでてくるものではないだろう。要するに彼は非常に幅の広い人間であり、それは彼の数十巻にわたる著書を見ても分る。その中にはマルクス主義の理論があることはいうまでもないが、言語学、芸術論、戦略論などほとんど社会百般の領域がとり上げられている。そしてこれらの名著はマルクスレーニンのそれと同じくソ連国民の、そして世界の人々に末永く記憶され続けてゆくであろう」と。

こうした新聞記事や映画の中に、当時の人々、当時の国際世論が、生前のスターリンをどのような人物として見ていたか、鮮明に見て取れる。まさにスターリンは「敵からは虎の如く恐れられ、大衆からは父のように慕われた」偉大な革命家であった。

 フルシチョフが党の組織に図ることなく勝手に行った「秘密報告」は、こうしたスターリン評価を根本から否定し、覆すものであり、「スターリン社会主義ソビエトの敵たち」―米帝反共主義者たち―にとっては大歓迎の代物であった。アメリカと西側陣営は、ここぞとばかりに、マスコミを総動員し、総力をあげて「粛清と独裁者スターリン」の悪宣伝を繰り広げ、攻撃を加えたのである。

 後で詳しく述べるが、勿論、スターリン時代のソビエト社会主義にも「未解決の問題」はあった。特に後継体制問題は未解決であった。しかし、こうしたことは当然ありうることである。誰だって、こうした「未解決問題」(外には出せないような問題もある)を抱えて生きているのであり、そうした問題は、人生経験を積んで、即ちやってみて、よく考え、反省し、学びながら、一歩一歩解決を図り、自己の成長を図っていく、のである。それが「誠実な人間」の生き方であろう。フルシチョフのやったことは―しかもスターリンが生きている間は媚びへつらい、亡くなったとたんに「スターリン批判」を始めたことは―「誠実さ」とはまったく無縁の非人間的な「卑劣さ」そのものであり、決して許されるものではない。会社経営を経験した人ならすぐに分かることであろう。例えば、会社を発展させた立派な先代社長が亡くなった後、生前はその功労者に「忠誠」を誓っていた経営幹部が、社内のいくつかの未解決問題を、内部的論議抜きに、いきなり株主総会で「秘密報告」を行い、世の中に公表し、激しく争っている敵―事業上の競争相手―を大きく利するような「利敵行為」を行ったとしたら、どうであろうか?とても許せないであろう。

 現在世界に広められている「スターリン批判」は、フルシチョフのような「品性下劣な人物」「ソビエト内部の裏切り者」、そしてアメリカのような「スターリンの思想・政治・社会主義運動そのものを激しく憎悪する人々」によって広められたものであり、極めて一面的で、歪められた「評価」なのである。こういう「評価」を何の疑問もなく、「素直」に受け入れることは、適切なのか? 到底認められるものではない。 

 

 ここで、私自身が何故「スターリンを擁護し、高く評価する」側に立つことになったのか、その経緯を説明しておきたい。

私は1944年(昭和19年)夏に東京で生まれた。私が1歳の誕生日を迎える2ヶ月前、父親は徴用で駆り出された鋳物工場での重労働が祟り、肺病を患い、病死した、1945年春、母(32歳)は3月10日の米軍大空襲に遭遇し、私と三つ上の兄の二人を連れて、命からがら百姓家であった信州の実家に疎開した。実家は12人が共に暮らす大家族の小百姓で、大して田畑も持っておらず、当然東京から転がり込んで来た我が家は「厄介者」でしかなかった。耕す土地を持たない母は日雇いの植林作業員、土方、雇われ百姓として懸命に働き、われわれを育ててくれた。当時の田舎は封建性が色濃く残った男社会であり、女性差別・蔑視が激しく、若い「未亡人」であった母は低賃金と差別と屈辱に泣く日々を送らざるを得なかった。1953年に日本政府は軍人恩給を復活させ、戦前軍人として亡くなった者がいる家庭に対して遺族年金を払うことを決めるが、彼女の夫は兵籍を持っていなかったため、その対象にはならなかった。またこの軍人遺族年金問題はそれまで仲良し相互扶助会であった「未亡人会」に分断を生じさせ、ついには崩壊させた。私はそんな母親と田舎社会を見て育った。言うまでもなく、こうした極貧に泣いた「片親(戦争未亡人)家庭」の悲劇は日本中至る所にあり、決して我が家だけの問題ではない。大学に入って読んだ『あの人は帰ってこなかった』(菊池敬一・大牟羅良著 1964年刊 岩波新書)には、戦後のその生々しい実態が、岩手県の奥地の農村部に暮らす戦争未亡人たちによって、余すところなく語られている。

 こうした家庭に育ち、母・兄・親戚の叔父たちの援助で何とか大学に進むことができた私にとって、戦争と平和の問題は重大な関心事であった。そして私は、1960年代の全国の大学で燃え上がった全共闘運動に遭遇し、これに参加し、ベトナム反戦運動にも加わっていった。そして、戦争について、特に第2次世界大戦について、今まで以上に深く真剣に考えるようになった。信州教育の熱心な担い手であった中学時代の恩師T先生に学んだ哲学思想、特にパスカルの「パンセ」の一節『力を持たぬ正義は無力であり、正義を持たぬ力は蛮力である。力を持たぬ正義は反抗せられる。なぜなら悪人が常にいるからである。正義を持たぬ力は非難せられる。されば正義と力をともに備えなければならない』が探求の導きとなっていた。その結果、私は「反戦だけでなく、戦争そのものを如何に失くすかが大事だ」と考えるようになる。必然的に、当時の学生運動の影響下、マルクス主義的哲学・歴史観・戦争観・国家観に強い関心を持つようになった。

 そして、全共闘運動の中で、私は「代々木共産党」(宮本顕治が委員長)や新左翼各派と「徳田球一スターリン評価」を巡って、明確に対立するようになった。ただ当時の私のそれは、理論的なものではなく、「徳田球一はあの暗黒の時代に軍国主義権力に屈することなく獄中18年を非転向で闘い抜いた素晴らしい人物であった」「スターリンソビエトは、何よりも、第二次世界大戦独ソ戦争を勝利させ、世界中を苦しめたナチスヒトラーを倒し、大戦を終決させた優れた指導者であった」という、素朴な立場からの評価であった。これに対し、「代々木共産党」も新左翼も、それぞれの理論的立場(議会主義・平和革命論、トロッキズム等々)から、徳田球一スターリンを全面的に否定・清算し、一顧だにしようとしなかった。私は、戦争と戦後がもたらした悲惨悲劇を味わった人間の一人として、侵略的ファシズムに反対して命懸けで戦った人々、その先頭に立って不屈に戦った指導者である徳田球一スターリンに対して、無条件の尊敬と感謝の気持ちを持っていた。私は、「日本は戦争の悲劇と犠牲を通じて素晴らしい平和と民主主義を手に入れた」という人に対して、「戦後日本のそうした平和と民主主義は、スターリンソビエト、そして徳田球一らを先頭とする国際的な日独伊ファシズム打倒の戦い、そうした彼らの膨大な血の犠牲があったからこそ実現されたものであり、何よりもまず彼らに対して感謝すべきではないのか」という強い思いを持っていた。スターリンの「独裁」や「粛清」についても、「ナチスドイツ・ファシズムを打倒した英雄的戦い」と一体のものとして全体的に論ずべきであるとの考えであり、ただ歴史の一部分(断片)だけを取り出して一方的に批判するやり方には反対であった。

 共闘運動が「敗北」する中、私は大学を中退し、本格的にマルクス主義の独学を開始し、特にマルクス主義哲学・史的唯物論を学んだ。そして、徳田球一スターリンに対して「彼らは偉大なマルクス主義者であり、革命家であり、その革命的精神を断固擁護し、学ぶべきべきである」という明確な結論に到達した。特に私は「止揚」(正しい核心を継承し、不十分を克服し、運動を発展させる)というマルクス主義哲学思想に大きな影響を受けた。そして、既に1950年代半ばからマルクス主義哲学思想にもとづく正しい「徳田球一スターリン評価」を確立・堅持して闘っていた大武礼一郎氏の率いる日本人民戦線運動に巡り合い、これに参画し、今日に至っている。

 「人類の最大の敵とされたナチス・ドイツ、日本軍国主義ムッソリーニのイタリア、このファシズム三国同盟を倒し、世界をファシズム支配の惨禍から解放したのは誰か。その中心に立ったのはスターリン徳田球一らであった。その闘いを勝利させる過程で、独ソ戦の前哨戦としての粛清問題が発生したのであり、その闘いがあってこそナチス・ドイツに打ち勝つことが出来たのである。何はともあれ、まずはスターリン徳田球一を優れた指導者としてきちんと評価し、敬意を示し、そこから学び、その戦いと運動を止揚する(継承し、克服し、発展させる)こと、それが我々のとるべき当然の態度ではないのか。レーニンスターリン社会主義建設40年の偉大な勝利、スターリンを先頭とした反ファシズム解放戦争の偉大な勝利は、まさに不滅であり、歴史は必ずその復興・復活を成し遂げるであろう」―これが、日本人民戦線の堅持している歴史認識であり、私自身の到達点、結論である。