人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~  (第3回) 

    2022820日更新  次回更新は830 

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅 岩波新書)批判

 

 第二次世界大戦独ソ戦の開始

 1941年6月22日未明、ヒトラーナチス・ドイツソビエトへの攻撃・侵攻が始まった。独ソ戦争の開始である。既にヒトラーはあっと言う間にフランスを降伏させ、イギリスを海峡の向こうに封じ込め、西部戦線を抑え込んでしまった。そうした状況を踏まえ、東部戦線・ソビエトへの奇襲的侵攻、即ち《バルバロッサ作戦》を開始したのである。

 ソビエトの外相モロトフは、直ちに、次のような声明を発した。「本日午前4時…ドイツはソビエト同盟の平和的態度にもかかわらず、攻撃を加えてきた。…いかなる地点においても、わが軍、或いは飛行機が、国境を侵犯したことはない。ソビエトの飛行機がルーマニアの飛行場を銃撃したという今朝のルーマニア放送はまったくのウソであり、挑発である」と。

 独ソ戦勃発当時、ナチス占領下にあったハンガリーの首都ブタペストに滞在していた朝日新聞記者・笹本俊二は、その著書『第二次世界大戦下のヨーロッパ』(1974年11月・岩波書店)において、このドイツ軍のソビエト侵攻について、「公平に検討した後」の結論として、次のように記述している。

 『最後通牒もなく、宣戦布告もない、まったくの〝やみ討ち〟だった。古来より、侵略者は〝やみ討ち〟を好む。しかし、これ程壮大な規模の〝やみ討ち〟は歴史に例がない。ドイツ軍地上兵力約150個師団、ルーマニアフィンランド同盟軍30個師団、その総兵力は500万。3300台の戦車、2500機の飛行機、大砲5万台という巨大な戦力が、バルト海から黒海を結ぶ1300キロの戦線に渡って、一斉に侵略行動を始めたのである』。そして、『いわば〝寝首をかかれた〟ソビエト軍の、緒戦における敗北は痛ましいものがあった』と。

 実際、ヒトラー・ドイツ軍は独ソ不可侵条約を一方的に破り、バルト海から黒海に至るソビエト国境の全線で、怒涛の如き侵入・進撃を開始した。最後通牒も無い、宣戦布告も無い、全くの闇討ち的奇襲攻撃であった。

その奇襲攻撃によって得られた緒戦のほんの一時の「勝利」に酔い痴れた前線のドイツ軍将兵は、「ロシアとの戦争は1カ月足らずで終わるだろう」と楽観し、ヒトラーもまた、開戦後わずか3週間目には、「陸軍兵力は大幅に削減し、軍艦建造と飛行機製作の軍需生産に力を入れ、英国場合によってはアメリカに対する戦争の完遂に当たることになろう」との〝ロシア勝利後の指令〟を出していた。

 

 この独ソ戦開始に纏わる、興味深く且つ驚くべきエピソードを一つ紹介しておこう。

そのエピソードは、第2次大戦に関する歴史記録作家で、数々のベストセラーを出したフランス人ジャーナリストのドニク・ラビエール(パリ・マッチ誌の特派員)とアメリカ人ジャーナリストのラリー・コリンズ(UPI・ニューズウィーク誌の特派員)の共著『今夜自由を』(1977年5月・早川書房)に紹介されている。

 1941年6月21日―つまり、ドイツ軍300万がソ連に侵攻し独ソ戦が開始される6月22日の前日のことである。ロンドンに近いイングランド南部の古都ケント州ウェスターハムのチャーチル邸で午餐会が持たれた。この午餐会には英国の3人の重要人物が集まっていた。一人は、この午餐会の主宰者であった67歳の首相ウィンストン・チャーチル。言わずとしれたイギリス政界の大立者である。もう一人は、この時62歳のマックス・ビーヴァブルック卿で、彼はカナダで実業家として成功して財を築き、イギリスで政治家・新聞事業者となり、今やイギリス新聞界の大御所であった。彼はチャーチル戦時内閣の軍事関連閣僚にも名を連ねていた。後の一人は、この時弱冠41歳だったルイス・マウントバッテン伯。英国貴族出身の海軍軍人で、その世界では人望のある人物であり、チャーチルのお気に入りであった。後に、東南アジア連合軍総司令官、ビルマ戦線指揮官、インド総督、イギリス軍総参謀長などを歴任する知将である。注目すべきはこのマウントバッテン伯の血縁である。彼の直系の祖先は8世紀末~9世紀初にかけてヨーロッパの統一を果たした偉大なフランク王国国王カール大帝である。また彼は英国のヴィクトリア女王のひ孫にあたり、ドイツ皇族とも血縁があった(彼の父親がドイツの皇族出身)。かつて栄光を誇ったドイツのウィルヘルム2世、ロシアのツァー・ニコライ2世は伯父にあたった。そのため以前からドイツ・ロシアの両国と交流があり、この当時にもそれぞれの国の内部にはいくつかの情報チャンネルを持っていた。そのため彼はドイツ・ソビエト、ヨーロッパのあらゆる情報に通じていた。

 ラビエールとコリンズの両記者は、この日、この三人の重要人物が語り合った談話の内容を、次のように伝えている。

 『 チャーチルはこの日、上機嫌であった。「きょうはすばらしいニュースがある」。彼は口を切った。「ヒトラーが明日早朝ロシアを攻撃するというのだ。今まで午前中ずっと、どういう情勢になるかを検討していたところだ。」

「情勢がどうなるか、申し上げましょうか」。ビーヴァブルックが話をさえぎった。「ドイツ軍はロシアに入り、手もなくロシアを捻り上げるでしょう。そしてどんなにこっびどく叩きのめすことか!1ヵ月も経たないうちに、遅くも6週間で万事終わりとなるでしょう。」

「いや」とチャーチルが制した。「アメリカはドイツのロシア征服は1ヵ月以上かかるとみている。わが参謀本部も同じ意見だ。私個人としてはロシアは少なくも3ヵ月は持ちこたえると思う。だがロシアがやっつけられた後になると、われわれはまた、背水の陣に追いこまれることになる。」

 この遣り取りの間ほとんど忘れられていた拾好のマウントバッテンと視線が合うと、チャーチルは弁解するような口調で、若い友人にこう言った。「ああ、ディッキー(注:彼の愛称)、クレタの戦闘の話をしてくれたまえ。」

「それは過去のことです」。マウントバッテンが答えた。「しかし、発言をお許し載ければ、ロシア戦線の見通しについて私は申し上げたいと存じます。」

 チャーチルはうるさそうにしたが、仕方なく承知した。

「私はマックス・ビーヴァブルック卿の意見には反対です。またアメリカやわが参謀本部の見解にも同意できません。 さらに、首相閣下、あなたとも意見を異にするものであります。ロシアが負けるとは思わないのです。それは、ヒトラーの最後で、大戦の転換点になるでしょう。」

「ではだね、ディッキー」、チャーチルが面白がって反論した。「どうして君の見方はこうも違うのかね。」

「まず、第一に、スターリンの国軍粛清によって、ナチスが利用できるような内部的対立の芽がすべて摘みとられてしまっているからです。第二に、ロシアに長く君臨した王朝の末端につらなるものとして、これを認めることは私にとってつらいことではありますが、ロシア国民はいまや防衛すべきものを持っております。今後は、ロシアは全国民が自分の国を守るために戦うでしょう。」

 チャーチルは少なくも納得したように見えなかった。「ディッキー、君のような元気な若者の意見を聞くのは気持が好いものだ。どうなるか、そのうち分ることだ。」…』と。

 その後の、第2次世界大戦と独ソ戦の歴史は、「国軍粛清を断行したスターリンソビエトは勝利する」としたマウントバッテンのこの断定の正しさを、完全に、見事に証明した。この問題については後でまた触れるが、スターリンの「国軍粛清」が独ソ戦争の前哨戦として重大な意味を持っていたことを、このエピソードは雄弁に語っている。

あらためて、歴史を大局的、俯瞰的、全体的に見つめ、その中で個々の事件を評価することの重要性を強調しておきたい。

 

 さて、その独ソ戦が始まる2年前の1939年9月1日早暁、ナチス・ドイツ軍はいっせいにポーランドに向かって進撃を開始した。西ヨーロッパを征服した上で、その後で「東へ」という、帝国主義的・ファシズム的大侵略計画の実現に向かって、その第一歩を踏み出したのである。英仏は直ちに宣戦布告。第2次世界大戦の開始である。第2次世界大戦は、その起源から見る限り、帝国主義戦争に他ならない。1929年のアメリカ発大恐慌によって疲弊した各国帝国主義・資本主義国は市場・植民地分割を巡る抗争を激化させていた。それは「世界の帝国主義者のうちでもっとも貪欲で強盗的な帝国主義」(スターリン)であるドイツ、そしてイタリア・日本の帝国主義同盟と、英仏米帝国主義連合との、新たな「市場分割」を巡る戦いであった。

 このファシズムはイタリアで生まれ、ドイツで発展、完成された。ファシズムの特徴は次の点にあった。第一に、国家権力による資本主義統制、即ち国家独占資本主義の実現。第二に、狂信的なブルジョア民族主義・右翼民族主義(ドイツの場合は反ユダヤ民族主義)、そして激しい反共主義。第三に、政治的にはテロ独裁・軍事独裁、市民的自由や議会制度などの一般民主主義の全面的否定、である。

 1933年1月に誕生したヒトラーナチス政権は、典型的なファシズム帝国主義国家であり、最も排外主義的なテロ独裁体制の国家であった。ヒトラーは、政権獲得直後、陸軍総司令官ハマーシュタインの自宅で、様々な軍管区の司令官たちと会見し、次のような演説―ファシズム宣言―を行なった。そして、ドイツの資本家たち、ヒンデンブルグ元帥とドイツ国軍幹部たちも、ヒトラーのこの演説を大いに歓迎し、ヒトラーの軍門に下った。

 この演説について、アメリカの歴史学者リチャード・ベッセルはその著『ナチスの戦争1918-1949 民族と人種の戦い』(中公新書)の中で、次のように書いている。

 『ハマーシュタインの娘が記したと思われる議事録によれば、新首相は自らの目的を明確に示している。ヒトラーは、人生は人種間の戦いであるという独自の考えから話を始めた。「個人の人生ではより強い者やより優れた者がかならず勝つが、それは民族に置き換えても同じだ」。それから…本題に移った。

 「今、ドイツ人(注:大恐慌ベルサイユ条約で疲弊した今日の惨めなドイツ民族)はどうすれば救われるか。どうすれば失業を逃れるか。…方法は二つしかない。一つ目はどんな価格でもよいから何としても輸出を増やすこと。二つ目は大規模な移住策をとることで、これはドイツ国民の生存圏の拡大を前提条件とする。私が提案するのは二番目の方法だ。…これらの計画は必要な前提条件が整って初めて実行に移すことができる。前提条件とは国の強化だ。…民主主義や平和主義などありえない。民主主義がお話にならないことは誰でも知っている。民主主義は経済においても有害だ。労使協議は兵士の協議会と同じくらい無意味だ。…政権を掌握し、徹底的に破壊分子の考えを抑圧し、道徳的規律(注:国家社会主義思想とドイツ民族主義)に沿って民衆を教育することがわれわれの仕事だ。反逆を試みるものがいれば死刑をもって冷酷に罰しなければならない。あらゆる方法でマルクス主義(注:ヒトラーはその最大の担い手こそユダヤ民族であるとしていた)を抑圧することが私の目標だ。…マルクス主義に毒された兵士の軍隊で何ができるというのだ。私はマルクス主義を完全に粉砕するのに6年~8年という期限を自分に課そう。そうすれば陸軍は活発な外交政策を指揮でき、ドイツ人の生存圏拡大という目標は戦闘によって達成できるだろう。目標はおそらく東方にある。…栄えあるドイツ陸軍には、世界大戦の英雄的な時代と同じ精神が、今日も宿っていて、陸軍は自主的にその義務を遂行することだろう。…私は国内の闘争のために自分の武器を作り上げた。陸軍があるのはただ外国との戦闘のためである」。

 その後の数年間で明らかになるナチの計画が、ここで数多く述べられている』と。

 ベッセルは、この項を、「ナチの主要な政策」は「人種戦争という総合的な目標」だった、と結論付けている。まさにその通りであり、これはもはや「世界史の常識」である。大木氏も、この点では、「世界史の常識」に従っている。

 一方、スターリンはどうか。スターリンもまたヒトラーばりの「人種戦争論」を展開しているのか。大木氏は、スターリンが「独ソ戦争」を「大祖国戦争」と命名したということだけを以って「スターリンもまたロシアの民族主義ナショナリズムを正当化し、ドイツ民族の絶滅を煽り立て、絶滅戦争の惨禍を引き起こした」と断定している。この問題については後で詳しく触れるが、あまりにもその認識が浅薄に過ぎ、驚く以上に呆れかえさせられる。

 では、こうして成立したドイツファシズム第三帝国―について、スターリンはどう語っているのか。1934年1月(第2次世界大戦勃発の5年前!)に開かれた第17回党大会の『一般報告』で、次のように述べている(なお、スターリンの発言・演説などは全て『スターリン全集』『スターリン著作集』『ソ党史』からの引用である)。

 『再び、1914年と同じように、好戦的な帝国主義の諸政党、戦争と復讐の政党が、前面に進出しつつある。事態は明らかに新しい戦争に向かっている。…好戦的なブルジョア政治家たちの間で、ファシズムが今や最新の流行になっている…。私が言っているのはファシズム一般のことだけでなく、何よりもまずドイツ型のファシズムのことである。…ドイツにおけるファシズムの勝利…それは、ブルジョアジーの弱さの兆候としても、即ちブルジョアジーが議会制度とブルジョア民主主義という古い方法では、もはや支配し得なくなり、その結果国内政治ではテロリスト的支配方法を取らざるを得なくなった兆候としても、またブルジョアジーがもはや平和的な対外政策に基づいては、現在の情勢から活路を見出し得なくなっており、その結果として彼らが戦争政策を取らざるを得なくなっている兆候としても、見なければならない。…次のように考えている者もある。―戦争は、「高等な人種」たとえばゲルマン「人種」が、「下等な人種」何よりもスラブ「人種」に対して仕掛けなければならない。このような戦争だけが、現状からの活路を見出し得る。何故なら「高等な人種」は「下等な人種」に実を結ばせ、これを支配する使命を持っているからである、と。また…戦争は、ソ同盟に対して仕掛けなければならないと考えている者もある。彼らは、ソ同盟を打ち砕き、その地域を分割し、ソ同盟を犠牲にして利益を得ようと考えている。こんな風に考えているのは日本の若干の軍閥連中だけだと考えたら、それは間違いである。ヨーロッパの幾つかの政治指導者の間にも、この様な計画が企まれていることを、我々はよく知っている。…

 諸君は思い出すであろうが、このような戦争は既に15年前にあった(注:ロシア10月革命直後の武力干渉戦争のこと)。周知のように、皆がいとも尊敬するチャーチルは、当時この戦争に詩的な表現を、即ち「14ヶ国の進軍」という名を付けた。…この戦争は、わが国のすべての勤労者を、献身的な戦士からなる、生命を投げ出して自己の祖国を外敵から防衛した戦士からなる単一の陣営に、結集させた。この戦争がどういう風に終わったか、諸君はご存じである。この戦争は、わが国から武力干渉者を追い出し、ヨーロッパに革命的な「行動委員会」(注:ヨーロッパ各国で生まれた対ロ武力干渉に反対する労働者・人民の革命的委員会)を結成することで終わった。ソ同盟に対する第二の戦争(注:これから仕掛けられようとしている新しい対ソビエト干渉戦争)が、攻撃者の完全な敗北、ヨーロッパとアジアの多くの国での革命、そしてこれらの国のブルジョア・地主政府の潰滅をもたらすことは、まずもって疑いの余地がないであろう』と。

 スターリンは、既に1934年1月のこの時点で、再び戦争に向かおうとしている国際情勢の動向、新たに出現したファシズム国家の本質、ナチス・ドイツの国家目標と対外政策について、極めて正確な見解・予測を持ち、ソビエト人民に警戒を呼びかけている。その後の国際情勢はスターリンの指摘した通りに進んでいる。なんという炯眼であろうか。

 このどこに、大木氏の言うような「ロシア的民族主義ナショナリズム―人種主義―のイデオロギー」があるというのか。その欠片も無いではないか。

 

 さて、スターリンが注意を呼びかけている、ヒトラーとドイツファシズムが持ち出した「新しい外交政策」とはいったい何か。それは、旧ドイツ帝国の宰相ベートマンによって纏め上げられた、ドイツ帝国の伝統的外交政策を継承する『九月綱領』を更に継承・発展させたものであった。その核心は「西部・中部ヨーロッパへの支配権を確保しつつ、東部ヨーロッパと東方ロシアを占領・支配する」というものであり、まさにそれはヒトラーの「人種戦争論」を具体化したものであった。

 ドイツ史の第一級の研究者フィッシャーは、その著『世界強国への道』(1972年・村瀬興雄訳・岩波書店刊)の中で、次のように指摘している。『第一次世界大戦当時のドイツの戦争目的―九月綱領―は、軍部や保守派だけによってではなしに、政党や実業界のほとんど全てのグループや、穏和で民主的な政治家、思想家によって支持されて来た。しかも、この当時の戦争目的は、その後、ワイマール共和制やナチス政権時代になっても維持され、かつ強化され、ついには(ナチスなどによる)非人間的な政策の実行にまで発展した。とにかく、1945年に至るまでのドイツ史の中では、ベートマンの「九月綱領」が…大きな役割を演じ続けてきたのである』と。

 まさに核心をついた指摘である。実際、ヒトラーは、『九月綱領』を引き継いだ『東方占領地総計画』なるものをまとめ上げている。フィッシャーによると、その基本的中身は次のようなものであった。

 ①東方の500万~600万のユダヤ人の絶滅。

 ②ポーランド民族(スラブ系民族)はドイツにとって極めて危険。住人の80~      

 85%(1600万~2040万人)を西シベリアに追放。

 ③ソ連ウクライナ―東ウクライナ―のスラブ人は危険であり、全てシベリアに追 

 放。西ウクライナ人は北方人種的要素が強いので35%だけ残し、ドイツ人の手でこれ

 を酷使または同化する(65%はシベリアに追放)。

 ④白ロシア民族は75%をシベリアに送り、後は酷使・同化。

 ⑤チェコ人は比較的ドイツ人に近いので50%は残し、後はシベリアへ追放。但し知識

 人はドイツ憎悪が激しいので全員追放。

 ⑥こうして追放した後には25年かけておよそ455万人のドイツ人を移住させる。

 ⑦各地に「基地」を創設し、ここに強大な兵力を蓄えて置き、反抗の気配があれば直 

 ちに鎮圧する。原住民は不衛生な村落に隔離して住まわせ、死亡率を高め、人口減少 

 を図る、等々。

 なんという「計画」であろうか!ヒトラーの戦争目的の核心はここにあった。まさに「東方・ロシアの地にゲルマン民族の生存圏を獲得すること」を至上命題とし、武力によって「スラブ民族ユダヤ民族の追放・絶滅を目指すこと」にあったのである。ヒトラーにとって、戦争以外に問題を解決する道はないことは、もはや自明のことであった。

 『ナチズム』(中公新書・1968年刊)の著者でもある村瀬興雄は、著書の中で、『もしも、ドイツ軍が長期間にわたって全ロシアを占領していたら、大ロシア人に対するナチスの暴虐行為はまことに言語に絶したものがあったに違いない。あらゆる資料は、「大ロシア人に対する途方もない虐殺と殺人の実施を予測させている」と述べているが、この予測はけっして根拠のないものではなかった。第二次世界大戦における、ヒトラーとドイツファシズムによる悲惨な「ホロコースト」と、苛酷を極めた「ソビエト侵攻」という歴史的事実がそれを証明している。そして、「ホロコースト」が抵抗なき民への一方的迫害であったのに対し、他方の「ドイツのソビエト侵攻」(独ソ戦争)は国家と国家の正面衝突であり、死活をかけた激烈な戦闘を要するものであったが故に、ヒトラーにとって、独ソ戦争はドイツ民族・第三帝国の命運を掛けた、歴史的戦闘に他ならなかったのである』と語っている。

 もっとも、こうした「計画」のバックボーンをなす根本思想については、ヒトラーは既に『我が闘争』の中で明瞭に語っている。1933年に国家権力を握ったヒトラーナチスが自らの国家目標を追求し、実現させていくために最初に行った政治行動は、同年2月の「国会放火事件」と「有事立法」による共産党・左翼・労働運動への大弾圧・大虐殺であり、その後の容赦なきユダヤ人迫害であり、密かに進められた再軍備強化であり、結局は「ロシア占領」を目指したものであった、。

 1929年秋に始まったニューヨーク発世界恐慌の勃発は世界経済と資本主義世界を根底から揺り動かし、やがて恐慌は慢性化し、1930年代に入るや、それぞれの帝国主義国は自らの生き残りをかけて軍事拡大競争に走りだした。第1次世界大戦で敗れ、過酷な「ベルサイユ体制」を強要されたドイツ―ヒトラーナチス―もまた、ファシズム国家たる日本・イタリアと同盟し、生き残りを懸け、新しい大戦へと突入していった。レーニンの「帝国主義戦争は不可避である」との予言はまさしく現実となった。

 しかして、この第2次世界大戦は、先に記したように、1941年6月にドイツがソビエトに侵攻、独ソ戦争が開始されたことにより、「独日伊ファシズム同盟」対「ソ米英仏を中心とする反ファシズム連合」との戦いとなり、第2次世界大戦は反ファシズム解放戦争へと質的転換を遂げるのである。

 

英仏の対独宣戦布告と欧州情勢 

 1939年9月1日、ナチス・ドイツポーランドに侵攻を開始。9月3日、英仏は直ちに対独宣戦布告を宣言した。ドイツのポーランド侵攻、それは「ことあらばポーランド防衛に立ち上がる」と約束していた英仏に対する挑戦であった。既に独ソ間には不可侵条約が締結されていて、ドイツの目は「西へ」と向けられており、英仏はもはやドイツに宣戦布告する以外に選択の余地はなかった。と言うのも、スターリンは、1938年9月のミュンヘン会談を通じて、英仏政府の「ヒトラーの目を東へ向けさせ、ドイツとソビエトを戦わせる」という彼らの卑劣な目論見を見抜き、英仏とドイツの間の対立を巧みに利用し、1939年8月に独ソ不可侵条約を締結、逆にヒトラー・ドイツ軍の矛先を西へ―英仏―へと向けさせた。英仏政府の危険な企みは封殺され、英仏はドイツと戦う以外の道を選べなくさせられていたのである。

 ドイツ軍は、最新鋭爆撃機と大量の戦車部隊を出動させ、いわゆる「電撃戦」によって、たった1週間で、ポーランド軍の主力を潰滅させた。ポーランド軍約200万の部隊は、あっという間に大混乱に陥り、崩壊した。「英仏の牽制」に全てを託すという「他人頼み」のポーランド軍が、ち密な侵略計画―世界征服計画―を準備し、満を持してこの日を迎えたヒトラーナチス軍の敵たり得なかったのは当然である。ドイツ軍の空襲に晒されたポーランド政府から、英仏両政府に対して「ドイツの飛行場を爆撃してくれ!」との火急の訴えがあったが、両政府ともまったく耳を貸そうとはしなかった。まさに文字通りの〝見殺し〟であった。

 ヒトラーは、「ミュンヘン会談」で、既に英仏には戦う気が全くないことを見ぬいていた。英首相チェンバレンと仏首相ダラディエは、妥協と宥和による「平和」を求め、ナチス・ドイツの要求するチェコ分割・割譲を容認してしまっていた。この英仏の弱腰を見たヒトラーは密かに「英仏攻略」の決意を固め、その上で独ソ不可侵条約締結を決断したのである。

 ただ、これは単にチェンバレン個人が腰抜けであったというような問題ではない。イギリスは、かつては〝七つの海を支配する〟一大強国であり、紛れもなく、七つの海に〝ユニオン・ジャックの旗〟を翻す、世界に冠たる大帝国であった。しかし、このパワーポリティックスの本家本元であるはずのイギリスは、その〝パワー〟を遂に発揮することができないほどに衰えていた。一口で言えば、大英帝国は、第1次世界大戦で勝ったはずであったのに、その実体は、既に〝黄昏と衰亡の季節〟に入っていたのである。第2次世界大戦を迎えた時、大英帝国の内実は〝落日前の太陽〟であり、〝最後の輝き〟を待つばかりの哀れな存在でしかなかった。かろうじて、この大英帝国の「栄光」を背後から支えていたのは、日の出の勢いの新興大アメリカだった。

 フランスはどうか。ドイツの憎悪の的となっていた悪名高き「ベルサイユ条約」の当事者、フランス。そのフランス帝国第三共和政―もまた、決して安泰ではなかった。第1次世界大戦の莫大な犠牲、悲惨な戦争体験がフランスに根強い「平和願望」をもたらし、フランス軍部に極端な「防御的軍事方針」を取らせることになった。フランスの対独軍事方針、それは仏独国境に築かれた要塞「マジノ線」に象徴されるような、要塞に立て籠もって敵と対峙し、同盟軍の支援を得て戦い、敵が疲弊して敗北するのを待つ、という、完全に防御中心の受身的軍事方針で、到底ドイツとの近代戦に耐えうるものではなかった。更にまた、伝統的な多党政治を専らとしたフランス第三共和政は、第1次大戦後も小党乱立状態が続き、内閣の平均寿命はわずか半年、政治不安が常態化していた。1929年の大恐慌の影響が農業に及ぶや、「農業大国」でもあったフランスは忽ち大混乱に陥り、「過去の栄光」と「古き良き時代」をひたすら懐かしむ退嬰ムードに支配された〝落日の大国〟と化していた。

 更に、英仏両国の関係もまた決して強固なものではなかった。イギリスは自らのヘゲモニーを維持するために、昔から、大陸勢力図においてフランスが強くなりすぎることを警戒して来た。それ故、1935年5月に仏ソ相互援助条約が結ばれると、それに対抗すべく、同年6月に英独海軍協定を結び、ドイツの再軍備を公認して大陸の勢力均衡を図る、という破廉恥な外交を展開していた。

 1940年5月10日、ポーランド侵攻・征服に勝利したヒトラー・ドイツ軍は満を持して西部戦線における大攻勢を開始する。この日、イギリスでは宥和主義のチェンバレン内閣が総辞職し、チャーチルを首班とする戦時内閣が発足した。軍人首相を自任していたチャーチルは、自ら国防相に就任し、三軍の指揮権を握った。チャーチルは名うての反共主義者ではあったが、ミュンヘン会談におけるチェンバレンの〝ヒトラーへの妥協〟を厳しく批判し、ナチス・ドイツを倒すためには「英仏同盟、更には英ソ同盟も…」と考え始めていた。チャーチルはそれなりに「英国と英国軍の力量」を正確に掴んでいたのである。

 5月10日、ドイツ軍は全速力でオランダ・ベルギー・ルクセンブルグへ向かう。5月14日、たちまちオランダが降伏。他方、ドイツ軍主力部隊は、フランス国境を超え、北フランスの森や平原を西に向かって突進し、マジノ線の西を抜け(マジノ線は財政困難で西左端が中途で切れていた)、そこから南下し、突破不能と見られていたアルデンヌの深い森を破竹の勢いで駆け抜け、パリに迫った。

 恐るべきはドイツ軍の電撃作戦―空爆と戦車を動員した破壊力と奇襲・スピードに富んだ進攻作戦―であった。それはまったく英仏軍の「予想外」のものであった、このドイツ主力軍によるアルデンヌの森突破により、フランスが頼みとした東西800キロに延びる防衛線は完全に分断され、頼みの「マジノ線」は無用の長物と化してしまった。

 5月28日、ベルギーがドイツに降伏し、遂に大西洋へと通じる道が開かれた。ドイツ軍は攻撃開始からたった2週間で大西洋に到達してしまった。その結果、ベルギー国境付近にいたフランスとイギリスの連合部隊は完全に分断され、バラバラにされてしまった。つまり、緒戦の10数日で大勢が決してしまった。ドイツ軍はまさに破竹の勢いであった。1940年6月14日、ドイツ軍がベルギーへの侵攻を開始した5月10日から僅か1ヵ月後のこの日、ドイツ軍はパリに無血入城を果たす。フランス国民会議は、「秩序安寧」を求め、休戦派の老英雄ペタン元帥を担いで休戦協定に調印。更に彼を、対独協力を担う「ヴィシー政権」の頭に就けた。ドイツはフランス国土のおよそ5分の3を占領した。ヒトラーはものの見事にフランス占領をやり遂げた。しかも、それに払った犠牲は実に微々たるものであった。この勝利は、何よりもドイツ軍内におけるヒトラーの威信を決定的に高めた。もはやヒトラーに正面切って楯突く将軍は一人もいなくなった。

 イタリアのムッソリーニは、1940年6月10日、パリ陥落を目の当たりにし、慌てて英仏への宣戦布告を果たし、フランスへの侵攻を開始した。結局のところ、ムッソリーニのイタリアはあくまでも脇役でしかなかった。

 1940年夏、ヒトラーの英本土大空襲が始まった。英本土への上陸を果たすためには、海峡の制海権・制空権を握ることがぜひとも必要であった。まずは英空軍の飛行基地へ、そして次には首都ロンドンに対する爆撃を繰り返した。しかし、この攻撃は英空軍とロンドン市民の不屈の抵抗の前に、失敗に終わった。

 1940年秋、イギリス攻撃が行き詰りつつある中、ヒトラーはいよいよ次なる決断を下す。ヒトラーにとって、これ以上イギリスに関わり続けることに何の意味もなかった。ドイツにとって、ヒトラーにとって、この戦争の最大の目的は、最初から「東方へ、東方におけるドイツ生存圏の獲得」であった。イギリスに関して言えば、海の向こうに封じ込め、大陸に渡って来ないようにしておけば十分であった。そこで、ヒトラーは密かに、ハルダー参謀総長らドイツ陸軍首脳に、対ソ侵攻作戦の検討を命じた。かくして、1940年12月、対ソ侵攻計画たる《バルバロッサ計画》がヒトラーに提出された。その骨格は、「1941年5月15日までに攻撃準備を完了させ、遅くとも5ヵ月で、ロシアの冬が始まる前に戦闘を終結させる」というものであった。

 

 独ソ開戦の日、かつてはコチコチの反共主義者で、1940年5月に成立したイギリス挙国連合内閣の首相となったチャーチルは、独ソ開戦の報に接するや、「これでイギリスは敗北せずにすむ」と安堵しつつ、「ヒトラーと共に歩む者は、人も国もわれわれの敵である。…ヒトラーソビエト攻撃によって、偉大な民主主義国家が攻撃から少しでも逃れうると想像するならば、とんでもない間違いである。わが家の炉のために戦うロシア人の立場は、あらゆる自由人、自由国民の立場と同じである。ロシアの危険は我々の危険である」と声明した。アメリカのルーズベルトもまた、これに同調した。英首相チャーチル米大統領ルーズベルトも、ドイツを先頭とするファシズム勢力に対抗・勝利するためには、スターリン社会主義ソビエトと手を組み、その力に頼る以外にないことを悟っていた。リベラリストだったルーズベルトはさて於いて、チャーチルは自らの反共主義を抑制し、スターリンソビエトを主力とする反独・反ファシズム解放連合に参画していったのである。

 ところで、この時期、ソビエトと東部戦線はどうであったのか。特に大木氏はソビエトの内政についてほとんど語っていないので、少し詳しく見ておこう。