人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第4回)   

  2022年8月30日更新  次回更新は9月10日

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 ソビエトと東部戦線

 1939年9月半ば、ソビエト政府は、ドイツによるポーランド占領を見届けるや、直ちに独ソ不可侵条約で協定した通りに、ドイツの攻撃からソビエトを防衛すべく、ポーランド東部に進攻し、この地域を占領。さらに、9月から10月にかけて、北方バルト3国にも進出し、各国と相互援助条約を結び、また、反共反ソの王国政府の支配するルーマニアの一部を占領した。1939年10月にはフィンランドに相互援助条約締結を提案。しかしフィンランド政府はこれを頑なに拒否。ここは独ソ条約でソビエトの勢力圏であることが確認されていたが、ドイツはこの地のニッケルと木材を欲し、しきりにフィンランドへの介入を強め、反ソ反共宣伝を繰り広げていた。ドイツに先手を打たれることを恐れ、ソビエトフィンランドのカレリア地方―レニングラードに近い地域―に軍事基地を置くための土地租借を提案する。が、フィンランド政府はこれを拒否。遂にソビエトフィンランドの間に戦争―冬戦争―が勃発した。翌年3月、両国の間で講和条約が結ばれ、ソビエトはようやくカレリア地方を確保した。ソビエトにとって、北方の中枢都市でレーニンの名を冠したレニングラードの防衛は、政治的に見て極めて重要な意味を持っていた。対独戦に備え、レ二ングラードに近いこのカレリア地方を押さえておくことはぜひとも必要であった。それ故、対フィンランド外交での譲歩・妥協は絶対に許されなかったのである。スターリンソビエト政府は、独ソ戦はいずれはやって来る避けられない戦いである、との認識を片時も忘れていなかった。実力に訴えてでもカレリアの地を押さえておかねばならなかったのである。実際、ヒトラー独ソ戦が始まると「ソビエトの聖地」とも言うべきこのレニングラードを包囲し、兵糧攻めの凄まじい攻撃を加えたのである。

 更に、ソビエトは、トルコとの国境付近の軍区の強化、黒海艦隊の戦闘力増強にも力をいれ、近隣のイラン・アフガニスタンとは中立・相互不可侵条約を結び、安全保障を実現させ、将来に備えた。実際、これらの国々との安全保障の実現は、その後、独ソ戦―特にスターリングラード攻防戦―に重大な影響を及ぼした。

 すべては、対独戦に備えての措置であった。外交は内政の反映である。当時のソビエトの内政が、そうした対独戦に備えた外交、近隣外交を強く要求していた。第1次・2次5ヶ年計悪で社会主義建設の土台作りは出来たが、国内の経済力。軍事力はまだ弱く、課題が山積みであった。当時の「内政固めのための時」を必要としていたソビエトにとって、対独戦への備え―近隣外交の展開―は絶対不可欠の課題であった。こうした当時の具体的情勢と条件抜きに独ソ不可侵条約を論じたり、ソビエト外交を論じたりする結果として、「悪魔ヒトラーと手を結んだスターリンの狡猾外交」「スターリンの強権的大国的外交」などという「的外れな批判」が出て来るのである。

 この点、その著『第二次世界大戦前夜』(1969年8月・岩波新書)の中で、かならずしもスターリンに好意的ではなかった朝日新聞記者・笹本俊二(1938年5月~1948年5月までヨーロッパに滞在)が、時のスターリン外交―独ソ不可侵条約締結―について見事な分析を披歴しており、いささか驚かされる。

 『(1939年8月に締結された)独ソ協定の中身をみて目につくのは、ソビエトが自分の勢力圏として要求し、ドイツに認めさせた地域が、いずれもソビエトの防衛と密接に結びつく地域だったということである。つまり、スターリンヒトラーに東部正面を安全にしてやる代償として、ソビエトの西部正面の安全をある程度強化することができたわけである。その点は、スターリンが英仏との交渉で求めたものと符号が一致する。ソビエト軍ポーランドルーマニア通過権やバルト諸国の安全保障など、英仏が最後まで拒んだものとほぼ同じものを、スターリンヒトラーとの協定によって、手に入れることができた。この事実から判断すれば、当時スターリンにとって最大の関心事は祖国ソビエトの防衛体制を少しでも強化することにあったように見える。それには、ソビエトにとって直接のまた最大の脅威であったヒトラーが、自分の方から接近して来たこの時機は、またとない好機であったに違いない。弱みを持つヒトラーからより多くを譲歩させることができたのである』と。

 更に、モスクワでの独ソ不可侵条約調印に臨んだスターリンの人間像についても、次のように記している。

 『とにかく、〝第二のビスマルク〟になったつもりで有頂天だったリッペントロップを、スターリンは、礼儀正しく、しかし飽くまでも冷静に扱っていたようである。この時のスターリンの応対ぶりを、リッペントロップの通訳を務めたヒルガー参事官(ドイツ人官吏)は、「えらぶろうとしない、飾り気のない静かな態度。しかも、あらゆる分野で深い知識を持ち、専門的な事柄についてさえ立派な考えを持っているのに驚いた」と敬意を込めて述べている』と。

 いずれにせよ、スターリンソビエトは、独ソ不可侵条約締結によって、「ソビエトはイギリス側に立ってドイツとの戦争に巻き込まれないで済むし、またドイツの側に立って、イギリスとの戦争にも巻き込まれないで済む」(1939年8月のソビエト最高会議におけるモロトフ首相の報告)ということになり、「火中の栗を拾う」ことなく、ぜひとも必要だった息継ぎのひと時を手に入れた。スターリン外交の偉大な勝利であった。

 ここであらためて当時のソビエトの内政が如何なるものであったのかを見てみよう。

 

ソビエトの第1次・第2次5ヶ年計画

 1917年10月に歴史上初めて社会主義革命を勝利させたソビエトソ連邦)が、本格的な社会主義建設である第1次5ヶ年計画に着手するのは、革命勝利からようやく11年後の1928年10月のことである(1933年9月までの5ヶ年)。

 その間、生まれたばかりの労働者・農民の政府、ソビエト政府は、国内の反革命分子の反乱活動との戦い、その反乱軍と結びついた反共連合たる資本主義・帝国主義国連合の西から東から加えられた「武力干渉」との戦いに忙殺され、膨大な犠牲を強いられており、経済建設どころではなかった。「危険な赤色政権は芽のうちに摘み取れ!」―こうした独善的で一方的な目的を掲げ、国際資本家連合は対ロ武力干渉に乗り出したのである。だが、ソビエト政府と人民はこの干渉戦争に決して屈することなく、見事に勝利し、社会主義の祖国を守り抜いた。内戦中、威力を発揮したのは労働者・人民の「祖国のために!」という英雄的な「共産主義的土曜労働」であり、過酷な「戦時共産主義」であった。

 そして、1925年12月に開かれたボリシェビキ党第14回大会において、スターリンの「一国社会主義建設論」が圧倒的多数で支持され、トロツキーの「永続革命論」が否認され(後に国外追放)、ようやく社会主義建設スタートの内的環境が整えられた。1927年12月の第15回党大会は、農業集団化―コルホーズとソフォーズ(国営農場)建設―の推進・拡張に関する方針を決定すると共に、第1次5ヶ年計画作成の指令を打ち出した。かくして、1828年10月、第1次5ヶ年計画がスタートした(1033年9月までの5ヶ年間)。

 因みに、1925年当時のソビエトの全生産高の3分の2は農業生産であり、僅かに3分の1だけが工業生産であった。ソビエトが遅れた農業国であるという事実は歴然としていた。近代化された資本主義・帝国主義連合の、今後も予想される第2次・3次の武力干渉に抗し、祖国を防衛するためには、何としても国内経済建設、社会主義建設、特に農業の集団化を飛躍的に発展させねばならなかった。ソビエト人民はその歴史の要請に応えた。全世界の資本主義国が、1929年のニューヨーク発世界恐慌によって、壊滅的大混乱に陥っている中、第1次5ヶ年計画は素晴らしい成功と勝利を収めた。スターリンは、5ヶ年計画の期限前達成の事実を踏まえ、1933年1月に発表した『第1次5ヶ年計画の総結果』において、その勝利を宣言し、次のように報告している。

 『五ヵ年計画の基本的任務とは、わが国・ソ同盟をして…後れた、往々中世紀的な技術をもつ国から、新しい、現代的技術の軌道に移すということにあった(注:『世界大百科事典』によると、1913年のロシアでは総人口の85%を農民人口が占めていた)。農業国から…工業国に転化して、資本主義的要素を徹底的に駆逐し、社会主義的経済形態の戦線を拡大し、ソ同盟における階級を根絶させるための、社会主義社会の建設を完成させるための、経済的土台を築き上げることにあつた。…全体としての工業だけでなく、運輸交通も、農業も、社会主義の土台の上に再装備し、且つ再組織する能力を有する工業を、わが國に築き上げることにあった。…小規模な、且つ分散した農業を、大規模な集団経営の軌道に移し、それによって、農村における社会主義の経済的土台を保障し、かくしてソ同盟における資本主義復旧の可能性を絶滅させることにあった。最後に…国外からの軍事的干渉のありとあらゆる企図に対して、、決定的な反撃を組織する可能性を与える防衛力を、最大限に高めるために必要な、一切の技術的経済的前提條件を、国内に築き上げることにあった』と。

 この第1次5ヶ年計画が目指し、且つ達成したのは、第1に遅れた農業国から近代工業国への転換であり、第2に農村の社会主義化(集団化・共同化)を推し進め、小ブル的土壌を消滅させ、資本主義復旧の可能性を絶滅させることであり、第3に今後も予想される外国からの軍事的武力干渉に決定的な反撃を加えることの出来る防衛力を高めるために、あらゆる技術的経済的条件を国内に築くことであった。第1次5ヶ年計画はその目的をみごとに達成した。公式資料(日本銀行統計局『本邦主要経済統計』1965年7月)によれば、世界各国の生産高は、大恐慌の年1929年の生産高を100とした時、1933年のそれは、ソ連-201.6 アメリカ‐64.9 イギリス‐86.1 フランス‐77.4 ドイツ‐66.8 であり、ソビエト社会主義建設の成功は歴然たるものであった。

 このソビエト社会主義建設の闘いは、更に、1933年から1937年にわたる第2次5ヶ年計画へと連続的に継続されていく。この第2次5ヶ年計画によって農業の集団化・機械化が基本的に達成、完成される。かくして、ソビエトはようやく社会主義経済の確固たる土台を築き上げることに成功した。

 

 ところで、第1次・2次5ヶ年計画による国内経済の社会主義的工業化と農業集団化を押し進める過程では、スターリンボルシェヴィキ派と、トロツキー派・ジノビエフ派の反党ブロックとの間で、熾烈な階級闘争が展開された。反党ブロックは一貫して「労働者と小ブル的農民の同盟に反対」「小ブル的農民の集団化など不可能」「ヨーロッパ革命抜きにロシアの社会主義の勝利は不可能」と主張し、至る所で妨害活動、破壊活動、分裂策動を展開した。スターリンボルシェヴィキ派はこれとの闘争を徹底的に推し進め、1927年11月、ボルシェヴィキ党中央委員会は遂にこの反党ブロックを党外に追放した。勿論、国外からの破壊活動、妨害活動もあった。また、しばしば外国に滞在する大使・公使が襲撃され、暗殺された。ソビエト領土内にもぐりこんだスパイ・挑発分子は、国内の反党ブロック・腐敗分子と糾合し、至る所で生産活動破壊事件を引き起こした。あちこちで激烈な階級闘争が展開された。

 海外の亡命ロシア人は150万から200万人もおり、パリには「ロシア軍事同盟」なるものの本部が設置され、欧米・極東の各地に武装団体が組織されていた。旧帝政ロシアの大実業家たちは「トルプロム」(カルテル)を組織し、チャーチルや欧米の大富豪と共に、ソビエト国内の反革命集団を支え、ロシア軍事同盟或いはソビエトを追放されたトロツキーが創立した「第4インター」を支援し、ソビエト国内に次々と反革命分子・破壊工作員を送り込んだ。キーロフ暗殺、産業党事件(生産妨害工作事件)等々の破壊妨害事件の背後には、強力な海外・国内一体となった反革命組織の暗躍があった。

こうした問題を詳しく解明している好著として『大陰謀―対ソ秘密戦争―』(1951年・ナウカ社刊)という本がある。その内容は、「大陰謀」「対ソ秘密戦争」との題名が示す通りの、スターリンボリシェビキ党・社会主義ソビエトに敵対する国内・国外の反革命分子・反社会主義派によるスパイ活動・挑発活動・破壊活動―秘密裡に行われたソビエト政府転覆の反革命的大陰謀―を詳細に語った〝歴史ドキュメント〟である。著者は、秘密外交の研究と第五列の調査で国際的名声を博したアメリカ人作家のマイケル・セイヤーズと、アメリカ人法律家のアルバート・イー・カーンである。この著者たちは、冒頭に『「大陰謀」の中に出て来る事件や会話で著者等の作り出したものは一つもない。その資料はいろいろな文書からとったものであって、これらの文書は本文または「引用書に関する控え書」に示してある』との宣言を掲げている。実際、「控え書」には膨大な量の資料が紹介されている。この書は、「スターリン問題」を語る上で、欠くことのできない重要資料である。

 

 「世界に冠たる大英帝国」のイギリス政府もまた、ソビエト政府の5ヶ年計画発表の報に接するや、1927年5月、ソビエトとの国交断絶を声明。1932年10月には英ソ通商協定の破棄を通告した。

 資本主義国の多くの経済学者・政治学者たちも、反党ブロックと同様、「農業の集団化は無理、不可能」「失敗は不可避」との論調を繰り広げた。

 日本では、「ソビエトの5ヵ年計画」を巡る論争において、当時最も注目を集めたのは小泉信三(1888~1966年)の発言であった。氏は著名な経済学者・慶応大学教授であり、名高い反マルクス主義の闘将であった。戦後は、平成天皇の皇太子時代の教育係を務め、文化勲章を受章しており、昭和の日本を代表する一流の、最高の知識人である。

 その小泉教授も、最初は「5ヵ年計画はうまくいかないであろう」との予測であった。彼はソビエトの第14回党大会(1925年12月)の論争について、「大会で争われた重要なる問題は、労農政府対農民の問題であった。…農民は大地主の所有地に対しては社会主義者であるが、己が耕す土地に対しては私有主義者である。ここに農民の利害と共産主義者との衝突が起こる」との見解であり、「労農政府は何らかの変更・譲歩を加えるであろう」との見通しを立てていた(1926年執筆の『労農政府の新々政策とその将来』)。言うまでもなく、それはソビエト国内のトロツキー派・ジノビエフ派の反党ブロックの主張と同様のものであった。

 しかし、氏は、1933年(昭和8年)には、先の論文に付与した追記で、『本省末段における予想は1928年以後における5ヵ年計画の実施によって明らかに覆された。…しかして、この謬りが経済ではなく、政治に対する観測の困難による』と述べ、自らの見解を訂正し、新論文『ソビエト計画経済』で、率直に自らの誤りを認め、ソビエトと5ヵ年計画への評価を改めた。反マルクス主義の闘将であるその人が、5ヵ年計画の巨大な発展に驚き、その成功に目を見張り、自らの誤りを率直に認め、成功の最大の政治的要因としてスターリンの「洞察眼と実行力」を高く評価したのであった。

 更に、氏は、その後『マルクス死後五十年―マルクシズムの理論と実践―』(1933年・好学社)を著し、率直に次のように述べている。

 『ソビエト経済の発展は従来、しばしば、局外観察者の予想を驚かせた。ことに1928年以降における累次五個年計画の成績は、懐疑的批判者の意表にでるものが多かった。この点において、著者もまた対ソビエト観察において一再過ちを犯したことを自認しなければならぬ。…勿論ソビエト経済は、ソビエト当路者少数人の力によって発展して来たものではなく、当路者その人がすでに一面環境の所産であることは、これを争うべくもない。しかもそれ自身一面環境の所産に外ならぬソビエト政治家その人の洞察眼と実行力とが、最も重要な点でその発展を左右して来たことは、否定し難きところである。著者はこの予測し難きものの予測において一度ならず誤った』と。

 このように、小泉教授は自らの認識不足を謙虚に認め、特にスターリンの並々ならぬ力量、そのみごとな「洞察眼と実行力」に脱帽した。さすがに一流の人物、昭和日本を代表する最高の知識人である。

 こうした事実・批評・評言からも明らかなように、スターリンボリシェビキ党は、見事に第1次・第2次5ヶ年計画をやり遂げ、内外の政敵やブルジョア経済学者・政治学者の「不可能論」「失敗論」を完全に打ち砕いた。こうして、スターリンソビエト社会主義建設5ヵ年計画の成功と勝利は、全世界を驚かせ、歴史的な勝利を獲得したのである。

 

 再びソビエト国内に立ち戻ろう。第1次・第2次5ヶ年計画の前に立ちはだかったトロツキー派・ジノビエフ反党ブロックは党から追放された。だが、これによって党内外の抵抗勢力が全て、完全に一掃されたわけではない。思想的先進分子である党員は未だ少なく、中間層・遅れた層が大半であり、抵抗勢力は社会の至る所に潜んでいた。経済的土台構造が変わっても、思想的意識的文化的上部構造の変革が自動的に進むわけではない。党員、そして労働者・人民の思想建設には、長期に亘る実践と経験と教育の蓄積、継続が必要であった。レーニンは、1921年6月に開かれた「共産主義インタナショナル第三回大会の基調演説」において、労働者人民につぎのように呼びかけ警告している。「われわれは革命に勝利したからといってけっして安心してはならない。まだわれわれの内部、社会主義国家の内部には、旧世界の生き残り組や、旧思想を捨てきれない者たちや、旧支配層の子孫や、社会主義に移行しきれない落ちこぼれや、国外の資本主義と通ずる裏切り者たちはいくらでも存在している。彼らは常に資本主義の復活をねらっている。世界革命が終了するまでは国際資本主義の圧力と攻撃は終わらず、故にプロレタリアートとその国家と党は絶対に油断してはならず、階級闘争を忘れてはならない」と。まったくその通りであった。1950年代の裏切り者フルシチョフの出現、そして現在の「プーチン帝国」と称される帝国主義ブルジョア国家体制の出現を見よ!歴史は決して一直線に進むものではなく、曲がりくねった道を歩む。しかし、現象的には一見後退しているかに見える中にあっても、労働者階級と人民は常に多くの教訓を学びつつ、更に、前へ前へと前進し、歴史を発展させ続けるのである。

 

スタハーノフ運動と社会主義的競争 

 一連の経済建設、特に第1次・第2次5ヶ年計画の戦いの中で、スターリンは、レーニンがそうしたように、ソビエト人民に対して、繰り返し、「もっと速く!更に速く!」と呼びかけ続けていることにも注目しなければならない。「わが産業の発展速度を減少する必要についておしゃべりする連中は、社会主義の敵である!」「社会主義建設の更にボリシェビキ的速度を確保せよ!」「速度を下げてはいけない!速度を引き留めることは落伍である!我々は50年乃至100年も先進諸国から遅れている。この距離を10年間で走りぬかねばならない。これをやり遂げるか、それとも、打っ潰されるかだ!」と。

 有名な「スタハーノフ運動」は、そうした党の呼びかけに応えた、ソビエトの労働者・人民の英雄主義的生産性向上運動であり、ここに‶社会主義とは何か〟〝ソビエト人民の祖国とはいったい何か〟という問いに対する明確な答えがある。

 1935年8月、29歳のドンパス炭鉱の採炭夫スタハーノフは、党の「もっと速く!」の呼びかけに応え、一交替時間中に102トンの石炭を採掘した。それは通常の採炭量の14倍を超えるものであった。それは旧い「管理者・経営機関」の妨害との思想闘争に勝利した結果でもあった。この事実に対し、旧い慣習に染まった頑迷な「古い人間」や反共主義者は、「人間というものは、自分の利益になることでなければ絶対に能動的・積極的に働くことはない」「社会主義は競争を否定する平等主義だから、労働者は真面目に働かず、成長が望めない」「これは政府が強制・強要した結果であり、一部の熱狂的な労働者のみが行った生産性向上に過ぎない」などとケチをつけたが、資本主義的思考と私的競争至上主義(個人的自由競争思想)に毒された彼らには、「全体の利益のために、社会的利益のために、祖国のために、最大限の自己犠牲的精神を発揮して生産活動にあたる」という労働者的英雄主義が、全く理解できない。自覚した労働者は「人間は一人だけでは、生活していくことも、生きていくこともできない」「人間は社会的存在であり、社会的動物であり、共同・協力抜きには存在できない」ということをよく知っているのだ。

 勿論、社会主義社会にも競争はある。ただし、それは個人主義的競争ではなく、「祖国のため」に、お互いに切磋琢磨し合い、学び合い、教え合うという、人間的な競争である。ボリシェビキ党は、1929年4月、第1次5ヵ年計画取り組みの最中、「労働は資本主義の下では奴隷的・懲役的苦役であったが、今では労働は名誉なこと、栄誉なこと、勇敢で英雄的なことになった。今こそ労働者階級は社会主義競争を展開しよう!」と呼びかけた。その結果、第1次5ヵ年計画は予定より9ヵ月も早く達成された。第2次5ヵ年計画の闘いの中で生まれたスタハーノフ運動は、「共産主義的土曜労働」など過去の英雄的な社会主義的競争運動の延長線上で生まれた、革命的で画期的な運動であった。

 当然のことながら、このスタハーノフ運動は、ドンパス炭鉱の一職場に止まることなく、スタハーノフの後には、機械製作工業技術者のブシーギン、製靴工業技術者のスメターニン、製材工のムシンスキー等々が続々と続き、全国へと広がっていった。その中でも、特に注目される人物は、兵器に関心がある者なら誰でも知っている、あの「AK‐47」(1947年型カラシニコフ自動小銃)を完成させたカラシニコフである。

カラシニコフが発明・開発した「AK‐47」は操作が簡単で、砂漠やジャングルや極地などどんな極悪な環境でも正確に作動する銃であり、卓越した信頼性と耐久性を有する自動小銃としてつとに有名であり、「世界で最も多く使われた軍用銃」としてギネス世界記録に登録されている程の優れた銃である。

 彼の生涯ついては、エレナ・ジョリー(フランス人ライター)が聞き取りによって著した『カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男』(2008年4月・朝日新聞社)に詳しい。カラシニコフは11歳の時、家族と共にシベリア流刑にあっている。彼の家族は、1930年代の「クラーク追放闘争」の際、クラーク(富農)と認定され、シベリア送りになった。器用者だったカラシニコフは、18歳の時に登録書を偽造し、シベリアを脱出、1938年秋、西ウクライナ赤軍入隊を果たす。かねてから機械工作に情熱をもっていたカラシニコフは戦車隊に配備され、軍事テクノロジーに関するあらゆる学科を学び、そして座学と実技を通じて射撃に関する様々なことを学んだ。ちょうど、スタハーノフ運動が高揚期を迎えつつあった頃である。誰もが「祖国のために」という熱情に燃えていて、彼の才能を愛する周囲の者たちは皆、熱心に惜しむことなく彼を助けた。「第二次世界大戦中の銃器の最高傑作」と言われていた短機関銃の発明者スダレフとは、お互いに良きライバルであり、互いに刺激し合い、学び合い、技術を交換し合い、切磋琢磨し合い、強い友情で結ばれていた。戦前最後の「コンペ」(銃設計の競技会)の真っ最中、彼はそれまでのアイディアを一変させる想を得た。だが、コンペ中の「改造」はコンペ違反だった。彼はコンペ敗退を覚悟した上で、「構造を一変させた銃」を作り上げた。彼の協力者たちも寝る間も惜しんで協力してくれた。でき上がった銃は銃身が規定のものより長かった。落選を覚悟しての出品であった。最大のライバル銃はデグチャレフ将軍の製作した銃であった。会場で、二人は互いに労作を解体し、「手の内」を見せ合った。突然、将軍が「カラシニコフ軍曹のモデルの部品設計は、私のものよりずっと巧妙で、間違いなく将来性があります。私は最終審査への参加を辞退します」と宣言し、カラシニコフだけでなく、そこにいたすべての人々を驚かせ、感動させた。

 カラシニコフはその波乱に富んだ自らの人生を、こう回想している。『私はまさしく社会主義システムの申し子である。自分が働いて来たのは国のためであって、個人の財産を築くためではない…。私がこの生涯でなしてきたことは全て、ロシアのものである』と。また彼は、シベリア流刑にされた問題についても、「許し難いほど残虐だった」「まったく納得のいかないでき事だった」と批判しつつも、『私は自分の生家を襲った悲劇をスターリン個人と結び付けて考えたことはない。過ちは地方の小役人たちのせいと思っていたからだ。…スターリンを疑うなど、考えてもみなかった』と記している(注:これは党自身が認めていることであるが、1930年代の「クラーク一掃」の闘いの過程で、党の本来の指導に反した「左翼的行き過ぎ」が発生し、少なからず問題が発生したことは事実であった)。

 カラシニコフは、回想の締め括りで、率直にこう語っている。『私は、スターリンを20世紀の偉大な国家指導者のひとりであり、偉大な軍の統率者だったと思っている。戦争中、私が操縦していた戦車には、「祖国のために、スターリンのために」というスローガンが書かれていた。私たちがどれほど彼を信じていたかが分かるであろう。第20回大会でフルシチョフスターリン批判として様々な暴露話をしたのは、単に私怨を晴らそうとしたのだと思う。恐らく、スターリンに侮辱されたか、或いは、自分の前に立ちはだかって影を落とすこの「最高指導者」の偉大さや功績を貶しめたかったのかも知れない。今なお、私は、このフルシチョフの発言を喜んだのは、ごくわずかしかいなかったのではないかと思っている。…いずれにせよ、スターリンが頭の切れる卓越した人物であったことは間違いない。側近たちは口を揃えてこう証言する。スターリンは並はずれた記憶力の持ち主で、一度会っただけの人の苗字や名前も決して忘れることはなかった、と。私は、個人的にはスターリンと面識がなかった。それが残念でならない。だが、私がスターリン賞を授与される前、彼は数日間、自分の執務室にAK47を置いていたらしい』と。

 これもまた、スターリンの偉大さと、ソビエト社会主義建設とその社会主義的競争の偉大さを物語る貴重な証言である。

 

 マルクス主義は「すべて勝敗を決定づけるのは内因である」とする。一たび戦争がやってきた時、最後に勝利を決するもの、それは内因たるソビエト国内の思想的政治的結束と、それに支えられた自己の経済力・軍事力である。これは自明のことであった。ドイツのファシズム化が進み、独ソ戦が不可避であることが明らかになってくる中、ソビエトの現状及びその力量を正確に掴んでいたスターリンは、一刻も速い社会主義建設の勝利・成功、内部の敵、反共分子、スパイ・挑発者の追放・排除が不可欠であることをよく理解していた。また、革命勝利後わずか10数年、ソビエトプロレタリアート・人民の思想政治水準もまだそれほど高くはなく、思想教育、政治教育も急がれていた。時間がいくらあっても足りなかった。しかして、時は待ってはくれない。短い期間で多くの仕事を成し遂げねばならなかった。焦ったり、性急になってはならなかったが、一瞬の怠慢も許されなかったのである。

 第2次世界大戦・独ソ戦前のソビエトが当時置かれていたこうした緊張状況は、当然のことながら、スターリンボリシェビキ党に「厳しくもまた過酷な政策の実行」を要求した。歴史時代がそうした「非情で過酷な政策」の実行を彼らに要求し、彼らは、ソビエト人民はこの歴史時代の要求に応え、全力を挙げてその責任と任務を果たしたのである。すべては歴史時代の産物であって「スターリン個人の性格」などの問題では断じてない。「スターリン問題」「独ソ戦争」を語る多くの人々は、当時のスターリンソビエトを取り巻くこうした過酷な現状を全く無視し、極めて一面的な、偏狭な視野を以って問題を論じている。この悲しむべき現実に改めて注意を促しておきたい。

 もしスターリンボルシェヴィキ党が、ソビエト人民が、凄まじいばかりの英雄主義を発揮して過酷な犠牲を引き受け、断固たる闘いを以てこの国内外の敵とのし烈な階級闘争を勝利させ、第1次・第2次5ヶ年計画を勝利させていなければ、しかもその闘いを短期間で勝利させていなければ、「近代的兵器と軍事力で重武装した史上最強の軍隊」と言われたナチス・ドイツ軍に打ち勝ち、これを打ち破ることは、到底不可能であったろう。独ソ戦争を前に、この党内外・国内外の階級闘争の先頭に立って闘い、第1次・2次5ヶ年計画を立案・推進し、社会主義的競争を組織し、その任務を短期間で勝利に導いた指導者スターリンの偉大さがここにある。

 

日ソ中立条約締結

 ここで、日ソ問題について、若干触れておこう。

 独ソ戦前の激動する政局の渦中で、日本問題が登場する。「日ソ中立条約」締結である。1941年4月、独ソ戦開戦の2ヶ月前、第二次近衛内閣の外相・松岡洋右はモスクワを経由してベルリンに向かい、ヒトラー・リッペントロップと会談し、再びモスクに寄り、ここで突如「日ソ中立条約」に調印した。ドイツは、日本軍に「対ソ攻撃」を強く期待していたが、日本は南下政策の実施―英米のアジア植民地への攻撃と侵攻―をドイツ側に伝え、日ソ中立条約の締結をほのめかした。対ソ侵攻作戦を準備していたドイツは勿論反対であったが、松岡はこれを無視。松岡の関心はあげて対英米戦の成功にあった。松岡は、日独伊、そしてこれにソ連を加えた「4国同盟」を夢見、これを梃子に、対英米仏攻撃作戦たる南下政策の成功を目論んでいた(注:1939年5月、日本軍とソビエト赤軍ノモンハンで激突し、日本軍は手痛い敗北を喫し、この時点で既に北進を断念していた)。

 スターリンソビエト政府は、「日本の意図」と「南下政策の野望」を見逃さなかった。ソビエトにとって、対独戦に備えて、東方・シベリア地方の防衛強化を図ることは必須であった。そこへ松岡外交が登場したのである。渡りに舟であった。日本側にはもはや「北進」(対ソ攻撃)の意図は皆無であり、こうして独ソ戦開始の2か月前、日ソ中立条約が締結されたのである。それは不可侵条約ではなく、お互いに中立を守る(お互いに敵対国を援助しない)という程度の中立条約であった。日本に北進の意図がない以上、ソビエトはそれで十分であった。

 しかし、この時、スターリンは、わざわざモスクワ駅頭に赴き、松岡の出立を見送り、松岡を大いに褒めあげ、激励し、感激させる、という見事な外交的演出を繰り広げている。この日本との中立条約締結により、東方シベリアの安全をしっかり確保することができ、対独戦上大いに利するものがあったからである。

 1941年4月当時、東京日日・大阪毎日新聞記者として、ソビエトに滞在していた前芝確三は、その著書『蘇連記』(1942年12月・中央公論社)で、この日のモスクワ駅頭の模様を次のように伝えている。

 『4月13日5時50分、駅に着いた松岡さんが…別れの挨拶を交わしながら緑色の特別列車の前まで来た時、遥か彼方の入り口の人垣がどっと崩れて波立った。そして「スターリンスターリン!」という低い声ながら興奮にうわずった囁きが次々に伝わってくる。伸びあがって見れば、まさしく観兵式や最高会議で顔見知りのスターリン書記長だ。未だかつてどの国の高官をも駅頭に送ったことのないそのスターリン書記長が、いつものようにカーキー色の軍帽型スターリン帽、灰色の長外套に長靴という出で立ちで、白髪交じりの太い髭の下に微笑を浮かべつつ、モロトフ首・外相とともに悠々たる足取りで松岡さん、建川さん(注:当時の駐ソ大使)の方へまっすぐに進んでくる。居並ぶ列国の外交使臣はこの思い設けぬ情景にただ茫然として言葉なく互いに顔を見合わせている。…スターリン書記長は、建川さんを初め各国の大公使武官らとも握手を交わしているが、日本以外の他の国の人々に対してはまことに寡黙である。いつも距離をおいて見ていたスターリン氏の顔色はむしろ蒼黄色く見えたが、この日は両頬にポツリと赤みがさし、ちょっと垂れ下がった上瞼、目尻の小皺にむしろ柔和さがあり、その敵との苛烈な闘争歴を考えるとむしろ不思議な気さへする。片手を上げて人々に会釈を送るその態度はまことに気軽だが、さすがに一国の指導者としての貫録は堂々辺りを払う。しかも私は1メートル以内の距離に相対したが、いささかの圧迫感も感ぜず、やさしく人の心を抱きとるような不思議な魅力すら、その大きな全身から感じられた。…早耳を誇るUPのシャピロ君…その他英米系の記者諸君も、それまでほとんどたかをくくっていたため、条約の成立、あまつさへスターリン書記長の駅頭見送りというこの歴史的事実に、まさに青天の霹靂以上のうろたえようだった』と。

 あまりにも見事なスターリンの演出に、居並ぶ全ての人々が驚き、興奮している様が、まざまざと目に浮かぶではないか。松岡外相と日本政府・軍部がこの「日ソ中立条約」を忠実に守ったことは言うまでもない。