人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~  (第6回) 

   2022年9月20日更新  次回更新は9月30日

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 ヒトラーナチスイデオロギー

 

 ここで、独ソ戦第二次世界大戦の戦況に触れる前に、大木氏が「残酷無惨」と酷評している「ヒトラーナチスイデオロギー」及び「スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ―」について、それがどういうものか明らかにしておこう。

 

 まずは、「ヒトラーナチスイデオロギー」である。

 もし、大木氏がこう書いていたなら、問題はなく、敢えて「批判の書」を上梓することもなかった。「ドイツ軍、ナチスヒトラーは、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争(独ソ戦)の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行をいくども繰り返したのである」と。

 しかし、大木 氏は、次のように書いているのだ。

 『独ソともに、互いを妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツソ連のあいだでは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行がいくども繰り返されたのである』と。

 大木氏のイデオロギー・史観によると、「独ソ戦は、ドイツ民族とロシア民族(ソビエト内の諸民族)が互いにそのイデオロギーに基づいて、それぞれの民族の絶滅を目指して、残酷な闘争と蛮行を繰り返し、未曾有の惨禍をもたらした、まったく無意味な戦争であった」ということになる。つまり、大木氏は〝大真面目〟にこう主張しているのだ。「ソビエトナチス・ドイツと全く同類であり、ソビエトスターリンボリシェビキもまた、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすナショナリズムを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ソビエトは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行をいくども繰り返したのである」と。

 後で詳しく触れるが、言うまでもなく、ソビエトスターリンが目指したのは「ドイツファシズムの打倒・絶滅」であって、大木氏が主張するような「ドイツ人・ドイツ民族の絶滅」などではけっしてない。そうであったが故に、英米仏政府もまたソビエトを支持し、ソビエトと連合し、独日伊ファシズム同盟と敵対し、対決し、反ファシズム解放戦争を戦い抜いたのである。従って、大木氏は、その主張によって、ソビエトだけでなく、英米仏をも批判し、反ファシズム連合そのものを批判し、非難しているのである。つまるところ、彼の頭脳は、未だに戦前の日本軍国主義者のそれとまったく同じ思考回路に支配されている、としか言いようがない。

 

 ヒトラーナチス・ドイツが、第二次世界大戦独ソ戦において目指した国家的・戦略的目標とその内容については、既に第二次世界大戦独ソ戦の開始」の項で明らかにしている。それは、ヒトラードイツ帝国宰相ベートマンの「九月綱領」を引き継いでまとめ上げた『東方占領地総計画』であり、その基本的中身は次のようなものであった。

①東方の500万~600万のユダヤ人の絶滅。

ポーランド民族(スラブ系民族)はドイツにとって極めて危険。住人の80~85%(1600万~2040万人)を西シベリアに追放。

ソ連ウクライナ―東ウクライナ―のスラブ人は危険であり、全てシベリアに追放。

西ウクライナ人は北方人種的要素が強いので35%だけ残し、ドイツ人の手でこれを酷使または同化する(65%はシベリアに追放)。

白ロシア民族は75%をシベリアに送り、後は酷使・同化。

チェコ人は比較的ドイツ人に近いので50%は残し、後はシベリアへ追放。但し知識人はドイツ憎悪が激しいので全員追放。

⑥こうして追放した後には25年かけておよそ455万人のドイツ人を移住させる。

⑦各地に「基地」を創設し、ここに強大な兵力を蓄えて置き、反抗の気配があれば直ちに鎮圧する。原住民は不衛生な村落に隔離して住まわせ、死亡率を高め、人口減少を図る、等々。

 これがヒトラーの戦争目的であり、まさに「東方・ロシアの地にゲルマン民族の生存圏を獲得すること」、これこそが至上命題であり、武力戦争によって「スラブ民族ユダヤ民族の追放・絶滅を目指すこと」こそがその最大の目的であり、「総計画」であった。

 言うまでもなく、それは、ベートマンの「九月綱領」を引き継いだものであることからも明らかなように、決して彼ヒトラーの個人的な計画でも、個人的な目標でもなかった。

 1913年(大正2年)生まれで、東大文学部西洋史学科に進み、ドイツ現代史を専攻し、生涯をドイツ史の研究に捧げた村瀬興雄は、『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』(1997年6月・中公新書)を著し、その中で「ヒトラーの異常な歪んだ精神は、不幸で歪んだ家庭環境の産物である」との捉え方を明確に否定し、「異常な性格者の一面もあった」としつつも、「ヒトラーの性格と思想とを、ドイツ保守主義ないし民族主義そのものの性格と思想を元にして眺めないで、ただ異常な面からだけ眺めることには反対である」と明確に述べているが、まったく同感である。

 そこで、このような「総計画」を持つに至るアドルフ・ヒトラーの歩んだ道を、1924年に書かれた『わが闘争』(1973年10月・角川文庫)を紐解きつつ、しばらく辿ってみよう。

 「誇り高きゲルマン民族の子孫」であったヒトラーは、「多民族国家」たるオーストリア帝国で生まれた。この帝国の内部は、ドイツ人、チェコ人、ハンガリー人、ポーランド人、ユダヤ人などいくつかの民族―主としてゲルマン系民族、スラブ系民族、ユダヤ民族―が混在し、複雑に絡み合い、常に緊張が支配し、民族間の争いが絶えなかった。そうした激しい‶民族的抗争の坩堝〟となっていた首都ウィーン―その渦中で育ち、学んだ若きヒトラーは反スラブ民族主義たるドイツ民族主義ゲルマン民族主義に目覚め、自らの思想的基盤を作っていく。そして、1870年代、資本主義の必然の産物たる経済恐慌が荒れ狂い、経済的危機と不安に包まれた首都ウィーンに暮らすドイツ系住民は、「富と地位と高い教育」を得て豊かな生活を築いていたユダヤ系住民に対する憎しみを募らせ、その不満と怒りを彼らに集中させた。更に、1897年に始まったシオニズム運動(ユダヤ人国家建設運動)を目の当たりにしたヒトラーは、「ユダヤ人問題は宗教問題ではなく、人種・民族問題となった」と断ずるに至る。ここから、‶主イエス・キリストをローマに売り渡したユダヤ人〟に対する「宗教的社会的差別」は「人種的民族的差別」へと発展、ゲルマン民族主義は反ユダヤ主義と一体化し、たちまちオーストリア全土に広まっていった。若きヒトラーはこのような時代の中から生まれた、反スラブ的・反ユダヤ的ドイツ民族主義の申し子であった。

 このようなオーストリア国内の激しい民族的抗争を生み出した背景、それこそ他国領土の強奪、植民地の征服、市場の拡張を目指す資本主義国家同士の醜い抗争であった。そして、あたかもヒトラーが青春期を送った19世紀末期から20世紀初頭にかけて、資本主義はその最高の最後の段階たる帝国主義へと昇り詰める。帝国主義的資本主義の主人となった金融独占資本は新市場・新植民地を求めて、新たな侵略的欲望を燃やしていく。すでに世界は幾つかの資本主義国によって分割し尽くされていたが、資本主義の不均等発展は各国の経済力・軍事力の相互関係に変化を生み出し、新たな世界再分割の熱望を生み出し、爆発させた。かくして、1914年7月、第一次世界大戦たる帝国主義戦争が勃発する。戦争準備の過程で、それぞれの帝国主義国はその民族的利害から、一方にドイツ・オーストリア、そしてイタリア(後に離脱)の同盟を形成、他方にイギリス・フランス、そしてロシア(その産業は英仏資本の支配下に置かれていた)の連合を形成、この2群が正面から激突したのである。

 この第一次世界大戦の結果、ロシアの地には「社会主義ソビエト」が生まれ、ドイツの地には「ワイマール共和国」が生まれた。即ち、スラブ民族・ロシアのプロレタリアートは、ウクライナはじめ諸民族のプロレタリアートと結束し、団結し、レーニン、そしてスターリンに導かれたマルクス主義の党ボリシェビキ党の指導下、「帝国主義戦争を国内戦争に転化せよ」とのスローガンを掲げ、ロシア・ツァー帝政を倒し、社会主義革命を勝利させ、「社会主義ソビエト」を誕生させた。一方ドイツでは、プロシアドイツ帝国は戦争に敗れて崩壊したが、左翼一揆主義に指導されたプロレタリア革命の蜂起は失敗、右翼日和見主義たる社会民主主義に導かれる「ワイマール共和国」が誕生した。戦前に、オーストリアから母国ドイツに移っていたヒトラーは、第一次大戦を戦うドイツ軍に従軍し、その苛酷を極めた戦場地獄を体験し、敗戦で荒廃した母国たるワイマール共和国に戻って来た。

  ‶歴史上もっとも民主的〟と言われたそのワイマール共和国は、戦勝国の英仏に押し付けられた苛酷なベルサイユ講和条約に苦しめられ、経済的苦境、凄まじいインフレに見舞われ、更に、終始、左翼と右翼が徒に激突し、破局的な混乱に襲われ、ドイツ国民の不満と怒りが渦巻いていた。そんな時、ヒトラーの目に映ったのは、その中心になってマルクス主義運動・左翼運動を推進している多くのユダヤ人の姿であった。かくして、ヒトラー反ユダヤ主義は反マルクス主義と結びつく。ヒトラーとドイツ民族主義にとって、ユダヤマルクスが創始したマルクス主義ユダヤ民族思想そのものであった。

 ヒトラーマルクス主義社会主義について、こう述べている。『私は今や、運動(社会主義運動)の基礎を研究するために、この教説の創始者たち(マルクスエンゲルス)と親しくし始めた。私は初めに自分で考えていたよりも多分早く目的(マルクス主義の理解)に到達したが、これは私が当時既にただ僅かながらも、ユダヤ人問題の知識を獲得していたからである。その知識があったので、私は社会民主党建設の使徒マルクス)の理論的大言と活動とを、実際に(ユダヤ思想と)比較することができたのである。ユダヤ思想を隠すために、少なくとも偽装するために語った彼ら(マルクスとその信奉者たち)の言葉を、社会民主党が私に理解させ、教えてくれたからである』と。

 そして、こう結論づける。『マルクシズムというユダヤ的教説は、自然の貴族主義的原理(弱肉強食の競争原理)を拒否し、力と強さという永遠の優先権の代わりに、大衆の数と彼らの空虚な重さとを持ってくる。マルクシズムはそのように人間における価値を否定し、民族と人種の意義に異論を唱え、それと共に人間性からその(民族と人種の)存立と文化の前提を奪い取ってしまう。…ユダヤ人がマルクス主義的信条の助けを借りてこの世界の諸民族に勝つならば、彼らの王冠は人類の死の花冠になるだろうし、さらにこの遊星は再び何百万年前のように、住む人も無く、エーテルの中の世界を回転するだろう』と。

 あたかも、1917年11月、スラブ民族の国ロシアでは、マルクス主義に導かれたロシア革命が勝利し、社会主義ソビエトが成立する。反スラブ主義・反ユダヤ主義・反マルクス主義を一体不可分のイデオロギーとしたナチスヒトラーの憎悪の矛先は、「社会主義ソビエト」(ヒトラーにとってのユダヤ思想の国)へと向けられ、やがては「ユダヤ民族の抹殺」「ボリシェビキ社会主義ソビエトの撲滅」を目指すことになる。

 戦場から敗戦の母国に帰って来た‶ドイツ民族主義の革命児〟ヒトラーは、ナチス党(国家社会主義党)を組織し、「ドイツが戦争に敗けたのは売国奴、左翼、マルクス主義者、ユダヤ人による背後からの一撃、即ち‶匕首(あいくち)の一撃〟があったからだ」「国民を苦しめる最大の元凶はフランス・イギリスが押し付けたベルサイユ条約である」と主張し、ドイツ国民の不満と怒りを煽り、突撃隊を先頭に反共・反スラブ・反ユダヤ的ドイツ民族主義運動を大々的に展開。1933年1月、遂にナチスヒトラーは政権を獲得する。

 こうして形成されたナチスヒトラーの「社会主義ソビエトの撲滅」「スラブ民族ユダヤ民族の絶滅」を目指す「総計画」とそのイデオロギーは、既に、1924年に書かれた彼の自伝『わが闘争』において、その骨格が明確に示されている。ヒトラーは、その著書において、自らの思想・イデオロギーを次のように明確に規定している。

 『わたしにとっては、そして全ての真の国家社会主義者にとっては、ただ一つの信条だけがある、即ち民族と祖国だ。われわれが闘争すべき目的は、わが人種、わが民族の存立と増殖の確保、民族の子らの扶養、血の純潔の維持、祖国の自由と独立であり、またわが民族が万物の創造主から委託された使命(現在の優れた人類文化を創造したアーリア人種・ゲルマン民族が全ヨーロッパを支配し、ユダヤ民族・マルクス主義を絶滅するという使命)を達成するまで、生育することを目的としている。およそ思想や理念、教説や一切の知識というものは、この目的に奉仕すべきである』

『国家は目的ではなく、手段である。国家は、勿論、より高い人類文化を形成するための前提であるが、その原因ではない。その原因はむしろ文化を形成する能力のある人種の存在にのみあるのである。地球上に幾百の模範となるような国家がありうるとしても、文化を担っているアーリア人種が死滅したならば、今日の最も優秀な民族の知的高さに相応しい文化というものは、存在し得ないだろう』と。

 そして、ヒトラーは、レーニンスターリンボリシェビキ党に導かれた国・社会主義ソビエトについて、次のように断定する。

 『人々はとにかく次のようなことを忘れてはならない。つまり、今日のロシアの統治者達は血でよごれた下賤な犯罪者であること、またかれらは人間のくずであり、悲劇的な時期の情況に恵まれて大国家を打倒し、その指導者的なインテリ数百万を粗野な残忍さでもって惨殺し、根絶し、今やざっと十年ばかりの間どんな時代にもなかった残酷きわまる暴政を行なってきていることを忘れてはならない。さらにまた、これらの権力者達が、野獣のような残忍さをとらえがたい嘘の技術に非凡な融合方法で結びつけて、自分達の残虐な圧制を全世界に加えるのには今日こそもっともよいという使命感をもった一民族(ユダヤ民族)に属していることを忘れてはならない。次にまた忘れてならないことは、ロシアを今日完全に支配している国際主義的ユダヤ人がドイツを同盟国と見なさず、自国と同じ運命に定められている国家(社会主義革命を起こす国家)と見ているということである。…ロシア・ボルシェヴィズムは二十世紀において企てられたユダヤ人の世界支配権獲得のための実験と見なされなければならぬ』と。

 まさに、ドイツ、ナチスヒトラーは、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争(独ソ戦)の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行をいくども繰り返したのである、と言って間違いない。

 

 では、「スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ―」とはいったい如何なるものか。