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(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~  (第7回) 

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独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ― 

 まずは大木氏の見解を聞こう。

 大木氏は『総統アドルフ・ヒトラー以下、ドイツ側の指導部が、対ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等人種」スラヴ人を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボリシェヴィズム」との闘争と規定したことが、重要な動因であった。彼らは、独ソ戦は「世界観戦争」であるとみなし、その遂行は仮借なきものでなければならないとした』と基本的に正しく規定した上で、『そうした意図を持つ侵略者に対し、ソ連の独裁者にして、ソヴィエト共産党書記長であるヨシフ・V・スターリン以下の指導者たちは、コミュニズムナショナリズムを融合させ、危機を乗り越えようとした。かつてナポレオンの侵略をしりぞけた一八一二年の「祖国戦争」になぞらえ、この戦いは、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」であると規定したのだ。これは、対独戦は道徳的・倫理的に許されない敵を滅ぼす聖戦であるとの認識を民衆レベルまで広めると同時に、ドイツ側が住民虐殺などの犯罪行為を繰り返したことと相俟って、報復感情を正当化した』とし、エレンブルグの対独宣伝はその最大の証である、と断定する。

 そして、更に、こう主張する。『ウクライナや旧バルト三国では、ドイツ軍はスターリン体制からの解放者として歓迎された。また開戦半年の間に数百万のソ連将兵が捕虜になったのは、スターリニズムに対する一般的な拒否意識の表れだったとするのは、おおかたの西側研究者が同意するところである』と。

 更にまた、『この「大祖国戦争」の名は、ドイツ 軍侵攻の翌日、一九四一年六月二三日の共座党機関紙「プラウダ」に発表された論説に初めて現れ、すぐに対独戦の公式呼称となった。この呼称は、スターリニズムへの嫌悪を抑えるとともに、 ロシア革命以来、共産主義政権が達成してきた工業化や生産水準向上などの成果を訴え、そうした果実を生み出した体制と祖国とを同一視させるメタファー(注:あるものごとを言いあらわすのに,その名称をもちいず、それと類似した異種のものの名称をもちいて暗示的に表現する方法)であった。つまり、ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合されたのだ』と主張する。

   そして、こう結論づける。「ナチス・ドイツスターリンボリシェビキも、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすナショナリズム―偏狭な民族主義―を戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、「世界観戦争」としてのこの戦争の本質がある」と。

 即ち、大木氏はここで、「スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ―」の問題点について、次の4つの問題を提起しているのだ。

 第1の問題。「大祖国戦争」呼称の「祖国」はナショナリズム民族主義的呼称である、ということ。

 第2の問題。「スターリニズムに対する拒否意識」は一般的なものであった。ウクライナと旧バルト三国ではドイツ軍が「解放者」として歓迎されたこと、独ソ戦開戦半年で大量の捕虜が生まれたこと等がそれを裏付けている、ということ。

 第3の問題。「大祖国戦争」の呼称は「ナショナリズム共産主義体制の擁護を融合」させ、一般国民の「スターリニズムへの嫌悪」を失くさせるメタファーであった、ということ。

 第4の問題。スターリンソビエトは「ドイツ人、ドイツ民族の絶滅」を目指し、「非道徳的・非倫理的」な民族的憎悪を煽りたてた。作家エレンブルグの対独宣伝はその最たる証だ、ということ。

 結論から言えば、大木氏のこの四つの問題提起は根本的に間違っており、反共・反スターリン主義の「たわごと」である。また、何よりも問題なのは、大木氏が「スターリンソビエトイデオロギー」を論じながら、戦前あるいは戦争中に行ったスターリンの報告・演説を何一つ正面切って取り上げていないことである(まさかそうした資料をまったく読んでいないということではあるまいが)。これはおよそ天下の岩波書店が新書として世に出すべき書籍では到底ありえない。草葉の陰で岩波茂雄も泣いていよう。

 

 第1の問題は極めて重要な問題である。マルクス主義者―勿論スターリンマルクス主義者であった―は、「国家」「国民」「祖国」の概念を、極めて厳密に、階級的に捉える。つまり、それがブルジョア的「国家」「国民」「祖国」なのか、プロレタリア的人民的社会主義的「国家」「国民」「祖国」なのか、階級的に明確に区分・区別する。

(注:人民の概念は労働者・農民・中小商工業者・知識人など、権力支配者たる独占資本・財閥以外の存在をその内容としている)

 マルクス主義社会主義思想が理解できない人、大木氏のような反共的な哲学・歴史観の持ち主にとって、こうした区別は非常に難しい問題であるに違いない。

 大木氏は、スターリンソビエト政府が、独ソ戦争を、あのナポレオン軍を撃退した英雄的戦争に因んで「大祖国戦争」と公称したことを取り上げ、まるで鬼の首でも捕ったかのように、ここに非道徳的・非倫理的な「ナショナリズム」がある、と声高に触れ回っている。しかしながら、ここで問題なのは「祖国」「大祖国」のその具体的中身である。

 レーニンも、対ロ干渉戦争の時代、「祖国防衛」のスローガンを採用している。

『数千万の労働者と農民…は、この息つぎ(ブレスト講和による休戦)の1週間ごと、1ヵ月ごとに、新しい力を汲み取っていること、自分がソビエト権力を強化していること、不動なものにしつつあること、新しい精神を持ちこんでいること、…外部の力がソビエト社会主義共和国に襲いかかる時には、最後の決戦に応じようとする毅然たる態度と覚悟のできた状態を、自分が創り出しつつあること、を知っている。われわれは、1917年10月25日以後は祖国防衛論者である。…われわれが擁護しているのは秘密条約ではない。…われわれが擁護しているのは大国的地位ではない。…また民族的利益でもない。われわれは、社会主義の利益・世界的社会主義の利益が民族的利益・国家の利益に優先することを主張する』(1918年5月の全ロシア中央執行委員会とモスクワ・ソビエトの合同会議における演説)。

 一方、レーニンは、こうも言っている。

『世界支配をめぐり、他民族の隷属化をめぐって戦っている大国(レーニン注:大略奪者と読め)のいう、防御戦争とか祖国防衛とかいう文句は、すべて偽りであり、無意味であり、偽善である!…バーゼル宣言(1912年に第2インターのすべての社会主義者が署名した帝国主義戦争反対の宣言)は、1914~1915年の戦争で「祖国擁護」を認めたりするような社会主義者が、口先だけの社会主義者であり、実際には社会排外主義者であることを、証明している』(1915年に執筆し、1924年に発表された『日和見主義と第2インタナショナルの崩壊』)。

 レーニンは、一方で『われわれは、1917年10月25日以後-10月社会主義革命勝利以後-は祖国防衛論者である』と言い切り、他方で『大国(大略奪者)のいう防御戦争とか祖国防衛とかいう文句はすべて偽善である』と言い切り、第2インター内の日和見主義者が持ち出したスローガン「祖国防衛」「祖国擁護」を徹底的に批判し、その裏切りを厳しく暴露・非難している。祖国は祖国でも、前者と後者ではその内容・中身が全く異なる。正反対である。

 マルクス主義創始者であるマルクス(とエンゲルス)は、1948年に発表された『共産党宣言』において、次のように述べており、ここに、「祖国」を論ずる場合の拠って立つべきマルクス主義の原則がある。

 『共産主義者は、祖国を、国民性を、廃止しようとしているといって非難されている。

労働者は祖国を持たない。持っていないものをとりあげることはできない。プロレタリアートは、まずもって政治的支配を獲得して、国民的な階級の地位にのぼり、みずからを国民としなければならないという点で、ブルジョアジーのいう意味とはまったく違うが、それ自身やはり国民的である。…ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、 内容上ではないが、形式上は始めは一国的である。どの国のプロレタリアートも、当然、まずもって自分の国のブルジョアシーをかたづけなければならない』と。

 現代資本主義の世界では、諸民族、諸国民は、それぞれ歴史的に(人為的に)形成された行政的区分としての「国」(国民国家、民族国家、あるいは祖国)に属し、社会的・経済的・政治的生活を送っている。大資本家階級にとって、それは他国・他民族の大資本に対して自らが独占的に支配する「国」(領地・領土)であり、そういうものとしての内容と実態を持った存在である。しかし、労働者階級にとって、それは、単なる形式としての「国」「祖国」「国民性」に過ぎない。資本によって搾取され収奪される賃金奴隷としての労働者階級は、世界中のどこの国でもまったく同じ境遇に置かれており、互いに対立し合う理由は何もなく、労働者階級に国境はない。「万国の労働者団結せよ!」のスローガンの意味はここにある。そういう意味において、労働者階級には「国」も「祖国」も「国民性」も無い。しかし、実際の政治生活・社会生活においては、労働者階級も、この形式的存在を無視することはできない。そして、ロシア革命以後、社会主義国が生まれ、「社会主義的祖国」が生まれた。それ故、階級的な内容と形式をきちんと区分し、「祖国」「国民性」という言葉を使わねばならないのである。重要なことは、「祖国」のその階級的中身を明確にしなければならない、ということである。

 レーニンが対ロ干渉戦争において、「祖国を守れ!」のスローガンを採用したのと同様に、スターリン独ソ戦争を戦う上で、『わが国は強いられた戦争のために、もっとも兇悪・狡猾な敵、ドイツ・ファシズムとの決死の格闘に入った。…赤軍将兵の勇敢さは比類がない。敵に対するわが反撃は強化し増大しつつある。赤軍と共に全ソビエト国民は祖国防衛のために闘っている』と宣言している(1941年7月の「ラジオ演説」)。

 「大祖国戦争」との呼称の採用にはそれなりの意味がある。「大祖国戦争」のスローガンを採用することによって、民族的ではあるが英雄的な歴史的戦争、ナポレオン軍を撃退したあの「祖国戦争」の記憶を呼び覚まさせ、そうした記憶を動員するべく、誇りある「社会主義祖国」の防衛の戦争を「大祖国戦争」と呼称し、反ファシズム戦争の戦力増強を図らんとしたのである。社会主義ソビエトプロレタリアートは、ドイツファシズムに対し、自らが主力となって戦いつつ、あらゆる勢力とあらゆる種類の記憶・戦力を総動員し、更なる増強を図った。それは間違いか? 正しい当然の措置であろう。

 独ソ戦の最中、ソビエトを訪れ、取材した米ジャーナリストのエドガー・スノーはその著『ソヴィエトの型態』(1946年 時事通信社)で、次のような報告を行っている。

 『一九四四年十二月十一日付の「プラウダ」紙によれば、イワン雷帝は現実には「国家の分割を志向する反動的な封建貴族に対する進歩的で建設的な国策」の指導者であつたということだ。同じ傾向は新聞界や講壇、科学研究所でも顕著となった。昨年はソヴェト時代以前の発明家や科学者、技師等の世界知識に対する寄与に関心を向けるために特別の会議が召集された。…一九四四年十二月にイヴォリューク博士がリガ国立大学で行った「ロシア古典哲学の普遍的歴史的重要性」に関するような講義は、…(かつての時代には)全然不可能だったろう。

 とはいえ、以上の事態をもって、ソ連ではマルクス主義が衰え始めたとか、ロシアの過去に対する新しい讃美の風潮が旧時代の経済政治体制への復帰を意味すると結論するならば、これに過ぎる謬見はない。それどころか、かかる傾向は党の自信と安定感がいよいよ強化されていることを示すものと思われる。党はもはやこれらの根を承認することが社会主義の樹そのものを枯らすとか、 或はそれを再びブルジョア資本主義的反動の樹木に変貌せしめるなどと危惧しない。むしろ、国家の毀し難い文化遺産のなかに、ソヴェト体制をはぐくみ保護しうる社会の生命の根を見出しているのだ』と。

 こうした新しい対応や事態の背景には、第二次世界大戦を「ソ英米仏反ファシズム連合」として戦うという歴史的要請もあった。過去のあらゆる「歴史的遺産」を正しく評価し、現代の戦いに奉仕させることがぜひとも必要であった。

 いずれにせよ、大木氏は「祖国」の階級的な用法が理解できないでいるようだが、「大祖国戦争」のスローガンの下に戦ったソビエトの労働者階級と人民、赤軍兵士たちは、この「大祖国戦争」の意味を正確に理解し、自覚し、至る所でこのスローガンを掲げて戦った。

 

 序でに、ここで、ソビエト連邦政府の民族政策について触れておこう。

ソビエト連邦は、アジアとヨーロッパにまたがる世界最大の多民族国家であり、その面積は地球の全陸地面積の6分の1弱を占め、アメリカ合衆国の約2.4倍、日本の約60倍に相当し、国内には100以上の民族が住んでいた。帝政時代には、当然民族的対立もあり、ユダヤ人に対する差別・迫害もあった。それ故、レーニンスターリンボリシェビキ党は、革命前から、民族問題についてしばしば触れており、革命後、その民族政策は社会主義ソビエトのものとなった。

 レーニンは1914年に執筆し、1924年に発表した『民族政策の問題によせて』において次のように宣言している。

 『われわれ社会民主主義者(当時の共産主義者のこと)は、あらゆる民族主義の敵である。…われわれは、他の諸条件が同じなら大国家が小国家よりかはるかに成功的に経済的進歩の諸任務や、プロレタリアートブルジョアジーとの闘争の諸任務を解決できることを、確信している。しかし、われわれが尊重するのは、自由意志にもとづく結合だけであって、けっして暴力によるそれではない。われわれは、ぜがひでも各民族は分離せよと宣伝するのではけっしてないが、諸民族間の暴力による結合が見られるいたるところで、各民族の政治的自決、すなわち分離の権利を無条件に、きっぱりと主張する 。こういう権利を主張し、宣伝し、承認することは、民族の同権を主張することであり、力による結合を承認しないことであり、どの民族であろうと、ある民族が国家的特権をもつことにすべて反対してたたかうことであり、 さまざまな民族の労働者のなかに完全な階級的連帯をそだてあげることである。 さまざまな民族の労働者の階級的連帯は、暴力による結合、封建的な結合、軍事的な結合を、自由意志にもとづく結合と取りかえることによって利益をえる。…われわれは言う、どの民族のどのような特権でもなく、諸民族の完全な同権とすべての民族の労働者の結束および融合、と』。

 ソビエト連邦は、10月革命が勝利し、対ロ干渉戦争に勝利した後、1924年スターリンが決裁したソビエト憲法に基づいて、この民族自決権と連邦制を実現させた。グルジアアルメニアアゼルバイジャンなどの少数民族も、ロシア・ウクライナ白ロシアなどの民族が先に加盟していたソ連邦への参加を決定し、フィンランドポーランドバルト三国などはその自由意思が尊重され、自決権が行使され、 独立国家を形成した。これがマルクス主義にもとづく正しい民族自決権と連邦制であり、この制度が1936年の『スターリン憲法』に引き継がれていったのである。

 ユダヤ人問題について、スターリンは、1931年1月、JTA(ユダヤ電報通信社)が送った「ヒトラー反ユダヤ主義について如何に考えるか」という質問に寄せた回答の中で、明確に語っている。

 『ご質問にお答えします。 民族的および人種的排外主義は、食人時代に特有の人間的憎悪的な風習の残存物です。人種的排外主義の極端な形としての反ユダヤ主義は食人主義のもっとも危険な残存物であります。反ユダヤ主義は、搾取者にとっては、資本主義を勤労者の打撃からまぬがれさせる避雷針として好都合なものです。だが、反ユダヤ主義は、勤労者にとっては、正しい道から迷わせてジャングルへ連れ込ませる偽りの小路として、危険なものです。だから首尾一貫した国際主義者である共産主義者は、反ユダヤ主義の和解することのない仇敵たらざるをえません。ソ同盟では、反ユダヤ主義ソビエト体制に対する奥底からの敵対的な現象として、法律によってもっとも厳重な追及を受けます。積極的な反ユダヤ主義者は、ソ同盟の法律に従って死刑に処せられることになっています。  1931年1月12日 イ・スターリン』と。

 当然のことながら、スターリンは明確に反ユダヤ主義を批判し、その反動的本質を鮮明にしている。いったいこの何処に、ヒトラーの「人種的民族的差別思想」との共通性があるというのか!

 多民族国家ソビエト連邦は、ボリシェビキ党とソビエトプロレタリア―トを核に、他民族の労働者・人民が固く団結し、社会主義建設へと向かったのである。勿論、ソ連国民・人民、特に遅れた層の中に存在していた「歪んだ民族意識」が全て、すぐに克服されたわけではない。マルクスが指摘していうように、下部構造が変革されても、上部構造の思想的・文化的意識はすぐに全て一気に変わるものではない。しかも、ソビエトの場合、世界中の資本主義軍団が周囲を取り巻き、ブルジョア思想、ブルジョア文化を撒き散らし、ソビエト国内へも伝播させているのだ。長期にわたる思想改造、思想闘争抜きには、また世界の革命化抜きには、到底解決しうるものではない。歴史は一足飛びに進化するものではなく、多くの歴史的制約の下で、その力と水準に応じて、一歩一歩前進する以外にないのである。

 

 第2の問題。大木氏は、ソビエト国民は「スターリニズムへの嫌悪」を抱いていたと主張する。その最大の根拠として、ウクライナや旧バルト三国エストニアラトビアリトアニア)ではドイツ軍がスターリン体制からの「解放者」として歓迎された、という「史実」を挙げている。(独ソ戦初戦において大量の捕虜が出たことも「根拠」の一つに挙げているが、この問題は後で取り上げる)

 この大木氏の主張こそ、まったく事実・史実に反している。しかも、大木氏は、既に1922年にソ連邦に参加しているロシア・白ロシア等の国、ウクライナ(西端の一部地域は1939年に編入された)、そしてドイツ軍によるポーランド侵攻独ソ不可侵条約破棄(第2次世界大戦勃発)後、1939年に初めてソ連邦に参加することになったバルト3国とを一緒くたに論じているが、これもまた不適切である。

 バルト三国はヨーロッパ北東部のバルト海沿岸に位置する。三国とも、ドイツ帝国に支配されたり、ポーランド王国に支配されたりした後、18世紀末、ロシア帝国支配下に置かれた。そして1917年のロシア革命に伴って三国とも独立を実現、共和国を成立させた。20年の平和条約によってソ連から独立が承認され、22年には三国ともに国際連盟に加盟している。が、三国ともその内部には民族間対立、多党乱立があり、政情は不安定であったため、1929年の世界恐慌に直面る中、民族主義的独裁体制が生まれた。1938年9月のミュンヘン会談の結果、英仏政府はチェコスロバキア(その国境は東端でソ連邦ウクライナに接していた)のズデーテン地方(ドイツ人が多くいた西端外縁部)をヒトラーに与える約束を交わした。翌年の8月、スターリンは直ちに独ソ不可侵条約を締結し、その秋にはバルト三国と次々に相互援助条約を締結、ソ連軍の駐屯を実現させた(独ソ不可侵条約付属の秘密協定により、ポーランド東半分、バルト三国ソ連側範囲とすることが約されていた)。それらは全て独ソ戦に向けた準備であった。40年8月、三国の国会・政府はソ連邦への加盟を決議。勿論、反対派はいたが、反ソ親独の民族主義抵抗勢力の指導部はシベリア強制収容所に送られ、ある者はドイツ、アメリカ、スウェーデン、カナダ、オーストリアへ亡命した。そして41年6月、独ソ戦争が始まる。41年から44年まで、三国ともナチス・ドイツの占領下に置かれた。多少の違いはあるが、ナチス・ドイツに期待したバルト三国の反ソ民族主義派勢力はドイツ軍を「解放者」として歓迎し、それぞれ「国民政府」樹立を試みる。が、ナチス・ドイツにその気は全くなく、三国(と白ロシア=現ベラルーシ)を植民地として支配下に置き、更にその民族主義派勢力を動員して大々的なユダヤ人虐殺(ホロコースト)を決行した。

 勿論、バルト三国の多くの人民は、ナチス・ドイツの占領に反対し、スターリンソビエト軍司令部の呼びかけに応え、ソ連赤軍兵士と共にパルチザン闘争を戦っている。残念ながら、その資料は少ない。次に紹介する鳥飼行博氏(経済学者、東海大学教養学部教授)のブログ『鳥飼行博研究室』(2009年2月10日開設)の記事『独ソ戦 バルバロッサ作戦と捕虜・パルチザン』に、豊富な写真資料と共に、ソ連邦赤軍兵士とパルチザン部隊が共同して戦い、多くの捕虜・犠牲者を出していることが述べられている。

 『独ソ戦開始-バルバロッサ作戦直後から、SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー指揮下の親衛隊は、ユダヤ人など下等劣等人種に対する殲滅戦争を開始,住民の家畜,食料を徴発し,住民を追放した。過酷な扱いを続けたドイツに対して、占領下の住民は、パルチザンとなり、武器を取ってドイツ占領軍を襲撃し、ドイツの通信交通網を破壊した。さらに、ドイツに協力する現地の住民にも報復した』

『ドイツは、ユダヤ人、共産党員、ボリシェビキ、インテリ、将校などを占領地から排除した。そこで、敵性住民、潜在的な敵対者は拘束されたり、迫害されたりした。このような住民弾圧的な軍政は、反ボリシェビキだった住民も、反ドイツの側に立たせることになった。スラブ人もユダヤ人同様、下等劣等人種と見下した人種民族的な偏見は、テロ容疑者を捕えるという名目で正当化された。が、これがドイツ敗北の一つの要因となった』と。

 1944年8月、バルト三国は、スターリンソ連赤軍、国内のパルチザンの手によって再び解放された。反ソ的民族主義派のゲリラ活動は戦後もあったがやがて消滅、三国ともソ連邦の中で社会主義建設に邁進していく。

 つまり、1939年になってソ連邦に参加したバルト三国は「社会主義建設の時代」をほとんど経験することのないままに、ナチス・ドイツに占領されてしまったのである。国内に、ドイツ軍を「解放者」として歓迎した民族主義者が少なからず居たことは事実であり、ある意味、それは「やむを得ない現象」であったとも言える。いずれにせよ、この事実を以って、バルト三国の大半の国民が「スターリニズムへの嫌悪」「スターリン体制」からの「解放」を求めて闘ったと主張し、更に、これを以って、ソ連国民全体が「スターリニズム嫌悪」に抱いていたとするのは、あまりにも無謀な暴論である。

 では、ウクライナはどうであったのか。1922年にソ連邦に参加しているウクライナは、社会主義建設に参加し、貴重な経験を積んでいる。ただ、『物語 ウクライナの歴史』(黒川祐次 中公新書 2002年刊)にも記されているように、農業国ウクライナで多数を占めていた農民は、伝統的に土地に対する執着心が強く、「土地の国有化」や「農業集団化」に対する抵抗感が他の連邦の農民よりもはるかに強かった。また、ロシア帝政時代の「ウクライナ民共和国」はドイツ帝国と手を結び、ドイツに大量の穀物を提供し、ウクライナ西部には多くのドイツ人が居住していた。ロシア革命後、ソ連邦に参加したウクライナでは農業集団化を巡る様々な問題が発生しているが、それほど農民・農村問題の解決は難しいものがあった。しかし、スターリンソビエト政府、ウクライナ政府は、そのことを踏まえた上で、第1次・第2次5ヶ年計画において、東部ドネツクで大々的な工業化政策を展開した。既にロシア帝政時代にウクライナ東部ドネツク州は石炭と鉄の大宝庫であることが分かっていて、工業化も進み、労働者階級も存在感を示していたが、スターリンに導かれたソビエトは第1次5ヵ年計画で大製鋼所を設立。その後、製鋼、製鉄、コークス、機械 、化学、食品など多くの工場を建て、ソビエト有数の重工業地帯に発展させ、農村の社会主義化を視野に入れた社会主義的工業化(農業集団化を助ける機械化の推進)を積極的に押し進めた。スターリンが高く讃えた「スタハーノフ運動」の主人公スタハーノフも、この東部重工業地帯を支えるドネツ炭鉱の鉱夫であった。

 独ソ戦開始から4カ月後、ナチス・ドイツウクライナ全土を一気に占領支配した。ドイツは最初から食料と労働者の供給源としてのウクライナを重視し、実際、東部地域から徴発した食料の85%がウクライナからのものであり、ドイツに移送された労働者280万の内230万がウクライナからであった(黒川氏の『物語ウクライナの歴史』より)。ウクライナでも民族主義者に手伝わせてユダヤ人の大量殺戮も強行している(バービ・ヤールの虐殺)。また、このような悪逆非道のナチス・ドイツ軍を「解放者」として迎えた勢力も確かに居た。そうした勢力が多く存在したのは、1939年に社会主義ウクライナに新たに編入されたウクライナ西部地域であった。彼らのその期待と願望はドイツ軍によってすぐに裏切られ、惨めな結末を迎える。ウクライナパルチザン闘争は、ソ連赤軍司令部の指揮・統制下、ドイツ軍侵入の当初から始まった。1941年8月から1942年3月の初めにかけて、3万人のパルチザンが1800以上の支隊に組織された。北部の森林地帯・沼沢地帯、南部の山岳地帯がパルチザン活動の舞台となった。1944年10月、ウクライナ全土がソビエト赤軍によって解放されるのであるが、パルチザン戦士及び村人たちの英雄的で不屈の闘争が無ければ、その勝利は不可能であった、と言われている。『戦争は女の顔をしていない』をまとめたアレクシェーヴィチさん一家もこのウクライナ出身であり、パルチザン戦争の担い手であった。

 F・グルニエはフランスの労働者出身の小説家・代議士で、何度もソ連を訪問している人物であるが、その著『スターリンの国』(1953年1月 黄土社書店刊)の中で、独ソ戦下のウクライナについて、次のように記している。

『戦争もまたソ同盟―この100の民族からなる国家―の民族融合の事実を明瞭に立証した。もともとウクライナ共和国は長い間、民族分離主義者どもの活躍舞台であった。

戦前、反ソ新聞はウクライナの対ソ反感が依然として強いことを人の好い読者に繰り返し信じさせようと努めた。「モスクワのくびきを脱せんと欲する」「クレムリン支配下にある」「いけにえウクライナ」に向けた宣伝戦はいまなお人の記憶するところである。

さてそのウクライナは、戦争初期から占領された。ヒトラーの軍隊がモスクワの門前に迫った時は、この「いけにえ」民族にとって、「支配者のくびきを脱する」絶好の機会であった。ところが事実はどうであったか。占領者たちは…協力的政府をキエフもしくはハルコフに樹立するに足るだけの人間をどうしても見出すことができなかった。

反対に侵略者に対するレジスタンスは極めて激しく、―それもドネツの鉱夫だけでなく、伝説的なユバック将軍(注:かつての民族主義者将軍で農民の支持が厚かった)の勇猛な部下たちの…いた地方においても同様であった。ソ同盟に忠誠を誓った故にナチスに殺害され、流刑に処せられたウクライナ人の数は何十万という数に上っている』と。

 以上のような事実からも、多くのウクライ国民やバルト三国の国民―あるいはソビエト国民全体―が「スターリニズムへの嫌悪」抱いていたとする大木氏の見解が如何に間違っているか、が明らかとなろう。

 つまるところ、ウクライナでも旧バルト三国でも、ドイツ軍を「解放者」などと歓迎した裏切り者はごく一部の民族主義者でしかなく、パルチザン戦士たちは、赤軍兵士と共に、彼ら裏切り者を憎み、厳しく追及し、反撃を加えた。裏切り者たちは、結局ドイツ軍にも裏切られ、そのドイツ軍が敗退した後、皆厳しく罰せられ、悪質な者は銃殺刑に処せられた。ウクライナは元より、バルト三国でも、圧倒的多数の住民が「祖国ソビエト」を擁護し、多くの人民がパルチザン部隊に参加し、協力者となり、ファシスト・ドイツ軍と勇敢に戦っている。これが史実であり、真実である。

 『スタハーノフ運動』の項で紹介したカラシニコフの証言―『戦争中、私が操縦していた戦車には、「祖国のために、スターリンのために」というスローガンが書かれていた。私たちがどれほど彼を信じていたかが分かるであろう』との証言を見よ!

 勿論、この証言は、一人カラシニコフだけのものではない。大木氏には信じられないであろうが、当時の多くのソビエト人民にとって、「祖国」と「スターリン」は同じ一つのことを意味していたのである。

 大木氏は、「スターリニズムへの嫌悪」故に生まれた反ソ的裏切りは、「一部の事実」ではなく「ソビエト全体の事実」であるかのように述べているが、もし「全体の事実」であるというのが真実であるならば、圧倒的多数のウクライナ国民・バルト三国国民がドイツ軍を「解放者」として迎えたことになり、至る所で「全国民的全民族的的」な‶反スターリン・反ソビエト戦争〟が繰り広げられたはずである(例えば、現在の「ウクライナ戦争」におけるウクライナ国民の‶反ロシア戦争〟のように)。そんな事実・史実は何処にもない。大木氏の主張は、白を黒と言いくるめる典型的な「詭弁論法」であり、笑止千万である。

 

 ところで、大木氏も読んでいるはずの、アレクシェーヴィチさんの『戦争は女の顔をしていない』には、裏切り者のいるドイツ軍占領下の村に潜入し、村人の協力を得て勇敢に戦うパルチザン女性兵士(パルチザンは地元の出身者が主力)の英雄主義的史実、密かにパルチザン戦士を匿い、食べ物を与え、こっそり協力する村人たちの英雄的行動を物語る史実が、数多く、詳しく証言されている。

 因みに、次に紹介する証言者ザハロワさんの出身地ゴメリ州(ホメリ州)は、バルト三国の隣国白ロシアの州であり、その全土を1941年6月にナチス・ドイツに占領された(1944年8月末に赤軍パルチザンに解放されるまで)。ナチスの侵略によりゴメリ州は大きな打撃を受け、工場、発電所が破壊され、1,000以上の村が焼き払われた。首都ゴメリは80%以上が破壊され、占領期間中、ナチスによって20万9千人以上が殺害され、4万人以上がドイツに連行されている。

アレクサンドラ・ニキフォロヴナ・ザハロワ  ゴメリ州第二二五連隊パルチザン (人民委員) 

 村の人が助けてくれたの。人々の協力がなかったらパルチザン活動なんてありえなかったわ。民衆はわたしたちと一緒に戦っていた。時には涙ながらにだったけど、とにかく食料を出してくれた。

 「苦しみも分かち合うんだよ、一緒に勝利を待つんだから」と家畜の餌にしかならないこまかいクズ芋を出してくれる。パンもくれる。森に持って行くように袋一杯。 一人一人が出せるだけ、「おまえんとこは?」「イワン、おまえは?」「マリヤ、あんたんとこは?」「みんなと同じ、でもうちは子供たちがいるから」という具合。

 村の人たちがいなかったら、どうにもならなかったわ。大きなパルチザン部隊が森に隠れていたけど、村の人たちの助けがなかったら、私たちは全滅だった。村の人たちは種を蒔いたり、畑をたがやしたり、子供たちや私たちの世話をして、着る物の心配をしてくれたのよ。夜、銃撃のないうちに畑を耕していた。ある村に行った時、年老いた農夫の葬儀に行き遭ったの。夜、殺されたんです。ライ麦を蒔いていて…….しっかり麦の粒を握ったままで、その握りこぶしを開かせることができなかった。麦粒と一緒に畑に埋めました。

 私たちには武器があり、身を守ることができる。でも村人たちは? パルチザンにパ ン1個を与えただけで銃殺よ。私が一夜泊めてもらったら、そのことを誰かが密告すれば、その家の人は全員銃殺。その家には女の人が小さな子供3人と住んでいた。夫はいなかった。女の人は私たちが行くと決して追い返さなかった。ペチカを焚いてくれて、みんなの洗濯をしてくれた。とってあったなけなしの食料も全部出してくれる、「お食べ」。春先のジャガイモはこまかくってまるで豆粒だった。私たちは食べているのに、子供たちはペチカの寝床で泣いてる。その豆粒のようなクズ芋が残っていた最後の食べ物だったの…』

フョークラ・フョードロヴナ・ストルイ   パルチザン

 私はいつも信じていました......スターリンを......共産党員たちを......自分も党員でした。共産主義を信じていた......そのためにこそ生きていた、そのためにこそ生き延びたんです。フルシチョフが第二十回党大会で「スターリンのいくつもの誤り」を報告したあと、私は病気になって寝込んでしまいました。それが真実だとは思えなかったのです。 恐ろしい真実。戦争中私自身叫んでいました。「祖国のために!」「スターリンのために!」と。誰に強制されたわけでもなく......私は信じていた......それが生きているということだった.....。

 パルチザンで戦っていたのは二年間......最後の戦いで私は足を負傷し、意識を失った。 冬の寒さは厳しく、気がついた時には両手が凍傷になっていました。今は生き生きしたよく動く手ですけど、あの時はすっかり黒ずんでいた......もちろん両脚も凍傷にかかっていました。あの寒さでなければ両脚を救うこともできたでしょうけど。出血したまま長いこと放っておかれました。発見されて、他の負傷者と一緒にされたけど、そこもドイツ軍に包囲されました。部隊は退却する......突破を試みます......私たちは薪のように橇に放り込まれました。治療するまもなく、森の奥へと運んで隠してくれました。何度も退却してから、私は最高会議の議員だったのでモスクワに私の負傷が知らされました。 私自身は下層の出身、ただの農民の出ですが、パルチザンの自慢でした。早い時期に人党したんで.....。

 両脚がなくなりました......切断されたんです。やはり、森が救ってくれた......手術用具はもっとも素朴な物しかありませんでした。普通のノコギリで足を切るんです。両足を. ...手術台に載せて、しかもヨードは無し。ヨードをもらいに6キロ先の他の部隊に使いが出されました。麻酔もありません。麻酔の代わりに密造酒1本。何にもないんです......普通のノコギリ以外......家庭大工用の...... 。

 飛行機をよこしてくれるようモスクワに連絡がいきました。飛行機は3回飛んで来たのですが、旋回するばかりでどうしても着陸できません。四方から銃撃されたからです。四回目にやっと着陸した時には、すでに私の両足は切断されたあとでした。それから、イワノヴォーとタシケント市で4回再切断手術が行われました。四回ともまた壊疽を起こしました。毎回少しずつ切ったんです。それで脚の付け根に近い位置で切ることになってしまいました。初めのうちは大声で泣いていました。地面を這って行くことを考えて、もう歩けない、這うことしかできないんだ、と。自分でも分かりません、何が助けてくれたのか、どうやって良くない考えに打ち克ったのか、どうやって自分を説き伏せたのか。もちろん親切な人たちはいました。良い人たちがたくさん。私たちのところにいた外科医は、その人自身も両足がないんです。その人が私のことを言っていたそうです。「あの人には頭が下がる。私はたくさんの男たちの手術をしてきたがあんな人は初めてだ。悲鳴一つあげない」わたしは我慢してたんです...人前ではしっかりしている習慣がついてたんです......。

 それから故郷のジスナ市に戻りました。松葉杖をついて。 今はよく歩けませんが、それは年のせいです。あのころは街を走り回ってました。どこでも徒歩で。義足で走りました。コルホーズにも車で行きました。地区執行委議会副議長に任命されました。大仕事です。執務室にじっとしていないで、始終あちこちの村や畑を回りました。同情されれば腹が立ちました。当時、教育のあるコルホーズの議長は少なく、特別大事なキャンペーンを行うときには地区の代表が現場に派遣されるんです。毎週月曜日に私たちは党の地区委員会に呼び出され、そこで各自が派遣される任務 を与えられます。窓辺に座っていると、地区委員会にみなが続々と出かけていくのが見 えます、私は呼び出されないんです。これが辛かった、みんなと同じにしてもらいたかったんです。

 とうとう、電話がありました。第1書記からです。「ワョークラ・フョードロヴナ、 来てください」村から村へ移動して行くのはとてもとても大変だったのですが、私は大喜びでした。十キロも二十キロも先まで行かされました。乗り物で行けるところもありますが、歩くしかないところもあるんです。森の中を行く時、転んだりするともう起きあがれません。手提げをおいてそれを支えにして、木にしがみついたりして起きあがってまた先に進みました。年金をもらっていましたから、自分のためだけに生きても良かったんです。でも、みんなの役に立ちたかった。私は共産党なんですから......自分のものなんかありません。勲章やメダル、表彰状ばかり、家は国が建ててくれました…

 二人で暮らしています。過去を生きる支えにして。私たちの過去は美しいんです。大変でしたけど、美しく、正直な暮らしでした。私は自分のことで恨んでいません。自分の人生を......私は正直に生きてきた......』

アレクサンドラ・イワーノヴナ・フラモワ   地下組織書記

 友だちのカーチャ・シマコーワパルチザンの連絡員だった。彼女には二人の娘がい た。まだ六歳と七歳。その子たちと手をつないで街を歩きながら、戦車がどこにあるかを記憶する。歩哨に呼び止められると、口をぽかんと開けて頭が弱いふりをする。それを2、3年...。母親は自分の娘たちを危険な目にあわせてました......

 仲間のザジャルスカヤという女性にはワレーリヤという娘がいたんです。七歳だった。 食堂を爆破しなければならなくなって、爆弾をペチカのなかに仕掛けるために持ち込まなければならない。ザジャルスカヤは自分の娘に運ばせる、と言ったのです。手かごに爆弾を入れて、子供の服やおもちゃをいくつか、そして卵を十個とバターの包みを載せました。そうしてこの子が食堂まで爆弾を運び込んだんです。母性本能は何より強いと言われていますが、そうじゃありません。思想のほうが、信じていることの方が、勝る。私はそう思います......確信してます。ああいうおかあさん、ああいう娘がいなかったら、その人たちが地雷を運ぶ役をやらなかったら、私達は勝利できただろうかって。命、これは大事です。素晴らしいこと。でももっと大事なものがあるのです……』

 ここに登場しているパルチザン女性戦士はウクライナ人やバルト三国人ではない。しかし、ここに、「祖国のために!」のスローガンを掲げて戦ったすべてのパルチザン女性戦士の典型があり、真実の姿がある。彼女らの戦い、彼女らを匿い、食料を与え、援助した村人たちの戦いは、実に崇高に満ちている。レーニンスターリンに導かれたソビエト社会主義は、こうした英雄的民衆像を生んだのである。

 レーニンスターリン時代、社会主義ソビエトはこのような素晴らしく、美しい人間像、女性像を創出した。この厳粛な事実は、何人も否定できない。彼女らにとって(その全員とは言わないが)、フルシチョフの「スターリン批判」―「スターリニズムへの嫌悪」の扇動―などは、耐え難く、許し難く、到底認めることのできないものであった。

 

 第3の問題。大木氏は、「大祖国戦争」の呼称は「ナショナリズム共産主義体制の擁護を融合」させるメタファーとなり、それによって対独報復感情の正当性が付与された、という。そして、その「具体的説明」としては、「アメリカのソ連研究者ロジャー・R・リースの説明が有効だ」とし、その説を次のように紹介している。

 『リースは、圧倒的な数の国民がソ連軍に志願するにあたっては、七つの理由が考えられ、それらは内的要因と外的要因に区分できるものとした。内的要因は、自らの利害、個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、スターリン体制の利点に対する評価、先天的な祖国愛である。この祖国愛は、ロシアという歴史的な観念、あるいは、社会主義の実験に向けた信念を基盤にし得た。これら、二つの要素により、必ずし もスターリニズムの国家を支持していなくとも、国民に愛国的な動機付けを持たせることができた。外的とみなされる要因は、国家によって形成されるか、社会的に生成されたものだった。すなわち、志願せず、また、徴兵逃れをして、処罰されることへの恐れ、公式プロパガンダがかき立てた敵に対する憎悪、社会の同調圧力であった。それらの要因によって、ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された上に、対独戦の正当性が付与された』と。

 つまるところ、「ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された」ものとは、具体的には、内的要因としての、①自らの利害、②個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、③スターリン体制の利点に対する評価、④先天的な祖国愛(この祖国愛にはロシアという歴史的な観念が含まれており、必ずしもスターリニズム国家に対する祖国愛ではない)。外的要因としての、⑤志願せず、また、徴兵逃れをして、処罰されることへの恐れ、⑥公式プロパガンダがかき立てた敵に対する憎悪、⑦社会の同調圧力、の「七つ理由」、即ち‶七つの要素〟からなるものだ、という。

 ところで、この「リース説」はただ単に可能性として有り得る「七つの理由」を並列的に並べているだけであって、これは「融合」ではなく、「ごちゃまぜ的総合」ともいうべきものでしかない。要するに、この「七つの理由」の「ごちゃまぜ的総合」が「スターリンソビエトイデオロギー」だというのである。

 いったい、この「七つの理由」の中の、何が決定的な理由であったのか?事実に基づいて、それを追求し、解明することこそが歴史家のなすべきことではないのか?

 この大木氏の「見解」について、筆者の反論を述べる代わりに、ブログ『紙屋研究所』で公開されている《2019-07-29付記事》を紹介したいと思う。紙屋高雪(かみやこうせつ)氏―プロフィールとして「ブロガー・ライター・マンガ好き・コミュニスト」と紹介されている―が、大木氏の著作『独ソ戦』に関して述べた書評である。紙屋氏は、信頼のおける「証言」を取り上げ、深く洞察し、本質を突いた、素晴らしい書評を書いている。部分的には異論があるが、筆者は高く評価する。以下が、その書評の一部である。

 『ぼくも、本書(大木氏著書)の「文献解題」で「一読の価値がある」として紹介されているスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を読んだ時、ソ連の女性兵士たちがどのような経過で志願していくのかを注意深く読んだ。彼女たちはドイツ軍の蛮行を目の当たりにするよりも前に、開戦と同時に志願している場合が多い。共産主義的な動機もあれば、祖国防衛というナショナリズムの感情もあるし、家族を守りたいという素朴な感情もある。しかし、総じて、今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっているように読めた。…「大祖国戦争」という形でナショナリズムに訴えた宣伝が功を奏したことはぼくから見ても間違いないとは思うのだが、ぼくが気になっているのは、リースがあげている「スターリン体制の利点に対する評価」という点なのである。スターリン体制によって成し遂げられた工業化はベースのところでソ連国民によって支持されていたのではないか?と思うのだ。前述の『戦争は女の顔をしていない』で出てくるインタビューには、露骨な体制支持やイデオロギー支持はそれほど多くないが、守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれるが、そういう日常を支持している庶民が、志願をしている。つまりそれは「スターリン体制の利点に対する評価」があったのではないかと推測できるのである。加えて、ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ。それはスターリン体制が工業化を達成したことと不可分の話ではないだろうか』と。

まさにその通りであり、筆者も同意見である。「理由」をただ並列的に並べただけの、形式論的で無内容の「リース説」に対するこれ以上の「批判」「反論」はない。

 ソビエト国民にとっては「スターリン体制によって成し遂げられた工業化」「守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれる、そういう日常」こそが、社会主義ソビエトであり、ソビエト国家であった。彼女らの祖国愛とは、そんな風に存在していたソビエト国家への‶愛〟だったのである。イギリスの知将マウントバッテン伯が『ロシアに長く君臨した王朝の末端につらなるものとして、これを認めることは私にとってつらいことではありますが、ロシア国民はいまや防衛すべきものを持っております。今後は、ロシアは全国民が自分の国を守るために戦うでしょう』と述べたその「自分の国」とは、まさに紙屋氏が指摘している「スターリン体制によって成し遂げられた工業化」された国、「守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれる、そういう日常」を持った国のことであり、ロシア国民にとってはそれこそが「今や防衛すべきもの」―‶わが愛する祖国・社会主義ソビエト〟―であったのだ。女性兵士の証言に、またカラシニコフの伝記の中に、戦場では「祖国のために!スターリンのために!」と祈り、口にしながら戦闘に赴いたとの記述が出て来るが、彼らの愛すべき「日常の国」とはまさに「スターリン体制の祖国」であったのだ。

 紙屋氏は、アレクシェーヴィチさんの『戦争は女の顔をしていない』に出てくる女性兵士のインタビューから、彼女らが「今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっている」様子が読み取れる、としている。また、大木氏は『開戦半年の間に数百万のソ連将兵が捕虜になったのは、スターリニズムに対する一般的な拒否意識の表れだったとするのは、おおかたの西側研究者が同意するところである』などとしているが、逆に、紙屋氏は『ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ』としている。

 残念ながら、同じ本を読んでも、大木氏には、紙屋氏が読み取ったような真実が読み取れなかったようである。「スターリンへの嫌悪」を抱いているのはソビエト国民ではなく、大木氏自身のようだ。

 また、大木氏は『この「大祖国戦争」の名は、ドイツ 軍侵攻の翌日、一九四一年六月二三日の共産党機関紙『プラウダ』に発表された論説に初めて現れ、すぐに対独戦の公式呼称となった』とのみ述べているだけで、その発表・公表にあたって、共産党内部で「ナショナリズム共産主義体制の擁護の融合」について、如何なる論議がなされたかについては、何も語っていない。大木氏の言うように、「大祖国戦争」の名称が「ナショナリズム共産主義体制の擁護の融合」を図るものであったとするなら、それは重大な路線変更であり、党内での大論議が必要となる。マルクス主義者なら誰でもそう考える。

 実際はどうだったのか。そんな論議はなされていない。「ドイツ軍侵攻の翌日、一九四一年六月二三日」の公表、それも初公表である。そんな論議をやっている暇などあるはずがない。また、そんな論議は不要であった。何故なら、それは表現形式の問題であって、路線問題でも思想問題でもなく、特別の論議などまったく不要であったからだ。ソビエト国民は、恐らく、「大祖国戦争」の名称について、誰一人、大木氏のような間違った理解などしなかったであろう。ロシア人民は皆、祖国が1812年にナポレオンのモスクワ遠征を撃退し、偉大な勝利を獲得した歴史をよく知っていた。史上初の社会主義革命を達成した自らの歴史に無上の誇りを持つソビエト人民は、今回の戦争を「大祖国戦争」と呼称する意味をたちまち理解したに違いない。

 

 第4の問題。大木氏は、「大祖国戦争」の呼称を見て、そこに邪悪なナショナリズム民族主義の匂いを嗅ぎ取り、スターリンソビエト国民は「ドイツ人、ドイツ国民、ドイツ民族の絶滅」を目指した、と断定しているが、そんな馬鹿なことをスターリンは本当に言っているのか?言っているとしたら、何処で言っているのか? 言うまでもなく、スターリンがそのような発言をしたという事実は全く無い!

 ロジャー・R・リースの「説明」を「有効なもの」としている大木氏は、ここで、スターリンの発言でもなく、アレクシェーヴィチさんが世に出した女性兵士たちの証言でもなく、ユダヤ人作家エレンブルグの発言を取り上げ、こう語っている。『戦時中、対独宣伝に従事していたソ連の作家イリア・エレンブルグは、1942年に、ソ連の機関紙『赤い星』に激烈な筆致で書いている。《ドイツ軍は人間ではない。いまや「ドイツの」という言葉は、もっとも恐ろしい罵りの言葉となった。〔中略〕もし、あなたがドイツ軍を殺さなければ、ドイツ軍はあなたを殺すだろう。ドイツ軍はあなたの家族を連れ去り、呪われたドイツで責めさいなむだろう。〔中略〕もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、つぎの一人を殺せ。ドイツ人の死体にまさる楽しみはないのだ》このような扇動を受けて、ソ連軍の戦時国際法を無視した行動もエスカレートしていった』と。

 当時、ユダヤ人作家エレンブルグが書いたような、「ドイツ軍」と「ドイツ人・ドイツ国民」を一緒くたにして人種的民族的憎悪を煽り立てる対独宣伝があったことは、事実である。また、エレンブルのこうした宣伝は「大衆受け」したようでもある。『戦争は女の顔をしていない』に紹介されている証言の中にも、しばしば兵士たちが「ドイツ人」「ドイツ野郎」に対する憎しみを爆発させる場面が出て来る。戦争は殺し合いであり、非理性的な感情の爆発は避けられない。が、戦場の彼女彼らにとってそれは一時的なものであって、負傷したドイツ人捕虜に親切を施す場面も多々語られている。

 人種的憎悪丸出しのエレンブルグの宣伝文は、筆者から見ても、あまり評価できるものではない。「低劣な感情」に訴えた宣伝は本当の力を持たず、人民に本当の確信、勇気、戦闘力を与えることなどでき得ない。実は、党機関紙『プラウダ』(1945年4月15日付)もエレンブルグのあまりに酷い内容の宣伝文については批判を加えている。「エレンブルグによる‶ドイツ国民の集団的犯罪〟なる見解は…明らかに誤謬である。ソ連国民は、ドイツ国民と、ドイツを支配する犯罪的ナチ一派とは同一物だとは決して考えない」と(1947年刊・渡辺三樹男著『ソ連特派5年』より)。
 それはさておき、大木氏の最大の過ちは、この問題においても、「スターリンはどう言っているのか」を全く追求していないことである。それ故、私は、ここでスターリンの有名な「ラジオ演説」を紹介したいと思う。独ソ戦争開始から11日後の1941年7月3日に行われた演説であり、それは、「同志諸君!市民諸君!兄弟姉妹諸君!わが陸海軍の戦士諸君!わが友よ、私は諸君によびかける!」で始まっている。その中で、スターリンはこう呼びかけている。

 『…わが国は強いられた戦争のために、もっとも兇悪・狡猾な敵、ドイツ・ファシズムとの決死の格闘に入った。…赤軍将兵の勇敢さは比類がない。敵に対するわが反撃は強化し増大しつつある。赤軍と共に全ソビエト国民は祖国防衛のために闘っている。

ファシスト・ドイツとの戦争を、通常の戦争と考えてはならない。この戦争は、単なる二つの軍隊間の戦争ではない。それは同時に、ドイツ・ファシスト軍に対する全ソビエト国民の偉大な戦争である。ファシスト圧迫者に対するこの全国民的祖国戦争の目的は、わが国に襲いかかった危険を一掃するだけでなく、ドイツ・ファシズムのくびきのもとにあえいでいるヨーロッパのすべての国民を援助することでもある。われわれはこの解放戦争において、孤立しないであろう。われわれはこの偉大な戦争において、ヒトラー支配者どもに奴隷化されたドイツ国民を含めて、ヨーロッパとアメリカの諸国民という忠実な同盟者をもつであろう。わが祖国の自由を守るわれわれの戦争は、ヨーロッパとアメリカとの諸国民の独立と民主主義的自由をめざす闘争に結び付いている。それは、ヒトラーファシスト軍による奴隷化とその脅威に反抗して自由のために闘う諸国民との統一戦線となるであろう』と(ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争・1953年5月・大月書店)。

 ここでスターリンは明確に語っている。「われわれソビエト国民の真の敵はドイツ・ファシズムであり、ドイツ・ファシスト軍であり、ヒトラー支配者どもである」と。更にまた、「われわれはこの偉大な祖国防衛戦争において、ヒトラー支配者どもに奴隷化されたドイツ国民を含めて、ヨーロッパとアメリカの諸国民という忠実な同盟者をもつであろう」と。つまるところ、敵は「ドイツ・ファシズム」「ドイツ・ファシスト軍」「ヒトラー支配者ども」であって、決して「ドイツ国民」ではない。「ドイツ国民、そしてヨーロッパとアメリカの諸国民はわれわれの忠実な同盟者である」と。

 これが、「ラジオ演説」で語られた、独ソ戦を戦うスターリンの思想であり、スターリンイデオロギーであり、社会主義ソビエトイデオロギーである。これ以上、何を付け加える必要があろうか。何もない!