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(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第8回)

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

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   独ソ戦の軍事に関する幾つかの「疑問・批判」について

  さて大木氏は、本書で、独ソ戦の軍事に関する幾つかの「疑問・批判」を提示している。即ち、スターリン独ソ戦が迫っているにも拘わらず、あらゆる情報に耳を貸さず、ソ連軍部隊は無防備かつ無警戒のままドイツの侵略―一大奇襲攻撃―に直面し、また「粛清」によって赤軍を弱体化させてしまった。こうした、スターリン個人の「誤謬や先入観、偏った信念が、そのまま国家の方針になってしまった」結果、緒戦で、またそれ以外の戦闘でも、大敗北、大損害を被ったのではないか、と。整理すると―

スターリンはその根深い「猜疑心」からあらゆる情報に対して不信を抱き、特に根強い対英不信からイギリスよりもたらされた情報を全て謀略と決めつけ、「不愉快な事実」から目を背け、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の奇襲に対して必要な警戒措置を取らず、無防備のまま奇襲攻撃を受けることになった。

スターリンは、1939年の「大粛清」によって『時代に先んじた用兵思想―「縦深戦」なる作戦術―を完成させたトハチェフスキー元帥』を銃殺し、『自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまった』。これにより赤軍は完全に弱体化してしまった。

③その結果、ソビエト軍は緒戦で、その他の戦闘で大敗北を喫し、不必要な大損害を被った、と。

 この大木氏の見解は、フルシチョフを先頭に、多くの反マルクス主義的反共的政治家、評論家、歴史家が繰り広げている「スターリン批判」であり、独ソ戦をめぐる軍事的な「スターリン批判」はこれに尽きるといって良い。

 結論から言うと、これらはすべて出鱈目で、歴史的事実に反している。更には、英国のかの有名な軍事史研究家で、大著『第二次世界大戦』(中央公論新社)を著わしたリデル・ハートの見解にも反している。

 これらの「疑問・批判」について、一つ一つ筆者の見解を以下に対置しよう。

 

スターリンは全ての情報を無視した」という批判について

 大木氏は、スターリンはその根深い「猜疑心」からあらゆる情報に対して不信を抱き、特に根強い対英不信からイギリスよりもたらされた情報を全て謀略と決めつけ、「不愉快な事実」から目を背け、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の奇襲に対して必要な警戒措置を取らず、無防備のまま奇襲攻撃を受けることになった、という。

 確かに、スターリンは幾つかの情報を無視した。英国ルートの情報については特に警戒した。それは、チャーチル自身が述べているように、彼の一貫した作戦(謀略)が「ヒトラーソ連を戦わせる」(漁夫の利を得る)というものであったからである。

 既に述べたように、スターリンは、1934年1月開催の第17回党大会、1935年7月開催のコミンテルン第7回大会を通じて、迫りくる戦争の最大の根源は、西のドイツ(とイタリア)のファシズムであり、東の日本軍国主義であることを明らかにし、ファシズム軍国主義の本質は野蛮極まるテロ独裁であり、反共・反ソビエトであり、さらに民主主義の完全な否定であり、そのために英米仏はじめ他の資本主義国との間に重大な矛盾を抱えていることを明らかにし、明確な政治目的―ファシズムの打倒・民主主義の回復―を指し示し、全世界の国々、国民、人民に対して、これを政治目的とする統一戦線への参加を呼び掛けている。後にこの呼びかけにより、ソ英米仏による反ファシズム連合が形成され、その結果、第二次大戦は反ファシズム解放戦争へと発展したのである。だが、反共主義者の英首相チャーチルは、最後まで、即ち独ソ戦争が始まるまで「ドイツを東方に向かわせる」「独ソ共倒れを狙う」という作戦を追求していた。「火中の栗を拾わされるな」と国民・人民に呼びかけているスターリンが「英国ルートの情報」に警戒心を持つのは当たり前のことであった。

 スターリンが、当時、様々な情報に対してとった極度に慎重な態度について、それを解明する資料を次に紹介しよう。

 マルクス主義者にとっては「古典的教典」とも言うべきクラウゼヴィッツの『戦争論』に次のような記述がある。

『「情報」という語は、敵および敵国に関する知識の全体を意味し、従ってまた戦争における我が方の計画ならびに行動の基礎を成すものである。ところでこの基礎の本来の性質、即ち絶えず変遷してけっきょく当てにならないという性質を考えてみるがよい、すると戦争はぐらついている建物のようなもので、いつ崩壊して我々がその下敷きになり、瓦礫や土砂のなかに埋没するかも判らないということを感じるだろう。我々は確実な情報だけを信用すればよいとか、情報をみだりに信用してはならないなどという忠言は、確かにどの軍事学書にも載っているが、しかしこれは言葉のうえだけの、取るに足らない慰めであって、体系や綱要を拵えようとする人達の猿知慧にすぎない。つまり彼等はそれ以上のことを知らないからこういう知慧に頼らざるを得ないのである。

我々が戦争において入手する情報の多くは互に矛盾している、それよりも更に多くの部分は誤っている。そして最も多くの部分はかなり不確実である。…

危険に関する情報は、いわば大海の波のようなもので、いったん高まった波は絶えず崩れ去りながら、これまた波と同様にかくべつ眼に見える動因がないにも拘らずまたしても打ち寄せるのである。しかし情報の本来の性質を弁えていれば、この種の情報を是正することができるわけである。それから指揮官は、自己の信念に徹して常に毅然たることあたかも海中に屹立して波の砕け散るにまかす巨岩のごとくでなければならない』と。

 スターリンの行動をつぶさに追ってみれば、彼がこのクラウゼヴィッツの教えをよく守って行動していることが理解できる。

次は 独ソ戦当時、ソビエト国内に滞在し、独ソ戦の取材活動にあたっていた毎日新聞モスクワ特派員・渡邊三樹男の観察記録『ソ連特派五年』からの引用である。

 『1944年2月21日、私は何度目かのレーニン博物館訪問をした。いつもはやっていな い館内の映画ホールにいたると、折から何かの映画がはじまろうとしていたので、早速はいってみた。それは「ソ連の歴史」と題する記錄映画であった。革命時代のレーニンから…いよいよ新憲法による第一回の最高会議選挙となった(一九三七年十二月十二日)。…モスクワの「スターリン選挙区」の投票場があらわれた。投票用紙を持った人がつぎつぎと投票箱の中へ投票してゆく…有名人の姿もみえる…カリーニンモロトフ…それらの人たちはみな一様に無雑作に投票用紙を箱の中へ放り込むと、スタスタと向こうへいってしまう。あッ、長外套を着たスターリンがやってくる! スターリンは、投票用紙を注意深く箱の口から中へ入れ、これを落し込んだが、普通の人のようにすぐその場から立去りはしない、箱の上にかがんで口をのぞき込み、投票用紙が完全にはいったかどうかをたしかめ、さらに箱の横をポンポンと軽く打った。 そうして自分の投票がまちがいなく遂行されたことをみとどけて、それから手袋をはめて去っていった。

 何という用心深さであろうか! 私は、スターリンの政治家としての極度の慎重さにはかねがね敬服していたが、この場面をみて、あらためて彼の百バーセント、否百二十パーセン確実主義 (という表現もおかしなものだが…)に驚いたのであった。

 すでに私は本書のはじめの方で、ソ独戦争第一年、スターリンによる戦争勃発直後のラジオ演説と、4か月経過した革命記念日前夜祭の演説のあいだに、対独勝利の見通しについて根本的な相違がみとめられることを指摘した(注:後者の演説は「われらの事業は正しい。勝利はわれらのものである」という言葉で結ばれていた)。もちろん、スターリンの対独戦争観とその信念は当初から一貫したもので、百二十パーセント確実とならない「勝利」について安易に云々するような態度はとらないのである。ヒトラーや日本の戦争指導者が、口を開けば「勝利はわれにあり」と喚いたのと対比せよ。…

 実際、スターリンは手堅い! この感は彼の伝記や著書、わけてもレーニン没後の重要な演説を採録した「レーニン主義の諸問題」と今次大戦中の演説集「大祖国戦爭について」をひもとくと、よけい深くなる。国民にぬか喜びなど与えない。情勢が悪いときはハッキリ「悪い」と断言し、官僚主義の弊や党員の理論的低下に関しては、徹底的な自己批判をおこなうゆき方である。…

 こういうスターリンの態度は、敵からみれば(友でさえも)、あまりに手堅くガッチリし過ぎていて近づきにくいとの印象を与えるので、しばしば「陰険」とか「強迫観念」とか「冷酷」 と攻撃されるもととなるのだが、味方からすれば、これくらい力強い、頼りになる人物はいないということになる。

 テヘラン会談の折、スターリンは、ドイツの殺人スパイが狙っているとの理由でルーズべルト大統領をアメリカ大使館から安全なソ連大使館に連れ出したものだが、これまたスターリンの百二十パーセント主義が如実にあらわれた一例として興味深い。』

 新聞記者である渡邊氏は、「スターリンの政治家としての極度の慎重さにはかねがね敬服していたが、この場面をみて、あらためて彼の百バーセント、否百二十パーセン確実主義 に驚いた」というのである。大木氏が「猜疑心」などといって批判している「スターリンの慎重さ」について、渡邊氏は高い評価を与えているのである。

 次は、日本の著名な独ソ戦研究家・山崎雅弘氏が、その著『新版・独ソ戦史』(朝日新聞出版・2016年刊)において明らかにしている、開戦に纏わる注目すべき事実である。氏はどちらかというと「独裁者スターリン」に対して批判的立場の人物である。それだけに、彼のこの指摘には十分信頼がおける。

 『一九四一年六月十三日、国防人民委員ティモシェンコ元帥は、西部国境地帯に展開する各部隊に戦闘準備をとらせ、防御陣地に展開させるよう進言したが、スターリンは「検討する」と答えただけで、明確な指示を出そうとはしなかった。翌六月十四日、ソ連国営夕ス通信は、対ソ国境に集結しているドイツ軍部隊の存在や、世界中で流布している「独ソ開戦間近」との噂を指摘した上で、「そのような噂には何の根拠もなく、独ソを戦争状態に追い込もうとする勢力(イギリス)の謀略である」との声明を発表した。

 そして、開戦前日の六月二十一日深夜、越境したドイツ軍の脱走兵が、翌朝の対ソ侵攻作戦についての情報をもたらしたとの報せを受けたスターリンは、ようやく戦争の準備に着手した。彼は、午後十一時三〇分に国境付近の防御態勢の強化を指示する次のような命令文書に署名すると、前線の各部隊に伝達するよう命じた。

 「一九四一年六月二十二日から二十三日の間に、レニングラード、沿バルト特別、西部特別、キエフ特別、オデッサの各軍管区において、ドイツ軍が奇襲攻撃を実施する可能性がある。しかしわが軍は、戦争拡大を招くような敵の挑発行為に乗ってはならない。各軍管区の部隊は、敵の不意打ちに備えて戦闘部隊を展開し、防御陣地と空軍基地の航空機には偽装を施すこと。防空部隊に臨戦態勢をとらせ、主要都市や目標物の灯火管制を準備すること。ただし、特別の指示がない限り、上記を超える行動をとってはならない」

 参謀総長第一代理のヴァトゥーティン中将は、この命令文書を携えてクレムリンから参謀本部に戻り、六月二十二日の午前〇時三〇分に各軍管区への送信を完了した。だが、こ の命令を受け取った各段階の司令部は、暗号で発信された内容を解読するのに貴重な時間を費やしてしまう。西部特別軍管区司令部は、午前一時四五分に命令内容を理解した後、 再び暗号に変換して、午前二時三十五分に配下の軍司令部へと転送した。国境の防備を統括する各軍司令部の手許に命令が届いたのは、現地時間の午前三時前頃だった。軍司令部の将校は、上から伝えられた命令をさらに配下の軍司令部へと伝達せねばならなかったが、彼らにはもはや、その時問は残されていなかった。 それからわずか一五分後に、ドイツ空軍の爆撃が開始されたからである。』

 『(ドイツ南方軍は幾つかの不利な条件を負わされていた)開戦前夜の六月二十一日、ドイツ国防軍の脱走兵が国境のブーク川を泳ぎ渡ってソ連側に投降し、翌朝に実施される侵攻作戦の内容を通報していた…。これにより、国境付近のソ連軍部隊は限定的ながら臨戦態勢を整えており、(ドイツ軍)南方軍集団戦区では北方や中央軍集団戦区のような戦術レベルでの奇襲効果を得ることができなかった。

 この戦区を管轄するソ連南西方面軍司令官のミハイル・キルポノス大将は、 最前線から報告されるドイツ軍部隊の集結情報を吟味した上で、この投降兵が現れる一週間以上前からドイツ側の侵攻開始を予見しており、国境に面した部隊の体制強化を繰り返しスターリンに進言していた。結局、この進言は聞き入れられず、キルポノスは不本意な形で開戦を迎えることとなったが、それでも他の戦区に比較すれば、ソ連部隊の指揮系統は奇襲による麻痺に陥ることもなく 国境を越えたドイツ軍部隊は事前の予想を上回る、ソ連軍の頑強な抵抗に遭遇することとなった。…

 キルポノスは開戦初日の未明に発令された国防人民委員部指令第2号に続く、新たな攻撃命令(指令第3号)に従い、反撃の準備に取りかかった。キルポノスは、スターリン直々の指令により「最高司令部代表」という肩書きでモスクワから急きょ、南西方面軍司令部へと派遣されたジューコフ(注:スターリンが最も信頼していた司令官)と相談した上で、第8、第9、第15、第19、第22 の五個機械化軍団に、それぞれの反撃開始地点への移動を命令した 』と

 以上から、「百二十パーセント確実主義」「極度の慎重派」であったスターリンは、最前線の信頼のおけるキルポノス大将が「ドイツ軍投降兵」から入手した情報を元に、初めて「ドイツ軍の奇襲攻撃」を確認し、「反撃の準備」に取り掛かった。これが真実である。「絶対に挑発に乗ってはならない」とする「百二十パーセント確実主義」のスターリンにとって、これが唯一の正しい判断の仕方であり、対処法であった。この対処法はあまりにもきわど過ぎたとの批判もあろう。が、それはあくまでも結果論であり、その瞬間は、クラウゼヴィッツの言うように、不動の信念を以って対処する以外にないのである。

 この投降兵のもたらした情報の詳しい内容は不明であるが、指令から推測できることは、ドイツ軍の攻撃がどの程度のものであるかについての情報は得られていなかったようだ。指令伝達の時間的ロスは、やってみて分かることで、避けられないことである。暗号に係るこの種の問題は日本軍の真珠湾攻撃、日米間の宣戦布告問題をめぐってもあったことで、これも避けられないことであった。

 いずれにせよ、ここから明らかなことは、大木氏らが言うような「猜疑心の強いスターリンはどんな情報も無視し、必要な警戒措置をまったく取らなかった」などいう事実はどこにも無く、真実はその正反対であった、ということである。

 また、大木氏やフルシチョフは、スターリンは「情報を無視」しただけでなく、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の攻撃に対して全く無防備であったなどと批判しているが、これもまったくの中傷である。

 スターリンソビエト政府が、独ソ戦前に如何なる準備・対策をとっていたか、大木氏は何も知らない。恐るべき無知である。或いは、知っていてもこれを無視したのか、どちらかであろう。後者であるとするなら、軍事史研究家として落第であろう。

 スターリンソビエト政府の対独政治戦略、国防・軍事方針については、既に第二次世界大戦独ソ戦の開始」及び「スタハーノフ運動と社会主義的競争」の項で述べた通りであるが、ここで今一度、そのエッセンスを纏めてみよう。

 その前に、まずはクラウゼヴィッツが残した有名な言葉を今一度ここに紹介しておこう。即ち『戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない。戦争とは単に政治行動であるのみならず、まったく政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行である。政治的意図は目的であって、戦争は手段であり、そしていかなる場合でも手段は目的を離れては考える事はできない』との言葉を。

 さて、スターリンは、1934年1月(第二次世界大戦勃発の5年前!)に開かれた第17回党大会の『一般報告』で、早くも次のように述べている。

 『再び、1914年と同じように、好戦的な帝国主義の諸政党、戦争と復讐の政党が、前面に進出しつつある。事態は明らかに新しい戦争に向かっている。…次のように考えている者もある。――戦争は、「高等な人種」たとえばゲルマン「人種」が、「下等な人種」何よりもスラブ「人種」に対して仕掛けなければならない…と。また…戦争は、ソ同盟に対して仕掛けなければならないと考えている者もある。彼らは、ソ同盟を打ち砕き、その地域を分割し、ソ同盟を犠牲にして利益を得ようと考えている。こんな風に考えているのは日本の若干の軍閥連中だけだと考えたら、それは間違いである。ヨーロッパの幾つかの政治指導者の間にも、この様な計画が企まれていることを、我々はよく知っている』と。

 また、スターリンは、同大会の報告の中で「ソ同盟は、極東地方・西部国境の情勢を鋭敏に監視しつつ、極東・西部国境の国防力の強化に努めなければならない」と呼び掛け、次のように述べている。

 『わが国の対外政策は明らかである。それは、すべての国との平和を維持し、通商関係を強化する政策である。ソ同盟は誰かを威嚇しようなどとは考えていないし、まして誰かを襲撃しようなどとは、なおさら考えていない。われわれは平和に味方し、平和の事業を固守する。だが、われわれは威嚇を恐れないし、戦争放火者の打撃にたいしては打撃をもって応える用意がある。平和を欲し、われわれと実務的関係を持とうと努力するものは、常にわれわれの支持を見出すであろう。だが、わが国に襲いかかろうとするものは、今後わがソビエトの菜園にその豚の鼻づらを突っ込むなどということを二度としなくなるように、壊滅的な反撃をうけるであろう。われわれの任務は、今後ともこの政策を粘り強く、徹底的に実行していくことである』と。

 このスターリンの「平和政策」は、レーニンが述べた、次のような「平和政策」を引き継いだものであり、それはソビエト人民の根強い要求でもあった。

ソビエト権力の対外政策の諸任務を考慮する場合、現在、無謀な或は性急な行動によって、日本またはドイツの主戦派の極端な分子の手助けをしないためには、最大の慎重さ、熟慮、堅忍不抜さが必要とされる。それというのは、これら両国における極端な分子が、ロシアの全土を占領し、ソビエト権力を打倒する目的で、ロシアに対する即時の総攻撃を主張しているからである。…本格的な戦争の軍事的準備を強化する上に必要なことは、発作でもなければ、喚くことでもなく、戦闘スローガンでもなく、大衆的規模での長期の、緊張した、極めて粘り強い、規律ある行動である』(1918年5月 現在の政治情勢についてのテーゼ)。

 更に、1939年3月10日に開催されたソビエト共産党第⒙回大会において、スターリンは、世界情勢について、自国の国防・外交方針について、ヒトラーの動向を念頭に、次のように語っている。

 『侵略国諸国(注:独伊日の反共ファシスト国家)は、ヨーロッパではオーストリアやズデーテンやスペインを奪い、アジアでは日本が中国大陸で広大な土地を奪っている。このように、侵略諸国家は、イギリス・フランス・アメリカの権益を至るところで侵している。にもかかわらず、これらの被侵略諸国家はおとなしく引きさがり、譲歩に譲歩を重ねている。その原因はどこにあるのか?…彼らは、侵略国家の悪業を防止しようなどとは考えていない。つまり、日本が悪業を続けている内にソビエトとの戦争に巻き込まれたり、ドイツがソビエトとの戦争を始めるかもしれないから、別に日本やドイツの悪業を防がないでもよろしい、というわけである。そして、これらの交戦国が互いに力を消耗し尽くして弱ってしまった時、自分たちは新手として登場し、自分たちの思うように世界を処分しようという寸法なのである。』と。

 そう述べた上で、スターリンソビエトの「対外政策」「対外政策の基礎となる主体力強化策」「党の任務」を次のように提起した。

 「ソビエトの対外・外交政策について」―民族独立闘争を支持し、帝国主義の戦争準備を暴露し、互いに実務関係を結べる国々とは正常な関係を結び、国境を接する国々とは互いに国境を尊重し合うこと。

 「ソビエトの対外政策の基礎としての対内政策について」―ソビエトにおける人民の団結、ソビエト権力の強化と拡大(注:経済建設と生産力増強も含む)、ソビエト赤軍の強化と国防力の強大化、政府の平和外交、万国の労働者との国際的団結を推し進めること。

 「ソビエトの党の任務について」―先の二つの政策実現を責任もって指導すること。そして、党が、あらゆる現実の分析と理論上の根拠に立って、「火中の栗を拾わされる」(注:自分の利益にならないのに、そそのかされて他人のために、即ち英仏のために危険をおかす)ことのないような革命的外交政策を展開すること、と。

 更にまた、スターリンは1931年2月に開かれた『産業の働き手第1回会議』の席上、第1次5ヶ年計画を総括し、レーニンの「戦争は仮借なきものであり、戦争は容赦なき峻烈さで問題を立てる。即ち、滅亡するか、それとも先進諸国に追いつき、且つ経済的にもこれらの国を追い越すか」「滅亡するか、或は全馬力をかけて前方に突進するか。歴史はかくの如く問題を立てている」を引きつつ、次のように訴えている。

 『少しばかり速度を緩め、運動を抑える事はできないだろうかという質問が時々なされるが、それはできない!速度を下げてはいけない!速度を引き留める事は落伍である!落伍者は殴られる。我々は殴られたくはない。断じて殴られたくない!…旧ロシアの歴史は遅れたために間断なくやっつけられた記録である。…我々は50年も100年も先進諸国から遅れている。この距離を我々は10年間で走り抜けねばならない。我々はこれをやり遂げるか、打ち潰されるか。…これは我々にかかっている!』と。

 第二次世界大戦独ソ戦前、当時のスターリンソビエトにとって、第1次・2次5ヵ年計画を一日でも早やく成功させること、ソビエトの経済力と国力を強めること、内部体制をより強固にすることが至上命題であり、その軍事・国防方針はあくまでも「防御的」であって、「他国を襲撃する」などもっての外のことであった。「我々は絶対に敵の挑発に乗ってはならない。平和を求め、ソビエトと友好を求める如何なる国とも不可侵条約を結ばねばならない」―ここにソビエト政府の外交・国防方針の核心があった。

  スターリンソビエト政府は、これらの方針を忠実に守り、忠実に実践、実行し、独ソ戦の準備に万全を尽くした。これは動かし難い事実である。

 実際、独ソ戦開始前、ソビエト政府は全力を挙げて「戦争準備」を進めている。そこには一かけらの油断も見られない。第1次・2次5ヵ年計画は既に完了し、第3次5ヵ年計画(1938年~1942年)は、1941年6月の開戦時には、工業生産計画予定の86%を達成済みとし、鉄道輸送計画は予定の90%が達成済みであった。特に国防産業部門は強行軍で推進され、スターリンはこの部門の工場長、主任技師、党組織者としばしば会見し、彼らを激励していた。また、敵の攻勢・侵入に備え、戦略的工業の各種工場は、ドイツ陣営と国境を接する西部から遠く離れた領内奥地、東部地域への移動、建設が推進された。1939年9月にはソ連邦最高会議は「全国民兵役義務法」を制定し、1940年6月には「8時間労働制・週7日制・勤務者の自由離職禁止」が公布され、更に次々と熟練工養成制度が創設された。

 当然のことながら、ソビエト赤軍の戦略的軍事方針もまた、あくまで防御を旨としていた。勿論、防御といってもフランス軍の「マジノ線」に表徴されるような「立てこもり防御」などではない。スターリンの片腕となって独ソ戦を指揮したジューコフ元帥の『回想録』(朝日新聞社・1969年刊)が明らかにしているように、主力軍を全て国境付近に配置するなどということはせず、国境から領内深さ100~150キロ以東(南西方面軍は国境から30キロ以東)に250万の兵力を配置し、残りの200万は国境から500キロ内側の地点に配置した。そして、その主要な作戦方針は、あのナポレオンと戦った「祖国戦争」におけるロシア軍の勝利の経験に学んだもので、反撃を加えつつ敵を内陸部に誘い込み、十分引き付けた後、主力部隊(と予備軍)が総力を上げて反撃を加える、というものであった。これは〝敵の挑発〟に乗せられないための、賢明で唯一正しい戦略配置・作戦措置であった。こうした防御的方針については、クラウゼヴィッツも『一般に防御は攻撃よりも強力であり…我々の確信するところでは、(正しい意味の)防御は攻撃よりも著しく強力であり、しかも我々がかいなでに(注:深く知らずに)想像するよりも遥かに強力なのである』と説いている。

  

 フルシチョフらは、スターリン死後、「参謀本部は、なぜ国内の主力部隊を動員して国境に配置し、直ちに敵を撃退しなかったのだ」などと非難攻撃し、「スターリン批判」を繰り広げているが、これに対し、参謀総長ジューコフは、その回想録で、『わが軍は、対戦車、対空両方面で敵に対抗するだけの実力はなかったし、また機動性にも乏しく、堰を切ってなだれ込んでくる強力な敵装甲部隊の進撃を支えられ得るものではなかった。国境警備の部隊がどんなに苦しい破目に陥っていたか、想像はついていた。しかし、もし主力部隊を国境に移していたら、その後、モスクワやレニングラード、南方で事態はどう進展していたか?』と明快に答えている。そして、前線の赤軍兵士たちも、国境に近い地元人民も、それだけでなく全国人民もまた、このこと、即ち、前線は、犠牲を恐れることなく、最大限の抵抗・反撃をもってドイツ軍に打撃を加え、侵入を遅らせ、時を稼がねばならず、この間に後方戦線・銃後は必要な戦争準備を急ぎ、主力軍はここぞという時に総反撃に移るのだという方針を、よく理解していた。スターリンと最高軍司令部も祖国防衛に決起した人民も、目前の戦術レベルの決戦ではなく、あくまでもこの戦争の将来を決する戦略レベルの決戦を見つめていたのである。

 マルクス主義者であるスターリンは、徹底した内因論者である。やがてやって来るであろう戦争の運命を決定するもの、それはソビエト国内の経済的、政治的、軍事的体制と人民の結束であり、「防御」を主とする軍事・国防方針であり、他国との「平和と友好」の外交方針、国際プロレタリアートの団結強化であることを、よく知っていた。かの「トハチェフスキーらの粛清」も対独戦の前哨戦であり、内部体制固めの一環であった。

 大木氏は、スターリンは「不愉快な事実」から目を背け、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の奇襲に対して必要な警戒措置を取らず、無防備のまま奇襲攻撃を受けることになったというが、そんな事実は何処にもない。

 

 「トハチェフスキーの粛清によって赤軍が弱体化された」という批判について 

 大木氏によれば、スターリンは1939年の「大粛清」によって、時代に先んじた用兵思想―「縦深戦」なる作戦術―を完成させたトハチェフスキー元帥を銃殺し、自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまい、赤軍を弱体化させてしまった、という。

 これも全く間違った批判である。だいたい、「時代に先んじた用兵思想を完成させた云々」も何も、トハチェフスキーは「ヒトラーと通じていた裏切り者」であったのだ! この事実については『独ソ戦の前哨戦としての「赤軍元帥トハチェフスキー粛清」』の項で詳しく述べた通りである。大木氏は、フルシチョフの「スターリンの粛清批判」をそのまま鵜吞みにし、何の疑問も持たずにその批判を踏襲しているだけである。

 独ソ戦は突然始まったことではない。「戦争は政治の継続である」とは、戦争前、既に熾烈な政治的戦闘が戦われている、ということを意味する。「赤軍元帥トハチェフスキー粛清」はまさに、独ソ戦争の前哨戦であった。既に紹介してあるが、さすがに知将マウントバッテンの洞察力は見事なものである。彼は、開戦前、既に、スターリンソビエト軍が「粛清」断行によってこの前哨戦に完全に勝利していることを見抜いており、ソビエトの完勝を予告し、結果その通りとなっている。

 フルシチョフの「粛清批判」をそのまま鵜吞みにしている大木氏は、『軍の脊柱は将校であるとは、しばしばいわれることである。もし、それ(トハチェフスキーらの粛清)が真実であるとするなら、スターリンは、自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまったことになろう。事実、大粛清の影響は深刻だった。…つまり、大粛清は、高級統帥、すなわち大規模部隊の運用についての教育を受けた将校、 ロシア革命後の内戦や対干渉戦争での実戦経験を有する指揮官の多くを、ソ連軍から排除してしまったのである。折しも、1938年に開始された第3次5ヶ年計画によって、物的準備は拡充の途上にあった。しかし、将校団が潰滅したとあっては、いかに兵器や装備を整えようと、精強な軍隊を保持することは望めない』などと言っている。彼にとって、「粛清は独ソ戦の前哨戦だった」などという見立ては思いもよらないことであったようだ。

 こういう「批判」に対する最良・最大の反論・反証こそ、独ソ戦におけるスターリン赤軍の圧倒的勝利である。その事実が、大木氏の「批判」―トハチェフスキー擁護―を完膚なきまでに粉砕している。

 その上で、かの有名な軍事理論家リデル・ハートが『第二次世界大戦』の中で語っている一文を、再度取り上げ、紹介しておこう。

 『ソ連軍の改革は上層部から始まった。当初からの高級指揮官を思い切って整理し、その後釜に大部分が40歳以下の、若い世代の活動的な将軍を登用した。彼らは前任者よりもいっそう専門家であった。かくしてソ連軍統帥部は平均年齢でドイツ軍のそれよりも、20歳近くも若返り、活動性と能力の向上をもたらした。…

 ソ連軍の戦車はどこに出してもひけをとらないばかりか、多くのドイツ軍の将校にいわせれば、最高のものであった。…戦車自体の性能、耐久性、備砲では最高度な水準に達していた。ソ連軍砲兵は質的に優秀であり、またロケット砲の大規模な開発が行われ、これがきわめて有効であった。ソ連軍のライフル銃はドイツ軍のものより近代的で、発射速度も大きく、また歩兵用重火器の多くも同様に優秀だった。…

 ソ連兵は、他国の兵なら餓死するときにも生きつづけた。ソ連軍は西欧の軍隊なら餓死するはずの環境にも生存でき、他の国の軍隊なら破壊された補給が再開されるまで停止して待つはずの場合にも、彼らは前進を続行することができた。このときの印象を、ドイツ軍のマントイフェル将軍(独ソ戦開始時、第七装甲師団長)はつぎのように要約している。「ソ連陸軍の進撃ぶりは西欧軍の想像を超えたものがあった。兵士はザックをひとつ背負い、その中に前進の途中、畑や村々から集めた乾いたパンの外皮や生野菜を詰め込んでいた。馬匹は家々の屋根わらを食べさせていた。ソ連軍は前進にあたって、このような原始的な訓練によっても長期の戦闘に慣れていたのである」と』

 まったくその通りである。いったい、どこに「赤軍の弱体化」の事実があるというのだ!

 更に、大木氏は「粛清による赤軍弱体化説」を吹聴しているだけでなく、「トハチェフスキーは“赤いナポレオン”と称されたソ連屈指の用兵思想家である」として天まで持ち上げて褒めたたえ、「独ソ開戦時のソ連軍のドクトリン(基本原則)はトハチェフスキーらが策定した卓抜なドクトリンであったが、いかんせん、粛清によってそれを使いこなす高級将校や現場指揮官が排除されてしまい、無謀な攻撃を繰り返すのみに終わり、その結果ソ連軍の大敗を招いた」などと述べている。

 その「卓抜なドクトリン」とは何か。『トゥハチェフスキーが完成させた「縦深戦」の構想とは―。空軍と砲兵、前線部隊の攻撃により、敵の最前線から中間陣地、さらに後方陣地までも、一気に制圧する。砲兵や前線部隊の手が届かぬ後方は、迅速に突破した戦車・機械化部隊、空挺部隊が押さえ、敵の再編成や予備兵力召致の阻止にあたる。このようにして、最初の打撃が成功したのちも、問断なく攻勢を続け、ついに敵国を屈服させるに至るのだ』という。

 スターリン赤軍司令部は、対独戦に向けて、こんなドクトリン、こんな基本原則(即ち戦略)など採用していないし、また、それは元々一つの戦術(攻撃方法)であって、戦略などではない。スターリン赤軍司令部の戦略はあくまで防御的戦略であり、敵の攻撃に反撃を加えつつ、敵兵力を大陸の奥へと引きずり込み、十分に引き付け、更に自然条件等も味方にして敵兵力を弱らせ、その上で機をみて戦略的反撃、総攻撃に打って出るというものであり、「トハチェフスキーが考え出したドクトリン」とは全く逆である。もし、戦闘中にそのような「ドクトリン」を実行に移したものがいるとすれば、それこそ重大な裏切りであり、軍規違反ものである。一言付言するなら、緒戦後、解任・処刑された西正面軍司令官パヴロフは、トハチェフスキーと同じロシア帝国軍人出身であり、同じような過程を経て赤軍司令官になっており、トハチェフスキーと無関係ではない。特に、緒戦の最前線におけるミンスクベラルーシ)の戦いにおいて、戦況に絶望したパブロフが、徹底反撃の指令を守ろうとせず、総司令部にミンスクの放棄と撤退を求め、6月26日には西方面軍司令部をミンスクから東方のボブルイスクに移転させ、各軍司令部との連絡を途絶させ指揮系統の寸断に拍車をかけたことは、重大な軍規違反であった。

 トハチェフスキーが完成させた「縦深戦」の構想、即ち「作戦術」について、大木氏自身、次のように語り、つまるところ、それが「戦術」でしかないことを自ら認めている。 

 『まず、戦争目的を定め、そのために国家のリソースを戦力化するのが「戦略」である。作戦術は、右の目的を達成すべく、戦線各方面に「作戦」、あるいは 「戦役」(正確な軍事用語としては、一定の時間的・空間的領域で行われる、戦略ないし作戦目的を達成しようとする軍事行動を意味する)を、相互に連関するように配していく。個々の作戦を実行するに際して、生起する戦闘に勝つための方策が「戦術」である。…作戦術はむしろ戦略次元の下部、もしくは戦略次元と作戦次元の重なるところに位置するものであることを強調しておきたい』と。

 大木氏は、この作戦術は「戦略次元と作戦次元の重なるところに位置する」などと言っているが、自らも認めているように、「作戦術」は「戦争目的」「戦略」を達成する手段であり、結局のところ「戦術」でしかないということである。こうした戦術は「空軍、戦車、機械化部隊、空挺部隊といった新しい時代の軍備」の登場によって必然的に生み出された戦術(攻撃方法)であり、ドイツの「電撃戦」、リデル・ハート推奨の「間接アプローチ」も本質的には同じ類の戦術である。

 クラウゼヴィッツが教えているように、戦術は戦略に奉仕してこそ意味もあり、価値もある。したがって、戦略―政治戦略・軍事戦略―から離れて戦術を論ずることはできないし、論ずる意味もない。

 

 「独ソ戦緒戦でソビエト軍は大敗した」という批判について

独ソ戦の緒戦でソビエトは大敗した」とよく言われるが、これは本当のことか? フルシチョフも大木氏も、当たり前のように、そう主張している。

 しかし、リデル・ハートはその大著において、『ドイツ軍は、ついに包囲の輪を閉じる試みには失敗した。この初期(注:独ソ戦開始からの九日間)の大包囲作戦の不首尾により、ヒトラーの短期決戦勝利の夢ははかなく消え去った』と断言している。さすがに戦略重視のリデル・ハートである。ヒトラーの「短期決戦勝利の夢」は消え去った、ヒトラーの戦略的軍事方針であった「短期決戦」は完全に失敗した、と断定している。

 少し長くなるが、リデル・ハートの大著『第二次世界大戦』を紐解きつつ、彼の独ソ戦の緒戦に関する記述を辿ってみよう。

 【 (一九四〇年)十二月五日、ヒトラーは東部作戦に関するハルダーの報告を受け、そして十八日『指令第二一号』《バルバロッサ作戦》を発令した。指令は次の決定的な一文に始まっていた。「わがドイツ国防軍は、対英戦終了以前にソ連邦を迅速な作戦により蹂躙する準備を進めるべし」。《…西部ロシアにおけるソ連軍を、戦車部隊による四個のくさびを敵陣内深く果敢に打ち込むことにより壊滅せしめるべし。戦闘能力を有する敵部隊の、広大なる敵領内への退却は阻止せねばならない。》…

 侵攻軍は三個軍集団分けられ、それぞれに以下のような作戦任務が当てられた。《北方軍集団》(レープ元帥〉は、東プロイセンからバルト海沿諸国経由レニングラードを目指す。《中央軍集団 》(ボック元帥〉はワルシャワ地区からモスクワ街道沿いにミンスクスモレンスクに突進入。《南方軍集団》(ルントシュテット元帥〉は、プリピャチ沼沢地帯南部を攻撃、 さらにルーマニアに戦火を拡大し、ドニェプル川およびキエフに向かう。

 このうち最大の力点は中央軍集団に置かれ、最強戦力を編成配備する。…

 (一九四一年)六月二十二日、日曜日の朝まだき、北はバルト海沿岸から南はカルパチア山脈に至る広大な戦線において、くつわを並べ満を持していたドイツ軍三個軍集団は怒濤の進撃を開始し、またたく間に国境を越えて突き進んでいった。…

 ドイツ軍首脳は、装甲集団の活用に戦いの帰趨がかかっていることに全員異論はなかった。しかし、その使用方法に関しては意見が分かれ、その理論の衝突は深刻な影響を及ぼすことになった。

 一部の指揮官は、国境突破後すみやかに古典的な包囲戦(注:正統派的作戦)による決戦を挑み、ソ連軍を壊滅させることを主張した。…敵主力軍を撃破しないうちに領内深く侵人する危険を懸念した彼らは、いっそう強くこの理論に肩入れした。そして確実な成果を収めるには、装甲集団は歩兵軍団に協力し両側面から内側へと挟撃体制で旋回し、敵部隊後部を封鎖して包囲戦を全うすべきであると強調した。

 グデーリアン将軍を長とする戦車専門家らの考えは、根本的に異なっていた。彼らはすでにフランス戦で立証済みの方法により、装甲車集団をできうる限りの速度で深く浸透するのを求めた。 グデーリアンは、自分の第二装甲集団とホートの第三装甲集団は、時を移すことなく首都モスクワに向かってできる限り迅速に直進し、少なくともドニェプル川の線に到達してからはじめて内旋回すべきである、と主張した。

 この理論の衝突は、ヒトラーの断によって正統派が勝ちを占めた。…ヒトラーは…彼自身の強い幻想に取りつかれていた。赤軍の大兵力をひとつの巨大な輪の中に封じ込め一網打尽にするという想念に起因した決断であった。

 この幻想が鬼火となって、彼をロシア領内深く深くへといざなっていった。第一次、第二次攻勢は不成功に終わったからである。三回目の攻勢により大量の捕虜こそ得たが、ドニェプル川のはるか向うにまで引き込まれていた。そして第四次攻勢では五〇万のソ連軍兵士を罠に掛けることに成功したが、厳しいロシアの冬が到来し、ドイツ軍は敵正面に生じたすき間を拡大することができなかった。これらはそれぞれ華々しい戦闘であった。しかし、挟撃のはさみを開き閉じる操作に時間がかかりすぎ、戦術意図の達成に努力している間に、戦略上の目的を遂げることができなくなるという結果をもたらしたのである。…

 ‶理論の衝突〟が正統派戦略に有利に決着したため、ドニュエプル川到達以前にソ連軍主力部隊を一網打尽にして全滅に追い込むための大包囲作戦が立案された。これにはボック(中央軍集団下)の第四軍、第九軍の歩兵軍団による小範囲包囲作戦と、その外側においていっそう深く浸透したのち内側へ旋回する(第二、第三)装甲集団のさらに広範囲な包囲作戦が含まれていた。…

 中央軍集団は…各地点で深い漫透に成功した。二日目には、右翼の装甲部隊がブレスト=リトフスクの先四〇マイルのコブリンに達し、また左翼もグロドノの要塞および鉄道の要衝を占領した。…しかし、ソ連軍は頑強このうえない抵抗を示し、前進は妨げられた。ドイツ軍は機動作戦においては、優位に立ったが、戦闘で敵を撃ち負かすことはできなかった。包囲されたソ連軍は時には降服を余儀なくされたが、それとても長い抵抗を行なったあげくであり、また戦略的に見込みのない状況にありながら彼らは愚鈍とも思える執拗さを見せた。そして、これが攻者の計画の遂行に重大な妨げとなった。交通連絡網の不便なロシアの国土にあっては、この前進の遅滞がさらに重大な結果を招ことになった。

 緒戦のブレスト= リトフスク攻撃時に、早くもその影響が生じていた。この古い歴史をもつ城砦の守備軍は、陸空からの集中砲爆撃にもかかわらず一週間も持ちこたえ、ドイツ軍急襲部隊に甚大な損害を与えたのちようやく屈服した。その後も繰り返されることになったこの最初の苦い経験が、今後の戦局展開に対するドイツ軍将兵の眼を見開かせた。各道路中枢でドイツ軍は強い抵抗に出会い、道路以外は前進不可能な補給縦隊の予定経路がふさがれたために、迂回行動に大きなブレーキが掛けられてしまった。…

 両翼の主力装甲部隊は一〇〇マイル以上を踏破し、一九三九年当時のソ連国境を越え、(注:独ソ戦開戦の日である一九四一年六月二二日から)九日目の六月三十日、ミンスクを攻略してその先で内旋回を行なった。同夜、広く拡散したグデーリアンの先遣部隊のひとつがミンスク南東九〇マイル、ドニェプル川から四〇マイル足らずのボブルィスク付近で、 史上名高いベレジナ川に到達した(注:ナポレオン軍は‶冬将軍〟の到来でモスクワから撤退、ロシア軍の追撃を受けて西方へ後退、ベレジナ川東岸に追いつめられ、包囲全滅の危機に見舞われた)。しかしドイツ軍は、ついに包囲の輪を閉じる試みには失敗した。この初期の(注:開戦からわずか9日間の最初の攻撃の機会における)大包囲作戦の不首尾により、ヒトラーの短期決戦勝利の夢ははかなく消え去った。…ベレジナ川はかつてのナポレオン軍の後退を阻んだと同様、ヒトラーの前進を阻止した。

 大包囲作戦の挫折は、今やドイツ軍総司令部を刺激して、従来は彼ら自身が避けたいと望んでいたドニェプル川以遠への前進に着手させることになったのである。】 

 以上が、リデル・ハート独ソ戦の「緒戦」の戦況分析である。

 リデル・ハート独ソ戦の戦術面ではなく戦略面を重視して戦況を観ている。それ故、ドイツ軍の緒戦の奇襲による戦術面の勝利などは評価せず、ヒトラーとドイツ軍の「戦略目標の未達成」をこそ問題にし、短期決戦戦略を目指したドイツ軍の敗北(大敗)と断定しているのである。

 リデル・ハートの念頭にあるのは、クラウゼヴィッツの次の指針であろう。

『戦争指導は…第一は、個々の戦闘をそれぞれ按排し指導する活動で動である。そして前者は戦術と呼ばれ、後者は戦略と名付けられるのである」「戦略の旨とするところは、戦争。そして前者は戦術と呼ばれ、後者は戦略と名付けられるのである」「戦略の旨とするところは、戦争とっては勝利、即ち戦術的成果は、もともと単なる手段にすぎない』『戦略は軍にあるのではなくて内閣にある』(内閣そのものが大本営と見なされる場合)。

 ここであらためて、ドイツ政府首領・ナチス党党首・ドイツ軍最高指揮官ヒトラーの政治戦略とは何であったのかを振り返ってみよう。それは「東方・ロシアの地にゲルマン民族の生存圏を獲得すること」―これこそが至上命題であり、武力戦争によってそれを実現することこそがその最大の政治目的であり、「総計画」であった。すなわち、それは「ボルシェビキ支配からロシア国民を解放する」などというものではなく、「ボルシェビキ支配を打倒・粉砕し、社会主義者を抹殺し、ロシア国民をナチス・ドイツ支配下に置き、奴隷として酷使し、ロシアをしてドイツの植民地たらしめる」というものであった。

 したがって、ヒトラーは、どうしても「ロシア民族を完膚なきまでにやっつけ、その戦意を粉々に打ち砕き、戦意を喪失させ、完全に抵抗力を骨抜きにする」必要があった。そこで、ヒトラーナチス・ドイツは、北方、中央、南方から一気に攻め入り、ソビエト中枢と主力軍を一気に包囲・殲滅し、首都モスクワを占領・支配し、ロシアをわがものとすべく、ドイツ軍団の総力を挙げて〝乾坤一擲〟の大勝負を仕掛けたのであり、あくまでも奇襲的短期決戦で勝利することがその戦略定目標であった。そのための戦術の一つが集中的電撃的攻撃であった。それは、先兵として大量の戦闘機・空軍部隊を送り込み、敵の軍事基地・都市に集中的爆撃を加え、その後に大量の戦車・機械化部隊と歩兵部隊を繰り出し、一帯を占領・支配する。こうして一気に目標を破壊し、敵の戦意を挫き、戦意を喪失させ、敵地を占領・支配するという攻撃方法であり、こうした戦術を駆使しつつ、赤軍の大兵力・主力軍をひとつの巨大な輪の中に封じ込め一網打尽にする。その上で、首都モスクワを占領支配する、というのがヒトラーの軍事戦略であった。

 このように、ヒトラー独ソ戦、特に首都モスクワ攻略戦を「短期決戦」としたのは、ロシア特有の難敵‶冬将軍〟が襲い掛かる前に決着をつける必要がある、と判断していたからでもあった。かつての「祖国戦争」におけるナポレオン敗北の教訓は、ヒトラーもこれをよく学んでいた。そして、ヒトラーはこの「奇襲的短期決戦」の勝利を確信(盲信)していた。その証拠に、ドイツ軍の補給体制は杜撰であり、準備不足が目立ち、特に冬季用装具の必要性はほとんど考慮されていなかった。

  独ソ戦開戦前、ヒトラーは「我々はドアを蹴破りさえすればよい。そうすれば、あのちゃちな建物はひとたまりもなく崩れ去ってしまうだろう」と豪語し、外相リッペントロップもまた松岡外相に「もしも独ソ戦争になれば2、3ヵ月で片付いてしまう。ドイツは対ソ戦で日本の援助など夢にも考えていない」とうそぶいていた。奇襲攻撃によって得られた緒戦のほんの一時の「勝利」に酔い痴れた前線のドイツ軍将兵も「ロシアとの戦争は1カ月足らずで終わるだろう」と楽観視していた。

   しかして、こうした見方は、何もヒトラーとドイツ軍将兵の「専売特許」ではなかった。チャーチル始め英米の政府・軍首脳、軍事専門家、海外情報機関、国際世論もまた同様に、「ソビエト赤軍の崩壊、敗北は時間の問題」「短期間でのソ連の敗北必至」としていたのである。そうした判断の根拠は、「トハチェフスキー元帥始め大量の赤軍幹部・将校を逮捕、解任、処刑するという粛清によって赤軍は壊滅的打撃を受けている」というものであった。しかし、現実はそうはならなかった。

 リデル・ハートが断定しているように、ヒトラーナチス・ドイツ軍にとって、初期の大包囲作戦の不首尾により、短期決戦勝利の夢ははかなく消え去ったこと。これは、ヒトラーの戦略計画から見れば、単なる敗北」ではなく、「戦略的敗北」であり、「大敗」であり、事実上、この緒戦で「独ソ戦におけるヒトラーナチス・ドイツの運命」(敗北の運命)が決したとも言えよう。

 ただ、リデル・ハートの戦況分析にも問題はある。彼は、緒戦におけるソビエト赤軍兵士と赤軍部隊の素晴らしい戦いぶりにしばしば触れてはいるが、スターリンの政治戦略、軍事的戦略についてはほとんど触れていない。そして、ドイツ軍敗北のその理由(らしきもの)を、次のように説明しているのである。

 【 独ソ戦における戦闘の成否は戦略や戦術よりも、国土の広さ、兵站の問題、部隊の機械化の程度いかんにかかっていたといえる。作戦上の一大英断が時として重大な要因であったことはもちろんだが、より基本的な要素である広大な国土、機械化の優劣問題に比較すれば、それはあくまで副次的なものであることを免れない。】

ヒトラーソ連侵攻失敗の根本的原因は、ソ連の指導者スターリンが広大な領土の深みからどれだけの予備軍を繰り出すことができるかについて、予測を誤った点にあった。この点では参謀本部とその情報部は、ヒトラーと同じ誤りを犯していた。…僕秀な技術と訓練を誇るドイツ軍は、連続的大包囲戦においてソ連軍撃破に成功したとはいえ、結局は秋の泥濘の中へのめり込む羽目となったのである。】

 つまり、ドイツ軍の緒戦の敗北は、スターリンソビエト軍司令部の優れた指揮の結果というより、ドイツ軍の機動力が「国土の広さ」「泥濘」によって不発に終わった結果であり、ヒトラーとドイツ軍の「ソ連予備軍予測の誤り」であった。いわば、ヒトラーとドイツ軍の「自滅」であった、というのである。彼らを自滅に導いた最大の要因、スターリン赤軍司令部の戦略的方針と戦闘について、誇りある英国軍人にして反共的思想の持ち主であったリデル・ハートはあまり語りたがっていない。

 また、緒戦におけるドイツ軍の大敗を認めていない大木氏は、オーストラリアの研究者デイヴィッド・ストエールの「独ソ戦に関する画期的な新説」なるものを引き、こう主張している。

 『兵站システムの決定的な過重負担、装甲ならびに自動車化歩兵師団の疲弊といったことは、ワーテルローやタンネンベルクなどといった歴史上の例に比べれば、敗北をはかる上では、取るに足らない物差しにみえるかもしれない。が、それは、根本的で、最後には破滅をもたらす敗北に通じていた。ドイツが「バルバロッサ」作戦に失敗したのは、大戦闘で惨敗したことによるのでもなければ、ソ連軍の善戦故というわけでもない。彼らは、戦争に勝つ能力を失うことによって失敗したのである』と。

 つまるところ、バルバロッサ作戦の失敗―ドイツ軍の独ソ戦敗北―は、自滅であった、戦術的失敗・ミスの積み重ねの結果であった、というのである。大木氏が語っているのは、結局のところ戦術レベルの勝敗でしかない。

  独ソ戦に備えた、スターリンソビエトの政治戦略、軍事戦略はどういうものであったのか。これについては、前項で述べた通りである。また、反撃しつつ敵軍を領内奥深くに引きずりこみ、機を見て総反撃を加えるという軍事的戦略方針は、当然ソビエトの「国土の広大さ」「機動力を奪う秋冬の自然的条件」等を踏まえたものであり、ドイツ軍の自滅は決して単なる自滅ではなかった。

 『第三帝国の興亡』の著者シャイラーによると、ドイツ軍の参謀本部情報局長であったクルトは戦後に著した『第二次世界大戦史』の中で、こう語っている。

『全戦線に亘って、激しい戦闘が7月3日まで続いた。ロシア軍の後退速度は非常に緩慢で、敵陣を突破したドイツ軍戦車隊は、しばしば痛烈な反撃を受けた。…ドイツ軍は、今までのどの戦場よりも遥かに複雑で困難な戦場で闘わねばならなかった。われわれは、敵の頑強な抵抗や逆襲して来るおびただしい戦車の数に驚かないわけにはいかなかった。これは無情な鉄の意志をもった敵なのだ。その上、敵の作戦は極めて巧妙であった。…ロシア軍は、たとえ包囲されても、驚くほど頑強に、粘り強く闘い、崩れなかった。彼らはこれによって時を稼ぎ、はるか後方から予備軍を投入してドイツ軍に反撃を加えて来た。…敵は信じられないほどの抵抗を示した』と。

 どうして自滅などと言えよう。

 赤軍の総参謀長ジューコフは、この一連の戦闘の経緯・事情について、回想録の中で次のように語っている。

 『ドイツ軍総司令部は開戦当初から、予期に反して、すべての計画を順調に進めることができなかった。ドイツ軍がそれまで連戦連勝していたにもかかわらず、どうしてヒトラー指導部の企図はつぎつぎと挫折していったのか、歴史家たちはその原因を考察してみる必要があろう。結局、この原因のためにドイツはもっと重大な結末をまねくことになるのだが…。

 ソ連領土に踏み込んだファシスト軍は、一体何につまずいてそれまでの電撃的な進撃速度を鈍らせてしまったのだろうか? それはソ連将兵の英雄的精神、不屈の敵概心であり、ソ連国民の偉大な愛国心であった。相手にまさる装備をもつ軍隊が急速に戦意を喪失して逃走してしまった例は、歴史上少なくない。軍隊の装備と士気が戦闘で果す役割を明確に規定することは誰にもできないが、次のことだけは断言できる。すなわち、大規模な戦争で両軍の装備と兵員数が同じ場合に最後に勝利を収めるのは、 勝利への執念に燃えて一つの旗の下に堅く結束している軍隊である、ということである』と。

 われわれは、あらためて、クラウゼヴィッツが『戦争論』に記した、『政治的目的(注:スターリンの政治戦略をみよ!)が大衆を動かすほどに大衆に大きな影響を与えると考えるならば、われわれは政治目的を力の尺度として認めることができる。…軍事的行動を強化あるいは弱化させる原理を大衆の内に見出すか否かによって、政治的目的による結果がまったく異なることは言うまでもない。両方の国民と国家間にこのような緊張があり、敵対要因が蓄積されると、戦争の政治的動機自体は極めて小さくとも、その性格を遥かに越えた作用を及ぼし、本物の爆発を生み出すことがある』『いかなる勝利でも、それから生じる精神的効果を考慮に入れない限り、とうてい説明せられるものではない。…刀剣に譬えれば、物理的原因及び結果は木製の柄であり、精神的原因及び結果は精鋼からなる刀身であり、磨ぎ澄まされた白刃である』との指摘の正しさを、ここで再確認しておこう。

 

 なお、フルシチョフはその『秘密報告』で次のような「スターリン批判」を展開している。『スターリンは、最初の重大な失敗と戦線における敗北の後、万事休すと考えていた。その後、スターリンは長い間、実際に軍事活動を指導せず、一般に活動を止めてしまった』と。大木氏はこの説を取り上げていないが、巷間広く流布されているこの「批判」について、次の二人の証言を紹介しておこう。

ジューコフはその『回想録』できっぱりと、次のように反論している。

『1941年6月22日に入ろうとする深夜、参謀本部と国防人民委員部の全勤務員に対して、職場に居残るようにという指令が下された(注:勿論スターリンによって)。一刻も早く、各軍管区に対して、国境警備隊員を戦闘配置につかせるよう伝達する必要があったのである。…全ての報告が、刻一刻とドイツ軍が国境に近付いて来ていることを伝えていた。このことについて、われわれは深夜零時半にスターリンに報告した。スターリンは、軍管区に指令を出したかどうかを尋ねたので、私は処置済みであることを報告した。スターリン死後、6月22日早朝に、若干の司令官や参謀部員は、何も知らず気楽に眠っていたとか、のんきにはしゃいでいた、というような説が伝えられた。しかし、それはまったく実情に沿わない』と。

  更に、先にも登場願った独ソ戦史の研究家・山崎雅弘氏は、『新版・独ソ戦史』において、次のような、注目すべき事実を明らかにしている。

独ソ戦開戦直後のスターリンの動向について――独ソ戦史の研究では、長い間、ドイツ軍の侵攻にショックを受けたスターリンが呆然自失の状態となり、丸々1週間近くも指導部の実務から離れていた、と信じられて来た。これは、スターリンの政治的後継者であるフルシチョフが「スターリン批判」の文脈で述べた説明を、多くの歴史家がそのまま鵜呑みにした結果であるが、ソ連崩壊後に進んだ研究により、そのような説明はまったく事実に反するものであることが確認された。例えば、パヴル・スドプラトフ、アナトリー・スドプラトフ著の『KGB―衝撃の秘密工作』の巻末には、1941年6月22日から28日のクレムリンへの要人来訪を記した公式記録が収録されているが、スターリンは独ソ開戦の6月22日以降も、何故か表舞台に出ないよう配慮しながら(注:開戦直後に組織された最高軍司令部の長は、形の上ではスターリンではなく、国防人民委員であったティモシェンコだった)、党要人や軍の最高幹部に応対し、各方面からの報告を受けるなどの実務をこなしていたことが確認できる』と。

  これ以上の説明は不要であろう。