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(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第10回)

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

                                2022年10 月30 日更新  次回更新は1110

                    

 

    独ソ戦の転換点―スターリングラード攻防戦

 独ソ戦争のみならず、第二次世界大戦の帰趨―ドイツ軍敗北の運命―を決定づけた戦闘が、このスターリングラードの攻防戦であったことは、今や第二次大戦の戦史研究家の間では常識となっており、大木氏もこれを認めている。リデル・ハートも『第二次世界大戦』の中の「第5部・転換期―1942年」において、「独ソ戦局の転換」(18章)「ドイツ軍のロシア戦線敗退」(28章)の2章を設けて、その事実を確認している。しかして、このスターリングラード攻防戦の見方には根本的に異なる二つの立場がある。それは戦略を基本に据えてみる見方と、戦術中心の見方である。当然のことながら、戦略を基本に据えない限り、このスターリングラード攻防戦の真実を見て取ることはできない。この点においても、大木氏はじめ多くの反スターリン派・反共主義者は戦術中心に戦況を見ているため、その戦評を読んでも、なぜソビエト軍が戦局を転換させる勝利を博したのかがよくわからない。

 リデル・ハートは、勿論、戦略的観点からスターリングラードの攻防戦を見ている。彼は次のように記している。

 『新たな一大攻勢開始の計画(注:ブラウ作戦=青号作戦)が、1942年の早い時期に進められていた。ヒトラーの決意は経済専門家らの圧力によって影響された。専門家らはドイツはカフカズの小麦、鉱石、石油の補給なしには戦争の継続は不可能と説いていたのである(注:この点、シャイラーは「第三帝国の興亡」において、「ヒトラーはたった一つの作戦―モスクワ攻略―では全部の赤軍を粉砕できないことが分かる程度のセンスはもっていた。この夏は、軍の大半を南方に集中して、カフカズの石油、ドネツ盆地の工業地帯、クバンの小麦畑、ヴォルガに臨むスターリングラードを占領する。そうすれば、ソ連は戦争継続に絶対的に必要な石油と多くの食糧と工業を失うことになり、一方、ドイツは、ほとんどソ連と同じくらいに必要性を痛感していた石油と食糧資源が手に入る。‶もし…石油が手に入らなかったら〟とヒトラーは、夏の攻勢が始まる前に、悲運の第6軍司令官パウルス将軍に告げた。‶その時はこの戦争を止めねばならない〟」と記している。戦前にヒトラーが立てていた政治戦略からも、このシャイラーの分析が正しいと言える)。

 主力(モスクワの南西方面にいたドイツ軍主力部隊)は黒海に近い南翼方面に傾注される予定だった。それは…ドン川下流に到達して、湾曲部と黒海河口の中間付近で、ドン川を渡河した後、一翼は南転してカフカズ油田地帯へ向かい、他方は東進しヴォルガ河畔のスターリングラードへ進撃する予定だった。…将軍たちの不安な問い(敵中央部―首都モスクワのこと―に対して同時に圧力を加えるのではなく、一側面―南部方面―のみに対して深く前進するいう作戦、この前進部隊の左はソ連軍の鼻先をかすめ、右は黒海という障害に阻まれるという陣形、自軍の内陸側防御をルーマニアハンガリー、イタリア等の外国寄せ集め部隊に依存するという陣形などに対する不安と疑問)に対して、ヒトラーは、カフカズの石油資源を確保することなくしてドイツは戦いぬくことは不可能との決定的拒絶をもって答えた』

  (注:ブラウ作戦の開始は1942年6月28日であり、その直前、アフリカ・サハラで
        はロンメル将軍が英国領エジプトを占領し、更に中東を抑えてカフカズに進撃す            ると言わんばかりの勢いであった)

 つまり、ブラウ作戦の目的は次の点にあった。ドイツ軍の大半をソビエト南部方面に集中させ、①南部方面に存在するカフカズ油田、ウクライナのドネツ炭田工業地帯、アゾフ海東岸のクバン小麦地帯を占領支配し、敵に打撃を与えるとともに、戦争継続のために必要な戦略物資を獲得すること。②ソビエト連邦の最高指導者スターリンの名を冠した南部方面の中心都市スターリングラードを攻略・破壊し、これによってソビエト赤軍の戦意を挫き、政治的優位を獲得すること。③ソ連中央部と南部方面を結ぶ戦略的幹線通路たる大河ヴォルガを押さえ、中央部への戦略資源輸送を遮断し、ソ連潜在的戦争能力に打撃を与え、その弱体化を図り、こうして南から再度モスクワへと進撃していくこと、であった。

 ドイツ軍総司令部の多くの将軍たちはこのブラウ作戦に反対であった。「残存戦力」が少なく、十分な「冬用装備」が期待できない以上、あくまでも短期決戦を貫き、年内に再度モスクワ攻撃を仕掛ける以外に活路はない、としていた。しかしながら、モスクワ攻略に完全に失敗していたドイツ軍総司令部と参謀本部には最早発言権はなく、ヒトラーがその声に耳を傾けることはなかった。

 

 ところで、ドイツ軍のブラウ作戦は1942年の早い時期から検討され、実行に移されたのは1942年6月28日であった。カフカズ油田への攻撃が始まったのは8月初め、スターリングラードへの攻撃開始は7月26日であった。他方、スターリンと国家防衛委員会が、スターリングラードの情勢が重大化しつつあることを再認識し、ドイツ軍作戦《ブラウ作戦》の全貌を把握し、ソビエト軍の総力を投入して戦うとの決定を下したのは、1942年夏―8月初め―のことであった。

 ここには確かに「時間的落差」―6月末から8月初め―がある。ソビエト軍は、この間、ドイツ軍の南部方面に向けた大進撃を許し、ハリコフ戦はじめ多くの戦闘で苦戦・敗北を強いられ、大きな損害を被った。ソビエト軍側に一気に戦略的決戦を遂行するだけの余力がなかったこと、戦力の補給、新しい戦力の補充にそれなりの期間を要したこと、そしてドイツ軍のブラウ作戦の全貌をまだ掴んでいなかったことが大きな要因であった。

 大木氏は、この事実を捉え、『ドイツ軍の攻勢はモスクワに向けられるとの固定観念のとりこになっていたスターリンは、こうした貴重な情報(注:捕虜から得られたはずのブラウ作戦に関する情報)でさえも、欺騙工作であるとして一顧だにしなかった。予備兵が南方に振り向けられることはなく、それらはモスクワ地域に留められたままだった』として、スターリンを強く非難している(注:独ソ戦緒戦に関して「スターリンの情報無視・不信」を非難したのと同じ論法)。

 この問題に関し、ジューコフは『回想録』の中で、1942年春のスターリンについて、次のように語っている。

『最高軍司令官(スターリン)は、ドイツ軍は一九四二年夏には、二戦略方向、たぶんモスクワと南部で、同時に大規模な攻撃作戦を行えるようになると考えていた。…敵が戦略的攻勢に出る恐れがあると考えられた二方面のうちで、スターリンは、敵七〇個師団が配備されたモスクワ方面を、なにより心配していた。…スターリンは、(ソビエト軍が)大規模な攻撃作戦を展開するには、兵員と器材とが十分でないと考えた。彼は、当分は、積極的戦略防御にとどめ、これと併せて、クリミアや、ハリコフ周辺、リゴフ―クルスクとスモレンスク方面、ならびにレングラードとデミャンスク地区で、一連の部分的攻勢作戦を実施する必要があると考えた。』(ジューコフによると、当時は「敵についての完全なデータが不足」していたため)『スターリンは、問題の複雑さからして、一般情勢と、夏の陣でのわが軍の作戦計画を検討するよう命令した』と。

 明らかに、スターリンは、既にこの段階で「ドイツ軍の二戦略方向―モスクワと南部―での大攻撃作戦」の可能性を考えていた。ただ、敵に関するデータが不足している段階では、「モスクワ重視」を貫いた。ソビエト国家防衛委員会も同じ結論であった。これは「固定観念のとりこ」でも何でもない。ドイツ軍のブラウ作戦についての「確かな情報」が入手されていない段階では、当然の判断であった(注:当時、ドイツ軍の多くの司令官たちも、ヒトラーに反対されはしたが、「モスクワ侵攻総力戦」を強く主張していた)。大木氏は、あたかも、当時既にブラウ作戦の存在が分かっていたかのような見方をしているが、それは「後知恵」というものである。

 スターリンと国家防衛委員会が、幾つかの戦闘及び探索活動で得た「信頼できるデータ」を収集し、それを分析し、スターリングラードの情勢が重大化しつつあることを認識し、ドイツ軍作戦《ブラウ作戦》の全貌を把握し、ソビエト軍の総力を投入して戦うとの決定を下したのは、1942年夏―8月初め―のことであった。

 リデル・ハートもまた、『この動き(1942年6月末発動のブラウ作戦に基づいてモスクワ南西部に居たドイツ軍主力部隊がヴォロネジ付近でドン河に達した大移動)は、いかにもドイツ軍が…モスクワからスターリングラードおよびカフカズに至る鉄道支線を切断することを意図しているように受け取れた。しかし、実際にドイツ軍にそのつもりはなかった。…このドイツ軍の左翼における作戦全体が、右翼方面(クールクス~ハリコフ付近)から実施しようとしていた攻撃の準備について、ソ連軍に対して秘匿するのに役立った』と述べ、この時期、ソ連軍がブラウ作戦の全貌を未だ捉えることが出来ていない事実を明らかにしている。

 クラウゼヴィッツが語っているように、戦争には「読み違い」や「計算違い」はつきものである。敵の戦力・戦闘力への過小評価があったり、味方の戦力・戦闘力に対する過大な期待・評価があったり、計算通りにはいかないことが多々ある。戦いの中で情報を集め、情報を正し、より正確な方針を打ち立て、また実践して行くほかない。一部の人々は、やれ「独裁者スターリンは重要な情報を無視し、聞かず、大失敗した」とか、やれ「敵の動きが見抜けなかった」などと、かまびすしく非難を繰り広げているが、それは皆、戦争と当時の力関係と生きた情勢を知らない者の「為にする非難」でしかなく、「後知恵」でしかない。

 

 さて、リデル・ハートは《ブラウ作戦》という作戦名こそ記してはいないが、ヒトラーの戦略を追って、南部方面―カフカズ・スターリングラード方面の戦いについて、次のように語っている。

 『主攻勢の左翼(主攻勢部隊の左翼―中心はスターリングラード奪取の任務を帯びたパウルス元帥指揮下の第6軍)において数日にわたる激戦が行われた後、第4装甲軍は…100マイルの平原を疾駆し、ヴォロネジ付近でドン河に達し…7月22日、さしたる抵抗にもあわずドン河を渡河した。…右翼(ハリコフ付近に居た主攻勢部隊―総司令官はリスト元帥で、中心部隊はクラスト麾下の第1装甲軍)は7月23日、ロストフ(注:カフカズへの入り口となる南部の都市)陣地の前線に到達し…同市はドイツ軍の手中に帰した』

 こうして、7月半ば、ブラウ作戦カフカズ・スターリングラード2正面策作戦―の部隊配置は整ったが、ハルダー総参謀長らはこの時も、ヒトラーのこの二正面作戦に反対し、ソ連軍の防備が完成していない今この時にこそ、兵力を集中し、一気にスターリングラード奪取を目指すよう進言するが、「ソ連軍は片付いた」とするヒトラーに拒否される。ヒトラーは、当時、「ヴォルガこそ祖国防衛線の最終ライン」(スターリン)とするヴォルガ河方面へと戦略的撤退を続けていたソビエト軍の動きを見て、これを「ソビエト赤軍の敗走瓦壊」と思いこんだ。その結果、7月半ば、ヒトラーは、突如、スターリングラードを攻撃すべく湾曲部に集結していた大軍団(B軍集団)の一部、第4機甲部隊を南下させ、ドン川河口に在るロストフに駐屯していた軍団・第1機甲部隊と共に、カフカズ油田地帯に侵攻していたA軍集団に合流させるという命令を下した。が、2週間後にはこのヒトラーの二正面同時攻撃の失敗が明らかになる。ソビエト側のスターリングラード防備の不備を察知したドイツ軍司令部は急ぎカフカズ方面から機甲部隊を呼び寄せ、集中攻撃を試みる。が「時既に遅し」であった)。結局、この二正面作戦の失敗がスターリングラード戦におけるドイツ軍の屈辱的敗北を決定づけた、と言って良い。

 そこで、まずは8月初めのカフカズ戦線から見てみよう。

 

 <カフカズ戦線>

 リデル・ハートはその戦闘経過を次のように語っている。

 『クライスト麾下の第1装甲車軍はドン河下流を渡河した後…カフカズへ進撃を続け、広い戦線へと散開した。…1942年8月初旬におけるドン河以南のこれらの部隊の突進速度は凄まじいものがあった。しかしその速度は上昇時と同じく突如として下降した。主因は燃料不足と山また山の地形にあった。…カフカズの山岳地帯はもともとドイツ軍の目標達成の障害だったが、接近するにつれいよいよ頑強なる抵抗のために困難は増大した。…            

 (赤軍の)同地方の守備隊は現地出身の兵からなっており、彼らは故郷を守るという意識に燃え、当然山岳地帯の地形に通暁していた。主要前進路を担当したクライスト麾下の第1装甲軍は、比較的順調に進撃したが、速度は次第に遅くなり、前進が渋滞し始めた。燃料不足が決定的傷害となった。…

 ソ連軍は騎兵数個師団をカスピ海沿岸に投入し、無防備なクライスト軍の東側方向から妨害を加え、広範な地域にわたって同軍の行動を牽制した。…ドイツ軍から見ると、敵の正体はつかまえどころがなく、側面に対する脅威は絶えず増大した。ドイツ軍機動部隊の一部はカスピ海の岸辺まで浸透していたものの、それは‶砂漠の蜃気楼〟に過ぎなかった。

 九、十の二ヵ月にわたってクライストは様々な地点に奇襲攻撃をかけ…たが、その都度阻止された。…最終段階で雨と雪のため遅滞が生じたが、クライストは当面の目標までもう一息の地点に迫った。この時、好機をとらえたソ連軍は…反抗を開始した。これにより、ルーマニア山岳兵団(クライスト軍の中心を担っていた)は一たまりもなく崩壊した』

 こうして、1942年9月初めには、ドイツ軍のカフカズ戦線での敗北は決定的になっており、ヒトラーもこれを認めざるを得なかった。『九月七日の夜、ヒトラー国防軍統帥部長のヨードル砲兵大将から報告を受け、カフカズの油田を年内に奪取することは兵力不足のために絶望的であると告げられた。…そして「青」作戦(ブラウ作戦)の主眼とも言える大目標を見失ったヒトラーは、彼に残されたもう一つの目標への執着を強めていった。B軍集団スターリングラード攻撃部隊)が目指すヴォルガ川沿岸の工業都市スターリングラードである』(山崎雅弘 新版・独ソ戦史)。

 石油奪取を目指したカフカズの戦いはドイツ軍の敗北に終わった。かくして、ヒトラーとドイツ軍は、山崎氏が指摘しているように、その野望とエネルギーのすべてをスターリングラード攻略に向けることになる。それ故、その攻勢は一段と凄まじいものとなった。

 次にスターリングラード戦線を見てみよう。

 

 <スターリングラード戦線>

 スターリングラード市は、ヨーロッパ最大の大河ヴォルガの西の小高い岸の上に、南北40キロに亙って細長く延びている大都市である(注:市街の東側を流れるヴォルガ河の河幅は1500㍍、水量は信濃川の15倍)。19世紀末、その人口は5・5万人に過ぎなかったが、1940年頃には50万人に達していた。ロシア革命直後の1918年、この地(当時はツァリーツィン町)でソビエト赤軍反革命白衛軍との決戦が展開され、スターリンの率いる赤軍が勝利し、この都市はロシア革命防衛の最大拠点となった。1925年、市の名はスターリングラードと改称され、ソビエト南部の水力発電・重軽工業の一大拠点都市となった。政治的にも経済的にもまさに南部要衝の地であった。

 リデル・ハートスターリングラード戦線の戦いについて、次のように記している。

スターリングラードへの直接進撃に当たったのは、パウルス(上級大将) 鷹下の第六軍であった。最初同軍は、ドン川とドニェツ川中間地帯北側を南下し、南側を進む装甲軍(第四装甲軍)に助けられて順調に前進していった。しかし進むにつれ戦線は縮小された。…退却途上のソ連軍が次々と実施する抵抗を打破するのが困難になった。…(1942年)七月二十八日、機動部隊先鋒のひとつがドン川のカラチ付近に到達した。カラチは…スターリングラードのあるヴォルガ西方湾曲部から40マイルそこそこにあった。…

 八月二十三日、ドイツ軍はスターリングラード進撃の最終段階開始の用意が整った。はさみうちの形をとり、北西から第六軍、南西から第四装甲軍が出撃する手はずだった。同日夜、ドイツ軍機動部隊はスターリングラードの北30マイルの地点でヴォルガ川に到達。また別動隊は同市の南15マイルのヴォルガ湾曲部に接近した。しかしこのはさみのふたつの刃は敵守備軍に阻まれて離れ離れのままだった。次の段階でドイツ軍は西からの攻撃を進め、半円型の圧力陣形が出来上がった。戦況の緊迫は、最後の一兵まで断固死守せよというソ連軍兵士への檄文にはっきりと現われていた。

  • (注:この「ソ連軍兵士への檄文」こそ、反スターリン派がこぞって「独裁者スター                    リンの冷酷非情の命令」と非難しているあの「ソ連国防人民委員令第227号」である。それは、撤退作戦の中止命令であり、「これ以上の後退は諸君の破滅を意味し、しかもそれは祖国の破滅につながる。一歩も引くな!」というものであった。戦線が最大の危機に瀕している時、これ以外に出すべき檄文―指令―があるであろうか?ない!そして、当然、逃亡者・裏切り者は銃殺されねばならない!クラウゼヴィッツも次のように述べている。『戦争は実に危険な事業であって、このような危険な事業にあっては、お人よしから生まれる誤謬ほど恐るべきものはない。物理的暴力の行使にあたり、そこに理性が参加することは当然であるが、その際、一方はまったく無慈悲に、流血にもたじろぐことなく、この暴力を用いるとし、他方にはこのような断固さと勇気に欠けているとすれば、必ず前者が後者を圧倒するであろう。戦争哲学の中に博愛主義をもちこもうなどとするのは、まったくばかげたことである。戦争は暴力行為であり、その行使にはいかなる限界もない』と。これが戦争なのだ!)

 赤軍兵士はこの呼び掛けに驚くべき忍耐力をもって応えた。神経を狂わせずにおかない戦況は、補給と増援にとっても厳しいものがあった。赤軍の背後を流れる幅二マイルの大河は、必ずしも不利条件とばかりはいえなかった。ソ連軍兵士にとってそれが抵抗を複雑にすると同時に、また強固なものにする一助ともなった。

弓なりにそったソ連軍のスターリングラード防御陣地に対し、果てしもなくドイツ軍の攻撃が繰り返された。…阻止に次ぐ阻止(ドイツ軍の攻撃浸透をソ連軍が阻止)から、同地区(スターリングラード)の心理的重要性が増大した。…‶スターリングラード〟もソ連軍にとっては勇気を鼓舞する象徴であり、ドイツ軍、とりわけその指揮官らには催眠術的意義をもつシンボルだった。‶スターリン〟の名がヒトラーに催眠術をかけて戦略を見失わせ、将来への配慮を完全に見失わせた。それはモスクワより更に運命的であった。なぜならその名はより多くのことを意味していたからである。

  • (注:この点についての山崎雅弘氏の次の指摘は傾聴に値する。『一般的なイメージとは異なり、ソ連赤軍の最高司令官スターリンスターリングラード を巡る戦いの情勢に多大な関心を払ったのは、自らの名が付与された町という単純な理由によるものではなかった。ドニェツ地方の工業都市スターリノをはじめ、彼の名にちなんだ都市は既にいくつもドイツ軍によって占領されていたが、スターリンは比較的冷淡にその事実を受け入れ、より戦略的に重要と思われる要素を優先する判断を下していた。スターリンにとってのスターリングラードとは、個人的な面子よりもむしろ、ソ連国民に与える心理的な影響という面において、決して譲ることのできない重大な戦略拠点だった。市街戦を戦う第62軍のスローガン「ヴォルガの背後に我らの土地なし!」が物語るように、一般のロシア人にとってはヴォルガ川とは祖国の象徴であり、この「母なる大河」を敵に明け渡すことは、ドイツとの戦争におけるロシア=ソ連の敗北を強烈に印象づける 効果をもたらすものと思われたからである』)

 攻撃(ドイツ軍のソ連軍防御陣地に対する攻撃)を続行することの不利と危険は、戦争体験のある冷静な頭の持ち主には歴然としていた。…この場合(ドイツ軍側には増援の可能性が無い)、長期戦の消耗に耐える力が無いのはドイツ軍の方だった。ソ連軍は甚大な損害を被っていたものの人的資源でははるかにめぐまれていた。…

 ドイツ軍参謀本部は戦局の不利をすぐに理解した。参謀総長ハルダーは…ヒトラーに対して道理を説いたがまたしても無駄であった…。ヒトラーのいらだった神経を逆なでした。攻勢継続に反対するハルダーの主張は冬が近づくにつれていよいよ熱を帯び、二人の関係は次第に耐え難いものになっていった。…かくして1942年9月末、ハルダー(注:リデル・ハートは戦略的指導に優れていたとしてこの参謀総長を高く評価している)が辞任し、その後を追って彼の部下数名も辞任する。…反撃の機が熟しつつあった。ソ連軍は反撃準備を整え、十分な予備隊を集結して敵の張り過ぎた側面を有効に叩こうとしていた』と。

 結局、ヒトラーとドイツ軍のスターリングラード攻撃の第1段階は失敗し、参謀総長ハルダーの解任を以って終わる。

 ヒトラーとハルダーは作戦をめぐって2度、3度と対立しているが、それは決して「ヒトラーの独裁的性格の問題」ではない。いわば「政治」と「軍事」の対立であった。ハルダ―解任の日、ヒトラーはその告別会見の席上、「われわれが今必要としているのは、国家社会主義的熱意であって、職業的能力ではない。私は、それを君のような旧式の将校からは期待できない」と伝えた。これを聞いたハルダ―は「ヒトラーは責任ある大将軍ではなく、政治的狂信者だ」と呟いた(『第三帝国の興亡』より)。まさに、カフカズ油田を巡るヒトラーとハルダーの対立の根底にあったのは、ヒトラーの政治的信念たる「国家社会主義的熱意」と、専門家たる軍人の「職業能力」との対立だった。

多くの歴史家は、一連の処分、軍首脳の解任・首切りの原因を単に「ヒトラーの個人的性格」「ヒトラーの独裁的資質」に求めるが、そうではない。ヒトラーの政治的信念、即ちソビエト侵攻の政治目標は、あくまでも、この地を「ドイツ民族の生存圏」たらしめることであり、ただ単に戦闘に勝利することだけが目的ではなかった。ドイツ・ゲルマン民族が生き延び、その使命たる「千年王国」を建設するためには、また当面するモスクワ、スターリングラード攻略を成功させ、その占領を維持し抜くためには、ウクライナの炭田・小麦地帯及びカフカズ油田地帯の占領支配が絶対に必要だったのである。

 だが、ヒトラーの政治的信念―戦争の政治目的―は、結局のところ、ドイツ軍将兵の心を捉えることができなかった。いわんや、ドイツ国民の心を。それは、ヒトラーの思想が、非人間的で反人民的で野蛮で反動的なファシズム思想だったからであり、それ以外のなにものでもない。

 

 <スターリンソビエト軍の大反抗作戦>

 さて、いよいよ、スターリンソビエト赤軍の本格的な大反撃大反抗が始まるのであるが、残念ながら、緒戦時と同様、ここでも、リデル・ハートソビエト軍の戦略的大反抗作戦については、あまり詳しく語っていない。したがって、これについては、筆者の方で詳しく取り上げることとする。(参考資料はジューコフの『回想録』、シャイラーの『第三帝国の興亡』、山崎雅弘氏の『新版・独ソ戦史』)

 1942年8月27日、ドイツ軍の《ブラウ作戦》の全貌を掴んだスターリンと最高軍司令部・国家防衛委員会は、ジューコフを最高軍司令官代理(スターリンの代理)に就け、スターリングラード地区への派遣を決定した。この年の夏、南部方面軍が指揮した一連の戦い、特にハリコフ作戦の失敗は、事前にハリコフ作戦に警告を発していたジューコフの指摘の正しさと彼の作戦能力の優秀さを証明した。スターリンは、いつもそうであったが、この時も、実践によって検証された彼の能力を認め、評価し、然るべき地位に抜擢したのである。(注:ハリコフ作戦は、南西方面軍司令官ティモシェンコと彼を熱心に支持していたフルシチョフの自信満々の提案―主導―で実行されたものであったが、手痛い敗北を喫した。フルシチョフはこの件について一切口を閉ざし、沈黙したままである)。

  • (注:よく戦史研究家は「独裁者スターリン独ソ戦の初期は軍人の言うことを聞かず、自ら指揮を振いたがり、緒戦の敗北を招いたが、スターリングラード戦以後は、ヒトラーと違って、軍人たちの意見を尊重するようになった」との見解を打ち出しているが、これは極めて皮相的な見方である。赤軍トハチェフスキーらの粛清によって重大な危険は取り除いたが、当然のこと、新たに幹部を養成し、適材適所に配置するという課題を一気に解決することはできなかった。それは組織的に、また実践のなかで実践を通じて一つ一つ検証し、解決する以外になかった。慎重派のスターリンはこの原則を厳格に守った。ジューコフの場合も、最初から有能な司令官としての評価があったわけではなく、最初から「スターリンの片腕」であったわけではない。緒戦時、ジューコフは「モスクワ防衛のためにはキエフからの撤退もやむなし」と主張し、スターリンはじめ他の最高司令部メンバーに反対され、一時、レニングラードに飛ばされている。しかし、後にキエフは放棄せざるを得なくなり、レニングラード戦線の劣勢もジューコフによって覆され、ジューコフの有能さが検証され、スターリンと最高司令部の信頼を得るようになり、その評価が高まった。こうした経過を経て、最高軍司令官代理(スターリン代理)のジューコフが生まれたのであり、他の幹部配置も同様であり、こうして赤軍司令部・最高本部の立て直しが完成させられていったのである。このような経過に対する正しい認識を抜きに行われている「独裁者スターリンは軍人の言うことを聞かず云々」の評価は、やはり‶皮相的〟と言わざるを得ないであろう)

 1942年9月12日、最高軍司令官スターリンと、最高軍司令官代理でスターリングラード地区担当のジューコフ参謀総長ワシレフスキーはモスクワの大本営に会し、スターリングラード戦大反攻作戦《ウラン作戦=天王星作戦》の検討を開始した。この反攻作戦の原案を作成したのは、現場を指揮するジューコフとワシレフスキーであった。この作戦の根本は、第一段階で、スターリングラードを攻撃するドイツ軍部隊の防御を突破し、これを包囲し、この部隊を外部兵力から完全に孤立させる。そのための外郭陣地たる包囲網を作る。第二段階で、包囲された敵を殲滅し、且つまた外側からこの封鎖を解こうとする敵部隊を撃滅・撃退する、というものであった。

 スターリンは、この作戦計画を承認し、「この遠大な大反攻作戦を勝利させるためには、現有兵力だけでは不十分であり、予備軍の編成が必要であり、さらなる検討が必要である」とし、最後に「ここで検討したことは、当分、我々―スターリンジューコフ・ワシレフスキーの3人―以外に知らせてはならない」と言明した。勿論、捕虜の自白による漏洩の危険性もあったが、当時の戦地間を繋ぐ電話は容易に盗聴されるようなレベルの物しかなく、敵の通信傍受の心配もあったからだ。

 ジューコフとワシレフスキーは、1942年10月末から11月初めにかけて、南西方面軍の司令部・参謀部・各部隊を回り、全力を傾注して反攻計画の意図と実施方法を伝え、意志統一を徹底させた。そして、同時に、党と政治機関は軍内部における政治活動―スターリン赤軍独特の思想政治指導機関として政治委員制度の拡充に力を入れていた―を展開し、赤軍内部の思想的政治的強化に力を入れた。

 《ウラン作戦》とは具体的には――。この作戦の第一段階の目標は、スターリングラード付近のドイツ軍の主力部隊―中心はドイツ第6軍―の完全包囲にあった。この作戦遂行の主力部隊として新たに結成された南西方面軍(司令官ワトゥーチン)が、まずドン川右岸のセラモビッチ・クレツカヤ地域にある作戦根拠地から行動を開始し、ドン川渡河を敢行、この地域一帯を守っているルーマニア3軍の防衛線を突破し、攻撃を急速に拡大し、一気にカラチ方面に進出する。こうして、敵の主力である第6軍の背後に回り、西方への退路を遮断する。ドイツ第6軍の北方にいるドン方面軍は南下して第6軍に攻撃圧力を加え、北への逃げ道を封じる。スターリングラード市街南方の方面軍は、サルバ湖沼地帯から攻勢に出て、ルーマニア4軍の防衛線を突破し、西北方向に攻撃を拡大してカラチに向かい、南西方面軍と連絡し、ここで敵の第6軍の包囲網を完成させる。第二段階で、包囲された敵を殲滅し、且つまた当然予想される外側からこの封鎖を解こうとする敵部隊を撃滅・撃退する。そのために、党と人民は総力を挙げて近代兵器、航空機や戦車、資材などを準備する、というものであった。

 そして、この大反攻作戦《ウラン作戦》の実施は、北部に配置された南西方面軍とドン方面軍がドン川渡河に要する時間を考慮して11月19日を行動開始日に、南部に配置されたスターリングラード方面軍は11月20日を攻撃開始日とする。これが最終決定であった。

 かくして、この《ウラン作戦》発動、展開の時まで、何としてもスターリングラードを防衛すること、それが絶対的課題、絶対的使命となった。スターリングラード防衛部隊は、引き続きスターリングラードの市内で郊外で激戦を展開し、ドイツ第6軍をスターリングラード付近に釘付けにし、彼らの注意力を奪い、背後の《ウラン作戦》に気付かないようにさせ、その発動、展開を容易にさせた。この間、ドイツ軍総司令部は、この《ウラン作戦》について、まったく気づかないままであった。彼らの意識はスターリングラードに釘付けされたままであり、したがって、元々手薄だった北部のルーマニア3軍、南部のルーマニア4軍の補強は、何一つなされなかった。

 1942年11月7日、第25回革命記念日のこの日、記念式典に姿を現したスターリンは、確信に満ちた口調で、全赤軍・全人民にこう呼び掛けた。『近いうちに、我々の街で、またお祝いをすることになるであろう!』と。勿論、大反攻作戦《ウラン作戦》の戦勝祝いの予告であった。

 さて、次にスターリングラード市街戦について見てみよう。