人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第11回)   

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

                                 20221110日更新  次回更新は1120

 

  <スターリングラード市街戦>

 ドイツ大軍団によるスターリングラード市への攻撃開始は1942年7月26日であった。スターリングラード市街戦は、この世地獄さながら、3ヵ月に亘り、すさまじい攻防戦が繰り広げられた。まさに、それは独ソ戦の最大の山場としての戦闘であり、第二次世界大戦の命運を決する、一大攻防戦であった。

 7月26日、ドイツ軍は、機甲部隊・機械化部隊を出動させて市街地への直接攻撃を開始した。ドイツB集団軍(中央集団軍)の主力攻撃部隊たる第6軍指揮官パウルスは、ヒトラーに「8月25日までにスターリングラードを占領せよ」と命じられており、必死であった。

 一方、8月初め、ドイツ軍作戦《ブラウ作戦》の全貌を把握したスターリンと国家防衛委員会もまた、スターリングラードの情勢が重大化しつつあることを再認識し、ソビエト軍の総力を投入して戦うとの決定を下した。そして、密かに反抗作戦の検討を開始。いずれ大反撃が始まるとして、それまで何としてもスターリングラードを守りぬかねばならなかったのであり、ソビエト赤軍スターリングラードの市民・人民は、寸土も譲らず、敵に反撃を加え、敵を翻弄し、自らの陣地を死守したのである。その合言葉は「ヴォルガ河の向こうの対岸に我らの居るべき土地は無い!一歩たりとも引くな!」であり、激戦に次ぐ激戦であり、まさに死闘の連続であった。

 8月23日、ドイツ軍は航空機2000機の大空襲を加え、工場、住民アパート、病院、駅、給水施設、石油タンク、輸送船、フェリー等々への無差別爆撃を敢行、至るところに火の手が上がり、市街は瓦礫の山と化した。しかし、逆にその瓦礫が「要塞」となり、ドイツ軍の侵入を防ぐ防御陣地となった。しかし、この日の夕刻、スターリングラード市北方から市街に侵入したドイツ軍の一部の擲弾連隊(小型砲火器で武装した歩兵連隊)が、ヴォルガ河の岸に到達した。ヒトラー歓喜し、「如何なる状況下でも現在位置を死守せよ」との命令を無線電話で送った。

 8月24日朝、ドイツ軍は、スターリングラード市の北方地域を確保すべく、戦車と自動車部隊を繰り出し、次々と歩兵部隊を注ぎ込んだ。この地域にはトラクター工場、兵器工場、トラック工場が配置されていた。瓦礫と化した工場建物の防御陣地に立て籠もった赤軍・市民軍は、ドイツ兵が「まるで魔法のように」と語った通り、次々と瓦礫の中から出現し、頑強に抵抗した。工場の労働者も、水夫も、未成年の青少年も、空襲警報を聞くや、集合地点に駈けつけ、小銃を受け取り、市街戦の前線へと出動していった。

 ヴォルガの岸壁に一番乗りしたドイツ軍部隊は、一時、武器弾薬、燃料、食糧不足から撤退に追い込まれようとしたが、トラック250台の部隊が送り込まれ、ようやく危機を脱した。ヒトラーはこの報を受けるや、ラジオ放送を通じて、直ちにドイツ国民に「勝利の快報」を知らせた。ドイツのみならず、全世界の報道機関が、「スターリングラードの運命は風前の灯である」と書き立てた。だが、ソビエト人民は不屈であり、祖国防衛の為に命を犠牲にして戦うことを恐れていなかった。

 市街戦大戦闘で、ドイツ軍を最も驚かせたのは若い女性志願兵からなるソビエト砲兵隊の反撃であった。この部隊には、高校を出たか出ないかの若い女性兵士が配置され、彼女らが計測、砲撃、偵察を担当していた。皆つい先ごろまで大砲など撃ったことのない者ばかりであったが、自ら志願し、トラクター工場防衛の戦闘に参加したのである。

 ドイツ空軍機が上空から集中攻撃を加える中、ドイツ軍の2縦列80台の戦車が、歩兵を乗せた車両を引き連れ、トラクター工場に襲い掛かった。ソビエト砲兵中隊は上空のドイツ軍航空機を撃ち、女性兵士らの部隊は砲身をゼロ角度に下げて旋回させ、地上を走って襲い掛かるドイツ軍戦車列の先頭車両に狙いを定め、果敢に反撃を加えた。ドイツ軍戦闘機は何度も急降下し、彼女たちが死守する砲台を標的に爆撃を加えた。だが、彼女たちは防空壕へ入るのを拒否して持ち場に留まり、何台もの戦車を撃破し、敵の進撃をくい止めた。彼女らは37台の大砲が全部破壊されるまで砲座を離れず、真正面から敵の戦車と対決し、そして全員が砲座の傍らで戦死を遂げた。

 この攻撃に参加した或るドイツ軍将校は日記にこう記している。「ロシアの女性を〝スカートを穿いた兵士〟と表現するのは完全な誤解だ。彼女たちは長い間戦闘義務を果たす準備をして来たし、能力を認められればどんな任務にもつく。ロシア兵はそういう彼女たちを大事にしている」と。

 8月29日、今度は、スターリングラード市の南部地区で、ドイツ軍の攻撃が始まった。9月2日のこの地域へのドイツ空軍の爆撃・空襲は、特に凄まじかった。唯一の補給路であったヴォルガ河の渡船に対する空襲・砲撃は、夜も昼も間断なく続行され、婦女子・病人・負傷者の対岸への移送も命がけであった。身を隠すための場所―市内のあらゆる建物、掘立小屋、下水口、広場、堀、水路等々が争奪の的となった。両軍とも生活はすべて地下に追いやられた。

 9月半ば、ドイツ軍は、今度は市の南と北の両方面から、市の中央部に在った小高い丘の上の墓地―ママイの丘―にその攻撃を集中させ、この丘を攻略・占領すべく、総攻撃を加えた。この丘の上、そしてその地下には、スターリングラード市街戦の総指揮を執っていた赤軍第62軍司令部があった。両軍の迫撃砲カノン砲が吠え、唸り、市中は完全に瓦礫の山、廃虚と化した。だが、ソビエト赤軍がこの丘を敵に渡すことは、遂に最後までなかった。

 あちこちに両軍の死体の山が築かれた。山の様な死体の中には、ヒトラーによって、故郷から遠く離れたこの地に送られて来たドイツ人、ルーマニア人、ハンガリー人、チェコ人等がいた。そしてまた、侵略者ヒトラー・ドイツと戦い、祖国のために命を捧げた、ロシア人、ユダヤ人、シベリア地方からやって来たウズベック・グルジア等々の非ロシア系民族の数多くの遺体が見られた。

 赤軍機関紙の著名な記者で、ユダヤ人反ファシスト委員会のメンバーであったグロースマンは、作家ショーロフが「皆が戦っている時に、アブラーム(ユダヤ人の代表的な名前)はタシケントソビエト南部ウズベック共和国の首都)で商売をやっている」と非難したと聞くや、前線から、次のような手紙を友人に書き送った。

『ここ南西方面軍には、数千、数万のユダヤ人がいて、吹雪のさなか自動小銃を担いで歩き、ドイツ軍が固守する町へ突入し、戦いの中で倒れている。こういったこと全てを、僕はこの目で見て来た。第1親衛軍の立派な司令官コーガンや、戦車将校たち、偵察隊員たち(注:皆ユダヤ民族出身者たち)にも会った。…必ず彼(ショーロフ)に伝えてくれたまえ、前線の同志たちは彼がどんなことを言っているのか知っている、と。彼は恥じ入るべきなのだ』と(『赤軍記者グロースマン』 アントニー・ビーヴァー 2007年 白水社刊より)。

 こうした事実が証明しているように、ドイツ軍・ファシストの侵略に反対する「ソ同盟大祖国防衛戦争」には、ソビエトの全民族が参加し、共に団結し、力を合わせて戦っていた。勿論、占領された地域の一部がヒトラー軍に参加するなどの事実もあった。しかし、スターリンの旗の下、全民族は結束し、ヒトラー・ドイツの略奪的侵略から祖国・社会主義ソビエトを守り抜くために死力を尽くした。この基本的な事実、基本的な勝利は、何人もこれを否定することはできない。

 先に、若い女性志願兵からなる砲兵隊が最後まで砲台を死守し、砲の傍らで斃れていった英雄的エピソードを紹介したが、『戦争は女の顔をしていない』(アレクシェーヴィッチ著)にも、スターリングラード戦に参戦した女性兵士の証言―悲痛な叫び―が採録されている。

『 タマーラ・ステバノヴァナ・ウムニャギナ 赤軍伍長・衛生指導員

 徴兵司令部に駆けつけてね。綿の粗布で作ったスカートだった。足には白いズック靴を履いてた。普通の浅い靴みたいでね、バックルつきの流行の先端。そういうスカートと靴で頼みに行ったんだよ。戦線に送ってくれって。…歩兵師団に着いた。これはミンスク郊外に駐屯していたのさ。「入隊なんかだめだ、17歳の女の子が戦列に加わるなんて男の恥だ」とか「もうじき敵をやっつけてやるから、女の子はおかあさんのところに帰りなさい」という調子。私はもちろんがっかりしたさ。採ってくれないんだから。どうしたか? 私は参謀長がいる司令部に行った。そこにさっき断った大佐がいるのさ。私は、言ったの。「もっと上の上官殿、大佐殿に従わないことをお許しください。私はやはり家には帰りません、みなさんと一緒に退却します。ドイツ軍にもっと近いところへまいります」あとになっても「もっと上の上官殿」とからかわれたわ。

 戦争が始まって七日目だった。退却が始まった。たちまち血の海にはまった。負傷兵がたくさん出た。…モギリョフの近くで駅が爆撃されていた。そこに子供たちを満載した列車が止まっていて、子供たちを窓から放り出し始めた。三歳から四歳の小さな子供たち。そう遠くない所に森があって、そこにみんな走っていく。すぐあとをドイツの戦車が続く。戦車の列が子供たちを押しつぶして行く。子供たちは跡形もなくつぶされた…その光景を思い出すと今でも気が狂いそうになるよ。…

 でも一番恐ろしかったのはもっと後のこと。 恐ろしかったのは、スターリングードだよ。戦場ったって、あそこは通りのひとつひとつ、家の一軒一軒、地下室という地下室から負傷者を引きずり出すんだよ。体中あざだらけだった。ズボンも血だらけ。曹長にしかられたよ。「これ以上ズボンはないんだ。後からねだらんでくれ」私たちのズボンは乾くとそのまま立てておけたほど。普通の糊付けだって、こんなふうに立ってはいないよ。血のせいだよ。角にあたれば痛いくらい。綺麗なところなんかまったくなし。何もかも燃えてしまった。ヴォルガで。水さえ燃えていた。冬だというのに河も凍らなかった、燃えていた。スターリングラードには人間の血が染み込んでいない地面は一グラムだってなかった。ロシア人とドイツ人の血だよ。それにガソリンとか...潤滑油とか...そこではこれより一歩も引けない、国全部が、ロシア国民が滅びるか勝利するかしかないとみんな分かってたのよ。誰にとってもはっきりした、そういう時が来たわけ。…

 補充兵がやって来る。若い元気のいい人たちが。一日二日でみんな死んでしまって、誰も残らない。私はもう新しい人たちが来るのが怖かったよ。その顔を覚えたり、話していたことを覚えたくなかった。だって、来たと思ったら、もういないんだから。二、三日のことさ。一九四二年のことだった。一番つらい、困難な時だった。三百人いたうち、その日の終わりには十人しか生き残っていないこともあった。それだけしか残っていなかった時、銃声も静まりかえって、みなキスし合ったよ。偶然にも生き残れたんだ、って泣いた。みな身内のようだった。一つの家族だった。

 見ている前で人が死んでいくのさ。どうにも助けになれないと分かっている。あと数分しか残っていない。その人にキスしてやって、優しい言葉をかけてやる。お別れの言葉を言う。でももう何の助けにもなれないのさ。その人たちの顔が今もありありと思い出される。一人一人の顔が見えるのよ。こんなに年月が流れて...誰も忘れないんだから不思議だよ。みんな忘れない、みんな見える。 …

 町中が破壊され尽くして、建物もめちゃめちゃ。もちろんこれは恐ろしかったよ。で も、人々が倒れていて、それが、若い人たちだったら...。息つく間もなくかけずり回って助けようとする。もう力尽きてしまう、あと五分も待てないって気がする。三月で、足下は雪解けの水...フェルト靴は履けない。私はそれを履いて行った。一日中そのまま這い回って、夕方にはびしょぬれでもう脱げなくなって、切り開くしかなかったけど、病気にはならなかった。信じられる? ねえ、あんた。

スターリングラードの戦いが終わって、もっとも重傷の者は汽船で運び出せという命令が下った。カザン市、ゴーリキイ市などへはしけで疎開させる。もう、春のこと。三月、四月。負傷者はいたるところに転がっていた。地下にね――塹壕、地下壕、地下室 に。あまりにたくさんいて言葉では表しようがない。すさまじいことだった!…移送の汽船の中は手、脚を失った人たち、何百人もの結核患者が集められていた。治療をしてあげなければならなかった。静かに言葉をかけながら。笑顔で慰めながら。私たちが移送に回された時、「これで戦いから休めるよ、頑張ったお礼だ」などと言われたけれど、実際はこれはスターリングラードの地獄よりもっと怖かった。スターリングラードでは戦場から負傷者を引きずり出して、応急手当をして、後方への移送車にひきわたせば、ああ、これで大丈夫と思って次の人を連れにまた這って行く。ところが、移送の船では負傷者たちがいつも目の前にいる...。戦場では「生き延びたい」と願って必死で生きようとする…ところが移送船では、食べたくない、死にたいって...その人たちは夜、汽船から水に飛び込んだ。そういうことがないように、見張って守ったけどね。…

 負傷者たちをウソーリエに運んだ。…そこにはもう新しい清潔な家が建っている、負傷者専用の。…汽船で戻る時は、空っぽだから休んでいいのに、眠れない。女の子たちはじっと横になっていて、とうとう、わっと泣き出した。みんなで負傷者たちに手紙を書いたよ。それぞれ分担を決めて。一日に3、4通。 …

 スターリングラードの近くでのこと...負傷兵を二人引きずっていく...まず一人を引きずって行き、また戻って二人目をというふうに交互に引きずっていく。ひどい重傷を負っていて、置いておけない。二人とも、足の付け根ちかくを撃たれて出血している。そういう時は一分一秒が大事なんだ。戦闘の只中から抜け出したところで硝煙が少なくなくなってからよく見ると、一人は戦車兵なんだけど、もう一人はドイツ兵なのさ。あたしは仰天した。すぐそこでわが軍の人たちが殺されているってのに。私はドイツ兵を救っているんだよ。パニックになったよ。...二人とも黒くこげてた。同じように衣服はぼろぼろに焼けて。見ると外国製のロザリオ、外国製の時計、あの呪わしい制服。どうしよう? 味方の負傷兵を引きずりながら考えた。ドイツ人のところに戻るべきか。分かってたんだよ、このまま置き去りにしたら出血多量でそのドイツ人は死んでしまう。あたしはその人の所に這って行った。負傷者を二人とも交互に引きずって行ったよ...スターリングラードでのこと...一番恐ろしい戦いだった。ねえ、あんた、一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。

 戦後何年もたって空を見るのが怖かった。耕した土を見るのもだめ。でもその上をヤマガラスたちは平気で歩いていたっけ。小鳥たちはさっさと戦争を忘れたんだね...』

 まさにこれこそがスターリングラード市街戦の戦場であった。タマーラさんの「そこではこれより一歩も引けない、国全部が、ロシア国民が滅びるか勝利するかしかないとみんな分かってたのよ。誰にとってもはっきりした、そういう時が来たわけ」という言葉が全てを物語っている。実に、スターリングラードの戦いこそ、祖国ソビエトの生死をかけた戦いであったのだ。

 そして、そのスターリングラードの戦場において、彼女は自国ソビエトの負傷兵だけでなく、負傷したドイツ兵をも救出している。こうした実例の証言は『戦争は女の顔をしていない』の各所に出て来る。このどこに、大木氏が酷評したあの「ナショナリズムの惨劇」があるというのか。「敵味方を問わず、たとえドイツ兵であっても負傷して戦えなくなった兵士はこれを救うために最大限の努力を尽くす」という、彼女らのこうした気高い人間性に溢れた行為・行動は、憎むべきは‶ドイツ人〟ではなく‶ナチスヒトラーと野蛮なファシスト〟であり、その魔手からわが祖国、ヨーロッパと世界人民を守るために自分たちは戦っているのだという崇高な信念抜きには、絶対に生まれ得ない。この崇高な信念こそ、スターリン社会主義ソビエトの党と政府が、独ソ戦第二次世界大戦を通じて繰り返し訴え、その強化を呼びかけてきた核心的思想であった。

 こうして、スターリングラードは、ソビエト赤軍と市民・人民の英雄的な闘いによって守り抜かれ、いよいよソビエト軍の大反抗作戦《ウラン作戦》の展開が始まる。

 

 ソビエトの《ウラン作戦》とドイツ第6軍の降伏・敗北

 リデル・ハートは大著『第二次世界大戦』では、スターリングラード市内の攻防戦、市街戦や戦術的決戦、そして《ウラン作戦》の発動・展開、ドイツ第6軍の降伏に至る経過については、あまり多くを語っていない。ただ、その『第五部・転換期(1942年)』の『第18章・独ソ戦局の転換』及び『第六部・衰退期(1943年)』の『第28章・ドイツ軍のロシア戦線撤退』において、スターリングラードの攻防戦におけるヒトラー・ドイツ軍の敗北が、独ソ戦と第二次大戦の決定的転換点となったと断定している。

さて、ソビエト軍の大反攻作戦《ウラン作戦》―ドイツ軍大包囲作戦―は如何に展開されたのかを見てみよう(主たる参考資料はジューコフの『回想録』、シャイラーの『第三帝国の興亡』、山崎雅弘氏の『新版・独ソ戦史』)。

 《ウラン作戦》の第1段階は、1942年11月19日に北部方面から、20日には南部方面から、それぞれ開始された。この作戦に参加したソビエト側の総兵力は、兵員100万以上、500門の火砲、900輌の戦車、1000機以上の航空機であった。このソビエトの大兵力が、即ち、北部の南西方面軍が敵の弱い一環・ドイツ軍外郭部隊のルーマニア3軍に、また南部のスターリングラード方面軍が敵の弱い一環・ルーマニア4軍に襲いかかり、ここを一点突破とし、一気に包囲網完成に向けて進撃を開始したのである。勿論、ドイツ軍総司令部は、こうしたソビエト軍の包囲作戦に、まったく気づいていなかった。ソビエト軍が、吹雪が荒れ狂う11月19日・20日早暁に、この大反攻作戦を開始した時、ヒトラーはアルプス山中の別荘で幹部将官連中と宴を楽しんでいた。そこに、新参謀総長ツァイツラーから「恐慌的通報」が飛び込んで来た。ソビエト軍は、僅か4日後の11月23日にはドイツ軍26万余の包囲を完成させ、包囲の環をじわじわと固く締めつけ、ドイツ第6軍とその司令部を恐怖に陥れていたのである。   

 時あたかも、スターリングラードには初雪が降り始めた。「冬将軍」の到来である。ソビエト軍補給部隊は、最高軍司令部の厳命を受け、ヴォルガ河の東岸から兵員、弾薬、食糧、防寒被服を山のように送り届けた。一方、ドイツ軍の冬用物資は、悪天候とロシア軍の攻撃によってもたらされた列車・道路網の破壊・破損の結果、前線への輸送が完全にストップしていた。ドイツ空軍は制空圏も奪われ、航空機による輸送も最早自由ではなかった。

 1942年11月22日、第6軍司令官パウルスはベルリンに向けて「わが軍は包囲されたり」と打電し、24日には「撤退命令」を求める電報を送った。だが、ヒトラーの命令は「あくまでもスターリングラード攻撃体制を死守せよ」というものであった。ドイツ第6軍は、スターリングラード攻略に向け、最後の総攻撃に踏み切った。5時間にわたって凄まじい白兵戦を展開した。ドイツ軍の一部は一時、ヴォルガ河にまで進出した。しかし、そこまでであった。翌日の夕刻には早やドイツ軍の攻撃は衰えを見せ始めた。

 その瞬間、ドイツ軍第6軍を包囲していたソビエトのドン方面軍と南西方面軍は一斉攻撃を開始し、ドン川に架かるカラチの大鉄橋を目指して進撃し、ここを占領。南方面からはスターリングラード方面軍が圧力を加えた。かくして第6軍を中心とするドイツ軍26万余が、ドン川とスターリングラード市・ヴォルガ河に挟まれた荒涼たる平原地帯に完全に閉じ込められ、完全に袋のネズミとなったのである。

 ヒトラーは、スターリングラードを「瓦礫の要塞」と化した時点で既に「勝利」を「達成」したものと思い込み、ドイツ国民に「祝報」を伝えていた。今更その「勝利」を否定することもできなかった。ヒトラーは、新たな部隊を送り、何としてもこの包囲を突破せねばならない、とした。その包囲突破のための新たな作戦行動の指揮を執ったのは、クリミア攻略でその知将ぶりを発揮したマンシュタイン元帥であった。彼が新たにドイツ軍ドン軍集団司令官に任命された。フランス北部からも急きょ装甲師団が呼び寄せられた。

 1942年冬の12月12日、マンシュタイン軍団は、スターリングラードから南方120キロ地点のコテルニコフから出撃を開始し、鉄道線沿いにスターリングラード市南口を目指して北上を開始した。

 ソビエト軍にとっては、あらかじめ予期し、準備していた《ウラン作戦》の第二段階―救出部隊撃滅・包囲軍殲滅作戦―発動の時が来た。ソビエト最高軍司令部は、赤軍部隊とパルチザン部隊を出動させ、マンシュタイン軍団の進撃を阻み、更に戦車・砲兵隊を投入し、軍団を大混乱に追い込んだ。また、マンシュタインが敢行した飛行機部隊による第6軍への食糧・冬用物資投下作戦に対しても、その飛行機出撃拠点を次々と攻撃、破壊、身動きが取れないようにした。

 マンシュタインは、「第6軍の中でスターリングラード市南部を占領している部隊を脱出、南下させ、こちらの救出部隊と結合させ、包囲網を打ち破る以外にない」とヒトラーに要請したが、ヒトラーは「スターリングラードからの脱出」を認めなかった。12月23日、マンシュタインは、直接、第6軍司令官パウルスに「脱出突破作戦」の強行を求めるが、結局パウルスもこの作戦の実施を決断できなかった。こうしてマンシュタインの救出作戦は完全に失敗に終わった。

 1943年1月8日、ソビエト赤軍のドン方面軍と南西方面軍の司令部は、いよいよ、ドイツ第6軍に「投降勧告」を行なう。彼らはこれを拒否。ドン方面軍は再度攻撃を開始する。ヒトラーはあくまでも「投降拒否」を命令する。が、次々と捕虜、犠牲者が生まれ、ドイツ兵の死体の山が築かれていった。戦死者・行方不明者の数は15万にも達していた。兵士の逃亡・逃走は止まず、もはや戦闘の継続は不可能であった。

 1943年1月31日、ヒトラーはしぶしぶ「撤退命令」を出す。2月2日、パウルス司令官とドイツ第6軍は投降勧告を受諾。ドン川とヴォルガ河の間の南北40キロ・東西60キロの狭い平原地に封じ込められたパウルス元帥以下第6軍26万(一説には33万)余が、遂にソビエト軍の捕虜となった。ソビエト軍の大反攻作戦《ウラン作戦》は完全に成功し、ソビエト軍の完全な勝利に終わった。

 かくして、独ソ戦の最大の山場たるスターリングラード攻防戦は、スターリンに率いられたソビエト赤軍、市民、人民の完全な勝利、ヒトラー・ドイツ軍の完全な敗北となった。1942年の秋の第25回革命記念日祝典の席上、スターリンソビエト人民に約束した『近いうちに、我々の街で、またお祝いをすることになるであろう』という言葉は、嘘偽りなく、見事に果たされたのである。

 《ウラン作戦》を直接指揮したジューコフは、最高軍司令部を代表し、この戦いを振り返り、ソビエト国民に向かって、次のように報告した。

 『スターリングラードにおけるわが軍の勝利は、独ソ戦の転換点となり、以後、戦局はソ連に有利となり、敵軍の退却が始まった。この勝利は、直接敵の撃滅にあたった諸部隊にとっては勿論、すべての軍需品を軍隊に補給するために日夜働き続けたソ連国民にとっても、長い間待ち望んでいた勝利であった。…ドイツ軍将兵ドイツ国民の間に、ヒトラー個人やファシスト指導部に対する不信感が急速に高まり始めた。ドイツ国民は、ヒトラーとその側近たちが国を冒険に引きずり込んだこと、ヒトラーが約束した勝利がドン・ボルガ・北カフカズで破滅した軍隊と共に消え去ったこと、を理解し始めた』(回想録より)と。

 世界的軍事評論家のリデル・ハートもまた、その著書において『スターリングラードではパウルスとその指揮下の第6軍の大半が(1943年)1月31日、降伏した。…「スターリングラードの悲劇」はそれ以後、各地のドイツ軍司令官の心に微妙な毒となって作用し、彼らが遂行することを求められていたその戦略に関する自信のほども、揺らいでいったのである。物質面よりむしろ精神面で、スターリングラードの大敗北はドイツ陸軍に回復不能の痛手を与えたということができる』と語り、ドイツ軍の戦略的敗北を明確に確認している。