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(小林尹夫-哲学ルーム)

 独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第13回)   

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

                                               20221130日更新  次回更新は1210

 

 

 第二戦線問題について

 

 第二戦線問題とは何か。小学館発行の『日本大百科全書』(1989年7月)は次のように分かりやすく解説している。

 『第二戦線――戦争において、敵方の戦力を分散させるために、主要な戦線以外に設ける戦線。第二戦線の形成が歴史上でとくに問題となったのは、第二次大戦においてである。

 ドイツの対ソ連攻撃開始以後、ドイツの主要兵力はソ連すなわち東部戦線に集中した。ソ連は、第二戦線として米英軍がフランスへ上陸してドイツ軍の背後を牽制することを要求し、1942年5月にはルーズベルトチャーチルによって第二戦線を設けることが確約された。しかし、フランス上陸作戦よりも北アフリカ作戦及びイタリア上陸作戦を重視するチャーチルの主張によって、米英軍は南ヨーロッパに作戦を展開し、ソ連の不満を買った。テヘラン会談(1943年11月)において第二戦線の設定が確認され、1944年6月、ようやく米英軍は北フランス、ノルマンディーに上陸して第二戦線を形成した。しかし、この第二戦線形成の遅延とソ連の自力による総反撃は、ソ連の戦後ヨーロッパに対する発言権を強めた』と。

 実際、独ソ戦において、早くに第二戦線が形成されておれば、ドイツ軍は二正面作戦を強いられ、その軍事力を二分されることになり、間違いなく、ソビエト軍の被害は半減された。

 先に述べた通り、スターリンソビエト政府は早くから、民主主義の徹底的否定者たるヒトラー・ドイツのファシズム帝国主義の危険性を暴露し、全世界の人民、そして各国政府に対し、反ファシズム統一戦線への参加を呼び掛けていた。しかし、1917年のロシア革命直後、ソビエトに対して干渉戦争を仕掛け、社会主義ソビエトの転覆を謀った実績のある英米仏等のブルジョア政府は、むしろ「ファシズムのドイツと、社会主義ソビエトを相戦わせ、共倒れを図る」という策謀に走った。事実、チャーチル内閣の航空機生産省大臣であったブラバゾンは、独ソ戦の最中、「イギリスにとって一番望ましい独ソ戦の結末は、独ソ双方が疲れ、消耗することだ。そうなればイギリスは第三勢力の役割を果たし、戦争終結後に自分の条件を押し付けることができる」と公言していた。さすがにチャーチルはすぐに彼を辞任させたが、それがイギリスの保守政治家・資本家たちの本音であった。アメリカでは、米国大統領のルーズベルトは、独ソ戦開始3ヵ月後の9月には、「ロシア戦線は持ちこたえ、モスクワは占領されることはない」との見通しを示していたが、アメリカ軍部首脳は半信半疑で、「ドイツの短期勝利」を信じて疑わなかった。また、当時は上院議員であった反共主義者トルーマン(後の米大統領)は、独ソ戦開戦直後に、「もしもドイツが勝ちそうだったらロシアを助け、ロシアが勝ちそうになったらドイツを助ける。こうして双方にできるだけたくさん殺し合いをやらせるのがベストだ」と公言していた。アメリカの大半の資本家たちも同様の意見であった。

 ところが、1941年12月8日の日本軍国主義真珠湾攻撃は、アメリカ政府の「モンロー主義」(孤立主義外交路線)を吹き飛ばし、米国は積極的参戦に転じた。かくして、スターリンソビエトの要求によって、ようやく、1942年5月、英米政府はフランス上陸の第二戦線を設けることを確約した。だが、チャーチルは、フランス上陸作戦に難癖をつけ、ヒトラーの攻撃から英領植民地を守るために早くから開始していた北アフリカ作戦、そしてイタリア上陸作戦を重視し、その約束を守ろうとはしなかった。

 1943年9月、そのチャーチルの主導でイタリア上陸作戦―第二戦線構築作戦―が強行された。だがそれは期待とは程遠い結果しか生まなかった。これについて、リデル・ハートは次のように評している。

 『イタリア作戦の重要性をめぐっては、依然として米英指導層間に大きな意見の食い違いが潜在していた。チャーチルおよび参謀総長アラン・ブルック卿に代表される英国側の見解は、連合軍がイタリアに多数の部隊を注入すればするほど、それだけ多く、ノルマンディーに投入されるはずのドイツ軍を吸引することができるという考え方であった。結局 これは間違いであったが、そもそもの発端は、この方面で英軍が主導権を握って大きな成功を収めたいというチャーチルの願いから発したものであった。それに対してアメリカ側の見解が食い違いを生じた根本の理由は、彼らはフランスこそ主戦場であるという正しい見方をしていたため、フランスに派遣する予定の連合軍戦力を削ってまでイタリアへ増援軍を送ることはないと考えたからであった。彼らはチャーチルおよび英軍首脳部よりも冷静に、イタリアの地形は険しいところが多く、迅速な作戦の進展と戦果の拡張を期待することができない地域であることを見抜いていた。彼らはまた英国側がフランス侵攻(注:第二戦線たるノルマンデイー上陸作戦)という、いっそう困難な任務を回避する口実として、イタリアに焦点を合わせる傾向があるのではないかという疑念を強くいだいていた』と。

 かくの如く、チャーチルは一貫して第二戦線の構築には消極的であった。イタリア上陸作戦も大した成果を生むことなく、1943年11月、テヘラン会談において再度フランス上陸の第二戦線形成が確認されるが、それでもなお、直ぐには実行されず、1944年6月、ソビエト軍によるベルリン攻撃が開始される直前に、ようやくノルマンディー上陸の第二戦線形成が実現されたのである。

 ところで、世界的に有名なアンネ・フランクの日記『アンネの日記』(2010年9月・文芸春秋社刊)には、「第二戦線」に関する記述が、何か所も見られることをご存じであろうか。第二戦線問題は、アンネ一家にとって、隠れ家に潜行していた人々にとって、アウシュヴィッツなどの収容所に送り込まれた全てのユダヤ人にとって、更にはナチスファシズム支配下に置かれたヨーロッパの全ての国民にとって、極めて重要な政治問題であった。

 アンネ・フランクはドイツのフランクフルトに生まれたが、一家はナチスの迫害を逃れ、オランダに移った。父親のオットー・フランクは「娘たちだけでも…」と懸命にアメリカへの移住を追求したが、その難民申請は認められず、切羽詰まり、父親の職場であった会社の裏のビルの4・5階と屋根裏部屋の隠れ家に身を潜めた。

 友人家族を含めた8人の潜行生活は、1942年7月6日から1944年8月4日まで、ナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見されるまで、2年間に及んだ。逮捕された隠れ家住人は、全員がアウシュヴィッツ強制収容所へと移送された。1945年10月、ソビエト赤軍の接近に伴うアウシュヴィッツ強制収容所撤収作戦により、アンネと姉はドイツ国内にあったベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送され、ここで二人はチフスに罹り、その若い命を落としたのである。その時アンネ15歳、亡くなったのは1945年2月末から3月半ばと見られている。

 彼女の日記に描かれた、ラジオBBCのニュースに耳を傾けて一喜一憂する隠れ家の住人たちの様子を見る時、第二戦線がユダヤ人たちにとって大いなる「希望の星」であったことがよくわかる。彼女の日記を紐解いてみよう―

 『1942年11月5日・木曜日――英軍がとうとうアフリカで多少の勝利をおさめました。スターリングラードもまだ持ちこたえています。そんなわけで、この《隠れ家》の男性軍も意気軒昂、今朝は皆してお茶とコーヒーで乾杯しました。…』

 『1942年11月9日・月曜日―― …ソ連では、スターリングラードの攻防戦がすでに3ヵ月も続いていますけど、街はいまのところまだドイツ軍の手には落ちていません。…』

 『1943年2月27日・土曜日――ピム(アンネの父親)は、連合軍の上陸作戦が始まるのを、今日か明日かと待っています。チャーチルは肺炎に罹りましたけど、今はすこしずつ快方に向かっているそうです。…』

 『1944年2月3日・木曜日――連合軍の上陸作戦を待望する気分は、日ごとに全国で高まっています。…』

 『1944年5月3日・水曜日――私も徐々にですけど、近々上陸作戦があるということが信じられるようになってきました。連合軍にしても、ソ連軍だけに名をなさしめているわけにはゆきますまい。…』

 『1944年5月22日・月曜日――20日の日に、お父さんはおばさんと賭けをして、ヨーグルト5瓶も取られてしまいました。未だに上陸作戦が始まらないからです。こう言ったからといって、決して誇張にはならないと思いますが、アムステルダム全市民、オランダ全国民、いえ、南はスペインまで至るヨーロッパ西海岸の全住民が、連合軍の上陸作戦が今日始まるか、明日始まるかと期待し、それについて論じあい、賭けをし、そして…希望をつないでいます。…私たち全員が、必ずしもイギリスに信頼感を持ち続けているわけじゃありません。上陸作戦を楯にとって、しきりに脅しをかけるというイギリスの今のやり口が、必ずしも全員に巧みな戦略として支持されているわけではありません。そうなんです。誰もが見たがっているもの、それは行動です。今こそ遂に立ち上がった連合軍の、はなばなしい英雄的な行動なんです。…』

 『1944年6月23日・金曜日――ここでは何も特別なことは起こっていませんが、英軍はシェルブール(フランス北西部の港町)に対する大規模な攻撃を開始しました。ピムやファン・ダーンおじさんの言によると、10月10日までには必ず私たちも解放されているだろうということです(注:実際に解放されたのは翌年の1945年4月)。ソ連もこの大攻勢に加わっていて、昨日、ヴィテプスク(注:ソ連邦ベラルーシユダヤ人居住地の多い都市)付近で戦闘状態に入りました。ドイツ軍がソ連に侵入してから、今日できっかり3年になります。…』と。

 結局、英米軍はなかなかオランダに進出せず、遂に1944年8月4日、アンネたちは逮捕され、収容所に送り込まれてしまう。アンネ一家は、1944年9月3日にはドイツ国内の収容所からポーランドアウシュヴィッツに移送され、9月6日に到着。10月28日、収容所はソビエト赤軍の接近を知り、多くの収容者を選別し、アンネと姉はドイツ国内のベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送された。父親と母親はアウシュヴィッツに残り、母親はこの収容所で殺害された。英米軍の第二戦線が十分その役割を果たさない中、ソビエト赤軍は多くの犠牲者を出しながらポーランドに入り、1945年1月27日にアウシュヴィッツ解放を実現する。アンネの父オットーは、かろうじて、このソビエト赤軍の手によって救出された。アンネ姉妹が収容されていたベルゲン・ベルゼン強制収容所が英軍の手によって解放されたのは1945年4月15日。アンネ死亡から1、2カ月後のことであった。

 以上から明らかなように、第二戦線問題は、独ソ戦と深く関わっていただけでなく、アンネの悲劇とも深く関わっていた。アンネ一家の救出を遅らせた最大の原因、それはチャーチルの「反共・反ソ主義」であったと言っても過言ではないのである。

 この第二戦線問題の本質を知る人々は、第二次世界大戦において反ファシズム解放戦争を勝利に導いた最大の戦いこそ独ソ戦であり、スターリングラード攻防戦赤軍の勝利であり、決して英米政府と英米軍ではなかったことをよく知っている。ここで、声を大にして強調しておこう。全世界の民主主義勢力を日独伊のファシズム支配から解放した最大の功労者はスターリンソビエト赤軍であり、ソビエト人民であったのだ、と。

 

カチンの森事件」について

 

 ナチス・ドイツ―宣伝相ゲッペルス―によって「カチンの森事件」が全世界に向かって公表・宣伝されたのは、ドイツ軍のスターリングラード大敗から2ヵ月後の1943年4月のことであった。(注:カチンの森は、ソ連邦西部地域にあるスモレンスク市付近のドニエプル河沿いにある森で、ポーランド国境からも近い所にある大きな森のこと)

 1943年4月13日、この日、スターリングラード戦で敗れ、惨めな撤退・敗走に追い込まれていたドイツ政府は、ベルリン放送局を通じて、全世界に向けて次のようなニュースを流した。『スモレンスクからの報告によると、同地の住民は、ドイツ軍当局に、1万人のポーランド軍将校がボリシェビキにより、ひそかに処刑された場所を明らかにしたという。ドイツ軍当局は、スモレンスク西方、12キロのコソゴリというソ連の避暑地を訪れ、驚くべき事実を発見した(注:カチンの森はこの当時はドイツ占領下にあった)。…掘られた穴に約3000人のポーランド軍将校の死体が横たわっていたのである。全員、正規軍装をし、手を縛られ、首の後ろ側に銃で撃たれた跡があった。被害者を特定することは困難ではなかった。…ボリシェビキは死体に身分証明書を残していたからである。…他の埋葬地については調査中である。最終的には、ボリシェビキに捕虜に取られたポーランド軍将校の数は約一万人に達するものと推測される』と。

 この一方的なニュース発表は「天才的宣伝家」たるゲッペルスの発案であった。

 勿論、ソビエト政府(情報部)は直ちにこれに反論した。ソビエト軍がやったことを示す確たる証拠など何一つ無く、完全なデッチ上げ事件であった。むしろ、当時のソビエト政府は、ナチスに敗れて英国に亡命していた反共的なポーランド政府と協定を結び、ポーランド人捕虜に恩赦を与え、ソビエト国内でポーランド軍の創設を許可しており、ポーランド人将校を殺害する何の理由もなかった。

 1943年4月22日、ドイツ政府は直ちに12ヵ国からなる「国際調査委員会」なるものを早々と組織し、現地に送り込んだ。この12ヵ国の内、スイスとスウェーデンを除けば、皆ナチス・ドイツの影響下にある国であった。しかも、この国際調査委員会の現地調査はたった3日間しか認められていなかった。たった3日間で7つもの調査項目(市民との会見、9名の死体の解剖と982人の死体検分・医学報告書作成、遺体総数の確認、森の立木分析、顕微鏡分析と脳髄齢化評価等)をこなすというものであった。何のことはない、詳しい調査は、自らが組織し派遣した「ドイツ委員会」にすべて任すことになっていたのだ。

 ドイツ政府によって発表された調査結果は推して知るべしである。ナチスがやったことを証明する証拠はすべて消し去られ、ソビエト軍が行ったという様々なデッチ上げが行なわれた。全ては後の祭りであり、真実は完全に隠ぺいされてしまった。

 突如として持ち上がった、この「ソビエト軍によるカチンの森虐殺事件」というデマ宣伝はセンセーショナルに取り上げられ、国際的大問題となった。1943年当時は、ナチスによる「ホロコースト」はまだ大きな問題になっていなかった。

 当然のことながら、チャーチルの英国も、ルーズベルトの米国も、こうしたナチスの「デマ宣伝」をまともに取り上げることはなかった。

 しかし、この問題は戦後―スターリン死後―において「ヨーロッパの外交問題」として燻り続けてきた。その中で、1990年10月、当時のソビエト共産党書記長ゴルバチョフは、「新たに発見された資料類はソ連内務機関の関与を想定させる状況証拠となっている」とし、「カチンの虐殺はソ連スターリン)の犯罪であった」と、ポーランドへの謝罪を公表した。ゴルバチョフが根拠にあげた「最高機密文書」の「ベリヤ覚書」なるものは、単なるメモ形式のものでしかなく、「スターリンの署名」なるものもメモの欄外に記されたものであった。 

 (注:フルシチョフは「カチン虐殺事件」を取り上げてスターリンを非難するということができなかった。非難できるような資料がなかったからであろう。ソビエト赤軍が無関係であることを示す資料は―もしあったとすれば―フルシチョフによって処分されてしまい、ゴルバチョフが持ち出した「新資料」はその後に偽造された可能性が非常に高い。「歴史は権力を握った者によって書かれる」ものである)

 社会主義を裏切ったフルシチョフの衣鉢を継ぐゴルバチョフにとって、最大の「邪魔者」はスターリンであり、何が何でも「スターリンこそカチン虐殺の元凶」でなければならなかった。「ゴルバチョフの謝罪」を耳にした当事のポーランド外相オジェホフスキーは『カチンの森事件については二つの見解―ドイツ犯行説とソ連犯行説―があるが、今やどちらを支持するかは、客観的な知識の問題ではなく、政治的な選択、政治的感情の問題なのだ』(1988年3月29日付産経新聞)と語り、すべては権力の政治的都合次第だとしているが、まさにその通りである。

 しかし、カチンの森事件の真犯人はナチス・ドイツである、とする決定的証拠が存在している。その証拠は、日本の推理小説作家・逢坂剛氏が「偶々、ゲッペルスの1943年9月29日の日記の中に、次のような記述があるのを発見した」と『中央公論』(1992年11月号)誌上で報じたことで、一時大きくクローズアップされた。

 ゲッペルス曰く『遺憾ながらわれわれは、カチンの一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが12000人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件はゆくゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない』と。

 まさに、これは、真犯人はナチス・ドイツであることをゲッペルス自身が告白したものであった。この『ゲッペルスの日記 1942年~43年版』は、戦後の1948年になって、ロンドンで出版された。1943年度の日記については全部が残っている訳ではなかったが、9月分は8日~30日までが残されていた(注:これらが本物の日記であることは既に専門研究家によって検証済み)。

 何故、このような重大資料がまともに取り上げられないのか?「全てはスターリンが悪い」という全く根拠の無い“政治的風評”が世を覆っている結果である。

 この「カチンの森虐殺事件」がドイツ軍―ナチス特別部隊―の仕業であったことは、当時の、ナチスポーランドの置かれていた関係、状況を見れば、一目瞭然である。

 ウイリアム・シャイラー著『第三帝国の興亡』には、アウシュヴィッツ収容所で何が行われたかついては詳しく書かれているが、「カチンの森事件」に関する記述はない。が、シャイラーはヒトラーユダヤ人及びスラヴ系民族(ロシア人やポーランド人)対策について、はっきりと次のように語っている。

 『ユダヤ人やスラヴ族は下級人類である。ヒトラーにいわせると、スラヴ族の一部はドイツの主人のために畑を耕し、鉱山で働く奴隷として必要かもしれないが、それを除いてほかのものには生きる権利はない。東欧にある大都会、モスクワ、レニングラードワルシャワポーランドの首都)などを、永久に抹殺するだけでなく、ロシア人、ポーランド人、その他のスラヴ民族の文化もまた根絶すべきであり、彼らには正式の教育をうけさせない。…

 「ロシア人やチェコ人がどうなろうと(それらの種族が栄えようと獣のように飢え死にしようと)、おれにはいささかの関心もない」とハインリッヒ・ヒムラーは一九四三年十月四日、ポズナニで行なった、S・Sの幹部にたいする秘密演説のなかでいった。その当時、ヒムラーは、S・ S第三帝国の全警察機構の親玉として、ヒトラーに次ぐ重要人物であり、八千万のドイツ人ばかりでなく、その二倍以上の被征服民族にたいして、生殺与奪の権力を持っていた。…

 このヒムラーの演説よりはるか前にナチ指導者たちは、東方の民を奴隷化する構想、計画を立てていた。一九四〇年十月十五日、ヒトラーは、その征服した最初のスラヴ族チェコの将来についての決定を下した。…その二週間前の十月二日、総統はやがて征服する二番目のスラヴ族ポーランド人の運命についての構想を明らかにした。ヒトラーの忠実な秘書マルティン・ボルマンは…そのナチの計画について、長い覚え書きを残している。

 「ポーランド貴族は根絶せねばならぬことを、是非とも念頭におかねばならない。どんなに残酷にきこえようとも、彼らはその場で絶滅しなくてはならない。ポーランド人には、ただひとりの主人、ドイツ人があるのみだ。ふたりの主人が並び立つことはできず、そんなものが存在してはならない。したがって、ポーランド知識階級の代表者たち(注:当時の一般的認識では貴族出身のポーランド軍将校こそ第一級の知識人であった)はことごとく絶滅しなくてはならない これは残酷にきこえるだろうが、生命の法則とは、そういったものである。…」』と。

 このヒトラーの命令は、ナチス党幹部とその特別部隊によって忠実に実行された。1939年10月から1940年春にかけて、ヒトラーの片腕ヒムラーは、ポーランド在住ユダヤ人とスラブ系ポーランド人を一方的にポーランド東部地方に追いやり、その途中で、何千という人々を射殺し、また多くの人々を冬の格別の寒さの中に投げ出して凍死させている。ヒトラーポーランド人に対する政策は、一言でいえば「国を全面的に解体する」「ポーランド人知識層が支配者になることは絶対に許さない」「ポーランド人をドイツの奴隷とする」というものであり、また、そのユダヤ人対策とは、言うまでもなく、「ユダヤ民族をヨーロッパから消滅させる」というものであった。その政策の執行は既に1939年10月から始まっていて、1940年春には、彼らは各地の収容所で既に20万ものユダヤ人・ポーランド人を殺害していた。1940年7月には、ポーランド領内に強制隔離収容所アウシュヴィッツが開所され、敗戦までの5年間に、ここだけでおよそ300万ものユダヤ人が虐殺された。こうしたホロコースト(大量虐殺)の執行・推進を担ったのはナチス治安組織―特別出動隊―であり、ヒムラ―やヘスの様なナチズムの思想で頭のてっぺんから足の先まで武装した、冷酷非情の死刑執行官たちであった。ナチスは、一方的に「ソビエト軍カチンの森事件を起こしたのは1940年春だった」と主張したが、この「1940年春」こそ、ナチスユダヤ人の隔離と虐殺、ポーランド人の虐殺と奴隷化を進めた時期であった。ナチスの特別出動部隊は、カチンの森においても、ポーランド各地で執行していた「ポーランドの知識層・指導者層絶滅政策」と同じ政策を、即ち、ヒトラーが命じた「ポーランド軍将校の大量殺害」を忠実に実行していたのである。

 カチンの森事件は、ヒトラーナチス軍団によるポーランド人絶滅策断行という激しい流れの中で生まれた悲劇的事件であり、ソビエト軍とはまったく何の関係もなく、況やスターリンの責任でも何でもない。