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(小林尹夫-哲学ルーム)

ナチス・ヒットラーとファシズムを倒したのは誰か ~スターリン・社会主義ソビエト・独ソ戦の真実~ (第2回)

 

 (第2回) 2022810日更新  次回更新は820

 

  なお、この論文では、岩波新書独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅著 2019年7月発行)を、「批判の俎上」に載せていることを、予め断っておきたい。

この著書の作者である大木毅(おおきたけし)氏は、1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史).。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、現在は著述業。主な著書――『「砂漠の狐ロンメル』(角川新書 2019)。『ドイツ軍事史』(作品社2016)ほか。 訳書一エヴァンズ『第二帝国の歴史』(監修、白水社 2018)、ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社 2018), フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳、中央公論新社 2003) ほか、がある。

大木氏の経歴で、特に注目されるのは「防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師」を務めていることである。実際、彼のこの著作『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』を貫いているのは、客観的に見て、それは紛れもなく「反共的」なイデオロギーであり、私のマルクス主義的哲学・イデオロギーとは完全に対蹠的である。

 大木氏は、「はじめに 現代の野蛮」の中で、「独ソ戦」の核心は次の点にある、と明確に述べている。

 『この戦争は、あらゆる面で空前、おそらくは絶後であり、まさに2次世界大戦の核心、主戦場であったといってよかろう。…しかし、独ソ戦を歴史的にきわだたせているのは、そのスケールの大きさだけではない。独ソともに、互いを妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツソ連のあいだでは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行がいくども繰り返されたのである』と。

 大木氏の歴史観によると、独ソ戦は「ドイツ民族とロシア民族(ソビエト内の諸民族)が互いにそのイデオロギーに基づいて、それぞれの民族の絶滅を目指して、残酷な闘争と蛮行を繰り返し、未曾有の惨禍をもたらした、まったく無意味な戦争であった」ということになる。

 これに対し、私のマルクス主義歴史観によれば、「独ソ戦」の核心は次の点にある。

「第2次世界大戦は、自国の民主主義を徹底的に破壊し、テロ独裁を打ち立て、ファシズムによる世界支配を公然と声明して侵略行動に乗り出したナチス・ドイツ、日本軍国主義ムッソリーニ・イタリアの三国同盟に対する連合国との戦いという、帝国主義戦争として始まったが、イギリス・フランス・アメリカなどからなる反ファシズム連合にソビエトが参加することによって、この戦争全体の性格は反ファシズム解放戦争となった。そして激戦を極めた独ソ戦―特にスターリングラードの攻防戦―におけるソビエトの勝利は反ファシズム解放戦争たる第2次世界大戦全体の勝利を決定づけた。スターリン社会主義ソビエトこそ、全世界をファシズム支配の惨禍から解放した最大の功労者である。」

 私は、この著作を通じて、大木氏のその歴史観独ソ戦争観が如何に間違ったものであるかを徹底的に明らかにしたい。そこに本書執筆の目的がある。 

私がぜひともそうする必要があると考えた理由としては、大木氏のこの著書が「天下の岩波書店」の「岩波新書」として刊行されている、ということもある。そもそも「岩波新書」発刊の目的、意義とは何か。岩波書店は、2006年4月出版の新書の末尾に、「岩波新書新赤版一〇〇〇点に際して」と題して格調高い一文を掲げ、その決意を次のように明らかにしている。

「…岩波新書は、日中戦争下の一九二八年一一月に赤版として創刊された。創刊の辞は、道義の精神に則らない日本の行動を憂慮 し、批判的精神と良心的行動の欠如を戒めつつ、現代人の現代的教養を刊行の目的とする、と謳っている。以後、青版、黄版、 新赤版と装いを改めながら、合計五〇〇点余りを世に問うてきた。そして、いままた新赤版が一〇〇〇点を迎えたのを機に、人間の理性と良心への信頼を再確認し、それに裏打ちされた文化を培っていく決意を込めて、新しい装丁のもとに再出発したいと思う。一冊一冊から吹き出す新風が一人でも多くの読者の許に届くこと、そして希望ある時代への想像力を豊かにかき立てることを切に願う」と。

 更に、大木氏はこの著書の「おわりに」で、この著書の刊行が岩波新書編集長永沼浩一氏の肝いり、粘り強い激励で完成に至ったことを、次のように記している。

「おわりに  日記をあらためてみると、岩波新書の永沼浩一編集長から最初の連絡をいただいたのは、二○一八年の五月二八日であった。折から休みで、某市の古書店に出かけていた筆者は、ラフな格好を気にしながら、その帰路に神保町の岩波書店に立ち寄ったことを覚えている。永沼氏が切り出した依頼は、意表をつくものであった。新書で独ソ戦の通史を書いてみないかと持ちかけられたのである。願ってもない話ではあった。…しかし、永沼氏の注文は、さらに続く。戦史・軍事史を主とするのはもちろんだが、それだけでは独ソ戦は理解できないはずである。ぜひ、ナチズム、ホロコーストとの関連や、政治外交史的側面や戦時経済のことも触れた通史として、独ソ戦に関心があって勉強したいと思っているひとが、最初に手に取るべき本にしてほしいというのだ。… 執筆に取りかかってみると、予想されたことではあるものの、困難は大きかった。 いくつかの節は、既発表の文章をもとにすることができたが、多くは、あらためて史資料を確認しつつの作業となったのである。それでも、本書の上梓にまでこぎつけられたのは、先学のさまざまな業績にみちびかれたこと、また、編集の任にあたられた永沼氏の根気強い慫慂と励ましのたまものにほかならない。ここにあらためて記し、永沼氏の尽力に感謝する。二〇一九年五月」と。

 果たして、永沼編集長肝いりのこの大木氏の著作は、新書刊行の目的たる「道義の精神に則らない日本の行動を憂慮し、批判的精神と良心的行動の欠如を戒め」るものとなっているのか。「人間の理性と良心への信頼を再確認し、それに裏打ちされた文化を培っていく」ものとなっているのか。甚だ疑問である。それ故、ここに新たに「独ソ戦の真実」を明らかにする一書を上梓せんと決意した次第である。

 

 最後に、本書でぜひ取り上げ、詳しく紹介したい「独ソ戦」に関する貴重な著作がある。それは、群像社刊『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著・三浦みどり訳 2008年7月発行)である。彼女は2015年ノーベル文学賞を受賞している。

【注:なお現在、この『戦争は女の顔をしていない』は残念ながら群像社からは出版されていない。群像社(設立者・島田進矢氏)の公式サイト発表によると、2015年10月に群像社は、アレクシェーヴィチさんのノーベル賞受賞を受け、注文が殺到したため、1000冊の増刷を予定していた。だが、著者の著作権を管理する代理人から「権利消失のため出版できない」と通告された、ということである。その後、岩波書店が翻訳権を獲得して、2016年に岩波現代文庫から刊行された。なお、群像社の厚意により岩波版でも三浦みどりさん(2012年12月死去)の翻訳文が使われている】

 アレクシェーヴィチさんは1948年5月にウクライナソビエト社会主義国に生まれた。彼女の母方のウクライナ人の祖父は独ソ戦争で戦死し、ハンガリーのどこかに葬られているという。ベラルーシ人の祖母、つまりアレクシェーヴィチさんの父親の母親はパルチザン活動に加わり、チフスで亡くなった。このパルチザンに加わった母親の3人の息子の内2人は戦争が始まったばかりの数ヶ月で行方不明になり、3人兄弟のうち一人だけが生きて戻って来た。それが彼女の父親である。彼女は、子供の時から、死のことことを考えないではいられなかった、という。彼女は、ベラルーシ大学でジャーナリズムを専攻し、卒業後にジャーナリストとなった。

 三浦みどりさんは「訳者あとがき」で、この作品について、次のように語っている。

「アレクシェーヴィチさんのこの本は彼女の作家活動の出発点だ。取材を始めたのは一九七八年とあるが、戦争物は男が書くことになっていた時代に雑誌記者だった二十歳代のスヴェトラーナがそれまでまったく触れられたことのなかった従軍女性の記録を発表するのは相当の困難があり、完成後二年間は出版できなかった。当時既に作家としての権威があったベラルーシのドキュメンタリー作家アレーシ・アダモヴィッチ…の後押しがあっても一部の発表しか許されなかった。ソ連では第二次世界大戦で百万人を超える女性が従軍し、パルチザン部隊や非合法 の抵抗運動に参加していた女性たちもそれに劣らぬ働きをした。英雄としてでなく生身の人間としての彼女たちに初めて光をあてたこの作品を紹介して、アダモーヴィチは、こう書いた。『この本には勝利のために国民が払った犠牲が、従軍少女たち、娘や姉妹、母親 たちが流した血や涙が書かれている。この本ができるには登場人物たちの娘にあたるほどの年若い作家の誠実な努力があった。五百人を越える一人一人の聞き書きというこのスヴェトラーナの書き方は妥協を許さないものだが、他人の痛みに対して人間の心を塞いでいる邪魔物を突き破るにはこれが必要だった。この本は問違いなく大好評となるだろう。従軍した女性たち、パルチザンの女性たちから何千という手紙が送られてくるだろう。あと五年はこの本と切れることはできないだろうが、スヴェトラーナが他人の痛みを、現実の重みを、その心で受け止めて、耐え抜いてくれることを祈りたい』『戦争は女の顔をしていない。しかし、この戦争で我々の母親たちの顔ほど厳しく、すさまじく、また美しい顔として記憶された物はなかった』…」と。

 まさに、ドキュメンタリー作家アダモヴィッチが書いているように、この作品の最大の特徴は『この戦争で我々の母親たちの顔ほど厳しく、すさまじく、また美しい顔として記憶された物はなかった』という点にある。この作品―独ソ戦争に従軍、参戦した女性たちの細部に亘る生々しい証言―は、まさに独ソ戦争の本質とは何であったのかを物語る貴重な資料であり、ここに書き記されている彼女たちの証言は紛れもなく「ダイヤモンドの原石」なのである。この原石は、磨いてこそ、宝石ダイヤモンドとして限りなく美しく光り輝くのである。

 しかしながら、この作品には「負」の側面も記されている。これについて、三浦さんは「訳者あとがき」で次のような事実に触れている。

 第1点は、『ソ連の従軍女性たちは十五歳から十歳で出征していった人たちで、他国のように看護婦や軍医というだけでなく、実際に人を殺す兵員でもあった。ところが戦争で男以上の苦しみを体験した彼女たちを、次の戦いが待ち受けていた。従軍手帳を隠し、支援を受けるに必要な戦傷の記録を捨てて、戦争経験をひた隠しにしなければならなかったのだ。「戦地に行って男の中で何をしてきたやら」と戦地経験のない女性たちからは侮辱され、男たちも軍隊での同僚だった女性たちを守らなかった。取材される女性たちもあの地獄を体験しなおしたくないと語りたがらない、取材を断ってきたひとも多い。元パルチザンの女性は、隊長が家族を見殺しにせざるを得なかったあと、不思議な死に方をしたことを語り、「死人は語れない、語ることができたら、わたしたちは生きていられないだろう」と黙り込む』との事実。

 第2点は、『そういう(最初は何も語らなかった)女性たちが、戦友たちを紹介し、アレクシェーヴィチさんの取材は終わることがなく、二〇〇四年の最終稿ではペレストロイカ直後ではまだまだ語れなかったことが加わっている。新しく付け加わったのは、仲間を殺さなければならなかったときのこと、ソ連軍の男たちがドイツの女性に何をしたか、そして、戦争が終わるとただちに占領地で暮らしていた捕虜であったという経歴のせいで国賊扱いされ極北の地に流刑にされたことなど。「今は何でも話せる世の中になった。どうして戦争が始まる前に軍の幹部を抹殺したの? 我が国の国境はしっかり守られていると国民に請け合ったのは誰? 弾丸は最初から足りなかった。今はもう訊いてもいい。でも、やはり怖いから黙っている」。相変わらず恐怖の陰は残している』との事実、である。

 いずれにせよ、『戦争は女の顔をしていない』の中で女性たちが語っている証言は、戦場の体験の「細部の事実」を隈なく描き出し、それによって「独ソ戦の真実」を語るものとなっている。

 ただ、細部に亘る事実の積み重ねとしてのこの証言集を読む時、私達は特に次の点に留意しなければならない。

 第1、すべての証言の根底に流れる共通の認識、即ち本質を全力を挙げて捉えること。そうすればこの悲痛に満ちた女性たちの証言の底に流れる通底音、それが「祖国防衛のために私たちは皆戦場に赴くことを切望した。そして独ソ戦の戦地・戦場に立ち、愛する祖国、社会主義ソビエトのために、命がけで戦ったことを人生最大の誇りにしている」であることが容易に分かるであろう。アダモヴィッチの評価『戦争は女の顔をしていない。しかし、この戦争で我々の母親たちの顔ほど厳しく、すさまじく、また美しい顔として記憶された物はなかった』はまったく正しい。

 第2、ここに紹介されている証言・事実を深く理解せんとするなら、ロシア革命の歴史について、史上初めてのレーニンスターリンによる社会主義建設40年の歴史について、或いはナチス・ドイツ社会主義ソビエトとの対戦史について、反ファシズム解放戦争としての第2次世界大戦について、ぜひとも哲学科学的認識を深めなければならない。俯瞰的観点(大局的観点)抜きには細部の真実も見通すことはできない。「木を見て森をみず」という格言がある。細部のみを見て全体・全局を見ないなら、その人は森の中で迷子になってしまい、目的地に到達することができない。作者も訳者も「戦争前に軍の幹部を粛清し、軍の力を弱めるようなことをなぜ行ったのか?」というような疑問を提起しているが、こうした問題は、フルシチョフによる「スターリン批判」の影響的産物でもあり、哲学科学的認識抜きには絶対に解明できない問題である。

 第3、どんな問題もその時代状況と力関係の産物であり、歴史の発展段階と発展水準、力関係の水準を超えた問題解決はありえない。このことを踏まえて事実を観察し、評価しなければならない。戦後、従軍女性たちは戦場の体験を誇り、語ることを許されず、「女のくせに…」「女だてらに…」と陰口され、沈黙を強制された。戦地では身を以て庇ってくれた男たちも、普通の生活に戻るや、一般の男に逆戻りし、女性たちを置き去りにしてしまった。まさに「男社会」そのものである。しかし、それが当時の社会主義ソビエトの歴史的発展水準であった。土台における階級制度が改善されても、自動的に直ぐに上部構造の様々な思想認識・社会的意識が変化、改善されるわけではない。マルクスエンゲルスレーニンが語っているように、何千年も続いた階級社会が生み、育てて来た旧い思想認識・社会認識が克服されるには長い長い時間と経験を要するのである。

 以上である。

 大木氏は『独ソ戦』の「文献解題」の中で、アレクシェーヴィチさんのこの著作に触れており、どうやら執筆前に読んでいるようだ。後で詳しく触れるが、大木氏は先に提起した3つの観点について、特に「祖国たる社会主義ソビエト」について、まったく理解していない、否、理解でき得ないでいる。これでは「独ソ戦の真実」を語ることはできない。

ナチス・ヒットラーとファシズムを倒したのは誰か ~スターリン・社会主義ソビエト・独ソ戦争の真実~ (第1回)

202281日更新  次回更新は8月10日

 〈はじめに〉

 現在、世界中で「スターリン批判」なる“妖怪”が跋扈している。その直接の要因・原因は、「米・ロ」の帝国主義戦争(利己的民族主義者同士の領土・国境争い)たる「ウクライナ戦争」の勃発にある。この戦争の中で、「ロシア帝国」の大統領プーチンは、その侵略主義を正当化するために、「ナチスファシストを打ち破った独ソ戦争はロシア民族の偉大な勝利であり、誇りである。我々は再び必ず米国と西側のファシストの手から神聖なかつての我が領土ウクライナを解放する」とし、2022年の「5・9戦勝記念日」(1945年5月9日、ナチスドイツが降伏文書に調印し、ソビエト独ソ戦争に完全に勝利した記念日)を大々的に祝い、自らの「ウクライナ侵略」の美化を図った。だが言うまでもなく、ナチスを倒した独ソ戦争は、社会主義ソビエトのものであり、スターリンのものであり、第二次世界大戦を戦った全世界の人民のものであり、断じて「プーチンとロシア民族・ロシア帝国の手柄」などではない。ナチスドイツ・ファシズムからの解放を闘い取った「独ソ戦争」と帝国主義侵略戦争たる「ウクライナ戦争」とはまったく違う性質のものであり、何の共通性もない。むしろプーチンの言っていることやっていることはヒットラーと同じである。プーチンの言動は「偉大で英雄的な独ソ戦争・スターリン社会主義ソビエト」に対する卑劣な冒涜以外の何ものでもない。

一方、米国とNATOもまた、封建時代のロシア皇帝ピョートル大帝プーチンスターリンとを横並びさせ、「昔も今も、独裁と専制主義はロシア民族の伝統だ」とし、「プーチンの独裁は、ヒットラー独裁の同類たるスターリン独裁とまったく同じものだ」と断じ、ここぞとばかりに、プーチンになぞらえて、「スターリン独裁批判」を繰り返している。

 こうした「スターリン冒涜」「スターリン批判」が公然と語られ、世界中に広められた最初の最大にして決定的な原因は、1953年3月のスターリン死後開かれた、1956年2月の「ソビエト共産党第20回大会」において、当時の党の最高責任者たるフルシチョフ第1書記が内部における組織的討議抜きに勝手に行った秘密報告―いわゆる「スターリン批判」―にある。その内容は数ヶ月後の6月4日、アメリ国務省によって全世界に大々的に公表され、衝撃を与えた(フルシチョフと米国務省は互いに通じ合っていた)。その内容はまことに驚くべきもので、まさに「スターリンは血の粛清をやった独裁者」というものであり、世界中の人々を唖然とさせた。

 当時、世界の労働者、人民、一般世論がスターリンをどう見ていたのか。当時の記録を紐解いてみよう。

 1953年(昭和28年)3月5日のスターリン死去に際し、3月6-7日付『朝日新聞』は、その死去発表、葬儀の様子、スターリンの人となりについて、客観的に、また事実に沿って、次のように報じている。

 『ソ連共産党中央委員会、ソ連閣僚会議(政府)、ソ連最高会議幹部会は六日次の通り発表した。

ソ連共産党員およびソ連全労働者諸君、親愛なる同志および友人たちよ、ソ連共産党中央委員会、ソ連閣僚会議、ソ連最高会議幹部会は深い悲しみをもってソ連共産党および全労働者諸君に対し、三月五日九時五十分(注:日本時間六日午前三時五十分)ソ連閣僚会議議長(首相)、ソ連共産党中央委員会書記ヨシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ・スターリンが死去したことを発表する。

 同志の魂であり、レーニンの意志の継承者であり、また共産党ソ連国民の賢明なる指導者であり、教師であったスターリンは呼吸を止めた。スターリンの名はわが党ソ連国民および世界の労働者にとって無限の親しみを与えている。同志スターリンレーニンとともに強力なる共産党を作りあげ、これを育成強化した。同志スターリンレーニンとともに偉大なる十月革命の鼓吹者、指導者であり、そして世界初の社会主義国家の創設者であった。同志スターリンレーニンの不滅の教義を継承し、わが国においてわが国民を社会主義の世界史的勝利に導いた。同志スターリンは全国際舞台に激変をもたらした第二次世界大戦において、わが国民をファシズムに対する勝利に導いた。

その一生を共産主義に対する無私の奉仕にささげた同志スターリンの死は、ソ連共産党ソ連の労働者および全世界にとって測り知れない損失である。同志スターリンソ連において共産主義を建設するという偉大な明快な計画をもって党および全国民を武装した。同志スターリン死去の報道はわが祖国の労働者、集団農場の農民、知識級階、全労働者、わが輝かしき陸海軍の戦士の心に、また何百万の全世界の労働者の心に深い痛心をもたらすであろう。…』

 「手離して泣く運転手 死の街と化したモスクワ  【モスクワ六日発=エディー・ギルモア記者六日発=AP】一般ソ違国民にとってどうしても考えたくないことがついに起った。クレムリンのヨシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ・スターリンが死んだのである。六日の朝まだき、記者 (ギルモア記者)は雪深いモスクワの街を自動車で走っていた。このとき車内のラジオが「同志スターリンは発病してから四日後の五日午後九時五十分遂に死去した」と放送した。運転手は以前ソ連陸軍の軍人であったそうだが、この放送を耳にしてぼう然としてしまい、中央電信局へ自動車を運転して行くことができるかと危まれるほどだった。彼のほおからは涙がボトボト落ちた。そして「かんにんして下さい。 彼こそ真の人間だったのです」というのであった。多くのソヴィエト市民の気持ちはおそらくこの一言に尽きていると思われる。…まだ夜の明けきらぬうちからモスクワの人々は黒い布をつけた国旗を建物に掲げ出した。…この日、モスクワは何もかも死んだようだった。ずべての人が打ち沈んでいた。赤の広場もほとん物音なく、静けさそのものだった。クレムリン宮の上にかかる半旗がとくに印象的だった。なおスターリンの遺体が安置された労働組合会館は赤の広場からほんの二、三百メートルしかれ離れていない。…レーニンが一九二四年に死去した際にもここに遺体が安置された。」

 「花に埋れた遺体 市民の告別はじまる  【モスクワ六日発=AP】六日午後、スターリン首相の遺体をのせた霊柩車がクレムリンの聖スパッシー門をくぐって労働組合会館へと静かに向かうと、数千の民衆は赤の広場に集って声をのんでこれを見送った。会館に安置された遺体は美くしい花や花輪の山にうずもれた。会館の前にももう数千の人たちが一列に並んで待っていた。やがて、民衆のための門が開く。人々は二列になって廊下を通り、しのびやかに階段を上って大広間の中央へ進む。そして、花に囲まれて眠る「同志スターリン」に悲しい“ダスヴィダーニヤ”(さよなら) するのであった。人々の列は終りがないようにみえる。こうしてこの告別は昼夜を問わず葬儀の日まで続けられるのである。」

 (注:こうしたスターリン葬儀の情景は、2020年末に日本でも上映された、ウクライナ出身のセルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリー映画国葬』にあますところなく描かれている。この作品については、同年の11月13日付『読売新聞』も、その映画評において「特に頭と心を揺さぶったのは『国葬』で映し出されたスターリンを見送る群衆の顔であった」と評している)

 「冷徹の人・スターリン 敵側には”恐怖” ”大衆”への愛情で貫く【注:朝日新聞の無署名論評】 ソ連の、それは古いロシアから通じての、そしておそらくは世界の歴史の中においてもごくまれにしか出ないであろうと思われるヨシフ・スターリンソ連首相は…5日夜遂に死亡した。…世界が二つの陣営に分れて冷たい対立を続けている現状では、今は亡きスターリンは西側陣営にとってはむしろ『恐怖』に近い存在だったという事実は否めないようだ。…たしかにスターリン首相はその敵にとっては対外面ばかりでなく対内的にも『恐ろしい』存在だったことは事実のようだ。…(注:西側陣営と反対者によって)スターリン首相については彼のこうした冷たい面の報道のみが比較的多く伝えられているが、人間スターリンはこれだけの人ではないようだ。たとえば第二次大戦を連合諸国が勝利に終えて、一九四五年六月廿五日、クレムリンのまばゆいばかりの大広間で戦勝祝賀の宴が開かれたことがある。この席には武勲かくかくたるソ連の将軍たちがキラ星の如く並び、外国武官たちも数多く出席していた。しかしこの一番はじめにスターリン首相のいった言葉は何だったろう。それは『小さなネジのために乾杯しよう』というのである。つまり『この戦いを勝利に導いた最高の功績者はここに並んでいる将軍諸君ではなく、名も知れずソ連国家の各部署をつつましく守っている素朴な大衆の一人一人だ』というのである。

 この言葉は彼の政治家としての素質を示しているが、やはりその裏には「大衆」というものに対する本当の愛情なしにはでてくるものではないだろう。要するに彼は非常に幅の広い人間であり、それは彼の数十巻にわたる著書を見ても分る。その中にはマルクス主義の理論があることはいうまでもないが、言語学、芸術論、戦略論などほとんど社会百般の領域がとり上げられている。そしてこれらの名著はマルクスレーニンのそれと同じくソ連国民の、そして世界の人々に末永く記憶され続けてゆくであろう」と。

 こうした新聞記事の中に、当時の人々、当時の国際世論が、生前のスターリンをどのような人物として見ていたか、鮮明に見て取れる。まさにスターリンは「敵からは虎の如く恐れられ、大衆からは父のように慕われた」偉大な革命家であった。

 フルシチョフが党の組織に図ることなく勝手に行った「秘密報告」は、こうしたスターリン評価を根本から否定し、覆すものであり、「スターリン社会主義ソビエトの敵たち」―米帝反共主義者たち―にとっては大歓迎の代物であった。アメリカと西側は、ここぞとばかりに、マスコミを総動員し、総力をあげて「粛清と独裁者スターリン」の悪宣伝を繰り広げ、攻撃を加えたのである。

 後で詳しく述べるが、勿論、スターリン時代のソビエト社会主義にも「未解決の問題」はあった。特に後継体制問題は未解決であった。しかし、こうしたことは当然ありうることである。誰だって、こうした「未解決問題」(外には出せないような問題もある)を抱えて生きているのであり、そうした問題は、人生経験を積んで、即ちやってみて、よく考え、反省し、学びながら、一歩一歩解決を図り、自己の成長を図っていく、のである。それが「誠実な人間」の生き方であろう。フルシチョフのやったことは―しかもスターリンが生きている間は媚びへつらい、亡くなったとたんに「スターリン批判」を始めたことは―「誠実さ」とはまったく無縁の非人間的な「卑劣さ」そのものであり、決して許されるものではない。会社経営を経験した人ならすぐに分かることであるが、例えば、会社を発展させた立派な先代社長が亡くなった後、生前はその功労者に「忠誠」を誓っていた経営幹部が、社内のいくつかの未解決問題を、内部的論議抜きに、いきなり株主総会で「秘密報告」を行い、世の中に公表し、激しく争っている敵―競争相手―を利するような「利敵行為」を行ったとしたら、どうであろうか?とても許せないはずである。

 現在世界に広められている「スターリン批判」は、フルシチョフのような「品性下劣な人物」「ソビエト内部の裏切り者」とアメリカ・西側陣営のような「スターリンの思想・政治・社会主義運動そのものを激しく憎悪する人々」によって広められたものであり、極めて一方的な、歪められた「評価」なのである。こういう「評価」を何の疑問もなく、「素直」に受け入れることは到底認められるものではない。 

 ここで、私自身が何故「スターリンを擁護し、高く評価する」側に立つことになったのか、その経緯を説明しておこう。

私は1944年(昭和19年)夏に東京で生まれた。私が1歳の誕生日を迎える2ヶ月前、父親は徴用で駆り出された鋳物工場での重労働が祟り、肺病を患い、病死した、1945年春、母(32歳)は3月10日の米軍大空襲に遭遇し、私と三つ上の兄の二人を連れて、命からがら百姓家であった信州の実家に疎開した。実家は12人が共に暮らす大家族小百姓で、大して田畑も持っておらず、当然東京から転がり込んで来た我が家は「厄介者」でしかなかった。母は日雇いの植林作業員、土方、雇われ百姓として懸命に働き、われわれを育ててくれた。当時の田舎は封建性が色濃く残った男社会であり、女性差別・蔑視が激しく、若い「未亡人」であった母は低賃金と差別と屈辱に泣く日々を送らざるを得なかった。私はそんな母親を見て育った。言うまでもなく、こうした塗炭の苦しみ、極貧に泣いた「片親(戦争未亡人)家庭」の悲劇は日本中至る所にあり、決して我が家だけの問題ではない。大学に入って読んだ『あの人は帰ってこなかった』(菊池敬一・大牟羅良著 1964年刊 岩波新書)には、戦後のその生々しい実態が、岩手県の奥地の農村部に暮らすそうした未亡人たちによって、余すところなく語られている。

 こうした家庭に育ち、母・兄・親戚の叔父たちの援助で何とか大学に進むことができた私にとって、戦争と平和の問題は重大な関心事であった。そして私は、1960年代の全国の大学で燃え上がった全共闘運動に遭遇し、これに参加し、ベトナム反戦運動にも加わっていった。そして、戦争について、特に第2次世界大戦について、今まで以上に深く真剣に考えるようになった。特に私は「反戦だけでなく、戦争そのものを如何に失くすかが大事だ」と考えるようになっていた。その結果、当時の学生運動の影響下、マルクス主義的哲学・歴史観・戦争観・国家観に強い関心を持つようになった。

 そして、全共闘運動の中で、私は「代々木共産党」(宮本修正主義)や新左翼各派と「徳田球一スターリンの評価」を巡って、明確に対立するようになる。ただ当時の私は理論的に「評価」していたわけではなく、「徳田球一はあの暗黒の時代に軍国主義権力に屈することなく獄中18年を闘い抜いた素晴らしい革命家であった」「スターリンソビエトは、何よりも、独ソ戦争を勝利させ、世界中を苦しめたナチスヒットラーを打ち破り、大戦を終決させた優れた指導者であった」という、素朴な立場からの評価であった。これに対し、「代々木共産党」も「新左翼」も、それぞれの理論的立場(議会主義・平和革命論、トロッキズム等々)から、徳田球一スターリンを全面的に否定・清算し、一顧だにしようともしなかった。私は、戦争の悲劇を味わった人間の一人として、侵略的ファシズムに反対して命懸けで戦った人々、その先頭に立って不屈に戦った指導者である徳田球一スターリンに対して、無条件の尊敬と感謝の気持ちがあった(「日本は戦争の悲劇と犠牲を通じて素晴らしい平和と民主主義を手に入れた」という人に対して、「戦後日本のそうした平和と民主主義は、スターリンソビエトを先頭とする国際的な日独伊ファシズム打倒の戦い、血の犠牲があったからこそ実現されたものであり、何よりもまず彼らに対して感謝すべきではないのか」と言いたい)。スターリンの「独裁」や「粛清」についても、「ナチスドイツ・ファシズムを打倒した英雄的戦い」と一体のものとして論ずべきであるとの考えであり、ただ歴史の一部分(断片)だけを取り出して一方的に批判するやり方には反対であった。

 全共闘運動が「敗北」する中、私は大学を中退し、本格的にマルクス主義の独学を開始し、特にマルクス主義哲学・史的唯物論を学んだ。そして、徳田球一スターリンに対して「彼らは偉大なマルクス主義者であり、革命家であり、その革命的精神を断固擁護し、学ぶべきべきである」という明確な結論に到達した。特に私は「止揚」(正しい核心を継承し、不十分を克服し、運動を発展させる)というマルクス主義哲学思想に大きな影響を受けた。そして、既に1950年代半ばからマルクス主義哲学思想にもとづく正しい「徳田球一スターリン評価」を確立・堅持して闘っていた日本人民戦線運動に巡り合い、これに参画し、今日に至っている、というわけである。

 「人類の最大の敵とされたナチス・ドイツ、日本軍国主義ムッソリーニのイタリア、このファシズム三国同盟を倒し、世界をファシズム支配の惨禍から解放したのは誰か。その中心に立ったのはスターリン徳田球一らであった。その闘いを勝利させる過程で、独ソ戦の前哨戦としての粛清問題が発生したのであり、その闘いがあってこそナチス・ドイツに打ち勝つことが出来たのである。何はともあれ、まずはスターリン徳田球一を優れた指導者としてきちんと評価し、敬意を示し、そこから学び、その戦いと運動を止揚する(継承し、克服し、発展させる)こと、それが我々のとるべき当然の態度ではないのか。レーニンスターリン社会主義建設40年の偉大な勝利、スターリンを先頭とした反ファシズム解放戦争の偉大な勝利は、まさに不滅であり、歴史は必ずその復興・復活を成し遂げるであろう」と。これが、日本人民戦線の堅持している歴史認識であり、私自身の到達点、結論である。

 

アメリカ発世界恐慌(1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第13回 最終回 )

(13回・最終回とし、「ソビエト社会主義建設」については「ナチスヒトラーを倒したのは誰なのか?」で扱うことに) 

 マルクス・エンゲルス以後、歴史は、帝国主義時代(独占的大資本+他民族支配)に到達していく。恐慌からの脱出を実現させるために、「生産力(工場)」「生産物(商品)」の「大量の浪費」を生みだすべく、独占段階に到達した資本家たちは、様々な方法を考えだし、編み出し、或いは利用していった。その最たるものが「戦争」という「浪費」「市場拡張」である。過剰生産物の販路・市場を拡大すべく、他国に、特に未開の国に侵略し、新たな搾取と利潤を生みだし、またそこに生まれる軍事行動、戦争、新しい市場で「過剰」を解消させ、或いは「恐慌」からの脱出を図ったのである。こうした帝国主義時代の到来は、資本主義が既に健全な成長と発展を遂げることができなくなってしまったことを物語ってもいたのである。

 更に、第2次世界大戦の中からうまれた 「ケインズ経済学」は、国家財政・国家予算・国家債権を使って「新事業」を起こし、或いは「過剰品の買い取り」を実行し、「恐慌」を回避させるという巧妙な方策を編み出した。しかし、それは「一時的な成功」をもたらすことはあったが、結局は「インフレ政策」と言われ、結果、必ず最後は激しい「インフレ」(貨幣価値の下落とその結果としての商品の値上がり)や「バブル」(世の中に大量のおカネがあるのに、生産活動を活発にするような投資先が無く、株や土地など特定の商品に投資が集中し、その空売り的売買のみで儲けるという、見せかけだけで実体がない、泡のように儚い、直ぐに弾けて消えるような空虚な景気・経済)を引き起こしていった。つまり、そんな小手先の「ケインズ経済学」では、もはや、ずっと深い次元で蓄積されている「過剰生産状態」は解消できなくなっているのである。

 21世紀の初め、日本では「アベノミクス」というケインズ的インフレ政策が、「冬の時代にある日本経済を蘇らせ、高成長を復活させる画期的な大政策」として、鳴り物入りで登場したが、結果は大失敗に終わり、いまだに日本は「経済停滞」のままであり、国際的な経済競争に遅れをとり、その地位を低下させ続けている。

 こうした資本主義の現状を、的確に捉えたのは、近代経済学ケインズ経済学)を学び、金融資本業界で活動して来た、水野和夫氏であり、何年もベストセラーにランクインしている水野氏の著作『資本主義の終焉と歴史の危機』(2014年刊)である。

 彼はこの著作で次のように断言している。『資本主義の死期が近づいているのではないか。その理由は…端的に言うならばもはや地球上のどこにもフロンティアが残されていないからです』と。この指摘に始まり、『そもそもグローバリゼーションとは、「中心」と「周辺」からなる帝国システム(政治的側面)と資本主義システム(経済的側面)における…「中心」と「周辺」の組み替え作業なのです。…20世紀末までの「中心」は「北」(先進国)であり、「周辺」は「南」(途上国)でした。しかし21世紀に入って、「中心」はウォール街となり、「周辺」は自国民、具体的にはサブプライム層(注・世界の非正規労働者や失業者や貧困層を指す)になるという組み換えが行われました』と。

 そして『(このような)資本主義が地球を覆い尽くすということは、地球上のどの場所においてももはや投資に対してリターン(見返りとしての利潤)が見込めなくなることを意味する。…このような状態ではそもそも資本の自己増殖や利潤の極大化といった概念が無効になりますから、近代資本主義が成立する余地がありません』と結論付けた。

 水野氏が、この著書のような結論に到達していった切掛けは、1997年の北海道拓殖銀行山一証券が破たんした日本金融システムの危機にあったという。この時、氏は証券会社でマクロ経済の分析をしていたそうで、バブル崩壊金利が2パーセントに低迷した際、最初のころは一時的な落ち込みと判断していたが、いくら経っても、「戦後最長の景気回復」を経験してもこの低金利は一向に「改善」されることはなかった。なぜ? その謎解きに取り組む中で、氏はイタリア・ジェノバで起きた「利子率革命」(低金利時代への突入)―「長い16世紀」(中世封建社会の崩壊期)を知り、現代がまさに当時と全く本質を同じくする「長い21世紀」(近代資本主義の崩壊と新しいシステムの社会の幕開け)の真只中にあることに思い至ったのだという。歴史的事実を真剣に、率直に、素直に、マクロ的に、俯瞰的に、ありのままをリアルに見る時、自ずから真実が浮かび上がってくる。それは必然であり、決して偶然の事ではない。

 私有財産制度・私的所有制度を原理とする資本主義の限界は、今や「近代経済学者」にも明らかになってきた。恐慌は、ブルジョアジーにはもはや近代的生産力をこれ以上管理する力が無いことを暴露した。結局、人類社会は、新しい社会的共同所有を原理とする社会主義(国有化と計画経済)へと転換する以外に、生き延びていくことができないことが鮮明になってきた。

 エンゲルスは、資本主義が「社会主義」へ移行せざるを得なくなっている「予兆」として、資本主義下において生まれているいくつかの「国営企業」「国営事業」を取り上げている。「独占資本」や「トラスト」(独占資本の企業連合)の発生それ自身、経済活動の「社会化」「計画化」への接近であり、至る所に「社会主義の予兆」が見られる。独占資本主義国家のもとでの国有は、まずは郵便、電気、そして鉄道などの大規模な交通・通信・輸送機関において実行に移された。これらの産業は、まさに「引き受けざるをえない」ものであった。こうした国有化をエンゲルスが生きていた時代に最も熱心に推進したのは、ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクであった。この時代、「ビスマルクの国有化」を「社会主義」という、似非社会主義者が現れた。こうした風潮を知り、エンゲルスは、はっきりと次のように言明した。

『(独占資本的大)株式会社になっても、トラストになっても、また国有が実行されたとしても、生産力の資本的性質がそれによって廃棄されない。…近代国家もまた…資本主義的生産方法の一般的な外的諸条件を維持するために、ブルジョア社会が作り出した組織であるにすぎない。近代国家は、どんな形をとろうとも、本質的には資本主義の機関であり、資本家の国家、観念としての全資本家である。国家は、生産力の所有をますますその手に収めれば収める程、いよいよ現実の全資本家となり、ますます国民を搾取する。…生産力の国有化は、衝突の解決ではないが、それ自身の内には、この解決の形式的手段、即ちそのハンドル(予兆のこと)がかくされている』と。

『(資本家は)生産手段または交通機関が成長して現実に株式会社では管理ができなくなって、経済的にいってそれを国有にするしか方法がなくて、国有化をするのだが、その場合それを今日の国家(帝政ドイツのような国家)がやっても、それも一つの経済的進歩である』と。

『恐慌は、ブルジョアジーには、近代的生産力をこれ以上管理する力がないことを暴露した。同様に、大規模な生産や交通機関が株式会社やトラス トや国有に転化することは、これらの目的のために、ブルジョアジーが不用であることを示する のといってよい。資本家の一切の社会的機能は今や月給取がやっている。資本家は、収入をまき あげること利札を切ること、取引所で投機をやり、資本家同志たがいに、資本を奪い合うこと 以外に、何らの社会的な仕事をしないのである。資本主義的生産方法は、はじめは労働者を駆逐したが、今や資本家を駆逐し、彼らを労働者と全く同じように、過剰人口の列の中に追いやるの である、たださしあたって彼らはまだ産業予備軍ではないだけだ』と。

 さて、ここで、再び「リーマンショック恐慌」に戻ろう。

 資本主義の危機に際し、多くの資本主義国家は、その「過剰生産」を克服すべく大慌てで、大量の貨幣を発行し、景気の刺激を試みる。が、行き先を欠いてあり余ったカネは値上がりしそうな特定の株やモノに集中投資され、激しいバブルを引き起こす。その空虚な好景気―バブル―は、やがて弾け飛び、株やモノの価格暴落が始まり、深刻な恐慌へと転落していく。1929年大恐慌も、リーマンショックも、まさにそうした必然の産物であった。

 ヌリエル・ルービ二NY大学経営大学教授は、スティーブン・ミームジョージア大学歴史学准教授との共著『大いなる不安定』明確に次のように言っている。

『(恐慌について)もっと暗い見方を示した思想家もいる。賛否両論があるカール・マルクスである。ミル、ジェボンズら、十九世紀の経済学者の大部分とは違って、危機は資本主義に不可避なるのであり、資本主義がいずれかならず崩壊することを示すものだと主張する。スミスが資本主義を賞賛するた めに『国富論』を書いたとするなら、マルクスは資本主義を葬るために『資本論』を書いたといえるのである。マルクスによれば、歴史を動かしているのは対立しあう二つの社会グループ間の闘争である。一方には資本家階級(ブルジョワジー)がおり、工場などの「生産手段」を保有している。他方には土地などの生産手段をもたない労働者階級(プロレタリアート)がおり、その 数が増えつづけている。マルクスの分析で中心になっているのは、財の真の価値はその生産に使 われた労働に依存するという主張である。資本主義者がコストを削減しようとして労働者を機械 に置き換えていくと、利益は逆に減少する。利益が減少すると資本主義者はさらにコストを削減 しようとし、やがて生産の過剰と雇用の不足によって経済は危機に陥る。そうなると、厳しい海 汰によって倒産と統合の波が起こる。いずれ、最後の危機を契機に、労働者階級による革命がこるとマルクスはみていた。

 一八四八年に(ミルの『経済学原理』と同じ年に)発行された『共産党宣言』で、マルクスは 資本主義の不安定性を生き生きと描いている。「近代ブルジョワ社会は、地下の魔物を呪文で呼 び出したものの、使いこなせなくなった魔法使いに似ている。......商業恐慌が周期的に起こり、 そのたびに脅威が増して、ブルジョワ社会全体の存立を脅かす」。危機は深まるばかりである。「こ の危機をブルジョワジーはどうやって乗り切るのか」と問いかけ、こう答える。「一方では大量 の生産力をむりやり破壊することによって、他方では新市場を征服し、古くからの市場をもっと 微底して搾取することによって」。だがこの解決策では、最後の危機を遅らせることしかできない。 「もっと広範囲でもっと破壊的な危機への道を整え、危機を防ぐ手段を破壊するからだ」。マルクスの思想は以上の要約が示すものよりはるかに高度であり、いまでも賛否両論がたえな点は、資本主義が本質的に不安定であって、危機に陥りやすいことをは じめて見抜いた思想家であることだ。マルクスによれば、資本主義は混乱を本質としており、か ならず深淵へと転落し、経済を道連れにする。したがって、それまでの経済学者が資本主義を自 已調整型の信頼できるシステムだとみていたのに対して、まったく違った資本主義像を提示した のである。資本主義は滅亡を運命づけられているという。これまでのところ、この主張の正しさ は実証されていない。しかし、もっと大きくみて、危機が資本主義に付きるのだという指摘はきわめて重要である』と。

 更に、その後の何章かでは、ヌリエル教授は、今回のリーマン危機そのものについて論じていく。

『当時(1929年大恐慌)も、いまと同様に、不動産と株式の投機的バブルが起こり、金融規制は最小限しかなく、金融のイノベーションが活発だったことから、バブルが巨大になって、それがはじけたとき、金融システム全体がほぼ崩壊し、産業界では景気の落ち込みが深刻になり、世界的な暴落が起こる状況になった。今回の危機が八十年前に起こった破局と恐ろしいほど似ているのは偶然ではない。大恐慌の 原因になったのと同じ要因が、今回の大不況にいたる何年か前にもはたらいていたのである。

 現代資本主義の歴史をみていくと、危機は例外ではなく、常態である』と。

「1929年大恐慌」に際して、ルーズベルト新大統領とアメリカ政府は、1400万人に及ぶ失業者の貧苦と怒り、全戸の5分の1が破綻した農民の激しい怒りと反乱を回避すべく、大型公共事業で不況と失業を克服するという「ニューディール政策」を採用した。がしかし、一時的効果はあったものの、完全回復は望むべくもなかった。

 実に、この1929年大恐慌埒外にいたのは、既に述べた通り、ソビエト社会主義連邦のみであったのだ。

 結局、世界のどの資本主義諸国も、この1929年のアメリカ発世界恐慌を克服・解決することはできなかった。そして、1937年に再び深刻な恐慌が世界を飲み込み、世界の資本主義国は一様に、保護貿易主義・ブロック経済に走り、再び帝国主義的な植民地再分割へと突き進み、第二次世界大戦へと突入していくのである。

 これは現代においても同じである。「恐慌」と「戦争」は切っても切れない関係にある。現代史を見る時、この視点が絶対に不可欠なのである。

 現在、世界全体で支出される軍事費は2020年の1年間で1兆9810億ドル(約213兆円)。日本はその2.5%にあたる491億ドル(5兆2620億円)を支出。これは世界9位の水準だ。日本の国内総生産GDP)に占める軍事支出の割合は、88年から20年まで一貫して0.9~1.0%の水準を維持している。

 日本の軍事支出は、88年には3兆6700億円だったが、90年に4兆円台に突入し、90年代を通して増加傾向を続けた。2000年代以降は概ね5兆円前後で推移していたが、19年、20年と続けて5兆2000億円台となるなど、ここ数年は増大傾向になり、2021年には軍事費は年6兆円に達している。

 スウェーデンに本部があるストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が公表した2020年の世界の軍事支出に関する調査によると、日本の軍事支出は491億ドル(5兆2620億円)で前年と同じ世界9位だった。世界全体では推定で前年比2.6%増の1兆9810億ドル(約213兆円)となり、統計を継続的に取り始めた1988年以降で最高となった。まさに「膨張止まらず」である。

 2020年の世界の軍事支出のGDPに占めるの割合は2.4%で、軍事費トップの米国は3.7%、中国は推定で1.7%、インドは2.9%だった。世界の軍事支出上位10カ国は、7780億ドルだった米国を筆頭に、推定で2520億ドルの中国、729憶ドルのインドと続き、以下、ロシア、英国、サウジアラビア、ドイツ、フランス、日本、韓国の順となり、前年とほぼ同じ顔ぶれだった。上位15カ国の合計は1兆6030億ドルで、全体の81%を占めた。

 「恐慌」が常態化する中で、経済の「戦争化」(軍事化)がすさまじい勢いで進んでいるのである。

              (2021年12月 執筆完了)

 

アメリカ発世界恐慌(1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第12回)

 最初の全般的恐慌が勃発したのは1825年で、それ以来、工業と商業の世界の「悪循環」を調整する「恐慌」がくり返され、ほぼ十年に一回、文明社会は大混乱におちいった。交易は停止し、市場は充満し、生産物は山と積まれて買手がなく、現金は姿を隠し、信用は消え、工場は閉鎖し、労働大衆はあまりに多くの生活手段を生産したために、逆に、生活資料にことかき、破産は相次ぎ、競売、競売、また競売である。

 こうした不況は数年間続く。生産力(工場)も生産物(商品)も大量に浪費され、破壊される。つまり倒産、商品の投棄、投げ売りされ、山積された商品が多かれ少なかれ減価して、生産と交換とが再び動き始めるまで、こういう状態がつづく。

 かくして、恐慌は、ブルジョアジーにはもはや近代的生産力をこれ以上管理する力が無いことを暴露した。結局、人類社会は、新しい社会的共同所有を原理とする社会主義(国有化と計画経済)へと転換する以外に、生き延びていくことができないことが鮮明になってきた。

エンゲルスは、『空想より科学へ』のなかで、恐慌を通じて、自由競争的資本主義から独占的資本主義の移行が始まっていったことを明確に書き記している。

 激しい自由競争の結果として、強い資本が生き残り、やがて独占的大資本が生まれていく。国内における同一産業部門の大生産者たる大資本家たちは合同して一つの「トラスト」―生産統制を目的とする合同―である。彼らは、その「無政府的生産活動」の結果生まれる過剰性生産・恐慌を回避すべく、生産量を統制し、販売価格を協定し、市場に押し付ける。しかし、それでもうまくいかず、ついには一産業部門全体が唯一の大株式会社、即ち独占資本に変えられる。自由競争は独占に変わり、資本主義的無政府性も独占的計画性に変わる。まさに、生産活動の「社会化」であり、資本主義は「社会主義的計画性」に降伏し、それを採用せざるを得なくなっていくのである。しかし、大衆は、こうした一握りの「独占資本家」たちの露骨な生産の独占的私有を許さない。そこで、いくつかの独占支配の産業は国有化され、「全国民」の所有となる。

 エンゲルスは、資本主義が「社会主義」(生産の社会化)へ移行せざるを得なくなっている「予兆」として、資本主義下において生まれているいくつかの「国営企業」「国営事業」を取り上げている。「独占資本」や「トラスト」(独占資本の企業連合)の発生それ自身、経済活動の「社会化」「計画化」への接近であり、至る所に「社会主義の予兆」が見られる。独占資本主義国家による国有は、まずは郵便、電気、そして鉄道などの大規模な交通・通信・輸送機関において実行に移された。これらの産業は、まさに「国家」が「引き受けざるをえない」ものであった。

こうした「国有化」をエンゲルスが生きていた時代に最も熱心に推進したのは、ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクであった。この時代、「ビスマルクの国有化」を「社会主義」だという、似非社会主義者が現れた。こうした風潮を知り、エンゲルスは、はっきりと次のように言明した。

『(独占資本的)株式会社になっても、トラストになっても、また国有が実行されたとしても、生産力の資本的性質(私有財産制)がそれによって廃棄されるわけではない。…近代国家もまた…資本主義的生産方法の一般的な外的諸条件を維持するために、ブルジョア社会が作り出した組織であるにすぎない。近代国家は、どんな形をとろうとも、本質的には資本主義の機関であり、資本家の国家、観念としての全資本家である。国家は、生産力の所有をますますその手に収めれば収める程、いよいよ現実の全資本家となり、ますます国民を搾取する。…生産力の国有化は、衝突の解決ではないが、それ自身の内には、この解決の形式的手段、即ちそのハンドル(予兆のこと)がかくされている』『(資本家は)生産手段または交通機関が成長して現実に株式会社では管理ができなくなって、経済的にいってそれを国有にするしか方法がなくて、国有化をするのだが、その場合それを今日の国家(帝政ドイツのような国家)がやっても、それも一つの経済的進歩である』と。

 こうして、独占に到達していった資本主義は、19世紀末―マルクス・エンゲルス死後―帝国主義へと転換を遂げていく。この帝国主義時代の経済的矛盾・恐慌問題について、理論的解明を行ったのがロシア革命の指導者、革命的マルクス主義者・レーニンであり、その著作『資本主義としての最高の段階としての帝国主義』(1916年)である。

 

 

アメリカ発世界恐慌(1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第11回)

第7回の冒頭に次のように記した。

『第1次大戦後、しばらくは、アメリカは未曾有の好景気「黄金時代」に酔いしれることができた。しかし、ヨーロッパの戦後復興が始まり、特にヨーロッパでも農業生産が再開され始めると、まずアメリカ農産物の輸出が減り、農産物価格が低落し、農民の収入は激減し、農民の生活困窮が始まった。工業部門は、競争力の強い自動車産業は好調を維持していたが、石炭・紡績部門は不振に陥っていた。当然のことながら、戦争特需が終わった結果、農業部門だけでなく、工業部門の実態経済は、確実に「過剰生産」になっていたのである。

しかし、アメリカ国民も、経済界も、クーリッジ大統領(在任は1923~29)と政府も、こうした実態経済にまったく目を向けていなかった。それは、当面、株式市場は右肩上がり状態の中にあり、世論の勢いや雰囲気は「黄金時代」の夢の中にあり、酔いから覚めることなく、人々は「合衆国は買いだ!」と信じ続けていたからである』と。

キーワードは「過剰生産」である。生産物が過剰であるだけでなく、生産力(生産設備)の過剰でもあった。そして、重要なことは、それは資本主義特有の「問題」であったことである。というのも、第1次世界大戦のさなかの1917年に社会主義革命を勝利させ、英米仏日など帝国主義列強の干渉戦争に勝利したソビエトロシア・社会主義ソビエトには「過剰生産」などまったく無く、恐慌も起こっていなかった。むしろ、ソビエトは資本主義国が大恐慌に襲われ、崩壊の危機にあったのに対して、大躍進を遂げていた。当時、このアメリカ発世界恐慌の外で、その影響の埒外で、ソビエトレーニンの後継者たるスターリンボリシェビキ党の指導の下、「第1次社会主義建設5か年計画」を推し進め、大きな成功を収めていたのである。まさに「恐慌」「過剰生産」は資本主義特有の問題、資本主義故の必然的現象であった。

スターリンは、資本主義制度下におけるこうした恐慌発生の必然性について、マルクス史的唯物論・経済学に基づいて、簡潔に次のように指摘した。

『生産力を厖大な規模に発展させた資本主義は、それにとって解決のできない矛盾にひっかかってしまった。資本主義はますます多量の商品を生産し、その値段を下げて競争を激化させ、中小の私有財産所有者の大衆を零落させ、彼らをプロレタリアとなし、プロレタリアートの購買力を減退させるに至り、その結果、生産された商品の売れ行きは不可能になってくるのである。

資本主義はまた、生産を拡大し、大工場に幾百万の労働者を集中し、生産過程に社会的性格を与え、これによってそれ自身の土台を掘り崩すのである。何故なら、生産過程の社会的性格が生産手段の社会的所有を要求するにもかかわらず、生産手段は依然として生産過程の社会的性格と両立しない資本主義的私有として残っているからである。

生産力の性格と生産関係の間のかかる相容れない矛盾は、生産過剰による周期的恐慌として現れる。その時、資本家は自ら作りだした住民大衆の零落によって、自己の商品に対して支払い能力のある需要を見出すことができず、その結果、生産物を焼き、製品を破棄し、生産を停止し、生産力を破壊することを余儀なくされているのに、その時、幾百万の住民は商品の不足からではなく商品の過剰生産のために、失業と飢餓に苦しまなければならなくさせられているのである。

このことは、資本主義的生産関係が社会の生産力の状態に適応しなくなり、且つそれと到底相容れることのできない矛盾に陥ったことを意味する。このことは、資本主義が現在の生産手段に対する資本主義的所有制を、社会主義的所有制によって取り換える事を使命とする革命を胚胎することを意味する』(ソ党史小教程・第4章)と。

資本主義が世界恐慌どん底で苦悩しているとき、社会主義ソビエトは大躍進を遂げていたのであるから、皆、このスターリンの「マルクスが主張した恐慌論」に耳を傾け、その正当性を認めざるを得なかった。この恐慌問題を分かりやすく論じたマルクス主義的文献は、エンゲルスが1883年に発表した、「社会主義の入門書」として評価も高い『空想から科学への社会主義の発展』である。

エンゲルスが説いた「資本主義制度下で恐慌が起こるメカニズム」を導きに、その発生の経過、原因、結果を詳しく説明しよう。

 

封建制度から資本主義制度に変わると、糸車や手織り機や鍛冶屋の槌に代わって、紡績機や力織機や蒸気槌が現れ、個人の仕事場の代わりに、数百人・数千人の共同作業を要する工場が現れた。こうして、生産手段(機械や動力)が大規模になると、生産そのものも、封建時代の一連の個人的な行為から、一連の社会的行為(分業による共同の生産活動)に変わり、生産物も個人的生産物(狭い範囲での物々交換的な流通対象の生産)から社会的生産物(商品として大量に売り捌かれる)に変わった。

 ただ、こうして社会的に生産されることになった大量の生産物を取得・支配する人は、生産手段を現実に動かして生産物を現実に生産する人ではなくて、それらを私有する(個人的所有とする)資本家であった。  

生産手段と生産は本質的に社会的なものになったが、それらを所有・取得形態は、個人的な私的生産を前提としていた。すなわち、資本家各人は自らの生産物を所有・私有し、それを自分で市場に運んだ。かくして生産方法は、このように個人的生産ではなく社会的生産になっていたのに、依然としてその所有・取得形態はこれまでどおりの個人的私的取得形態であった。この矛盾こそ、資本主義の本質的特徴であり、この矛盾の内に現代の一切の衝突の萌芽が含まれている。

 

そして、個人的私的に生産手段(と生産物)を所有する資本家の手に、ますます多くの生産手段(と生産物)が集中していく一方、かつての副業的であった賃金労働者、職人・農民のような個人的生産者、下級武士のような人々はそれまでの職業・地位を追われ、多くの人々が労働力以外に何物も持たない終身的賃金労働者として、資本家の所有・経営する工場に雇われていった。

こうして社会的生産と資本主義的な私的所有との矛盾はプロレタリアート(賃金労働者階級)とブルジョアジー(資本家階級)の対立となって現れた。

 

ところで、資本主義的商品生産を基礎とする社会の特色といえば、どの生産者(資本家)もそれぞれ持ちあわせている生産手段をもってめいめいの独自の交換の必要(市場の要求)に応じて生産するのだが、何人も、彼の商品と同じものがどれだけ市場に現われるか、そのうちのどれだけが必要とされるかは知らない。何人も、彼の生産物に対して現実の需要があるかどうか、生産費が回収できるかどうか、そもそもそれが売れるかどうか、それさえ知らない、ということである。

だから、資本主義の下で行われるのは無政府的な生産である。が、無政府的といっても、商品生産も、それに特有な、固有の、それと切りはなすことのできない法則をもっている、この法則は、その無政府性にかかわらず、無政府性のうちに、無政府性をとおして自己を貫徹する。即ち、この法則は社会的連関の唯一の形態である交換(市場)の内に出現して、個々の生産者に対しては、競争を強制する法則となる。要するに、無政府性故に生じたこの競争の法則は、生産者から独立して、 生産者の意志に反して、盲目的に作用する。この法則は資本主義的生産形態の自然法則として自己を貫徹する。つまり、生産物(市場における激しい販売競争)が生産者(生産物を私有する資本家)を支配する、ということである。即ち、資本家は弱肉強食の過酷な生存競争を必然とする法則から逃れることはできないのである。

個々の資本家の間でも、全産業と全国家の間でも、自然的もしくは人為的生産条件の良し悪しが、死活を決定する。敗者は容赦なく一掃される。これはまさにダーウィンの個体の生存競争だ。それが一層の狂暴さをもって、 自然から社会へと移されたのである。動物の自然の立場が人類発展の頂点と見られることになったのである。

 

ところで、資本家・資本主義的生産方法がその生存競争に使う主な手段は、無政府性とは正反対のものだった。すなわち、あらゆる個々の生産現場・工場内での生産の社会的組織の高度化(機械化)であった。これがために、旧来の平和な安定状態は終りを告げた。ある工業部門にこのような高度の組織(機械システム)が導入されると、その部門では従来からの古い経営方法はそれと共存することはできなかった。また、それが手工業に侵入すると、それは古い手工業を亡ぼした。アメリカ大陸発見とそれにつづいた植民地の拡充は、 商品の販路を何倍か拡張し、それらはまた、手工業のマニュファクチャー(大工業的生産スタイル)への転化を促進した。その結果、地方的生産者同士の闘争が勃発しただけではなく、地方的闘争はさらに国民的闘争に発展し、17世紀及び18世紀の商業戦争となった。最後に、大工業と世界市場の成立は、この闘争を世界的にすると同時にこれを前代未聞のはげしいものとした。グローバル化と激烈な国際的競争は資本主義の必然の産物・結果であった。

 

社会的生産における無政府性という推進力、これがすべての産業資本家に、大工業において機械をどこまでも改良することを命じ、その必要に応じて各産業資本家もまた彼の機械をますます改良する。 そうしなければ彼らは没落するしかないからである。ところで、この機械の改良とは、とりなおさず「人間労働の過剰化」である。このように、機械の採用とその増加が、少数の機械労働者による数百万の手工労働者の駆逐を意味するならば、機械の改良はますます機械労働者そのものの駆逐を意味する。そして結果において、資本の平均的な雇用需要を超過する多数の「待命賃金労働者」(就職待ちの失業者)を作り出す、これは、エンゲルスが1845年に完全な作業予備と呼んだものであって、それは、産業界が多忙な時期には自由に利用でき、それに必ず続く恐慌のときには街頓へ真っ先に放り出される労働者である。それは、労働者階級の資本(資本家)との生存闘争において、いつも彼らの足にまつわる錘(おもり)であり、賃金を資本の要求にあうような低い水準に引き下げる役目をする調節器である。これに要するに、機械は、マルクスの言葉をかりていえば、労働者階級に対する資本の最も有力な武器となる。すなわち、それによって労働手段は絶えず労働者の手から生活手段を奪い、労働者自身が生産した生産物は労働者を奴隷とするための道具となるのである。

「機械、すなわち労働時間を短縮する最も強力な手段は、労働者とその家族の全生活時間を、資本の価値増殖に自由に使用しうる労働時間にかえる最も確実な手段となる」のである。このようにして、ある一人の過度の労働が他人の失業の前提となり、また、消費者を求めて全地球をかけめぐる大工業は、国内大衆の消費を飢餓の低限にまで制限し、これによって自国の国内市場を破壊するのである。「相対的過剰人口、すなわち産業予備軍をつねに資本蓄積の拡大に均衡させる(一方が増えれば他方が減るという)法則は、ヘーファイストスのくさびがプロメーテウスを岩に釘づけしたよりも、もっと固く、労働者を資本に縛りつける。それは資本の蓄積があればそれに照応して貧困の蓄積があるということだ。だから一方の極(資本家の側)における富の蓄積があれば、同時に反対の極、すなわち、彼自身の生産物を資本として生産する階級の側(賃金労働者の側)には、 貧困、労苦、奴隷状態、無知、野獣化、道徳的堕落の蓄積がある」(マルクス資本論』)ということだ。資本主義的生産方法はそのままにして、これとちがった生産物の分配方法を採用することはできない。

現代の世にも「相対的過剰人口」たる「産業予備軍」は、非正規労働者・パート労働者・アルバイト・失業者として大量に存在し、一方には「超高給取り経営者」「空前の規模の社内内部保留金」が存在する。マルクス・エンゲルスの時代とまったく同じであり、何らの変わっていない。

註:「ヘーファイストスのくさびがプロメーテウスを岩に釘づけした」はギリシャ神話の一つ。プロメーテウスは、ゼウスから火を盗んで人間に与えたため,ヘーファイストスによってコーカサスの岩山にしばられ,毎日鷲に肝臓を食われては癒えるという苦しみを3万年もの間なめさせられた。

 

 

さて、近代的機械の改良能力は極端にまで増加しているが、個々の産業資本家にとって、それは、自分の機械をたえず改良し、その生産力をたえずたかめねばならぬといふ強制命令と変わった。大工業の異常な膨脹力、これにくらべればガスの膨脹力などはまことに児戯に等しいほどに大きい膨脹力であり、それは、われわれの前に、いかなる障害もものともしない質的および量的膨脹欲として現われている。もし、障害をなすものがあるとすれば、それは消費であり、販路、すなわち大工業の生産物の市場である。その市場の膨脹力は、さしあたりは大工業の異常な膨脹力とは全く別個の、広さにおいても強さにおいても、大工業の膨脹力に比してはるかに弱い法則によって支配される。市場の拡大は生産の拡大と歩調が合わない。市場の拡大よりも、生産の拡大の方がはるかに大きい。衝突は不可避となる。しかも、資本主義的生産方法そのものを破壊しない限りにおいては、ほかに解決はありえない。この衝突は周期的になり、資本主義的生産は新たな「悪循環」(生産力は大膨張を遂げるが、市場はそれほど拡張されず、両者の間に矛盾・衝突が生まれる)を作り出す。

 この周期的に発生する「悪循環」の調整として発生するものこそ、やはり周期的に発生する「恐慌」である。

 

 

 

アメリカ発世界恐慌(1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第10回)

 

  

1929年の恐慌勃発によってアメリカ(と世界)経済は急速に崩壊を開始し、それは1932-33年に底を打つまで低落・崩落し続け、アメリカの労働者・民衆に残酷な影響をもたらした。

秋元英一氏はその著書で、アメリカの歴史家ギルバート・セルデスの分析を参考に、29年の大暴落から33年のニューディール開始までを三つの時期に分け、その残酷な影響の実態を明らかにしている。

  • 1929年10月~1930年9月

1929年の失業者155万人 労働人口の3・2%

  1930年の失業者434万人 労働人口の8・7%

  • 1930年10月~1931年12月

1931年の失業者802万人 労働人口の15・9% 

  • 1932年1月~1933年3月

  1932年の失業者1200万人 労働人口の24%

 多くの失業者にとって仕事の確保は遠い夢、寒さと飢えからどう身を守るかが最大の問題であった。遠方政府や州政府や民間団体の救護事業は、失業者の急増によって財源が枯渇し、危機に瀕していった。解雇を免れた就業者も労働時間が大幅に削られ、1932年の週平均賃金は1929年の3分の1に減じていた。

建設業の場合は75・4%減であった。黒人の失業率は白人よりもはるかに高く、悲惨であった。

 秋元氏は、1931年初めのニューヨーク職業斡旋所を取材したある記者のつぎのようなレポートを紹介している。

『部屋はまったく静かだ。かすかな、求職者たちの絶望的なさざめきが聞こえる。この侮辱を強いる社会システムの上で辛抱強くしていて、彼らはまったく無言で立っている。何も出ていない状態は苦痛だ。私の近くのデスクの向こうでは事務員が鉛筆をもてあそびながら、すわっている。待つ。電話が鳴った。新しい仕事だ。せかすような会話。カードが記入され、半白髪の、丸い顔をして、あごひげがカールした「競売人」に手渡された。メガホンをつかんで、素早く壇上に立って、彼は叫ぶ。 「タイプライター修理、男性、一時間一五セントで、四時間労働。デスク、ナンバー2」。群衆の中に動きがある。固まった一団が揺れる。半ダースの人々が人波をかきわけて出てきた。仕事が、至福の恵みが、おそらくは手の届くところにある。彼らはあらん限りのアピールをしながら事務員にむしゃぶりつく。「どうか、ミスター、私は熟練の機械工です」「どうぞ、私は家族もちなんで」「チャンスをく だせえ」。すばやく、その事務員は二人を選びだす。幸運な二人の競争者はこぶしのなかに貴重なカードを握りしめて部屋から走りだす。どちらも「相手をやっつけ て仕事をとる」ことを望みながら。一つの仕事に二人が送られ、雇主が選ぶのだ。 事務員は彼の机に戻る。重い足を引きずりながら、二人以外の失望した競争者がゆっくりと戻り、辛抱強い群衆と再び一体化する。二人をのぞいた残り1000人の絶望的な人びとが無言の訴えのなかに凍りつく。もう一度電話が鳴るまで 。

平均すると5000人が毎日このフロアに仕事を求めてやってくる。1万人になることもある。およそ300~400人が仕事を得る。ほとんど全部が臨時職だ。』

また、秋元氏は、恐慌に直面した民衆のホームレスへの転落過程を次のように描いている。

『何の警告もなく、 人口19000人の中西部のある町では、1932~33年の冬、銀行破産の波がおそった。この町を訪れたある記者は、以下のように報告している。

銀行と銀行家が売った債券の崩落がこの町のデフレーションの直接的な原因となった。学校の教師、保険のセールスマン、ブルーカラー、歯科医、退職した農民たちは、生涯の貯金が消え去り、保障がなくなる体験をした。

この町のファースト・ナショナル・バンクが破産第1号だ。事前警告は何もなかった。営業日の日中に検査官がドアを閉めた。この銀行は、合衆国財務省支店と見なされていて、州でももっとも古い銀行の一つだった。2~3時間以内に誰もがこの破綻を知った。預金者たちは驚愕して信じられない面もちで小グループごとに集まってドアに張り出された通告を読んでいる。…もっともショッキングな例は老齢のギアマン夫人だった。彼女は閉められた厚いガラスのドアを拳でたたき、大声で、あるいはしくしくと、人目をはばかることなく泣いた。彼女は貯蓄口座に彼女の夫の保険金から2000ドルと、粗末な敷物作りで25年間かかって貯めた963ドルを貯金していた。何も残らず、慈善に頼るほかなかった。』

そして、やがて人々は「自分の住宅から追いだされる」ことになる。

『 一家の主たる働き手が失業してしまった場合、まず貯金が使われ、それもやがてなくなると、住宅が自分の所有であれば、融資返済ができないから抵当解除で追いだされる。親戚や知人の好意にすがって身を寄せることもできるが、失業の長期化でストレスもたまり、いづらくなる。ひとり、またひとりと個人が、そしてやがては家族全体が家やコミュニティの絆を捨てて新たな生活を求めて彷徨しはじめる。このようなホームレスの人びとの群がしだいにあちこちで目立ちはじめ、恐慌の比較的初期でも「国中に移動民の新たな群が動き回っている」ことが確認された。

こうした人びとの動態を把握する調査が1933年1月に行われたが、全米809 の都市で救済を受けている人びとの数は37万403人であった。調査の網にかからない、橋の下や壊れた建物、野外で夜を過ごしている人びとをカウントすれば、おそらく122万5000人を下らないであろうといわれた。その約半数が短期滞在者である。

大恐慌下の移動民たちは、かつての浮浪民とちがい、放浪自体が目的ではなく、新しい家を探し、あるいは仕事があって定着できそうなコミュニティに行き当たれば、そこで立派な市民になるはずの人びとだったといわれる。

フランクリン・ローズヴェルトが知事をしていた時期(1929~33年)のニューヨーク州では、3500もの工場が閉鎖され、工場労働者は110万人から73万人へと減少し、賃金支払総額も16.5億ドルから7.5億ドルに減少した。スープ・キッチン、ミルク・ステーショ ン、過剰に混雑した宿泊施設は当たり前のこととなった。救済や公共事業の拡大にもかかわらず、状況は悪化するばかりだった。

たとえばバファロー(ニューヨーク州北西部の都市)でもホームレスで市の宿泊施設に登録した人びとの数は1929年の6万5493人から1933年には75万人へと激増し、宿泊者数も46万人となった。ニューヨーク市では、登録者数は1929年の15万8000人から1934年には223番人へと急増した。1日平均にすると、433人から6120人への増加である。予算と施設の制約から、非居住者の宿泊は一月に一日と 制限された。居住者の場合には登録した後、5日間の単位で延長することができた。 最大の施設では一晩に1500人が泊まることができた。

ここへ泊めてもらう手続きは、誇りを捨てて、中央登録所に行こうと決意したときからはじまる。氏名、年齢、「昨晩どこで寝たか」を福祉事務員が記録する。各応募 者は二年以上居住しているニューヨーカーかどうかを尋ねられる。答えがイエスな ら、少なくとも二週間は泊まれる。そうでなければ、一晩だけだ。うそをつく人も多 かったであろう。

そこから人は、困窮者のための生活様式をなす多くの行列の一つに入るように進む。午後五時の食事の行列は午後早くからつくられ、警察がきちんと監督している。夕食時間がくると、ガードマンが「牛を追い出すのとよく似たやり方で陰気な群衆を通路に沿って」誘導する。「OK」のサインと同時に飢えた人びとが最初の席を確保しようとする競争がはじまる。 …

都市によっては「定着」する人たちの「村」が作られた。あり合わせの材料で雨露をしのぐ家が集まったものである。ニューヨーク市にもブルックリンの一角に「フーヴァー・シティ」ができた。1933年の冬、600人程度の人が住んでおり、子どもも一人生まれた。警察が大目に見る限り、そこでの生活は自由で住民は友好的、そこから仕事探しに毎日通っていたという。こうした人びとも大半はアメリカン・ドリ ームを継承すべき中産階級や労働者階級の出身だった。ほんの昨日まで、彼には家と、家族と友人とコミュニティがあった。ほとんど自分の力のおよばない理由で彼の夢は壊され、彼自身がその不可欠の部分をなしていたアメリカから切り離されてしまったのである。

女性の放浪者もいた。1933年に約40,000人いたとの推計がある。これは、男性の場合とちがって、恐慌前には見られなかった光景である。…

アメリカ南部の農業生産に従事していた黒人たちが、本格的に北部都市に移動しはじめるのは第一次大戦前後からである。戦争によってヨーロッパからの移民が途絶え、企業は増大する労働力需要を黒人でたすことを考えなくてはならなかったから である。

黒人男性の多くは底辺の単純肉体労働に従事した。恐慌前の黒人男性の週賃金の平均は18ドルだった。既婚黒人女性の就業率は60パーセントで、白人女性の4倍以上だった。恐慌になると「最後に雇われ、最初に解雇される」黒人の失業率は50パ ーセントをこえ、賃金は半分以下に減少した。 伝統的に黒人男女の仕事だった職種に、失業している白人が「侵入」してきた。家内サービス、ゴミ収集人、エレベータ ー・オペレーター、ウェイター、ベルボーイ、街頭掃除夫などに白人が優先して雇われるようになり、黒人は締めだされた。

南部では経済状態の悪化とともに黒人にたいするリンチの件数がふえる傾向にあった。 黒人の都市における居住環境はこれまでにもまして悪化した。ニューヨークのハーレム地区では25年間に人口が6倍、35万人にふくれあがり、人口密度がこれまでになく高くなった。家族全体で1部屋という場合が珍しくなかったし、アパートの所有者は条件からすればきわめて割高な家賃を徴収した。廃棄されたビルや冷暖房や水道の使えないビルに多くの家族が住んでいた。恐慌下にもかかわらず、南部からは 1930年代に40万人が北部に向かった。』

以上が恐慌に巻き込まれ、ある日突然地獄に突き落とされたアメリカ民衆の哀れな、悲惨な実態であった。

これはアメリカだけのことではなかった。世界のすべての資本主義国で同様の悲惨な状況が発生していたのである。

さて、いよいよ、こうしたアメリカ発世界恐慌が、1929年にもそして現代の2008年にも、なぜ発生したのか。次回より、その根本原因に迫っていきたい。

 

 

アメリカ発世界恐慌(1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第10回)

 

  1929年の恐慌勃発によってアメリカ(と世界)経済は急速に崩壊を開始し、それは1932-33年に底を打つまで低落・崩落し続け、アメリカの労働者・民衆に残酷な影響をもたらした。

 秋元英一氏はその著書で、アメリカの歴史家ギルバート・セルデスの分析を参考に、29年の大暴落から33年のニューディール開始までを三つの時期に分け、その残酷な影響の実態を明らかにしている。

  ●1929年10月~1930年9月

    1929年の失業者155万人 労働人口の3・2%

    1930年の失業者434万人 労働人口の8・7%

  • 1930年10月~1931年12月

             1931年の失業者802万人 労働人口の15・9% 

  • 1932年1月~1933年3月

        1932年の失業者1200万人 労働人口の24%

 多くの失業者にとって仕事の確保は遠い夢、寒さと飢えからどう身を守るかが最大の問題であった。遠方政府や州政府や民間団体の救護事業は、失業者の急増によって財源が枯渇し、危機に瀕していった。解雇を免れた就業者も労働時間が大幅に削られ、1932年の週平均賃金は1929年の3分の1に減じていた。

建設業の場合は75・4%減であった。黒人の失業率は白人よりもはるかに高く、悲惨であった。

 秋元氏は、1931年初めのニューヨーク職業斡旋所を取材したある記者のレポートを紹介している。

 『部屋はまったく静かだ。かすかな、求職者たちの絶望的なさざめきが聞こえる。この侮辱を強いる社会システムの上で辛抱強くしていて、彼らはまったく無言で立っている。何も出ていない状態は苦痛だ。私の近くのデスクの向こうでは事務員が鉛筆をもてあそびながら、すわっている。待つ。電話が鳴った。新しい仕事だ。せかすような会話。カードが記入され、半白髪の、丸い顔をして、あごひげがカールした「競売人」に手渡された。メガホンをつかんで、素早く壇上に立って、彼は叫ぶ。 「タイプライター修理、男性、一時間一五セントで、四時間労働。デスク、ナンバー2」。群衆の中に動きがある。固まった一団が揺れる。半ダースの人々が人波をかきわけて出てきた。仕事が、至福の恵みが、おそらくは手の届くところにある。彼らはあらん限りのアピールをしながら事務員にむしゃぶりつく。「どうか、ミスター、私は熟練の機械工です」「どうぞ、私は家族もちなんで」「チャンスをく だせえ」。すばやく、その事務員は二人を選びだす。幸運な二人の競争者はこぶしのなかに貴重なカードを握りしめて部屋から走りだす。どちらも「相手をやっつけ て仕事をとる」ことを望みながら。一つの仕事に二人が送られ、雇主が選ぶのだ。 事務員は彼の机に戻る。重い足を引きずりながら、二人の失望した人々がゆっくりと戻り、辛抱強い群衆と再び一体化する。二人をのぞいた残り1000人の絶望的な人びとが無言の訴えのなかに凍りつく。もう一度電話が鳴るまで 。

平均すると五〇〇〇人が毎日このフロアに仕事を求めてやってくる。一万人になることもある。およそ三〇〇~四〇〇人が仕事を得る。ほとんど全部が臨時職だ。』

 秋元氏は、恐慌に直面した民衆のホームレスへの転落過程を次のように描いている。

 『何の警告もなく、 人口一万九〇〇〇人の中西部のある町では、1932~33年の冬、銀行破産の波がおそった。この町を訪れたある記者は、以下のように報告している。

 銀行と銀行家が売った債券の崩落がこの町のデフレーションの直接的な原因とな った。学校の教師、保険のセールスマン、ブルーカラー、歯科医、退職した農民たちは、生涯の貯金が消え去り、保障がなくなる体験をした。

この町のファースト・ナショナル・バンクが破産第1号だ。事前警告は何もなかった。営業日の日中に検査官がドアを閉めた。この銀行は、合衆国財務省支店と見なされていて、州でももっとも古い銀行の一つだった。2~3時間以内に誰もがこの破綻を知った。預金者たちは驚愕して信じられない面もちで小グループごとに集まってドアに張り出された通告を読んでいる。…もっともショッキングな例は老齢のギアマン夫人だった。彼女は閉められた厚いガラスのドアを拳でたたき、大声で、あるいはしくしくと、人目をはばかることなく泣いた。彼女は貯蓄口座に彼女の夫の保険金から2000ドルと、粗末な敷物作りで25年間かかって貯めた963ドルを貯金していた。何も残らず、慈善に頼るほかなかった。』

そして、やがて人々は「自分の住宅から追いだされる」ことになる。

『 一家の主たる働き手が失業してしまった場合、まず貯金が使われ、それもやがてなくなると、住宅が自分の所有であれば、融資返済ができないから抵当解除で追いだされる。親戚や知人の好意にすがって身を寄せることもできるが、失業の長期化でストレスもたまり、いづらくなる。ひとり、またひとりと個人が、そしてやがては家族全体が家やコミュニティの絆を捨てて新たな生活を求めて彷徨しはじめる。このようなホームレスの人びとの群がしだいにあちこちで目立ちはじめ、恐慌の比較的初期でも「国中に移動民の新たな群が動き回っている」ことが確認された。

 こうした人びとの動態を把握する調査が1933年1月に行われたが、全米809 の都市で救済を受けている人びとの数は37万403人であった。調査の網にかからない、橋の下や壊れた建物、野外で夜を過ごしている人びとをカウントすれば、おそらく122万5000人を下らないであろうといわれた。その約半数が短期滞在者である。

大恐慌下の移動民たちは、かつての浮浪民とちがい、放浪自体が目的ではなく、新しい家を探し、あるいは仕事があって定着できそうなコミュニティに行き当たれば、そこで立派な市民になるはずの人びとだったといわれる。

フランクリン・ローズヴェルトが知事をしていた時期(1929~33年)のニューヨーク州では、3500もの工場が閉鎖され、工場労働者は110万人から73万人へと減少し、賃金支払総額も16.5億ドルから7.5億ドルに減少した。スープ・キッチン、ミルク・ステーショ ン、過剰に混雑した宿泊施設は当たり前のこととなった。救済や公共事業の拡大にもかかわらず、状況は悪化するばかりだった。)

 たとえばバファロー(ニューヨーク州北西部の都市)でもホームレスで市の宿泊施設に登録した人びとの数は1929年の6万5493人から1933年には75万人へと激増し、宿泊者 数も46万人となった。ニューヨーク市では、登録者数は1929年の15万8000人から1934年には223番人へと急増した。1日平均にすると、433人から6120人への増加である。予算と施設の制約から、非居住者の宿泊は一月に一日と 制限された。居住者の場合には登録した後、5日間の単位で延長することができた。 最大の施設では一晩に1500人が泊まることができた。

 ここへ泊めてもらう手続きは、誇りを捨てて、中央登録所に行こうと決意したときからはじまる。氏名、年齢、「昨晩どこで寝たか」を福祉事務員が記録する。各応募 者は二年以上居住しているニューヨーカーかどうかを尋ねられる。答えがイエスな ら、少なくとも二週間は泊まれる。そうでなければ、一晩だけだ。うそをつく人も多 かったであろう。

 そこから人は、困窮者のための生活様式をなす多くの行列の一つに入るように進む。午後五時の食事の行列は午後早くからつくられ、警察がきちんと監督している。夕食時間がくると、ガードマンが「牛を追い出すのとよく似たやり方で陰気な群衆を通路に沿って」誘導する。「OK」のサインと同時に飢えた人びとが最初の席を確保しようとする競争がはじまる。 …

都市によっては「定着」する人たちの「村」が作られた。あり合わせの材料で雨露をしのぐ家が集まったものである。ニューヨーク市にもブルックリンの一角に「フーヴァー・シティ」ができた。1933年の冬、600人程度の人が住んでおり、子どもも一人生まれた。警察が大目に見る限り、そこでの生活は自由で住民は友好的、そこから仕事探しに毎日通っていたという。こうした人びとも大半はアメリカン・ドリ ームを継承すべき中産階級や労働者階級の出身だった。ほんの昨日まで、彼には家と、家族と友人とコミュニティがあった。ほとんど自分の力のおよばない理由で彼の夢は壊され、彼自身がその不可欠の部分をなしていたアメリカから切り離されてしまったのである。

 女性の放浪者もいた。1933年に約40,000人いたとの推計がある。これは、男性の場合とちがって、恐慌前には見られなかった光景である。…

 アメリカ南部の農業生産に従事していた黒人たちが、本格的に北部都市に移動しはじめるのは第一次大戦前後からである。戦争によってヨーロッパからの移民が途絶え、企業は増大する労働力需要を黒人でたすことを考えなくてはならなかったから である。

 黒人男性の多くは底辺の単純肉体労働に従事した。恐慌前の黒人男性の週賃金の平均は18ドルだった。既婚黒人女性の就業率は60パーセントで、白人女性の4倍以上だった。恐慌になると「最後に雇われ、最初に解雇される」黒人の失業率は50パ ーセントをこえ、賃金は半分以下に減少した。 伝統的に黒人男女の仕事だった職種に、失業している白人が「侵入」してきた。家内サービス、ゴミ収集人、エレベータ ー・オペレーター、ウェイター、ベルボーイ、街頭掃除夫などに白人が優先して雇われるようになり、黒人は締めだされた。

 南部では経済状態の悪化とともに黒人にたいするリンチの件数がふえる傾向にあった。 黒人の都市における居住環境はこれまでにもまして悪化した。ニューヨークのハーレム地区では25年間に人口が6倍、35万人にふくれあがり、人口密度がこれまでになく高くなった。家族全体で1部屋という場合が珍しくなかったし、アパートの所有者は条件からすればきわめて割高な家賃を徴収した。廃棄されたビルや冷暖房や水道の使えないビルに多くの家族が住んでいた。恐慌下にもかかわらず、南部からは 1930年代に40万人が北部に向かった。』

 以上が恐慌に巻き込まれ、アメリカ民衆の哀れな、悲惨な実態であった。

 これはアメリカだけのことではなかった。世界のすべての資本主義国で同様の悲惨が発生していたのである。

 さて、いよいよ、こうしたアメリカ発世界恐慌が1929年にも、そして現代の2008年にも、な発生したのか。次回より、その根本原因に迫っていきたい。