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(小林尹夫-哲学ルーム)

 独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第13回)   

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

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 第二戦線問題について

 

 第二戦線問題とは何か。小学館発行の『日本大百科全書』(1989年7月)は次のように分かりやすく解説している。

 『第二戦線――戦争において、敵方の戦力を分散させるために、主要な戦線以外に設ける戦線。第二戦線の形成が歴史上でとくに問題となったのは、第二次大戦においてである。

 ドイツの対ソ連攻撃開始以後、ドイツの主要兵力はソ連すなわち東部戦線に集中した。ソ連は、第二戦線として米英軍がフランスへ上陸してドイツ軍の背後を牽制することを要求し、1942年5月にはルーズベルトチャーチルによって第二戦線を設けることが確約された。しかし、フランス上陸作戦よりも北アフリカ作戦及びイタリア上陸作戦を重視するチャーチルの主張によって、米英軍は南ヨーロッパに作戦を展開し、ソ連の不満を買った。テヘラン会談(1943年11月)において第二戦線の設定が確認され、1944年6月、ようやく米英軍は北フランス、ノルマンディーに上陸して第二戦線を形成した。しかし、この第二戦線形成の遅延とソ連の自力による総反撃は、ソ連の戦後ヨーロッパに対する発言権を強めた』と。

 実際、独ソ戦において、早くに第二戦線が形成されておれば、ドイツ軍は二正面作戦を強いられ、その軍事力を二分されることになり、間違いなく、ソビエト軍の被害は半減された。

 先に述べた通り、スターリンソビエト政府は早くから、民主主義の徹底的否定者たるヒトラー・ドイツのファシズム帝国主義の危険性を暴露し、全世界の人民、そして各国政府に対し、反ファシズム統一戦線への参加を呼び掛けていた。しかし、1917年のロシア革命直後、ソビエトに対して干渉戦争を仕掛け、社会主義ソビエトの転覆を謀った実績のある英米仏等のブルジョア政府は、むしろ「ファシズムのドイツと、社会主義ソビエトを相戦わせ、共倒れを図る」という策謀に走った。事実、チャーチル内閣の航空機生産省大臣であったブラバゾンは、独ソ戦の最中、「イギリスにとって一番望ましい独ソ戦の結末は、独ソ双方が疲れ、消耗することだ。そうなればイギリスは第三勢力の役割を果たし、戦争終結後に自分の条件を押し付けることができる」と公言していた。さすがにチャーチルはすぐに彼を辞任させたが、それがイギリスの保守政治家・資本家たちの本音であった。アメリカでは、米国大統領のルーズベルトは、独ソ戦開始3ヵ月後の9月には、「ロシア戦線は持ちこたえ、モスクワは占領されることはない」との見通しを示していたが、アメリカ軍部首脳は半信半疑で、「ドイツの短期勝利」を信じて疑わなかった。また、当時は上院議員であった反共主義者トルーマン(後の米大統領)は、独ソ戦開戦直後に、「もしもドイツが勝ちそうだったらロシアを助け、ロシアが勝ちそうになったらドイツを助ける。こうして双方にできるだけたくさん殺し合いをやらせるのがベストだ」と公言していた。アメリカの大半の資本家たちも同様の意見であった。

 ところが、1941年12月8日の日本軍国主義真珠湾攻撃は、アメリカ政府の「モンロー主義」(孤立主義外交路線)を吹き飛ばし、米国は積極的参戦に転じた。かくして、スターリンソビエトの要求によって、ようやく、1942年5月、英米政府はフランス上陸の第二戦線を設けることを確約した。だが、チャーチルは、フランス上陸作戦に難癖をつけ、ヒトラーの攻撃から英領植民地を守るために早くから開始していた北アフリカ作戦、そしてイタリア上陸作戦を重視し、その約束を守ろうとはしなかった。

 1943年9月、そのチャーチルの主導でイタリア上陸作戦―第二戦線構築作戦―が強行された。だがそれは期待とは程遠い結果しか生まなかった。これについて、リデル・ハートは次のように評している。

 『イタリア作戦の重要性をめぐっては、依然として米英指導層間に大きな意見の食い違いが潜在していた。チャーチルおよび参謀総長アラン・ブルック卿に代表される英国側の見解は、連合軍がイタリアに多数の部隊を注入すればするほど、それだけ多く、ノルマンディーに投入されるはずのドイツ軍を吸引することができるという考え方であった。結局 これは間違いであったが、そもそもの発端は、この方面で英軍が主導権を握って大きな成功を収めたいというチャーチルの願いから発したものであった。それに対してアメリカ側の見解が食い違いを生じた根本の理由は、彼らはフランスこそ主戦場であるという正しい見方をしていたため、フランスに派遣する予定の連合軍戦力を削ってまでイタリアへ増援軍を送ることはないと考えたからであった。彼らはチャーチルおよび英軍首脳部よりも冷静に、イタリアの地形は険しいところが多く、迅速な作戦の進展と戦果の拡張を期待することができない地域であることを見抜いていた。彼らはまた英国側がフランス侵攻(注:第二戦線たるノルマンデイー上陸作戦)という、いっそう困難な任務を回避する口実として、イタリアに焦点を合わせる傾向があるのではないかという疑念を強くいだいていた』と。

 かくの如く、チャーチルは一貫して第二戦線の構築には消極的であった。イタリア上陸作戦も大した成果を生むことなく、1943年11月、テヘラン会談において再度フランス上陸の第二戦線形成が確認されるが、それでもなお、直ぐには実行されず、1944年6月、ソビエト軍によるベルリン攻撃が開始される直前に、ようやくノルマンディー上陸の第二戦線形成が実現されたのである。

 ところで、世界的に有名なアンネ・フランクの日記『アンネの日記』(2010年9月・文芸春秋社刊)には、「第二戦線」に関する記述が、何か所も見られることをご存じであろうか。第二戦線問題は、アンネ一家にとって、隠れ家に潜行していた人々にとって、アウシュヴィッツなどの収容所に送り込まれた全てのユダヤ人にとって、更にはナチスファシズム支配下に置かれたヨーロッパの全ての国民にとって、極めて重要な政治問題であった。

 アンネ・フランクはドイツのフランクフルトに生まれたが、一家はナチスの迫害を逃れ、オランダに移った。父親のオットー・フランクは「娘たちだけでも…」と懸命にアメリカへの移住を追求したが、その難民申請は認められず、切羽詰まり、父親の職場であった会社の裏のビルの4・5階と屋根裏部屋の隠れ家に身を潜めた。

 友人家族を含めた8人の潜行生活は、1942年7月6日から1944年8月4日まで、ナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見されるまで、2年間に及んだ。逮捕された隠れ家住人は、全員がアウシュヴィッツ強制収容所へと移送された。1945年10月、ソビエト赤軍の接近に伴うアウシュヴィッツ強制収容所撤収作戦により、アンネと姉はドイツ国内にあったベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送され、ここで二人はチフスに罹り、その若い命を落としたのである。その時アンネ15歳、亡くなったのは1945年2月末から3月半ばと見られている。

 彼女の日記に描かれた、ラジオBBCのニュースに耳を傾けて一喜一憂する隠れ家の住人たちの様子を見る時、第二戦線がユダヤ人たちにとって大いなる「希望の星」であったことがよくわかる。彼女の日記を紐解いてみよう―

 『1942年11月5日・木曜日――英軍がとうとうアフリカで多少の勝利をおさめました。スターリングラードもまだ持ちこたえています。そんなわけで、この《隠れ家》の男性軍も意気軒昂、今朝は皆してお茶とコーヒーで乾杯しました。…』

 『1942年11月9日・月曜日―― …ソ連では、スターリングラードの攻防戦がすでに3ヵ月も続いていますけど、街はいまのところまだドイツ軍の手には落ちていません。…』

 『1943年2月27日・土曜日――ピム(アンネの父親)は、連合軍の上陸作戦が始まるのを、今日か明日かと待っています。チャーチルは肺炎に罹りましたけど、今はすこしずつ快方に向かっているそうです。…』

 『1944年2月3日・木曜日――連合軍の上陸作戦を待望する気分は、日ごとに全国で高まっています。…』

 『1944年5月3日・水曜日――私も徐々にですけど、近々上陸作戦があるということが信じられるようになってきました。連合軍にしても、ソ連軍だけに名をなさしめているわけにはゆきますまい。…』

 『1944年5月22日・月曜日――20日の日に、お父さんはおばさんと賭けをして、ヨーグルト5瓶も取られてしまいました。未だに上陸作戦が始まらないからです。こう言ったからといって、決して誇張にはならないと思いますが、アムステルダム全市民、オランダ全国民、いえ、南はスペインまで至るヨーロッパ西海岸の全住民が、連合軍の上陸作戦が今日始まるか、明日始まるかと期待し、それについて論じあい、賭けをし、そして…希望をつないでいます。…私たち全員が、必ずしもイギリスに信頼感を持ち続けているわけじゃありません。上陸作戦を楯にとって、しきりに脅しをかけるというイギリスの今のやり口が、必ずしも全員に巧みな戦略として支持されているわけではありません。そうなんです。誰もが見たがっているもの、それは行動です。今こそ遂に立ち上がった連合軍の、はなばなしい英雄的な行動なんです。…』

 『1944年6月23日・金曜日――ここでは何も特別なことは起こっていませんが、英軍はシェルブール(フランス北西部の港町)に対する大規模な攻撃を開始しました。ピムやファン・ダーンおじさんの言によると、10月10日までには必ず私たちも解放されているだろうということです(注:実際に解放されたのは翌年の1945年4月)。ソ連もこの大攻勢に加わっていて、昨日、ヴィテプスク(注:ソ連邦ベラルーシユダヤ人居住地の多い都市)付近で戦闘状態に入りました。ドイツ軍がソ連に侵入してから、今日できっかり3年になります。…』と。

 結局、英米軍はなかなかオランダに進出せず、遂に1944年8月4日、アンネたちは逮捕され、収容所に送り込まれてしまう。アンネ一家は、1944年9月3日にはドイツ国内の収容所からポーランドアウシュヴィッツに移送され、9月6日に到着。10月28日、収容所はソビエト赤軍の接近を知り、多くの収容者を選別し、アンネと姉はドイツ国内のベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送された。父親と母親はアウシュヴィッツに残り、母親はこの収容所で殺害された。英米軍の第二戦線が十分その役割を果たさない中、ソビエト赤軍は多くの犠牲者を出しながらポーランドに入り、1945年1月27日にアウシュヴィッツ解放を実現する。アンネの父オットーは、かろうじて、このソビエト赤軍の手によって救出された。アンネ姉妹が収容されていたベルゲン・ベルゼン強制収容所が英軍の手によって解放されたのは1945年4月15日。アンネ死亡から1、2カ月後のことであった。

 以上から明らかなように、第二戦線問題は、独ソ戦と深く関わっていただけでなく、アンネの悲劇とも深く関わっていた。アンネ一家の救出を遅らせた最大の原因、それはチャーチルの「反共・反ソ主義」であったと言っても過言ではないのである。

 この第二戦線問題の本質を知る人々は、第二次世界大戦において反ファシズム解放戦争を勝利に導いた最大の戦いこそ独ソ戦であり、スターリングラード攻防戦赤軍の勝利であり、決して英米政府と英米軍ではなかったことをよく知っている。ここで、声を大にして強調しておこう。全世界の民主主義勢力を日独伊のファシズム支配から解放した最大の功労者はスターリンソビエト赤軍であり、ソビエト人民であったのだ、と。

 

カチンの森事件」について

 

 ナチス・ドイツ―宣伝相ゲッペルス―によって「カチンの森事件」が全世界に向かって公表・宣伝されたのは、ドイツ軍のスターリングラード大敗から2ヵ月後の1943年4月のことであった。(注:カチンの森は、ソ連邦西部地域にあるスモレンスク市付近のドニエプル河沿いにある森で、ポーランド国境からも近い所にある大きな森のこと)

 1943年4月13日、この日、スターリングラード戦で敗れ、惨めな撤退・敗走に追い込まれていたドイツ政府は、ベルリン放送局を通じて、全世界に向けて次のようなニュースを流した。『スモレンスクからの報告によると、同地の住民は、ドイツ軍当局に、1万人のポーランド軍将校がボリシェビキにより、ひそかに処刑された場所を明らかにしたという。ドイツ軍当局は、スモレンスク西方、12キロのコソゴリというソ連の避暑地を訪れ、驚くべき事実を発見した(注:カチンの森はこの当時はドイツ占領下にあった)。…掘られた穴に約3000人のポーランド軍将校の死体が横たわっていたのである。全員、正規軍装をし、手を縛られ、首の後ろ側に銃で撃たれた跡があった。被害者を特定することは困難ではなかった。…ボリシェビキは死体に身分証明書を残していたからである。…他の埋葬地については調査中である。最終的には、ボリシェビキに捕虜に取られたポーランド軍将校の数は約一万人に達するものと推測される』と。

 この一方的なニュース発表は「天才的宣伝家」たるゲッペルスの発案であった。

 勿論、ソビエト政府(情報部)は直ちにこれに反論した。ソビエト軍がやったことを示す確たる証拠など何一つ無く、完全なデッチ上げ事件であった。むしろ、当時のソビエト政府は、ナチスに敗れて英国に亡命していた反共的なポーランド政府と協定を結び、ポーランド人捕虜に恩赦を与え、ソビエト国内でポーランド軍の創設を許可しており、ポーランド人将校を殺害する何の理由もなかった。

 1943年4月22日、ドイツ政府は直ちに12ヵ国からなる「国際調査委員会」なるものを早々と組織し、現地に送り込んだ。この12ヵ国の内、スイスとスウェーデンを除けば、皆ナチス・ドイツの影響下にある国であった。しかも、この国際調査委員会の現地調査はたった3日間しか認められていなかった。たった3日間で7つもの調査項目(市民との会見、9名の死体の解剖と982人の死体検分・医学報告書作成、遺体総数の確認、森の立木分析、顕微鏡分析と脳髄齢化評価等)をこなすというものであった。何のことはない、詳しい調査は、自らが組織し派遣した「ドイツ委員会」にすべて任すことになっていたのだ。

 ドイツ政府によって発表された調査結果は推して知るべしである。ナチスがやったことを証明する証拠はすべて消し去られ、ソビエト軍が行ったという様々なデッチ上げが行なわれた。全ては後の祭りであり、真実は完全に隠ぺいされてしまった。

 突如として持ち上がった、この「ソビエト軍によるカチンの森虐殺事件」というデマ宣伝はセンセーショナルに取り上げられ、国際的大問題となった。1943年当時は、ナチスによる「ホロコースト」はまだ大きな問題になっていなかった。

 当然のことながら、チャーチルの英国も、ルーズベルトの米国も、こうしたナチスの「デマ宣伝」をまともに取り上げることはなかった。

 しかし、この問題は戦後―スターリン死後―において「ヨーロッパの外交問題」として燻り続けてきた。その中で、1990年10月、当時のソビエト共産党書記長ゴルバチョフは、「新たに発見された資料類はソ連内務機関の関与を想定させる状況証拠となっている」とし、「カチンの虐殺はソ連スターリン)の犯罪であった」と、ポーランドへの謝罪を公表した。ゴルバチョフが根拠にあげた「最高機密文書」の「ベリヤ覚書」なるものは、単なるメモ形式のものでしかなく、「スターリンの署名」なるものもメモの欄外に記されたものであった。 

 (注:フルシチョフは「カチン虐殺事件」を取り上げてスターリンを非難するということができなかった。非難できるような資料がなかったからであろう。ソビエト赤軍が無関係であることを示す資料は―もしあったとすれば―フルシチョフによって処分されてしまい、ゴルバチョフが持ち出した「新資料」はその後に偽造された可能性が非常に高い。「歴史は権力を握った者によって書かれる」ものである)

 社会主義を裏切ったフルシチョフの衣鉢を継ぐゴルバチョフにとって、最大の「邪魔者」はスターリンであり、何が何でも「スターリンこそカチン虐殺の元凶」でなければならなかった。「ゴルバチョフの謝罪」を耳にした当事のポーランド外相オジェホフスキーは『カチンの森事件については二つの見解―ドイツ犯行説とソ連犯行説―があるが、今やどちらを支持するかは、客観的な知識の問題ではなく、政治的な選択、政治的感情の問題なのだ』(1988年3月29日付産経新聞)と語り、すべては権力の政治的都合次第だとしているが、まさにその通りである。

 しかし、カチンの森事件の真犯人はナチス・ドイツである、とする決定的証拠が存在している。その証拠は、日本の推理小説作家・逢坂剛氏が「偶々、ゲッペルスの1943年9月29日の日記の中に、次のような記述があるのを発見した」と『中央公論』(1992年11月号)誌上で報じたことで、一時大きくクローズアップされた。

 ゲッペルス曰く『遺憾ながらわれわれは、カチンの一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが12000人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件はゆくゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない』と。

 まさに、これは、真犯人はナチス・ドイツであることをゲッペルス自身が告白したものであった。この『ゲッペルスの日記 1942年~43年版』は、戦後の1948年になって、ロンドンで出版された。1943年度の日記については全部が残っている訳ではなかったが、9月分は8日~30日までが残されていた(注:これらが本物の日記であることは既に専門研究家によって検証済み)。

 何故、このような重大資料がまともに取り上げられないのか?「全てはスターリンが悪い」という全く根拠の無い“政治的風評”が世を覆っている結果である。

 この「カチンの森虐殺事件」がドイツ軍―ナチス特別部隊―の仕業であったことは、当時の、ナチスポーランドの置かれていた関係、状況を見れば、一目瞭然である。

 ウイリアム・シャイラー著『第三帝国の興亡』には、アウシュヴィッツ収容所で何が行われたかついては詳しく書かれているが、「カチンの森事件」に関する記述はない。が、シャイラーはヒトラーユダヤ人及びスラヴ系民族(ロシア人やポーランド人)対策について、はっきりと次のように語っている。

 『ユダヤ人やスラヴ族は下級人類である。ヒトラーにいわせると、スラヴ族の一部はドイツの主人のために畑を耕し、鉱山で働く奴隷として必要かもしれないが、それを除いてほかのものには生きる権利はない。東欧にある大都会、モスクワ、レニングラードワルシャワポーランドの首都)などを、永久に抹殺するだけでなく、ロシア人、ポーランド人、その他のスラヴ民族の文化もまた根絶すべきであり、彼らには正式の教育をうけさせない。…

 「ロシア人やチェコ人がどうなろうと(それらの種族が栄えようと獣のように飢え死にしようと)、おれにはいささかの関心もない」とハインリッヒ・ヒムラーは一九四三年十月四日、ポズナニで行なった、S・Sの幹部にたいする秘密演説のなかでいった。その当時、ヒムラーは、S・ S第三帝国の全警察機構の親玉として、ヒトラーに次ぐ重要人物であり、八千万のドイツ人ばかりでなく、その二倍以上の被征服民族にたいして、生殺与奪の権力を持っていた。…

 このヒムラーの演説よりはるか前にナチ指導者たちは、東方の民を奴隷化する構想、計画を立てていた。一九四〇年十月十五日、ヒトラーは、その征服した最初のスラヴ族チェコの将来についての決定を下した。…その二週間前の十月二日、総統はやがて征服する二番目のスラヴ族ポーランド人の運命についての構想を明らかにした。ヒトラーの忠実な秘書マルティン・ボルマンは…そのナチの計画について、長い覚え書きを残している。

 「ポーランド貴族は根絶せねばならぬことを、是非とも念頭におかねばならない。どんなに残酷にきこえようとも、彼らはその場で絶滅しなくてはならない。ポーランド人には、ただひとりの主人、ドイツ人があるのみだ。ふたりの主人が並び立つことはできず、そんなものが存在してはならない。したがって、ポーランド知識階級の代表者たち(注:当時の一般的認識では貴族出身のポーランド軍将校こそ第一級の知識人であった)はことごとく絶滅しなくてはならない これは残酷にきこえるだろうが、生命の法則とは、そういったものである。…」』と。

 このヒトラーの命令は、ナチス党幹部とその特別部隊によって忠実に実行された。1939年10月から1940年春にかけて、ヒトラーの片腕ヒムラーは、ポーランド在住ユダヤ人とスラブ系ポーランド人を一方的にポーランド東部地方に追いやり、その途中で、何千という人々を射殺し、また多くの人々を冬の格別の寒さの中に投げ出して凍死させている。ヒトラーポーランド人に対する政策は、一言でいえば「国を全面的に解体する」「ポーランド人知識層が支配者になることは絶対に許さない」「ポーランド人をドイツの奴隷とする」というものであり、また、そのユダヤ人対策とは、言うまでもなく、「ユダヤ民族をヨーロッパから消滅させる」というものであった。その政策の執行は既に1939年10月から始まっていて、1940年春には、彼らは各地の収容所で既に20万ものユダヤ人・ポーランド人を殺害していた。1940年7月には、ポーランド領内に強制隔離収容所アウシュヴィッツが開所され、敗戦までの5年間に、ここだけでおよそ300万ものユダヤ人が虐殺された。こうしたホロコースト(大量虐殺)の執行・推進を担ったのはナチス治安組織―特別出動隊―であり、ヒムラ―やヘスの様なナチズムの思想で頭のてっぺんから足の先まで武装した、冷酷非情の死刑執行官たちであった。ナチスは、一方的に「ソビエト軍カチンの森事件を起こしたのは1940年春だった」と主張したが、この「1940年春」こそ、ナチスユダヤ人の隔離と虐殺、ポーランド人の虐殺と奴隷化を進めた時期であった。ナチスの特別出動部隊は、カチンの森においても、ポーランド各地で執行していた「ポーランドの知識層・指導者層絶滅政策」と同じ政策を、即ち、ヒトラーが命じた「ポーランド軍将校の大量殺害」を忠実に実行していたのである。

 カチンの森事件は、ヒトラーナチス軍団によるポーランド人絶滅策断行という激しい流れの中で生まれた悲劇的事件であり、ソビエト軍とはまったく何の関係もなく、況やスターリンの責任でも何でもない。

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第12回)   

 20221120日更新  次回更新は1130

 

 

《ウラン作戦》立案をめぐる嘘とデマについて

 

 こここでは二つの「嘘とデマを」を取り上げたい。

 一つは、ソビエト内部の裏切り者、「スターリン批判」者フルシチョフが持ち出した嘘とデマである。フルシチョフは、スターリン死後の1960年に出版された『第二次世界大戦史』(通称・大祖国戦争史)に、「1942年10月6日、フルシチョフとエリョーメンコは大反攻計画を作成し、大本営に送った。更に10月9日にもより大きな計画案を提示した。その後大本営はそれらの案に基づいて作戦計画を討議し始めた」と記録させ、「スターリングラード戦を勝利させた大反攻作戦の立案者は自分たちだ」と主張している。

 これがウソと偽りの「記録」であることは、ジューコフの『回想録』(1969年2月執筆)が明白に暴露している。曰く『スターリングラード戦線軍事会議(ここにフルシチョフがいた)が、10月6日に独自の立場から反攻の組織・実行を最高軍司令部に提案したとの説もあるが、これについては、ワシレフスキー元帥が…「戦史」に次のように書いている。「10月6日未明、われわれは…第51方面軍の監視所に向かった。…この日の夕方…戦闘司令所で軍司令官(エリョーメンコ)と軍事会議員(フルシチョフ)に会い、最高軍司令部(スターリン)が示した反攻計画(ウラン作戦のこと)を改めて検討した。戦闘司令部では、この計画に対する原則的な反対は何もなかったので、最高軍司令官スターリン宛の報告書を、6日の深夜までかかって作りあげた」。彼が述べた資料から明白なように、反攻作戦の立案では、最高軍司令部と参謀本部が主役を演じたのである』と。

 これについては先にも一度紹介したが、山崎雅弘氏が『新版・独ソ戦史』(2016年刊)の「後書き」で次のように批判している。『過去の独ソ研究では…「大祖国戦争史」とフルシチョフの回想録…を参考文献に挙げるのが慣例となっていたが、本書ではこの二種類の書物は書斎の棚に置いたまま、ほとんど参照しなかった。その理由は、両者とも政治的意図に基づく事実の歪曲や曲解、無視、粉飾などがはなはだしく、既に別の研究によって否定されている部分も多いからである。前者は…断片的なデータは参考になるが、後者は…「作り話」と事実の見極めが難しく、とりわけスターリンの戦争指導についての記述や、第二次ハリコフ戦で自らが果たした役割についての弁明など、他の研究者による実証的研究でほぼ否定されていることもあり、執筆中は混乱を避けるため、これらの文献は仕事机から遠ざけていた』と。「反スターリン派」の山崎氏の証言である。まことに「その言や善し」である。

 二つ目の嘘とデマは大木氏のそれである。氏は次のように主張している。

 『ソ連作戦術(注:大木氏によるとトハチェフスキーが創案したという戦術)は、その主唱者たちが大粛清でパージされたこともあって、いったん後景に退くことになった。また、同じく大粛清によって、作戦次元・戦術次元の指揮にあたる将校が大量に排除されたことにより、ソ連軍が緒戦で、質量ともに優越した装備を生かし切れず、敗北を喫したことはすでに述べた(注:これに対する反論は、独ソ戦の軍事に関する幾つかの「疑問・批判」について」を見よ)。一九四一年以来の大敗と苦難は、追放されていたり、脇役に徹していた将校の復帰をもたらした。参謀次長のアレクサンドル・N・ヴァシレフスキー上級大将は、それらのなかから、優れた参謀将校を選りすぐり、一九四二年夏から秋にかけ、たっぷりと時間をかけて、冬季攻勢の作戦を練らせた。フョードル・E・ボコフ少将を長とする、この小集団がソ連作戦術に依拠して、反抗計画を立案したのだ。従来ジューコフとヴァシレフスキーが起案したとされていた。天王星作戦も、今日では、彼らがつくりあげたものであることがわかっている』と。

 つまり、《ウラル作戦》という大作戦計画・戦略的な大作戦計画を立案したのは、トハチェフスキー派幹部―作戦・戦術次元の指揮にあたった将校クラスの小集団―であった、というのである。大木氏は、こうした主張を、それを支える根拠となる記録・文献をまったく示さず、繰り返し高言している。

 これは先に紹介したジューコフの証言、当の参謀次長ヴァシレフスキーの証言とも、また大木氏も読んでいるはずの『第二次世界大戦』の著者リデル・ハートの次のような見解とも真っ向から対立する。

 リデル・ハート曰くー『損害の増大、挫折感の高まり、厳冬季の到来などにより、攻撃軍(ドイツ軍)の士気は低下しつつあり、予備隊は残らず吸い上げられて、側面援護のための長大な戦線は弾力性を失ったまま延びきっていた。 反撃の機が熟しつつあった。ソ連軍は反撃準備を整え、充分な予備隊を集結して敵の張りすぎた側面を有効に叩こうとしていた。反撃(ソビエト軍のウラン作戦発動)は十一月十九、二十日の両日に火蓋が切られ、そのタイミグも上乗だった。反撃はこの冬最初の厳寒の到来により地面が硬く凍結して敏速な活動に便となり、かつ機動を麻痺させる大雪のこない時期に開始された。これはおりよく、ドイツ軍をその消耗の頂点でとらえた。…ドイツ第六軍と第四装甲軍をB軍集団から孤立させるべく、片刃がそれぞれ数個の先端を有する一挺のはさみが、スターリングラード攻撃軍の左右両側面に突き立てられたのである。それは主としてルーマニア(第三)軍が側面援護を担当している地区だった。作戦を立案したのはソ連参謀本部の傑出した三人、ジューコフ、ワシレフスキー、ウォロノフの各将軍だった。担当するのは《南西正面軍》総司令官ワトゥーティン、《ドン正面軍》ロコソフスキー、スターリングラード(もと南) 正面軍》イェレメンコの各将軍――。 ここで注意しておくが、東方戦線のソ連軍は、モスクワの総司令部(注:そのトップがスターリンであり、その代理がジューコフであった)の直接の指揮下にあって一二個 の《正面軍 》(Front)に分けられていた』と。

 リデル・ハートは『作戦を立案したのはソ連参謀本部の傑出した三人、ジューコフ、ワシレフスキー、ウォロノフの各将軍だった』と明確に断定し、彼らはモスクワの総司令部(中心はスターリン)の直接の指揮下にあった、と明言している。

 そもそも、このドイツ軍大包囲作戦たる《ウラン作戦》は優れて戦略的な作戦であって、トハチェフスキーが創案したという「縦深戦」理論―戦略と戦術を結び付けるという作戦術で、敵の最前線から後方までを、砲兵や航空機、起動戦力によって同時に制圧するという理論―とは全く別次元のものであり、更に言えば、こうした大作戦は参謀本部レベルの指導者によってしか考案されるものでなく、決して、戦術次元の指揮を執っているだけの、しかも「縦深戦」という戦術レベルの理論を信奉する将校クラスの幹部が発案・立案できるような代物ではない。こんな嘘とデマが通用するはずがない。

 

 スターリングラード戦後からベルリン陥落・ドイツ軍降伏まで

 

 1943年1月のドイツ第6軍の降伏をもってスターリングラード戦はその幕を閉じた。このスターリンソビエト軍の勝利は、まさにリデル・ハートが述べている通り、独ソ戦の転換点、即ち第二次世界大戦の転換点となった。そして、この時点からソビエト軍の戦略的反抗、戦略的大攻勢が開始され、その攻勢は1945年5月8日のドイツ軍無条件降伏をもって終わる。

 この2年余にわたる戦いによってソ連邦西部のウクライナ白ロシアベラルーシ)・バルト三国が解放され、ポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニアなど東欧諸国が次々とナチスファシズムの支配から解放され,、独立を取り戻した。

 だが、この戦いにおいても、ソビエト軍は多くの犠牲を払わされている。ドイツ軍は戦局が一転して防御にまわるようになってからも、ソ連アメリカ、英帝国の数百万の軍隊を向うにまわして、二年間も持ちこたえ、戦闘を継続した程に強大であり、しかも、ソビエト軍の対独戦を支援すべき「第二戦線」(ヨーロッパ地域における英米仏を中心とする対独戦線)の構築はなかなか進まず、そのためスターリンソビエト軍はより多くの犠牲を強いられた。

 この2年余の戦いについて、リデル・ハートは『第7部・全面的退潮-1944年』『第8

部・終幕-1945年』において、概括的に次のように述べている。

 『ソ連軍の攻勢には型とリズムがあり、その反復が、初期の段階よりもいちだんと鮮明になってきていた。このことがドイツ軍の抵抗力とその力が広範囲に延び切っていた態勢に、どれほど重圧となったかは想像するに難くない。ドイツ軍の予備隊は減少しつつあるのに、長大な戦線を守らなければらなかった。ソ連軍がますます巧みな変化に富んだ方法で敵の弱みにつけ込むありさまは、彼らの技量の向上をよく物語り、また自軍の新たな優位を活用するすべを身につけたことを明らかに示していた。ソ連軍が…一連の重要拠点を占領するに至った経過を調べてみると、いずれの場合も直接隣接した兵団の前進が進捗してから、目標地点に対し行動を起こす場合でさえ、まず間接的なアプローチによってその場所をほとんど維持できなくするか、あるいはせいぜい戦略的にこれを無価値なものとして、そのあとにこれを占領するという方法をとっている。この一連の間接的てこ入れの効果は、作戦行動の型の中にはっきりと見てとることができる。赤軍司令部は鍵盤上に両手を左右に走らせるピアニストにたとえることができるであろう。…

  • (注:「間接的なアプローチ戦法」について、リデル・ハートは「次から次へと別の地点に対する攻撃を反復し、一か所で抵抗が強化され最初の弾みが弱まると、一時攻撃を中止する。各攻撃はすべて次の攻撃を容易にすることを目標とし、また全部が互いに影響し合うように時を見計らって行われた。このためにドイツ軍は攻撃を受けた地点へ急きょ予備隊を送ることを余儀なくされ、これは同時に次の攻撃を受けそうな 地点への予備隊を削がれることを意味した。行動の自由は束縛され、手持ちの予備隊 はいよいよ減っていった」と説明している。この「間接的なアプローチ戦法」は、言うまでもなくトハチェフスキーの「縦深戦法」とは全く対蹠的な戦法、全く異質な戦法である)

 この戦法は(当時のソ連軍のように)敵に対する全般的優勢を保持してはいても、機動力には限りのある軍隊が攻勢をとる場合に適した方法である。これは、横方向に移動するための交通路線が不足し、そのため一地区における攻撃の成功を利用し、その戦果を拡張するために、別の地区から予備隊を迅速に移動させることがむずかしいような時と場所に好適な戦法である。ただ、そのつど新しい戦線へ突入することを必要とするため、この「幅広く」戦果拡張を行なう場合には、「奥深く」突破する場合よりも犠牲は大となりがちである。また迅速に勝ちを決することはむずかしいが、この戦法を用いる軍が充分な物量の優勢をもってこのような方法をもちこたえることができる限り、勝利は保証されているといえよう。

 この攻勢によりソ連軍は当然ドイツ軍より大きな損害をこうむった。しかし、ドイツ軍は自身の攻勢(スターリングラードへの攻撃)が大きな犠牲を払って失敗に終わった後だけに、受けた痛手はソ連軍の比ではなかった。ドイツ軍にとって消耗とは破滅を意味した。…

 このようなソ連軍の怒濤の進撃を阻止する見込みは、眼病をわずらっていたマンシュタインが解任 (1944年3月30日)されたため、薄らいでしまった。 マンシュタインの解任は、眼病が直接の理由とされていたが、真相はヒトラーとの軋轢にあった。マンシュタインヒトラーの戦略を理解に苦しむと評し、総統がとてものめない主張をしていたのである。こうしてドイツの軍人たちから最高の戦略家と目されていた人物が前線からしりぞいてしまっ た。…その間にもドイツ陸軍は、まっしぐらに深淵へと導かれていったのである。…

 ヨーロッパにおける大戦は一九四五年五月八日の真夜中、ついに公式に終了を告げた。…五月二日、南イタリア戦線におけるいっさいの戦闘は終了したが、降服文書の署名はその三日前に行なわれていた。五月四日、ルーンバーグ・ヒースのモントゴメリー司令部において、北西ヨーロッパ・ドイツ軍代表らが同様の降服文書に署名した。五月七日、ランスのアイゼンハワー司令部において、全ドイツ軍代表者たちが、英米仏ソの代表の参列のもとに厳粛に降服文書に署名した。 …ヒトラーは最後まで自分に尽くしたエヴァ・ブラウンと結婚した翌日、四月三十日、ソ連軍接近の報を耳にしながら 、ベルリンの総統官邸の廃墟の中で新妻とともに自殺を遂げた』と。 

 大木氏は、リデル・ハートの上記のような戦況分析とは全く異なる分析、むしろ対立する分析を持ち出し、この間の独ソ戦において重要な役割を果たしたのは、粛清されたトハチェフスキーが創案した作戦術―「縦深戦法」―であり、それを展開したトハチェフスキー派幹部であったという主張を、至る所で、繰り返している。この主張に対する批判は既に述べた通りである。繰り返しになるが、トハチェフスキー派の「縦深戦法」はリデル・ハートが評価している赤軍の「間接的なアプローチ戦法」とは全く別物で、むしろ対蹠的なものであり、更にまた、リデル・ハートは常に戦略的観点を土台に据えて戦術を論じているが、大木氏は戦略的観点抜きに戦術のみを論じている。どちらが要を得た戦況分析なのか、自ずから明らかである。「ソビエト軍の勝利を実現させたのは復活を遂げたトハチェフスキー派の指揮官・将校集団であった」などという嘘とデマをいったい誰が信用するであろうか。

 

 さて、次に、この間に発生した三つの問題を取り上げ、その中心点を論じておきたい。その第1は「第二戦線問題」であり、第2は「カチンの森事件」であり、第3は「ソビエトの東欧占領政策」である。

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第11回)   

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

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  <スターリングラード市街戦>

 ドイツ大軍団によるスターリングラード市への攻撃開始は1942年7月26日であった。スターリングラード市街戦は、この世地獄さながら、3ヵ月に亘り、すさまじい攻防戦が繰り広げられた。まさに、それは独ソ戦の最大の山場としての戦闘であり、第二次世界大戦の命運を決する、一大攻防戦であった。

 7月26日、ドイツ軍は、機甲部隊・機械化部隊を出動させて市街地への直接攻撃を開始した。ドイツB集団軍(中央集団軍)の主力攻撃部隊たる第6軍指揮官パウルスは、ヒトラーに「8月25日までにスターリングラードを占領せよ」と命じられており、必死であった。

 一方、8月初め、ドイツ軍作戦《ブラウ作戦》の全貌を把握したスターリンと国家防衛委員会もまた、スターリングラードの情勢が重大化しつつあることを再認識し、ソビエト軍の総力を投入して戦うとの決定を下した。そして、密かに反抗作戦の検討を開始。いずれ大反撃が始まるとして、それまで何としてもスターリングラードを守りぬかねばならなかったのであり、ソビエト赤軍スターリングラードの市民・人民は、寸土も譲らず、敵に反撃を加え、敵を翻弄し、自らの陣地を死守したのである。その合言葉は「ヴォルガ河の向こうの対岸に我らの居るべき土地は無い!一歩たりとも引くな!」であり、激戦に次ぐ激戦であり、まさに死闘の連続であった。

 8月23日、ドイツ軍は航空機2000機の大空襲を加え、工場、住民アパート、病院、駅、給水施設、石油タンク、輸送船、フェリー等々への無差別爆撃を敢行、至るところに火の手が上がり、市街は瓦礫の山と化した。しかし、逆にその瓦礫が「要塞」となり、ドイツ軍の侵入を防ぐ防御陣地となった。しかし、この日の夕刻、スターリングラード市北方から市街に侵入したドイツ軍の一部の擲弾連隊(小型砲火器で武装した歩兵連隊)が、ヴォルガ河の岸に到達した。ヒトラー歓喜し、「如何なる状況下でも現在位置を死守せよ」との命令を無線電話で送った。

 8月24日朝、ドイツ軍は、スターリングラード市の北方地域を確保すべく、戦車と自動車部隊を繰り出し、次々と歩兵部隊を注ぎ込んだ。この地域にはトラクター工場、兵器工場、トラック工場が配置されていた。瓦礫と化した工場建物の防御陣地に立て籠もった赤軍・市民軍は、ドイツ兵が「まるで魔法のように」と語った通り、次々と瓦礫の中から出現し、頑強に抵抗した。工場の労働者も、水夫も、未成年の青少年も、空襲警報を聞くや、集合地点に駈けつけ、小銃を受け取り、市街戦の前線へと出動していった。

 ヴォルガの岸壁に一番乗りしたドイツ軍部隊は、一時、武器弾薬、燃料、食糧不足から撤退に追い込まれようとしたが、トラック250台の部隊が送り込まれ、ようやく危機を脱した。ヒトラーはこの報を受けるや、ラジオ放送を通じて、直ちにドイツ国民に「勝利の快報」を知らせた。ドイツのみならず、全世界の報道機関が、「スターリングラードの運命は風前の灯である」と書き立てた。だが、ソビエト人民は不屈であり、祖国防衛の為に命を犠牲にして戦うことを恐れていなかった。

 市街戦大戦闘で、ドイツ軍を最も驚かせたのは若い女性志願兵からなるソビエト砲兵隊の反撃であった。この部隊には、高校を出たか出ないかの若い女性兵士が配置され、彼女らが計測、砲撃、偵察を担当していた。皆つい先ごろまで大砲など撃ったことのない者ばかりであったが、自ら志願し、トラクター工場防衛の戦闘に参加したのである。

 ドイツ空軍機が上空から集中攻撃を加える中、ドイツ軍の2縦列80台の戦車が、歩兵を乗せた車両を引き連れ、トラクター工場に襲い掛かった。ソビエト砲兵中隊は上空のドイツ軍航空機を撃ち、女性兵士らの部隊は砲身をゼロ角度に下げて旋回させ、地上を走って襲い掛かるドイツ軍戦車列の先頭車両に狙いを定め、果敢に反撃を加えた。ドイツ軍戦闘機は何度も急降下し、彼女たちが死守する砲台を標的に爆撃を加えた。だが、彼女たちは防空壕へ入るのを拒否して持ち場に留まり、何台もの戦車を撃破し、敵の進撃をくい止めた。彼女らは37台の大砲が全部破壊されるまで砲座を離れず、真正面から敵の戦車と対決し、そして全員が砲座の傍らで戦死を遂げた。

 この攻撃に参加した或るドイツ軍将校は日記にこう記している。「ロシアの女性を〝スカートを穿いた兵士〟と表現するのは完全な誤解だ。彼女たちは長い間戦闘義務を果たす準備をして来たし、能力を認められればどんな任務にもつく。ロシア兵はそういう彼女たちを大事にしている」と。

 8月29日、今度は、スターリングラード市の南部地区で、ドイツ軍の攻撃が始まった。9月2日のこの地域へのドイツ空軍の爆撃・空襲は、特に凄まじかった。唯一の補給路であったヴォルガ河の渡船に対する空襲・砲撃は、夜も昼も間断なく続行され、婦女子・病人・負傷者の対岸への移送も命がけであった。身を隠すための場所―市内のあらゆる建物、掘立小屋、下水口、広場、堀、水路等々が争奪の的となった。両軍とも生活はすべて地下に追いやられた。

 9月半ば、ドイツ軍は、今度は市の南と北の両方面から、市の中央部に在った小高い丘の上の墓地―ママイの丘―にその攻撃を集中させ、この丘を攻略・占領すべく、総攻撃を加えた。この丘の上、そしてその地下には、スターリングラード市街戦の総指揮を執っていた赤軍第62軍司令部があった。両軍の迫撃砲カノン砲が吠え、唸り、市中は完全に瓦礫の山、廃虚と化した。だが、ソビエト赤軍がこの丘を敵に渡すことは、遂に最後までなかった。

 あちこちに両軍の死体の山が築かれた。山の様な死体の中には、ヒトラーによって、故郷から遠く離れたこの地に送られて来たドイツ人、ルーマニア人、ハンガリー人、チェコ人等がいた。そしてまた、侵略者ヒトラー・ドイツと戦い、祖国のために命を捧げた、ロシア人、ユダヤ人、シベリア地方からやって来たウズベック・グルジア等々の非ロシア系民族の数多くの遺体が見られた。

 赤軍機関紙の著名な記者で、ユダヤ人反ファシスト委員会のメンバーであったグロースマンは、作家ショーロフが「皆が戦っている時に、アブラーム(ユダヤ人の代表的な名前)はタシケントソビエト南部ウズベック共和国の首都)で商売をやっている」と非難したと聞くや、前線から、次のような手紙を友人に書き送った。

『ここ南西方面軍には、数千、数万のユダヤ人がいて、吹雪のさなか自動小銃を担いで歩き、ドイツ軍が固守する町へ突入し、戦いの中で倒れている。こういったこと全てを、僕はこの目で見て来た。第1親衛軍の立派な司令官コーガンや、戦車将校たち、偵察隊員たち(注:皆ユダヤ民族出身者たち)にも会った。…必ず彼(ショーロフ)に伝えてくれたまえ、前線の同志たちは彼がどんなことを言っているのか知っている、と。彼は恥じ入るべきなのだ』と(『赤軍記者グロースマン』 アントニー・ビーヴァー 2007年 白水社刊より)。

 こうした事実が証明しているように、ドイツ軍・ファシストの侵略に反対する「ソ同盟大祖国防衛戦争」には、ソビエトの全民族が参加し、共に団結し、力を合わせて戦っていた。勿論、占領された地域の一部がヒトラー軍に参加するなどの事実もあった。しかし、スターリンの旗の下、全民族は結束し、ヒトラー・ドイツの略奪的侵略から祖国・社会主義ソビエトを守り抜くために死力を尽くした。この基本的な事実、基本的な勝利は、何人もこれを否定することはできない。

 先に、若い女性志願兵からなる砲兵隊が最後まで砲台を死守し、砲の傍らで斃れていった英雄的エピソードを紹介したが、『戦争は女の顔をしていない』(アレクシェーヴィッチ著)にも、スターリングラード戦に参戦した女性兵士の証言―悲痛な叫び―が採録されている。

『 タマーラ・ステバノヴァナ・ウムニャギナ 赤軍伍長・衛生指導員

 徴兵司令部に駆けつけてね。綿の粗布で作ったスカートだった。足には白いズック靴を履いてた。普通の浅い靴みたいでね、バックルつきの流行の先端。そういうスカートと靴で頼みに行ったんだよ。戦線に送ってくれって。…歩兵師団に着いた。これはミンスク郊外に駐屯していたのさ。「入隊なんかだめだ、17歳の女の子が戦列に加わるなんて男の恥だ」とか「もうじき敵をやっつけてやるから、女の子はおかあさんのところに帰りなさい」という調子。私はもちろんがっかりしたさ。採ってくれないんだから。どうしたか? 私は参謀長がいる司令部に行った。そこにさっき断った大佐がいるのさ。私は、言ったの。「もっと上の上官殿、大佐殿に従わないことをお許しください。私はやはり家には帰りません、みなさんと一緒に退却します。ドイツ軍にもっと近いところへまいります」あとになっても「もっと上の上官殿」とからかわれたわ。

 戦争が始まって七日目だった。退却が始まった。たちまち血の海にはまった。負傷兵がたくさん出た。…モギリョフの近くで駅が爆撃されていた。そこに子供たちを満載した列車が止まっていて、子供たちを窓から放り出し始めた。三歳から四歳の小さな子供たち。そう遠くない所に森があって、そこにみんな走っていく。すぐあとをドイツの戦車が続く。戦車の列が子供たちを押しつぶして行く。子供たちは跡形もなくつぶされた…その光景を思い出すと今でも気が狂いそうになるよ。…

 でも一番恐ろしかったのはもっと後のこと。 恐ろしかったのは、スターリングードだよ。戦場ったって、あそこは通りのひとつひとつ、家の一軒一軒、地下室という地下室から負傷者を引きずり出すんだよ。体中あざだらけだった。ズボンも血だらけ。曹長にしかられたよ。「これ以上ズボンはないんだ。後からねだらんでくれ」私たちのズボンは乾くとそのまま立てておけたほど。普通の糊付けだって、こんなふうに立ってはいないよ。血のせいだよ。角にあたれば痛いくらい。綺麗なところなんかまったくなし。何もかも燃えてしまった。ヴォルガで。水さえ燃えていた。冬だというのに河も凍らなかった、燃えていた。スターリングラードには人間の血が染み込んでいない地面は一グラムだってなかった。ロシア人とドイツ人の血だよ。それにガソリンとか...潤滑油とか...そこではこれより一歩も引けない、国全部が、ロシア国民が滅びるか勝利するかしかないとみんな分かってたのよ。誰にとってもはっきりした、そういう時が来たわけ。…

 補充兵がやって来る。若い元気のいい人たちが。一日二日でみんな死んでしまって、誰も残らない。私はもう新しい人たちが来るのが怖かったよ。その顔を覚えたり、話していたことを覚えたくなかった。だって、来たと思ったら、もういないんだから。二、三日のことさ。一九四二年のことだった。一番つらい、困難な時だった。三百人いたうち、その日の終わりには十人しか生き残っていないこともあった。それだけしか残っていなかった時、銃声も静まりかえって、みなキスし合ったよ。偶然にも生き残れたんだ、って泣いた。みな身内のようだった。一つの家族だった。

 見ている前で人が死んでいくのさ。どうにも助けになれないと分かっている。あと数分しか残っていない。その人にキスしてやって、優しい言葉をかけてやる。お別れの言葉を言う。でももう何の助けにもなれないのさ。その人たちの顔が今もありありと思い出される。一人一人の顔が見えるのよ。こんなに年月が流れて...誰も忘れないんだから不思議だよ。みんな忘れない、みんな見える。 …

 町中が破壊され尽くして、建物もめちゃめちゃ。もちろんこれは恐ろしかったよ。で も、人々が倒れていて、それが、若い人たちだったら...。息つく間もなくかけずり回って助けようとする。もう力尽きてしまう、あと五分も待てないって気がする。三月で、足下は雪解けの水...フェルト靴は履けない。私はそれを履いて行った。一日中そのまま這い回って、夕方にはびしょぬれでもう脱げなくなって、切り開くしかなかったけど、病気にはならなかった。信じられる? ねえ、あんた。

スターリングラードの戦いが終わって、もっとも重傷の者は汽船で運び出せという命令が下った。カザン市、ゴーリキイ市などへはしけで疎開させる。もう、春のこと。三月、四月。負傷者はいたるところに転がっていた。地下にね――塹壕、地下壕、地下室 に。あまりにたくさんいて言葉では表しようがない。すさまじいことだった!…移送の汽船の中は手、脚を失った人たち、何百人もの結核患者が集められていた。治療をしてあげなければならなかった。静かに言葉をかけながら。笑顔で慰めながら。私たちが移送に回された時、「これで戦いから休めるよ、頑張ったお礼だ」などと言われたけれど、実際はこれはスターリングラードの地獄よりもっと怖かった。スターリングラードでは戦場から負傷者を引きずり出して、応急手当をして、後方への移送車にひきわたせば、ああ、これで大丈夫と思って次の人を連れにまた這って行く。ところが、移送の船では負傷者たちがいつも目の前にいる...。戦場では「生き延びたい」と願って必死で生きようとする…ところが移送船では、食べたくない、死にたいって...その人たちは夜、汽船から水に飛び込んだ。そういうことがないように、見張って守ったけどね。…

 負傷者たちをウソーリエに運んだ。…そこにはもう新しい清潔な家が建っている、負傷者専用の。…汽船で戻る時は、空っぽだから休んでいいのに、眠れない。女の子たちはじっと横になっていて、とうとう、わっと泣き出した。みんなで負傷者たちに手紙を書いたよ。それぞれ分担を決めて。一日に3、4通。 …

 スターリングラードの近くでのこと...負傷兵を二人引きずっていく...まず一人を引きずって行き、また戻って二人目をというふうに交互に引きずっていく。ひどい重傷を負っていて、置いておけない。二人とも、足の付け根ちかくを撃たれて出血している。そういう時は一分一秒が大事なんだ。戦闘の只中から抜け出したところで硝煙が少なくなくなってからよく見ると、一人は戦車兵なんだけど、もう一人はドイツ兵なのさ。あたしは仰天した。すぐそこでわが軍の人たちが殺されているってのに。私はドイツ兵を救っているんだよ。パニックになったよ。...二人とも黒くこげてた。同じように衣服はぼろぼろに焼けて。見ると外国製のロザリオ、外国製の時計、あの呪わしい制服。どうしよう? 味方の負傷兵を引きずりながら考えた。ドイツ人のところに戻るべきか。分かってたんだよ、このまま置き去りにしたら出血多量でそのドイツ人は死んでしまう。あたしはその人の所に這って行った。負傷者を二人とも交互に引きずって行ったよ...スターリングラードでのこと...一番恐ろしい戦いだった。ねえ、あんた、一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。

 戦後何年もたって空を見るのが怖かった。耕した土を見るのもだめ。でもその上をヤマガラスたちは平気で歩いていたっけ。小鳥たちはさっさと戦争を忘れたんだね...』

 まさにこれこそがスターリングラード市街戦の戦場であった。タマーラさんの「そこではこれより一歩も引けない、国全部が、ロシア国民が滅びるか勝利するかしかないとみんな分かってたのよ。誰にとってもはっきりした、そういう時が来たわけ」という言葉が全てを物語っている。実に、スターリングラードの戦いこそ、祖国ソビエトの生死をかけた戦いであったのだ。

 そして、そのスターリングラードの戦場において、彼女は自国ソビエトの負傷兵だけでなく、負傷したドイツ兵をも救出している。こうした実例の証言は『戦争は女の顔をしていない』の各所に出て来る。このどこに、大木氏が酷評したあの「ナショナリズムの惨劇」があるというのか。「敵味方を問わず、たとえドイツ兵であっても負傷して戦えなくなった兵士はこれを救うために最大限の努力を尽くす」という、彼女らのこうした気高い人間性に溢れた行為・行動は、憎むべきは‶ドイツ人〟ではなく‶ナチスヒトラーと野蛮なファシスト〟であり、その魔手からわが祖国、ヨーロッパと世界人民を守るために自分たちは戦っているのだという崇高な信念抜きには、絶対に生まれ得ない。この崇高な信念こそ、スターリン社会主義ソビエトの党と政府が、独ソ戦第二次世界大戦を通じて繰り返し訴え、その強化を呼びかけてきた核心的思想であった。

 こうして、スターリングラードは、ソビエト赤軍と市民・人民の英雄的な闘いによって守り抜かれ、いよいよソビエト軍の大反抗作戦《ウラン作戦》の展開が始まる。

 

 ソビエトの《ウラン作戦》とドイツ第6軍の降伏・敗北

 リデル・ハートは大著『第二次世界大戦』では、スターリングラード市内の攻防戦、市街戦や戦術的決戦、そして《ウラン作戦》の発動・展開、ドイツ第6軍の降伏に至る経過については、あまり多くを語っていない。ただ、その『第五部・転換期(1942年)』の『第18章・独ソ戦局の転換』及び『第六部・衰退期(1943年)』の『第28章・ドイツ軍のロシア戦線撤退』において、スターリングラードの攻防戦におけるヒトラー・ドイツ軍の敗北が、独ソ戦と第二次大戦の決定的転換点となったと断定している。

さて、ソビエト軍の大反攻作戦《ウラン作戦》―ドイツ軍大包囲作戦―は如何に展開されたのかを見てみよう(主たる参考資料はジューコフの『回想録』、シャイラーの『第三帝国の興亡』、山崎雅弘氏の『新版・独ソ戦史』)。

 《ウラン作戦》の第1段階は、1942年11月19日に北部方面から、20日には南部方面から、それぞれ開始された。この作戦に参加したソビエト側の総兵力は、兵員100万以上、500門の火砲、900輌の戦車、1000機以上の航空機であった。このソビエトの大兵力が、即ち、北部の南西方面軍が敵の弱い一環・ドイツ軍外郭部隊のルーマニア3軍に、また南部のスターリングラード方面軍が敵の弱い一環・ルーマニア4軍に襲いかかり、ここを一点突破とし、一気に包囲網完成に向けて進撃を開始したのである。勿論、ドイツ軍総司令部は、こうしたソビエト軍の包囲作戦に、まったく気づいていなかった。ソビエト軍が、吹雪が荒れ狂う11月19日・20日早暁に、この大反攻作戦を開始した時、ヒトラーはアルプス山中の別荘で幹部将官連中と宴を楽しんでいた。そこに、新参謀総長ツァイツラーから「恐慌的通報」が飛び込んで来た。ソビエト軍は、僅か4日後の11月23日にはドイツ軍26万余の包囲を完成させ、包囲の環をじわじわと固く締めつけ、ドイツ第6軍とその司令部を恐怖に陥れていたのである。   

 時あたかも、スターリングラードには初雪が降り始めた。「冬将軍」の到来である。ソビエト軍補給部隊は、最高軍司令部の厳命を受け、ヴォルガ河の東岸から兵員、弾薬、食糧、防寒被服を山のように送り届けた。一方、ドイツ軍の冬用物資は、悪天候とロシア軍の攻撃によってもたらされた列車・道路網の破壊・破損の結果、前線への輸送が完全にストップしていた。ドイツ空軍は制空圏も奪われ、航空機による輸送も最早自由ではなかった。

 1942年11月22日、第6軍司令官パウルスはベルリンに向けて「わが軍は包囲されたり」と打電し、24日には「撤退命令」を求める電報を送った。だが、ヒトラーの命令は「あくまでもスターリングラード攻撃体制を死守せよ」というものであった。ドイツ第6軍は、スターリングラード攻略に向け、最後の総攻撃に踏み切った。5時間にわたって凄まじい白兵戦を展開した。ドイツ軍の一部は一時、ヴォルガ河にまで進出した。しかし、そこまでであった。翌日の夕刻には早やドイツ軍の攻撃は衰えを見せ始めた。

 その瞬間、ドイツ軍第6軍を包囲していたソビエトのドン方面軍と南西方面軍は一斉攻撃を開始し、ドン川に架かるカラチの大鉄橋を目指して進撃し、ここを占領。南方面からはスターリングラード方面軍が圧力を加えた。かくして第6軍を中心とするドイツ軍26万余が、ドン川とスターリングラード市・ヴォルガ河に挟まれた荒涼たる平原地帯に完全に閉じ込められ、完全に袋のネズミとなったのである。

 ヒトラーは、スターリングラードを「瓦礫の要塞」と化した時点で既に「勝利」を「達成」したものと思い込み、ドイツ国民に「祝報」を伝えていた。今更その「勝利」を否定することもできなかった。ヒトラーは、新たな部隊を送り、何としてもこの包囲を突破せねばならない、とした。その包囲突破のための新たな作戦行動の指揮を執ったのは、クリミア攻略でその知将ぶりを発揮したマンシュタイン元帥であった。彼が新たにドイツ軍ドン軍集団司令官に任命された。フランス北部からも急きょ装甲師団が呼び寄せられた。

 1942年冬の12月12日、マンシュタイン軍団は、スターリングラードから南方120キロ地点のコテルニコフから出撃を開始し、鉄道線沿いにスターリングラード市南口を目指して北上を開始した。

 ソビエト軍にとっては、あらかじめ予期し、準備していた《ウラン作戦》の第二段階―救出部隊撃滅・包囲軍殲滅作戦―発動の時が来た。ソビエト最高軍司令部は、赤軍部隊とパルチザン部隊を出動させ、マンシュタイン軍団の進撃を阻み、更に戦車・砲兵隊を投入し、軍団を大混乱に追い込んだ。また、マンシュタインが敢行した飛行機部隊による第6軍への食糧・冬用物資投下作戦に対しても、その飛行機出撃拠点を次々と攻撃、破壊、身動きが取れないようにした。

 マンシュタインは、「第6軍の中でスターリングラード市南部を占領している部隊を脱出、南下させ、こちらの救出部隊と結合させ、包囲網を打ち破る以外にない」とヒトラーに要請したが、ヒトラーは「スターリングラードからの脱出」を認めなかった。12月23日、マンシュタインは、直接、第6軍司令官パウルスに「脱出突破作戦」の強行を求めるが、結局パウルスもこの作戦の実施を決断できなかった。こうしてマンシュタインの救出作戦は完全に失敗に終わった。

 1943年1月8日、ソビエト赤軍のドン方面軍と南西方面軍の司令部は、いよいよ、ドイツ第6軍に「投降勧告」を行なう。彼らはこれを拒否。ドン方面軍は再度攻撃を開始する。ヒトラーはあくまでも「投降拒否」を命令する。が、次々と捕虜、犠牲者が生まれ、ドイツ兵の死体の山が築かれていった。戦死者・行方不明者の数は15万にも達していた。兵士の逃亡・逃走は止まず、もはや戦闘の継続は不可能であった。

 1943年1月31日、ヒトラーはしぶしぶ「撤退命令」を出す。2月2日、パウルス司令官とドイツ第6軍は投降勧告を受諾。ドン川とヴォルガ河の間の南北40キロ・東西60キロの狭い平原地に封じ込められたパウルス元帥以下第6軍26万(一説には33万)余が、遂にソビエト軍の捕虜となった。ソビエト軍の大反攻作戦《ウラン作戦》は完全に成功し、ソビエト軍の完全な勝利に終わった。

 かくして、独ソ戦の最大の山場たるスターリングラード攻防戦は、スターリンに率いられたソビエト赤軍、市民、人民の完全な勝利、ヒトラー・ドイツ軍の完全な敗北となった。1942年の秋の第25回革命記念日祝典の席上、スターリンソビエト人民に約束した『近いうちに、我々の街で、またお祝いをすることになるであろう』という言葉は、嘘偽りなく、見事に果たされたのである。

 《ウラン作戦》を直接指揮したジューコフは、最高軍司令部を代表し、この戦いを振り返り、ソビエト国民に向かって、次のように報告した。

 『スターリングラードにおけるわが軍の勝利は、独ソ戦の転換点となり、以後、戦局はソ連に有利となり、敵軍の退却が始まった。この勝利は、直接敵の撃滅にあたった諸部隊にとっては勿論、すべての軍需品を軍隊に補給するために日夜働き続けたソ連国民にとっても、長い間待ち望んでいた勝利であった。…ドイツ軍将兵ドイツ国民の間に、ヒトラー個人やファシスト指導部に対する不信感が急速に高まり始めた。ドイツ国民は、ヒトラーとその側近たちが国を冒険に引きずり込んだこと、ヒトラーが約束した勝利がドン・ボルガ・北カフカズで破滅した軍隊と共に消え去ったこと、を理解し始めた』(回想録より)と。

 世界的軍事評論家のリデル・ハートもまた、その著書において『スターリングラードではパウルスとその指揮下の第6軍の大半が(1943年)1月31日、降伏した。…「スターリングラードの悲劇」はそれ以後、各地のドイツ軍司令官の心に微妙な毒となって作用し、彼らが遂行することを求められていたその戦略に関する自信のほども、揺らいでいったのである。物質面よりむしろ精神面で、スターリングラードの大敗北はドイツ陸軍に回復不能の痛手を与えたということができる』と語り、ドイツ軍の戦略的敗北を明確に確認している。

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第10回)

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

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    独ソ戦の転換点―スターリングラード攻防戦

 独ソ戦争のみならず、第二次世界大戦の帰趨―ドイツ軍敗北の運命―を決定づけた戦闘が、このスターリングラードの攻防戦であったことは、今や第二次大戦の戦史研究家の間では常識となっており、大木氏もこれを認めている。リデル・ハートも『第二次世界大戦』の中の「第5部・転換期―1942年」において、「独ソ戦局の転換」(18章)「ドイツ軍のロシア戦線敗退」(28章)の2章を設けて、その事実を確認している。しかして、このスターリングラード攻防戦の見方には根本的に異なる二つの立場がある。それは戦略を基本に据えてみる見方と、戦術中心の見方である。当然のことながら、戦略を基本に据えない限り、このスターリングラード攻防戦の真実を見て取ることはできない。この点においても、大木氏はじめ多くの反スターリン派・反共主義者は戦術中心に戦況を見ているため、その戦評を読んでも、なぜソビエト軍が戦局を転換させる勝利を博したのかがよくわからない。

 リデル・ハートは、勿論、戦略的観点からスターリングラードの攻防戦を見ている。彼は次のように記している。

 『新たな一大攻勢開始の計画(注:ブラウ作戦=青号作戦)が、1942年の早い時期に進められていた。ヒトラーの決意は経済専門家らの圧力によって影響された。専門家らはドイツはカフカズの小麦、鉱石、石油の補給なしには戦争の継続は不可能と説いていたのである(注:この点、シャイラーは「第三帝国の興亡」において、「ヒトラーはたった一つの作戦―モスクワ攻略―では全部の赤軍を粉砕できないことが分かる程度のセンスはもっていた。この夏は、軍の大半を南方に集中して、カフカズの石油、ドネツ盆地の工業地帯、クバンの小麦畑、ヴォルガに臨むスターリングラードを占領する。そうすれば、ソ連は戦争継続に絶対的に必要な石油と多くの食糧と工業を失うことになり、一方、ドイツは、ほとんどソ連と同じくらいに必要性を痛感していた石油と食糧資源が手に入る。‶もし…石油が手に入らなかったら〟とヒトラーは、夏の攻勢が始まる前に、悲運の第6軍司令官パウルス将軍に告げた。‶その時はこの戦争を止めねばならない〟」と記している。戦前にヒトラーが立てていた政治戦略からも、このシャイラーの分析が正しいと言える)。

 主力(モスクワの南西方面にいたドイツ軍主力部隊)は黒海に近い南翼方面に傾注される予定だった。それは…ドン川下流に到達して、湾曲部と黒海河口の中間付近で、ドン川を渡河した後、一翼は南転してカフカズ油田地帯へ向かい、他方は東進しヴォルガ河畔のスターリングラードへ進撃する予定だった。…将軍たちの不安な問い(敵中央部―首都モスクワのこと―に対して同時に圧力を加えるのではなく、一側面―南部方面―のみに対して深く前進するいう作戦、この前進部隊の左はソ連軍の鼻先をかすめ、右は黒海という障害に阻まれるという陣形、自軍の内陸側防御をルーマニアハンガリー、イタリア等の外国寄せ集め部隊に依存するという陣形などに対する不安と疑問)に対して、ヒトラーは、カフカズの石油資源を確保することなくしてドイツは戦いぬくことは不可能との決定的拒絶をもって答えた』

  (注:ブラウ作戦の開始は1942年6月28日であり、その直前、アフリカ・サハラで
        はロンメル将軍が英国領エジプトを占領し、更に中東を抑えてカフカズに進撃す            ると言わんばかりの勢いであった)

 つまり、ブラウ作戦の目的は次の点にあった。ドイツ軍の大半をソビエト南部方面に集中させ、①南部方面に存在するカフカズ油田、ウクライナのドネツ炭田工業地帯、アゾフ海東岸のクバン小麦地帯を占領支配し、敵に打撃を与えるとともに、戦争継続のために必要な戦略物資を獲得すること。②ソビエト連邦の最高指導者スターリンの名を冠した南部方面の中心都市スターリングラードを攻略・破壊し、これによってソビエト赤軍の戦意を挫き、政治的優位を獲得すること。③ソ連中央部と南部方面を結ぶ戦略的幹線通路たる大河ヴォルガを押さえ、中央部への戦略資源輸送を遮断し、ソ連潜在的戦争能力に打撃を与え、その弱体化を図り、こうして南から再度モスクワへと進撃していくこと、であった。

 ドイツ軍総司令部の多くの将軍たちはこのブラウ作戦に反対であった。「残存戦力」が少なく、十分な「冬用装備」が期待できない以上、あくまでも短期決戦を貫き、年内に再度モスクワ攻撃を仕掛ける以外に活路はない、としていた。しかしながら、モスクワ攻略に完全に失敗していたドイツ軍総司令部と参謀本部には最早発言権はなく、ヒトラーがその声に耳を傾けることはなかった。

 

 ところで、ドイツ軍のブラウ作戦は1942年の早い時期から検討され、実行に移されたのは1942年6月28日であった。カフカズ油田への攻撃が始まったのは8月初め、スターリングラードへの攻撃開始は7月26日であった。他方、スターリンと国家防衛委員会が、スターリングラードの情勢が重大化しつつあることを再認識し、ドイツ軍作戦《ブラウ作戦》の全貌を把握し、ソビエト軍の総力を投入して戦うとの決定を下したのは、1942年夏―8月初め―のことであった。

 ここには確かに「時間的落差」―6月末から8月初め―がある。ソビエト軍は、この間、ドイツ軍の南部方面に向けた大進撃を許し、ハリコフ戦はじめ多くの戦闘で苦戦・敗北を強いられ、大きな損害を被った。ソビエト軍側に一気に戦略的決戦を遂行するだけの余力がなかったこと、戦力の補給、新しい戦力の補充にそれなりの期間を要したこと、そしてドイツ軍のブラウ作戦の全貌をまだ掴んでいなかったことが大きな要因であった。

 大木氏は、この事実を捉え、『ドイツ軍の攻勢はモスクワに向けられるとの固定観念のとりこになっていたスターリンは、こうした貴重な情報(注:捕虜から得られたはずのブラウ作戦に関する情報)でさえも、欺騙工作であるとして一顧だにしなかった。予備兵が南方に振り向けられることはなく、それらはモスクワ地域に留められたままだった』として、スターリンを強く非難している(注:独ソ戦緒戦に関して「スターリンの情報無視・不信」を非難したのと同じ論法)。

 この問題に関し、ジューコフは『回想録』の中で、1942年春のスターリンについて、次のように語っている。

『最高軍司令官(スターリン)は、ドイツ軍は一九四二年夏には、二戦略方向、たぶんモスクワと南部で、同時に大規模な攻撃作戦を行えるようになると考えていた。…敵が戦略的攻勢に出る恐れがあると考えられた二方面のうちで、スターリンは、敵七〇個師団が配備されたモスクワ方面を、なにより心配していた。…スターリンは、(ソビエト軍が)大規模な攻撃作戦を展開するには、兵員と器材とが十分でないと考えた。彼は、当分は、積極的戦略防御にとどめ、これと併せて、クリミアや、ハリコフ周辺、リゴフ―クルスクとスモレンスク方面、ならびにレングラードとデミャンスク地区で、一連の部分的攻勢作戦を実施する必要があると考えた。』(ジューコフによると、当時は「敵についての完全なデータが不足」していたため)『スターリンは、問題の複雑さからして、一般情勢と、夏の陣でのわが軍の作戦計画を検討するよう命令した』と。

 明らかに、スターリンは、既にこの段階で「ドイツ軍の二戦略方向―モスクワと南部―での大攻撃作戦」の可能性を考えていた。ただ、敵に関するデータが不足している段階では、「モスクワ重視」を貫いた。ソビエト国家防衛委員会も同じ結論であった。これは「固定観念のとりこ」でも何でもない。ドイツ軍のブラウ作戦についての「確かな情報」が入手されていない段階では、当然の判断であった(注:当時、ドイツ軍の多くの司令官たちも、ヒトラーに反対されはしたが、「モスクワ侵攻総力戦」を強く主張していた)。大木氏は、あたかも、当時既にブラウ作戦の存在が分かっていたかのような見方をしているが、それは「後知恵」というものである。

 スターリンと国家防衛委員会が、幾つかの戦闘及び探索活動で得た「信頼できるデータ」を収集し、それを分析し、スターリングラードの情勢が重大化しつつあることを認識し、ドイツ軍作戦《ブラウ作戦》の全貌を把握し、ソビエト軍の総力を投入して戦うとの決定を下したのは、1942年夏―8月初め―のことであった。

 リデル・ハートもまた、『この動き(1942年6月末発動のブラウ作戦に基づいてモスクワ南西部に居たドイツ軍主力部隊がヴォロネジ付近でドン河に達した大移動)は、いかにもドイツ軍が…モスクワからスターリングラードおよびカフカズに至る鉄道支線を切断することを意図しているように受け取れた。しかし、実際にドイツ軍にそのつもりはなかった。…このドイツ軍の左翼における作戦全体が、右翼方面(クールクス~ハリコフ付近)から実施しようとしていた攻撃の準備について、ソ連軍に対して秘匿するのに役立った』と述べ、この時期、ソ連軍がブラウ作戦の全貌を未だ捉えることが出来ていない事実を明らかにしている。

 クラウゼヴィッツが語っているように、戦争には「読み違い」や「計算違い」はつきものである。敵の戦力・戦闘力への過小評価があったり、味方の戦力・戦闘力に対する過大な期待・評価があったり、計算通りにはいかないことが多々ある。戦いの中で情報を集め、情報を正し、より正確な方針を打ち立て、また実践して行くほかない。一部の人々は、やれ「独裁者スターリンは重要な情報を無視し、聞かず、大失敗した」とか、やれ「敵の動きが見抜けなかった」などと、かまびすしく非難を繰り広げているが、それは皆、戦争と当時の力関係と生きた情勢を知らない者の「為にする非難」でしかなく、「後知恵」でしかない。

 

 さて、リデル・ハートは《ブラウ作戦》という作戦名こそ記してはいないが、ヒトラーの戦略を追って、南部方面―カフカズ・スターリングラード方面の戦いについて、次のように語っている。

 『主攻勢の左翼(主攻勢部隊の左翼―中心はスターリングラード奪取の任務を帯びたパウルス元帥指揮下の第6軍)において数日にわたる激戦が行われた後、第4装甲軍は…100マイルの平原を疾駆し、ヴォロネジ付近でドン河に達し…7月22日、さしたる抵抗にもあわずドン河を渡河した。…右翼(ハリコフ付近に居た主攻勢部隊―総司令官はリスト元帥で、中心部隊はクラスト麾下の第1装甲軍)は7月23日、ロストフ(注:カフカズへの入り口となる南部の都市)陣地の前線に到達し…同市はドイツ軍の手中に帰した』

 こうして、7月半ば、ブラウ作戦カフカズ・スターリングラード2正面策作戦―の部隊配置は整ったが、ハルダー総参謀長らはこの時も、ヒトラーのこの二正面作戦に反対し、ソ連軍の防備が完成していない今この時にこそ、兵力を集中し、一気にスターリングラード奪取を目指すよう進言するが、「ソ連軍は片付いた」とするヒトラーに拒否される。ヒトラーは、当時、「ヴォルガこそ祖国防衛線の最終ライン」(スターリン)とするヴォルガ河方面へと戦略的撤退を続けていたソビエト軍の動きを見て、これを「ソビエト赤軍の敗走瓦壊」と思いこんだ。その結果、7月半ば、ヒトラーは、突如、スターリングラードを攻撃すべく湾曲部に集結していた大軍団(B軍集団)の一部、第4機甲部隊を南下させ、ドン川河口に在るロストフに駐屯していた軍団・第1機甲部隊と共に、カフカズ油田地帯に侵攻していたA軍集団に合流させるという命令を下した。が、2週間後にはこのヒトラーの二正面同時攻撃の失敗が明らかになる。ソビエト側のスターリングラード防備の不備を察知したドイツ軍司令部は急ぎカフカズ方面から機甲部隊を呼び寄せ、集中攻撃を試みる。が「時既に遅し」であった)。結局、この二正面作戦の失敗がスターリングラード戦におけるドイツ軍の屈辱的敗北を決定づけた、と言って良い。

 そこで、まずは8月初めのカフカズ戦線から見てみよう。

 

 <カフカズ戦線>

 リデル・ハートはその戦闘経過を次のように語っている。

 『クライスト麾下の第1装甲車軍はドン河下流を渡河した後…カフカズへ進撃を続け、広い戦線へと散開した。…1942年8月初旬におけるドン河以南のこれらの部隊の突進速度は凄まじいものがあった。しかしその速度は上昇時と同じく突如として下降した。主因は燃料不足と山また山の地形にあった。…カフカズの山岳地帯はもともとドイツ軍の目標達成の障害だったが、接近するにつれいよいよ頑強なる抵抗のために困難は増大した。…            

 (赤軍の)同地方の守備隊は現地出身の兵からなっており、彼らは故郷を守るという意識に燃え、当然山岳地帯の地形に通暁していた。主要前進路を担当したクライスト麾下の第1装甲軍は、比較的順調に進撃したが、速度は次第に遅くなり、前進が渋滞し始めた。燃料不足が決定的傷害となった。…

 ソ連軍は騎兵数個師団をカスピ海沿岸に投入し、無防備なクライスト軍の東側方向から妨害を加え、広範な地域にわたって同軍の行動を牽制した。…ドイツ軍から見ると、敵の正体はつかまえどころがなく、側面に対する脅威は絶えず増大した。ドイツ軍機動部隊の一部はカスピ海の岸辺まで浸透していたものの、それは‶砂漠の蜃気楼〟に過ぎなかった。

 九、十の二ヵ月にわたってクライストは様々な地点に奇襲攻撃をかけ…たが、その都度阻止された。…最終段階で雨と雪のため遅滞が生じたが、クライストは当面の目標までもう一息の地点に迫った。この時、好機をとらえたソ連軍は…反抗を開始した。これにより、ルーマニア山岳兵団(クライスト軍の中心を担っていた)は一たまりもなく崩壊した』

 こうして、1942年9月初めには、ドイツ軍のカフカズ戦線での敗北は決定的になっており、ヒトラーもこれを認めざるを得なかった。『九月七日の夜、ヒトラー国防軍統帥部長のヨードル砲兵大将から報告を受け、カフカズの油田を年内に奪取することは兵力不足のために絶望的であると告げられた。…そして「青」作戦(ブラウ作戦)の主眼とも言える大目標を見失ったヒトラーは、彼に残されたもう一つの目標への執着を強めていった。B軍集団スターリングラード攻撃部隊)が目指すヴォルガ川沿岸の工業都市スターリングラードである』(山崎雅弘 新版・独ソ戦史)。

 石油奪取を目指したカフカズの戦いはドイツ軍の敗北に終わった。かくして、ヒトラーとドイツ軍は、山崎氏が指摘しているように、その野望とエネルギーのすべてをスターリングラード攻略に向けることになる。それ故、その攻勢は一段と凄まじいものとなった。

 次にスターリングラード戦線を見てみよう。

 

 <スターリングラード戦線>

 スターリングラード市は、ヨーロッパ最大の大河ヴォルガの西の小高い岸の上に、南北40キロに亙って細長く延びている大都市である(注:市街の東側を流れるヴォルガ河の河幅は1500㍍、水量は信濃川の15倍)。19世紀末、その人口は5・5万人に過ぎなかったが、1940年頃には50万人に達していた。ロシア革命直後の1918年、この地(当時はツァリーツィン町)でソビエト赤軍反革命白衛軍との決戦が展開され、スターリンの率いる赤軍が勝利し、この都市はロシア革命防衛の最大拠点となった。1925年、市の名はスターリングラードと改称され、ソビエト南部の水力発電・重軽工業の一大拠点都市となった。政治的にも経済的にもまさに南部要衝の地であった。

 リデル・ハートスターリングラード戦線の戦いについて、次のように記している。

スターリングラードへの直接進撃に当たったのは、パウルス(上級大将) 鷹下の第六軍であった。最初同軍は、ドン川とドニェツ川中間地帯北側を南下し、南側を進む装甲軍(第四装甲軍)に助けられて順調に前進していった。しかし進むにつれ戦線は縮小された。…退却途上のソ連軍が次々と実施する抵抗を打破するのが困難になった。…(1942年)七月二十八日、機動部隊先鋒のひとつがドン川のカラチ付近に到達した。カラチは…スターリングラードのあるヴォルガ西方湾曲部から40マイルそこそこにあった。…

 八月二十三日、ドイツ軍はスターリングラード進撃の最終段階開始の用意が整った。はさみうちの形をとり、北西から第六軍、南西から第四装甲軍が出撃する手はずだった。同日夜、ドイツ軍機動部隊はスターリングラードの北30マイルの地点でヴォルガ川に到達。また別動隊は同市の南15マイルのヴォルガ湾曲部に接近した。しかしこのはさみのふたつの刃は敵守備軍に阻まれて離れ離れのままだった。次の段階でドイツ軍は西からの攻撃を進め、半円型の圧力陣形が出来上がった。戦況の緊迫は、最後の一兵まで断固死守せよというソ連軍兵士への檄文にはっきりと現われていた。

  • (注:この「ソ連軍兵士への檄文」こそ、反スターリン派がこぞって「独裁者スター                    リンの冷酷非情の命令」と非難しているあの「ソ連国防人民委員令第227号」である。それは、撤退作戦の中止命令であり、「これ以上の後退は諸君の破滅を意味し、しかもそれは祖国の破滅につながる。一歩も引くな!」というものであった。戦線が最大の危機に瀕している時、これ以外に出すべき檄文―指令―があるであろうか?ない!そして、当然、逃亡者・裏切り者は銃殺されねばならない!クラウゼヴィッツも次のように述べている。『戦争は実に危険な事業であって、このような危険な事業にあっては、お人よしから生まれる誤謬ほど恐るべきものはない。物理的暴力の行使にあたり、そこに理性が参加することは当然であるが、その際、一方はまったく無慈悲に、流血にもたじろぐことなく、この暴力を用いるとし、他方にはこのような断固さと勇気に欠けているとすれば、必ず前者が後者を圧倒するであろう。戦争哲学の中に博愛主義をもちこもうなどとするのは、まったくばかげたことである。戦争は暴力行為であり、その行使にはいかなる限界もない』と。これが戦争なのだ!)

 赤軍兵士はこの呼び掛けに驚くべき忍耐力をもって応えた。神経を狂わせずにおかない戦況は、補給と増援にとっても厳しいものがあった。赤軍の背後を流れる幅二マイルの大河は、必ずしも不利条件とばかりはいえなかった。ソ連軍兵士にとってそれが抵抗を複雑にすると同時に、また強固なものにする一助ともなった。

弓なりにそったソ連軍のスターリングラード防御陣地に対し、果てしもなくドイツ軍の攻撃が繰り返された。…阻止に次ぐ阻止(ドイツ軍の攻撃浸透をソ連軍が阻止)から、同地区(スターリングラード)の心理的重要性が増大した。…‶スターリングラード〟もソ連軍にとっては勇気を鼓舞する象徴であり、ドイツ軍、とりわけその指揮官らには催眠術的意義をもつシンボルだった。‶スターリン〟の名がヒトラーに催眠術をかけて戦略を見失わせ、将来への配慮を完全に見失わせた。それはモスクワより更に運命的であった。なぜならその名はより多くのことを意味していたからである。

  • (注:この点についての山崎雅弘氏の次の指摘は傾聴に値する。『一般的なイメージとは異なり、ソ連赤軍の最高司令官スターリンスターリングラード を巡る戦いの情勢に多大な関心を払ったのは、自らの名が付与された町という単純な理由によるものではなかった。ドニェツ地方の工業都市スターリノをはじめ、彼の名にちなんだ都市は既にいくつもドイツ軍によって占領されていたが、スターリンは比較的冷淡にその事実を受け入れ、より戦略的に重要と思われる要素を優先する判断を下していた。スターリンにとってのスターリングラードとは、個人的な面子よりもむしろ、ソ連国民に与える心理的な影響という面において、決して譲ることのできない重大な戦略拠点だった。市街戦を戦う第62軍のスローガン「ヴォルガの背後に我らの土地なし!」が物語るように、一般のロシア人にとってはヴォルガ川とは祖国の象徴であり、この「母なる大河」を敵に明け渡すことは、ドイツとの戦争におけるロシア=ソ連の敗北を強烈に印象づける 効果をもたらすものと思われたからである』)

 攻撃(ドイツ軍のソ連軍防御陣地に対する攻撃)を続行することの不利と危険は、戦争体験のある冷静な頭の持ち主には歴然としていた。…この場合(ドイツ軍側には増援の可能性が無い)、長期戦の消耗に耐える力が無いのはドイツ軍の方だった。ソ連軍は甚大な損害を被っていたものの人的資源でははるかにめぐまれていた。…

 ドイツ軍参謀本部は戦局の不利をすぐに理解した。参謀総長ハルダーは…ヒトラーに対して道理を説いたがまたしても無駄であった…。ヒトラーのいらだった神経を逆なでした。攻勢継続に反対するハルダーの主張は冬が近づくにつれていよいよ熱を帯び、二人の関係は次第に耐え難いものになっていった。…かくして1942年9月末、ハルダー(注:リデル・ハートは戦略的指導に優れていたとしてこの参謀総長を高く評価している)が辞任し、その後を追って彼の部下数名も辞任する。…反撃の機が熟しつつあった。ソ連軍は反撃準備を整え、十分な予備隊を集結して敵の張り過ぎた側面を有効に叩こうとしていた』と。

 結局、ヒトラーとドイツ軍のスターリングラード攻撃の第1段階は失敗し、参謀総長ハルダーの解任を以って終わる。

 ヒトラーとハルダーは作戦をめぐって2度、3度と対立しているが、それは決して「ヒトラーの独裁的性格の問題」ではない。いわば「政治」と「軍事」の対立であった。ハルダ―解任の日、ヒトラーはその告別会見の席上、「われわれが今必要としているのは、国家社会主義的熱意であって、職業的能力ではない。私は、それを君のような旧式の将校からは期待できない」と伝えた。これを聞いたハルダ―は「ヒトラーは責任ある大将軍ではなく、政治的狂信者だ」と呟いた(『第三帝国の興亡』より)。まさに、カフカズ油田を巡るヒトラーとハルダーの対立の根底にあったのは、ヒトラーの政治的信念たる「国家社会主義的熱意」と、専門家たる軍人の「職業能力」との対立だった。

多くの歴史家は、一連の処分、軍首脳の解任・首切りの原因を単に「ヒトラーの個人的性格」「ヒトラーの独裁的資質」に求めるが、そうではない。ヒトラーの政治的信念、即ちソビエト侵攻の政治目標は、あくまでも、この地を「ドイツ民族の生存圏」たらしめることであり、ただ単に戦闘に勝利することだけが目的ではなかった。ドイツ・ゲルマン民族が生き延び、その使命たる「千年王国」を建設するためには、また当面するモスクワ、スターリングラード攻略を成功させ、その占領を維持し抜くためには、ウクライナの炭田・小麦地帯及びカフカズ油田地帯の占領支配が絶対に必要だったのである。

 だが、ヒトラーの政治的信念―戦争の政治目的―は、結局のところ、ドイツ軍将兵の心を捉えることができなかった。いわんや、ドイツ国民の心を。それは、ヒトラーの思想が、非人間的で反人民的で野蛮で反動的なファシズム思想だったからであり、それ以外のなにものでもない。

 

 <スターリンソビエト軍の大反抗作戦>

 さて、いよいよ、スターリンソビエト赤軍の本格的な大反撃大反抗が始まるのであるが、残念ながら、緒戦時と同様、ここでも、リデル・ハートソビエト軍の戦略的大反抗作戦については、あまり詳しく語っていない。したがって、これについては、筆者の方で詳しく取り上げることとする。(参考資料はジューコフの『回想録』、シャイラーの『第三帝国の興亡』、山崎雅弘氏の『新版・独ソ戦史』)

 1942年8月27日、ドイツ軍の《ブラウ作戦》の全貌を掴んだスターリンと最高軍司令部・国家防衛委員会は、ジューコフを最高軍司令官代理(スターリンの代理)に就け、スターリングラード地区への派遣を決定した。この年の夏、南部方面軍が指揮した一連の戦い、特にハリコフ作戦の失敗は、事前にハリコフ作戦に警告を発していたジューコフの指摘の正しさと彼の作戦能力の優秀さを証明した。スターリンは、いつもそうであったが、この時も、実践によって検証された彼の能力を認め、評価し、然るべき地位に抜擢したのである。(注:ハリコフ作戦は、南西方面軍司令官ティモシェンコと彼を熱心に支持していたフルシチョフの自信満々の提案―主導―で実行されたものであったが、手痛い敗北を喫した。フルシチョフはこの件について一切口を閉ざし、沈黙したままである)。

  • (注:よく戦史研究家は「独裁者スターリン独ソ戦の初期は軍人の言うことを聞かず、自ら指揮を振いたがり、緒戦の敗北を招いたが、スターリングラード戦以後は、ヒトラーと違って、軍人たちの意見を尊重するようになった」との見解を打ち出しているが、これは極めて皮相的な見方である。赤軍トハチェフスキーらの粛清によって重大な危険は取り除いたが、当然のこと、新たに幹部を養成し、適材適所に配置するという課題を一気に解決することはできなかった。それは組織的に、また実践のなかで実践を通じて一つ一つ検証し、解決する以外になかった。慎重派のスターリンはこの原則を厳格に守った。ジューコフの場合も、最初から有能な司令官としての評価があったわけではなく、最初から「スターリンの片腕」であったわけではない。緒戦時、ジューコフは「モスクワ防衛のためにはキエフからの撤退もやむなし」と主張し、スターリンはじめ他の最高司令部メンバーに反対され、一時、レニングラードに飛ばされている。しかし、後にキエフは放棄せざるを得なくなり、レニングラード戦線の劣勢もジューコフによって覆され、ジューコフの有能さが検証され、スターリンと最高司令部の信頼を得るようになり、その評価が高まった。こうした経過を経て、最高軍司令官代理(スターリン代理)のジューコフが生まれたのであり、他の幹部配置も同様であり、こうして赤軍司令部・最高本部の立て直しが完成させられていったのである。このような経過に対する正しい認識を抜きに行われている「独裁者スターリンは軍人の言うことを聞かず云々」の評価は、やはり‶皮相的〟と言わざるを得ないであろう)

 1942年9月12日、最高軍司令官スターリンと、最高軍司令官代理でスターリングラード地区担当のジューコフ参謀総長ワシレフスキーはモスクワの大本営に会し、スターリングラード戦大反攻作戦《ウラン作戦=天王星作戦》の検討を開始した。この反攻作戦の原案を作成したのは、現場を指揮するジューコフとワシレフスキーであった。この作戦の根本は、第一段階で、スターリングラードを攻撃するドイツ軍部隊の防御を突破し、これを包囲し、この部隊を外部兵力から完全に孤立させる。そのための外郭陣地たる包囲網を作る。第二段階で、包囲された敵を殲滅し、且つまた外側からこの封鎖を解こうとする敵部隊を撃滅・撃退する、というものであった。

 スターリンは、この作戦計画を承認し、「この遠大な大反攻作戦を勝利させるためには、現有兵力だけでは不十分であり、予備軍の編成が必要であり、さらなる検討が必要である」とし、最後に「ここで検討したことは、当分、我々―スターリンジューコフ・ワシレフスキーの3人―以外に知らせてはならない」と言明した。勿論、捕虜の自白による漏洩の危険性もあったが、当時の戦地間を繋ぐ電話は容易に盗聴されるようなレベルの物しかなく、敵の通信傍受の心配もあったからだ。

 ジューコフとワシレフスキーは、1942年10月末から11月初めにかけて、南西方面軍の司令部・参謀部・各部隊を回り、全力を傾注して反攻計画の意図と実施方法を伝え、意志統一を徹底させた。そして、同時に、党と政治機関は軍内部における政治活動―スターリン赤軍独特の思想政治指導機関として政治委員制度の拡充に力を入れていた―を展開し、赤軍内部の思想的政治的強化に力を入れた。

 《ウラン作戦》とは具体的には――。この作戦の第一段階の目標は、スターリングラード付近のドイツ軍の主力部隊―中心はドイツ第6軍―の完全包囲にあった。この作戦遂行の主力部隊として新たに結成された南西方面軍(司令官ワトゥーチン)が、まずドン川右岸のセラモビッチ・クレツカヤ地域にある作戦根拠地から行動を開始し、ドン川渡河を敢行、この地域一帯を守っているルーマニア3軍の防衛線を突破し、攻撃を急速に拡大し、一気にカラチ方面に進出する。こうして、敵の主力である第6軍の背後に回り、西方への退路を遮断する。ドイツ第6軍の北方にいるドン方面軍は南下して第6軍に攻撃圧力を加え、北への逃げ道を封じる。スターリングラード市街南方の方面軍は、サルバ湖沼地帯から攻勢に出て、ルーマニア4軍の防衛線を突破し、西北方向に攻撃を拡大してカラチに向かい、南西方面軍と連絡し、ここで敵の第6軍の包囲網を完成させる。第二段階で、包囲された敵を殲滅し、且つまた当然予想される外側からこの封鎖を解こうとする敵部隊を撃滅・撃退する。そのために、党と人民は総力を挙げて近代兵器、航空機や戦車、資材などを準備する、というものであった。

 そして、この大反攻作戦《ウラン作戦》の実施は、北部に配置された南西方面軍とドン方面軍がドン川渡河に要する時間を考慮して11月19日を行動開始日に、南部に配置されたスターリングラード方面軍は11月20日を攻撃開始日とする。これが最終決定であった。

 かくして、この《ウラン作戦》発動、展開の時まで、何としてもスターリングラードを防衛すること、それが絶対的課題、絶対的使命となった。スターリングラード防衛部隊は、引き続きスターリングラードの市内で郊外で激戦を展開し、ドイツ第6軍をスターリングラード付近に釘付けにし、彼らの注意力を奪い、背後の《ウラン作戦》に気付かないようにさせ、その発動、展開を容易にさせた。この間、ドイツ軍総司令部は、この《ウラン作戦》について、まったく気づかないままであった。彼らの意識はスターリングラードに釘付けされたままであり、したがって、元々手薄だった北部のルーマニア3軍、南部のルーマニア4軍の補強は、何一つなされなかった。

 1942年11月7日、第25回革命記念日のこの日、記念式典に姿を現したスターリンは、確信に満ちた口調で、全赤軍・全人民にこう呼び掛けた。『近いうちに、我々の街で、またお祝いをすることになるであろう!』と。勿論、大反攻作戦《ウラン作戦》の戦勝祝いの予告であった。

 さて、次にスターリングラード市街戦について見てみよう。

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第9回) 

 

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

 

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 レニングラード・モスクワ攻防戦

 レニングラードロシア革命前のペトログラード1924年1月、レーニンの死去にあたり、町名をペテルブルグからレニングラードに変更)は、亡命先から帰国したレーニンが、最初に‶ロシア革命の号砲〟たる『四月テーゼ』の演説を行った記念の地であり、ロシア革命の聖地である。そして、モスクワは言うまでもなくソ連邦の首都である。

ヒトラーは、こうした歴史と現状から、ソ連邦を自らの支配下に屈服させ、隷属させるために不可欠な作戦として、総力を挙げて首都モスクワ占領を目指すともに、レニングラードの壊滅を目指したのである。

 

  レニングラード攻防戦〉

  1941年9月、ヒトラーは次のような指令を発した。『この都市(レニングラード)を近接包囲し、砲撃と連続空爆により完全に破壊するのが、わが方の意図である…。この都市の明け渡しの申し入れは拒否すべきである。 なんとなれば、住民の生命を救い、これに食料を供給することは、わが方で解決し得ず、解決すべからざる問題である』と。

 シャイラーの『第三帝国の興亡』は、『その数週間後、ゲーリングは…告げた。「今年、ソ連では、二千万から三千万の人間が餓死するだろう。たぶん、そんなことになるのもいいことかもしれない。あの国民は大幅に減らさなくてはならないからだ』と。

 そんな意図を持つヒトラーとドイツ軍の取った作戦は「兵糧攻め」であった。

 ヒトラーとドイツ軍・北方軍集団は、1941年9月6日、この偉大なレーニンの名を冠したソビエト北方の中枢都市・レニングラードへの総攻撃を開始した。ヒトラーの狙いは、まずここを陥落させ、更に北上し、フィンランド軍と合流し(注:フィンランドはドイツとリュティ=リッペントロップ協定を結び、ドイツと共に戦うことを誓い、ソ連に対して宣戦を布告していた)、その上でモスクワ攻撃に向かう、というものであった。ドイツ軍はレニングラードと外部を結ぶ交通の要衝を押さえ、陸路連絡網を遮断し、市内に立て籠るソビエト軍を包囲し、過酷を極めた兵糧攻めを開始した。

 ドイツ軍による包囲は1941年9月から1944年1月までの872日間に及び、63万人以上の餓死者が出た。しかし、20万人以上の市民が義勇軍に志願し、全市民が総出で市の防衛に当たった。圧倒的多数の市民は、撤退、避難を拒否し、戦闘に出動した。食料の備蓄が尽きると、革製のブーツやベルト、油粕など、食べられるものは何でも食べた。零下30度の凍てつく寒さの中、暖房も電気も、ストーブにくべる薪もなく、食べられないものは何であれ家具も本も何でも燃やした。市内のいたるところに設置されたスピーカーからは、昼夜問わずにラジオ放送が流れ、市民を励ました。いつ終わるともしれない凄惨な状況の中、人々は支え合い、助け合い、励まし合い、懸命に生命をつないだ。レニングラードの危機を察知したスターリンは元帥ジューコフレニングラード方面軍の司令官に就け、起死回生を図った。ジューコフはその期待によく応え、戦線を立て直し、ドイツ軍を守勢に追い込んだ。

 レニングラードプロレタリアートと人民は、1971年3月、パリ・コミューンの戦士たちが「降伏するよりも死を!」と叫びながら、敵に屈服することなく、最後までブルジョア政府と戦い抜き、銃弾に倒れていった歴史的事件を忘れてはいなかった。1970年7月、大ドイツ帝国への拡張を目指す北ドイツ連邦の盟主ウィルヘルムⅠ世はフランスへ侵攻し、パリに迫った。恐れをなしたフランスのブルジョア政府は降伏し、屈辱的な「講和」を受け入れた。しかし、パリの労働者と市民は、降伏を拒否し、武装し、バリケードを築き、パリ・コミューンの旗の下、「祖国防衛の戦い」に決起し、敗北を恐れることなく、不屈に戦い抜いた。

 レニングラードの市民・赤軍もまた、「降伏するよりも死を!」合言葉に、断じて敵に屈服することなく、「祖国のために!」「スターリンのために!」の旗を掲げ、ヒトラーとドイツ軍の包囲・兵糧攻めに耐え抜いた。人々は今なおこう語りあっているという。「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」と。

 1942年12月、スターリンソ連最高会議幹部会は、レニングラード市に対して「防衛メダル」を授与し、「英雄都市」の称号を与え、その偉大な戦闘を讃え、激励を送った。ソビエト人民にとって、レニングラードは「勇気と革命的自己犠牲のシンボル」となり、独ソ戦が終わる日まで、ソビエト人民を激励し続けたのである。このレニングラードの英雄的戦い抜きに、ソビエト軍のモスクワ戦での勝利もなかった。そう断言して間違いない。

 大木氏は、このレニングラード攻防戦について、『1943年1月18日に解放されるまで、このドイツ軍の封鎖によって、レニングラード市民が嘗めた悲惨は筆紙につくしがたい』と記しながら、他方でこう記している。『レニングラードの惨状を招いたのは、ドイツ軍だけではない(注:ドイツ軍の責任ではない、というのだ)。革命の聖都を放棄しようとすることをよしとしなかったスターリンは、敵がレニングラードの門前に迫っても、市民の一部しか避難させなかった。その結果、およそ、300万人が包囲下に置き去りにされることになった(注:いったい誰が市民を置き去りにして撤退、逃亡したというのか!)。さらに、レニングラードの防衛態勢を維持するために秘密警察は…動揺する者、統制に従わない者を‶人民の敵〟として狩り立てたのである』と。

 つまるところ、大木氏は、「レニングラードを放棄せよ!」と‶命じて〟いるのだ。「闘うな!避難、撤退せよ!降伏せよ!」「死よりも降伏を選べ!」と。こういう「指揮官」の記す戦史研究論文を誰がまじめに読もうとするであろうか。

 

 〈モスクワ攻防戦〉

 ドイツ軍は緒戦の奇襲攻撃に失敗したものの、それでも、1941年7月半ば、ボッグ元帥率いるドイツ中央軍集団は、モスクワに通じる西の関門たる要衝の地スモレンスクに突入し、これを占領した。モスクワまで後200マイル、320キロの地点であった。

ボッグとドイツ陸軍総司令部の作戦は「このまま進撃し、総力を挙げて敵の神経中枢たる首都モスクワを攻略すべし」というものであった。ソビエト軍の手強さを痛感しつつあったボッグとドイツ軍総司令部は、モスクワに近付きつつあったこの時、総力を投入しての「早期攻略」「早期決戦」を強く主張した。

 ところが、ここに至ってもなお「ソ連、組みし易し」との自信を持ち続けていたドイツ国防軍最高指揮官ヒトラーは、あくまで強気で、モスクワ攻略を多少遅らせても、行き詰っていた北部のレニングラード攻撃、南部のカフカズ油田とウクライナの炭田・食糧地帯占領―補給源の確保―先行させるとの方針を打ち出した。その結果、ドイツ軍総司令部は、ヒトラーの決定に従い、モスクワ攻略部隊たる中央軍集団の一部を援軍として北と南に回し、北、南、中央の三か所で一斉に大攻勢に打って出た。しかし、北と南からの攻略も、中央の攻撃も、完全に失敗に終わった。

 既に秋雨の季節が始まり、冬が間近に迫り来ようとしていた。ドイツ軍総司令部が何よりも恐れていたのは、ナポレオンを敗走させたあの「冬将軍」の到来であった。「短期決戦での勝利」を確信していた彼らにとって、やはり最大の心配の種は、冬に備えた兵站面(兵器・弾薬・食糧の輸送と保存)の不足、遅れであった。

 1941年9月30日、ヒトラー・ドイツ軍によるモスクワ戦線総攻撃《台風作戦》が始まった。ヒトラーは、将軍たちの提言を受け入れ、北と南に出していた機甲部隊(戦車・装甲車部隊)と戦車部隊を呼び戻し、再び中央集団軍の態勢を整えた。この攻撃に参加していたドイツ軍総兵力は、ソビエトのそれよりも、歩兵で1・4倍、戦車で2・2倍、砲と迫撃砲で2・1倍、航空機で2・1倍も上まわっていた。ただ、このような兵力比較が判明するのは戦争が終わった後のことであったのだが。

 ドイツ中央集団軍主力部隊は、10月6日、局地的に降り始めた秋雨がやがてみぞれ交じりの小雪へと変わり、道路網は泥沼と化した中、歩兵が先頭になり、泥まみれになって1キロ、2キロとモスクワへの距離を縮めていった。そして、遂に、モスクワから南西160キロ地点に在る古都カルーガ付近にまで到達。10月13日、南から、北から、西から、ドイツ軍の総攻撃が始まり、モスクワ空襲が始まった。その作戦名通りの強烈無比の<台風>がモスクワに襲いかかった。空軍が敵陣地に爆弾を落とし、この空軍に支援された戦車兵団が先陣を切って突入し、その後に、大量の自動車部隊を擁する歩兵師団が続く。これが、ドイツ軍得意の戦術であり、攻撃スタイルであった。

 スターリン赤軍最高司令部もまた首都モスクワ防衛に備え、この方面に赤軍の主力を配置させていた。スターリンは、レニングラード戦を指揮していたジューコフを呼び寄せ、モスクワ防衛戦の作戦決定に参加させていたが、10月に入ると、レニングラード防衛の責任を立派に果たしていたジューコフをモスクワ防衛の中心部隊である西部方面軍の司令官に任命した。

 フルシチョフや大木氏は認めようとしていないが、赤軍司令部幹部ジューコフ、ワシレフスキー、アントーノフ等は皆、トハチェフスキー粛清後の赤軍再建を担った若き将校団に属しており、彼らこそ赤軍を清新にして若々しい革命的戦闘部隊に生まれ変わらせた中心勢力であった。後に、スターリンと共にスターリングラードの戦いを指揮したのも、このジューコフ・ワシレフスキーらを先頭とする若き軍人・指揮官たちであったのだ。

 空襲警報が、毎夜、モスクワの街に鳴り響いた。首都モスクワを敵に奪われる訳にはいかない。何としても、ここを守り抜かねばならなかった。国家防衛委員会は、急ぎモスクワの政府機関の一部と外国大公使館を600キロ東方のヴォルガ河畔の都市クイブィシェフに移転させる決定を下した。その上で、ソビエト赤軍、モスクワ市民総ぐるみの大反撃が始まった。党の指導のもと、モスクワ市民によって12の人民義勇軍師団が編成された。労働者、技師、学者、芸能人、様々な職業の専門家がこれに参加し、闘いながら軍事知識・軍事技術を学んでいった。その結果、数万、数十万のモスクワ市民・義勇兵が、昼夜ぶっ通しで、首都モスクワの防御陣地の構築に取り組むことが可能になった。

 ボルシェヴキ党西部方面軍軍事会議―党政治委員の集まり―は、全党、全軍、全義勇軍にこう呼びかけた。「諸君!国家危急存亡の時、兵ひとりひとりの生命は祖国のものである。祖国は、われわれひとりひとりに最大の努力、勇気、ヒロイズム、不屈さを求めている。祖国はわれわれに、不落の壁となり、愛するモスクワへ迫るファシスト軍の前に立ちふさがるように求めている。今こそ、警戒心、鉄の規律、組織力、決然たる行動、勝利への不屈の意欲、そして自己犠牲の心構えが要求されている!」と。

 そして、1941年11月7日―「十月社会主義大革命24周年記念日」がやって来た。外国メディアは祝賀行事の開催を危ぶんだが、前日6日にはマヤコフスカヤ地下鉄駅前で祝賀集会を開催し、更にボリシェビキ党中央と最高軍司令部は、断固としに7日当日には「赤の広場」で恒例の軍事パレードを挙行した。

 そして、この祝賀集会と軍事パレード双方の先頭にスターリンが立っていた!最高司令官スターリンは、モスクワに止まり、人民大衆の前にその雄姿を見せ、ソビエト人民を鼓舞激励し、その士気を大いに高めた。その力強い演説はまさに祖国防衛戦争を闘うソビエト赤軍・人民の《戦闘綱領》に他ならなかった。

 『敵は、ウクライナ白ロシア…その他の多くの州を占領し、ドンバスに入り、暗雲のようにレニングラードに垂れこめ、わが光栄ある首都モスクワをおびやかしている。ドイツ・ファシスト侵略者どもはわが国を略奪し、労働者、農民、インテリゲンツィアの労働によってつくられた都市と農村を破壊している。…老若の別なく、わが国の平和な市民を殺害し、市民に暴行を加えている。…わが陸海軍の将兵は、敵を討って血河とし、祖国の名誉と自由を擁護し、野獣と化した敵の攻撃を雄々しく反撃し、剛勇と英雄主義の模範を示している。しかし、敵は犠牲をものともせず、自国兵士の血を少しも惜しむことなく、…次々に新しい部隊を戦線に投じ、冬になる前にレニングラードとモスクワを奪取しようと全力をあげている。何故なら、敵は、冬が彼らに何も良いことを約束していないことを知っているからである。

 わが軍はこの4ヵ月間に、戦死者35万人、行方不明者37万8千人、戦傷者102万人を出した。敵は同じこの時期に、450万人以上の死傷者と捕虜を出した。…既に人的予備を消耗しつつあるドイツが、いまようやく予備を完全に展開しつつあるソビエト同盟よりも著しく弱体化したことは、疑う余地がない。

 ドイツ・ファシスト侵略者どもは、わが国に攻撃を企てるにあたって、1ヵ月半から2ヵ月間で必ずソビエト同盟を〝かたづけ〟て、この短期間にウラルに到達することができると考えていた。今では、この気ちがいじみた計画は徹底的に失敗したと考えなければならない。…  

 これらの有利な条件(注:英米仏など他の諸国との新しい連合が実現したこと、ドイツ侵略によって国内の労農同盟、諸民族の友情、赤軍の士気が遥かに高まったこと等)と共に、赤軍にとって不利な条件も幾つかあり、そのためにわが軍が一時的な失敗をなめ、退却を余儀なくされ、わが国のいくたの州を敵にわたさなければならなくなっているのもまた、真実である。…赤軍の失敗の一つは、ドイツ・ファシスト軍に対抗する第二戦線が存在しないことである。…そのためにドイツ軍は兵力を東西二つの戦線にわけて戦わなくてもよいというのが現状である。…わが軍の一時的失敗のもう一つの原因は、われわれの手に戦車と、いくらかは飛行機も足りないことにある。現代戦では、歩兵が戦車なしに、空軍の空からの十分な掩護なしに闘うことは非常に困難である。…ここ(この二つの原因を取り除くこと)に現在の任務がある…し、どんなことがあっても遂行しなければならない。…

 ドイツは現在、他国領土の獲得と多民族の征服を目当てとする不正義の侵略戦争を行なっている。だから、誠実な人々はすべて、ドイツ侵略者どもを敵として立ち上がらねばならない。…ソビエト同盟とその連合諸国は、奴隷化されたヨーロッパとソ同盟の諸民族をヒトラーの圧制から解放することを目当てとする正義の解放戦争を行なっているのである。…これらの目的を実現するためには…わが祖国を奴隷化するためにわが国土に侵入して来たドイツ占領軍を、最期の一兵にいたるまで殲滅しなければならない。…この任務を遂行し、ドイツ侵略者どもを撃滅することによってはじめて、われわれは、恒久的な、正義の平和を獲得することができる。…われらのやっていることは正しい。勝利はわれわれの側にある!わが光栄ある祖国万歳!』(ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争・1953年5月・大月書店)と。

 記念集会の全参加者は一斉に立ち上がり、「偉大なスターリン万歳!」と叫び、嵐のような拍手を送った。「スターリンはいつもわれわれと共にある!」というこの言葉は、大戦を通じて、常に、ソビエト人民の合言葉となった。そして、この日、赤の広場をパレードした赤軍兵士たちは、スターリンに見送られ、そのまま戦いの最前線へと向かったのである。

 移転地クイブィシェフに滞在していた毎日新聞・渡辺三樹男特派員は、『ソ連特派五年』の中で、「ありのままの記録」として、この日の出来事を、次のように伝えている。

 『緒戦以来、退却また退却を続けて来たソ連軍、銃後では食糧や燃料の不足がようやく深刻ならんとしつつあったその当時、このスターリン演説が国民に与えた印象と感銘は、まことに絶大なるものがあった。何よりもまず、スターリンはモスクワに踏みとどまっている!という事実が、国民に底知れぬ力強さと、スターリンへのいや増す信頼感を与えたことを指摘せねばならぬ。とりわけモスクワからの撤退先となったクイブイシェフでは、引き揚げた旧モスクワ市民も、地元市民も共にスターリンに対する感謝と尊敬の念を特に新たにしたようであった。ラジオを通じてスターリンの演説を聞いた彼らは、みな熱狂せんばかりに〝スターリン万歳〟を唱えたことであった。…うす暗闇のなかで行なわれた閲兵式、特に演説するスターリンの姿と声は、ニュース映画に収められて、間もなく全国に公開された』と。

当然のことながら、ソビエト国民はあらためてスターリンに対する敬慕の情を厚くし、「祖国のために!」の決意を新たにした。

 11月半ば、ドイツ軍は「冬前の決着」を求め、最後の死に物狂いの攻撃を開始した。彼らは損害も犠牲も省みることなく、戦車部隊を先頭に、遮二無二モスクワ目指して突進した。しかし、防衛線の死守を誓うソビエト戦闘部隊は、その敵戦車の突破・突入を一台たりとも許さなかった。まさに夜も昼もない、死闘に次ぐ死闘の連続であった。やがて、秋も深くなり、雨が降り続くようになると、ドイツ軍は泥濘に足を取られ、疲労困憊し、早くも一部の兵士の間に絶望感が生まれ始めた。それは中央方面のドイツ軍だけでなく、南部方面のドイツ軍も同様であった。

 1941年12月6日、スターリンと最高軍司令部の全面的支援の下、ジューコフを司令官とする西部方面軍はモスクワの北と南から総反撃を開始した。この反撃に、北からはカリーニン方面軍が、南からは西南方面軍が参加し、やがて各方面軍が一つに合流し、西部方面への戦略的大進攻が始まった。ヒトラー・ドイツ軍は大打撃を受け、西へ西へと退却、敗走し始めた。西に通じる道という道は全て、彼らの遺棄した大量の兵器と自動車とで埋まった。

 ここが勝負どころと見たヒトラーは、「一歩も後退するな!弾丸の最後の一発、手投げ弾の最後の一個まで守り通せ!」との命令を下し、退却を許さなかった。多くのドイツ軍兵士が無残な最期を遂げた。いよいよ冬将軍―零下8度の大寒波―が到来。ドイツ軍に冬の装備はまったく無く、猛烈な寒気の前に人間も砲も機械類も皆、戦闘停止を余儀なくされた。かくして、モスクワ攻防戦は、ヒトラーの完全な敗北に終わった。

 1941年末、モスクワ攻撃と短期決戦に失敗した責任を問われ(ヒトラーの怒りをかって)、北方軍集団司令官・レープ元帥、中央軍集団司令官・ボック元帥、南方軍集団司令官・ルントシュテット元帥、装甲部隊を指揮したグデーリアン将軍など、ドイツ軍中枢の最高司令官・幹部が、軒並みヒトラーと対立、ヒトラーの手によって、次々と解任或いは罷免或いは「辞任」に追い込まれた。

 大木氏は、このモスクワ攻防戦についても、「固定観念に取りつかれたスターリンは、あの夏のヒトラーの南部攻撃作戦―ウクライナカフカズ占領―を見抜けず、あれこれの戦闘で惨敗を喫した」等という、「後だしじゃんけん」よろしく、戦後に判明した戦況知識による「戦評」を書き連ねている。

 その上更に、大木氏は、モスクワ攻防戦におけるドイツ軍の敗北の原因を「ロシアの天候」に帰している。曰く―

 『ドイツ軍は限界に達していた。12月初頭、ロシアの冬将軍が到来し、豪雪と厳寒をもたらしたのだ。ちなみに、一九四一年から一九四二年は、ナポレオンがロシアに侵攻した一八一二年同様の異常気象、ロシアでもめったにない厳冬であった。長期戦必至の形勢に、ドイツ本国では冬季装備の調達が進められていたが、むろん、いまだ前線には届いて いない。ドイツ軍攻撃部隊は寒さにあえぎ、ソ連軍部隊の抵抗をくじく打撃力を失った』と。

 しかしながら、『第三帝国の興亡』の著者であるシャイラーは「反スターリン」派でありながら、その著作の中でで、この点について次のように指摘している。

『ロシアの冬はすさまじく、当然、ソ連軍のそれに対する準備がドイツ軍よりも良くできていたことは認めるが…でき事の帰趨を決定した主要要因は、天候ではなく、赤軍の熾烈な戦闘力と、あきらめることを知らない不屈の意志力だったことを強調しておくべきであろう。ハルダー(注:ドイツの将軍・参謀総長)の日記や野戦指揮官たちの報告は、ソ連軍の攻撃・反撃の規模と苛烈さに対する驚きと、ドイツ側の挫折と絶望を絶え間なく表明して、そのことを裏書きしている』と。

 大木氏とは異なり、事実を素直に見つめ、率直に認めるシャイラーは、ドイツ軍敗北の主要な要因は決して天候―冬将軍の到来―にあったのではない、赤軍の熾烈な戦闘力と不屈の意志力にあった、と強調し、断定している。称賛すべき見識である。