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(小林尹夫-哲学ルーム)

「ショウコウ」とあだ名されて  ~いじめと差別に関する哲学的考察~ (第7回2024.3.25)

〈少年Nの手紙 №6〉

 今日は最近学校で起こった、また僕が起こしたある事件についてお知らせします。

 2月20日、昼休みに一つの「学校行事」が持たれました。それは、国公立の大学受験をする特別クラスの高3の先輩―特別クラスは国公立大学受験が半ば強制されており、ほぼ全員となる―を壇上に上げ、特別クラスの1・2年生の後輩が一高寮歌の「嗚呼玉杯に花うけて」を歌い、受験の戦場に向かう先輩を壮行する、という行事です。勿論、これも受験成績を上げんが為に、数年前に一高出身だという学校長Dが始めさせた行事です。1年生は、年明けからこの歌の練習に駆り出され、血を吐くような練習を強要されます。歌唱指導にあたるのは2年生の壮行会幹部団で、10数人の幹部が手に竹刀を持ち、机や黒板をバンバン叩きながら、恐ろしいまでの形相をもって我々に迫ります。叱咤する言葉は決まっています。「声が小さい!」「腹から声が出ていない!」「気合が入っていない!」「全身全霊がこもっていない!」と。我々は、「嗚呼玉杯に花うけて 緑酒に月の影宿し」から「魑魅魍魎も影ひそめ 金波銀波の海静か」まで、何十回となく、繰り返し歌わされ、歌い続けさせられます。口にできるものは、大きなやかんに入った「力水」と称する白湯だけです。小さな声しか出ず、この水を頭から掛けられる者もいます。放課後、そんな地獄のような斉唱訓練が数時間にわたって行なわれ、一ヶ月間は続くのです。要するに一度声を潰し、野太く、底力のある声を出させようということのようですが、進学競争に神経を擦り減らす生徒のストレス発散がその目的ともなっているのです。

 事件が起こったのは、2月19日の最後の練習時でした。この日、3年生の昨年の幹部団メンバー数人が「最終チェック」に来ていました。あのイジメに加わっていた小柄なFが、列のまん前で、喉を潰して顔を苦しげに歪ませていると、上級生幹部団メンバーの一人が「これで壮行になるのか!」という非難めいた声を上げました。すると突然、2年生幹部団の中でも特に評判の悪いYが、「気合いが足らん」と、竹刀でFの腹を思いっきりブン殴ったのです。僕はいたたまれず、思わずYの前に飛び出し、竹刀を掴み、睨みつけました。勿論脚をぶるぶる震えさせながらでしたが。するとYが、「俺たちは学校長公認の幹部団だぞ!何をしやがる、このショウコウめ、オウムめ!」と、吐き捨てるように言い放ったのです。僕は思わずその竹刀を奪い取り、それを激しく床に叩きつけ、冷静に、力を込めて「学校長が何だ!国公立大学受験が何だ!そうか、俺はオウムか!それなら、お前たちを殺してやろうか!」と怒鳴り付けてやりました。幹部団は完全に沈黙し、Yは震えていました。僕の圧倒的な勝利でした。そして、この事件以後、周囲の僕を見る目が変わり始めました。もはや僕に面と向かって「ショウコウ」と呼ぶ者はほとんどいなくなりました。もっとも、そこには2種類の対応の違いがあります。一つは、うっかりした事を言えないという危険人物視的対応であり、もう一つは、そういう呼び方は間違いであったという好意的対応です。勿論、当事者のFの態度は好意的な方に一変しましたが、あのAも沈黙し、それとなく頭を下げて通り過ぎるようになりました。

 ところで、一高寮歌の「濁れる海に漂える 我国民を救わんと 逆巻く浪をかきわけて 自治の大船勇ましく 尚武の風を帆にはらみ 船出せしより十二年」「行途を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある 破邪の剣を抜き持ちて 舳に立ちて我よべば 魑魅魍魎も影ひそめ 金波銀波の海静か」などという歌詞を唄えば、それなりに理想に燃えていた悩める青年たちが、正義の実現を求めてオウムにのめり込んでいった経過が、「Hもかつては正義の人であった」ということの意味が、なんとなく判るような気がします。

学校長のDが言うには、「東大合格の秘訣は、自分はこの日本国と悩める愚かな大衆を救う特別なエリートであると信じ切ることだ」そうです。実際、この寮歌を、力を込め、繰り返し唱っていると、「自分はこの日本国と悩める愚かな大衆を救う特別なエリートである」という意識が脳天を支配し、受験に向けて猛烈な戦闘心が燃え上がって来るのです。恐ろしいことです。

 オウム信者の気持ち、先生のおっしゃることの意味、今回の事件を通じて身をもって理解することができました。今僕は、唯物論について、更に一層、大いなる関心、興味を掻きたてられています。

                2001年2月27日

 

〈哲学人Kの手紙 №6〉

 あっと言う間に4カ月が経ってしまいました。2月19日の事件、見事な勝利でしたね。心から敬意を表します。ところで唯物論には必然と偶然の関係如何というテーマがあります。それはこういうことです。S高には、しゃにむに受験競争に邁進し、成績を上げ、学校の名誉と生徒数を獲得せんとする或る必然性をもった世俗的な流れがあり、その先頭には学校長のD氏が立っています。一方、そうした競争至上主義に対して、多くの生徒は、本当の学びとはかけ離れた受験勉強に拒否感・抵抗感を覚え、強烈な精神的ストレスを抱え、それを「イジメ」という形で発散させ、皆それぞれ悩み苦しんでいます。この二つの流れは、日本のみならず、アメリカやイギリスやドイツ始めすべての資本主義国に存在する根本的な流れであり、それぞれが現実性を有する必然性をもった流れとなっています。こうした必然的な二つの流れの相克がFに対する「竹刀殴打事件」を引き起こし、それを見た君の正義感・能動的意識が「反乱的行動」に決起させたのです。従って、偶然起こったように見えるこの事件も、その底流には必然性を持った二つの流れの対立があり、その必然を意識した君の能動的行動によって生みだされたのです。必然は偶然を通じて現れます。大事なことは偶然起こったように見える事件の背後に潜む必然性をしっかりと見抜くことです。それが見抜けないと、ただ運が良かった悪かったということだけに終わり、真の解決にはなりません。この偶然に起こった事件で君が取ったとっさの反撃行動は、「必然性をもった、それだけに深刻な現実性を有する二つの流れ」の存在を見事に浮き彫りにさせ、多くの生徒に「自分のストレス、悩み苦しみの根源は何か」を自覚させるきっかけとなったのです。君のこの反撃行動は、学校生活に対する怒りと不満を持った君の目的意識的探求―この間ずっと「正義とは何か」を考え続けて来た―が生んだものであり、その意味においてこの意識性をもった反撃行動は必然の産物であったと言えるのです。単なる不満や怒りも目的意識性―真理・正義を目指す哲学や思想―と結びつくとき、その不満や怒りは理性的で自覚的な行動に転化し、底流の必然の流れに強力な反作用を及ぼすのです。こうして、事態は大きく変化し、発展を遂げていくことになります。偶然起こったこの事件をとっさに利用し、事態を大きく変えていくことが出来たのは、君に、かつては道を見失っていた君に「真実」「正義」を求める「目的意識性」が備わっていたからでしょう。ここに、偶然と必然の真実の関係があるのです。

 さて、観念論とは何か、唯物論とは何か、総論的に説明しましょう。

観念論は、宇宙や地球や生命や人間などこの世の全ての存在は皆、予め意識・精神を持った神、ある種の創造主・絶対者が創ったものである、と主張します。そこには、全てにおいて意識や精神が優位に立っており、物質や現実存在は一段と低い存在である、との考え方があります。勿論、だからと言って、観念論者は皆一様に神仏を崇める熱心な宗教家・信仰家であるというわけではありません。しかし観念論的立場に立つ限り、何らかの天地創造主・絶対者の存在を前提とせざるを得ないことだけは確かなことです。観念論は、意識や精神はいついかなる場合でも完全に自由であると考えたり、全ては神の意志・神の思し召しであると考えたりしますが、いずれの場合でも、現実存在(物質的世界)よりも精神世界の方が上位にあり、精神・心の世界が変われば現実世界も全て変わる、すべては心・精神次第である、と考えるのです。従って、この世の様々な矛盾、人間の不幸、悲劇などは全て精神・心・意識の改善によって解決される、と考えます。現実に存在している社会の仕組み(環境・存在)を変えるのではなく、人間の意識・精神・心を善なるものに変えればどんな人間も幸福になれる、ということになります。或いは、どんな悩みや不幸せも宗教的精神的慰めや悟りによって解決する、と考えることになります。

 これに対し唯物論は、この宇宙は永遠の過去から永遠の未来に向かって発展する物質の運動であり、宇宙の一部たる地球や人間もそうした物質運動の一部であり、常に変化し発展し続けている、と主張します。主張するというより、現実が実際にそうなっているということなのですが。従って宇宙の全て、地球も生命体たる生物も人間も全て物質であり、意識や精神も物質たる人間の頭脳が生み出したものであり、当然意識や精神は客観的に存在する物質世界を概念的に反映させたものである、と考えます。簡単に言えば、先に山という存在があり、その反映として山という言葉(意識・概念)があるのであって、その逆ではないということです。そして、更に、行動的で実践的な人間の頭脳の産物たる意識・精神は、土台(存在)を反映するだけでなく、能動性・目的意識性を持っていて、逆に土台(存在)に働きかけ、その存在に強力な作用を及ぼし、その存在の運動の変化と発展に強い影響をもたらし、必然的な運動の発展を促進し、飛躍的前進を実現させるのです。その意味で、唯物論は観念論とはまったく異なる観点から、意識・精神の果たす決定的な役割を重視します。重要なことは、唯物論は観念論と違って、現実に存在する土台を正しく反映させた意識―科学的な理論・思想―を発見し、これを以って更に自然・社会の土台に働きかける。即ち、その理論・思想を、実行者・技術者・労働者・人民のものとし、彼らの変革的革命的行動に転化させ、自然や社会を変革・発展させる、必然性に沿って現実の物質的世界を変革していく、ということです。観念論や宗教が説くように、ただただ頭の中の意識、精神、心の持ち方を変えれば現実世界の不幸や悩みが解決するというのは、単なる幻想・誤魔化しでしかなく、そんなことで現実の存在や環境が生みだしている現実的な悩み、苦しみ、矛盾が解決されるはずがありません。「宗教は一種のアヘンである」と言われるのはそれ故のことです。

 繰り返しになりますが、明らかなように、唯物論は科学的な目的意識・理論というものを非常に重視しており、決して軽視しているなどということはありません。唯物論哲学の完成者であるマルクスの言葉にこういう有名なフレーズがあります。『批判の武器は、武器による批判にとってかわることはできない。物質的な力を倒すには物質的な力をもっていなければならない。そして、理論も大衆をとらえるや否や、それは物質的な力となる』と。観念論と違って、唯物論は、現実の存在を科学的に正しく反映した意識(科学的理論・法則)を重視し、その意識(科学的理論・法則)に基づく現実変革の実践―革命的実践を求めます。それが人間の必然的な本性であり、本能であり、人間存在の本質なのです。

 社会科学の世界では、たとえば明治維新の例を挙げると判りやすいでしょう。幕末、徳川封建体制は完全に行き詰り、百姓、町民、下級武士(現代の下級軍人・下級行政官吏のような存在)の暮らしは破綻の一途を辿っていきます。封建領主の支配体制の基盤たる米の生産は思うように増大しませんでした。というのも、農民は土地に縛り付けられ、自由に移動できず、重税に苦しめられ、身分的にも卑しいものとされ、生産意欲が湧かなくなっており、また日照り・洪水・地震などの災害が起こる度に税負担が重く圧し掛かり、一層その活力を喪失させていたのです。そうした中、封建体制下における貨幣・商品経済の発展の結果、商人が大きな力を蓄えていきます。藩主は米商人や両替商人に莫大な借金を負うようになり、米を俸給とする藩の武士たちはますます貧困を余儀なくされ、不満が広がっていきました。その時、既に封建制を脱して近代資本主義に移行していた強大な欧米列強が日本列島に押し寄せ、開国を激しく迫り、徳川幕藩体制を根本から揺り動かしました。また同時に、その欧米の国々から封建制を批判する自由、平等、近代民主主義の思想が日本国内に持ち込まれ、封建体制に不満を持つ人々、特に下級武士団の中の知識ある人々を捉えていきます。佐久間象山勝海舟吉田松陰坂本竜馬西郷隆盛らの維新改革の志士たちは、欧米による植民地的支配の危機を敏感に察知し、「四民平等」「尊皇攘夷」(内容は徳川打倒・維新開国)を掲げ、武士団・商人・町民・農民に対して徳川幕藩体制打倒を呼びかけ、大商人たちの支援を得て一大革命的行動を展開します。そしてついに260年続いた徳川封建体制を倒し、明治維新を実現させ、日本を近代資本主義国家へと転換させたのです。

 「猿百匹の法則」(ある地域の猿が里におりて芋を食するようになると、各地の猿が皆同様に海や川で芋を洗って食べるようになった)という法則があります。猿などの生物はその生息環境が同じであれば同じ時期に別々の場所で同じような意識的行動を生み出すという法則です。人間社会も同様です。幕末維新期、日本各地で示し合わせたかのように続々と改革派志士が生まれ、やがて彼らが一つの流れに統合され、巨大な流れ・力を形成し、世の中と歴史を動かしていきました。共通した存在(環境)が共通した意識(思想)を生み出し、その意識が坂本龍馬らの「船中八策」を核にして一つのまとまった力となり、必然の道に沿って環境(存在)を変えていったのです。人類はその頭脳活動によって社会の矛盾、その本質を一つの法則(理論)として意識に反映させ、更に目的意識性と能動性をもってその法則性を活用し、現実の社会に働きかけ、社会の変革・革命的転換を成し遂げるのです。ここにも唯物論哲学の正しさを証明する紛れもない事実・例証があります。

 さて次に、この哲学上の二つの認識論の違いが、現代において現実的に如何なる違いを生み出すか、学生時代にわれわれが問題とした「加速度的に進む環境汚染や環境破壊―公害問題―」に即して説明してみましょう。

 観念論者たるHも「加速度的に進む環境汚染や環境破壊」(公害)が現実に存在していることは認めていました。しかし、こうした事態をひき起こした原因を「企業家(会社の経営陣)と政府役人、それとつるんだ医者・技術者の良心と道徳の欠如」「道徳的堕落」と見なしていました。つまり全ては彼等の「悪なる心」が生んだ産物であり、その結果である、ということです。結局は、個々の人間が悪い、あれこれの人間道徳が悪い、個人に責任がある、ということになります。「人間性悪説」であり、「個人責任論」です。そこから導き出される事態の解決法は、「あらゆる手段を通じて、悪なる心を持った人間を謝罪させ、自らの悪行を悔い改めさせ、改心させなければならない」「道徳教育と徳育指導、精神革命によって企業家の意識を善なるものに改造し、企業風土と企業精神を変えねばならない」というものであり、そしてまた「人間には元々悪なる心が巣くっていて、これを悔い改めることは極めて困難なことであるから、犯罪を冒した人間は厳しく罰し、制裁を加えるしかない」ということになり、個々人に対する法的規制や罰則を強めることによって犯罪行為を抑え込もうとします。こうして、観念論者は問題解決のために道徳教育や宗教によって人間の内面・心の改善と改革を図ろうとしたり、或いは、「即効的解決」を求めて法的処罰や規制、警察力による抑制・矯正を行い、こうした力によって犯罪をなくそうとしたりします。だが、根本問題たる原因(環境)を無視し、結果(現象)だけを抑え込もうとしてもうまくいくはずがありません。

 つまるところ、公害はあくまでもそれを起こした個人(企業家・経営者個人)が悪い、人間道徳が悪いというこの主張―「人間性悪説」「個人責任論」―は、その原因は社会制度にあるのではないとし、現実社会をそのまま肯定し、環境を変革することを否定するものとなります。それは、現体制の保持を前提とする考え方であり、結局のところ、その本質は現在社会の秩序や現体制の肯定であり、それは支配階級と権力支配者の考え方に帰着します(「人間性悪説」の対極にある考えは「人間性善説」ですが、これについては後述します)。

 これに対し、私のような唯物論者はこうした事態を引き起こした原因を社会の構造―社会的環境―生産活動の仕組み、現代においてはその資本主義的な経済の仕組みに求めます。水俣の町で「肥料工場の廃水が流れ込み、その海の魚が原因で病気が起こっているのでは?」という疑いが生じたなら、企業も行政も直ちに専門家を動員して原因追求に取り組むべきであり、常識的に考えれば、そのまま放置しておくことは許されないことです。ところが、現実社会ではそれが常識とはならない。常識でないどころか、逆にこれを常識として要求する人々が「非常識」とされ、水俣の患者たちは企業経営者と警察権力の手で工場の門前から追い返されたのです。なぜ?なぜそんなことが起こるのか?それは、偶々チッソの経営者が「非常識」な悪人で、水俣警察が偶々冷酷であったからでしょうか?そうではありません。誰もが「常識」と考えることが否定される。もはや、これは単なる個人の問題ではないことが容易に推察されます。「そんなことを認めれば会社・チッソ、町が困ったことになる」と考える人がいるのです。もし、チッソの工場排水が奇病の原因ということになれば、チッソの会社に膨大な損害が生まれ、賠償責任が生じ、下手をすれば倒産しかねない。多くの町民が働き場を失い、町の経済は大変なことになる、と。公害問題の解決より会社や町の経済的問題、経済的利益、カネの問題が優先されてしまうのです。そこにあるのは、もはや個人的レベルを超えた、重大な社会的な矛盾です。ここから、そもそも会社・企業・経営―資本―とはいったい何か、という問題が浮かび上がってきます。こうした資本と資本主義制度が持つ深刻な矛盾、社会的問題を扱った思想家こそ、19世紀にヨーロッパで活躍した偉大な唯物論哲学者・革命家であったカール・マルクス(1818~1883)です。私が最も尊敬する思想家です。

 資本主義国家たる現代日本では会社・企業とはどのような存在なのか。資本主義経済の下では、商品(製品)を世の中に提供するという社会的に意義ある役割を担っている企業であっても、何より大事なことは利潤・利益の追求であり、企業経営の至上目的は利潤と金儲けである、ということになっています。いかなる企業も利潤を追求しなければ企業として存続することが出来ないようになっているのです。利益を上げない企業は競争に敗れ、倒産します。それ故、少々自然が破壊されようと周囲の人間が傷つこうとお構いなし、自然や人間の反逆や反乱によって自らが倒されるという危機に直面しない限り、飽くことなき利潤追求を至上目的として突き進み続けていくのです。

 企業経営者(資本家)は職場の労働者を安い賃金で働かせ、「賃金分以上の価値」を含む製品、即ち「賃金労働分」だけでなく「ただ働き分」を含んだ製品(商品)を生産し、これを市場で販売し、その「ただ働き分」(労働者から搾取した分)を自らの利益・儲けとしています。馬や牛がわずかな餌代だけで大仕事(莫大な輸送代稼ぎ)をしているように、労働者もわずかな餌代(食事代・住居代・衣類代・育児費などを賄う賃金・給料)をもらうだけで大仕事(莫大な価値を持った製品の生産)をしています。そこに生じる差額分「ただ働き分」(労働者から搾取した分)が工場・企業を所有する資本家のものとなり、それが彼らの利潤・利益の源泉となっているのです。そしてまた、どの企業家・資本家も、より安くてより高品質の商品を生産し、他の企業家との食うか食われるかの市場争いを余儀なくされ、これに打ち勝ち、自分の販売市場と売上を拡大させようと、弱肉強食の激しい生存競争を繰り広げます。そのために、新製品の開発競争に狂奔し、労働者をより安くより多く働かせ、商品の生産費をより低く抑え、それによって市場支配力を高めようとします。それ故、資本主義体制下では「賃金労働者への搾取・抑圧の強化」と「他企業との弱肉強食の競争の強化」というこの二つの任務遂行は、企業家の宿命となり、必然の行動法則となり、誰もこの運動を止めることはできないのです。企業家・資本家個人がいくら道徳的であろうとしても、資本主義制度の搾取的で競争的な生産の仕組み(経済システム)がそれを許さないのです。

 水俣チッソ経営者の頭には、まず会社を守らねばならない、という意識が生まれます。工場廃液が公害の原因であることなど簡単には認められないのです。反対運動は何がなんでも抑え込み「小さなトラブル」で終わらせる―これが経営陣の方針だったのです。「企業城下町」の弱みで、「チッソからの税収が無くなれば町の財政は大変」と考える町役場も、当初は反対運動の抑え込みに走りました。資本主義社会で企業を経営する者は―それと一体化した行政も―利潤追求を至上目的とする資本の運動を強制され、なりふりかまわずに、会社の存続と利益獲得の行動を展開していかざるを得ないのです。全てが、カネ、利益、利潤が中心に回っているのです。チッソの経営者のみならず、どんな企業経営者も、会社を守る為には人間的な道徳心を持つことは許されないのです。「木によりて魚を求めるが如し」(木登りをしている人間に魚を取ることなど出来ない)ということわざがありますが、彼等に道徳心や良心を求めることはほとんど不可能なことなのです。

 資本主義体制下の国家・政府もまた企業(資本)の論理を守ることを至上の使命として います。国家(権力)は膨大な力を持つ暴力装置ですが、この国家権力を実際に握っているのは、主権者である国民ではなく、巨大企業・巨大資本であり、官僚機構も政治機構も警察軍事機構も全て彼らの支配下にある、というのが現状です。軍事力の発動たる戦争―侵略主義―の背後にも、常にこうした巨大資本(独占資本)の市場拡大の欲望、植民地獲得の欲望の爆発があります。そして、よく観察すれば、選挙も議会も裁判所も単なる飾り、形式、誤魔化しの道具でしかなく、国家の根本体制を何一つ変える力をもっていないことが判ります。したがって、資本主義体制を根本から転換させる運動、労働者・勤労者の闘いは、資本主義体制の擁護者たる国家権力との激突を不可避とするものとなります。それ故、労働者・勤労人民の社会変革の闘いは、この国家権力との正面対決を覚悟しなければならないものとなり、その闘いは激烈な政治闘争・権力闘争・革命闘争にならざるをえないのです。実際問題として、穏健に平和的に社会を変革することなどは不可能であり、幻想に過ぎず、歴史上、如何なる体制変革も、奴隷制社会から封建社会への転換も、そして近代資本主義社会への転換も、すべて平和的に実現された試しは一度もありません。旧体制は自ら自発的に歴史の舞台を降りようとはしません。自らの体制と権力を守るために必死に抵抗し、足掻き、新生勢力に血の弾圧を加えるのを常とします。このことは日本史・世界史―学校の教科書でもよい―を紐解いてみれば一目瞭然です。

 先に触れた、君たち現代の子供たちが直面させられている学校教育における諸問題、受験競争、成績争い、対抗的競争的な友人関係も、それが生み出す過度の精神的ストレス、イジメなどの問題も、全てその根底には「私的な利潤・利益の追求」と「弱肉強食の生存競争」という資本主主義的原理の支配、資本主義制国家権力の学校・教育統制があります。今の時代、イジメは実に些細な、偶然的な事から始まっています。君の場合のように、いつ何時、どんなことが切掛けになってイジメが始まるか判らず、子供たちは日々戦々恐々たる状況に置かれているのが現状です。それは見方を変えれば、それほどイジメを引き起こす強力な要因が今日の社会・学校の中に日常的に濃厚に存在しているということを意味しているのです。つまり、学校もまた現実社会の一部であり、常に資本主義的論理・原理に支配され、その影響下にある結果なのです。資本主義の維持を至上命令とする政府・文部省がどうしてイジメ問題を解決できましょう。根本的な「原因」を無視し、ただ「現象」の抑え込みだけに狂奔する彼らには、絶対に解決不可能です。教師・父兄・生徒自らが、現体制と対決し、共に協力し合って共同と連帯の意識を打ち固め、共同・協力して闘う以外に真の解決はあり得ません。

 ところで、この資本主義体制も結局は新しい体制に移行せざるを得ません。それが人類の歴史の必然の法則です。君たちも部分的に学校で習っていると思いますが、人類の歴史は、共同体社会たる原始共産制社会から奴隷制社会へ、更に封建制社会へ、そして現代の資本主義社会へと、激動と反乱と革命を経て一歩一歩発展を遂げて来ました。人類の歴史は不断の運動と変化の中にあり、これからもそうです。勿論、このようなことは学校では教えてくれないでしょうが、最後の階級社会たる資本主義制度もやがてプロレタリア革命によって終止符を打たれ、人類社会は再び近代的共同体社会・社会主義社会へと発展を遂げていくのです。マルクスが明らかにしたこの人類社会の発展法則を「史的唯物論」と言います。19世紀に活躍したマルクスは、ドイツ哲学の成果、イギリス経済学の成果、フランス階級闘争論・社会主義論の成果を統合し、止揚することによって、即ち人類が生みだした科学的な学問上のすべての成果を統合し、その核心的真理を引き継ぎ、その不十分点を克服し、更に発展させることによって、科学的な歴史観史的唯物論を完成させたのです。故に、この歴史観は人類の全英知の結晶だということができるのです。

 今日はここまでします。次回は少し史的唯物論について述べ、その観点に基づく「善と正義」について書くことにしましょう。結論的な手紙になるはずです。

             2001年3月5日

 

   Kは、自らが信念とする哲学論について、一気に書き上げた。勿論、出来る限り 

           平易にと考慮しながら。しかし、Kは、それ以上に、少々難しくても真理・真実             を誠実に述べることを最優先した。今すべてを理解出来なくてよい。単なる知識       

   として身につけても意味はない。これからの人生において、様々な経験を経なが    

   ら、一つ一つ身に焼き付け、哲学を自らの生きる糧にしていくことこそが大事な 

   のだ。それがKの思いであった。