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(小林尹夫-哲学ルーム)

「ショウコウ」とあだ名されて  ~いじめと差別に関する哲学的考察~ (第5回 2024.1.25)

〈少年Nの手紙 №4〉

 あけましておめでとうございます。先生のご親切な指導・アドバイスにこころより感謝致します。本当にありがとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 正義と暴力の問題、戦争だけでなくイジメの問題にも深く関係しているように思います。イジメも殺人も戦争も暴力の行使という点ではまったく同じですね。しかし、個人的な暴力行使と戦争の暴力行使と、問われる正義は同じなのか?僕はごく身近な人間関係の中で「何が正義なのか」を考えておりました。そういう問題意識を持つ中で、先生の一文に接し、非常な興味をひかれたのです。「あいつ等は悪魔のような心を持った人間、否、もはや人間とは言えない獣だ」「あいつ等はもはや救いようのない程の悪魔的精神に毒されている」という風に思っていた僕は、公害問題を「人間が良心を失ってしまった結果」と捉えたHと同じですね。観念論的傾向と唯物論的傾向と、根本的なものの考え方の違いがあることが、なんとなく判って来ました。この違いがどんな風に人間の生き方に影響していくのか、ぜひ知りたいです。

 母は相変わらず遅くまで仕事をし続けています。僕の今の悩み事については気付いていないようです。最近、僕はようやく母の疲れた顔の表情に気付くようになりました。今までは無視し、見て見ぬ振りをしてきましたが、先生の手紙を読み、気持ちも考えも落ち着いて来たこともあり、これではいけないと思うようになりました。昨夜は、自分のコーヒーを淹れに立ったついでに、「コーヒー飲んだら…」とテーブルの端にカップを置くと、母はビックリした顔をしていました。僕は何も言わずに自室に戻ってしまいましたが、きっと喜んでいたに違いありません。こうして、毎日毎日一生懸命働きに詰めに働いている母は、本当に偉いと思います。このことだけは忘れないようにしようと思います。

               2001年1月5日

 

〈哲学人Kの手紙 №4〉

 N君のお母さんに対する尊敬心が、日夜勤労に励む母親の姿を直視する中から生まれて来ていること、ここに重大な意味があります。大切なことです。このことは後で詳しく論じます。

 さて、Hは高校生時代のことについて、彼の雑記でもあまり触れていません。1966年4月、彼は慶応大学医学部の学生となります。この当時の大学キャンパスは学生運動全共闘運動の強い影響下にありました。学費値上げ反対、ベトナム戦争反対、公害反対のデモが学園や街頭を席巻していて、どこの大学も嵐のような激動期を迎えていました。まさに時代は「反政府・反権力こそ正義である」とする学生運動の高揚期を迎えていました。しかし、Hはこうした学生運動や左翼的イデオロギーに戸惑いと違和感を持っていたようです。「天と地と人と相和す」を心に刻んでいたHは、政治的立場やイデオロギーや主義主張の違いをもって相争うという生き方に強い違和感を覚えざるを得なかったようです。「争いの中に正義はない」―それが彼の感覚だったのです。彼は政治運動の嵐の中に身を投じようとはしませんでした。彼が熱心に探求したのはおのれ個人の内面世界の拡充と充実でした。しかし、それは必ずしも「非社会的」「非行動的」なものであったわけではありません。社会の悪を糾弾し、行動的であったこの時代の風潮は、彼にも大きな影響を与えていたのです。君たち現代の若者には感覚としてこうした激烈で行動的な時代風潮を理解することは出来ないでしょうが、私やHはそういう時代に学生生活を送っていたのです。

 例えば1969年(昭和44年)6月、新人歌手新谷のり子さんが出した『フランシーヌの場合』(いずみあきら作詞・郷伍郎作曲)というフォークソングが、瞬く間に80万枚も売れるという驚くべき出来事が起こりました。「フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん フランシーヌの場合は あまりにもさびしい 三月三十日の日曜日 パリの朝に燃えた いのちひとつ フランシーヌ」という歌詞のこの歌は、3ヶ月ほど前の日曜日の朝、パリの路上で30歳の女性フランシーヌ・ルコントが、頭からシンナーを被って焼身自殺したという事件を歌ったものでした。当時の新聞報道によると、彼女はベトナム戦争やナイジェリア内戦に心をいため、自殺した時もビアフラの飢餓の切抜き記事を持っていたといいます。精神を病んでもいたようですが、いずれにしても、思い詰めた末の「過激な行動」だったのです。

 日本では、この1969(昭和44)年という年は、学生運動が最高潮に達した年でした。この年の1月には、前年の東大医学部の無期限ストライキに端を発した「東大・安田講堂事件」が起こっています。1月18日早朝、警視庁機動隊は、全学共闘会議全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスの封鎖解除に乗り出しました。占拠学生は400人、機動隊は8500人、300台を超す放水車、投光車、防石車、ヘリコプターが投入されました。安田講堂の屋上からは何百本もの火炎瓶が投げ落とされ、上空からは警視庁ヘリが催涙弾を投下し、地上からは猛烈な放水とガス弾攻撃が展開され、まさにキャンパスは戦場でした。大学闘争のシンボルであった東大・安田講堂をめぐる攻防戦は、落城まで実に35時間、学生の逮捕者は1,000余に及びました。同様の闘争は私大の日大でも激しく闘われていました。

 われわれ学生が送った青春時代は、今では想像することも出来ないような、行動的で、過激で、激烈な嵐のような時代だったのです。時代が「さぁ、君はどうする、どう行動するのだ!」と厳しく問いかけていたのです。誰しも、多かれ少なかれ行動的或いは社会的たらざるをえなかったのです。Hも然りです。

 慶大医学部時代、Hは硬式テニスクラブに属し、ここでのある経験が彼の観念論的な考えをより先鋭なものに発展させていく切掛けになります。彼がテニスに没頭したのは、高校時代に勉強も部活動も中途半端に終わったことへの反省からであり、「何事に対しても〝徹底する自己〟を獲得したい」という強い願望に支えられていたようです。彼は、テニスプレーヤーとして今以上に成長を遂げ、飛躍的に前進したい、そのために、テニスの戦い方や技量の面で足りない部分を克服する為に自分の精神力を強化したい、という真面目で真剣な探求を開始します。そして彼は1冊のヨーガの本と出会い、そこに紹介されていたヨーガ行者の超人的な体力と精神力に強く惹きつけられていったのです。彼はヨーガによってテニス技量の飛躍的上達が可能になるに違いないと確信し、佐保田鶴治氏の著したハタ・ヨーガの本を手に入れ、まじめに熱心に毎日その実修に取り組んでいったのです。テニスの練習を徹底的にやった日には、僅か15分ほどのヨーガの実修であっても、その集中力は極めて高いものとなり、一種のトランス状態を味わうまでに至ったといいます。この佐保田氏の著作は、ヨーガは単なる健康法(体力増強法)の類ではなく、実践的な修練によって人間の心・精神を統制せんとするインドの伝統的宗教である、と教えていました。「精神世界の変革こそが全てを解決するカギである」という氏の教えは観念論そのもので、この教えは、先に書いたように、H少年が抱いていた「人生のテーマ」と相呼応し、彼を強く捉えていくのです。その教えは彼の心の奥底に切実に響くものがあったのです。

 やがて彼は、自分独自の神を心に浮かべ、家族や親類縁者や身近な人々、さらには公害や災害や病苦に苦しむ、生きとし生けるもの全ての幸せを祈るようになったといいます。彼の「精神力の強化・向上こそが全て」という観念論は宗教的色彩を帯びていきます。現実世界を否定し、神仏信心の世界を真実の世界とする宗教は、言うまでもなく観念論的思考の延長上にあり、その頂点ともいえます。そして、真面目で真剣で徹底した性格であったHのその宗教的感情は、当時の時代の強い影響を受け、静的なものから、やがて極めて行動的、実践的なものに変化発展していくのです。

 私とHが面影橋のLの下宿で逢ったのはちょうどこの頃のことです。以前にも述べたように、当時の激動する時代は学生たちに、右へ行くのか左へいくのか、「さぁ、どうする!」と鋭く迫っていました。意識するとしないとに関わらず、学生たちは現実変革の唯物論的思考の世界へいくのか、或いは自己のみならず人類の精神変革を至上目的とする観念論的世界へいくのか、やるのかやらないのか、あらゆる面で決断を迫られていたのです。勿論、何もしない、それも一つの選択でしたが、それもまた自分自身の静的な観念の世界に閉じこもるという意味において、消極的とは言え一種の「実践」でした。私自身は、現実世界の変革を目指し、現実社会を支配している政治権力に目を向け、政治的社会的変革を求め、そこを目指して理論・精神・思想の強化を図っていきました。一方、Hの選択した道は、厳しい修業・荒行を通じて自己の内面的観念的世界を変革し、そうして獲得した高邁な精神的・宗教的・神秘的力を通じて人類の邪悪で欲深い独善的な心を変え、世の中を変えていこうとするものでした。その宗教的観念論の根底には「人間性悪説」があり、己の力によって、その「悪」「罪」を清め、浄化し、正さねばという使命感があり、Hは「それこそ正義の道である」とし、いい加減なところで妥協するのではなく、真面目に真剣に徹底的に探究し、実践に移していったのです。それこそが、彼の思想であり、「人生のテーマ」であり、生き方だったのです。

 そんな彼が大学卒業後に歩んだ道は、大筋、次のようなものです。

 1971年4月、慶応大学医学部を卒業したH青年は研修生・外科医への道を歩み始めます。当時、私は信州の地方病院で研修生・保健医への道を歩み始め、二人の接点は全く無くなります。やがてHは日本の肺結核のメッカ茨城県東海村の国立療養所R病院の研修生となります。当時彼は、医師としての仕事に全力を尽くし、人々の信頼を得ることによって、「人生のテーマ」を実現させていこうと決意しており、全面的に「宗教的解決」を求めていたわけではありません。実際、R病院に循環器科医長として勤務することになったHは、医者としての腕も人柄も良く、まじめで仕事熱心で、人間味にも溢れていて、患者たちから絶大な信頼を得、人気を博しています。だが、この病院で当時「死の病」であった癌の患者と接する中、人間の生とは何か、死とは何かについて、あらためて深く考えずにはおれなかったようです。死を目の前にした癌患者をいかに救済するのか、彼は医師としての自分が何一つケアしてやれない現実に直面し、死を科学の対象としない医学の限界のようなものを感じ、改めて「人生のテーマ」であった「こころの問題」に思索を集中させていくのです。

 こうして、彼は本来的に持っていた宗教的感情と関心に目覚め、ヨーガや宗教全体に対する認識を新たにし、宗教関係の書物を貪り読んだようです。特に釈迦とその弟子に関するあらゆる書物に目を通し、思索を深めます。やがて彼は釈迦という人間に非常な親近感を覚え、釈迦自身を身近な存在に感じ、釈迦その人に焦点を合わせた探求を開始します。かつてのヨーガの研究・体験を頼りに、釈迦がどう生きたのか、修行において何を体験し、何を把握し、いかなる境地に到達していったのかを探求していったのです。そして、彼はかつて抱いた「現代社会の抱えている様々な問題を包括的、統合的に解決する法則」は釈迦の教えの中にある、との結論に到達していきます。釈迦が到達した解脱という境地、悟りをもたらした「智恵」、それこそが、邪悪と欲望と独善の社会なるものを形成してしまった人類が未だに答えられずにいる問題に対する解答であり、全てを解決させる「法則」に他ならない、と。即ち、真面目で真剣で徹底的で実践的であったHは、「自ら釈迦になろう、釈迦のような人間にならねばならぬ」という思いに至るのです。それが彼の最終的到達点でした。

 ここから、全てにおいて真面目かつ真剣であり、自己を向上させることに熱心なH青年は、その「智恵」を獲得するための解脱に至る方法、そこに至る修行方法を求めて、新たな探求の道に踏み込んでいきます。釈迦が説く「全ての生命や存在を幸せにする智恵」(偉大な能力)を獲得するために決定的に重要なことは「解脱」の境地に到達することである。この「解脱」に到達するためには、肉体である身体そのものに変化を及ぼすような厳しい修行をしなければならない。「解脱や悟り」をもたらすものこそ釈迦の教えの原点たる修行である。「罪業深き民衆」を救うことが出来るのは、その「俉りを開いた聖人」だけだ、と。

 ところで、こうした宗教的信念には、「解脱した智恵ある聖人」と「救済を待っている愚かな大衆」という厳然たる区分、対立的な上下差別の人間観が存在しており、こうした差別的な人間区分論が、後に、オウム真理教教団の中で、重大な問題を引き起こしていくことになります。Hも、他のオウム幹部たちも、単純に「人は神仏の前に平等である」とは考えず、自分自身が「人々を救う神仏になる」と決意し、それを目指そうとしたのです。こうして彼は、当時新しく台頭して来た著名な新興の宗教家たちに師事し、ただひたすら厳しい修行を通じて己を変身させる道、解脱と身体的な超能力を獲得する道、釈迦や空海が歩んだ道を求め、修業していくのです。というのも、当時の激動する時代が、実践的で行動的な新しい形態の「宗教」(観念論)を求めており、「現代社会の中に生きる新しい仏教」「古い体制に抗する革新的な仏教」の新興教団が急速に台頭し、その考えや教えが当時の一部の若者の心を捉えていったのです。

 人間として生まれ、人間として求める最高の教え、行法を知ってしまったのに、それを実践しないならば何のための人生か!だが、その厳しい戒律や修行を実践せんとすれば当然様々なものを犠牲にせざるを得ない。こうした修行者H特有の「思い詰めたまじめさ」は、当時の多くの新興教団幹部の思惑と激しく対立していきました。多くの新興教団幹部は、現実と妥協し、「質」(厳しい修業・悟り)を放棄し、「信徒拡大」(量拡大と現世的成功)を追い求め始めていたのです。普通の平凡な信徒とは違って、純粋で真面目で徹底した真理探究者であったHは、新興教団幹部たちのそうした「妥協「転向」「裏切り」について、「何か急に足元をすくわれた思いがした」と述懐しています。もしHがいい加減で適当な人間であったなら、恐らくここで彼自身も中途挫折し、「妥協」「転向」し、オウムに赴くことはなかったかも知れません。

 この当時、Hは政治や社会問題に対しても、まったく無関心であったわけではありません。深刻な国際紛争や環境問題を次々と発生させる現実が、否応無く彼を日本と世界の政治・社会問題に眼を向けさせたのです。宗教関係の国際青年事業団から海外活動を呼びかける「お知らせ」をもらったこともあり、心動かされたこともあったようです。しかし、現実的利害で動いている政党が背後にいて、それに利用されるのは嫌だという思いから、結局参加を見送ったと言います。周囲の人々は、「今の首相の名前は?」と聞いてもそっけなく「知らない」と答えるH医師を「政治オンチで浮世離れした変人」と見ていましたが、ただ単に彼は現実の政治に絶望していたに過ぎなかったのです。もはや彼には積極的に現実社会の中に身を入れ、現実社会の中で格闘しながら「人間救済」を果たしていくという意志や欲求は薄くなり、医師としての業務に対しても極めて消極的になっていきます。

 そんなHとオウムの最初の出会いは、1987年(昭和62年)頃、麻原彰晃の著書『超能力・秘密の開発法』を渋谷の書店で立ち読みしたときであったようです。彼はその頃から、新しい修行法を求めてあちこちのヨーガ道場に通い、呼吸法を学んだり、気をコントロールするための行法を学んだりしており、その中で麻原の著書と巡り逢ったと言います。

 しかし最初は、Hの目には、麻原の見解は内容も文章もきわめて幼稚なものとしか映らなかったし、本のカバーになっていた「空中浮揚」と称する写真も、彼をそれほど惹きつけたわけではなかったようです。その上、性的な技法「房中術」について述べていて、その顔写真も肉欲的で、とても修行を積んだ聖者という印象ではなく、会ってみようという気にはなれなかったようです。しかしただ一点「シャクティーパット」という「師が弟子にエネルギーを伝える技法」にかんする記述が、彼に強い印象を与えたのです。それは、師である麻原が弟子の額に指を置き、そこからエネルギーを注入し、解脱に至る最初の段階「クンダリーニの覚醒」を達成させるという技法のことで、その技法によって身体の内部に蓄積され流れている潜在エネルギーを自由にコントロールし、一点に集中させ、超人的な能力を発揮させることが出来る、これが解脱への第一歩となる、というものです。麻原はその習得に近づきつつあるらしい、というのです。「自らが解脱し、自らが大衆・人類に悟りを施し、救済する」という強い願望を持っていたHにとって、この「シャクティーパットの技法」は相当魅力的だったようです。

 Hは、釈迦の教えを「頭で理解」しているだけでは何の救済にもならず、釈迦の教え(悟り)を「体験」(実践)しない限り、人類は差別、貧困、飢餓、戦争を乗り越えることはできない、と確信していました。人々に釈迦の教えを「体験」させるためには、何よりも自らが釈迦の教えを「体験」することが絶対に必要である、と真剣に考えていたのです。もし自分がそれを「体験」できたら、それを誰でも実修できるものにまとめ上げることができれば、そうすれば悟りに至る修行を「道場における一つの訓練」といったような形で実修することができるはずだ。彼はこうしたことを真剣に考えていたのです。彼の、悟りの「体験」を得たい、それを可能にする修行方法を知りたいという願望は強烈であり、焦りに満ちたものでした。それ故に、彼の目には、「シャクティーパットの技法」を会得しつつあるという麻原が、自分より「一歩進んだ修行者」に見えたのです。

 麻原の著書『超能力・秘密の開発法』を渋谷の書店で立ち読みしたときから1年後の1988年(昭和63年)、Hは再び麻原と出会います。麻原は「オウム神仙の会」なる宗教団体を立ち上げ、『マハーヤーナ』という機関紙を出していて、ある書店のコーナーにその機関紙がおいてあったのです。そこに載っていた麻原の写真は、1年前のものとは別人のように、穏やかで、実際に解脱したと思わせるほどの姿形に映っていた、とHは言っています。更に、その機関紙に載っていた、麻原によってクンダリーニを覚醒させたという3人の女性の弟子たちの輝くばかりの笑顔が、彼に衝撃を与えたのです。彼は、麻原が「グル(師)と弟子」との信頼関係を背景に、あの「シャクティーパットの技法」によってそれを実現させたらしいことや、オウムが出家制度を採用して徹底的な修行を追求していることなどを知らされ、「教祖・麻原」が俄然魅力的に映りはじめ、麻原が「最終解脱に到達したグルに違いない」と思い込むに至るのです。しかし、「最終解脱状態とは如何なるものか」について、Hは厳密な認識を持っていたわけではなく、ただ、グル・麻原の弟子たちの「輝く笑顔」―それだけが「覚醒と解脱」の唯一の根拠でした。Hはその「根拠」に激しく引き寄せられ、魅了されたのです。この事実は、当時、Hが抱いていた焦りが極めて深いものであったことを示しています。

 かくして、1990年(平成元年)2月、Hはオウムへの入信を果たし、早くもその年の秋には修行のために病院を辞め、出家し、世間から隔離された修行道場に移住することになります。当時の彼Hの目には、麻原は釈迦と同じ解脱者と思われ、オウムの教団は「解脱者・仏」と「教え・法」と「出家集団・僧」という仏法僧三宝を備えた完全な仏教教団であるように見え、日本に初めて真の教団が出現したかのように映っていたのです。尤も、このオウムの、道場修行生活を至上とする「出家主義」は、教団に大きな経済的負担をかけていきます。信者たちの道場生活を維持するためには巨額の費用・収入が必要でした。旧仏教教団・寺社は長い歴史の積み重ねの中でそれなりの財産を持ち、修行場を持っています。しかし、新興教団のオウムには財産らしい財産はなく、信者からの納入金、何らかの宗教イベントからの収入、独自的仏具の販売等に頼るほかなく、教団・修行者が増えていくに従って経済問題が重く圧し掛かり、やがては経済問題―組織維持が至上命題になっていくのです。まさに本末が転倒し、組織は経済(カネ)に支配されるようになり、教団腐敗の大きな要因にもなっていきました。

 以上が、Hがオウムに入信するに至った経過です。何故このように詳しく書いて来たのか、それは「かつてHは熱い正義の人であった」ということの本当の意味を理解して欲しいからです。「正義」も、主観的思いとしての正義であっても、そうでなくても、観念論的思考と結びつき、誤った認識に囚われ、行動を誤れば、犯罪的殺人事件に至ることもあるのです。

 ところで、サリン事件から5年半経った今も、オウム真理教に入信する若者が増えていることが大きな問題になっています。彼らをそこに追いやっているものは、現代社会の醜さと虚しさです。彼らは、金銭が全てを支配し、物欲に満ち溢れ、生き甲斐も心の平安も得られない現代社会に底深い絶望を抱き、恐怖に震える己の魂の救済を切実に願い,極端に現実世界を否定するオウムの世界に飛び込んでいくのです。彼らは、Hたち旧幹部のようには行動的ではありませんが、その現実否定の激しさという点で、完全に同じ世界に住んでいるのです。

 さて、次回は、オウム真理教のポアの問題、水俣公害問題等を取り上げながら唯物論とは何か、真の正義とは何かという問題に触れていきたいと思います。

ここまで、判らないこと、これは違うということなど、率直に書き送って下さい。

             2001年1月15日

 

 Kは、Hの手記を読みながら、そのあまりの「真面目さ」「真剣さ」が彼を極端に主観的な信仰世界に追い込んでいった経過を目の当たりにし、胸が締め付けられる思いであった。Hも自分も、良くも悪くも物事を中途半端にすることの出来ない性格であった。何事も「徹底的」に探求せねば気が済まない性格であった。ただ、その方向が、その認識の基礎たる哲学が、180度異なっていた。Kは、その事実の前に身震いするほどの驚愕を覚えずにおれなかった。