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(小林尹夫-哲学ルーム)

「ショウコウ」とあだ名されて ~いじめと差別に関する哲学的考察~(第3回 23.11.25)  

〈哲学者Kの手紙 №2〉

 君のお母さんは介護施設で朝から夜中まで、寝る暇もなく働いているとのこと。お母さんを大事にしてやって下さい。「働く」ということは家族にとって重要な意義を持っているだけでなく、社会の諸問題を考える上からも、非常に大きな意義を持っています。正義・不正義という問題を考える場合にも、この「働く」(労働)ということの価値判断抜きには何も考える事はできないのです。その理由については後で詳述します。

学校のその後はどうですか?もし耐え難い状況であれば、すぐに連絡して下さい。私が君と共に必要な行動を起こします。

 さて、「オウム真理教信者・H」の件です。1998年5月26日、東京地裁オウム真理教サリン事件の殺人容疑者であるHに無期懲役の判決を下しました。この日に出された判決に対し、東北県のある地方紙のコラムは、次のような感想を寄せました。

『なぜ未曾有の無差別テロや数々の殺人事件を起こしたのか。未だに、肝心の人が何も語らないままである。松本サリン、地下鉄サリン坂本弁護士一家殺害などの犯行を繰り返し、合わせて27人の命を奪ったオウム真理教。その教祖だった松本智津夫被告は肝腎のことを何も語っていない。松本被告は弟子に罪をなすりつけ、自らの責任については依然として沈黙したままである。真相が解明されないまま結末を迎えたとしたら、犠牲者の遺族らはどんな気分であろうか。ポア(殺生)しても、殺された人は教祖によって高い世界に転生させられる。ポアするのはいいことだ、功徳だと、殺人を正当化する。こんなとんでもない教えに、なぜ高学歴の優秀な人たちが染まり、人殺しまでしたのか。H容疑者は裁判に協力的ではあったが、その疑問は残ったままである。そう言えば、対テロの名の下なら、戦争も罪のない人々の犠牲も仕方がない、というような昨今の空気も何か異様だ。それこそ常識がマヒし始めているのではないか』と。

「高学歴の彼らは何故〝ポア〟という殺人を正当化し得たのか?」というこの問い掛けは、核心を突いた誰もが持つ疑問でしょう。ところで、この問い掛けは、地方紙のコラム執筆者が感じているように、実はそれは、「戦争―殺人行為―を正当化し得る理屈・正義とは何ぞや」という問題にも帰着します。

 ただ、この問題は、あまりにも大きな問題で、当時私に割り当てられた雑誌の小さなコラム欄では到底語りつくせるものでなく、問題点を示唆するだけに終わらざるを得ませんでした。それ故、友人の雑誌編集長Mと、いずれオウム真理教サリン事件に関する詳しい報道や当事者の手記が大量に出版されるであろうから、それらを踏まえ、一度本格的に論じることにしよう、との約束を交わしました。残念ながら、その約束は未だ実現されていません。

 この機会に、出来る限り判り易い形で、私の考えを書いてみようと思います。君の意見もぜひ聞きたい。この手紙が、若い青年少年少女諸君にとって、十分価値ある読み物となるよう、心掛けたいと思います。どうか、遠慮なく、率直な意見を聞かせて下さい。

 1995年(平成7年)3月20日午前8時少し前、首都東京の政治的中枢千代田区霞ヶ関に繋がる「地下鉄霞ヶ関駅」に向かう出勤時の日比谷線、千代田線、丸の内線の車内で、猛毒サリンがばら撒かれ、死者11人・被害者5500人余に及ぶ大惨事が発生しました。この時、実行犯の一人として千代田線に乗り、車中でサリンの入ったビニール袋にカサの先を突き刺した人物こそ、「我が友にしてサリン事件に関わったオウム真理教信者・H」、即ちオウム真理教信者医師のH(48歳)でした。

 Hは昭和21年(1946年)1月に、私は昭和21年2月に、同じ空襲下の東京に生まれています。ただ、生まれたばかりの私は、徴用に駆り出されていた父が体を悪くして亡くなっていたこともあり、終戦直前に、笹塚の家を去り、母と兄と祖母との4人で、母の実家のあった信州松本へ疎開しました。その後、疎開先の事情から、東京がすこし落ち着いて来たというので、また元住んでいた笹塚界隈に戻って来ました。私が小学校4年の時のことです。区立S小学校で僕とHはクラスメイトになりました。Hは、父親が医師、母親も薬剤師という開業医一家の6人兄弟の5番目の子で、彼の兄姉は皆、公立の小学校を卒業後、慶応中学から慶応高校、慶応大学医学部へ進むという典型的なエリートコースを歩み、医師となっています。彼もまた、中学、高校、大学と私立の慶応義塾に通いましたから、大学までずっと公立に通った私とはそれほど親しい仲になることはなかったのですが、小学校時代には同じクラスで席次争いを演じたこともあり、二人とも常に意識し合っていて、お互いに関心を持っていました。ただ、二人とも大学は違っていても同じ医学部の学生、Hは外科、私は公衆衛生科の学生であり、1960年代半ばに起こった全国的な大学闘争の最盛期には、あれこれの問題について互いに意見を交わしたこともありました。

 次回、その論争について触れ、私の考えを述べることにします。Hは逮捕後、自分の罪を深く悔い、自らの人生を省みた懺悔録とも言うべき雑記を著しています。未完成文ですが、二人の共通の友人Lが、その一部を僕に見せてくれました。彼はその中で自らの生い立ちと、オウムを信じ、罪を犯すに至った経過を赤裸々に告白しています。もっとも、その中には僕との交流の記述はまったくありません。いずれ、何らかの形で公刊されることになるでしょうが、予め、内部的な資料となっているその雑記を元にしてこの手紙を書いていることを伝えておきます。

                                                     2000年11月30日

 

  Kは、Hの書いた伝記的懺悔録を読んだ時、直ぐに、彼が自分と心理的にそう遠く離れて存在していた訳ではなかったことに気付き、戦慄を覚えた。少し状況が変わっていれば、自分も又「オウムの徒」となり、「犯罪者」になっていたかも知れないのだ、と。

 Hはこの自己省察記で、己がオウムの信者になり、事件を起こすに至った事実経過を克明に記していた。だが、何故そうしたのか、何故そうなってしまったのかという、本当の理由・原因については無自覚であり、何処で道を間違えたのかについては、十分な分析は見られない。それは、彼がKとの論争を忘れていて一顧だにしていないことと無関係ではなかった。彼の記憶の中には、Kと交わした哲学的論争の一かけらも残っていないようで、二人のその後の生き方を決定的に異ならせた「分岐点」に関する記述は陰も形も見られなかった。

 

 〈哲学者Kの手紙 №3〉

 さて、私とHが決定的に対立した「論争」の話から始めましょう。

 それは1967年の夏休み中のことで、Lの下宿先でのことでした。彼は二人の小学校時代の共通の友人で、H大の法学部に籍を置いていたLが、当時各地で巻き起こっていた学園闘争「全共闘運動」について話し合いたいということで、数人の仲間を集め、意見交換をすることになったのです。当時、どこの大学もストと学園封鎖の真っただ中にあり、それぞれ学生たちは新学期が明けたらどうするか、態度表明を迫られていました。学園闘争の出発は「学費値上げ」「学生会館管理規則」「カリキュラム編成」など学内問題が中心でしたが、同時に「大学・学生の社会的役割」という問題が真剣に論じられるようになっていて、その日も話題がそこに収れんされていきました。議論の中心になったのは「公害問題」でした。

 丁度1ヶ月程前、新潟水俣病第1次訴訟が始まり、水俣でも公害認定を要求する市民運動の機運が高まりつつあった頃で、公害問題は学生にとって見過ごすこの出来ない重大な社会的事件となっていました。いつの間にか、医学部学生であった私とHとがこの議論の中心になり、論争を展開していました。

 Lの下宿は都電荒川線面影橋停車場の近くにあり、6畳の部屋の南窓が神田川に面し、時折涼やかな風が吹き抜け、論争に熱くなっている若き一群の頭を冷やしてくれました。

 私もHも、公害問題が深刻な社会的矛盾であり、「人類社会において加速度的に進むこうした環境汚染や環境破壊をいかにすべきか、真剣に対処しなければならない」という点ではまったく異なることなく、完全に一致していました。異なっていたのは、その対処の仕方であり、その根底には、こうした事件に対する基本認識における根本的な相異があったのです。

 2人の論争の切掛けとなったのは、Lが持っていた週刊誌に掲載された2枚の白黒の写真でした。ある週刊誌記者が、水俣現地で映画撮影中の土本典昭監督を取材した際に撮ったもので、1枚は監督の横に1人の「笑う少女」が写っている写真で、もう1枚は手首の関節が90度以上も曲がりくねり、指は不揃いの鉤のように折れ曲がっていて、見るからに痛々しい水俣病患者の手の写真でした。10歳くらいの少女の口元も頬も苦しげに歪み、白い目は大きく見開かれ、写真説明に「笑っている…」という文字が無ければ、とても「笑っている」顔とは見えないものでした。私もHも、衝撃とショックで、しばらく声を出すことが出来ませんでした。

 「水俣公害問題」について、概略を説明しておきましょう。恐らく、君たちのような若い世代は、今でも時々「水俣公害補償問題」として新聞報道に取り上げられることがあるのですが、多くの場合、「昔々にあったこと」として教科書に数行載せられている程度の説明を聞くだけで、ほとんど知らないままに終わっていることでしょう。

 1959年11月2日、水俣の漁民・市民が新日本窒素水俣工場(日本チッソ)に乱入し、警官隊と衝突し、多くの逮捕者が出て、ようやくこの問題の存在が世に広く知られることになりました。水俣では、1950年代半ば、水俣湾の魚を食べている者たちの中から手足の感覚が無い、まともに歩けない、視野が狭くなった、うまくしゃべれない、痙攣が起こり意識不明になって倒れるなどの症状を訴える人が次々に生まれていました。海辺にはあちこちに野良猫の死体が転がり、妊婦からは胎内奇形児が生まれ、何人もの罹病者が「原因不明」の死を遂げ、何人かの住民がこの奇病故の差別偏見に苦しみ自殺を遂げていました。まさにそこに起こっていたことは「毒殺殺人事件」だったのです。

 地元の漁民と地元の医療関係者は早くから、チッソ工場が水俣湾に垂れ流しにしている工場廃液に含まれる有機水銀こそが奇病の原因と指摘し、チッソ工場に改善と対策を申し込んでいました。が、チッソ経営陣は頑として水銀中毒説を認めず、逆に水俣漁民に対して「営業妨害」との誹謗中傷を加えていました。また、担当機関たる厚生省の役人は「中立」を装って責任回避を図り、中央の多くの医学研究機関・衛生保健機関の研究者もまた「科学的因果関係が証明されない」とし、経営側を支持し、その責任を不問に付していました。当時の岸内閣、政府、与党政治家たちもこの水俣漁民と市民の塗炭の苦しみを無視し、チッソ経営側に立ち、あくまでもその因果関係は不明とし、緊喫に必要な対策を怠っていました。野党陣営も、この問題を当時大きくなりつつあった安保闘争と結び付けて闘うのではなく、逆に陰に追いやってしまいました。こうした中で水俣漁民・市民はやむにやまれず、1959年11月2日、遂に実力行使に踏み切ったのです。それからまた幾多の闘いが繰り広げられ、9年経った1968年、厚生省はようやく「水俣病の原因はチッソ工場の排排水に含まれるメチル水銀である」ことを認めるのですが、私たちが論争をしていた1967年夏当時は、まだ「水俣病と窒素排水との因果関係は認められない」とする臨床的・薬学的見解が大きく取り上げられており、われわれ若き医学生の憤激の的となっていたのです。

 勿論、こうした環境破壊は水俣だけで進んでいたわけではありません。1960年代に入ると、東京では光化学スモッグが頻発し、スモン・サリドマイド薬禍問題やカネミ油症・食品公害問題が顕在化し、さらに富山のイタイイタイ病阿賀野川水銀中毒問題が取り沙汰され、四日市では喘息患者が大気汚染の責任追及に立ち上がっていました。日本中至るところの海や河、森や林、小川や湖、田や畑、空気や食べ物が汚染され、環境破壊は凄まじい勢いで進行し、企業・国のみならず、科学技術者・医者の責任が厳しく問われていたのです。Hも私もこうした「科学技術者・医者の無責任」「自然環境の破壊と荒廃」に心を痛めていたのであり、この点においては完全に一致していたのです。

「一体、チッソの経営者や厚生省の役人や医者達の脳みそはどうなってしまっているのだ。我欲と独善の塊ではないか。いくら何でもひど過ぎる。この世地獄そのものではないか!」

 Hは声を震わせて言いました。

「金儲け、企業の存続をすべてに優先して来た結果がこれだ。高度経済成長の負の世界を今こそ問題にしなければならないのだ。」

 私は、彼との考え方の違いを念頭に、そう答えました。

「まったく悪魔の仕業だ。正義の一かけらもない。とても人間業とは思えない。許しがたいことだ。」

 彼ははき捨てるように言いました。

「スモン薬害も、カネミ油症も、四日市石油公害も、富山イタイイタイ病も皆企業が引き起こした公害で、根本は社会的な問題だ。その根本にメスを入れないとモグラ叩きに終わってしまう。」

 私は「根本」という言葉に力をいれて言いました。勿論、私も公害企業に対して怒りを覚えていましたが、一方では冷静に考えねばならないとも思っていました。それで、雑誌記事にしばしば〝企業城下町〟という言葉が登場していたので、それに関する話をしました。当時、水俣の町全体がチッソという一つの企業の存在によって成り立っていて、町民の大半がこの企業の従業員であったり、また何らかの関わりを持つ事業従事者であったり、また町の税収の大半がこの企業に負っていて、市政も市議会も市商工会も日本チッソに牛耳られていて、うっかりチッソの不利になるようなことや悪口は口に出して言えないという雰囲気に取り囲まれている、ということが報道されていたからです。

企業城下町でも何でも良いが、もし企業家や町長が人間としての良心をもっていれば、こんなことにはならないはずだ。特に、科学者たる医者や厚生省の医務担当官の責任は重大だ。彼らには正義心というものが無いのか。同じ医学者として許せない、そうだろう?」

 Hは私に同意を求めました。

「いや、単純に、個々人に正義心や良心があれば…ということでは解決つかないだろう。何故こんなに次々と公害が発生するのか、また何故に企業も厚生省担当官も政府も真剣にこの問題に取り組み、解決方法を探ろうとしないのか、何故に彼らの正義心と良心は麻痺してしまっているのか、もっと根本的な因って来たる原因を探る必要があるように思う。問題は、人間の良心をそこまで麻痺させてしまう世の中の在り方、社会の仕組みだ。個人の良心を問うことと社会の仕組みの問題を問うこととを一つのものとして、一体不可分のものとして追求すべきなのだ。」

 私の脳裡には、当時見たテレビのあるドキュメンタリー番組の一シーンが浮かんでいました。水俣病を引き起こしたチッソ工場の労働者たちが、テレビレポーターの追求を避け、顔を隠し、逃げるように工場の中に走りこんでいくシーンでした。カメラから顔を隠し、逃げる…勿論それは良心が痛んでいるからです。耐え難い思いがあるからです。そうまでして彼らが「守らねば」ならないものとは何か。それは「家族の生活」なのです。チッソ水俣の御用労働組合は、会社側と一体になり、「工場排水原因説」を否定していました。公然と会社側を批判するようなことを言えば、「クビだ!」という脅しが単なる脅しで終わらないことを、彼らよく知っていたのです。 

 ごく普通の大学生でしかなかった私が何故そんな考えに及んだのか、それは疎開先の田舎で、それに類する出来ごとを身近で見聞きしていたからです。疎開先の母の実家は10人家族の小農でしたから、我が家には耕す土地は何もありませんでした。それで、母は近所の農家の手伝い仕事をしながら、村役の下働きのようなことをして収入を得ていました。毎年、年度末の3月に役員の改選があるのですが、その都度、母は言葉に言い表せないような屈辱を味わわねばなりませんでした。新役員の酒の席に呼び出され、「今の仕事を続けたければ…」という脅しを加えられ、理不尽な扱いを受けねばならなかったのです。「仕事を続け、家族の生活を守らねば」という思いで、時にはご機嫌取りをし、必死に耐え難い辱めを乗り切らねばならなかったのです。結局、母はそんな暮らしに耐えられず、戦時中も東京に残って戦火を潜り抜けた友人の助けを得て、再び上京し、土木建設会社の賄い婦の職に就いてわが家の生活を守り抜いたのです。

 仕事で得られる僅かばかりの収入で家族を養っている貧しい勤労者にとって、特に、己を守ってくれる仲間や組織が周囲に無い時、仕事を失うようなリスクのある行動は、そう簡単には取れるものではありません。時には、良心が痛んでも、上(上役・雇い人)の言うことに従わざるを得ない場合もあるのです。「何でもかんでも、たとえ間違ったことでも、上の言うことは絶対であって、反抗することは許されない」というような社会こそが問題であって、良心云々だけの問題ではない…と、私は考えていました。

 「君は何故、人々の〝良心〟〝正義心〟の弱さをこそ責めようとしないのだ。左翼の活動家の最大の弱点だ。いろいろな事情があるかも知れない。しかし、担当者に心の強さ、強靭な精神力があれば、どんな困難に直面しても、正義を貫けるはずだ。特に、社会の、公的な組織機構のトップに立つ人間は、将来そうしたトップに立つべき大学に学ぶエリートは、強靭な精神力を身につけ、その力を以って何事にも当たらねばならないではないのか。」

 Hは怒ったように言いました。  

 その後も、似たような言葉のやりとりが繰り返されましたが、やがて彼はじっと黙り込んでしまいました。私もまた。確かに、お互いの間に大きな隔たりがありました。しかし、その隔たりの大きさ故に沈黙したのではありません。黙り込んだのは、多分彼も、「では、自分自身はこれからどうするのか」という、決定的な問題に気付いていたからです。

 沈黙する皆の傍らで、ポツリとLが呟きました。

「要するに大事なことは実践すること、行動することだ。生涯かけてやってみることだ。そうやって答えを出すほかなさそうだ…」と。

 当時、学生の間では、偉そうなことを言うが何も実践せず行動せず、実際には旧い大学制度を維持することに汲々としていた多くの教授・学者に対する反発が激しく、実践すること・行動すること・闘うことが無条件に要求されていました。「口舌の徒」という批判を加えられことは、我々学生にとっては最大の恥辱だったのです。左翼、右翼、イデオロギーの違いを問わず、こうした実践的・行動的意識が強く問われており、それが時代の風潮だったのです。後にオウムに入信し、教団幹部となっていったHを始めこの時代の青年・学生信者たちに、この実践重視・行動重視という時代風潮は大きな影響を与えています。

「結局、そういうことになるな。」

 皆、一斉にそう言って頷きました。

 目前の大学キャンパスで起こっている激烈な運動にいかに対処していくのか、それぞれが自らの実存を賭けて選択し、態度決定し、自らの人生をかけて必要な行動をとっていくしかない。それがこの日の討論参加者の結論でした。

 Hが一人先にLの下宿を出て行き、私はその後を追いました。彼に「お互いにもう少し勉強してから、また会って話そう」と、声をかけるつもりでした。しかし、彼はもう居ませんでした。遠く面影橋の上を走り去っていく彼の姿が微かに見えました。それが、私とHが会った最後です。以後、今日に至るまで、彼と会うことはありませんでした。

 これは後に理解し得たことなのですが、実は「公害」をめぐる二人の意見の相違、対立の根底にあったのは、無自覚的なものでしたが、いわば哲学〈ものの見方〉の相違、対立だったのです。つまり、本質的に言えばそれは観念論(Hの見方)と唯物論(私の見方)の相違、対立だったのです。観念論は「公害」の原因を「邪悪な人間の心・精神の在り方」に求め、したがって、その解決を「人間の心・精神の改造」に求め、主として人間教育や宗教に救いを求めます。一方、唯物論は「公害」の根本的原因を「社会の構造・仕組み」に求め、したがって、その解決を「社会の構造・仕組みの変革」に求め、主として社会変革の政治闘争・革命運動に突き進みます。両者には、根本的な考え方・意識の違い、ものの見方の違いがあります。勿論、その時はこのことに無自覚であり、それほど深く考えていたわけではなかったのですが。

 観念論と唯物論(唯心論)―この二つの陣営の考え方の他に「中間的な考え方が存在する」との主張もありますが、結局のところそれは「誤魔化し」や「躊躇」や「不決断」が生んだ折衷的産物でしかなく、突きつめていくと、どんな考え方、立場、見解も、この二つの陣営のどちらかに集約されます。

 こうした意識の違いは、その人間が育って来た環境の違いが生みだしたものです。が、言うまでもないことですが、そうした環境は私たちが自ら「選んだもの」ではありません。誰も自分で自分の親、生活環境、時代を選んで生まれることなど出来ません。そういう意味で、自分がこの時代にこの環境でこの親の子として生まれて来たことは、一つの「宿命」と考える外ありません。しかし、当然ながら、その運命によって形成されたものは後天的な経験・学習によって変えることが出来る、と付け加えておかねばなりませんが。

 結論的に言えば、唯物論的な考え方は現実そのものの変革を問題にすることから、主として貧しい、生活困難な境遇、環境から生まれてくるものです。私の育った環境はまさにそうしたものでした。私の幼少期については、既に幾分かは述べていますが、今後も必要に応じて語っていくようにしましょう。問題はHがどんな環境において育てられたか、どんな幼少期を送ってきたか、です。次の手紙では、雑記の中で彼が語っている話を参考に、この問題を考えてみることにします。私と彼の考え方、ものの見方の違いが生まれて来た環境や背景の違いについて、詳しく述べることにします。ではまた。  

                                                          2000年12月15日

 

 Kは、Hがオウム・サリン事件の「犯行者」であると最初に聞いた時、まざまざと、学生時代にLの下宿で繰り広げた論争を想い起こしたことであった。それは、彼がオウムの信者になったらしいという噂を聞いた時以来、ずっと心の奥底に引っかかっていたことでもあった。Kにとって、「環境」(存在)と「思想」(意識)の問題は、極めて重大な哲学的テーマであった。