人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

「ショウコウ」とあだ名されて  ~いじめと差別に関する哲学的考察~ (第6回 2024.2.25)

〈少年Nの手紙 №5〉

 実力テストがあり、返事が遅くなりました。すみません。お手紙、本当にありがとうございます。確かに難しいところもありますが、時間をかけ、自分自身の体験と結び付けて、じっくり読んでいくと、胸に刺さり、目の前が開けていくような感じがします。特に「人間性悪説」の問題にはハッとさせられました。クラスのイジメ集団を見る僕の目は、或いはイジメを放置する無責任校長・教師に対する僕の目は、紛れもなく「人間性悪説」そのものでした。ならば、自分に対してはどうかというと「存在価値不明」と言わざるを得ず、自らを「性善」と確信し得ているわけでもありません。イジメに熱中する人間や(最近は僕の余裕ある態度を見て、幾分下火になっていますが)、受験を至上目的とする競争に現をぬかす校長・教師・学生を毎日毎日見ていると、本当に、人間はどうしようもない邪悪な存在だ、と思えて仕方ありません。その憎しみがあまりにも激しくて、自分までも悪魔になってしまったかのような気分になり、自己嫌悪に襲われます。「殺してやる!」「自殺してやる!」というのは一時的感情であったとはいえ、確かに僕はそういう気持ちになっていました。殺人事件を起こす一歩手前であったことは間違いのない事実です。オウム事件は決して他人ごとではないのです。ただ、母を見ていると「人間性善説」がすっと入って来ます。やはり、僕にとっては母が救いです。

 少しずつ、僕ら生徒を取り巻く学校・家庭の現実について、特に僕らが常にあらゆる場面でぶつかっている「受験競争」や「成績争い」について、真剣に考え始めています。というのも、最近久しぶりに逢った中学時代のある友達から、「Aと同じ中学校だったという生徒から聞いた話」として、Aの複雑な家庭事情を聞かされたからです。Aの父親は自分の医院を持った医者だそうです。Aが7歳の時離婚し、3年ほど前に再婚したのですが、その新しい母親とAの折り合いが悪く、そこからAがひねくれ始めたということです。何でもAより一つ年下の連れ子の男の子は非常に頭が良いとかで、母親は「この子は将来東大の医学部を受けるのだから」と、Aとは違う有名な一流塾に通わせ始めたことが切掛けだったそうです。父親もそれを黙って認めてしまったようで、そのことがAの気持ちを一層狂わせたようです。結局反抗心から有名高校への進学を拒否し、成績の問題もあって已むなくS高に入ったと、ということのようです。Aの気持ちを考えると、なんだか憎む気持ちが薄れ、可哀そうに思えて来ました。だからと言って、今はまだ許す気にはなれませんが。ただ、このことから、先生のいう唯物論的思考の持つ重要性が少し判ったような気がしました。物事にはそれなりの背景、原因があるのですね。

 ところで、唯物論という言葉ですが、何処で、どのようにそういう意味をインプットされたのか、思い出せないのですが、「唯物論とは〝ただ物主義〟のことで、ただただ物質・品物・モノを第一に大事と考え、心や精神を軽んずる考えである」と理解していました。唯物論について、もっと詳しく知りたいと思っています。次回を楽しみにしています。

                      2001年2月1日

 

〈哲学人Kの手紙 №5〉

 「唯物論」という言葉を「タダモノ論」と読み替え、「物だけを賛美する物欲主義」「拝物主義」「拝金主義」「理想否定の現状肯定主義」などと罵声を浴びせる者もいます。「唯物論」には間違いなく「強力な敵」がいます。

 さて、麻原という人物について、少し触れておきましょう。目が悪く、貧しい家庭で育った麻原は、幼い時から世間の非情さ・残酷さを、身をもって体験していて、大学受験を目指していた頃から「何か大きなことをやって世間を驚かせ、世に出たい」と高言していたそうで、かなり強心臓の野心家であったことが知られています。世の中を見返してやりたい、という彼の反抗心は極めて強いものだったようです。そうした彼の意識もまた「カネと力ある者が強者であり、成功者である」とする現代社会と環境の産物でした。そんな麻原は、ある切掛けから某宗教法人のカリスマ的指導者の下で活動するようになり、自らが世に出ていく手段として宗教教団に目をつけ、そのノウハウを学び、後に修業会「オウム神仙の会」を興します。当然のことながら、麻原のような人物、野心家にとって「超能力」は極めて魅力的なテーマでした。こうして彼はヨーガや密教的宗教世界に入っていきます。彼にとって宗教的な修行は「精神の純化」「欲望の克服」とはまったく無縁のものでした。しかし、負けず嫌いで、強心臓で、反抗心の強い野心家であった麻原は、荒行を通じて本当に超能力を得ようと、彼なりの努力を重ね、時には「超人的」な荒行に挑んだりしました。ある時期、彼は持ち前の粘りと執念を燃やし、猛然と修行に打ち込み、没頭しています。それは、あくまでも「超人」「超能力者」となり、「大衆の頭上に君臨する」という野心と野望実現のためではあったのですが、傍目には、真剣で、純粋な「解脱を目指す聖なる修行者」として映りました。麻原もまた「手探り」の状態の中にあり、傲慢に振舞うこともなく、自らを「修行中の人間」とし、それなりの「解決」を求めて熱心に「研究」「実践」「訓練」「修行」を重ね、時には「金がない、金がない」と言いながら、学生などに対しては「学生は金がないだろう」といって金を受け取らないこともあったといいます。その頃は会の雰囲気も良く、狭いマンションの一室で、会員は一生懸命にヨーガを学び、それぞれに「解脱」「超能力」或いは「健全な肉体と心」を求めて修行・訓練に励んでいたようです。特に熱心だったのは、Hが称賛したあの写真の3人の女性たちであり、純粋だった彼女らの修業の上達は目覚しいものがあったのです。そこに多くの人々は、麻原の「実績」「実力」を見たのです。H郁夫もそのうちの一人でした。

 当時、ある雑誌社が強引に撮った麻原の「空中浮揚」めいた写真が、爆発的な反響を呼びます。その背景には、「神仙の会」の実績だけでなく、その頃空前のブームとなりつつあったオカルトブーム、ノスタラダムスの予言、終末論ブームがありました。世紀末が近づきつつあった1980年代半ば、あたかも時代は、不安で、軽薄で、空虚で、騒然たるバブルの時代の入り口にさしかかりつつありました。「大教団へ」の野望を抱く麻原は、この「空中浮揚の成功」(あくまでも写真の中のこと)を「超能力獲得と神的存在の証」とし、これを大々的に振りかざし、マスコミへの売り込みを開始し、次第に「社会的認知」を受けていきます。その結果、麻原は「カリスマ的教祖」として崇められ、オウム真理教は急速に膨張を遂げていくことになるのです。紛れもなく麻原もオウムもまた時代の産物でした。

 そして、「カリスマ的教祖」となった麻原はこんな講話を始めます。「地球世界を破壊する恐怖の大王の候補としては、環境問題説、核兵器説、彗星衝突説があるが、1999年までに襲い掛かってくるであろう超汚染―大気汚染・水質汚濁や大震災が、さらに陰惨な世界〝ハルマゲドン〟をこの地球上にもたらすであろう。この大予言の的中は不可避であるが、西洋キリスト文明に対置しうる東洋思想の実践によって人類が滅亡から救われる可能性もある」「2006年には核戦争の第一段階は終わっているだろう。核戦争は浄化の手段だ。だが〝人が自分の分け前を割いて人に与えよう〟と考えない限り、浄化はなくならない。私が目指すのは最終的な国、完璧な超能力者たちの国だ。超能力の獲得とは神に至る道だ。私は完全な超能力者の集団を作り、シャンバラ(最高の聖者達が住む国)を確立すべく、自分を神に変える修行をした」と。

こうした言葉に接したHが、オウムと麻原に熱中し、心中深く囚われていったであろうことは、十二分に推察できます。麻原の芝居がかったこの講話に、Hが求めている「正義」(正確に言えば正義らしきもの)があったからです。Hは「我が意を得たり」と膝を打って賛同し、賛仰し、完全なるオウム信徒に変身を遂げていったはずです。

 言うまでもなく、そこに「正義」を見たのはHだけではありません。この時代はまさに「時代閉塞感」―先行き不明・行き止まりの不安感―が蔓延しつつあった時代でした。こうした「人類世界終末論」「ノストラダムス現象」の流行、そして麻原とオウムの登場は、決して特殊で偶発的な現象ではありませんでした。当時の日本という国が持っていた「恐怖的な環境」(虚しい経済至上主義・拝金主義・物欲主義の横行、自然環境の破壊、戦争勃発の危機等々)それ自身がオウムの信者たちの危機感を煽り、彼らを不安の淵に追いやり、深刻な「オカルトブーム」を引き起こす原因となっていたのです。

 もっとも、私の立場から言えば、麻原や超能力に日本の多くの若者が関心と興味を寄せ、心を奪われていったもう一つの背景として、左翼運動や学生運動の崩壊という深刻な問題がありました。当時、全世界的に「社会主義運動」への深刻な幻滅があったということこそが大問題だったのです。今はこの問題に深入りすることは避けますが、本当は「恐怖的環境」を生んだ社会を根本から変革し、土台から社会を人間的なものに変革する社会的運動が不在であったこと、それこそが最も深刻な問題だったのです。

それはさておき、Hにとっても「環境問題」「核兵器」「超汚染―大気汚染・水質汚濁や大震災」は大問題でした。その「廃絶・克服こそが正義」であり、それはかねてからHが念願していたことであり、決して間違ったものではありません。その限りにおいて「Hは正義の人」でした。しかし、その実現への道が、麻原やオウム、ノスタラダムス信者のような、「陰惨な世界〝ハルマゲドン〟から人類を救済する神の国を創る」という狂信的な観念論思想・宗教論と結びついた時、それは恐るべき悲劇へ到達していくことになります。

 麻原は「解脱者たる己を救世主とする神の国オウム真理教の国の創設」を公然と唱え、教団をこの思想で染め上げ、この思想で教団を武装し、「オウム批判者」は全て許し難い「正義と真理の神の国の妨害者・敵対者」と決めつけ、それをテコに内部統制を強め、激烈な聖戦を訴え、推進していきます。麻原は、「妨害者・敵対者の撲滅抜きに神の国の勝利は絶対にない」と語り、「ポア―悟りきれない者達の命を奪い、彼らを聖なる世界に送ってやることも功徳の一つ」という「教義」を持ち出し、信者たちに「殺人もまた一つの正義」と信じ込ませていったのです。Hのような純粋な信者は、「人類を苦しみと陰惨な世界から救出したい」という思いが強く、真剣で実践的であったが故に、多少の戸惑いを持ちつつも、常識を超絶した「ポアの教え」に捉われていったのです。しかも、野心的で世俗的政治家であった麻原は、教祖としての「カリスマ的権威」「教団組織の力」を操り、「恐怖的支配」「暴力的支配」「功名争い」を巧みに利用し、盲目的な信者集団を創りあげていきました。麻原は、警察権力・マスコミ・世論の攻撃を「オウム弾圧」「教団圧殺の陰謀」と訴え、敵に対する憎しみと不安と疑念とを煽り立て、まじめな信者たちを「聖戦」へと駆り立てていきました。「世俗界の敵」「悪魔の軍団」と闘うこと抜きに「神の国」を創ることはできない―Hも他の幹部たちも皆、この思いこみが強烈で、抜き難い程に根深かかったが故に、逡巡しながらも一歩一歩深みに嵌っていったのです。そして最後には、引くに引けない世界へと引き込まれていき、遂には「サリン事件」を引き起こすことになるのです。戦国時代の僧・快川和尚は、信長に焼き打ちを掛けられた際、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という有名な辞世を残し悠然と焼死していきますが、オウム信徒たちにとっても「心頭滅却し、オウム真理教に心身を捧げれば、人殺しもまた恐ろしからずや」だったのです。

 私もHも、また何人かのオウムの幹部も、同じ時代を生きて来ました。ただ、その置かれた環境はそれぞれ異なり、また異なった生き方をして来ました。その根本的な違いはその存在・置かれた環境、その中でそれぞれが身に付けた哲学の違い、唯物論か観念論かの違い、そこにこそあったのです。人間は現実の時代、現実の存在、現実の環境から離れて生きることは出来ません。その現実と如何に向き合うか、二つの哲学の違いとはそれに向き合う姿勢の違いに他なりません。そして、人間が現実を無視し、現実から離れる時、それはいつも悲劇的で、虚しい結果へと突き進むことになります。これはいつの歴史時代においても言えることです。

「Hも正義の人であった」ということの意味、判ってもらえましたか? 次の手紙では、二つの哲学の違いについて、より具体的に書くつもりでいます。そして、本当の正義とは何かについて、私の結論的な考えを述べたいと思います。

                     22001年2月15日

 

 Nは、Hオウム真理教に深入りし、やがてポアの教義まで受け入れていく過程を、頭の中で或る程度は理解し、認めることが出来た。「イジメ集団を殺したい」と思ったというその思いを持ったことがあったから。が、納得することは出来なかった。観念論についてある程度の理解を持っていたとはいえ、「殺したい」と思うことと「実際に殺す」ということとの間には大きな違いがあった。しかし、もしも或る若者が「あいつが憎い、殺したい」と思ったその瞬間に、更に人間に対する不信、憎悪を煽りたてるような事件に遭遇したならば、間違いなく若くて未熟な頭脳は「大飛躍」を遂げ、「実際に人を殺す」場面へと突き進んでしまうであろう。

 Kは、Nがイジメの首謀者であったAの境遇を知り、Aに対して一定の理解と同情を持つに至った点に、Nの大いなる成長を認めていた。更に、次の手紙で、Nを偶然襲ったある事件が、彼の飛躍的成長を促してくれた事実を知り、若き頭脳の優れた可能性に大いなる感動を覚えたことである。