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(小林尹夫-哲学ルーム)

「ショウコウ」とあだ名されて  ~いじめと差別に関する哲学的考察~ (第4回 2023.12.25)  

 

〈少年Nの手紙 №3〉

 僕の家庭のことは前にも書きましたが、母は相変わらず一日中休みなく働いています。が、責任ある部署についているので、それなりの給料はもらっているようで、今は多少の蓄えがあるから安心して、と言います。学歴で随分苦労させられた父の遺言だからと、母は僕の大学への進学を強く望んでいます。どちらかというと教育ママで、中学の時はレベルの高い有名塾に通わされました。しかし、僕はこれ以上母に負担をかけたくないと思っています。父が病気の所を無理して働き詰に働き、その結果命を縮めたという母の話が脳裡に焼きついており、母を同じ目に合わせたくはないからです。今の高校も、大学進学特別教室には奨学金制度があると聞き、自分で決めました。大学ももし奨学金が貰えなければ夜間に行くつもりでいます。父の跡を追いたいという気持ちと、母を喜ばせたいという気持ちから、進路は理工系を志望にしています。

 僕の育った環境は、片親であったことを除けばごく普通の家庭だと思います。僕自身は、父が居ないことをそれほど意識しないで育って来ました。

 先生の育った環境にはびっくりさせられました。H、この人の育った環境がどんなものか、非常に興味があります。幼少年期の環境はその後の人生に大きな影響を与えていくものなのですね。次回の手紙を楽しみにしています。

 学校の方は相変わらずですが、僕は無視されることも孤立させられていることも平気になりつつありますのでご心配なく。17歳の誕生日を迎えましたが、もうあの切羽詰まった気持ちから抜け出しています。先生のおかげです。ありがとうございました。

         2000年12月25日

 

 N君はどうやら精神的危機を脱したようであった。Kは安堵すると同時に、改めてN君に正面から自分の哲学を語ろうと、深く心に決めていた。少年は自らの苛酷な体験の中から、真実、真理、根本的な解を求めて前進しようとしている。それは、かつてK自身が歩んだ道でもあった。KはNとの巡り合いに必然的なものを感じていた。

 

〈哲学者Kの手紙 №4〉

 無事誕生日を迎えることができたこと、本当に良かったと思っています。心から嬉しく思います。学校生活の方もそれなりに落ち着いているようで、安心しました。どんな場面に置かれても毅然とした態度を貫くことが大事です。あまりにも耐えがたい攻撃があった時は、自らも傷つくことを恐れず、反撃を加え、問題を学校中の大問題にすることです。狭い世界に閉じこもっていてはなりません。弁明を求められたら、私と一緒に断固たる弁明書を書きあげましょう。ただ、「一歩後退二歩前進」という方法も考慮に入れておくべきでしょう。勝ち目が無い、無理が出来ないと思った時は、まずは一歩後退し(闘いを回避し)、十分準備し、力を蓄えてから、今度は二歩前進する(反撃に打って出る)ことです。性急に解決を求めてはなりません。

 さて、少年時代のHを育んだ家庭環境は、一般的には極めて幸福なものであり、ある意味「理想的な家庭」と言っても過言ではないでしょう。

 彼Hの父親は貧しい農家の次男として生まれ、早くから医者になることを志し、農作業の傍ら医者になるために苦学を重ねており、またそれを野良仕事に精出していた無学の兄姉や郷土の篤志家が支えてくれたとのこと。Hの父親は自分が受けたこの周囲の人々からの恩について、子供たちに繰り返し語って聞かせたそうです。地域医療を守る医者として働き詰に働くそんな父親を子供たちは誇りに思い、月末・月初めには、保険請求の書類作成に必要なゴム印押しのお手伝い等、家族総出で、喜んで手伝ったとのことです。

 彼の母親も、決して裕福な家庭に生まれ育ったわけではなく、やはり兄弟姉妹の援助を得て薬剤師の資格が取れたのであり、ひつめ髪の和服に白い割烹着を身につけた母親が、病院の薬剤室で忙しそうに立ち働くその姿は、無言の内に、子供たちに泣き言を言ったり言い訳をしたりすることの非を教えてくれた、ということです。

 農家の生まれだった彼の父親は、子供たちが米を一粒でも粗末にすると、米一粒に込められたお百姓さんの努力や労苦を語って聞かせ、農家の人たちへの感謝とご飯を食べられることの有り難さを教え、また時には、月の美しい夜など、家族皆を呼び寄せ、窓辺で仲良く一緒に月を眺めたりしながら、田舎の懐かしい思い出を語り聞かせてくれたと言っていました。

彼の両親は自分たちの体験から、子供たちが自立することが出来、更に世の中に役立つようにと、教育にも心を配り、6人の子供全員に私立中学・高校・大学教育を受けさせています。だから開業医をしていたが家計は苦しく、決して豊かではなかったのです。しかし、終戦直後は、H家だけでなくみんなが貧しく、つぎのあたった靴下や服は当たり前だったし、誰も貧乏を恥ずかしいことなどは思わなかったのです。小6の時、私もHも、新宿裏にあった淀橋上水場周辺の空き地で、同じような格好で仲間と草野球や缶けりなどして遊び回っていました。傍目には、Hの家も他の家庭同様、食うに精一杯の普通の家に見えたのです。

 しかし、彼の雑記を読むと、貧しくとも、心豊かな、幸福な家族、家庭生活に恵まれ、そうした環境の中で育てられたことを誇りに思っていたことがよく判ります。特に彼の父親に対する尊敬は並々ならぬものがあり、彼はそんな父親との間に、特別に深い繋がりを感じていたらしく、雑記の中で幼い頃の印象深い二つのエピソードを語っています。

 小学校入学前、街にやって来た紙芝居屋について回っているうちに、彼は急に水飴を食べたくなり、病院の調剤室のつり銭入れからお金を盗み出した。なぜか小遣いが欲しいと言い出せなかった。結局見つかって父親の前に連れてゆかれた。彼は、殴られ叱られることを覚悟していた。が、父親は黙然として保険請求の書類を書き続けていて、彼には目もくれず完全に無視した―彼はこの時ほど父親の存在を強く感じたことはなく、自らを深く恥じたというのです。 

 また小学校4年生の時、学校から帰宅途中のバスの中、家から2、3キロも離れた所で、突然心臓に衝撃が走り、「父がカナリアを殺してしまった」ということが一瞬にして閃いた。家に帰ってみると、心に浮かんだ通りのことが父親の身に起こっていて、引き出し式の巣箱の掃除を終え、引出し底を入れる際、誤って世話をして来た愛鳥のカナリアを圧死させてしまい、傍目にもガックリとしていた―彼はそれを不思議な体験だったと述べ、これ以後一層父親との絆の強さ深さを意識するようになったと語っています。この体験は、特別な宗教的体験というより、自分と父親との関係の深さを物語るものとして記憶に残っていたようです。

 こうしたエピソードが物語っていることは、彼がいかに深く父親を尊敬し、父親と強い絆で結ばれ、父親の強い影響を受けていたかということです。したがって、そんな父親や母親が語って聞かせてくれた戦争体験談は、彼の心に強い印象と重たい記憶を残さずにいなかったようです。私たちの世代の場合、家庭・家族の中にそれぞれ戦争が深い影を落としていて、それが強烈な体験となって私たちの生き方を左右していました。私もそうですが、Hもそうした体験に強く影響されて成長を遂げています。私たちが小学校4、5年頃は、まだ東京には至る所に戦争の残骸が残っていて、遊び場の原っぱには爆弾が落ちて出来た穴があったり、半分崩れかけた防空壕が口を開けていたり、爆撃にあったビルの鉄骨が剥き出しになったままだったりしていて、戦争を身近に感じさせるものがすぐ傍らにたくさんあったのです。こうして戦争の悲惨さや恐怖は鮮明に記憶され、大きな問題として私たちの脳裏に刻まれていたのです。

 時々、私たちは遊び疲れると、そんな原っぱに寝ころび、父親や母親から聞いた戦時中の話をし合ったものです。彼が、軍医だった父親が話した戦争体験談の中で特に衝撃を受けたのは、戦場では患者(兵士)は人間扱いされず、ロクな治療もされず、皆苦しみながら死んでいき、それを毎日目にしていた彼の父親は苦痛でノイローゼになる寸前だったという話でした。また、彼の母親は、家から100メートルと離れていないところに落ちた250キロ爆弾の凄まじい爆裂の瞬間や爆死させられた人間の体がバラバラに飛び散った惨たらしい光景や、夕暮れ時に焼夷弾で燃える川崎の町を背景に馬だけが国道を駆けて行く何とも物悲しい風景のことを、何度も語って聞かせてくれたということで、それがずっとカラー映像となって脳裡に刻みつけられていると言っていました。Hは、どちらかというと感受性の強い、ナイーブな性格の少年でしたから、そうした両親の戦争経験談が彼に人間の生死の問題に関して強い興味を抱かせていったことでしょう。

 ところで、彼の両親は彼に特別な宗教教育を施してはいません。両親とも特に何かの宗教を信じていたわけではなかったようです。ただ、折りにふれ、孔子孟子儒教、イエスキリストと聖書、釈迦の教えやその生涯について、人間愛の物語として話してくれたようです。それはあくまでも信仰としてではなく、人間の優れた生き方、心の持ち方の問題としての話だったと言います。彼自身、クリスマス・イヴには賛美歌を歌ったり、高校時代には英会話の習得も兼ねて教会の日曜学校にも通ったことがあったようですが、学校で十字軍の遠征やヨーロッパ列強の植民地獲得の歴史について学ぶ中で、キリスト教や宣教師が果たした狂信的で差別的な側面を知り、キリスト教に違和感を覚えてもいました。仏教についても教義的なことにはあまり興味がなく、ただ、釈迦を描いたスライドを観たとき、大鹿に変身して釈迦が山火事で逃げ惑う動物達を救うために自分の身を谷川の橋となし、動物達を渡し終えた後に自らは死ぬという物語に、非常に心揺さぶられたといいます。しかしだからといって特に仏教思想に興味をもったわけではなかったとのことです。日本の八百万の神天皇にまつわる神話にも興味を持ち、深い関心を持っていたようですが、それらも日本人としてのごく自然な関心であって、宗教や信仰の問題とは次元を異にするまったく別な話だったのです。

 事件後、多くの人々が、彼は幼い頃に特別な宗教体験や特別な宗教的心情といったようなものをもっていたと想像したようですが、そんなことはありませんでした。しかし、彼はキリストや釈迦が示した人間性・人間的側面に対して強い共感を持っていたことは事実です。彼は特別に宗教的な人間ではありませんでしたが、その人間性は豊かで正義感と思いやりに富んだものであったことは紛れもない事実です。

 私やHの少年時代の学校生活は、物には不自由していましたが、精神生活面ではむしろ恵まれたものでした。戦前の窮屈な統制教育から解放された教育現場には、明るい、自由闊達な雰囲気が流れていて、とにかく活気がありました。Hは小3の時に、私は小5の時に疎開先から東京へ帰って来たのですが、担任や級友がとても良くしてくれ、時々喧嘩して大騒ぎすることはあっても、直ぐに仲直りし、イジメなんかはまったくありませんでした。

 Hの転入当時、担任が昼休みになると「ドリトル先生」などの本を読み聞かせてくれたそうで、このときの楽しかった読書体験をきっかけに、彼はたいへん読書好きな子どもになったと言います。その頃は小遣いをもらうとすぐ本屋さんにとんで行って本を買い求め、一日中飽きもせず本を読んでいたそうです。それからは、童話や吉川英治の「神州天馬峡」などの講談社の少年少女向けシリーズなどの家にある本は片端から読み進め、小4の時ころには和歌森太郎編纂の『日本の歴史』10何冊かを自分で買い集め、暗記してしまうまで読み返したそうです。世界の神話、昔話、民話にも興味を持ち、『王家の谷』などのエジプト遺跡調査の本などにも目を通し、民俗学や歴史や考古学への関心を持ち、実際、彼は人類史についてもかなりの知識を有していました。父親の本箱にあった大人向けの平易な読本―『史記』『水滸伝』『三国志』『義経記』『太平記』等も読んでいたらしく、父親は息子があまり子ども向きでない難しい本をすぐに読んでしまうのでどんな読み方をしているのか心配になったようで、「内容はわかっているのかね?」と聞いてきたことがあったといいます。彼が本の内容について答えると、納得できたらしく、それ以後は何も言わなくなったといいます。

 実際、私たちの目から見ても、彼は理解力に優れた頭脳明晰な少年でした。私自身、そんな彼に刺激され、勉強にも励むようになり、読書好きにもなったのです。ただ、特別親しい友であったということはありませんでした。というのも、私と違い、彼は小学校高学年の時から既に中学受験を目指していたからです。彼は父親や兄達と同じ医者の道を歩むべく、慶応中学に進む準備をしていたのです。しかし、彼は決してガリ勉という訳ではなく、当時の担任の先生が好きだった「万葉集」や短歌や俳句の話にも興味を持ち、暗記したり創作したりと、本当に充実した学校生活を送っていて、当然学業成績も抜群でした。当時、私たちがH少年に抱いたイメージは、能力に富み、知性豊かで、人一倍探求心の強い、聡明な学生という優等生像に他なりませんでした。そこには後の「オウム真理教幹部・H」の片鱗の影さえ見られませんでした。

 前に記したように、彼が医学の道に進むようになったのは町医者であった父親の影響でした。父親を尊敬していた彼も、当然のように父親の後を追って医師への道を志したのです。彼の脳裡には、常に夜昼無く地域の医療に奉仕し、地域の人々から絶大な信頼と尊敬を寄せられていた素晴らしい医師としての父親と、その父を献身的に支える母親の姿が刻み込まれていたのです。がしかし、医者の息子だからその仕事を継いだということではありません。彼の医者になりたいという希望はもっと内発的で内的必然性をもったものでした。彼は学校側に進路希望として正式に慶応大学医学部への進学を申し出る際、さらに自分自身の内なる動機を確認すべく、父親から貧しい農家の息子がいかにして発奮し苦学して医者になろうとしたのかを尋ね、医者としての仕事の素晴らしさをあらためて再認識し、自らの進路を決定しています。そこには、医師としての高い収入や社会的地位、名誉欲に目を奪われるというような卑しい感情は微塵もありませんでした。医師への道の選択の動機はただひたすら「父親のようなすばらしい医者になりたい」という純粋なものでした。そういう意味において、彼は、友人仲間の誰もが認めていたように、紛れもなく「正義の人」だったのです。

 因みに、私が医学の道に進んだのは、私の父方の祖母の存在が原因しています。東京生まれで東京育ちの祖母は、終戦時は66歳でしたが、戦争で息子と家とを失ったショックと、慣れない疎開先の田舎暮しから重い気の病に冒され、母はそのことでずいぶん辛い思いをしていました。それが疎開先から東京へ戻った理由の一つでもありました。母だけでなく、3つ上の兄も通学の傍ら毎日近隣のヤギやウサギや鶏の世話を引き受け、家計を助けておりましたから、私はもっぱら家で祖母の世話をすることになっていました。私はこの祖母が好きだったこともあり、辛抱強く相手をするせいか、私と一緒に居る時は案外落ち着いていて、母はずいぶん私に感謝をしていました。この祖母との交流が私に精神医学への関心を持たせたきっかけでした。東京へ戻って祖母はすぐに亡くなりましたが、近所には様々な戦争ショックから精神異常を来している老人が何人にもいて、生活が苦しい中、多くは家族に邪魔者扱いされ、悲惨な生活を余儀なくされていました。何とかせねば、そんな気持ちが中3の私に「将来は医者になろう」と思わせたのです。H同様、私にとっても、人間の心の問題は大きな関心事ではあったのです。

 さて、私たちが高校生活を送るのは1962年から1965年にかけてです。1950年代半ばから始まった神武以来という大型景気によって戦後復興を成し遂げた日本経済は、60年代に入ると高度経済成長の時代に突入し、1964年の東京オリンピックを突破口として劇的に空前の成長を遂げていきました。私たちが高校生活を送った首都東京においても、緑地や野原は次々と姿を消していき、肩を寄せ合うように建っていた背の低い密集住宅は大型ビルに変身し、四六時中道路工事の騒音が鳴り響き、至る所に高速道路が建設されていきました。大インフレ経済で、所得は「倍増」し、札束は飛び交い、生活は電化され、マイカーが走り、至るところモノが溢れ、人々は果敢に「豊かな生活」の実現目指して突き進んでいたのです。世の中は恐ろしい勢いで変化し、発展していきました。そして、「古き良き東京風景」も近郊の「自然たっぷりの古き良き景観」も次々と破壊されていきました。首都圏の人口も車も膨張の一途を辿り、工場の吐き出す煤煙と車の排気ガスとで青い空は黒く染まっていきました。私たちの遊び場であった淀橋上水場の周辺でも、川は汚れ、かつて遊んだ池や沼がいつの間にか埋め立てられ、虫を捕ったり、七夕の笹を流した用水や小川は暗渠や道路に生まれ変わってしまいました。この頃は、高校の違う私とHとの接点は少なく、ほとんど会うことはありませんでした。しかし、Hの雑記によれば、彼が後に「宗教・オウム真理教」に接近していく下地がこの頃形成されていったことが見て取れます。

 当時のこのような劇的な環境変化の中で、彼の一家は「天と地と人と相和す」と揮毫された扁額を毎日のように眺め、心に刻み、そうした生き方を心底から大切にしようとしています。「天」(大自然の造物主の住む公明正大で清浄な世界)と「地」(地球上の山・川・海)と「人」(人間の営む経済社会生活)が「相和す」(調和をとりあう)という、現実世界からは遠く離れた教えでした。醜悪極まりない現実世界において、それは実に健全で健康的な「考え方」―勿論観念論的な―でしたが、当時の時代的風潮とは決して相容れることのない「考え方」「生き方」でした。この他にも、父親が子供たちに繰り返し教え、H少年の対人関係の基本的スタンスともなった教えに「四知の格言」があります。これは、古代中国の楊震という高官が、密かに賄賂を届けに来た男の「夜も遅く、誰も知る人はいませんから」との囁きをきっぱり拒否し、「天が知っている。神が知っている。私が知っているし、君も知っているではないか」と厳しく対処したという『後漢書』に出てくる故事に由来するもので、「嘘いつわりのない心の正直な人たれ」という個人の人格の完成を求めた教えでした。これもまた現実の功利的社会とは相容れない教え―勿論観念論的な―でした。

 そんな「考え方」「生き方」を心がけた中学生のHは、シートンやファーブルの著作を好み、熱心に読んでいたのですが、やがては好きな昆虫採集さえも止めるようになり、加速度的に進む環境汚染と破壊にどうしようもない不安を抱いていったのです。高校時代のある夏の夕暮れ、大きな雲のような群をなして神社の上空を延々と飛んで行くトンボの大群を目にした時、彼はこの世の終わりを感じ、言いようもない、突き上げるような悲しみに襲われたといいます。感受性と探究心に富む郁夫少年は、この頃すでに次のような問題意識を持ち、自分の「人生のテーマ」について、真剣に考えるようになった、といいます。

 ――私は社会を否定的にとらえていなかったのですが、経済成長とともに圧倒的になりつつあった「物質的豊かさイコール幸せ」という価値観の風潮にはある種の違和感を抱いていました。その風潮と進化論の誤った解釈のような進歩主義とが合体して、本来人が持っているはずの優しい心や、存在するものすべてが大きなものにつつまれて生かされているという「天と地と人と相和す」智恵が忘れ去られてしまった、そんな社会になりつつあるという、漠然とした不安や問題意識をもつようになっていたのです。私はこの頃までに、たとえば「膨張する宇宙」などの宇宙論の本に親しみ、自然界の観察や歴史への考察を重ねることから無常観にとらえられていて、私なりに〝存在とはなにか〟などと考えていたのです。人種差別の問題や環境の変化とその影響への不安について考えたり、人間にとって〝何が幸福なのか〟といったようなことも意識にのぼらせていました。そして、そのような、自分の力では解決できず、またとらえどころのない問題もふくめて、世の中のすべてを包括的にかつ総合的に説明できて解決に導くような法則はないものだろうか、そしていつの日かそのような法則を理解し、身につけて、世界のすべての人々に説いてまわることができたら、という思いが大きく浮かび上がってきました。それをこれからの「人生のテーマ」にしよう。自分のためにだけでなく生きたい、と。

 いずれにせよ、彼の関心は、後に私との論争において如実に現れたように、「心の存在」を「最も価値あるもの」とする「テーマ」にあり、それは明らかに「観念論的傾向」を示すものでした。彼Hが学んで来た教養、彼が受けて来た教育、とりわけ強い影響を受けた父親の教えは、間違いなく「観念論的傾向」の強いものであったと言えます。それは彼が育って来た環境が生んだものであり、彼が観念論的な思考を強めていったのは、或る意味「自然な結果」だったとも言えます。

 ところで、私もまた高校生時代に、「観念論的な考え方」即ち「人間の精神・心を中心とする考え方」について、いろいろなことを学ぶ機会を持っていました。それは、疎開先で出会った信州の小学校の恩師によって齎されたものです。毎年夏休みには、私は一人で信州の田舎の親戚の家に遊びに行きました。そして、その頃は中学の美術の先生をしていた小4年時の恩師で、当時私を可愛がってくれたT先生の家に入り浸り、先生の本を借りて読んだり、お話を聞いたりの日々を送っていました。一昨年亡くなった先生は、信州独特の教育者組織、職能団体である信濃教育会の「哲学会」のメンバーでした。信州では、多くの先生方が哲学、特に『善の研究』を著した京都大学哲学博士・西田幾太郎を信奉しており、戦前から西田門下の哲学教授木村素衛氏、信州出身の西田門下生務台理作氏などを招いてよく勉強会を開くなどしていました。信州教育の担い手であった長野師範には、伝統的に、明治以来のペスタロッチ主義教育思想―「自然的直観的経験に基づく人格陶冶の教育こそが真の教育である」「教育とは本来的に子供たちの中にある素晴らしい能力を発見し、引き出し、伸ばすことだ」とする考えが存在していました。その伝統は、信州の大地の奥深くを人知れず流れる地下水脈となり、信州教育の風土を豊かにし、生気溢れるものとしていました。それ故に、小中学校には教育に並々ならぬ誇りを持つ先生方が数多く存在しており、博物学や哲学の自主的な研究活動が非常に盛んでした。T先生もまた然りで、松本市内にあった先生の自宅の書斎には『西田哲学全集』が備えられ、京都大学の哲学博士・高山岩男の『正義無き力は蛮力であり、力無き正義は無力である』というような扁額が架けられていました。高1の夏、先生にこの額の意味を問うと、先生は「この言葉は、戦時中は大東亜戦争を称揚する右翼の思想的根拠として利用されたが、それは勝手な解釈であって、本当の意味はそんなものではない。この言葉の出典は、実はフランスの偉大な数学者・物理学者にして哲学者・信仰者であったパスカルの『パンセ』なのだ。「人間は考える葦だ」という箴言で有名なあの『パンセ』だ」と教えてくれたのです。因みに「沈黙こそ最大の迫害である」という言葉もパスカルです。そう、私が後に「戦争とは何ぞや」「正義とは何ぞや」という問題を真剣に考えるようになった背景にはT先生のこの教えがありました。人間の歴史を直視すれば正義と暴力・戦争の問題は避けて通ることのできない問題であるという認識が、戦争の残酷な影響を体験していた私の脳裏に、深く刻まれたのです。

 ところで、T先生の学んでいた哲学は観念論的なものでしたが、戦場体験者であり、彫刻家であり、優れたリアリストであった先生の教えそのものは、現実を直視し、現実から離れることなく、あくまでも現実社会の中で現実と格闘して自らの人格的成長を目指せという、どちらかと言えば唯物論的なものでした。もっとも、高校受験に取り組み始めた頃にはT先生と会うことも無くなり、高校時代の私の関心は専ら文学的なものに移っていて、哲学からはすっかり遠ざかっていました。

 私が哲学に再び関心を寄せるようなったきっかけは、C大医学部の1年次に起こった「インターン研修制度」を巡るある事件でした。C大に入学したての5月末、医学部3年生の或るクラスが、授業中に「研修問題」に関する討論会開催を要求し、「教室封鎖・教授吊るし上げ事件」を起こしました。これに対し、教授会は「神聖なる学問の殿堂を汚し、敬意を表すべき師に対し、許しがたい侮辱的暴力的言動を加えた」とし、クラス代表の2人を停学処分にしたのです。当然このクラスは猛抗議を展開し、「処分撤回」を求めて「医学部全面ストライキ」を主張したのですが、当時の医学部自治会執行部はその判断を「学部投票」に委ね、結果、「多数」によってストライキは「否決」されてしまいました。私は、最初、「医師は人命を預かる重大なる責務を有する職業であるから、学部卒業後すぐには医師免許を与えず、2年間の研修の後に国家試験を受けさせ、合格者にのみ医師免許を与える」というインターン制度に、何故先輩たちが反対を唱えるのか、理解できませんでした。しかし、現実にはこの制度は完全に形がい化してしまい、卒業後2年間、きちんとした指導者もつかず、まともな研修もなく、身分保証もなく、給与保証もなく、ただただ教授の下働きとアルバイトに追われるだけの「奴隷的封建的制度」に堕してしまい、多くの真面目な医学生の怨嗟の的になっていたのです。「有名無実化した制度を廃止し、卒業後すぐ国家試験を行い、合格者は医師として身分保障を行い、給与を出し、その上できちんとした研修を実施せよ」という先輩医学生たちの要求は至極正当なものでした。ところが、教授会は「教室封鎖・吊るし上げ」というやり方だけを問題にして処分を下し、学部学生も「暴力的なやり方や一部の過激な学生の一揆主義的な行動には賛同できない」として「処分撤回のストライキ」に反対したのです。しかし、この事件をきっかけに学内闘争は一気に激動化し、教授会はますます弾圧的となり、やがて全学ストライキ、機動隊導入へと突入していくことになるのです。この時、私の脳裏に真っ先に浮かんだのはガリレオ・ガリレイの故事でした。中世時代、ガリレオは「地動説」を唱え、キリスト教会によって宗教裁判にかけられ、投獄されるのですが、彼は、刑罰に従いながらも、「それでも彼女は回っている」と呟いたというのです。今では「地動説」は子供も知っている常識です。「多数必ずしも真ならず」―私は、かつてT先生から聞いた、あの『正義なき力は蛮力であり、力無き正義は無力である』というパスカルの宸言をまざまざと想起し、「真理・正義とは何ぞや」という問題意識に目覚めさせられたのです。それからです、手当たり次第に哲学書を読み漁るようになり、やがて唯物論に深い関心を抱くようになっていったのは。

  いずれにせよ、幼少期に、疎開先で、貧しく苛酷極まりない母子生活を送っていた私は、現実を無視することなく、現実生活を見据えながら「真実・真理とは何か」「正義とは何か」を哲学的に考え、探求するようになっていきました。私の育った困難な環境は何よりも現実存在の変革を求めていて、唯物論に激しく惹き付けられたのです。

少し長くなりました。今日はここで一区切りとします。次回の手紙から、多少難しい言葉を使うことになると思います。難しくて判らない言葉があれば、遠慮なく聞いて下さい。良いお年を!

                                  2001年12月29日

 

 Kは、自分の幼少期の生活環境、思想的影響について振り返る時、疎開先における母親を取り巻いていた苛酷な状況について、T先生の教えについて、信州教育における哲学的伝統について、しみじみと考えずにはおれなかった。如何に苛酷な体験を有していても、その体験を如何に見つめ、如何に捉え、如何に対処し、如何に生きていくのか、その思想・考え方によって、根本的に変わる。今日の自分の在り様を思い、Kは思想・哲学のもつ決定的な意義を再確認したことであった。