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(小林尹夫-哲学ルーム)

「ショウコウ」とあだ名されて  ~いじめと差別に関する哲学的考察~ (第8回 2024.4.25)

 

〈少年Nの手紙 №7〉

 学校の「社会科」の授業で学んだ知識を総動員しながら先生の教えを勉強しています。先生の教えてくれた観点で見ると過去の歴史および現代社会の本質が明白になります。そして何の勉強にしても、ただ現象を追うだけの、ただ知識を覚えこみ、詰め込むだけの勉強がいかに虚しいものか、よく判りました。そして今使っている学校教科書の記述がいかに一面的なものであるかも。歴史の授業では、2年次から幕末・近代・現代に入っていきます。先生の講義を念頭に置きながら勉強すれば、きっと面白い勉強になると思います。今から楽しみです。

 先日、廊下でAと二人だけで出会った際、彼は少し立ち止まり、小さく頭を下げて通り過ぎて行きました。僕も笑って小さくお辞儀し、それに応えました。彼に対する憎しみは徐々に消えていっています。こうした僕自身と周辺の急激な変化は、先生の手紙によって齎された変化であり、先生の教えの賜物です。あらためて先生に感謝申し上げます。

                    2001年3月10日

 

〈哲学人Kの手紙 №7①〉

 A君も分かってくれたようですね。二人が良き友達になっていく事を願っています。青年は、いろいろな経験を糧に深く学び、切磋琢磨し、実際に行動し、実践し、自らの考えを高めていくことが大切です。

 さて、最後に、「人間性善説」とは何か、「正義」とは何か、という問題について私の見解を述べておきます。「マルクスの徒」たる私の結論はこうです――「人間性善説」「正義」とは何かという問題の真の解答もまた「史的唯物論」にある、と。

ここで、史的唯物論について出来る限り分かりやすく簡潔に解説しておきます(将来、適当な時機に、私自身の実践を語りつつ、史的唯物論哲学について、更に徹底的に、更に実践的に、より深く論じたいと思います)。

 史的唯物論の核心を一言でいえば、歴史の発展法則を決定づけているのは生産力(モノを生産する力・能力)であり、その生産力の発展が生産関係(所有関係、支配・被支配の関係、国家制度)を決定する、ということです。人類の生存・存続の大前提、それは生命の存在・存続であり、そのための食料・衣料・住居の獲得と生産であり、それを実現する人間の生産活動・労働である、と言えるでしょう。

 生物である人間は誰しもまず食べねば生きていくことは出来ません。人類は誕生以来存在し生き続ける為に必死に食べ物を採集し、生産し、懸命に生産手段や生産方法を開発し変革し続けて来ました。それ故に、人類社会において、食衣住を産出し、その生産を不断に増大させ、発展させて来た労働の担い手である労働者・勤労人民こそがもっとも貴重な存在であり、決定的価値を有する存在だと言えるのです(現代ではサービス産業労働者や文化産出労働者が付け加えられますが)。食物を手にするための労働が無ければ。人間は存在することはできません。これを否定する者は自らの存在そのものを否定する者であり、労働と労働する人々への感謝無き人間は許しがたい「傲岸不遜の輩」と言わざるを得ません。従って、大前提として、善という概念も正義という概念も、人類の生命・生存を根本から支えている生産・労働、即ち勤労人民から離れて論ずることは絶対に出来ない、ということです。ここに、あらゆる価値判断の根本基準があるのです。ここを離れた論はすべて、虚しい、砂上楼閣の議論となり、何の価値も有しません。私はそう断定します。

 よく「自殺論」(自殺は善か悪か、許されるか許されないか等々)が云々されますが、結論から言えば、自殺は人間本来の志向ではありません。原始の時代、人間にとって生きること・生き抜くことが全てであり、生きるために木の実や山菜や貝や海藻を採集すること、魚や動物などを狩ること、生きるために働くことは無条件の至上命令でした。生きることは本能であり、無条件に善でした。「自殺」というような「高尚な哲学的問題」が生まれて来るのは、社会に衣食住のゆとりが生まれ、社会的な不幸や貧富の格差が生まれ、様々な社会的矛盾、不幸、悲劇が生まれる階級制社会、奴隷制時代に至ってのことです。自分で自分の命を絶つという自殺は、それ自身が一つの社会的産物であり、それを生みだした環境が人間的なものに変われば、非人間的な自殺も姿を消すことになります。

 高校生なら既に学習していることと思いますが、人類最初の社会の形態は共同体社会(原始共同体社会)でした。その社会では人類の生産する力はまだ低く、自然に存在する恵みの採集、狩猟、漁労が労働の中心でした。こうした生産力の未発達な社会に適応した形態が共同体社会でした。何らかのリーダーが居たとしても支配する者・支配される者の区別はなく、皆が協力し合って衣食住を確保し、平等に分けあい、集団的な暮らしが展開されていました。この様な時代・社会では、私的所有がなく、生産も消費もすべて共同の営みとして行われており、したがってそこには、いがみ合いも無く、奪い合いも無く、騙し合いも無く、殺し合いや戦争も無く、実に平和的で人間らしい生活が営まれていました。初期の人類は無邪気に生そのもの楽しみ喜び謳歌する純粋無垢な「赤子」のような存在でした。そうした社会、環境下では自殺などありえないことでした。

 それらを可能にしたのはまさに共同と協力を専らとする社会的環境でした。史的唯物論は、この原始共同体社会こそが人間本来の社会であり、人間の本来の性質とは共同と協力と連帯を本質とする善であり、人間性善説こそが正しい、と結論付けているのです。

 しかし、こうした共同体社会は、「不本意」にも、生産力の発達という「進歩」によって、富める者・支配する者の集団(数少ない集団)と、貧しい者・支配され働かされる者の集団(多人数の集団)とに分裂していき、平等的な共同体は崩壊させられていきます。「不本意」というのは、そうした結果は人間が望んだ結果ではなかった、という意味です。つまるところ、それは当時の生産活動が生んだ結果であり、当時の生産活動から必然的にもたらされたものであり、意識されることなく生み出された社会的現象でした。

 次回に、そうした分裂がどのように生まれていったのかを詳しく説明しましょう。