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(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第5回) 

   2022年9月10日更新  次回更新は9月20日

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 独ソ戦の前哨戦としての「赤軍元帥トハチェフスキー粛清」 

 独ソ戦突入前に起こった「独ソ戦の前哨戦」としての重大事件―「ソビエト国内の粛清」について、触れておきたい。特に、「赤軍元帥トハチェフスキーの粛清」は「独裁者スターリンが行った事実無根の捏造劇」として広く喧伝されている。

 大木氏も「赤軍元帥トハチェフスキー赤軍将校の粛清」を大きく取り上げている。しかも大木氏は、フルシチョフが持ち出した「野蛮で専制的性格のスターリンがやった事実無根の粛清」論をそのまま引き継いでいるだけでなく、「トハチェフスキーは〝赤いナポレオン〟と称されたソ連屈指の用兵思想家である」として彼を天まで持ち上げ、彼の「軍事理論」を高く評価している。この「トハチェフスキーの軍事理論」については本書後半で詳しく論じることして、ここではフルシチョフの「独裁者スターリンによる事実無根の粛清」論について、はっきりとその嘘八百・出鱈目ぶりを指摘しておこう。

 言うまでもなく、こうしたフルシチョフの「スターリン批判」を受け入れ、「スターリン批判」を口にしているのは、大木氏のような反共的な人だけでなく、「良心的知識人」「良心的大衆」を含め、世界に「ごまんといる」のが実情である。例えば、『戦争は女の顔をしていない』の著者アレクシェーヴィチさんも然りであり、彼女の著作の中に出て来る何人かの証言者も然りであり、彼女の著作の「解説」を書いている澤地久枝さんも然りである。ある意味、この問題はそれほど根深い問題でもある。

 【注:著名な独ソ戦史研究家である山崎雅弘氏は『新版・独ソ戦史』(2016年・朝日 
 新聞社)において次のように指摘している。『過去の独ソ戦研究では…「大祖国戦争 
 史」(注:フルシチョフが編纂させた戦史)とフルシチョフの回想録…を参考文献に
 挙げるのが慣例となっていたが、本書ではこの二種類の書物は書斎の棚に置いたま
 ま、ほとんど参照しなかった。その理由は、両者とも政治的意図に基づく事実の歪曲 
 や曲解、無視、粉飾などがはなはだしく、既に別の研究によって否定されている部分 
 も多いからである。前者は…断片的なデータは参考になるが、後者は…「作り話」と
 事実の見極めが難しく、とりわけスターリンの戦争指導についての記述や、第二次ハ
 リコフ戦で自らが果たした役割についての弁明など、他の研究者による実証的研究で 
 ほぼ否定されていることもあり、執筆中は混乱を避けるため、これらの文献は仕事机
 から遠ざけていた』と。「スターリン批判者」である山崎氏の証言であり、耳を傾け
 るべきであろう】 

 そもそも「トハチェフスキー粛清事件」とは何か。それは、1937年5月にソビエト赤軍参謀総長・陸軍元帥のトハチェフスキーらの赤軍幹部がナチスと通じたスパイとして摘発され、6月に軍法会議軍事法廷―で有罪判決を受け処刑された事件である。この時、トハチェフスキーらと共に多くの赤軍幹部・反革命分子が逮捕され、処断された。 

この事件は世界を驚かせた。日本でも、1937年(昭和12年)6月12日付朝日新聞が、「ソ連摘発の嵐 愈々急」「ト元帥等八巨頭逮捕」「軍律違反で審理開始」と報じ、次のような「ソビエト政府発表のコミュニケ」を公表した。曰く―

 『罪名は軍律違反大逆罪、ソビエト人民に対する背信罪、労働者農民赤軍に対する背任罪、ソビエト連邦に対して非友好的政策を遂行しつつある或る一外国の軍部首脳と連絡し、祖国に対し、反逆行動をとったことが判明した。以上共犯は…外国の軍事的諜報機関の手先となり、外国軍機関のため間諜行為を働き、ソビエト赤軍に関する情報を供給し且つ赤軍の実力を弱めるため破壊行動を営み、ソビエトに対する軍事的攻撃、赤軍の敗撃等につき、準備を試み、ソビエトにおける地主及び資本家の権力回復を支援する事を目標として種々画策した』と。

 1937年(昭和12年)6月13日付朝日新聞が載せた通信記事《パリ12日発同盟》は、「トハチェフスキー元帥始め赤軍首領8名の処刑」に関する「パリ外国消息通」として、次のような記事を掲載している。『最近ソビエト政界では、反独政策は単に民族的理由に基づくに過ぎず、宜しくドイツと友好的関係を回復すべきだとの意見が台頭し、トハチェフスキー元帥はその急先鋒だった。…今回の断罪により、スターリン書記長・ウォロシーロフ元帥が国内の親独傾向を完全に圧えつけ得るかどうかは甚だ疑問だ』と。どうやら、当時のヨーロッパでは、トハチェフスキーの「親独傾向」はいわば公然の秘密になっていたようだ。

 トハチェフスキーは旧ロシア皇帝に連なる貴族の出身であり、旧ロシア時代の陸軍士官学校を出てツアー帝政の貴族将校となった。そして第一次世界大戦では西部戦線の指揮官として出陣、1915年にドイツ軍の捕虜となった。やがてドイツは敗北。戦争が終ったあとロシアに帰国し、十月革命後のソビエト赤軍の将校となった。干渉戦争の時代、レーニンボリシェビキ党は、彼をソビエト赤軍内の数少ない高級教育を受けた指揮官として重用し、赤軍強化の任に就けた。党内に反対もあったが、レーニンは「生まれたばかりの労農赤軍には高度な軍事知識と軍事科学を学んだ人材はいない。この人物を通じて多くのことを学び、少しでも早く赤軍幹部を育成する事が重要だ」としたのである。トハチェフスキーは、当時ソビエト革命軍事評議会議長(国防相)であったトロツキーによってひきたてられ、赤軍の最高首脳にまでなった。トハチェフスキートロツキーと親しい関係にあり、思想的にも近く、「軍事部門におけるトロツキー」であった。そのトハチェフスキーは、1922年4月にソビエト政府が英仏と独の矛盾を利用してドイツ政府と結んだラッパロ条約によって独ソ間の交流が進められた際、ドイツ国軍のブロンベルグ(後の国防相)らとの交流を深め、ドイツ国軍との間に太いパイプを築きあげていた。第一次大戦時に捕虜となった際に親しく交際したドイツ及びヨーロッパの軍人連中との親交も続いていており、彼の「親独傾向」は実に根深いものがあった。

 折しも、1934年12月、レニングラード市内で、人民から深く敬愛されていたボリシェビキ党中央幹部のキーロフが暗殺された。犯行はニコラエフという男によるものであったが、背後に反革命組織の暗躍があったことは明らかな事実であった。党中央は直ちに『特別書簡』を発し、「我々に必要なことは、寛大ではなくて、警戒であり、本当のボリシェビキ的革命的警戒である。我々の記憶しなければならぬことは、敵が絶望状態に陥れば陥るほど、ソビエト政権との闘争において、命尽きた者の唯一の手段―〝最後の手段〟にますますかじり付くことである。これを肝に銘じて、警戒を強めねばならない」と全人民に呼びかけた。ここから、いわゆる「清党運動」「粛清運動」が始まったのである。

 さて、この「トハチェフスキー粛清」は、フルシチョフの言うように、全く根拠のない、出鱈目な事件であり、独ソ戦争でソビエトに重大な損害を与える結果をもたらした「スターリンの大失敗」であったのか?フルシチョフは、『秘密報告』(1977年12月 全訳解説・志水速雄 講談社刊)において、至る所で、繰り返し、次のように言いふらしている。

 『いわゆる「スパイ」とか「破壊分子」の事件を幾つか調査したところ、このような事件は全て捏造されたものであることが確認された』『スターリンはまるで人を信用しない人間で、病的なほど疑い深かった。彼は至る所に「敵」「偽善者」「スパイ」を見た。彼は無制限の権力を持っていたので、人々を精神的、肉体的に抹殺するという点で大変横暴に振舞った』『戦争初期の非常に痛ましい結果(注:独ソ戦緒戦のいわゆる「大敗」を指している)は、1937年から41年まで(注:トハチェフスキー粛清は1937年6月)、スターリンがその猜疑心と中傷的な告発によって、多くの幹部と政治活動家を一掃したために引き起こされた』と。

 こうしたフルシチョフの「スターリン批判」は正しいのか?否である!断じて否である!そうではなく、逆に独ソ戦争の前哨戦としてこの「粛清」があったからこそ、独ソ戦の勝利があり、第二次世界大戦―反ファシズム解放戦争―の偉大な勝利があったのである。その根拠を示す、信頼のおける幾人かの〝第三者〟の証言を紹介しよう。

 その第1の証言は、既に冒頭で紹介した、イギリスの貴族出身で海軍軍人の知将ルイス・マウントバッテン伯の証言である。繰り返しの紹介になるが、彼は、独ソ戦開始の1日前―1941年6月21日―に、はっきりと次のように明言しているのだ。

 『私は…アメリカやわが参謀本部の見解にも同意できません。さらに、首相閣下(チャーチル)、あなたとも意見を異にするものであります。ロシアが負けるとは思わないのです。それは、ヒトラーの最後で、大戦の転換点になるでしょう。…まず、第一に、スターリンの国軍粛清によって、ナチスが利用できるような内部的対立の芽がすべて摘みとられてしまっているからです。第二に、ロシアに長く君臨した王朝の末端につらなるものとして、これを認めることは私にとってつらいことではありますが、ロシア国民はいまや防衛すべきものを持っております。今後は、ロシアは全国民が自分の国を守るために戦うでしょう』と。

 マウントバッテンはヨーロッパ・ロシアに張り巡らされていた独自の情報ルートを通じてすべてを見抜いていた。ナチスソビエト軍の内部に多くの手先を送り込み、トハチェフスキーのような人物と連絡を取り合っていたこと。そして戦争を仕掛けた時、混乱に乗じてこの手先を通じて反乱を起こし、一挙にスターリンソビエトを葬り去ろうと計画していたこと。そしてそれが、スターリンの国軍粛清によって完全に失敗に帰したこと。ロシアの国民はそのスターリンを支持し、祖国愛に燃えていること。その結果、ドイツは独ソ戦において決定的敗北を喫し、第二次世界大戦の大転換を招来することになるであろうこと、を。だから彼は、確信を持って、アメリカ政府、イギリス参謀本部、時の英国首相の見解に正面から異を唱え、「ドイツは敗北し、ソビエトが勝利する」「独ソ戦におけるヒトラーの敗北は第二次大戦の転換点となる」と断言することが出来たのである。

 第2の証言は、独ソ戦当時の駐ソアメリカ大使ディビーズのものである。彼は、1937年1月から1938年6月までソ連に滞在し、1941年夏、自身が国務省に提出した公式記録を元に『モスクワへの使命』という本を書いているが、その中で、次のように述べている。

 『(独ソ戦中の)口シアには、ドイツ軍最高司令部と協同した、いわゆる「内部からの侵略」というものがなかった。1939年のヒトラーのプラーグ(チェコの首都プラハ)入城のかげには、チェコスロバァキヤのヘンライン団体の積極的な軍事的支持があった。彼のノルウェイ侵攻の際にも同様な支持があった。しかし、ズデーテンのへンライ、スロバァキヤ のティーソ、べルギーのド・グレル、ノルウェイのクウィスリングのような者は、ロシアには見られなかった(注:彼らは皆ヒトラーに呼応して自国の内部から〝侵略行動〟を起こした裏切り者)。…物語(注:トハチェフスキーらの陰謀物語)は、1937年と1938年のいわゆる大逆公判または清党公判において明らかにされた。私は、これらの公判を傍聴したが、事件の記録、並びに当時私が書いたものを出して、再び調べてみると、今われわれが第五部隊と呼んでいるもののあらゆる計画が、みずから「ロシヤのクウィスリング」(クウィスリングはナチス・ドイツと通じていたノルウェイの裏切り者)と認めた者どもの、法廷において為さざるを得なかった自白と証言とによって、ことごとく暴露され、赤裸にされていたことに、私は気付かざるを得ない。

 当時、実に乱暴に見え、世界を愕然とさせたところのこれらの公判、清党工作、反対派の掃蕩は、今になって見れば、国内の反革命のみならず、国外からの攻撃に対して、スターリン政府の行なった徹底的な、そして断平たる防衛努力の一部であったことが明らかにわかる。

 ソビエト当局は国内のあらゆる売国的分子を徹底的に清掃し、これを社会から追放するための仕事にとりかかったのであった。疑念を持っていた者も、結局政府の措置の正しかったことを知ったのである。1941年(独ソ戦争開戦時)にロシアには第五部隊は存在しなかった。第五部隊は銃殺刑に処せられていたのである。掃蕩工作によって国内は清掃され、逆徒は除去されたのであった』と。

 (注:第五列…敵対勢力の内部に紛れ込んで諜報などの活動を行う部隊や人。スペイン内戦の際、4個部隊を率いてマドリードを攻めたフランコ派のモラ将軍が「市内にも攻囲軍に呼応する5番目の部隊がいる」と言ったことによる)

 当時、第五列問題は関係者の間で強い関心を呼んでいた。このアメリカ大使のソビエト国内の第五列問題に関する証言は、実際に清党(粛清)裁判を目撃し、傍聴したアメリカ大使の証言であり、信頼に足る重要証言であり、フルシチョフを痛撃するものとなっている。

 第3の証言は、「ゾルゲ事件」で有名なあのゾルゲの証言である。トハチェスキーの「親独傾向」については、ゾルゲもまた『ゾルゲ事件‐獄中手記』(2003年5月・岩波書店)の中で、次のように語っている。

『たしか1938年初めのことだったと思うが、トハチェフスキー将軍が排除される少し前までは、東京にいるナチ連中は、ソビエト連邦が今にも内部的に崩壊するのを心ひそかに待ち設けていたかのような口ぶりであった。そして、この事に関連してトハチェフスキーとロンドンにいた陸軍武官プトナ(注:トハチェフスキーと共に逮捕され、処刑された軍人)の名が挙げられていた。この考えは党員の間に広く行なわれていたものであるが、これを宣伝した張本人はドイツから帰ってくるナチの連中であった。私はまた彼らから、ドイツの反革命運動家連中がプトナと連絡しており、プトナはトハチェフスキーと連絡しているという話を聞いた』(1942年~43年の手記)と。

 この手記からも、ドイツ国内のナチス党・軍部の中では、トハチェフスキーらの「裏切り」「クーデター」「反乱計画」はよく知れ渡っており、彼らから大いに期待されていたことがよくわかる。

 第4の証言は、当時フランスの女性政治記者であったジェヌヴィェーヴ・タブイのものである。彼女は、その著『人は私を女予言者と呼ぶ』(1942年・CSSinNY刊) で、トハチェフスキーとの出会いについて、次のように語っている。

 『私が初めてトハチェフスキーを知ったのは、モスクワへの〝ヘリオットの旅〟の間のことである。…私のトハチェフスキーとの最後の会見は、ジョージ5世 (注:英国王で1936年1月20日没)の大葬の翌日であった。ソヴェト大使館の晩さん会ではこのロシヤの将軍はポリティス (ギリシャ公使)、ティトウレスコ、エリオー(フランス元首相)、ボンクール(フランスの元外務大臣陸軍大臣) などとしきりに会話を交えていた。... 彼はドイツ旅行から帰ったばかりで、 ナチを賛美すること実におびただしかった。彼は私の右の席についたが、列強とヒトラーの国との間の航空条約を論じ、幾度も繰り返して、「ドイツはもう天下無敵ですよ、タブイさん」といった。 何故彼はこれほど確信をもって語ったのであろうか。ドイツの外交官たちが、この古きロシア人とならば気軽に語ることができることを発見し、彼を盛んに歓迎したために、彼の頭がどうかしてしまったからであろうか。いずれにしても、あの晩、彼の熱狂的なナチ礼賛を聞いてびっくりしたのは私だけではなかった。賓客の一人であった某重要外交官は、私とともに大使館を出て帰途についたとき、私の耳に口をよせ、「まあ、ロシア人がすべてああいう感じを抱かないように、というのがわたしの願いです」と不満そうに言った。それから2年後、ソビエト政府が、ドイツによって目論まれた軍事的陰謀に関与したとして、トハチェフスキーを告発し有罪とするに至った時、私の思いはしばしば、あの晩さん会の間の彼の態度に立ち戻っていた』と。

 ある意味、「トハチェフスキーの裏切り」は、ヨーロッパの上流社会・軍人世界では、いわば「公然の秘密」であったのだ。

 第5の証言は、かつてアメリカの諜報機関の一員であったジョン・H・ウォラーの証言である。彼は、第二次世界大戦の最後の2年半を対敵諜報機関OSS](その後進がCIA)のカイロ支局に勤務。戦後は国務省に在籍し、CIA監察官となり、退職後は軍事史や諜報に関する著書の執筆にあたった人物である。彼の著書『ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争』(2005年1月・鳥影社刊)の中に次のような一文がある。

 『一九三六年二月、ツハーチェフスキー(トハチェフスキー)元帥はロンドンで行われた英国王ジョージ五世の葬儀にソ連の公式代表として参列した。これが不満分子であったツハーチェフスキーに便利な隠れ蓑を与えた。彼は葬儀参列を隠れ蓑にしてフランスやドイツに亡命した白ロシア反革命主義者と密会し、共同謀議をした。 ツハーチェフスキー元帥はロンドンからモスクワへの帰途、ベルリンに立ち寄り、現地の亡命ロシア人と秘密に会合し、謀議をこらした。亡命ロシア人のグループの中には「トラスト」 (亡命ロシア人を標的にしたソ連の秘密警察)の魔手が漫透し、秘密は完全に筒抜けであった。 特にロシア王政主義者連盟のリーダーであったが、実は秘密のNKVD(内務人民委員部)の 挑発者でもあったV・スコブリン将軍に亡命ロシア人の秘密は完全に握られていたので、謀議を図った密談の内容がドイツ共産党のブリミエルという名前のスパイの耳に入った。ブリミエルはそれを即座にベルリンのソ連大使館に伝えた』と。

 このアメリカの対敵諜報機関が掴んでいた情報内容は、フランスのジェヌヴィェーヴ・タブイ記者の証言内容と完全に一致しており、トハチェフスキーナチス・ドイツと謀議を繰り返していた事実は疑いようがないのである。

 第6の極め付きの証言は、大木氏もその訳書に「解説」を書いている、リデル・ハートの証言である。彼は元英国軍人であり、エリザベス女王から勲章を授与されたことのある、国際的に著名な軍事評論家である。膨大な調査資料を収集し、その卓越した軍事理論を駆使してまとめ上げた大著が『第二次世界大戦』(1999年8月・上村達雄訳 中央公論新社)である(リデル・ハートは1970年1月に死去し、大著は死後に公刊された)。彼は、その中で、独ソ戦スターリングラード戦におけるスターリンの勝利という歴史的事実を踏まえ、トハチェフスキー粛清と赤軍改革に関して、次のような評価を披歴している。

 『ソ連軍の改革は上層部から始まった。当初からの高級指揮官を思い切って整理し、その後釜に大部分が40歳以下の、若い世代の活動的な将軍を登用した。彼らは前任者よりもいっそう専門家であった。かくしてソ連軍統帥部は平均年齢でドイツ軍のそれよりも、20歳近くも若返り、活動性と能力の向上をもたらした。…

 ソ連軍の戦車はどこに出してもひけをとらないばかりか、多くのドイツ軍の将校にいわせれば、最高のものであった。…戦車自体の性能、耐久性、備砲では最高度な水準に達していた。ソ連軍砲兵は質的に優秀であり、またロケット砲の大規模な開発が行われ、これがきわめて有効であった。ソ連軍のライフル銃はドイツ軍のものより近代的で、発射速度も大きく、また歩兵用重火器の多くも同様に優秀だった。…

 ソ連兵は、他国の兵なら餓死するときにも生きつづけた。ソ連軍は西欧の軍隊なら餓死するはずの環境にも生存でき、他の国の軍隊なら破壊された補給が再開されるまで停止して待つはずの場合にも、彼らは前進を続行することができた。このときの印象を、ドイツ軍のマントイフェル将軍(独ソ戦開始時、第七装甲師団長)はつぎのように要約している。「ソ連陸軍の進撃ぶりは西欧軍の想像を超えたものがあった。兵士はザックをひとつ背負い、その中に前進の途中、畑や村々から集めた乾いたパンの外皮や生野菜を詰め込んでいた。馬匹は家々の屋根わらを食べさせていた。ソ連軍は前進にあたって、このような原始的な訓練によっても長期の戦闘に慣れていたのである」と』

 リデル・ハートのこの一文からも、トハチェフスキー粛清事件を通じてスターリンが遂行したソビエト赤軍内の粛清と赤軍の根本的再編成によってこそ独ソ戦における偉大な勝利が戦い取られたことが読み取れる。リデル・ハートはもちろん資本主義陣営の将軍である。だから政治的には反ソ陣営の人間である。が、それでも事実は事実としてスターリンソビエトの偉大さを認めざるを得なかったのである。

 以上6人の証言を紹介したが、ここに真実がある。「天網恢恢疎にして漏らさず」という格言があるが、やはり、心ある人は見るべき所、見るべきものをちゃんと見ており、それらが真実であるが故に重要な歴史的記録として遺され、今なお生き続けているのである。

 以上のような独ソ戦争に関する各分野の専門家、ジャーナリスト、軍人、軍事研究家の証言・言説は、スターリンが断行したソビエト赤軍幹部の粛清には十分な根拠があったこと、それによって「内部の反乱」の芽が摘み取られ、赤軍指導部の再編成が実現されたこと、これによって独ソ戦争の勝利が保証され、偉大な成果が戦い取られたこと等々を、みごとに証明し検証している。まさに「トハチェフスキー赤軍指導部の粛清」は独ソ戦争の前哨戦であり、「トハチェフスキー赤軍指導部の粛清」抜きに、独ソ戦の勝利はあり得ず、反ファシズム解放戦争の勝利もなかったのである。

 

 ところで、反スターリン派は、やれ何千人何万人もが粛清され殺されたと、好き勝手な数字を並べ立てているが、それは権力を握った裏切り者フルシチョフとその衣鉢を継いだ者たちが流した数字であって、およそ信頼できないものである。南京虐殺論争と同じで、大事なことは、その人数が問題なのではなく、「血の粛清は間違いなくあった。部分的には行き過ぎや混乱があったかもしれないが、基本的に、それは必要で、断固として遂行しなければならない階級戦争―独ソ戦争の前哨戦―であった」という事実を確認すればよいのである。

 いずれにせよ、大木氏の著作『独ソ戦』を読んでも、なぜソビエトがドイツに勝利し得たのか、その要因は何であったのか、さっぱりわからない。それは、氏の頭脳が、こうしたソビエトの内政における先進的な闘いをまったく理解できない非科学性と浅薄な反共主義に支配されているからであろう。そう推察する外ない。