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(小林尹夫-哲学ルーム)

「ショウコウ」とあだ名されて  ~いじめと差別に関する哲学的考察~ (第1回 23.9.25)            

 2000年11月末、氷雨が降りしきる、いかにも寒く暗い日の夕暮時、浦和の街外れにあったKの住いに一通の封書が届けられた。知り合いの出版社から送られて来たものであった。そこに一通の手紙が同封されていた。差出人住所は「東京都新宿区××町2‐3‐4‐105号」とあった。名前は伏せるが、その筆跡から見て、この手紙がまだ年若い少年からのものであることが窺い知れた。

 

 〈少年Nの手紙 №1〉

 自分を殺すか、人を殺すか。

 僕は迷っています。しかし、いつまでも迷いの中にいることはできません。限界が近づいています。そろそろ答えを出さねばなりません。後1ヵ月、誕生日の12月25日までが残された時間です。

 答えを出すこと、その答えがもたらす結末が恐ろしいものだということはよく分かっています。しかし、人を殺すのも自分を殺すのもどちらにしても変わりはなく、同じような気もします。言うまでもなく、僕は冷静です。決して気が狂っているわけではありません。間もなく17歳になる高校1年生、男子、特別有能ではありませんが低能でもありません。

 今、僕が一番知りたいのは「何が正義なのか」ということです。それが知りたいのです。偶然、ある雑誌に掲載されていた先生の「オウム真理教を信じた我が友Hへ」の中の「かつてHは熱い正義の人であった」という一文を目にし、直感的に「求める答えがここにある」と確信しました。先生ならきっと僕の疑問に真正面から答えてくれるはずとの期待を抱き、この手紙を書いています。  

 

 少年Nの手紙は冒頭から切羽詰まった調子に彩られていた。彼がKに手紙を書き送ることになった切掛けは、武蔵野哲学書院発行の雑誌『唯物論探求』の2000年5月号に載ったKの投稿文を、或る書店で偶然目にしたことにあったようだ。「オウム真理教を信じた我が友Hへ」と題したその一文は、Kの旧友で雑誌編集長のMが、多少なりとも原稿料が入ればという配慮から、その雑誌に書かせてくれたものであった。

 その一文で、Kはこんな風なことを書いていた。「オウム真理教に入信し、地下鉄サリン事件において重要な役割を果たしたHは、かつて我が友であり、かつては熱い正義の人であった。…結局、彼と私の分岐点は観念論と唯物論のいずれの道をいくのかという点にあった」と。「哲学者」を自称するKは、近頃は地域の公衆衛生に関わる仕事をしながら哲学の研究と実践に力を注ぎ、時々雑誌に論文を発表していた。その論文は、最近、一部の人々に注目されるようになりつつあった。

 少年Nが抱いた最大の関心事は「Hは熱い正義の人であった」というこの一言にあったようだ。

 

 〈少年Nの手紙 №1続き〉

 僕が抱えている問題について書きます。

 僕は都内の或る私立S男子高の1年生です。それほど有名な高校ではありませんが、ここの特別進学クラスだけは最近目覚ましい難関大学合格実績を上げているということで注目を集め始めています。D校長は「私立高校サバイバル戦に生き残らねば!」と、一流大学への合格率を上げるため、死に物狂いで教師や生徒の尻叩きをしています。今、僕はこの学校で酷いイジメにあっています。切掛けは入学式の日に、クラス担任のYが、順番に生徒の名前を声に出して読んだ際、僕の名前「勝好」を、笑いを浮かべながら、声高に「ショウコウ」と読み上げたことが切掛けでした。

 すぐに誰かが「ショウコウ!ショウコウ!アサハラショウコウ!」とはやし立て、クラス全体が大笑いとなり、Yもまた面白がって、再度、名字の後に「ショウコウ君」と続け、しかもことさらに大きな声で読み上げたのです。

 確かに僕の名前(漢字)の本名「勝好」は読み間違いが多く、最初は「ショウコウ」と読みがちで、初めての場合は仕方のないことでもありました。

 しかし、偶々この頃はオウム真理教教祖アサハラショウコウの裁判が進行中で、しかも2週間ほど前の3月20日はサリン事件5年目に当り、当時、テレビは地下鉄サリン事件や教祖逮捕劇の映像と共に、選挙活動の中で教団信者が「ショウコウ!ショウコウ!」と繰り返し踊る姿を何度も何度も流していた時でした。

 高1の入学したてのクラスは互いに見知らぬ者同士の集まりです。皆、なんでも良い、とにかく共通の話題、「共通の言語」が欲しかったのです。僕はそのまま「ショウコウ」と仇名され、或る者は僕の目の前で「ショウコウ踊り」の真似をし、クラス仲間の拍手喝さいを浴びていました。

 僕にとってはおぞましい、やりきれない出来事でした。「これで君は有名人になれたね」と、羨ましげに声を掛けて来た級友もいました。僕にとってはとんでもないことで、実に不愉快な気持ちで、仇名で呼ばれるたびに怒り、強く本名を言い返しました。しかし、僕が不愉快な顔を見せれば見せるほど級友たちは面白がり、ますます大声で仇名を呼びました。僕は抵抗を諦め、出来る限り無視し、仇名で呼ばれても答えないことにしました。結局僕はクラスから孤立し、無言で過ごすことが多くなっていきました。

 

 何と、痛ましい! Kはこみ上げる怒りを抑えることが出来なかった。この種の問題を新聞紙上のニュースで読むたびに、心が痛んでならなかったが、こんな風に、思わずカッと怒りが体内を駈けめぐるのを覚えたのは、初めてのことであった。それは、「ショウコウ」と仇名されたことによるイジメによってここまでこの少年が追い詰められている、という事実にも起因していた。  

Kが雑誌にオウム真理教に関する一文を書いたのは、サリン事件から5年目を迎えた今年の3月のことであった。当時、テレビを始めマスコミ各社は「若い優秀な頭脳がオウムに惹きつけられた理由は何故か?」「オウム真理教サリン事件とは何であったのか?」とのテーマを掲げ、盛んに事件の詳細を報じていた。確かに、テレビ画面には醜いとしか言いようのない「ショウコウ踊り」の映像が繰り返し流されていた。だが、事件から5年目のこの頃、既に若い世代の間ではオウムの事件は風化しつつあった。結局、何故という問いに答える報道はなく、5年目の年には、「事件を風化させるな!恐ろしい事件の生々しい記憶を取り戻そう!」との掛け声のもと、マスコミは実におぞましい映像を大量に流し続けていた。そこに幾分かの「善意」があったにせよ、しかし真の問題解決には程遠く、興味本位の話題提供の域を出ないことは、自明であった。Nの手紙が届いたのは、いずれ、徹底的に、根本的に論じ、解明しなければならない、とKが思い始めていた矢先のことであった。

 

 〈少年Nの手紙 №1続き〉

 本格的なイジメが始まったのは、入学から2カ月がたった5月末のことです。

 発端は日本史の授業でした。「進学指導のプロ」と生徒の間で評判だったG先生が、先月の授業の復習として、Aに「新嘗祭」の読み方(ニイナメサイ)と意味を質問したところ、学年トップで入学したAがグッと詰まり、「知りません」と答えると、G先生は「知りませんではないだろう!忘れたと言え!」と厳しく叱責しました。

Aの授業態度はどこか不貞腐れたところがあり、普段からG先生は快く思っていないようでした。その日は、先生の方にも何か面白くないことがあったのか、いつもよりかなり厳しい叱責でした。学校生活に狎れてきて緩みがちになっていた生徒の授業態度に喝を入れようとしたのかも知れません。

 それで終われば問題はなかったのですが、G先生は僕を指名しました。僕は歴史教科が好きで、関連資料も読んでいたので、スラスラと答えることが出来ました。先生にはそれが意外だったようで、僕のことをべた褒めした後で、「A、君のような態度だとロクでもない大学にしか入れないぞ。彼を見習え。とにかく皆たるんでいる。頭を冷やして考えろ!」という捨て台詞を残し、終業を知らせるベルが鳴る前に、荒々しく教室の扉を開け、出て行ってしまったのです。

 Aのプライドが著しく傷つけられたことは言うまでもありません。Aの陰湿な嫌がらせが始まったのは、このことがあった直後からです。

 その数日後、玄関横のロッカールームにあった僕のロッカーの扉いっぱいに、大きく黒いマジックで「ショウコウ」と落書きがされていました。それを見た瞬間、戦慄が走り、背筋がぞくっとしました。勿論「犯人」は分からずじまいでした。

 これを機に4、5人の生徒が不愉快な言動を僕に対してとるようになってきました。昼休み、気の弱そうな小柄な級友Fが突然自分の方から僕にぶつかって来たので、思わず「何をする!」と怒鳴ると、彼はわざと自からコケ、「何だよ!オレが何をしたって言うんだよ!暴力振るっていいのかよ!」と大声で叫んだのです。するとすぐに彼の仲間が寄って来て僕を取り囲み、「ショウコウが暴力振るった!怖いぞ、ショウコウ!ショウコウ、怖い!」と囃し立てました。彼らに囲まれ、僕は恐怖に足がすくんでしまいました。勿論周りの者はみんな無視です。関わりたくない、面倒なことに巻き込まれたくなかったのです。が、この時、僕は彼らの後ろで身じろぎもせずに立っていたAの恐ろしい程冷たい目と無表情の顔を見た時、彼こそがこの嫌がらせとイジメの本当のリーダーであることを直感しました。

 次に起ったことは、例のぶつかって来た級友Fのロッカーの運動靴が、鋭利な、カッタ―ナイフのようなもので切り刻まれるという事件でした。

彼らが大騒ぎを始め、当日、学校は持ち物検査を行い、犯人捜しを始めたところ、どういう訳か、僕のサブバッグから、見たこともない大型のカッタ―ナイフが出て来たのです。

 すると、いつもの連中、Fとその仲間たちが僕を取り囲み、「犯人はショウコウ!恐いぞ、ショウコウ!恐いぞ、オウム!」と卑しい目を光らせ、狂ったように踊り出したのです。その先頭に立っていたのは、何かと悪い噂のある生徒で、腕力自慢の男でした。

 僕がいくら大声で、「違う、このナイフは僕のではない!」と叫び、周囲に「僕がこんなもの持っているところ、皆、見たことないだろう?」と問いかけても、全員が関わり合いを恐れてサッと離れて行きました。

 生活指導主事の教師がやって来た時には、僕一人だけが残されていて、彼はカッタ―ナイフの刃の裏で僕の頭をコツンと叩き、「こんな物騒なもの、2度と学校に持って来るな!」と叱り付け、そそくさと引き上げて行きました。彼は事件について何も問おうとしませんでした。教師も面倒なことを早く終わらせたかったのでしょう。その後も学校から呼び出されることはありませんでした。

 「僕のものではない、誰かが僕の目を盗んで放り込んだのだ」と、担任のYに訴えたのですが、「お前のものではないかもしれないが、しかし、あんなものを入れられたお前も不注意だった。もはや、何を言っても水掛け論になるだけだ。今後はやられないように注意しろ。担当の主事には俺の方からちゃんと言っておく」だけで終わりでした。彼にもこんな問題にいつまでも関わっていたくないと思っている様子がありありと見えました。

 今も、S高の校舎の至る所に、「目指せ、国立・早慶!」「臥薪嘗胆、粉骨砕身!」「一刻千金、一心不乱!」「優勝劣敗、敵者生存!」といったような嫌なスローガンを書き入れたポスターが貼られており、職員室には「私立高のサバイバル戦に勝ち抜き、生き残り、更にわがS高の名を挙げよう!」と大書した看板が掲げられています。何となく重苦しく息苦しい空気が学校中に漂っています。

 この事件以後、僕はクラスで完全に除け者にされただけでなく、特別クラス以外のまったく見知らぬ連中からも白い目で見られるようになり、ひそひそ声で「あいつ、オウムの信者らしいぞ」とか、「サリン事件の悪口言うとナイフを振り回すらしいぞ」等と囁く声が耳に入ってくるようになりました。

 クラスのイジメグループが僕にした仕打ちはここに書くも厭わしいことばかりで、やりもやったりというような馬鹿げたことばかりです。背後にAがいることは疑いようもない事実なのですが、彼は決してそれを周囲に悟られることの無いよう上手く立ち回っていて、学校側はまったく気づいていません。尤も、気づこうともしていませんが。級友も、他のクラスのものも皆、見て見ぬふりを決め込み、ひたすら平穏無事を決め込んでいます。

 僕は学校では平静を装っていますが、耐え難い不快感、恐怖感、嫌悪感が交互に湧き上がり、当然授業にも集中出来なくなり、成績はガタ落ちに落ち、定期的に行なわれる月末テストもたちまちトップグループから転落してしまい、今は勉強などまったくやる気になれなくなってしまいました。

 僕は孤独・孤立が怖いのではありません。そうではなく恰も僕がそこに存在していないかの如く無視されるのが耐えられないのです。皆から、あたかもそこに存在していないかのように扱われることが、どれほど自尊心と人間としての誇りを傷つけるものであるか、経験した者にしか判らないでしょう。

そして、今では、Aと級友たち、学校に対する憎悪が頂点に達しようとしており、怒りが腹の底からメラメラと燃え上がって来るのです。Aを殺すか、自分が死ぬか、学校を爆破し皆殺しにするか、もはやこのいずれかを選ぶほかない、とさえ思ってしまいます。自らが死ぬことによって復讐するか、憎悪の対象を殺すことによって復讐を遂げるか、そのいずれかの道しかない、と。

 つい先日までは、全てに絶望し、復讐だけを考えていました。そんな時、偶然に先生の「オウム真理教を信じた我が友Hへ」と題した一文を読んだのです。

 「オウム真理教に入信し、地下鉄サリン事件において重要な役割を果たしたHは、かつて我が友であり、かつては熱い正義の人であった」という一文を読み、僕はいきなり体中の血がカッーと燃え滾るような衝撃を覚えました。

 「人を殺してはいけない」と思いつつも、「殺されて当たり前の人間もいる」「殺すことが正義である場合もあるのではないか」という別な思いが絶えず湧きあがって来て、暗い泥沼の底に澱のように淀んでいたその問いが、いきなり水面を突き破って表に噴出し、しばしば僕を恐ろしい妄想に誘いました。

 「ショウコウ」と仇名され、いじめられているからといって、僕がオウム真理教に好意を抱いているということではありません。オウム教徒の「ポア」の考えも理解できません。しかし、「正義」の名において「サリン事件」を引き起こした、そこに至る思考がどんなものか、どんなものであったのか、それをぜひ知りたいと思うようになりました。

 「オウム真理教を信じた我が友Hへ」という短い文章を読んだだけではよく判らず、こうして手紙を出させていただきました。ご無礼をお許し下さい。 

                      2000年11月22日

 

 彼の手紙を読み終わって、Kはフッと手紙を回送して寄こした編集長Mが封書に表書きした住所部分に目をやった。Kの目は「浦和市桜区新開」の「新開」の文字に釘づけになった。「新開」、普通は誰しも「シンカイ」と読むであろう。ちょっとひねって読んで「ニイカイ」だろう。しかし、「新開」の当地での読みは「シビラキ」である。勿論、初めてこの地を訪れた時のKも「シンカイ」と読み、この古いマンションの一室を紹介してくれた友―私―に会心の笑みを漏らさせたことである。「新開」を「シビラキ」と読まず、「シンカイ」と読むことは、或る意味では当然のことといえた。

まさに、少年の本名の漢字名前「○○」もまた、「ショウコウ」と読めるような名前であった。それはごくありふれた、当然起こりうるような読み間違いであった。とは言え、まったく偶然に起こったことと言い切ることはできない。何故なら、彼の本名の漢字名前は「ショウコウ」という読み方以外の読みも可能であり、直ぐに1,2他の読み方も浮かばないわけではないからだ。しかし、Y先生は笑いながら、つまり意識的に「ショウコウ」と声を張り上げた。きっと、当時話題となっていた「アサハラショウコウ」の名前が頭をよぎっていたはずである。勿論、そう呼ぶことがその後どんな風な問題を引き起こすことになるか、そこまで考えは及んでいなかったであろうが。 

 彼に限らず、今の時代、いじめは実に些細な、偶然的な事から始まる。いつ何時、どんなことが切掛けになっていじめが始まるか判らず、気の弱い子は日々戦々恐々たる状況に置かれている。しかし、このことは、見方を変えれば、それほどいじめを引き起こす強力な要素・要因が今日の社会・人間集団の中に日常的に濃厚に存在しているということを意味している。

 それなのに、「いじめられる側にも問題がある」などという馬鹿馬鹿しい評論もあれば、「いじめる子が悪い」「親の教育が悪い」「学校の先生が悪い」などの「個人責任論」がもっともらしく、声高に語られているのが現状である。  

哲学者として、N君の問いに誠実に応え、このいじめの問題と徹底的に闘わねばならない、とKはあらためて自分に言い聞かせ、文机に向かった。

 

                     (次回更新 2023年10月25日)