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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第18回)・マルクスの哲学―弁証法的唯物論

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート

 マルクスの哲学は先に述べた通りに唯物論が根本であるが、その唯物論弁証法的な唯物論である。唯物論は「運動する物質こそが存在の本質である」としているが、その物質の運動の法則は、全てを固定的・不変的なものと見なす形而上学とは逆に、全ては変化し発展するものである、と見なす。

 弁証法唯物論を体系的に述べたのがマルクスの盟友エンゲルスの『自然弁証法』(1875年)であるが、エンゲルスはつぎの有名な言葉で弁証法唯物論を説いている。「全自然が、最小のものから最大のものに至るまで、砂粒から太陽に至るまで、原生生物から人類に至るまで、一切が永遠の発生と消滅のうちに、絶え間なき流転のうちに、休みなき運動と変化のうちに存在する」と。

 エンゲルス唯物論的な弁証法の法則性について、次のように論じている。

(1)すべては統一され、連関した全一体としての世界である。宇宙と人類には何一つとして独立したものはない。すべては互いに結びつき、連関し、統一された物質の運動である。物質の運動である限りこのことは必然であって、孤立は死であり、単独は消滅である。故にあらゆる問題は関連しており、すべての問題は連関しており、一切の問題をその中の一部、その中の一つとしてとらえること。

(2)すべては動いており、運動しており、その法則は発展、前進、転換、飛躍であり、故にその理は止揚である。存在している物質は動いており、運動している。存在とは運動であり、運動が存在である。静止は死であり、運動しないものは消滅していく。運動は発展、前進、転換、飛躍であって、この法則ぬきの運動はない。故にそこでは常に古いものは死滅し、新しいものが生まれていく。だからここには止揚という原理が作用する。 つまり過去(以前)を引き継ぎ、その核心と本質は維持し、発展と前進が獲得した新たな外形を加え、転換と飛躍を遂 げていく。

それはまさに 「継承と発展」、止揚の世界である。だから止揚しない運動はないし、止揚の否定は「清算」であり、清算主義は運動の否定であるから歴史によって必ず否定されていく。否定の否定

(3)運動と発展、前進、飛躍の原動力は物質内のエネルギーであり、内部の力であり、内因論である。運動はエネルギーであり、エネルギーは物質内の矛盾と対立物の摩擦と闘争が生み出す。このエネルギーの運動量が一定の段階に達したとき、爆発が起き、爆発は必然的に収れんされる。この収れんが運動 の新たな転換と飛躍である。この収れんは必然であるが、それは運動が生み出す偶然を契機としてそうなる。偶然から必然へ、これこそ内因論にもとづくエネルギーの爆発であり、その結果としての収れんである。内因論にもとづく爆発と収れんなしの飛躍と転換はない。

(4)飛躍と転換とは、運動の量的変化から質的変化へという運動法則である。量と質は対立物の統一である。量なしの質はないし、質は量の結実である。量とは運動の量であり、その蓄積であり、エネルギーの集積である。だから量は形としては目には見えない。質とは量の形に表現された飛躍と転換であり、爆発と収れんである。そして量的変化は自然成長的であり、 質的変化は急激であり、爆発的であり、強力であり、根本的であり、全面的であり、革命的である。

(5)質的転換、爆発と収れんは自然科学では核爆発であり、社会科学では革命である。運動の到達点は爆発と収れん、新たな飛躍と転換である。宇宙はビッグバン(大爆発)によって  生まれたという学説は現在ではもう正当性を得て  いる。転換はすべて爆発と収れんである。それは 自然科学では核爆発であり、社会科学では「理論も人間をとらえるや物質的な力となる」(マルクス)という 法則どおり、それは思想・意識にもとづく 先進的なリーダーの存在と結び付いた大衆の力であり、革命である。

 弁証法的なものの観方は、全ては変化し、発展するもの、と見なす。それ故にまた、人間の行動性・能動性・実践性・革命性を重視し、高く評価する。

君たちはどう生きるか』の中のエピソード「雪の日の出来事」を取り上げ、こうした弁証法的で唯物論的なものの観方がいかに重要で、私たち人間を成長させる武器となっているか、を説明しよう。