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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第4回) 「哲学を学べ!」のメッセージ

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート


私が吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読んだのは、『路傍の石』を読んだ時期と重なる。というのも、同じ頃、手塚先生は『いずみ文庫』(学級文庫)にこの書と、もう一冊『岩波茂雄伝』(安部能成)を置いてくれたからである。言うまでもなく、岩波茂雄吉野源三郎が入社し活躍した岩波書店の創業者であり、多くの哲学書を世に送り出した信州諏訪出身の伝説的な出版人である。ところで、中1の時に創られた学級文庫「いずみ文庫」の名も、藤沢先生が教えてくれた旧約聖書の言葉「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」に由来していた。白銀のアルプス連峰に囲まれた故郷の風土を信州人は「山岳高峻にして湧水清冽」「山紫水明」と評するが、その峻嶮なる山岳地の深奥部から湧き出る「清冽」「水明」なる「いずみ」は大自然の美と清浄の象徴であり、「いのちの泉」という言葉は、私たちにとって非常に身近なものであった(学級新聞は「いずみ新聞」、今なお使っているクラス会名は「いずみ会」)。 
そのいずみ文庫には何冊ものトルストイ作品(短編集)が置かれ、宮沢賢治鈴木三重吉の作品集などもあった。すべて藤沢・手塚両先生が揃えてくれたものであった。私たちは、熱烈なクリスチャンであった国語教師・藤沢先生と、リアリストにして哲学者であった美術教師・手塚先生という、信州教育の伝統を受け継いだ二人の教師の強い影響下で自らを成長させていたのである(両先生共今は亡い)。
 さて、手塚先生が『路傍の石』と合わせて、何故『君たちはどう生きるか』と『岩波茂雄伝』を学級文庫に置いたのか、その理由・経過については聞きそびれて、全く知らない。さらに、中学卒業時、『路傍の石』『君たちはどう生きるか』『岩波茂雄伝』の3冊を、私は学級文庫から受け継いだが、それに至った経緯も不明である。勿論、私自身が望んだことに間違いないであろうが。
 中学高校時代、この3つの作品から、私は多くのことを学んでいるが、中でも『路傍の石』から学んだことは忘れ難いものとなっている。
 第1に、「かんなん(艱難)なんじ(汝)をたま(玉)にす」である。貧困と逆境の中でこそ人間は鍛えられ、成長することができる。そして、自身が頑張り抜く限り、必ず力になってくれる大人・仲間がいる、ということ。結局私自身は、奨学金をもらうことができ、母、中学卒業して直ぐに就職した兄、母の兄弟(叔父さん達)、手塚先生、高校時代の親友とそのご両親の援助・協力を得て、高校に進学し、更に大学進学も果たし、吾一とは違う「その後」を歩むことができた。しかしながら、「艱難汝を玉にする」は常に私の座右の銘であった。
 第2に、「ポンチ」―批判精神―である。イギリス人発明の「ポンチ絵」とは時代批判の表現であり、一般的な「ポンチ」(馬鹿・阿呆)とはまったく違った意味をもっていた。「時代批判」という本来の意味を忘れてはならない、ということ。私は、中3の3学期に「ポンチについて」という作文を書き、学級会で発表した(その作文は『路傍の石』の書に挟まれたまま今なお手許に残っている)。それはこう記している。
『ポンチは批判であり、抵抗を表わす言葉だと思います。僕はイギリスのこのような時代(注:イギリスでポンチ誌が発刊された1841年頃は、普通選挙法への改正、奴隷廃止、労働問題の人道的改革が推進された変革的時代)に偶然ポンチが出来たのではないだろうと思います。この様な社会がポンチを作ったのだと思います。…皆さんの中に山本有三作の『路傍の石』を読んだことのある人は多勢いると思いますが、その一節にポンチ絵について書いてあります。ポンチ絵とは世の中を風刺した絵のことです。…僕はポンチと言う言葉を世界中の人が正しく使ってくれればと思う。…ポンチは批判を要求します。そして批判を通して真実を求め、新しい社会を作り出そうと考えているのです。…ポンチとは愛すべき言葉です。真実を求めるものです。推進力です。力です。真実はある時期においては歪められることがありますしかし真実は真実です(注:この一節は『君たちはどう生きるか』の中にあるコペルニクスと地動説の運命を念頭において書いている)。…僕はポンチに託します。理想を、夢を』と。
 高校時代の3年間、私が生徒会自治の一環であった新聞委員会の活動に熱心に参加し、不十分ながらも何本かの「校内的・社会的批判記事」を書いた背後には、間違いなくこの「ポンチ絵」の強い影響があった。私にとって、山本有三と『路傍の石』の影響抜きに自らの人生は考えられない(注:私が高校に入学した1960年は安保闘争の年であり、我が深志高校生徒会も、被爆者であった岡田甫校長の支持のもと、「民主主義を守れ!」のスローガンを掲げ、全校ぐるみの市中デモを敢行しており、生徒会自治の意識が極めて高く、私が新聞委員会活動に熱心に取り組んだ背景にはその影響もあった)。
 第3に、山本有三が書こうとして書くことができなかった「社会主義」についてである。戦前の国家・軍部・内務省・検閲官はこれに統制を加え、それについて自由に書くことを許さなかった。戦前の国家にとって「社会主義」とは否定しなければならず、圧力を加えねばならない「邪魔もの」であった。少なくとも有三はそうした戦前の国家に対して批判的であった、ということである。
 私にとって、「社会主義」は、太平洋戦争・第2次世界大戦を遂行した「日本軍国主義」と真っ向から対立する概念・主義であり、そのようなものとして認識されていく。そのきっかけとなったのは紛れもなく、山本有三の言葉とその作品『路傍の石』にあった。
以上である。このように、山本有三とその作品『路傍の石』から学んだこと、その影響についてはかなり鮮明に覚えている。
 そして、『岩波茂雄伝』については、次の点をよく覚えている。
 第1に、信州生まれの出版人・岩波茂雄は哲学に深い関心を抱き、哲学書の出版に力を入れ、信州教育界にも多大な貢献をなした。戦前においても、弾圧・統制に抗し、哲学的真理の探究・普及に力を尽くしたが、こうした彼の哲学的真理探究の志は、信州の教育風土に深く根ざしたものであり、岩波茂雄の存在は私にとって大変身近なものとなっていた。
 第2に、岩波茂雄が選んだ書店のロゴマーク、ミレ―の絵に題材した「種まく人」(1933年12月創刊の岩波全書より使用)には、「労働は神聖である」(農民画家ミレ―の信念にして岩波茂雄の信条)、「低く処(く)らし高く思う」(イングランド自然派詩人ワーズワースの言葉にして岩波の信条)、「真理の伝播者たれ」(ミレ―の種まく人に寓意させた岩波の信条)の意が込められていた。美術の教師であった手塚先生はこのロゴマークが好みで、よく話題にした。私は、これらの岩波茂雄の生き方・信条に深く共感していた。実際、私は、手塚先生から頂いた西尾実の「低処高思」の色紙を、学生時代ずっと下宿部屋の壁に架け、自らの戒めとしていた。(注:西尾実―長野県生まれで長野師範学校を卒業。長野県内の尋常高等小学校で教師を務めた後、東京大学国文科選科を修了し、東京女子大学教授、法政大学教授を歴任。1949年に国立国語研究所の初代所長に就任)
 第3に、自分の将来に関し、教育分野(教師としての教育活動)だけでなく、それと共に、ジャーナリズムの世界(創作・出版・映像活動)に対し、強い興味を抱くようになった。大学進学に際し、最初の受験で教育大学入試に失敗したこともあったが、次年度の受験ではジャーナリストになるべく早大文学部を第一志望としていた(私立ではあったが、当時は比較的入学金も授業料も安く、家族の援助・奨学金・バイトで何とか対応することが可能であった)。
 次に、『君たちはどう生きるか』であるが、この著作は、その内容の細部において以上に、『君たちはどう生きるか』というその題名が、常に、繰り返し、私たちに「人生について真剣に、真摯に、深く考え、悩み、真実を追い求めよ!」と呼び掛けてくれていた。中学・高校・大学時代を通じて「君たちはどう生きるか!」という呼びかけを忘れることは決してなかった。脳裏には常に「おまえはどう生きようとしているのか!」という問いがあった。勿論、この書にも内容的に強く印象付けられた箇所が何点かあった。
 第1は、今では誰もが認めているコペルニクスの地動説が当時教会からは「危険思想」と見られ、激しい反対・非難を受けていたこと、この学説に味方した学者が投獄されたり、その書物が焼かれたりし、弾圧されたことがあった、という歴史的事実である。私は、高校時代に習った世界史で、投獄されたその学者がガリレオ・ガリレイであったことを知り、「危険思想」に味方したガリレオの強さ、勇気に強い感銘を抱いた。「孤立を恐れず、信念を守れ!」と。
 第2は、「常に自分の体験を重視し、そこから出発し、正直に考えろ。そこから自分の思想を作り上げろ」ということであった。この示唆と「ポンチ絵」から学んだ批判精神とが、最終的には、私が惨めな現実から逃避することを許さなかった。私は、わが家庭から父親を奪い、疎開先での惨めな生活体験を強いた戦争という問題について、やはりないがしろにすることができなかった。
 第3は、浦川君の家庭に関連して語られた「貧困」についてである。叔父さんの「貧困がもたらす痛ましく不幸な出来事、醜い人間同士の争い―それは何故起こるのか?」というこの問いは、極貧であった私自身の家庭の問題に関わる深刻な問いとして、心の奥底に重く存在し続けた。
 以上である。ただ、『君たちはどう生きるか』から学んだことというのは、それほど意識されていたものではなく、心の奥底に潜在意識として存在し続けていたものであった。或るブログでライオンキング氏が、『中学生の頃に誰かに勧められて原作を読んだという記憶がある。当時はまだまだ他人事として、義務的に読み終えたように思う。今回、漫画として再登場し、ベストセラーになっていると知り、ずっと気になっていた。改めて読み返してみて、「ああ、私のこういう物の捉え方は、ここからも影響されていたのかもしれない」と思うことがあった。世代を超えて読み続けられる価値のある本が、今の若者たちにも手に取ってもらいやすい形で出版されたことは、とても嬉しい』との感想を記していたが、あらためてこの書を読み返した時、私も同じ感想を持った。
 いずれにせよ、手塚先生は、草家人氏寄贈の『路傍の石』及び『君たちはどう生きるか』『岩波茂雄伝』を私たちに紹介することによって、「哲学を学べ!」というメッセージを送り届けてくれたのである。聖書やトルストイについて熱く語ってくれた藤沢先生についても、同じことが言える。
 その後の私自身の人生を振り返ってみた時、この「哲学を学べ!」というメッセージが極めて強い影響を及ぼしていることに気付かされ、驚かされる(その影響が如何なるものであったかは、大学時代の諸経験を振り返る際に詳しく述べたい)。