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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第12回) 1966年当時の時代状況―ベトナム戦争

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート


 では、ベトナム戦争とはいったい何であったのか。
 第2次世界大戦後、ホー・チミンを党首とするベトナム労働党社会主義共産主義思想の党)に率いられたベトナム人民はベトナム民主共和国北ベトナム)を設立、独立を宣言(1945年9月)。直ちにフランスの植民地支配からの解放を求め、反仏戦争に乗り出し、54年のジュネーブ協定によってフランスを撤退に追い込み、戦いは勝利した(第1次インドシナ戦争)。だが、時代は、ソビエトを中心とする社会主義陣営とアメリカを中心とする資本主義陣営とが激しくぶつかり合う?冷戦?の最中にあり、米国は「ベトナムの赤化(社会主義化)を許せば、ドミノ倒しのように東南アジア一帯が赤化される」という「ドミノ理論」を持ち出し、55年に一方的な介入を開始、アメリカの傀儡国家・ベトナム共和国南ベトナム)を成立させた。かくして、アメリカ帝国主義ベトナム共和国南ベトナム)とベトナム民主共和国北ベトナム)・南ベトナム解放民族戦線(60年12月成立)との間で、本格的なベトナム戦争が始まった(第2次インドシナ戦争)。この戦争は周辺のラオスカンボジアなどを巻き込みながら長期化していく。
 やがて、1964年8月に起こった「トンキン湾事件」(注:北ベトナム沖のトンキン湾北ベトナム軍の哨戒艇アメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件で、後にアメリカによるデッチ上げ事件であることが暴露された)をきっかけに米議会はジョンソン大統領に戦時権限を付与、米軍は65年から「北爆」を開始し全面戦争に突入していった。劣勢にあったアメリカ政府は、圧倒的な軍事力を投入し、一気に北ベトナムを消滅させんとしたが、不屈のベトナム人民は、毛沢東の人民戦争論に学び、山中・ジャングルを縦横無尽に駆け巡り、神出鬼没の攻撃を加えるゲリラ戦を展開、敵を翻弄、恐怖せしめた。かくの如く、われわれが第1次早大闘争を闘っていた頃、ベトナムの戦場では激しい命がけのゲリラ戦・銃撃戦が繰り広げられていたのである。
 その後、1968年3月に有名な「ソンミ村虐殺事件」が起こる。それは、アメリカ陸軍第23歩兵師団第11軽歩兵旅団のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊がクアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落に突入し、無抵抗の村民504人を無差別射撃で虐殺する、という惨たらしい事件であった。この事件が報道されるとアメリカ国内で、世界中で、激しい反米・反戦運動が燃え上がり、広がっていった。
 追い詰められた米帝・米軍は、54万の兵力を送り込み、15000機の航空機で6000トンの爆弾と毒薬の枯れ葉剤を投下するが、それでもべトナム人民を屈服させることはできなかった。米帝・米軍はベトナム人民勢力の不屈の武装闘争及び世界的な反戦運動に屈服、遂に撤兵を開始。73年1月、ニクソン政権はパリ和平協定に調印し、米軍は完全にベトナムから撤退した。米帝の完全なる敗北であった。75年4月、ベトナム民族解放勢力がサイゴンを陥落させ、戦争は終結した。かくして76年7月に南北統一のベトナム社会主義共和国が成立する(しかし、勝利したベトナム共和国は、その後社会主義を投げ捨て、資本主義の道を歩み、現在に至っている)。
 日本におけるベトナム反戦運動は、1965年4月に結成された「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を中心に、広範な市民が参加する大衆闘争に発展していった。特に、日米安保条約により日本各地に米軍基地・米艦船寄港地が置かれており、米軍人・米軍燃料・米軍食料・米軍装備を運ぶトラックや列車が各地を走りまわり、日本全土がベトナム攻撃の一大基地とされていた。中でも、当時アメリカの支配下に置かれていた沖縄基地は最前線基地とされ、ベトナム攻撃の爆撃機が毎日毎夜飛び立っていて、多くの沖縄県民と日本国民の怒りの的となった。
当然のことながら、全共闘運動を闘う学生は、ベ平連反戦市民運動に合流していき、学内デモは学外の反戦運動と急速に結び付いていった。日本の保守勢力は盛んに「ベトナム戦争イデオロギー闘争であり、民族解放の闘争などではない」と主張し、「反共」を訴えたが、我々学生の目に映ったのは、近代兵器で重武装した米帝・米軍が、よその国―アジアの小国ベトナム―の土地に勝手に入り込み、そこで暮らしている貧しい農民・民衆に無差別爆弾攻撃を加え、大量殺戮を実行している醜い姿・光景であった。結論は明白であった。「この様な不正義を座視することはできない。いわんや、愛する日本の領土・海がそうした米政府・米軍の不正義の戦争に利用されることは絶対に認められない」と。当時の学園闘争・第1次早大闘争が反権力・反体制的運動へと変化し、発展していた理由がここにある。
 私にとっては、山本有三が『路傍の石』で「書くことの許されなかった社会主義」について、あらためて考える重要な機会となり、また、わが家・わが母から父と夫・家庭を奪い、わが家を貧困と苦難のどん底に突き落とした戦争について、あらためて真剣に考える重要な機会となった。
この時代、こうした闘いを通じて、多くの青年学生が心情的に「社会主義擁護者」となっていったのは当然のことであった。当時はまだ、正義の為に自己を犠牲にして闘う社会主義運動が存在しており、われわれ青年学生にとって、社会主義は魅力ある理想・目標・旗印であった。
 現在、その「社会主義の旗」は、資本主義勢力によって完膚無き迄に打ち砕かれ、踏みにじられ、泥に塗れ、地に墜ちてしまった。1960年代と今日の時代の大きな違いがそこにある。なぜそうなったのか、それについては後日詳しく語ることにしよう。