人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第3回) 私と有三・源三郎との出会い

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート


 私が、中高生時代に、山本有三とその作品『路傍の石』、吉野源三郎とその作品『君たちはどう生きるか』と巡り合った経緯は、次のようなものである。
 1959年(昭和34年)7月、私が信州松本在にあった田舎の中学の3年生であった時のこと。私が班長を務めていた学級班・イバラグループは、碌山館館長の笹村草家人氏から、「イバラグループの方々に 昭和34年7月 碌山美術館 草家人」と署名された一冊の文庫本『路傍の石』(山本有三作)を贈られた。それは、当時私が持っていた本の中で唯一、今もなお私の手許に残っている、それ程に大切な、忘れる事の出来ない思い出の書である。
その年1959年(昭和34年)5月の連休、私は班グループの仲間と共に自転車を連ね、安曇野の地に建設されて間もない碌山美術館を訪れた。その際、来館者名簿に、中学校名と班名「3年A組・イバラグループ」と記入した。後日その名簿を見た館長の草家人氏は「イバラ」という班名に大変興味を惹かれたという。その草家人氏は、私たち3年A組のクラス担任手塚幸一先生とは顔見知りであり、さっそく先生に問い合わせの連絡が入った。私の中2・中3年の担任であった手塚先生は信州の生んだ偉大な彫刻家・荻原碌山を尊敬して已まない美術教師であり、退職後は彫刻家として生涯を全うした人物である。一方、母校東京芸大助教授であり、著名な彫刻家・芸術家であった笹村草家人氏は、碌山の研究と顕彰運動の先頭に立ち、1958年(昭和33年)には自らが運動の中心となり、碌山の生まれ故郷・信州安曇野の地に碌山館を建設し、その初代館長となっていた。当然と言えば当然であるが、手塚先生と草家人氏との間には交流があった。
 中2・中3時の私のクラスの担任であった手塚先生は「班活動」を重視し、班内における助け合い・仲間作り、班同士の競い合いに力を入れていた。班の名前はその班の目標を表わすものであり、グループ内でよく相談して決められていた。私たちが班名を「イバラグループ」とした理由は、中1の時の担任で熱烈なキリスト教プロテスタント派の信者であった藤沢一二三先生(後に長野教会の牧師)から、「キリストが十字架に架けられた時に被せられていた荊冠(イバラの冠)は受難の象徴である」と聞かされていて、「われわれもどんな困難にも屈することなく、イバラの道を堂々と突き進もう」ということであった。因みに、中2の時の私の班の名前は「葦グループ」であった。パスカルの「人間は考える葦である」から採ったものである。
 勿論、手塚先生は「イバラグループ」という班名の由来を知っていて、それを草家人氏に伝えた。碌山の師で研成義塾の塾頭であった井口喜源治は、内村鑑三が「日本のペスタロッチ」と呼び讃えたように、熱烈なキリスト者にして教育者であり、その井口が碌山とその芸術及び信州教育に及ぼした精神的影響は並々ならぬものがあり、そうした経緯をよく知っていた草家人氏が「イバラ」という班名に興味を抱いたのは当然のことであった。
 手塚先生は、氏に「イバラ」という班名にまつわる話をした上で、特に私について、戦争で父親と家を失い、母親と兄の3人、東京から母親の実家に疎開して来た貧困家庭の育ちであり、高校進学問題に悩んでいることを伝えたという。その結果が山本有三の『路傍の石』贈呈となったのである。
 この私の座右の書たる『路傍の石』とは如何なる作品か。その作品の内容を一言でいえば「貧困・逆境にみまわれ、苦しい体験を経つつも、苦学して学び、人間として成長してゆく少年・青年の物語」ということになる。
時代は明治中頃、没落士族や民権家たちの運動がまだ世を賑わせていた頃のことである。 尋常小学校6年(14歳)の愛川吾一は成績優秀で度胸もあり、担任の教師次野が何かと目をかけてくれていた。だが、吾一一家は、没落士族の父庄吾がろくに働きもせず山林の所有権をめぐる裁判や民権運動に入れあげ、財産を食い潰し、母おれんが封筒貼りや仕立物の内職でようやく生計を立てていた。吾一は成績優秀であり、当時は少数の金持ちの家しか進学しえなかった旧制中学(今の高校)への進学を強く望んでいた。しかし、貧しさ故に旧制中学への進学は諦めざるを得なかった。次野先生の仲介で、書店の主人で慶應義塾出身の黒川安吉が学費援助を申し出るが、プライドの高い父庄吾は、あろうことか黒川とおれんとの関係を疑い、結局その申し出を断ってしまう。しかも、吾一が節約に節約を重ねて学費の一部にと積み立てていた僅かな貯金すら勝手に裁判費用に投じてしまった。中学進学どころか、吾一は小学校卒業後、父が残した借金のカタとして、街一番の呉服商・伊勢屋に丁稚奉公に出されてしまう。しかも、その家の劣等生の息子は吾一の小学校の友人であり、娘は吾一が仄かに好意を寄せていた少女であった。吾一は彼らにも見下され、屈辱に満ちた奉公生活を送ることになる。そんな奉公生活を続けている中、母おれんが亡くなる。結局、父親は電報を打っても帰って来なかった。近所の助けを借りて葬儀を終えた吾一は、母の死を機に、奉公先を飛び出し、父が住むという東京へ上った。が、そこにはさらなる試練が待っていた。 父はすでに東京におらず、途方に暮れた吾一であったが、偶然出会った「おともらい稼ぎ」の老婆に拾われ、なんとか食いつなぎ、やがて文選見習いの仕事を見つける。しかし、印刷工場の仕事はきつく、給料は安く、特にランプ磨きがうまく出来ず、古い職工に叱られ、涙を流す日が続いた。だが、吾一は亡くなった母の顔を思い出しては泣きたいのを堪え、勉強への意欲を燃やし続けた。そんな吾一を、下宿の同宿人で、「ポンチ絵」(明治時代にイギリス人が流行らせた時局批判の風刺画)が上手だった書生・黒田は、「かんなん、なんじを玉にすだ。へこたれちゃだめだ」と励まし続けた。そしてある日、吾一は仕事場で、校正刷りに朱筆を加えていた元担任教師の次野先生と再会する。次野は、「力になるから」と吾一に自分が勤めている商業学校夜学への入学を勧めた。実は、次野は既に亡くなっていた黒川安吉から吾一の学費として百円を預かっていた。が、吾一の行方が分からず、それを渡していなかった。その内に妻が病気をし、治療費にそのカネを使いこんでしまっていたのであった。次野はそれを正直に告白し、吾一に頭を下げた。吾一は「どんなことがあっても先生を信じている」と語り、次野を泣かせる。吾一は、次野のお陰で夜学に通うことができることを心から喜び、吾一という名前に恥じないように頑張ろうとの決意を、あらためて固めたのであった。かつて次野は吾一にこう語って聞かせていた。「吾一というのはね、われはひとりなり、われはこの世にひとりしかいないという意味だ。世界に、何億の人間がいるかしれないが、おまえというものは、いいかい、愛川。愛川吾一というものは、世界中に、たったひとりしかいないんだ。どれだけ人間が集まっても、同じ顔の人は、ひとりもいないと同じように、愛川吾一というものは、この広い世界に、たったひとりしかいないのだ」』と。
 ところで、この『路傍の石』という作品にはもう一つ、重大な「ストーリー」がある。「ペンを折る」(昭和15年6月20日)と「あとがき」(昭和21年12月10日)、この戦前と戦後に有三によって書かれた二つの告白文が、その「ストーリー」を詳しく語っている。
『こういう(注:ペンを折るという)見出しの文章を、わたくしは、本誌(注:雑誌・主婦之友)に書こうとは思っておりませんでした。…皆さんはこの突然の中止を、さだめし意外にお感じになるに相違ありません。じつは、わたくし自身にしても、先月号の原稿を書き終わった直後、これから先の部分に必要な、参考書を集めていたくらいで、中途で打ち切ろうなどという考えは、みじんももっておりませんでした。…勿論あの作(注:路傍の石)そのものが、国策に反するものではないことは、私は確信をもって断言いたします。資本主義、自由主義、出世主義、社会主義なぞがあらわれてきますが、それをどう扱おうとしているものであるかは、あの作を読めば、だれにでも、すぐわかるはずです。今日の日本は、あの作の中に書かれたような時代を通り、あの作に出て来るような人たちによって、よかれあしかれ、きずきあげられたのであって、日本の成長を考える時、それは決して、無意味なものではないと思うのです。しかし、日一日と統制の強化されつつある今日の時代では、それをそのまま書こうとすると、特に、――これからの部分においては、不幸な事態を引き起こしやすいのです。その不幸を避けようとして、いわゆる時代の線にそうように書こうとすれば、いきおい、わたくしは途中から筆を曲げなければなりません。けれども、筆を曲げて書く勇気は、わたくしにはありません』((昭和15年6月20日・ペンを折るより)。
『「路傍の石」は、遂に路傍の石に終わる運命をになっているものと思える。この作品は、作中の主人公と同じように、絶えず何者かにけとばされる。…それ(注:最初にこの作品はその第一部が朝日新聞に掲載されたのであるが、軍部に睨まれ、継続連載されず、その後に主婦之友社が改訂版掲載を引き受けた)から二年近く、順調に進んだのであるが、「お月さまは、なぜ落ちないのか」という章に入った時、一人の社会主義者が現れると、この人物のことばに対して、ここを切れ、あすこを削れと、内務省の検閲官は事前検閲にあたって、むずかしいことを言い出したのである。…じつをいうと、そのとき私は投げ出してしまいたかったのであるが、それではしめきりを目の前にしている雑誌社がこまるだろうと思って、涙をのんで、命ぜられた点をけずり、そのため意味の通じなくなった点は、一応通じるようにして、校正刷りを雑誌社に返したのであった。そのあとで、1週間ほど考えた。考えたあげく、ついに「ペンを折る」を書いて「路傍の石」を中絶してしまったのである。
 それから七年の歳月が流れている。もういまわしい戦争も終わった。軍国主義の政府もなくなった。今度こそ自由に書けるはずであるが、しかし私は、どうもあとを書き続ける気になれないのである。…とにかく前の構想のままでは、私には、今日もなお書けないのである。残念であるが、やむをえない。しょせん「路傍の石」は、ほうりだされる運命にあるものと見える。
 ところが一方では、この作品を再び出版したいと言う声があちこちから起こってきた。…嬉しいことである。未完成のものではあるが、これはこれなりで、今の世に出しても、多少の存在理由があるものと信ずる。そこで、私は版を改めて出版することにしたのである』(昭和21年12月10日・あとがきより)。
 山本有三と『路傍の石』に対する検閲・思想統制のバックにあったもの、それこそ吉野源三郎を投獄に追いやった治安維持法軍国主義―であった。有三は『路傍の石』で「お月さまは、なぜ落ちないのか」という章を構想し、一人の社会主義者を登場させたようだが、結局それは中途半端に終わった(内容は不明)。源三郎は「君たちはどう生きるか」の中で、「お月さまは、なぜ落ちないのか」というテーマを取り上げ、ニュートンと重力の法則を詳しく論じている。その中で、検閲があり社会主義について論じる事は出来なかったものの、科学的思考について語り、そこからコペル君の「人間分子の関係、網目の法則」を登場させ、叔父さんに「生産関係論」(社会主義経済学の一部)を展開させている。このことからも明らかなように、『君たちはどう生きるか』は、まさに山本・吉野の共著だったと言える。