人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第19回)・「雪の日の出来事」の哲学的教訓

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート

  中学2年三学期の2月のある雪の降り積もった日、事件が起こる。雪合戦に興じていた北見君が偶々上級生の柔道部・黒川たちの作った雪だるまにぶつかり、壊してしまった。黒川ら上級生5、6人は、北見君と一緒に居た水谷君を取り囲み、北見君が謝っても許さず、「お前は前々から下級生のくせに上級生に対して生意気な態度をとっており、けしからん」と言い出した。彼らはかねてより「上級生の言うことを聞かない奴は愛校心の無い奴、愛校心の無い奴は非国民だ」と高言し、自由なのびのびとした学校生活を送っていた北見君とその仲間を快く思っていなかった。「今後は上級生に服従しろ」との命令を、北見君が「いやだ!」と拒否すると、彼らは北見君を殴り倒し、一斉に雪玉を投げつけた。その時、仲間の水谷君と家が貧しく体つきも貧相な浦川君は、北見君にしっかりと寄り添い、彼の側を離れなかった。ところが、コペル君はその場面をみていながら、恐怖に足がすくみ、身動きできず、上級生に制裁を加えられている北見君たちを見殺しにしてしまった。つい先日、父親が裕福な実業家である水谷家の豪邸に招かれた際、4人で「もし北見君がやられたら、みんなで守ろう」と約束したばかりだったというのに。

 コペル君は友情を裏切った自分が許せず、暗闇世界に落ち込み、寝込み、学校にも出ていけなくなる。いくら言い訳しても、勇気がなく、臆病者であった、という事実は消えない。しかし、それを認め、3人に謝ることがなかなかできずにいた。しかしやがて、本当に悪いことをした、と素直に認める気持ちが生れて来た。その肩を強く押してくれたのは尊敬する叔父さんであった。叔父さんは、3人からの絶交を恐れるコペル君を厳しく批判する。「絶交されたって文句は言えない。それよりも同じ過ちを繰り返さないことだ。今こそ、勇気を出し、君のなすべきことをしなければならないのだ。今君としてやらねばならないことを、男らしくやっていくんだ」と。コペル君は、叔父さんの助言に従い、北見君に手紙を書く。「卑怯者、臆病者といわれても仕方のない人間です。死んだ方がましとさえ思いました」「勇気がなくて出ていかなかったが、どうでもいいと思っていたわけではありません。今度こそ、必ず勇気を出して見せます。信じて下さい」と。勿論、元々何も非難がましいことなど考えていなかった3人はコペル君を許し、再び友情を誓い合う。

 唯物論弁証法的哲学はこの事件をどう見るか。

第一の観点。存在こそが一切の土台である。存在とは客観的事実であり、現実、事件、事故である。この存在をきちんと認め、正確に把握し、正面に据えて見つめること。特に失敗の事実、体験は目を逸らすことなく、正面からこれを見つめることが極めて重要である。失敗を軽視し、曖昧にし、正面から見つめようとしない態度は非唯物論的であり、正しくない。コペル君も最初、自らの裏切りを認めようとせず、言い訳ばかりしている。自分を勇気のない卑怯者と認めることは、感情的に、なかなか簡単にはいかない。事実を事実として認めることは、そう容易いことではない。しかし、この事実認定が狂えば、全ては逆となり、正反対の結論が導き出されてしまう。言い訳、それは「部分的な事実」「枝葉末節の事実」「取るに足らない事実」、つまり「表面的な事実」を殊更に取り上げ、あたかもそれが「真実」であるかのように主張する。しかしそれは詭弁であり、誤魔化しであり、醜い責任逃れでしかない。コペル君は、様々な葛藤を経て、最後は、自分が友人を助けず、見殺しにしてしまったという事実を認めた。ここに至って、ようやく彼は落ち着きを取り戻し、冷静に自己反省を始める。

第二の観点。確認され、とらえられた客観的事実、存在、事件、事故、失敗というその偶然性の中に貫かれている必然性、その本質を徹底的に明らかにすること。この必然性を、思想的、理論的に(知性的に)、或いは政治的に(社会的に)明確にしてこそ、はじめてわれわれは何をなすべきかという、実践と行動指針が明らかになる。つまり、存在が意識を生み、意識が存在を支配していく。

 コペル君は、叔父さんの序言・アドバイス、厳しい指摘を受け、結局自分には「上級生に暴力を振われている友達を助けに出ていくだけの勇気がなかった」ということに気づく。確かに心の中では「助けたい」「なんとかせねば」と思った。心の中で「助けたい」と思ったこと、「なんとかせねば」と思ったこと、それは正しい。しかし、それを「行動に移す勇気」がなかった。心の中でいくら良いことを考えても、それを行動に移さない限り、結局それは無に等しいのである。お母さんは、女学生時代の《石段の思い出》を語って聞かせたが、幾ら心の中で正しいことを思っても、それを行動に移さない限り意味はなく、後悔の種にしかならない、大事なことは勇気を出して行動することだ、と語って聞かせたのである。大事なことは「行動する勇気」である。その欠落こそが、コペル君の失敗の本質であった、叔父さんはそれを厳しく諭した。勿論、ここでは詳しくは述べないがコペル君の「行動する勇気の欠如」には、彼の育った環境、何の苦労もなく育った裕福な家の子供、お坊ちゃん育ちという環境が大きく作用しており、そこにそれなりの「社会的背景」(社会的環境)がある。

 さて、そこで問題になるのは、どうしたら「行動する勇気」を生み出すことができるか、だ。如何にすべきか。

第三の観点。唯物論と観念論の決定的な違いは、人間の能動性としての目的・意識、変革の意識にもとづく実践と行動の重要さを認めるかどうかにある。人間は環境の産物であると同時に、環境は人間によって支配される。つまり、人間は環境の産物であるが、正しい意識を持ち、能動的に行動することによって、環境を変え、人間を変えていくことができる、ということである。

 さて、ここで重要なことは、「能動性」とは「目的意識性」のことであり、「変革の意識にもとづく実践と行動」のことであり、そこにおいて決定的に重要な要素は自己の内部における「決断と勇気」だ、ということである。「決断と勇気」抜きには能動性・目的意識的行動性は生れない。そして大事なことは、この人間の能動性、行動性、決断と勇気は、決して固定的なものではなく、生まれつきのものでもなく、常に変化し、発展し、成長するものだということである。全ては弁証法哲学が教えるように、変化し、発展し、成長するものなのである。

 どうしたら決断力、勇気を強めることができるのか、決断力と勇気ある自己を生み出すこと、成長させることができるのか。叔父さんはコペル君にこうアドバイス(指導)した。つまり、自らの過ちを認め、何としても絶対に友情を裏切ることの無い、勇気ある人間になるのだという目的意識性をもつこと、北見君たちに「絶交される」ことを覚悟して、「勇気をもって率直に謝る」こと、そういう「勇気ある行動」に出ること、それが「勇気ある人間」に変化し、発展し、成長を遂げる第一歩なのだ、と。それが叔父さんの教えであった。

 人間としての決断力や勇気、それは自分自身が、それを日常生活の中で小さなことから一つ一つ積み重ねていくこと(量的蓄積)によって、はじめて質的に強めることができる。そうした回数を増やす(量的蓄積を続ける)ことにより、やがて重大な局面でも「勇気ある行動」をとれる人間へと成長させる(質的変化をもたらす)ことができる、ということである。そうした自己の内部における闘いの積み重ねが、自己の変化と成長を促していく。それが内因論であり、ここにも弁証法の法則、教えがある。

 マルクスは、自らの哲学の核心を語った《フォイエルバッハに関するテーゼ》の中で、「哲学者は世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」と教えている。即ち、闘うこと、行動すること、変革することこそが何よりも大切なのだ、と。ここに、哲学を探求する者の保持すべき人格、人間性、人間像は如何にあるべきか、という問いに対する素晴らしい答がある。

「雪の日の出来事」のエピソードは、そうした唯物論的で弁証法的な哲学に基づくものの観方が如何に重要かをわれわれれに教えているのである。