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(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第10回)

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

                                2022年10 月30 日更新  次回更新は1110

                    

 

    独ソ戦の転換点―スターリングラード攻防戦

 独ソ戦争のみならず、第二次世界大戦の帰趨―ドイツ軍敗北の運命―を決定づけた戦闘が、このスターリングラードの攻防戦であったことは、今や第二次大戦の戦史研究家の間では常識となっており、大木氏もこれを認めている。リデル・ハートも『第二次世界大戦』の中の「第5部・転換期―1942年」において、「独ソ戦局の転換」(18章)「ドイツ軍のロシア戦線敗退」(28章)の2章を設けて、その事実を確認している。しかして、このスターリングラード攻防戦の見方には根本的に異なる二つの立場がある。それは戦略を基本に据えてみる見方と、戦術中心の見方である。当然のことながら、戦略を基本に据えない限り、このスターリングラード攻防戦の真実を見て取ることはできない。この点においても、大木氏はじめ多くの反スターリン派・反共主義者は戦術中心に戦況を見ているため、その戦評を読んでも、なぜソビエト軍が戦局を転換させる勝利を博したのかがよくわからない。

 リデル・ハートは、勿論、戦略的観点からスターリングラードの攻防戦を見ている。彼は次のように記している。

 『新たな一大攻勢開始の計画(注:ブラウ作戦=青号作戦)が、1942年の早い時期に進められていた。ヒトラーの決意は経済専門家らの圧力によって影響された。専門家らはドイツはカフカズの小麦、鉱石、石油の補給なしには戦争の継続は不可能と説いていたのである(注:この点、シャイラーは「第三帝国の興亡」において、「ヒトラーはたった一つの作戦―モスクワ攻略―では全部の赤軍を粉砕できないことが分かる程度のセンスはもっていた。この夏は、軍の大半を南方に集中して、カフカズの石油、ドネツ盆地の工業地帯、クバンの小麦畑、ヴォルガに臨むスターリングラードを占領する。そうすれば、ソ連は戦争継続に絶対的に必要な石油と多くの食糧と工業を失うことになり、一方、ドイツは、ほとんどソ連と同じくらいに必要性を痛感していた石油と食糧資源が手に入る。‶もし…石油が手に入らなかったら〟とヒトラーは、夏の攻勢が始まる前に、悲運の第6軍司令官パウルス将軍に告げた。‶その時はこの戦争を止めねばならない〟」と記している。戦前にヒトラーが立てていた政治戦略からも、このシャイラーの分析が正しいと言える)。

 主力(モスクワの南西方面にいたドイツ軍主力部隊)は黒海に近い南翼方面に傾注される予定だった。それは…ドン川下流に到達して、湾曲部と黒海河口の中間付近で、ドン川を渡河した後、一翼は南転してカフカズ油田地帯へ向かい、他方は東進しヴォルガ河畔のスターリングラードへ進撃する予定だった。…将軍たちの不安な問い(敵中央部―首都モスクワのこと―に対して同時に圧力を加えるのではなく、一側面―南部方面―のみに対して深く前進するいう作戦、この前進部隊の左はソ連軍の鼻先をかすめ、右は黒海という障害に阻まれるという陣形、自軍の内陸側防御をルーマニアハンガリー、イタリア等の外国寄せ集め部隊に依存するという陣形などに対する不安と疑問)に対して、ヒトラーは、カフカズの石油資源を確保することなくしてドイツは戦いぬくことは不可能との決定的拒絶をもって答えた』

  (注:ブラウ作戦の開始は1942年6月28日であり、その直前、アフリカ・サハラで
        はロンメル将軍が英国領エジプトを占領し、更に中東を抑えてカフカズに進撃す            ると言わんばかりの勢いであった)

 つまり、ブラウ作戦の目的は次の点にあった。ドイツ軍の大半をソビエト南部方面に集中させ、①南部方面に存在するカフカズ油田、ウクライナのドネツ炭田工業地帯、アゾフ海東岸のクバン小麦地帯を占領支配し、敵に打撃を与えるとともに、戦争継続のために必要な戦略物資を獲得すること。②ソビエト連邦の最高指導者スターリンの名を冠した南部方面の中心都市スターリングラードを攻略・破壊し、これによってソビエト赤軍の戦意を挫き、政治的優位を獲得すること。③ソ連中央部と南部方面を結ぶ戦略的幹線通路たる大河ヴォルガを押さえ、中央部への戦略資源輸送を遮断し、ソ連潜在的戦争能力に打撃を与え、その弱体化を図り、こうして南から再度モスクワへと進撃していくこと、であった。

 ドイツ軍総司令部の多くの将軍たちはこのブラウ作戦に反対であった。「残存戦力」が少なく、十分な「冬用装備」が期待できない以上、あくまでも短期決戦を貫き、年内に再度モスクワ攻撃を仕掛ける以外に活路はない、としていた。しかしながら、モスクワ攻略に完全に失敗していたドイツ軍総司令部と参謀本部には最早発言権はなく、ヒトラーがその声に耳を傾けることはなかった。

 

 ところで、ドイツ軍のブラウ作戦は1942年の早い時期から検討され、実行に移されたのは1942年6月28日であった。カフカズ油田への攻撃が始まったのは8月初め、スターリングラードへの攻撃開始は7月26日であった。他方、スターリンと国家防衛委員会が、スターリングラードの情勢が重大化しつつあることを再認識し、ドイツ軍作戦《ブラウ作戦》の全貌を把握し、ソビエト軍の総力を投入して戦うとの決定を下したのは、1942年夏―8月初め―のことであった。

 ここには確かに「時間的落差」―6月末から8月初め―がある。ソビエト軍は、この間、ドイツ軍の南部方面に向けた大進撃を許し、ハリコフ戦はじめ多くの戦闘で苦戦・敗北を強いられ、大きな損害を被った。ソビエト軍側に一気に戦略的決戦を遂行するだけの余力がなかったこと、戦力の補給、新しい戦力の補充にそれなりの期間を要したこと、そしてドイツ軍のブラウ作戦の全貌をまだ掴んでいなかったことが大きな要因であった。

 大木氏は、この事実を捉え、『ドイツ軍の攻勢はモスクワに向けられるとの固定観念のとりこになっていたスターリンは、こうした貴重な情報(注:捕虜から得られたはずのブラウ作戦に関する情報)でさえも、欺騙工作であるとして一顧だにしなかった。予備兵が南方に振り向けられることはなく、それらはモスクワ地域に留められたままだった』として、スターリンを強く非難している(注:独ソ戦緒戦に関して「スターリンの情報無視・不信」を非難したのと同じ論法)。

 この問題に関し、ジューコフは『回想録』の中で、1942年春のスターリンについて、次のように語っている。

『最高軍司令官(スターリン)は、ドイツ軍は一九四二年夏には、二戦略方向、たぶんモスクワと南部で、同時に大規模な攻撃作戦を行えるようになると考えていた。…敵が戦略的攻勢に出る恐れがあると考えられた二方面のうちで、スターリンは、敵七〇個師団が配備されたモスクワ方面を、なにより心配していた。…スターリンは、(ソビエト軍が)大規模な攻撃作戦を展開するには、兵員と器材とが十分でないと考えた。彼は、当分は、積極的戦略防御にとどめ、これと併せて、クリミアや、ハリコフ周辺、リゴフ―クルスクとスモレンスク方面、ならびにレングラードとデミャンスク地区で、一連の部分的攻勢作戦を実施する必要があると考えた。』(ジューコフによると、当時は「敵についての完全なデータが不足」していたため)『スターリンは、問題の複雑さからして、一般情勢と、夏の陣でのわが軍の作戦計画を検討するよう命令した』と。

 明らかに、スターリンは、既にこの段階で「ドイツ軍の二戦略方向―モスクワと南部―での大攻撃作戦」の可能性を考えていた。ただ、敵に関するデータが不足している段階では、「モスクワ重視」を貫いた。ソビエト国家防衛委員会も同じ結論であった。これは「固定観念のとりこ」でも何でもない。ドイツ軍のブラウ作戦についての「確かな情報」が入手されていない段階では、当然の判断であった(注:当時、ドイツ軍の多くの司令官たちも、ヒトラーに反対されはしたが、「モスクワ侵攻総力戦」を強く主張していた)。大木氏は、あたかも、当時既にブラウ作戦の存在が分かっていたかのような見方をしているが、それは「後知恵」というものである。

 スターリンと国家防衛委員会が、幾つかの戦闘及び探索活動で得た「信頼できるデータ」を収集し、それを分析し、スターリングラードの情勢が重大化しつつあることを認識し、ドイツ軍作戦《ブラウ作戦》の全貌を把握し、ソビエト軍の総力を投入して戦うとの決定を下したのは、1942年夏―8月初め―のことであった。

 リデル・ハートもまた、『この動き(1942年6月末発動のブラウ作戦に基づいてモスクワ南西部に居たドイツ軍主力部隊がヴォロネジ付近でドン河に達した大移動)は、いかにもドイツ軍が…モスクワからスターリングラードおよびカフカズに至る鉄道支線を切断することを意図しているように受け取れた。しかし、実際にドイツ軍にそのつもりはなかった。…このドイツ軍の左翼における作戦全体が、右翼方面(クールクス~ハリコフ付近)から実施しようとしていた攻撃の準備について、ソ連軍に対して秘匿するのに役立った』と述べ、この時期、ソ連軍がブラウ作戦の全貌を未だ捉えることが出来ていない事実を明らかにしている。

 クラウゼヴィッツが語っているように、戦争には「読み違い」や「計算違い」はつきものである。敵の戦力・戦闘力への過小評価があったり、味方の戦力・戦闘力に対する過大な期待・評価があったり、計算通りにはいかないことが多々ある。戦いの中で情報を集め、情報を正し、より正確な方針を打ち立て、また実践して行くほかない。一部の人々は、やれ「独裁者スターリンは重要な情報を無視し、聞かず、大失敗した」とか、やれ「敵の動きが見抜けなかった」などと、かまびすしく非難を繰り広げているが、それは皆、戦争と当時の力関係と生きた情勢を知らない者の「為にする非難」でしかなく、「後知恵」でしかない。

 

 さて、リデル・ハートは《ブラウ作戦》という作戦名こそ記してはいないが、ヒトラーの戦略を追って、南部方面―カフカズ・スターリングラード方面の戦いについて、次のように語っている。

 『主攻勢の左翼(主攻勢部隊の左翼―中心はスターリングラード奪取の任務を帯びたパウルス元帥指揮下の第6軍)において数日にわたる激戦が行われた後、第4装甲軍は…100マイルの平原を疾駆し、ヴォロネジ付近でドン河に達し…7月22日、さしたる抵抗にもあわずドン河を渡河した。…右翼(ハリコフ付近に居た主攻勢部隊―総司令官はリスト元帥で、中心部隊はクラスト麾下の第1装甲軍)は7月23日、ロストフ(注:カフカズへの入り口となる南部の都市)陣地の前線に到達し…同市はドイツ軍の手中に帰した』

 こうして、7月半ば、ブラウ作戦カフカズ・スターリングラード2正面策作戦―の部隊配置は整ったが、ハルダー総参謀長らはこの時も、ヒトラーのこの二正面作戦に反対し、ソ連軍の防備が完成していない今この時にこそ、兵力を集中し、一気にスターリングラード奪取を目指すよう進言するが、「ソ連軍は片付いた」とするヒトラーに拒否される。ヒトラーは、当時、「ヴォルガこそ祖国防衛線の最終ライン」(スターリン)とするヴォルガ河方面へと戦略的撤退を続けていたソビエト軍の動きを見て、これを「ソビエト赤軍の敗走瓦壊」と思いこんだ。その結果、7月半ば、ヒトラーは、突如、スターリングラードを攻撃すべく湾曲部に集結していた大軍団(B軍集団)の一部、第4機甲部隊を南下させ、ドン川河口に在るロストフに駐屯していた軍団・第1機甲部隊と共に、カフカズ油田地帯に侵攻していたA軍集団に合流させるという命令を下した。が、2週間後にはこのヒトラーの二正面同時攻撃の失敗が明らかになる。ソビエト側のスターリングラード防備の不備を察知したドイツ軍司令部は急ぎカフカズ方面から機甲部隊を呼び寄せ、集中攻撃を試みる。が「時既に遅し」であった)。結局、この二正面作戦の失敗がスターリングラード戦におけるドイツ軍の屈辱的敗北を決定づけた、と言って良い。

 そこで、まずは8月初めのカフカズ戦線から見てみよう。

 

 <カフカズ戦線>

 リデル・ハートはその戦闘経過を次のように語っている。

 『クライスト麾下の第1装甲車軍はドン河下流を渡河した後…カフカズへ進撃を続け、広い戦線へと散開した。…1942年8月初旬におけるドン河以南のこれらの部隊の突進速度は凄まじいものがあった。しかしその速度は上昇時と同じく突如として下降した。主因は燃料不足と山また山の地形にあった。…カフカズの山岳地帯はもともとドイツ軍の目標達成の障害だったが、接近するにつれいよいよ頑強なる抵抗のために困難は増大した。…            

 (赤軍の)同地方の守備隊は現地出身の兵からなっており、彼らは故郷を守るという意識に燃え、当然山岳地帯の地形に通暁していた。主要前進路を担当したクライスト麾下の第1装甲軍は、比較的順調に進撃したが、速度は次第に遅くなり、前進が渋滞し始めた。燃料不足が決定的傷害となった。…

 ソ連軍は騎兵数個師団をカスピ海沿岸に投入し、無防備なクライスト軍の東側方向から妨害を加え、広範な地域にわたって同軍の行動を牽制した。…ドイツ軍から見ると、敵の正体はつかまえどころがなく、側面に対する脅威は絶えず増大した。ドイツ軍機動部隊の一部はカスピ海の岸辺まで浸透していたものの、それは‶砂漠の蜃気楼〟に過ぎなかった。

 九、十の二ヵ月にわたってクライストは様々な地点に奇襲攻撃をかけ…たが、その都度阻止された。…最終段階で雨と雪のため遅滞が生じたが、クライストは当面の目標までもう一息の地点に迫った。この時、好機をとらえたソ連軍は…反抗を開始した。これにより、ルーマニア山岳兵団(クライスト軍の中心を担っていた)は一たまりもなく崩壊した』

 こうして、1942年9月初めには、ドイツ軍のカフカズ戦線での敗北は決定的になっており、ヒトラーもこれを認めざるを得なかった。『九月七日の夜、ヒトラー国防軍統帥部長のヨードル砲兵大将から報告を受け、カフカズの油田を年内に奪取することは兵力不足のために絶望的であると告げられた。…そして「青」作戦(ブラウ作戦)の主眼とも言える大目標を見失ったヒトラーは、彼に残されたもう一つの目標への執着を強めていった。B軍集団スターリングラード攻撃部隊)が目指すヴォルガ川沿岸の工業都市スターリングラードである』(山崎雅弘 新版・独ソ戦史)。

 石油奪取を目指したカフカズの戦いはドイツ軍の敗北に終わった。かくして、ヒトラーとドイツ軍は、山崎氏が指摘しているように、その野望とエネルギーのすべてをスターリングラード攻略に向けることになる。それ故、その攻勢は一段と凄まじいものとなった。

 次にスターリングラード戦線を見てみよう。

 

 <スターリングラード戦線>

 スターリングラード市は、ヨーロッパ最大の大河ヴォルガの西の小高い岸の上に、南北40キロに亙って細長く延びている大都市である(注:市街の東側を流れるヴォルガ河の河幅は1500㍍、水量は信濃川の15倍)。19世紀末、その人口は5・5万人に過ぎなかったが、1940年頃には50万人に達していた。ロシア革命直後の1918年、この地(当時はツァリーツィン町)でソビエト赤軍反革命白衛軍との決戦が展開され、スターリンの率いる赤軍が勝利し、この都市はロシア革命防衛の最大拠点となった。1925年、市の名はスターリングラードと改称され、ソビエト南部の水力発電・重軽工業の一大拠点都市となった。政治的にも経済的にもまさに南部要衝の地であった。

 リデル・ハートスターリングラード戦線の戦いについて、次のように記している。

スターリングラードへの直接進撃に当たったのは、パウルス(上級大将) 鷹下の第六軍であった。最初同軍は、ドン川とドニェツ川中間地帯北側を南下し、南側を進む装甲軍(第四装甲軍)に助けられて順調に前進していった。しかし進むにつれ戦線は縮小された。…退却途上のソ連軍が次々と実施する抵抗を打破するのが困難になった。…(1942年)七月二十八日、機動部隊先鋒のひとつがドン川のカラチ付近に到達した。カラチは…スターリングラードのあるヴォルガ西方湾曲部から40マイルそこそこにあった。…

 八月二十三日、ドイツ軍はスターリングラード進撃の最終段階開始の用意が整った。はさみうちの形をとり、北西から第六軍、南西から第四装甲軍が出撃する手はずだった。同日夜、ドイツ軍機動部隊はスターリングラードの北30マイルの地点でヴォルガ川に到達。また別動隊は同市の南15マイルのヴォルガ湾曲部に接近した。しかしこのはさみのふたつの刃は敵守備軍に阻まれて離れ離れのままだった。次の段階でドイツ軍は西からの攻撃を進め、半円型の圧力陣形が出来上がった。戦況の緊迫は、最後の一兵まで断固死守せよというソ連軍兵士への檄文にはっきりと現われていた。

  • (注:この「ソ連軍兵士への檄文」こそ、反スターリン派がこぞって「独裁者スター                    リンの冷酷非情の命令」と非難しているあの「ソ連国防人民委員令第227号」である。それは、撤退作戦の中止命令であり、「これ以上の後退は諸君の破滅を意味し、しかもそれは祖国の破滅につながる。一歩も引くな!」というものであった。戦線が最大の危機に瀕している時、これ以外に出すべき檄文―指令―があるであろうか?ない!そして、当然、逃亡者・裏切り者は銃殺されねばならない!クラウゼヴィッツも次のように述べている。『戦争は実に危険な事業であって、このような危険な事業にあっては、お人よしから生まれる誤謬ほど恐るべきものはない。物理的暴力の行使にあたり、そこに理性が参加することは当然であるが、その際、一方はまったく無慈悲に、流血にもたじろぐことなく、この暴力を用いるとし、他方にはこのような断固さと勇気に欠けているとすれば、必ず前者が後者を圧倒するであろう。戦争哲学の中に博愛主義をもちこもうなどとするのは、まったくばかげたことである。戦争は暴力行為であり、その行使にはいかなる限界もない』と。これが戦争なのだ!)

 赤軍兵士はこの呼び掛けに驚くべき忍耐力をもって応えた。神経を狂わせずにおかない戦況は、補給と増援にとっても厳しいものがあった。赤軍の背後を流れる幅二マイルの大河は、必ずしも不利条件とばかりはいえなかった。ソ連軍兵士にとってそれが抵抗を複雑にすると同時に、また強固なものにする一助ともなった。

弓なりにそったソ連軍のスターリングラード防御陣地に対し、果てしもなくドイツ軍の攻撃が繰り返された。…阻止に次ぐ阻止(ドイツ軍の攻撃浸透をソ連軍が阻止)から、同地区(スターリングラード)の心理的重要性が増大した。…‶スターリングラード〟もソ連軍にとっては勇気を鼓舞する象徴であり、ドイツ軍、とりわけその指揮官らには催眠術的意義をもつシンボルだった。‶スターリン〟の名がヒトラーに催眠術をかけて戦略を見失わせ、将来への配慮を完全に見失わせた。それはモスクワより更に運命的であった。なぜならその名はより多くのことを意味していたからである。

  • (注:この点についての山崎雅弘氏の次の指摘は傾聴に値する。『一般的なイメージとは異なり、ソ連赤軍の最高司令官スターリンスターリングラード を巡る戦いの情勢に多大な関心を払ったのは、自らの名が付与された町という単純な理由によるものではなかった。ドニェツ地方の工業都市スターリノをはじめ、彼の名にちなんだ都市は既にいくつもドイツ軍によって占領されていたが、スターリンは比較的冷淡にその事実を受け入れ、より戦略的に重要と思われる要素を優先する判断を下していた。スターリンにとってのスターリングラードとは、個人的な面子よりもむしろ、ソ連国民に与える心理的な影響という面において、決して譲ることのできない重大な戦略拠点だった。市街戦を戦う第62軍のスローガン「ヴォルガの背後に我らの土地なし!」が物語るように、一般のロシア人にとってはヴォルガ川とは祖国の象徴であり、この「母なる大河」を敵に明け渡すことは、ドイツとの戦争におけるロシア=ソ連の敗北を強烈に印象づける 効果をもたらすものと思われたからである』)

 攻撃(ドイツ軍のソ連軍防御陣地に対する攻撃)を続行することの不利と危険は、戦争体験のある冷静な頭の持ち主には歴然としていた。…この場合(ドイツ軍側には増援の可能性が無い)、長期戦の消耗に耐える力が無いのはドイツ軍の方だった。ソ連軍は甚大な損害を被っていたものの人的資源でははるかにめぐまれていた。…

 ドイツ軍参謀本部は戦局の不利をすぐに理解した。参謀総長ハルダーは…ヒトラーに対して道理を説いたがまたしても無駄であった…。ヒトラーのいらだった神経を逆なでした。攻勢継続に反対するハルダーの主張は冬が近づくにつれていよいよ熱を帯び、二人の関係は次第に耐え難いものになっていった。…かくして1942年9月末、ハルダー(注:リデル・ハートは戦略的指導に優れていたとしてこの参謀総長を高く評価している)が辞任し、その後を追って彼の部下数名も辞任する。…反撃の機が熟しつつあった。ソ連軍は反撃準備を整え、十分な予備隊を集結して敵の張り過ぎた側面を有効に叩こうとしていた』と。

 結局、ヒトラーとドイツ軍のスターリングラード攻撃の第1段階は失敗し、参謀総長ハルダーの解任を以って終わる。

 ヒトラーとハルダーは作戦をめぐって2度、3度と対立しているが、それは決して「ヒトラーの独裁的性格の問題」ではない。いわば「政治」と「軍事」の対立であった。ハルダ―解任の日、ヒトラーはその告別会見の席上、「われわれが今必要としているのは、国家社会主義的熱意であって、職業的能力ではない。私は、それを君のような旧式の将校からは期待できない」と伝えた。これを聞いたハルダ―は「ヒトラーは責任ある大将軍ではなく、政治的狂信者だ」と呟いた(『第三帝国の興亡』より)。まさに、カフカズ油田を巡るヒトラーとハルダーの対立の根底にあったのは、ヒトラーの政治的信念たる「国家社会主義的熱意」と、専門家たる軍人の「職業能力」との対立だった。

多くの歴史家は、一連の処分、軍首脳の解任・首切りの原因を単に「ヒトラーの個人的性格」「ヒトラーの独裁的資質」に求めるが、そうではない。ヒトラーの政治的信念、即ちソビエト侵攻の政治目標は、あくまでも、この地を「ドイツ民族の生存圏」たらしめることであり、ただ単に戦闘に勝利することだけが目的ではなかった。ドイツ・ゲルマン民族が生き延び、その使命たる「千年王国」を建設するためには、また当面するモスクワ、スターリングラード攻略を成功させ、その占領を維持し抜くためには、ウクライナの炭田・小麦地帯及びカフカズ油田地帯の占領支配が絶対に必要だったのである。

 だが、ヒトラーの政治的信念―戦争の政治目的―は、結局のところ、ドイツ軍将兵の心を捉えることができなかった。いわんや、ドイツ国民の心を。それは、ヒトラーの思想が、非人間的で反人民的で野蛮で反動的なファシズム思想だったからであり、それ以外のなにものでもない。

 

 <スターリンソビエト軍の大反抗作戦>

 さて、いよいよ、スターリンソビエト赤軍の本格的な大反撃大反抗が始まるのであるが、残念ながら、緒戦時と同様、ここでも、リデル・ハートソビエト軍の戦略的大反抗作戦については、あまり詳しく語っていない。したがって、これについては、筆者の方で詳しく取り上げることとする。(参考資料はジューコフの『回想録』、シャイラーの『第三帝国の興亡』、山崎雅弘氏の『新版・独ソ戦史』)

 1942年8月27日、ドイツ軍の《ブラウ作戦》の全貌を掴んだスターリンと最高軍司令部・国家防衛委員会は、ジューコフを最高軍司令官代理(スターリンの代理)に就け、スターリングラード地区への派遣を決定した。この年の夏、南部方面軍が指揮した一連の戦い、特にハリコフ作戦の失敗は、事前にハリコフ作戦に警告を発していたジューコフの指摘の正しさと彼の作戦能力の優秀さを証明した。スターリンは、いつもそうであったが、この時も、実践によって検証された彼の能力を認め、評価し、然るべき地位に抜擢したのである。(注:ハリコフ作戦は、南西方面軍司令官ティモシェンコと彼を熱心に支持していたフルシチョフの自信満々の提案―主導―で実行されたものであったが、手痛い敗北を喫した。フルシチョフはこの件について一切口を閉ざし、沈黙したままである)。

  • (注:よく戦史研究家は「独裁者スターリン独ソ戦の初期は軍人の言うことを聞かず、自ら指揮を振いたがり、緒戦の敗北を招いたが、スターリングラード戦以後は、ヒトラーと違って、軍人たちの意見を尊重するようになった」との見解を打ち出しているが、これは極めて皮相的な見方である。赤軍トハチェフスキーらの粛清によって重大な危険は取り除いたが、当然のこと、新たに幹部を養成し、適材適所に配置するという課題を一気に解決することはできなかった。それは組織的に、また実践のなかで実践を通じて一つ一つ検証し、解決する以外になかった。慎重派のスターリンはこの原則を厳格に守った。ジューコフの場合も、最初から有能な司令官としての評価があったわけではなく、最初から「スターリンの片腕」であったわけではない。緒戦時、ジューコフは「モスクワ防衛のためにはキエフからの撤退もやむなし」と主張し、スターリンはじめ他の最高司令部メンバーに反対され、一時、レニングラードに飛ばされている。しかし、後にキエフは放棄せざるを得なくなり、レニングラード戦線の劣勢もジューコフによって覆され、ジューコフの有能さが検証され、スターリンと最高司令部の信頼を得るようになり、その評価が高まった。こうした経過を経て、最高軍司令官代理(スターリン代理)のジューコフが生まれたのであり、他の幹部配置も同様であり、こうして赤軍司令部・最高本部の立て直しが完成させられていったのである。このような経過に対する正しい認識を抜きに行われている「独裁者スターリンは軍人の言うことを聞かず云々」の評価は、やはり‶皮相的〟と言わざるを得ないであろう)

 1942年9月12日、最高軍司令官スターリンと、最高軍司令官代理でスターリングラード地区担当のジューコフ参謀総長ワシレフスキーはモスクワの大本営に会し、スターリングラード戦大反攻作戦《ウラン作戦=天王星作戦》の検討を開始した。この反攻作戦の原案を作成したのは、現場を指揮するジューコフとワシレフスキーであった。この作戦の根本は、第一段階で、スターリングラードを攻撃するドイツ軍部隊の防御を突破し、これを包囲し、この部隊を外部兵力から完全に孤立させる。そのための外郭陣地たる包囲網を作る。第二段階で、包囲された敵を殲滅し、且つまた外側からこの封鎖を解こうとする敵部隊を撃滅・撃退する、というものであった。

 スターリンは、この作戦計画を承認し、「この遠大な大反攻作戦を勝利させるためには、現有兵力だけでは不十分であり、予備軍の編成が必要であり、さらなる検討が必要である」とし、最後に「ここで検討したことは、当分、我々―スターリンジューコフ・ワシレフスキーの3人―以外に知らせてはならない」と言明した。勿論、捕虜の自白による漏洩の危険性もあったが、当時の戦地間を繋ぐ電話は容易に盗聴されるようなレベルの物しかなく、敵の通信傍受の心配もあったからだ。

 ジューコフとワシレフスキーは、1942年10月末から11月初めにかけて、南西方面軍の司令部・参謀部・各部隊を回り、全力を傾注して反攻計画の意図と実施方法を伝え、意志統一を徹底させた。そして、同時に、党と政治機関は軍内部における政治活動―スターリン赤軍独特の思想政治指導機関として政治委員制度の拡充に力を入れていた―を展開し、赤軍内部の思想的政治的強化に力を入れた。

 《ウラン作戦》とは具体的には――。この作戦の第一段階の目標は、スターリングラード付近のドイツ軍の主力部隊―中心はドイツ第6軍―の完全包囲にあった。この作戦遂行の主力部隊として新たに結成された南西方面軍(司令官ワトゥーチン)が、まずドン川右岸のセラモビッチ・クレツカヤ地域にある作戦根拠地から行動を開始し、ドン川渡河を敢行、この地域一帯を守っているルーマニア3軍の防衛線を突破し、攻撃を急速に拡大し、一気にカラチ方面に進出する。こうして、敵の主力である第6軍の背後に回り、西方への退路を遮断する。ドイツ第6軍の北方にいるドン方面軍は南下して第6軍に攻撃圧力を加え、北への逃げ道を封じる。スターリングラード市街南方の方面軍は、サルバ湖沼地帯から攻勢に出て、ルーマニア4軍の防衛線を突破し、西北方向に攻撃を拡大してカラチに向かい、南西方面軍と連絡し、ここで敵の第6軍の包囲網を完成させる。第二段階で、包囲された敵を殲滅し、且つまた当然予想される外側からこの封鎖を解こうとする敵部隊を撃滅・撃退する。そのために、党と人民は総力を挙げて近代兵器、航空機や戦車、資材などを準備する、というものであった。

 そして、この大反攻作戦《ウラン作戦》の実施は、北部に配置された南西方面軍とドン方面軍がドン川渡河に要する時間を考慮して11月19日を行動開始日に、南部に配置されたスターリングラード方面軍は11月20日を攻撃開始日とする。これが最終決定であった。

 かくして、この《ウラン作戦》発動、展開の時まで、何としてもスターリングラードを防衛すること、それが絶対的課題、絶対的使命となった。スターリングラード防衛部隊は、引き続きスターリングラードの市内で郊外で激戦を展開し、ドイツ第6軍をスターリングラード付近に釘付けにし、彼らの注意力を奪い、背後の《ウラン作戦》に気付かないようにさせ、その発動、展開を容易にさせた。この間、ドイツ軍総司令部は、この《ウラン作戦》について、まったく気づかないままであった。彼らの意識はスターリングラードに釘付けされたままであり、したがって、元々手薄だった北部のルーマニア3軍、南部のルーマニア4軍の補強は、何一つなされなかった。

 1942年11月7日、第25回革命記念日のこの日、記念式典に姿を現したスターリンは、確信に満ちた口調で、全赤軍・全人民にこう呼び掛けた。『近いうちに、我々の街で、またお祝いをすることになるであろう!』と。勿論、大反攻作戦《ウラン作戦》の戦勝祝いの予告であった。

 さて、次にスターリングラード市街戦について見てみよう。

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第9回) 

 

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

 

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 レニングラード・モスクワ攻防戦

 レニングラードロシア革命前のペトログラード1924年1月、レーニンの死去にあたり、町名をペテルブルグからレニングラードに変更)は、亡命先から帰国したレーニンが、最初に‶ロシア革命の号砲〟たる『四月テーゼ』の演説を行った記念の地であり、ロシア革命の聖地である。そして、モスクワは言うまでもなくソ連邦の首都である。

ヒトラーは、こうした歴史と現状から、ソ連邦を自らの支配下に屈服させ、隷属させるために不可欠な作戦として、総力を挙げて首都モスクワ占領を目指すともに、レニングラードの壊滅を目指したのである。

 

  レニングラード攻防戦〉

  1941年9月、ヒトラーは次のような指令を発した。『この都市(レニングラード)を近接包囲し、砲撃と連続空爆により完全に破壊するのが、わが方の意図である…。この都市の明け渡しの申し入れは拒否すべきである。 なんとなれば、住民の生命を救い、これに食料を供給することは、わが方で解決し得ず、解決すべからざる問題である』と。

 シャイラーの『第三帝国の興亡』は、『その数週間後、ゲーリングは…告げた。「今年、ソ連では、二千万から三千万の人間が餓死するだろう。たぶん、そんなことになるのもいいことかもしれない。あの国民は大幅に減らさなくてはならないからだ』と。

 そんな意図を持つヒトラーとドイツ軍の取った作戦は「兵糧攻め」であった。

 ヒトラーとドイツ軍・北方軍集団は、1941年9月6日、この偉大なレーニンの名を冠したソビエト北方の中枢都市・レニングラードへの総攻撃を開始した。ヒトラーの狙いは、まずここを陥落させ、更に北上し、フィンランド軍と合流し(注:フィンランドはドイツとリュティ=リッペントロップ協定を結び、ドイツと共に戦うことを誓い、ソ連に対して宣戦を布告していた)、その上でモスクワ攻撃に向かう、というものであった。ドイツ軍はレニングラードと外部を結ぶ交通の要衝を押さえ、陸路連絡網を遮断し、市内に立て籠るソビエト軍を包囲し、過酷を極めた兵糧攻めを開始した。

 ドイツ軍による包囲は1941年9月から1944年1月までの872日間に及び、63万人以上の餓死者が出た。しかし、20万人以上の市民が義勇軍に志願し、全市民が総出で市の防衛に当たった。圧倒的多数の市民は、撤退、避難を拒否し、戦闘に出動した。食料の備蓄が尽きると、革製のブーツやベルト、油粕など、食べられるものは何でも食べた。零下30度の凍てつく寒さの中、暖房も電気も、ストーブにくべる薪もなく、食べられないものは何であれ家具も本も何でも燃やした。市内のいたるところに設置されたスピーカーからは、昼夜問わずにラジオ放送が流れ、市民を励ました。いつ終わるともしれない凄惨な状況の中、人々は支え合い、助け合い、励まし合い、懸命に生命をつないだ。レニングラードの危機を察知したスターリンは元帥ジューコフレニングラード方面軍の司令官に就け、起死回生を図った。ジューコフはその期待によく応え、戦線を立て直し、ドイツ軍を守勢に追い込んだ。

 レニングラードプロレタリアートと人民は、1971年3月、パリ・コミューンの戦士たちが「降伏するよりも死を!」と叫びながら、敵に屈服することなく、最後までブルジョア政府と戦い抜き、銃弾に倒れていった歴史的事件を忘れてはいなかった。1970年7月、大ドイツ帝国への拡張を目指す北ドイツ連邦の盟主ウィルヘルムⅠ世はフランスへ侵攻し、パリに迫った。恐れをなしたフランスのブルジョア政府は降伏し、屈辱的な「講和」を受け入れた。しかし、パリの労働者と市民は、降伏を拒否し、武装し、バリケードを築き、パリ・コミューンの旗の下、「祖国防衛の戦い」に決起し、敗北を恐れることなく、不屈に戦い抜いた。

 レニングラードの市民・赤軍もまた、「降伏するよりも死を!」合言葉に、断じて敵に屈服することなく、「祖国のために!」「スターリンのために!」の旗を掲げ、ヒトラーとドイツ軍の包囲・兵糧攻めに耐え抜いた。人々は今なおこう語りあっているという。「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」と。

 1942年12月、スターリンソ連最高会議幹部会は、レニングラード市に対して「防衛メダル」を授与し、「英雄都市」の称号を与え、その偉大な戦闘を讃え、激励を送った。ソビエト人民にとって、レニングラードは「勇気と革命的自己犠牲のシンボル」となり、独ソ戦が終わる日まで、ソビエト人民を激励し続けたのである。このレニングラードの英雄的戦い抜きに、ソビエト軍のモスクワ戦での勝利もなかった。そう断言して間違いない。

 大木氏は、このレニングラード攻防戦について、『1943年1月18日に解放されるまで、このドイツ軍の封鎖によって、レニングラード市民が嘗めた悲惨は筆紙につくしがたい』と記しながら、他方でこう記している。『レニングラードの惨状を招いたのは、ドイツ軍だけではない(注:ドイツ軍の責任ではない、というのだ)。革命の聖都を放棄しようとすることをよしとしなかったスターリンは、敵がレニングラードの門前に迫っても、市民の一部しか避難させなかった。その結果、およそ、300万人が包囲下に置き去りにされることになった(注:いったい誰が市民を置き去りにして撤退、逃亡したというのか!)。さらに、レニングラードの防衛態勢を維持するために秘密警察は…動揺する者、統制に従わない者を‶人民の敵〟として狩り立てたのである』と。

 つまるところ、大木氏は、「レニングラードを放棄せよ!」と‶命じて〟いるのだ。「闘うな!避難、撤退せよ!降伏せよ!」「死よりも降伏を選べ!」と。こういう「指揮官」の記す戦史研究論文を誰がまじめに読もうとするであろうか。

 

 〈モスクワ攻防戦〉

 ドイツ軍は緒戦の奇襲攻撃に失敗したものの、それでも、1941年7月半ば、ボッグ元帥率いるドイツ中央軍集団は、モスクワに通じる西の関門たる要衝の地スモレンスクに突入し、これを占領した。モスクワまで後200マイル、320キロの地点であった。

ボッグとドイツ陸軍総司令部の作戦は「このまま進撃し、総力を挙げて敵の神経中枢たる首都モスクワを攻略すべし」というものであった。ソビエト軍の手強さを痛感しつつあったボッグとドイツ軍総司令部は、モスクワに近付きつつあったこの時、総力を投入しての「早期攻略」「早期決戦」を強く主張した。

 ところが、ここに至ってもなお「ソ連、組みし易し」との自信を持ち続けていたドイツ国防軍最高指揮官ヒトラーは、あくまで強気で、モスクワ攻略を多少遅らせても、行き詰っていた北部のレニングラード攻撃、南部のカフカズ油田とウクライナの炭田・食糧地帯占領―補給源の確保―先行させるとの方針を打ち出した。その結果、ドイツ軍総司令部は、ヒトラーの決定に従い、モスクワ攻略部隊たる中央軍集団の一部を援軍として北と南に回し、北、南、中央の三か所で一斉に大攻勢に打って出た。しかし、北と南からの攻略も、中央の攻撃も、完全に失敗に終わった。

 既に秋雨の季節が始まり、冬が間近に迫り来ようとしていた。ドイツ軍総司令部が何よりも恐れていたのは、ナポレオンを敗走させたあの「冬将軍」の到来であった。「短期決戦での勝利」を確信していた彼らにとって、やはり最大の心配の種は、冬に備えた兵站面(兵器・弾薬・食糧の輸送と保存)の不足、遅れであった。

 1941年9月30日、ヒトラー・ドイツ軍によるモスクワ戦線総攻撃《台風作戦》が始まった。ヒトラーは、将軍たちの提言を受け入れ、北と南に出していた機甲部隊(戦車・装甲車部隊)と戦車部隊を呼び戻し、再び中央集団軍の態勢を整えた。この攻撃に参加していたドイツ軍総兵力は、ソビエトのそれよりも、歩兵で1・4倍、戦車で2・2倍、砲と迫撃砲で2・1倍、航空機で2・1倍も上まわっていた。ただ、このような兵力比較が判明するのは戦争が終わった後のことであったのだが。

 ドイツ中央集団軍主力部隊は、10月6日、局地的に降り始めた秋雨がやがてみぞれ交じりの小雪へと変わり、道路網は泥沼と化した中、歩兵が先頭になり、泥まみれになって1キロ、2キロとモスクワへの距離を縮めていった。そして、遂に、モスクワから南西160キロ地点に在る古都カルーガ付近にまで到達。10月13日、南から、北から、西から、ドイツ軍の総攻撃が始まり、モスクワ空襲が始まった。その作戦名通りの強烈無比の<台風>がモスクワに襲いかかった。空軍が敵陣地に爆弾を落とし、この空軍に支援された戦車兵団が先陣を切って突入し、その後に、大量の自動車部隊を擁する歩兵師団が続く。これが、ドイツ軍得意の戦術であり、攻撃スタイルであった。

 スターリン赤軍最高司令部もまた首都モスクワ防衛に備え、この方面に赤軍の主力を配置させていた。スターリンは、レニングラード戦を指揮していたジューコフを呼び寄せ、モスクワ防衛戦の作戦決定に参加させていたが、10月に入ると、レニングラード防衛の責任を立派に果たしていたジューコフをモスクワ防衛の中心部隊である西部方面軍の司令官に任命した。

 フルシチョフや大木氏は認めようとしていないが、赤軍司令部幹部ジューコフ、ワシレフスキー、アントーノフ等は皆、トハチェフスキー粛清後の赤軍再建を担った若き将校団に属しており、彼らこそ赤軍を清新にして若々しい革命的戦闘部隊に生まれ変わらせた中心勢力であった。後に、スターリンと共にスターリングラードの戦いを指揮したのも、このジューコフ・ワシレフスキーらを先頭とする若き軍人・指揮官たちであったのだ。

 空襲警報が、毎夜、モスクワの街に鳴り響いた。首都モスクワを敵に奪われる訳にはいかない。何としても、ここを守り抜かねばならなかった。国家防衛委員会は、急ぎモスクワの政府機関の一部と外国大公使館を600キロ東方のヴォルガ河畔の都市クイブィシェフに移転させる決定を下した。その上で、ソビエト赤軍、モスクワ市民総ぐるみの大反撃が始まった。党の指導のもと、モスクワ市民によって12の人民義勇軍師団が編成された。労働者、技師、学者、芸能人、様々な職業の専門家がこれに参加し、闘いながら軍事知識・軍事技術を学んでいった。その結果、数万、数十万のモスクワ市民・義勇兵が、昼夜ぶっ通しで、首都モスクワの防御陣地の構築に取り組むことが可能になった。

 ボルシェヴキ党西部方面軍軍事会議―党政治委員の集まり―は、全党、全軍、全義勇軍にこう呼びかけた。「諸君!国家危急存亡の時、兵ひとりひとりの生命は祖国のものである。祖国は、われわれひとりひとりに最大の努力、勇気、ヒロイズム、不屈さを求めている。祖国はわれわれに、不落の壁となり、愛するモスクワへ迫るファシスト軍の前に立ちふさがるように求めている。今こそ、警戒心、鉄の規律、組織力、決然たる行動、勝利への不屈の意欲、そして自己犠牲の心構えが要求されている!」と。

 そして、1941年11月7日―「十月社会主義大革命24周年記念日」がやって来た。外国メディアは祝賀行事の開催を危ぶんだが、前日6日にはマヤコフスカヤ地下鉄駅前で祝賀集会を開催し、更にボリシェビキ党中央と最高軍司令部は、断固としに7日当日には「赤の広場」で恒例の軍事パレードを挙行した。

 そして、この祝賀集会と軍事パレード双方の先頭にスターリンが立っていた!最高司令官スターリンは、モスクワに止まり、人民大衆の前にその雄姿を見せ、ソビエト人民を鼓舞激励し、その士気を大いに高めた。その力強い演説はまさに祖国防衛戦争を闘うソビエト赤軍・人民の《戦闘綱領》に他ならなかった。

 『敵は、ウクライナ白ロシア…その他の多くの州を占領し、ドンバスに入り、暗雲のようにレニングラードに垂れこめ、わが光栄ある首都モスクワをおびやかしている。ドイツ・ファシスト侵略者どもはわが国を略奪し、労働者、農民、インテリゲンツィアの労働によってつくられた都市と農村を破壊している。…老若の別なく、わが国の平和な市民を殺害し、市民に暴行を加えている。…わが陸海軍の将兵は、敵を討って血河とし、祖国の名誉と自由を擁護し、野獣と化した敵の攻撃を雄々しく反撃し、剛勇と英雄主義の模範を示している。しかし、敵は犠牲をものともせず、自国兵士の血を少しも惜しむことなく、…次々に新しい部隊を戦線に投じ、冬になる前にレニングラードとモスクワを奪取しようと全力をあげている。何故なら、敵は、冬が彼らに何も良いことを約束していないことを知っているからである。

 わが軍はこの4ヵ月間に、戦死者35万人、行方不明者37万8千人、戦傷者102万人を出した。敵は同じこの時期に、450万人以上の死傷者と捕虜を出した。…既に人的予備を消耗しつつあるドイツが、いまようやく予備を完全に展開しつつあるソビエト同盟よりも著しく弱体化したことは、疑う余地がない。

 ドイツ・ファシスト侵略者どもは、わが国に攻撃を企てるにあたって、1ヵ月半から2ヵ月間で必ずソビエト同盟を〝かたづけ〟て、この短期間にウラルに到達することができると考えていた。今では、この気ちがいじみた計画は徹底的に失敗したと考えなければならない。…  

 これらの有利な条件(注:英米仏など他の諸国との新しい連合が実現したこと、ドイツ侵略によって国内の労農同盟、諸民族の友情、赤軍の士気が遥かに高まったこと等)と共に、赤軍にとって不利な条件も幾つかあり、そのためにわが軍が一時的な失敗をなめ、退却を余儀なくされ、わが国のいくたの州を敵にわたさなければならなくなっているのもまた、真実である。…赤軍の失敗の一つは、ドイツ・ファシスト軍に対抗する第二戦線が存在しないことである。…そのためにドイツ軍は兵力を東西二つの戦線にわけて戦わなくてもよいというのが現状である。…わが軍の一時的失敗のもう一つの原因は、われわれの手に戦車と、いくらかは飛行機も足りないことにある。現代戦では、歩兵が戦車なしに、空軍の空からの十分な掩護なしに闘うことは非常に困難である。…ここ(この二つの原因を取り除くこと)に現在の任務がある…し、どんなことがあっても遂行しなければならない。…

 ドイツは現在、他国領土の獲得と多民族の征服を目当てとする不正義の侵略戦争を行なっている。だから、誠実な人々はすべて、ドイツ侵略者どもを敵として立ち上がらねばならない。…ソビエト同盟とその連合諸国は、奴隷化されたヨーロッパとソ同盟の諸民族をヒトラーの圧制から解放することを目当てとする正義の解放戦争を行なっているのである。…これらの目的を実現するためには…わが祖国を奴隷化するためにわが国土に侵入して来たドイツ占領軍を、最期の一兵にいたるまで殲滅しなければならない。…この任務を遂行し、ドイツ侵略者どもを撃滅することによってはじめて、われわれは、恒久的な、正義の平和を獲得することができる。…われらのやっていることは正しい。勝利はわれわれの側にある!わが光栄ある祖国万歳!』(ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争・1953年5月・大月書店)と。

 記念集会の全参加者は一斉に立ち上がり、「偉大なスターリン万歳!」と叫び、嵐のような拍手を送った。「スターリンはいつもわれわれと共にある!」というこの言葉は、大戦を通じて、常に、ソビエト人民の合言葉となった。そして、この日、赤の広場をパレードした赤軍兵士たちは、スターリンに見送られ、そのまま戦いの最前線へと向かったのである。

 移転地クイブィシェフに滞在していた毎日新聞・渡辺三樹男特派員は、『ソ連特派五年』の中で、「ありのままの記録」として、この日の出来事を、次のように伝えている。

 『緒戦以来、退却また退却を続けて来たソ連軍、銃後では食糧や燃料の不足がようやく深刻ならんとしつつあったその当時、このスターリン演説が国民に与えた印象と感銘は、まことに絶大なるものがあった。何よりもまず、スターリンはモスクワに踏みとどまっている!という事実が、国民に底知れぬ力強さと、スターリンへのいや増す信頼感を与えたことを指摘せねばならぬ。とりわけモスクワからの撤退先となったクイブイシェフでは、引き揚げた旧モスクワ市民も、地元市民も共にスターリンに対する感謝と尊敬の念を特に新たにしたようであった。ラジオを通じてスターリンの演説を聞いた彼らは、みな熱狂せんばかりに〝スターリン万歳〟を唱えたことであった。…うす暗闇のなかで行なわれた閲兵式、特に演説するスターリンの姿と声は、ニュース映画に収められて、間もなく全国に公開された』と。

当然のことながら、ソビエト国民はあらためてスターリンに対する敬慕の情を厚くし、「祖国のために!」の決意を新たにした。

 11月半ば、ドイツ軍は「冬前の決着」を求め、最後の死に物狂いの攻撃を開始した。彼らは損害も犠牲も省みることなく、戦車部隊を先頭に、遮二無二モスクワ目指して突進した。しかし、防衛線の死守を誓うソビエト戦闘部隊は、その敵戦車の突破・突入を一台たりとも許さなかった。まさに夜も昼もない、死闘に次ぐ死闘の連続であった。やがて、秋も深くなり、雨が降り続くようになると、ドイツ軍は泥濘に足を取られ、疲労困憊し、早くも一部の兵士の間に絶望感が生まれ始めた。それは中央方面のドイツ軍だけでなく、南部方面のドイツ軍も同様であった。

 1941年12月6日、スターリンと最高軍司令部の全面的支援の下、ジューコフを司令官とする西部方面軍はモスクワの北と南から総反撃を開始した。この反撃に、北からはカリーニン方面軍が、南からは西南方面軍が参加し、やがて各方面軍が一つに合流し、西部方面への戦略的大進攻が始まった。ヒトラー・ドイツ軍は大打撃を受け、西へ西へと退却、敗走し始めた。西に通じる道という道は全て、彼らの遺棄した大量の兵器と自動車とで埋まった。

 ここが勝負どころと見たヒトラーは、「一歩も後退するな!弾丸の最後の一発、手投げ弾の最後の一個まで守り通せ!」との命令を下し、退却を許さなかった。多くのドイツ軍兵士が無残な最期を遂げた。いよいよ冬将軍―零下8度の大寒波―が到来。ドイツ軍に冬の装備はまったく無く、猛烈な寒気の前に人間も砲も機械類も皆、戦闘停止を余儀なくされた。かくして、モスクワ攻防戦は、ヒトラーの完全な敗北に終わった。

 1941年末、モスクワ攻撃と短期決戦に失敗した責任を問われ(ヒトラーの怒りをかって)、北方軍集団司令官・レープ元帥、中央軍集団司令官・ボック元帥、南方軍集団司令官・ルントシュテット元帥、装甲部隊を指揮したグデーリアン将軍など、ドイツ軍中枢の最高司令官・幹部が、軒並みヒトラーと対立、ヒトラーの手によって、次々と解任或いは罷免或いは「辞任」に追い込まれた。

 大木氏は、このモスクワ攻防戦についても、「固定観念に取りつかれたスターリンは、あの夏のヒトラーの南部攻撃作戦―ウクライナカフカズ占領―を見抜けず、あれこれの戦闘で惨敗を喫した」等という、「後だしじゃんけん」よろしく、戦後に判明した戦況知識による「戦評」を書き連ねている。

 その上更に、大木氏は、モスクワ攻防戦におけるドイツ軍の敗北の原因を「ロシアの天候」に帰している。曰く―

 『ドイツ軍は限界に達していた。12月初頭、ロシアの冬将軍が到来し、豪雪と厳寒をもたらしたのだ。ちなみに、一九四一年から一九四二年は、ナポレオンがロシアに侵攻した一八一二年同様の異常気象、ロシアでもめったにない厳冬であった。長期戦必至の形勢に、ドイツ本国では冬季装備の調達が進められていたが、むろん、いまだ前線には届いて いない。ドイツ軍攻撃部隊は寒さにあえぎ、ソ連軍部隊の抵抗をくじく打撃力を失った』と。

 しかしながら、『第三帝国の興亡』の著者であるシャイラーは「反スターリン」派でありながら、その著作の中でで、この点について次のように指摘している。

『ロシアの冬はすさまじく、当然、ソ連軍のそれに対する準備がドイツ軍よりも良くできていたことは認めるが…でき事の帰趨を決定した主要要因は、天候ではなく、赤軍の熾烈な戦闘力と、あきらめることを知らない不屈の意志力だったことを強調しておくべきであろう。ハルダー(注:ドイツの将軍・参謀総長)の日記や野戦指揮官たちの報告は、ソ連軍の攻撃・反撃の規模と苛烈さに対する驚きと、ドイツ側の挫折と絶望を絶え間なく表明して、そのことを裏書きしている』と。

 大木氏とは異なり、事実を素直に見つめ、率直に認めるシャイラーは、ドイツ軍敗北の主要な要因は決して天候―冬将軍の到来―にあったのではない、赤軍の熾烈な戦闘力と不屈の意志力にあった、と強調し、断定している。称賛すべき見識である。

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第8回)

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

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   独ソ戦の軍事に関する幾つかの「疑問・批判」について

  さて大木氏は、本書で、独ソ戦の軍事に関する幾つかの「疑問・批判」を提示している。即ち、スターリン独ソ戦が迫っているにも拘わらず、あらゆる情報に耳を貸さず、ソ連軍部隊は無防備かつ無警戒のままドイツの侵略―一大奇襲攻撃―に直面し、また「粛清」によって赤軍を弱体化させてしまった。こうした、スターリン個人の「誤謬や先入観、偏った信念が、そのまま国家の方針になってしまった」結果、緒戦で、またそれ以外の戦闘でも、大敗北、大損害を被ったのではないか、と。整理すると―

スターリンはその根深い「猜疑心」からあらゆる情報に対して不信を抱き、特に根強い対英不信からイギリスよりもたらされた情報を全て謀略と決めつけ、「不愉快な事実」から目を背け、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の奇襲に対して必要な警戒措置を取らず、無防備のまま奇襲攻撃を受けることになった。

スターリンは、1939年の「大粛清」によって『時代に先んじた用兵思想―「縦深戦」なる作戦術―を完成させたトハチェフスキー元帥』を銃殺し、『自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまった』。これにより赤軍は完全に弱体化してしまった。

③その結果、ソビエト軍は緒戦で、その他の戦闘で大敗北を喫し、不必要な大損害を被った、と。

 この大木氏の見解は、フルシチョフを先頭に、多くの反マルクス主義的反共的政治家、評論家、歴史家が繰り広げている「スターリン批判」であり、独ソ戦をめぐる軍事的な「スターリン批判」はこれに尽きるといって良い。

 結論から言うと、これらはすべて出鱈目で、歴史的事実に反している。更には、英国のかの有名な軍事史研究家で、大著『第二次世界大戦』(中央公論新社)を著わしたリデル・ハートの見解にも反している。

 これらの「疑問・批判」について、一つ一つ筆者の見解を以下に対置しよう。

 

スターリンは全ての情報を無視した」という批判について

 大木氏は、スターリンはその根深い「猜疑心」からあらゆる情報に対して不信を抱き、特に根強い対英不信からイギリスよりもたらされた情報を全て謀略と決めつけ、「不愉快な事実」から目を背け、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の奇襲に対して必要な警戒措置を取らず、無防備のまま奇襲攻撃を受けることになった、という。

 確かに、スターリンは幾つかの情報を無視した。英国ルートの情報については特に警戒した。それは、チャーチル自身が述べているように、彼の一貫した作戦(謀略)が「ヒトラーソ連を戦わせる」(漁夫の利を得る)というものであったからである。

 既に述べたように、スターリンは、1934年1月開催の第17回党大会、1935年7月開催のコミンテルン第7回大会を通じて、迫りくる戦争の最大の根源は、西のドイツ(とイタリア)のファシズムであり、東の日本軍国主義であることを明らかにし、ファシズム軍国主義の本質は野蛮極まるテロ独裁であり、反共・反ソビエトであり、さらに民主主義の完全な否定であり、そのために英米仏はじめ他の資本主義国との間に重大な矛盾を抱えていることを明らかにし、明確な政治目的―ファシズムの打倒・民主主義の回復―を指し示し、全世界の国々、国民、人民に対して、これを政治目的とする統一戦線への参加を呼び掛けている。後にこの呼びかけにより、ソ英米仏による反ファシズム連合が形成され、その結果、第二次大戦は反ファシズム解放戦争へと発展したのである。だが、反共主義者の英首相チャーチルは、最後まで、即ち独ソ戦争が始まるまで「ドイツを東方に向かわせる」「独ソ共倒れを狙う」という作戦を追求していた。「火中の栗を拾わされるな」と国民・人民に呼びかけているスターリンが「英国ルートの情報」に警戒心を持つのは当たり前のことであった。

 スターリンが、当時、様々な情報に対してとった極度に慎重な態度について、それを解明する資料を次に紹介しよう。

 マルクス主義者にとっては「古典的教典」とも言うべきクラウゼヴィッツの『戦争論』に次のような記述がある。

『「情報」という語は、敵および敵国に関する知識の全体を意味し、従ってまた戦争における我が方の計画ならびに行動の基礎を成すものである。ところでこの基礎の本来の性質、即ち絶えず変遷してけっきょく当てにならないという性質を考えてみるがよい、すると戦争はぐらついている建物のようなもので、いつ崩壊して我々がその下敷きになり、瓦礫や土砂のなかに埋没するかも判らないということを感じるだろう。我々は確実な情報だけを信用すればよいとか、情報をみだりに信用してはならないなどという忠言は、確かにどの軍事学書にも載っているが、しかしこれは言葉のうえだけの、取るに足らない慰めであって、体系や綱要を拵えようとする人達の猿知慧にすぎない。つまり彼等はそれ以上のことを知らないからこういう知慧に頼らざるを得ないのである。

我々が戦争において入手する情報の多くは互に矛盾している、それよりも更に多くの部分は誤っている。そして最も多くの部分はかなり不確実である。…

危険に関する情報は、いわば大海の波のようなもので、いったん高まった波は絶えず崩れ去りながら、これまた波と同様にかくべつ眼に見える動因がないにも拘らずまたしても打ち寄せるのである。しかし情報の本来の性質を弁えていれば、この種の情報を是正することができるわけである。それから指揮官は、自己の信念に徹して常に毅然たることあたかも海中に屹立して波の砕け散るにまかす巨岩のごとくでなければならない』と。

 スターリンの行動をつぶさに追ってみれば、彼がこのクラウゼヴィッツの教えをよく守って行動していることが理解できる。

次は 独ソ戦当時、ソビエト国内に滞在し、独ソ戦の取材活動にあたっていた毎日新聞モスクワ特派員・渡邊三樹男の観察記録『ソ連特派五年』からの引用である。

 『1944年2月21日、私は何度目かのレーニン博物館訪問をした。いつもはやっていな い館内の映画ホールにいたると、折から何かの映画がはじまろうとしていたので、早速はいってみた。それは「ソ連の歴史」と題する記錄映画であった。革命時代のレーニンから…いよいよ新憲法による第一回の最高会議選挙となった(一九三七年十二月十二日)。…モスクワの「スターリン選挙区」の投票場があらわれた。投票用紙を持った人がつぎつぎと投票箱の中へ投票してゆく…有名人の姿もみえる…カリーニンモロトフ…それらの人たちはみな一様に無雑作に投票用紙を箱の中へ放り込むと、スタスタと向こうへいってしまう。あッ、長外套を着たスターリンがやってくる! スターリンは、投票用紙を注意深く箱の口から中へ入れ、これを落し込んだが、普通の人のようにすぐその場から立去りはしない、箱の上にかがんで口をのぞき込み、投票用紙が完全にはいったかどうかをたしかめ、さらに箱の横をポンポンと軽く打った。 そうして自分の投票がまちがいなく遂行されたことをみとどけて、それから手袋をはめて去っていった。

 何という用心深さであろうか! 私は、スターリンの政治家としての極度の慎重さにはかねがね敬服していたが、この場面をみて、あらためて彼の百バーセント、否百二十パーセン確実主義 (という表現もおかしなものだが…)に驚いたのであった。

 すでに私は本書のはじめの方で、ソ独戦争第一年、スターリンによる戦争勃発直後のラジオ演説と、4か月経過した革命記念日前夜祭の演説のあいだに、対独勝利の見通しについて根本的な相違がみとめられることを指摘した(注:後者の演説は「われらの事業は正しい。勝利はわれらのものである」という言葉で結ばれていた)。もちろん、スターリンの対独戦争観とその信念は当初から一貫したもので、百二十パーセント確実とならない「勝利」について安易に云々するような態度はとらないのである。ヒトラーや日本の戦争指導者が、口を開けば「勝利はわれにあり」と喚いたのと対比せよ。…

 実際、スターリンは手堅い! この感は彼の伝記や著書、わけてもレーニン没後の重要な演説を採録した「レーニン主義の諸問題」と今次大戦中の演説集「大祖国戦爭について」をひもとくと、よけい深くなる。国民にぬか喜びなど与えない。情勢が悪いときはハッキリ「悪い」と断言し、官僚主義の弊や党員の理論的低下に関しては、徹底的な自己批判をおこなうゆき方である。…

 こういうスターリンの態度は、敵からみれば(友でさえも)、あまりに手堅くガッチリし過ぎていて近づきにくいとの印象を与えるので、しばしば「陰険」とか「強迫観念」とか「冷酷」 と攻撃されるもととなるのだが、味方からすれば、これくらい力強い、頼りになる人物はいないということになる。

 テヘラン会談の折、スターリンは、ドイツの殺人スパイが狙っているとの理由でルーズべルト大統領をアメリカ大使館から安全なソ連大使館に連れ出したものだが、これまたスターリンの百二十パーセント主義が如実にあらわれた一例として興味深い。』

 新聞記者である渡邊氏は、「スターリンの政治家としての極度の慎重さにはかねがね敬服していたが、この場面をみて、あらためて彼の百バーセント、否百二十パーセン確実主義 に驚いた」というのである。大木氏が「猜疑心」などといって批判している「スターリンの慎重さ」について、渡邊氏は高い評価を与えているのである。

 次は、日本の著名な独ソ戦研究家・山崎雅弘氏が、その著『新版・独ソ戦史』(朝日新聞出版・2016年刊)において明らかにしている、開戦に纏わる注目すべき事実である。氏はどちらかというと「独裁者スターリン」に対して批判的立場の人物である。それだけに、彼のこの指摘には十分信頼がおける。

 『一九四一年六月十三日、国防人民委員ティモシェンコ元帥は、西部国境地帯に展開する各部隊に戦闘準備をとらせ、防御陣地に展開させるよう進言したが、スターリンは「検討する」と答えただけで、明確な指示を出そうとはしなかった。翌六月十四日、ソ連国営夕ス通信は、対ソ国境に集結しているドイツ軍部隊の存在や、世界中で流布している「独ソ開戦間近」との噂を指摘した上で、「そのような噂には何の根拠もなく、独ソを戦争状態に追い込もうとする勢力(イギリス)の謀略である」との声明を発表した。

 そして、開戦前日の六月二十一日深夜、越境したドイツ軍の脱走兵が、翌朝の対ソ侵攻作戦についての情報をもたらしたとの報せを受けたスターリンは、ようやく戦争の準備に着手した。彼は、午後十一時三〇分に国境付近の防御態勢の強化を指示する次のような命令文書に署名すると、前線の各部隊に伝達するよう命じた。

 「一九四一年六月二十二日から二十三日の間に、レニングラード、沿バルト特別、西部特別、キエフ特別、オデッサの各軍管区において、ドイツ軍が奇襲攻撃を実施する可能性がある。しかしわが軍は、戦争拡大を招くような敵の挑発行為に乗ってはならない。各軍管区の部隊は、敵の不意打ちに備えて戦闘部隊を展開し、防御陣地と空軍基地の航空機には偽装を施すこと。防空部隊に臨戦態勢をとらせ、主要都市や目標物の灯火管制を準備すること。ただし、特別の指示がない限り、上記を超える行動をとってはならない」

 参謀総長第一代理のヴァトゥーティン中将は、この命令文書を携えてクレムリンから参謀本部に戻り、六月二十二日の午前〇時三〇分に各軍管区への送信を完了した。だが、こ の命令を受け取った各段階の司令部は、暗号で発信された内容を解読するのに貴重な時間を費やしてしまう。西部特別軍管区司令部は、午前一時四五分に命令内容を理解した後、 再び暗号に変換して、午前二時三十五分に配下の軍司令部へと転送した。国境の防備を統括する各軍司令部の手許に命令が届いたのは、現地時間の午前三時前頃だった。軍司令部の将校は、上から伝えられた命令をさらに配下の軍司令部へと伝達せねばならなかったが、彼らにはもはや、その時問は残されていなかった。 それからわずか一五分後に、ドイツ空軍の爆撃が開始されたからである。』

 『(ドイツ南方軍は幾つかの不利な条件を負わされていた)開戦前夜の六月二十一日、ドイツ国防軍の脱走兵が国境のブーク川を泳ぎ渡ってソ連側に投降し、翌朝に実施される侵攻作戦の内容を通報していた…。これにより、国境付近のソ連軍部隊は限定的ながら臨戦態勢を整えており、(ドイツ軍)南方軍集団戦区では北方や中央軍集団戦区のような戦術レベルでの奇襲効果を得ることができなかった。

 この戦区を管轄するソ連南西方面軍司令官のミハイル・キルポノス大将は、 最前線から報告されるドイツ軍部隊の集結情報を吟味した上で、この投降兵が現れる一週間以上前からドイツ側の侵攻開始を予見しており、国境に面した部隊の体制強化を繰り返しスターリンに進言していた。結局、この進言は聞き入れられず、キルポノスは不本意な形で開戦を迎えることとなったが、それでも他の戦区に比較すれば、ソ連部隊の指揮系統は奇襲による麻痺に陥ることもなく 国境を越えたドイツ軍部隊は事前の予想を上回る、ソ連軍の頑強な抵抗に遭遇することとなった。…

 キルポノスは開戦初日の未明に発令された国防人民委員部指令第2号に続く、新たな攻撃命令(指令第3号)に従い、反撃の準備に取りかかった。キルポノスは、スターリン直々の指令により「最高司令部代表」という肩書きでモスクワから急きょ、南西方面軍司令部へと派遣されたジューコフ(注:スターリンが最も信頼していた司令官)と相談した上で、第8、第9、第15、第19、第22 の五個機械化軍団に、それぞれの反撃開始地点への移動を命令した 』と

 以上から、「百二十パーセント確実主義」「極度の慎重派」であったスターリンは、最前線の信頼のおけるキルポノス大将が「ドイツ軍投降兵」から入手した情報を元に、初めて「ドイツ軍の奇襲攻撃」を確認し、「反撃の準備」に取り掛かった。これが真実である。「絶対に挑発に乗ってはならない」とする「百二十パーセント確実主義」のスターリンにとって、これが唯一の正しい判断の仕方であり、対処法であった。この対処法はあまりにもきわど過ぎたとの批判もあろう。が、それはあくまでも結果論であり、その瞬間は、クラウゼヴィッツの言うように、不動の信念を以って対処する以外にないのである。

 この投降兵のもたらした情報の詳しい内容は不明であるが、指令から推測できることは、ドイツ軍の攻撃がどの程度のものであるかについての情報は得られていなかったようだ。指令伝達の時間的ロスは、やってみて分かることで、避けられないことである。暗号に係るこの種の問題は日本軍の真珠湾攻撃、日米間の宣戦布告問題をめぐってもあったことで、これも避けられないことであった。

 いずれにせよ、ここから明らかなことは、大木氏らが言うような「猜疑心の強いスターリンはどんな情報も無視し、必要な警戒措置をまったく取らなかった」などいう事実はどこにも無く、真実はその正反対であった、ということである。

 また、大木氏やフルシチョフは、スターリンは「情報を無視」しただけでなく、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の攻撃に対して全く無防備であったなどと批判しているが、これもまったくの中傷である。

 スターリンソビエト政府が、独ソ戦前に如何なる準備・対策をとっていたか、大木氏は何も知らない。恐るべき無知である。或いは、知っていてもこれを無視したのか、どちらかであろう。後者であるとするなら、軍事史研究家として落第であろう。

 スターリンソビエト政府の対独政治戦略、国防・軍事方針については、既に第二次世界大戦独ソ戦の開始」及び「スタハーノフ運動と社会主義的競争」の項で述べた通りであるが、ここで今一度、そのエッセンスを纏めてみよう。

 その前に、まずはクラウゼヴィッツが残した有名な言葉を今一度ここに紹介しておこう。即ち『戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない。戦争とは単に政治行動であるのみならず、まったく政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行である。政治的意図は目的であって、戦争は手段であり、そしていかなる場合でも手段は目的を離れては考える事はできない』との言葉を。

 さて、スターリンは、1934年1月(第二次世界大戦勃発の5年前!)に開かれた第17回党大会の『一般報告』で、早くも次のように述べている。

 『再び、1914年と同じように、好戦的な帝国主義の諸政党、戦争と復讐の政党が、前面に進出しつつある。事態は明らかに新しい戦争に向かっている。…次のように考えている者もある。――戦争は、「高等な人種」たとえばゲルマン「人種」が、「下等な人種」何よりもスラブ「人種」に対して仕掛けなければならない…と。また…戦争は、ソ同盟に対して仕掛けなければならないと考えている者もある。彼らは、ソ同盟を打ち砕き、その地域を分割し、ソ同盟を犠牲にして利益を得ようと考えている。こんな風に考えているのは日本の若干の軍閥連中だけだと考えたら、それは間違いである。ヨーロッパの幾つかの政治指導者の間にも、この様な計画が企まれていることを、我々はよく知っている』と。

 また、スターリンは、同大会の報告の中で「ソ同盟は、極東地方・西部国境の情勢を鋭敏に監視しつつ、極東・西部国境の国防力の強化に努めなければならない」と呼び掛け、次のように述べている。

 『わが国の対外政策は明らかである。それは、すべての国との平和を維持し、通商関係を強化する政策である。ソ同盟は誰かを威嚇しようなどとは考えていないし、まして誰かを襲撃しようなどとは、なおさら考えていない。われわれは平和に味方し、平和の事業を固守する。だが、われわれは威嚇を恐れないし、戦争放火者の打撃にたいしては打撃をもって応える用意がある。平和を欲し、われわれと実務的関係を持とうと努力するものは、常にわれわれの支持を見出すであろう。だが、わが国に襲いかかろうとするものは、今後わがソビエトの菜園にその豚の鼻づらを突っ込むなどということを二度としなくなるように、壊滅的な反撃をうけるであろう。われわれの任務は、今後ともこの政策を粘り強く、徹底的に実行していくことである』と。

 このスターリンの「平和政策」は、レーニンが述べた、次のような「平和政策」を引き継いだものであり、それはソビエト人民の根強い要求でもあった。

ソビエト権力の対外政策の諸任務を考慮する場合、現在、無謀な或は性急な行動によって、日本またはドイツの主戦派の極端な分子の手助けをしないためには、最大の慎重さ、熟慮、堅忍不抜さが必要とされる。それというのは、これら両国における極端な分子が、ロシアの全土を占領し、ソビエト権力を打倒する目的で、ロシアに対する即時の総攻撃を主張しているからである。…本格的な戦争の軍事的準備を強化する上に必要なことは、発作でもなければ、喚くことでもなく、戦闘スローガンでもなく、大衆的規模での長期の、緊張した、極めて粘り強い、規律ある行動である』(1918年5月 現在の政治情勢についてのテーゼ)。

 更に、1939年3月10日に開催されたソビエト共産党第⒙回大会において、スターリンは、世界情勢について、自国の国防・外交方針について、ヒトラーの動向を念頭に、次のように語っている。

 『侵略国諸国(注:独伊日の反共ファシスト国家)は、ヨーロッパではオーストリアやズデーテンやスペインを奪い、アジアでは日本が中国大陸で広大な土地を奪っている。このように、侵略諸国家は、イギリス・フランス・アメリカの権益を至るところで侵している。にもかかわらず、これらの被侵略諸国家はおとなしく引きさがり、譲歩に譲歩を重ねている。その原因はどこにあるのか?…彼らは、侵略国家の悪業を防止しようなどとは考えていない。つまり、日本が悪業を続けている内にソビエトとの戦争に巻き込まれたり、ドイツがソビエトとの戦争を始めるかもしれないから、別に日本やドイツの悪業を防がないでもよろしい、というわけである。そして、これらの交戦国が互いに力を消耗し尽くして弱ってしまった時、自分たちは新手として登場し、自分たちの思うように世界を処分しようという寸法なのである。』と。

 そう述べた上で、スターリンソビエトの「対外政策」「対外政策の基礎となる主体力強化策」「党の任務」を次のように提起した。

 「ソビエトの対外・外交政策について」―民族独立闘争を支持し、帝国主義の戦争準備を暴露し、互いに実務関係を結べる国々とは正常な関係を結び、国境を接する国々とは互いに国境を尊重し合うこと。

 「ソビエトの対外政策の基礎としての対内政策について」―ソビエトにおける人民の団結、ソビエト権力の強化と拡大(注:経済建設と生産力増強も含む)、ソビエト赤軍の強化と国防力の強大化、政府の平和外交、万国の労働者との国際的団結を推し進めること。

 「ソビエトの党の任務について」―先の二つの政策実現を責任もって指導すること。そして、党が、あらゆる現実の分析と理論上の根拠に立って、「火中の栗を拾わされる」(注:自分の利益にならないのに、そそのかされて他人のために、即ち英仏のために危険をおかす)ことのないような革命的外交政策を展開すること、と。

 更にまた、スターリンは1931年2月に開かれた『産業の働き手第1回会議』の席上、第1次5ヶ年計画を総括し、レーニンの「戦争は仮借なきものであり、戦争は容赦なき峻烈さで問題を立てる。即ち、滅亡するか、それとも先進諸国に追いつき、且つ経済的にもこれらの国を追い越すか」「滅亡するか、或は全馬力をかけて前方に突進するか。歴史はかくの如く問題を立てている」を引きつつ、次のように訴えている。

 『少しばかり速度を緩め、運動を抑える事はできないだろうかという質問が時々なされるが、それはできない!速度を下げてはいけない!速度を引き留める事は落伍である!落伍者は殴られる。我々は殴られたくはない。断じて殴られたくない!…旧ロシアの歴史は遅れたために間断なくやっつけられた記録である。…我々は50年も100年も先進諸国から遅れている。この距離を我々は10年間で走り抜けねばならない。我々はこれをやり遂げるか、打ち潰されるか。…これは我々にかかっている!』と。

 第二次世界大戦独ソ戦前、当時のスターリンソビエトにとって、第1次・2次5ヵ年計画を一日でも早やく成功させること、ソビエトの経済力と国力を強めること、内部体制をより強固にすることが至上命題であり、その軍事・国防方針はあくまでも「防御的」であって、「他国を襲撃する」などもっての外のことであった。「我々は絶対に敵の挑発に乗ってはならない。平和を求め、ソビエトと友好を求める如何なる国とも不可侵条約を結ばねばならない」―ここにソビエト政府の外交・国防方針の核心があった。

  スターリンソビエト政府は、これらの方針を忠実に守り、忠実に実践、実行し、独ソ戦の準備に万全を尽くした。これは動かし難い事実である。

 実際、独ソ戦開始前、ソビエト政府は全力を挙げて「戦争準備」を進めている。そこには一かけらの油断も見られない。第1次・2次5ヵ年計画は既に完了し、第3次5ヵ年計画(1938年~1942年)は、1941年6月の開戦時には、工業生産計画予定の86%を達成済みとし、鉄道輸送計画は予定の90%が達成済みであった。特に国防産業部門は強行軍で推進され、スターリンはこの部門の工場長、主任技師、党組織者としばしば会見し、彼らを激励していた。また、敵の攻勢・侵入に備え、戦略的工業の各種工場は、ドイツ陣営と国境を接する西部から遠く離れた領内奥地、東部地域への移動、建設が推進された。1939年9月にはソ連邦最高会議は「全国民兵役義務法」を制定し、1940年6月には「8時間労働制・週7日制・勤務者の自由離職禁止」が公布され、更に次々と熟練工養成制度が創設された。

 当然のことながら、ソビエト赤軍の戦略的軍事方針もまた、あくまで防御を旨としていた。勿論、防御といってもフランス軍の「マジノ線」に表徴されるような「立てこもり防御」などではない。スターリンの片腕となって独ソ戦を指揮したジューコフ元帥の『回想録』(朝日新聞社・1969年刊)が明らかにしているように、主力軍を全て国境付近に配置するなどということはせず、国境から領内深さ100~150キロ以東(南西方面軍は国境から30キロ以東)に250万の兵力を配置し、残りの200万は国境から500キロ内側の地点に配置した。そして、その主要な作戦方針は、あのナポレオンと戦った「祖国戦争」におけるロシア軍の勝利の経験に学んだもので、反撃を加えつつ敵を内陸部に誘い込み、十分引き付けた後、主力部隊(と予備軍)が総力を上げて反撃を加える、というものであった。これは〝敵の挑発〟に乗せられないための、賢明で唯一正しい戦略配置・作戦措置であった。こうした防御的方針については、クラウゼヴィッツも『一般に防御は攻撃よりも強力であり…我々の確信するところでは、(正しい意味の)防御は攻撃よりも著しく強力であり、しかも我々がかいなでに(注:深く知らずに)想像するよりも遥かに強力なのである』と説いている。

  

 フルシチョフらは、スターリン死後、「参謀本部は、なぜ国内の主力部隊を動員して国境に配置し、直ちに敵を撃退しなかったのだ」などと非難攻撃し、「スターリン批判」を繰り広げているが、これに対し、参謀総長ジューコフは、その回想録で、『わが軍は、対戦車、対空両方面で敵に対抗するだけの実力はなかったし、また機動性にも乏しく、堰を切ってなだれ込んでくる強力な敵装甲部隊の進撃を支えられ得るものではなかった。国境警備の部隊がどんなに苦しい破目に陥っていたか、想像はついていた。しかし、もし主力部隊を国境に移していたら、その後、モスクワやレニングラード、南方で事態はどう進展していたか?』と明快に答えている。そして、前線の赤軍兵士たちも、国境に近い地元人民も、それだけでなく全国人民もまた、このこと、即ち、前線は、犠牲を恐れることなく、最大限の抵抗・反撃をもってドイツ軍に打撃を加え、侵入を遅らせ、時を稼がねばならず、この間に後方戦線・銃後は必要な戦争準備を急ぎ、主力軍はここぞという時に総反撃に移るのだという方針を、よく理解していた。スターリンと最高軍司令部も祖国防衛に決起した人民も、目前の戦術レベルの決戦ではなく、あくまでもこの戦争の将来を決する戦略レベルの決戦を見つめていたのである。

 マルクス主義者であるスターリンは、徹底した内因論者である。やがてやって来るであろう戦争の運命を決定するもの、それはソビエト国内の経済的、政治的、軍事的体制と人民の結束であり、「防御」を主とする軍事・国防方針であり、他国との「平和と友好」の外交方針、国際プロレタリアートの団結強化であることを、よく知っていた。かの「トハチェフスキーらの粛清」も対独戦の前哨戦であり、内部体制固めの一環であった。

 大木氏は、スターリンは「不愉快な事実」から目を背け、「戦争など起こって欲しくない。起こってはならない。起こるはずがないという現実逃避に近い願望」に捉われ、ドイツ軍の奇襲に対して必要な警戒措置を取らず、無防備のまま奇襲攻撃を受けることになったというが、そんな事実は何処にもない。

 

 「トハチェフスキーの粛清によって赤軍が弱体化された」という批判について 

 大木氏によれば、スターリンは1939年の「大粛清」によって、時代に先んじた用兵思想―「縦深戦」なる作戦術―を完成させたトハチェフスキー元帥を銃殺し、自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまい、赤軍を弱体化させてしまった、という。

 これも全く間違った批判である。だいたい、「時代に先んじた用兵思想を完成させた云々」も何も、トハチェフスキーは「ヒトラーと通じていた裏切り者」であったのだ! この事実については『独ソ戦の前哨戦としての「赤軍元帥トハチェフスキー粛清」』の項で詳しく述べた通りである。大木氏は、フルシチョフの「スターリンの粛清批判」をそのまま鵜吞みにし、何の疑問も持たずにその批判を踏襲しているだけである。

 独ソ戦は突然始まったことではない。「戦争は政治の継続である」とは、戦争前、既に熾烈な政治的戦闘が戦われている、ということを意味する。「赤軍元帥トハチェフスキー粛清」はまさに、独ソ戦争の前哨戦であった。既に紹介してあるが、さすがに知将マウントバッテンの洞察力は見事なものである。彼は、開戦前、既に、スターリンソビエト軍が「粛清」断行によってこの前哨戦に完全に勝利していることを見抜いており、ソビエトの完勝を予告し、結果その通りとなっている。

 フルシチョフの「粛清批判」をそのまま鵜吞みにしている大木氏は、『軍の脊柱は将校であるとは、しばしばいわれることである。もし、それ(トハチェフスキーらの粛清)が真実であるとするなら、スターリンは、自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまったことになろう。事実、大粛清の影響は深刻だった。…つまり、大粛清は、高級統帥、すなわち大規模部隊の運用についての教育を受けた将校、 ロシア革命後の内戦や対干渉戦争での実戦経験を有する指揮官の多くを、ソ連軍から排除してしまったのである。折しも、1938年に開始された第3次5ヶ年計画によって、物的準備は拡充の途上にあった。しかし、将校団が潰滅したとあっては、いかに兵器や装備を整えようと、精強な軍隊を保持することは望めない』などと言っている。彼にとって、「粛清は独ソ戦の前哨戦だった」などという見立ては思いもよらないことであったようだ。

 こういう「批判」に対する最良・最大の反論・反証こそ、独ソ戦におけるスターリン赤軍の圧倒的勝利である。その事実が、大木氏の「批判」―トハチェフスキー擁護―を完膚なきまでに粉砕している。

 その上で、かの有名な軍事理論家リデル・ハートが『第二次世界大戦』の中で語っている一文を、再度取り上げ、紹介しておこう。

 『ソ連軍の改革は上層部から始まった。当初からの高級指揮官を思い切って整理し、その後釜に大部分が40歳以下の、若い世代の活動的な将軍を登用した。彼らは前任者よりもいっそう専門家であった。かくしてソ連軍統帥部は平均年齢でドイツ軍のそれよりも、20歳近くも若返り、活動性と能力の向上をもたらした。…

 ソ連軍の戦車はどこに出してもひけをとらないばかりか、多くのドイツ軍の将校にいわせれば、最高のものであった。…戦車自体の性能、耐久性、備砲では最高度な水準に達していた。ソ連軍砲兵は質的に優秀であり、またロケット砲の大規模な開発が行われ、これがきわめて有効であった。ソ連軍のライフル銃はドイツ軍のものより近代的で、発射速度も大きく、また歩兵用重火器の多くも同様に優秀だった。…

 ソ連兵は、他国の兵なら餓死するときにも生きつづけた。ソ連軍は西欧の軍隊なら餓死するはずの環境にも生存でき、他の国の軍隊なら破壊された補給が再開されるまで停止して待つはずの場合にも、彼らは前進を続行することができた。このときの印象を、ドイツ軍のマントイフェル将軍(独ソ戦開始時、第七装甲師団長)はつぎのように要約している。「ソ連陸軍の進撃ぶりは西欧軍の想像を超えたものがあった。兵士はザックをひとつ背負い、その中に前進の途中、畑や村々から集めた乾いたパンの外皮や生野菜を詰め込んでいた。馬匹は家々の屋根わらを食べさせていた。ソ連軍は前進にあたって、このような原始的な訓練によっても長期の戦闘に慣れていたのである」と』

 まったくその通りである。いったい、どこに「赤軍の弱体化」の事実があるというのだ!

 更に、大木氏は「粛清による赤軍弱体化説」を吹聴しているだけでなく、「トハチェフスキーは“赤いナポレオン”と称されたソ連屈指の用兵思想家である」として天まで持ち上げて褒めたたえ、「独ソ開戦時のソ連軍のドクトリン(基本原則)はトハチェフスキーらが策定した卓抜なドクトリンであったが、いかんせん、粛清によってそれを使いこなす高級将校や現場指揮官が排除されてしまい、無謀な攻撃を繰り返すのみに終わり、その結果ソ連軍の大敗を招いた」などと述べている。

 その「卓抜なドクトリン」とは何か。『トゥハチェフスキーが完成させた「縦深戦」の構想とは―。空軍と砲兵、前線部隊の攻撃により、敵の最前線から中間陣地、さらに後方陣地までも、一気に制圧する。砲兵や前線部隊の手が届かぬ後方は、迅速に突破した戦車・機械化部隊、空挺部隊が押さえ、敵の再編成や予備兵力召致の阻止にあたる。このようにして、最初の打撃が成功したのちも、問断なく攻勢を続け、ついに敵国を屈服させるに至るのだ』という。

 スターリン赤軍司令部は、対独戦に向けて、こんなドクトリン、こんな基本原則(即ち戦略)など採用していないし、また、それは元々一つの戦術(攻撃方法)であって、戦略などではない。スターリン赤軍司令部の戦略はあくまで防御的戦略であり、敵の攻撃に反撃を加えつつ、敵兵力を大陸の奥へと引きずり込み、十分に引き付け、更に自然条件等も味方にして敵兵力を弱らせ、その上で機をみて戦略的反撃、総攻撃に打って出るというものであり、「トハチェフスキーが考え出したドクトリン」とは全く逆である。もし、戦闘中にそのような「ドクトリン」を実行に移したものがいるとすれば、それこそ重大な裏切りであり、軍規違反ものである。一言付言するなら、緒戦後、解任・処刑された西正面軍司令官パヴロフは、トハチェフスキーと同じロシア帝国軍人出身であり、同じような過程を経て赤軍司令官になっており、トハチェフスキーと無関係ではない。特に、緒戦の最前線におけるミンスクベラルーシ)の戦いにおいて、戦況に絶望したパブロフが、徹底反撃の指令を守ろうとせず、総司令部にミンスクの放棄と撤退を求め、6月26日には西方面軍司令部をミンスクから東方のボブルイスクに移転させ、各軍司令部との連絡を途絶させ指揮系統の寸断に拍車をかけたことは、重大な軍規違反であった。

 トハチェフスキーが完成させた「縦深戦」の構想、即ち「作戦術」について、大木氏自身、次のように語り、つまるところ、それが「戦術」でしかないことを自ら認めている。 

 『まず、戦争目的を定め、そのために国家のリソースを戦力化するのが「戦略」である。作戦術は、右の目的を達成すべく、戦線各方面に「作戦」、あるいは 「戦役」(正確な軍事用語としては、一定の時間的・空間的領域で行われる、戦略ないし作戦目的を達成しようとする軍事行動を意味する)を、相互に連関するように配していく。個々の作戦を実行するに際して、生起する戦闘に勝つための方策が「戦術」である。…作戦術はむしろ戦略次元の下部、もしくは戦略次元と作戦次元の重なるところに位置するものであることを強調しておきたい』と。

 大木氏は、この作戦術は「戦略次元と作戦次元の重なるところに位置する」などと言っているが、自らも認めているように、「作戦術」は「戦争目的」「戦略」を達成する手段であり、結局のところ「戦術」でしかないということである。こうした戦術は「空軍、戦車、機械化部隊、空挺部隊といった新しい時代の軍備」の登場によって必然的に生み出された戦術(攻撃方法)であり、ドイツの「電撃戦」、リデル・ハート推奨の「間接アプローチ」も本質的には同じ類の戦術である。

 クラウゼヴィッツが教えているように、戦術は戦略に奉仕してこそ意味もあり、価値もある。したがって、戦略―政治戦略・軍事戦略―から離れて戦術を論ずることはできないし、論ずる意味もない。

 

 「独ソ戦緒戦でソビエト軍は大敗した」という批判について

独ソ戦の緒戦でソビエトは大敗した」とよく言われるが、これは本当のことか? フルシチョフも大木氏も、当たり前のように、そう主張している。

 しかし、リデル・ハートはその大著において、『ドイツ軍は、ついに包囲の輪を閉じる試みには失敗した。この初期(注:独ソ戦開始からの九日間)の大包囲作戦の不首尾により、ヒトラーの短期決戦勝利の夢ははかなく消え去った』と断言している。さすがに戦略重視のリデル・ハートである。ヒトラーの「短期決戦勝利の夢」は消え去った、ヒトラーの戦略的軍事方針であった「短期決戦」は完全に失敗した、と断定している。

 少し長くなるが、リデル・ハートの大著『第二次世界大戦』を紐解きつつ、彼の独ソ戦の緒戦に関する記述を辿ってみよう。

 【 (一九四〇年)十二月五日、ヒトラーは東部作戦に関するハルダーの報告を受け、そして十八日『指令第二一号』《バルバロッサ作戦》を発令した。指令は次の決定的な一文に始まっていた。「わがドイツ国防軍は、対英戦終了以前にソ連邦を迅速な作戦により蹂躙する準備を進めるべし」。《…西部ロシアにおけるソ連軍を、戦車部隊による四個のくさびを敵陣内深く果敢に打ち込むことにより壊滅せしめるべし。戦闘能力を有する敵部隊の、広大なる敵領内への退却は阻止せねばならない。》…

 侵攻軍は三個軍集団分けられ、それぞれに以下のような作戦任務が当てられた。《北方軍集団》(レープ元帥〉は、東プロイセンからバルト海沿諸国経由レニングラードを目指す。《中央軍集団 》(ボック元帥〉はワルシャワ地区からモスクワ街道沿いにミンスクスモレンスクに突進入。《南方軍集団》(ルントシュテット元帥〉は、プリピャチ沼沢地帯南部を攻撃、 さらにルーマニアに戦火を拡大し、ドニェプル川およびキエフに向かう。

 このうち最大の力点は中央軍集団に置かれ、最強戦力を編成配備する。…

 (一九四一年)六月二十二日、日曜日の朝まだき、北はバルト海沿岸から南はカルパチア山脈に至る広大な戦線において、くつわを並べ満を持していたドイツ軍三個軍集団は怒濤の進撃を開始し、またたく間に国境を越えて突き進んでいった。…

 ドイツ軍首脳は、装甲集団の活用に戦いの帰趨がかかっていることに全員異論はなかった。しかし、その使用方法に関しては意見が分かれ、その理論の衝突は深刻な影響を及ぼすことになった。

 一部の指揮官は、国境突破後すみやかに古典的な包囲戦(注:正統派的作戦)による決戦を挑み、ソ連軍を壊滅させることを主張した。…敵主力軍を撃破しないうちに領内深く侵人する危険を懸念した彼らは、いっそう強くこの理論に肩入れした。そして確実な成果を収めるには、装甲集団は歩兵軍団に協力し両側面から内側へと挟撃体制で旋回し、敵部隊後部を封鎖して包囲戦を全うすべきであると強調した。

 グデーリアン将軍を長とする戦車専門家らの考えは、根本的に異なっていた。彼らはすでにフランス戦で立証済みの方法により、装甲車集団をできうる限りの速度で深く浸透するのを求めた。 グデーリアンは、自分の第二装甲集団とホートの第三装甲集団は、時を移すことなく首都モスクワに向かってできる限り迅速に直進し、少なくともドニェプル川の線に到達してからはじめて内旋回すべきである、と主張した。

 この理論の衝突は、ヒトラーの断によって正統派が勝ちを占めた。…ヒトラーは…彼自身の強い幻想に取りつかれていた。赤軍の大兵力をひとつの巨大な輪の中に封じ込め一網打尽にするという想念に起因した決断であった。

 この幻想が鬼火となって、彼をロシア領内深く深くへといざなっていった。第一次、第二次攻勢は不成功に終わったからである。三回目の攻勢により大量の捕虜こそ得たが、ドニェプル川のはるか向うにまで引き込まれていた。そして第四次攻勢では五〇万のソ連軍兵士を罠に掛けることに成功したが、厳しいロシアの冬が到来し、ドイツ軍は敵正面に生じたすき間を拡大することができなかった。これらはそれぞれ華々しい戦闘であった。しかし、挟撃のはさみを開き閉じる操作に時間がかかりすぎ、戦術意図の達成に努力している間に、戦略上の目的を遂げることができなくなるという結果をもたらしたのである。…

 ‶理論の衝突〟が正統派戦略に有利に決着したため、ドニュエプル川到達以前にソ連軍主力部隊を一網打尽にして全滅に追い込むための大包囲作戦が立案された。これにはボック(中央軍集団下)の第四軍、第九軍の歩兵軍団による小範囲包囲作戦と、その外側においていっそう深く浸透したのち内側へ旋回する(第二、第三)装甲集団のさらに広範囲な包囲作戦が含まれていた。…

 中央軍集団は…各地点で深い漫透に成功した。二日目には、右翼の装甲部隊がブレスト=リトフスクの先四〇マイルのコブリンに達し、また左翼もグロドノの要塞および鉄道の要衝を占領した。…しかし、ソ連軍は頑強このうえない抵抗を示し、前進は妨げられた。ドイツ軍は機動作戦においては、優位に立ったが、戦闘で敵を撃ち負かすことはできなかった。包囲されたソ連軍は時には降服を余儀なくされたが、それとても長い抵抗を行なったあげくであり、また戦略的に見込みのない状況にありながら彼らは愚鈍とも思える執拗さを見せた。そして、これが攻者の計画の遂行に重大な妨げとなった。交通連絡網の不便なロシアの国土にあっては、この前進の遅滞がさらに重大な結果を招ことになった。

 緒戦のブレスト= リトフスク攻撃時に、早くもその影響が生じていた。この古い歴史をもつ城砦の守備軍は、陸空からの集中砲爆撃にもかかわらず一週間も持ちこたえ、ドイツ軍急襲部隊に甚大な損害を与えたのちようやく屈服した。その後も繰り返されることになったこの最初の苦い経験が、今後の戦局展開に対するドイツ軍将兵の眼を見開かせた。各道路中枢でドイツ軍は強い抵抗に出会い、道路以外は前進不可能な補給縦隊の予定経路がふさがれたために、迂回行動に大きなブレーキが掛けられてしまった。…

 両翼の主力装甲部隊は一〇〇マイル以上を踏破し、一九三九年当時のソ連国境を越え、(注:独ソ戦開戦の日である一九四一年六月二二日から)九日目の六月三十日、ミンスクを攻略してその先で内旋回を行なった。同夜、広く拡散したグデーリアンの先遣部隊のひとつがミンスク南東九〇マイル、ドニェプル川から四〇マイル足らずのボブルィスク付近で、 史上名高いベレジナ川に到達した(注:ナポレオン軍は‶冬将軍〟の到来でモスクワから撤退、ロシア軍の追撃を受けて西方へ後退、ベレジナ川東岸に追いつめられ、包囲全滅の危機に見舞われた)。しかしドイツ軍は、ついに包囲の輪を閉じる試みには失敗した。この初期の(注:開戦からわずか9日間の最初の攻撃の機会における)大包囲作戦の不首尾により、ヒトラーの短期決戦勝利の夢ははかなく消え去った。…ベレジナ川はかつてのナポレオン軍の後退を阻んだと同様、ヒトラーの前進を阻止した。

 大包囲作戦の挫折は、今やドイツ軍総司令部を刺激して、従来は彼ら自身が避けたいと望んでいたドニェプル川以遠への前進に着手させることになったのである。】 

 以上が、リデル・ハート独ソ戦の「緒戦」の戦況分析である。

 リデル・ハート独ソ戦の戦術面ではなく戦略面を重視して戦況を観ている。それ故、ドイツ軍の緒戦の奇襲による戦術面の勝利などは評価せず、ヒトラーとドイツ軍の「戦略目標の未達成」をこそ問題にし、短期決戦戦略を目指したドイツ軍の敗北(大敗)と断定しているのである。

 リデル・ハートの念頭にあるのは、クラウゼヴィッツの次の指針であろう。

『戦争指導は…第一は、個々の戦闘をそれぞれ按排し指導する活動で動である。そして前者は戦術と呼ばれ、後者は戦略と名付けられるのである」「戦略の旨とするところは、戦争。そして前者は戦術と呼ばれ、後者は戦略と名付けられるのである」「戦略の旨とするところは、戦争とっては勝利、即ち戦術的成果は、もともと単なる手段にすぎない』『戦略は軍にあるのではなくて内閣にある』(内閣そのものが大本営と見なされる場合)。

 ここであらためて、ドイツ政府首領・ナチス党党首・ドイツ軍最高指揮官ヒトラーの政治戦略とは何であったのかを振り返ってみよう。それは「東方・ロシアの地にゲルマン民族の生存圏を獲得すること」―これこそが至上命題であり、武力戦争によってそれを実現することこそがその最大の政治目的であり、「総計画」であった。すなわち、それは「ボルシェビキ支配からロシア国民を解放する」などというものではなく、「ボルシェビキ支配を打倒・粉砕し、社会主義者を抹殺し、ロシア国民をナチス・ドイツ支配下に置き、奴隷として酷使し、ロシアをしてドイツの植民地たらしめる」というものであった。

 したがって、ヒトラーは、どうしても「ロシア民族を完膚なきまでにやっつけ、その戦意を粉々に打ち砕き、戦意を喪失させ、完全に抵抗力を骨抜きにする」必要があった。そこで、ヒトラーナチス・ドイツは、北方、中央、南方から一気に攻め入り、ソビエト中枢と主力軍を一気に包囲・殲滅し、首都モスクワを占領・支配し、ロシアをわがものとすべく、ドイツ軍団の総力を挙げて〝乾坤一擲〟の大勝負を仕掛けたのであり、あくまでも奇襲的短期決戦で勝利することがその戦略定目標であった。そのための戦術の一つが集中的電撃的攻撃であった。それは、先兵として大量の戦闘機・空軍部隊を送り込み、敵の軍事基地・都市に集中的爆撃を加え、その後に大量の戦車・機械化部隊と歩兵部隊を繰り出し、一帯を占領・支配する。こうして一気に目標を破壊し、敵の戦意を挫き、戦意を喪失させ、敵地を占領・支配するという攻撃方法であり、こうした戦術を駆使しつつ、赤軍の大兵力・主力軍をひとつの巨大な輪の中に封じ込め一網打尽にする。その上で、首都モスクワを占領支配する、というのがヒトラーの軍事戦略であった。

 このように、ヒトラー独ソ戦、特に首都モスクワ攻略戦を「短期決戦」としたのは、ロシア特有の難敵‶冬将軍〟が襲い掛かる前に決着をつける必要がある、と判断していたからでもあった。かつての「祖国戦争」におけるナポレオン敗北の教訓は、ヒトラーもこれをよく学んでいた。そして、ヒトラーはこの「奇襲的短期決戦」の勝利を確信(盲信)していた。その証拠に、ドイツ軍の補給体制は杜撰であり、準備不足が目立ち、特に冬季用装具の必要性はほとんど考慮されていなかった。

  独ソ戦開戦前、ヒトラーは「我々はドアを蹴破りさえすればよい。そうすれば、あのちゃちな建物はひとたまりもなく崩れ去ってしまうだろう」と豪語し、外相リッペントロップもまた松岡外相に「もしも独ソ戦争になれば2、3ヵ月で片付いてしまう。ドイツは対ソ戦で日本の援助など夢にも考えていない」とうそぶいていた。奇襲攻撃によって得られた緒戦のほんの一時の「勝利」に酔い痴れた前線のドイツ軍将兵も「ロシアとの戦争は1カ月足らずで終わるだろう」と楽観視していた。

   しかして、こうした見方は、何もヒトラーとドイツ軍将兵の「専売特許」ではなかった。チャーチル始め英米の政府・軍首脳、軍事専門家、海外情報機関、国際世論もまた同様に、「ソビエト赤軍の崩壊、敗北は時間の問題」「短期間でのソ連の敗北必至」としていたのである。そうした判断の根拠は、「トハチェフスキー元帥始め大量の赤軍幹部・将校を逮捕、解任、処刑するという粛清によって赤軍は壊滅的打撃を受けている」というものであった。しかし、現実はそうはならなかった。

 リデル・ハートが断定しているように、ヒトラーナチス・ドイツ軍にとって、初期の大包囲作戦の不首尾により、短期決戦勝利の夢ははかなく消え去ったこと。これは、ヒトラーの戦略計画から見れば、単なる敗北」ではなく、「戦略的敗北」であり、「大敗」であり、事実上、この緒戦で「独ソ戦におけるヒトラーナチス・ドイツの運命」(敗北の運命)が決したとも言えよう。

 ただ、リデル・ハートの戦況分析にも問題はある。彼は、緒戦におけるソビエト赤軍兵士と赤軍部隊の素晴らしい戦いぶりにしばしば触れてはいるが、スターリンの政治戦略、軍事的戦略についてはほとんど触れていない。そして、ドイツ軍敗北のその理由(らしきもの)を、次のように説明しているのである。

 【 独ソ戦における戦闘の成否は戦略や戦術よりも、国土の広さ、兵站の問題、部隊の機械化の程度いかんにかかっていたといえる。作戦上の一大英断が時として重大な要因であったことはもちろんだが、より基本的な要素である広大な国土、機械化の優劣問題に比較すれば、それはあくまで副次的なものであることを免れない。】

ヒトラーソ連侵攻失敗の根本的原因は、ソ連の指導者スターリンが広大な領土の深みからどれだけの予備軍を繰り出すことができるかについて、予測を誤った点にあった。この点では参謀本部とその情報部は、ヒトラーと同じ誤りを犯していた。…僕秀な技術と訓練を誇るドイツ軍は、連続的大包囲戦においてソ連軍撃破に成功したとはいえ、結局は秋の泥濘の中へのめり込む羽目となったのである。】

 つまり、ドイツ軍の緒戦の敗北は、スターリンソビエト軍司令部の優れた指揮の結果というより、ドイツ軍の機動力が「国土の広さ」「泥濘」によって不発に終わった結果であり、ヒトラーとドイツ軍の「ソ連予備軍予測の誤り」であった。いわば、ヒトラーとドイツ軍の「自滅」であった、というのである。彼らを自滅に導いた最大の要因、スターリン赤軍司令部の戦略的方針と戦闘について、誇りある英国軍人にして反共的思想の持ち主であったリデル・ハートはあまり語りたがっていない。

 また、緒戦におけるドイツ軍の大敗を認めていない大木氏は、オーストラリアの研究者デイヴィッド・ストエールの「独ソ戦に関する画期的な新説」なるものを引き、こう主張している。

 『兵站システムの決定的な過重負担、装甲ならびに自動車化歩兵師団の疲弊といったことは、ワーテルローやタンネンベルクなどといった歴史上の例に比べれば、敗北をはかる上では、取るに足らない物差しにみえるかもしれない。が、それは、根本的で、最後には破滅をもたらす敗北に通じていた。ドイツが「バルバロッサ」作戦に失敗したのは、大戦闘で惨敗したことによるのでもなければ、ソ連軍の善戦故というわけでもない。彼らは、戦争に勝つ能力を失うことによって失敗したのである』と。

 つまるところ、バルバロッサ作戦の失敗―ドイツ軍の独ソ戦敗北―は、自滅であった、戦術的失敗・ミスの積み重ねの結果であった、というのである。大木氏が語っているのは、結局のところ戦術レベルの勝敗でしかない。

  独ソ戦に備えた、スターリンソビエトの政治戦略、軍事戦略はどういうものであったのか。これについては、前項で述べた通りである。また、反撃しつつ敵軍を領内奥深くに引きずりこみ、機を見て総反撃を加えるという軍事的戦略方針は、当然ソビエトの「国土の広大さ」「機動力を奪う秋冬の自然的条件」等を踏まえたものであり、ドイツ軍の自滅は決して単なる自滅ではなかった。

 『第三帝国の興亡』の著者シャイラーによると、ドイツ軍の参謀本部情報局長であったクルトは戦後に著した『第二次世界大戦史』の中で、こう語っている。

『全戦線に亘って、激しい戦闘が7月3日まで続いた。ロシア軍の後退速度は非常に緩慢で、敵陣を突破したドイツ軍戦車隊は、しばしば痛烈な反撃を受けた。…ドイツ軍は、今までのどの戦場よりも遥かに複雑で困難な戦場で闘わねばならなかった。われわれは、敵の頑強な抵抗や逆襲して来るおびただしい戦車の数に驚かないわけにはいかなかった。これは無情な鉄の意志をもった敵なのだ。その上、敵の作戦は極めて巧妙であった。…ロシア軍は、たとえ包囲されても、驚くほど頑強に、粘り強く闘い、崩れなかった。彼らはこれによって時を稼ぎ、はるか後方から予備軍を投入してドイツ軍に反撃を加えて来た。…敵は信じられないほどの抵抗を示した』と。

 どうして自滅などと言えよう。

 赤軍の総参謀長ジューコフは、この一連の戦闘の経緯・事情について、回想録の中で次のように語っている。

 『ドイツ軍総司令部は開戦当初から、予期に反して、すべての計画を順調に進めることができなかった。ドイツ軍がそれまで連戦連勝していたにもかかわらず、どうしてヒトラー指導部の企図はつぎつぎと挫折していったのか、歴史家たちはその原因を考察してみる必要があろう。結局、この原因のためにドイツはもっと重大な結末をまねくことになるのだが…。

 ソ連領土に踏み込んだファシスト軍は、一体何につまずいてそれまでの電撃的な進撃速度を鈍らせてしまったのだろうか? それはソ連将兵の英雄的精神、不屈の敵概心であり、ソ連国民の偉大な愛国心であった。相手にまさる装備をもつ軍隊が急速に戦意を喪失して逃走してしまった例は、歴史上少なくない。軍隊の装備と士気が戦闘で果す役割を明確に規定することは誰にもできないが、次のことだけは断言できる。すなわち、大規模な戦争で両軍の装備と兵員数が同じ場合に最後に勝利を収めるのは、 勝利への執念に燃えて一つの旗の下に堅く結束している軍隊である、ということである』と。

 われわれは、あらためて、クラウゼヴィッツが『戦争論』に記した、『政治的目的(注:スターリンの政治戦略をみよ!)が大衆を動かすほどに大衆に大きな影響を与えると考えるならば、われわれは政治目的を力の尺度として認めることができる。…軍事的行動を強化あるいは弱化させる原理を大衆の内に見出すか否かによって、政治的目的による結果がまったく異なることは言うまでもない。両方の国民と国家間にこのような緊張があり、敵対要因が蓄積されると、戦争の政治的動機自体は極めて小さくとも、その性格を遥かに越えた作用を及ぼし、本物の爆発を生み出すことがある』『いかなる勝利でも、それから生じる精神的効果を考慮に入れない限り、とうてい説明せられるものではない。…刀剣に譬えれば、物理的原因及び結果は木製の柄であり、精神的原因及び結果は精鋼からなる刀身であり、磨ぎ澄まされた白刃である』との指摘の正しさを、ここで再確認しておこう。

 

 なお、フルシチョフはその『秘密報告』で次のような「スターリン批判」を展開している。『スターリンは、最初の重大な失敗と戦線における敗北の後、万事休すと考えていた。その後、スターリンは長い間、実際に軍事活動を指導せず、一般に活動を止めてしまった』と。大木氏はこの説を取り上げていないが、巷間広く流布されているこの「批判」について、次の二人の証言を紹介しておこう。

ジューコフはその『回想録』できっぱりと、次のように反論している。

『1941年6月22日に入ろうとする深夜、参謀本部と国防人民委員部の全勤務員に対して、職場に居残るようにという指令が下された(注:勿論スターリンによって)。一刻も早く、各軍管区に対して、国境警備隊員を戦闘配置につかせるよう伝達する必要があったのである。…全ての報告が、刻一刻とドイツ軍が国境に近付いて来ていることを伝えていた。このことについて、われわれは深夜零時半にスターリンに報告した。スターリンは、軍管区に指令を出したかどうかを尋ねたので、私は処置済みであることを報告した。スターリン死後、6月22日早朝に、若干の司令官や参謀部員は、何も知らず気楽に眠っていたとか、のんきにはしゃいでいた、というような説が伝えられた。しかし、それはまったく実情に沿わない』と。

  更に、先にも登場願った独ソ戦史の研究家・山崎雅弘氏は、『新版・独ソ戦史』において、次のような、注目すべき事実を明らかにしている。

独ソ戦開戦直後のスターリンの動向について――独ソ戦史の研究では、長い間、ドイツ軍の侵攻にショックを受けたスターリンが呆然自失の状態となり、丸々1週間近くも指導部の実務から離れていた、と信じられて来た。これは、スターリンの政治的後継者であるフルシチョフが「スターリン批判」の文脈で述べた説明を、多くの歴史家がそのまま鵜呑みにした結果であるが、ソ連崩壊後に進んだ研究により、そのような説明はまったく事実に反するものであることが確認された。例えば、パヴル・スドプラトフ、アナトリー・スドプラトフ著の『KGB―衝撃の秘密工作』の巻末には、1941年6月22日から28日のクレムリンへの要人来訪を記した公式記録が収録されているが、スターリンは独ソ開戦の6月22日以降も、何故か表舞台に出ないよう配慮しながら(注:開戦直後に組織された最高軍司令部の長は、形の上ではスターリンではなく、国防人民委員であったティモシェンコだった)、党要人や軍の最高幹部に応対し、各方面からの報告を受けるなどの実務をこなしていたことが確認できる』と。

  これ以上の説明は不要であろう。

 

 

 

 

 

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~  (第7回) 

    2022930日更新  次回更新は1010

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ― 

 まずは大木氏の見解を聞こう。

 大木氏は『総統アドルフ・ヒトラー以下、ドイツ側の指導部が、対ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等人種」スラヴ人を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボリシェヴィズム」との闘争と規定したことが、重要な動因であった。彼らは、独ソ戦は「世界観戦争」であるとみなし、その遂行は仮借なきものでなければならないとした』と基本的に正しく規定した上で、『そうした意図を持つ侵略者に対し、ソ連の独裁者にして、ソヴィエト共産党書記長であるヨシフ・V・スターリン以下の指導者たちは、コミュニズムナショナリズムを融合させ、危機を乗り越えようとした。かつてナポレオンの侵略をしりぞけた一八一二年の「祖国戦争」になぞらえ、この戦いは、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」であると規定したのだ。これは、対独戦は道徳的・倫理的に許されない敵を滅ぼす聖戦であるとの認識を民衆レベルまで広めると同時に、ドイツ側が住民虐殺などの犯罪行為を繰り返したことと相俟って、報復感情を正当化した』とし、エレンブルグの対独宣伝はその最大の証である、と断定する。

 そして、更に、こう主張する。『ウクライナや旧バルト三国では、ドイツ軍はスターリン体制からの解放者として歓迎された。また開戦半年の間に数百万のソ連将兵が捕虜になったのは、スターリニズムに対する一般的な拒否意識の表れだったとするのは、おおかたの西側研究者が同意するところである』と。

 更にまた、『この「大祖国戦争」の名は、ドイツ 軍侵攻の翌日、一九四一年六月二三日の共座党機関紙「プラウダ」に発表された論説に初めて現れ、すぐに対独戦の公式呼称となった。この呼称は、スターリニズムへの嫌悪を抑えるとともに、 ロシア革命以来、共産主義政権が達成してきた工業化や生産水準向上などの成果を訴え、そうした果実を生み出した体制と祖国とを同一視させるメタファー(注:あるものごとを言いあらわすのに,その名称をもちいず、それと類似した異種のものの名称をもちいて暗示的に表現する方法)であった。つまり、ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合されたのだ』と主張する。

   そして、こう結論づける。「ナチス・ドイツスターリンボリシェビキも、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすナショナリズム―偏狭な民族主義―を戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、「世界観戦争」としてのこの戦争の本質がある」と。

 即ち、大木氏はここで、「スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ―」の問題点について、次の4つの問題を提起しているのだ。

 第1の問題。「大祖国戦争」呼称の「祖国」はナショナリズム民族主義的呼称である、ということ。

 第2の問題。「スターリニズムに対する拒否意識」は一般的なものであった。ウクライナと旧バルト三国ではドイツ軍が「解放者」として歓迎されたこと、独ソ戦開戦半年で大量の捕虜が生まれたこと等がそれを裏付けている、ということ。

 第3の問題。「大祖国戦争」の呼称は「ナショナリズム共産主義体制の擁護を融合」させ、一般国民の「スターリニズムへの嫌悪」を失くさせるメタファーであった、ということ。

 第4の問題。スターリンソビエトは「ドイツ人、ドイツ民族の絶滅」を目指し、「非道徳的・非倫理的」な民族的憎悪を煽りたてた。作家エレンブルグの対独宣伝はその最たる証だ、ということ。

 結論から言えば、大木氏のこの四つの問題提起は根本的に間違っており、反共・反スターリン主義の「たわごと」である。また、何よりも問題なのは、大木氏が「スターリンソビエトイデオロギー」を論じながら、戦前あるいは戦争中に行ったスターリンの報告・演説を何一つ正面切って取り上げていないことである(まさかそうした資料をまったく読んでいないということではあるまいが)。これはおよそ天下の岩波書店が新書として世に出すべき書籍では到底ありえない。草葉の陰で岩波茂雄も泣いていよう。

 

 第1の問題は極めて重要な問題である。マルクス主義者―勿論スターリンマルクス主義者であった―は、「国家」「国民」「祖国」の概念を、極めて厳密に、階級的に捉える。つまり、それがブルジョア的「国家」「国民」「祖国」なのか、プロレタリア的人民的社会主義的「国家」「国民」「祖国」なのか、階級的に明確に区分・区別する。

(注:人民の概念は労働者・農民・中小商工業者・知識人など、権力支配者たる独占資本・財閥以外の存在をその内容としている)

 マルクス主義社会主義思想が理解できない人、大木氏のような反共的な哲学・歴史観の持ち主にとって、こうした区別は非常に難しい問題であるに違いない。

 大木氏は、スターリンソビエト政府が、独ソ戦争を、あのナポレオン軍を撃退した英雄的戦争に因んで「大祖国戦争」と公称したことを取り上げ、まるで鬼の首でも捕ったかのように、ここに非道徳的・非倫理的な「ナショナリズム」がある、と声高に触れ回っている。しかしながら、ここで問題なのは「祖国」「大祖国」のその具体的中身である。

 レーニンも、対ロ干渉戦争の時代、「祖国防衛」のスローガンを採用している。

『数千万の労働者と農民…は、この息つぎ(ブレスト講和による休戦)の1週間ごと、1ヵ月ごとに、新しい力を汲み取っていること、自分がソビエト権力を強化していること、不動なものにしつつあること、新しい精神を持ちこんでいること、…外部の力がソビエト社会主義共和国に襲いかかる時には、最後の決戦に応じようとする毅然たる態度と覚悟のできた状態を、自分が創り出しつつあること、を知っている。われわれは、1917年10月25日以後は祖国防衛論者である。…われわれが擁護しているのは秘密条約ではない。…われわれが擁護しているのは大国的地位ではない。…また民族的利益でもない。われわれは、社会主義の利益・世界的社会主義の利益が民族的利益・国家の利益に優先することを主張する』(1918年5月の全ロシア中央執行委員会とモスクワ・ソビエトの合同会議における演説)。

 一方、レーニンは、こうも言っている。

『世界支配をめぐり、他民族の隷属化をめぐって戦っている大国(レーニン注:大略奪者と読め)のいう、防御戦争とか祖国防衛とかいう文句は、すべて偽りであり、無意味であり、偽善である!…バーゼル宣言(1912年に第2インターのすべての社会主義者が署名した帝国主義戦争反対の宣言)は、1914~1915年の戦争で「祖国擁護」を認めたりするような社会主義者が、口先だけの社会主義者であり、実際には社会排外主義者であることを、証明している』(1915年に執筆し、1924年に発表された『日和見主義と第2インタナショナルの崩壊』)。

 レーニンは、一方で『われわれは、1917年10月25日以後-10月社会主義革命勝利以後-は祖国防衛論者である』と言い切り、他方で『大国(大略奪者)のいう防御戦争とか祖国防衛とかいう文句はすべて偽善である』と言い切り、第2インター内の日和見主義者が持ち出したスローガン「祖国防衛」「祖国擁護」を徹底的に批判し、その裏切りを厳しく暴露・非難している。祖国は祖国でも、前者と後者ではその内容・中身が全く異なる。正反対である。

 マルクス主義創始者であるマルクス(とエンゲルス)は、1948年に発表された『共産党宣言』において、次のように述べており、ここに、「祖国」を論ずる場合の拠って立つべきマルクス主義の原則がある。

 『共産主義者は、祖国を、国民性を、廃止しようとしているといって非難されている。

労働者は祖国を持たない。持っていないものをとりあげることはできない。プロレタリアートは、まずもって政治的支配を獲得して、国民的な階級の地位にのぼり、みずからを国民としなければならないという点で、ブルジョアジーのいう意味とはまったく違うが、それ自身やはり国民的である。…ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、 内容上ではないが、形式上は始めは一国的である。どの国のプロレタリアートも、当然、まずもって自分の国のブルジョアシーをかたづけなければならない』と。

 現代資本主義の世界では、諸民族、諸国民は、それぞれ歴史的に(人為的に)形成された行政的区分としての「国」(国民国家、民族国家、あるいは祖国)に属し、社会的・経済的・政治的生活を送っている。大資本家階級にとって、それは他国・他民族の大資本に対して自らが独占的に支配する「国」(領地・領土)であり、そういうものとしての内容と実態を持った存在である。しかし、労働者階級にとって、それは、単なる形式としての「国」「祖国」「国民性」に過ぎない。資本によって搾取され収奪される賃金奴隷としての労働者階級は、世界中のどこの国でもまったく同じ境遇に置かれており、互いに対立し合う理由は何もなく、労働者階級に国境はない。「万国の労働者団結せよ!」のスローガンの意味はここにある。そういう意味において、労働者階級には「国」も「祖国」も「国民性」も無い。しかし、実際の政治生活・社会生活においては、労働者階級も、この形式的存在を無視することはできない。そして、ロシア革命以後、社会主義国が生まれ、「社会主義的祖国」が生まれた。それ故、階級的な内容と形式をきちんと区分し、「祖国」「国民性」という言葉を使わねばならないのである。重要なことは、「祖国」のその階級的中身を明確にしなければならない、ということである。

 レーニンが対ロ干渉戦争において、「祖国を守れ!」のスローガンを採用したのと同様に、スターリン独ソ戦争を戦う上で、『わが国は強いられた戦争のために、もっとも兇悪・狡猾な敵、ドイツ・ファシズムとの決死の格闘に入った。…赤軍将兵の勇敢さは比類がない。敵に対するわが反撃は強化し増大しつつある。赤軍と共に全ソビエト国民は祖国防衛のために闘っている』と宣言している(1941年7月の「ラジオ演説」)。

 「大祖国戦争」との呼称の採用にはそれなりの意味がある。「大祖国戦争」のスローガンを採用することによって、民族的ではあるが英雄的な歴史的戦争、ナポレオン軍を撃退したあの「祖国戦争」の記憶を呼び覚まさせ、そうした記憶を動員するべく、誇りある「社会主義祖国」の防衛の戦争を「大祖国戦争」と呼称し、反ファシズム戦争の戦力増強を図らんとしたのである。社会主義ソビエトプロレタリアートは、ドイツファシズムに対し、自らが主力となって戦いつつ、あらゆる勢力とあらゆる種類の記憶・戦力を総動員し、更なる増強を図った。それは間違いか? 正しい当然の措置であろう。

 独ソ戦の最中、ソビエトを訪れ、取材した米ジャーナリストのエドガー・スノーはその著『ソヴィエトの型態』(1946年 時事通信社)で、次のような報告を行っている。

 『一九四四年十二月十一日付の「プラウダ」紙によれば、イワン雷帝は現実には「国家の分割を志向する反動的な封建貴族に対する進歩的で建設的な国策」の指導者であつたということだ。同じ傾向は新聞界や講壇、科学研究所でも顕著となった。昨年はソヴェト時代以前の発明家や科学者、技師等の世界知識に対する寄与に関心を向けるために特別の会議が召集された。…一九四四年十二月にイヴォリューク博士がリガ国立大学で行った「ロシア古典哲学の普遍的歴史的重要性」に関するような講義は、…(かつての時代には)全然不可能だったろう。

 とはいえ、以上の事態をもって、ソ連ではマルクス主義が衰え始めたとか、ロシアの過去に対する新しい讃美の風潮が旧時代の経済政治体制への復帰を意味すると結論するならば、これに過ぎる謬見はない。それどころか、かかる傾向は党の自信と安定感がいよいよ強化されていることを示すものと思われる。党はもはやこれらの根を承認することが社会主義の樹そのものを枯らすとか、 或はそれを再びブルジョア資本主義的反動の樹木に変貌せしめるなどと危惧しない。むしろ、国家の毀し難い文化遺産のなかに、ソヴェト体制をはぐくみ保護しうる社会の生命の根を見出しているのだ』と。

 こうした新しい対応や事態の背景には、第二次世界大戦を「ソ英米仏反ファシズム連合」として戦うという歴史的要請もあった。過去のあらゆる「歴史的遺産」を正しく評価し、現代の戦いに奉仕させることがぜひとも必要であった。

 いずれにせよ、大木氏は「祖国」の階級的な用法が理解できないでいるようだが、「大祖国戦争」のスローガンの下に戦ったソビエトの労働者階級と人民、赤軍兵士たちは、この「大祖国戦争」の意味を正確に理解し、自覚し、至る所でこのスローガンを掲げて戦った。

 

 序でに、ここで、ソビエト連邦政府の民族政策について触れておこう。

ソビエト連邦は、アジアとヨーロッパにまたがる世界最大の多民族国家であり、その面積は地球の全陸地面積の6分の1弱を占め、アメリカ合衆国の約2.4倍、日本の約60倍に相当し、国内には100以上の民族が住んでいた。帝政時代には、当然民族的対立もあり、ユダヤ人に対する差別・迫害もあった。それ故、レーニンスターリンボリシェビキ党は、革命前から、民族問題についてしばしば触れており、革命後、その民族政策は社会主義ソビエトのものとなった。

 レーニンは1914年に執筆し、1924年に発表した『民族政策の問題によせて』において次のように宣言している。

 『われわれ社会民主主義者(当時の共産主義者のこと)は、あらゆる民族主義の敵である。…われわれは、他の諸条件が同じなら大国家が小国家よりかはるかに成功的に経済的進歩の諸任務や、プロレタリアートブルジョアジーとの闘争の諸任務を解決できることを、確信している。しかし、われわれが尊重するのは、自由意志にもとづく結合だけであって、けっして暴力によるそれではない。われわれは、ぜがひでも各民族は分離せよと宣伝するのではけっしてないが、諸民族間の暴力による結合が見られるいたるところで、各民族の政治的自決、すなわち分離の権利を無条件に、きっぱりと主張する 。こういう権利を主張し、宣伝し、承認することは、民族の同権を主張することであり、力による結合を承認しないことであり、どの民族であろうと、ある民族が国家的特権をもつことにすべて反対してたたかうことであり、 さまざまな民族の労働者のなかに完全な階級的連帯をそだてあげることである。 さまざまな民族の労働者の階級的連帯は、暴力による結合、封建的な結合、軍事的な結合を、自由意志にもとづく結合と取りかえることによって利益をえる。…われわれは言う、どの民族のどのような特権でもなく、諸民族の完全な同権とすべての民族の労働者の結束および融合、と』。

 ソビエト連邦は、10月革命が勝利し、対ロ干渉戦争に勝利した後、1924年スターリンが決裁したソビエト憲法に基づいて、この民族自決権と連邦制を実現させた。グルジアアルメニアアゼルバイジャンなどの少数民族も、ロシア・ウクライナ白ロシアなどの民族が先に加盟していたソ連邦への参加を決定し、フィンランドポーランドバルト三国などはその自由意思が尊重され、自決権が行使され、 独立国家を形成した。これがマルクス主義にもとづく正しい民族自決権と連邦制であり、この制度が1936年の『スターリン憲法』に引き継がれていったのである。

 ユダヤ人問題について、スターリンは、1931年1月、JTA(ユダヤ電報通信社)が送った「ヒトラー反ユダヤ主義について如何に考えるか」という質問に寄せた回答の中で、明確に語っている。

 『ご質問にお答えします。 民族的および人種的排外主義は、食人時代に特有の人間的憎悪的な風習の残存物です。人種的排外主義の極端な形としての反ユダヤ主義は食人主義のもっとも危険な残存物であります。反ユダヤ主義は、搾取者にとっては、資本主義を勤労者の打撃からまぬがれさせる避雷針として好都合なものです。だが、反ユダヤ主義は、勤労者にとっては、正しい道から迷わせてジャングルへ連れ込ませる偽りの小路として、危険なものです。だから首尾一貫した国際主義者である共産主義者は、反ユダヤ主義の和解することのない仇敵たらざるをえません。ソ同盟では、反ユダヤ主義ソビエト体制に対する奥底からの敵対的な現象として、法律によってもっとも厳重な追及を受けます。積極的な反ユダヤ主義者は、ソ同盟の法律に従って死刑に処せられることになっています。  1931年1月12日 イ・スターリン』と。

 当然のことながら、スターリンは明確に反ユダヤ主義を批判し、その反動的本質を鮮明にしている。いったいこの何処に、ヒトラーの「人種的民族的差別思想」との共通性があるというのか!

 多民族国家ソビエト連邦は、ボリシェビキ党とソビエトプロレタリア―トを核に、他民族の労働者・人民が固く団結し、社会主義建設へと向かったのである。勿論、ソ連国民・人民、特に遅れた層の中に存在していた「歪んだ民族意識」が全て、すぐに克服されたわけではない。マルクスが指摘していうように、下部構造が変革されても、上部構造の思想的・文化的意識はすぐに全て一気に変わるものではない。しかも、ソビエトの場合、世界中の資本主義軍団が周囲を取り巻き、ブルジョア思想、ブルジョア文化を撒き散らし、ソビエト国内へも伝播させているのだ。長期にわたる思想改造、思想闘争抜きには、また世界の革命化抜きには、到底解決しうるものではない。歴史は一足飛びに進化するものではなく、多くの歴史的制約の下で、その力と水準に応じて、一歩一歩前進する以外にないのである。

 

 第2の問題。大木氏は、ソビエト国民は「スターリニズムへの嫌悪」を抱いていたと主張する。その最大の根拠として、ウクライナや旧バルト三国エストニアラトビアリトアニア)ではドイツ軍がスターリン体制からの「解放者」として歓迎された、という「史実」を挙げている。(独ソ戦初戦において大量の捕虜が出たことも「根拠」の一つに挙げているが、この問題は後で取り上げる)

 この大木氏の主張こそ、まったく事実・史実に反している。しかも、大木氏は、既に1922年にソ連邦に参加しているロシア・白ロシア等の国、ウクライナ(西端の一部地域は1939年に編入された)、そしてドイツ軍によるポーランド侵攻独ソ不可侵条約破棄(第2次世界大戦勃発)後、1939年に初めてソ連邦に参加することになったバルト3国とを一緒くたに論じているが、これもまた不適切である。

 バルト三国はヨーロッパ北東部のバルト海沿岸に位置する。三国とも、ドイツ帝国に支配されたり、ポーランド王国に支配されたりした後、18世紀末、ロシア帝国支配下に置かれた。そして1917年のロシア革命に伴って三国とも独立を実現、共和国を成立させた。20年の平和条約によってソ連から独立が承認され、22年には三国ともに国際連盟に加盟している。が、三国ともその内部には民族間対立、多党乱立があり、政情は不安定であったため、1929年の世界恐慌に直面る中、民族主義的独裁体制が生まれた。1938年9月のミュンヘン会談の結果、英仏政府はチェコスロバキア(その国境は東端でソ連邦ウクライナに接していた)のズデーテン地方(ドイツ人が多くいた西端外縁部)をヒトラーに与える約束を交わした。翌年の8月、スターリンは直ちに独ソ不可侵条約を締結し、その秋にはバルト三国と次々に相互援助条約を締結、ソ連軍の駐屯を実現させた(独ソ不可侵条約付属の秘密協定により、ポーランド東半分、バルト三国ソ連側範囲とすることが約されていた)。それらは全て独ソ戦に向けた準備であった。40年8月、三国の国会・政府はソ連邦への加盟を決議。勿論、反対派はいたが、反ソ親独の民族主義抵抗勢力の指導部はシベリア強制収容所に送られ、ある者はドイツ、アメリカ、スウェーデン、カナダ、オーストリアへ亡命した。そして41年6月、独ソ戦争が始まる。41年から44年まで、三国ともナチス・ドイツの占領下に置かれた。多少の違いはあるが、ナチス・ドイツに期待したバルト三国の反ソ民族主義派勢力はドイツ軍を「解放者」として歓迎し、それぞれ「国民政府」樹立を試みる。が、ナチス・ドイツにその気は全くなく、三国(と白ロシア=現ベラルーシ)を植民地として支配下に置き、更にその民族主義派勢力を動員して大々的なユダヤ人虐殺(ホロコースト)を決行した。

 勿論、バルト三国の多くの人民は、ナチス・ドイツの占領に反対し、スターリンソビエト軍司令部の呼びかけに応え、ソ連赤軍兵士と共にパルチザン闘争を戦っている。残念ながら、その資料は少ない。次に紹介する鳥飼行博氏(経済学者、東海大学教養学部教授)のブログ『鳥飼行博研究室』(2009年2月10日開設)の記事『独ソ戦 バルバロッサ作戦と捕虜・パルチザン』に、豊富な写真資料と共に、ソ連邦赤軍兵士とパルチザン部隊が共同して戦い、多くの捕虜・犠牲者を出していることが述べられている。

 『独ソ戦開始-バルバロッサ作戦直後から、SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー指揮下の親衛隊は、ユダヤ人など下等劣等人種に対する殲滅戦争を開始,住民の家畜,食料を徴発し,住民を追放した。過酷な扱いを続けたドイツに対して、占領下の住民は、パルチザンとなり、武器を取ってドイツ占領軍を襲撃し、ドイツの通信交通網を破壊した。さらに、ドイツに協力する現地の住民にも報復した』

『ドイツは、ユダヤ人、共産党員、ボリシェビキ、インテリ、将校などを占領地から排除した。そこで、敵性住民、潜在的な敵対者は拘束されたり、迫害されたりした。このような住民弾圧的な軍政は、反ボリシェビキだった住民も、反ドイツの側に立たせることになった。スラブ人もユダヤ人同様、下等劣等人種と見下した人種民族的な偏見は、テロ容疑者を捕えるという名目で正当化された。が、これがドイツ敗北の一つの要因となった』と。

 1944年8月、バルト三国は、スターリンソ連赤軍、国内のパルチザンの手によって再び解放された。反ソ的民族主義派のゲリラ活動は戦後もあったがやがて消滅、三国ともソ連邦の中で社会主義建設に邁進していく。

 つまり、1939年になってソ連邦に参加したバルト三国は「社会主義建設の時代」をほとんど経験することのないままに、ナチス・ドイツに占領されてしまったのである。国内に、ドイツ軍を「解放者」として歓迎した民族主義者が少なからず居たことは事実であり、ある意味、それは「やむを得ない現象」であったとも言える。いずれにせよ、この事実を以って、バルト三国の大半の国民が「スターリニズムへの嫌悪」「スターリン体制」からの「解放」を求めて闘ったと主張し、更に、これを以って、ソ連国民全体が「スターリニズム嫌悪」に抱いていたとするのは、あまりにも無謀な暴論である。

 では、ウクライナはどうであったのか。1922年にソ連邦に参加しているウクライナは、社会主義建設に参加し、貴重な経験を積んでいる。ただ、『物語 ウクライナの歴史』(黒川祐次 中公新書 2002年刊)にも記されているように、農業国ウクライナで多数を占めていた農民は、伝統的に土地に対する執着心が強く、「土地の国有化」や「農業集団化」に対する抵抗感が他の連邦の農民よりもはるかに強かった。また、ロシア帝政時代の「ウクライナ民共和国」はドイツ帝国と手を結び、ドイツに大量の穀物を提供し、ウクライナ西部には多くのドイツ人が居住していた。ロシア革命後、ソ連邦に参加したウクライナでは農業集団化を巡る様々な問題が発生しているが、それほど農民・農村問題の解決は難しいものがあった。しかし、スターリンソビエト政府、ウクライナ政府は、そのことを踏まえた上で、第1次・第2次5ヶ年計画において、東部ドネツクで大々的な工業化政策を展開した。既にロシア帝政時代にウクライナ東部ドネツク州は石炭と鉄の大宝庫であることが分かっていて、工業化も進み、労働者階級も存在感を示していたが、スターリンに導かれたソビエトは第1次5ヵ年計画で大製鋼所を設立。その後、製鋼、製鉄、コークス、機械 、化学、食品など多くの工場を建て、ソビエト有数の重工業地帯に発展させ、農村の社会主義化を視野に入れた社会主義的工業化(農業集団化を助ける機械化の推進)を積極的に押し進めた。スターリンが高く讃えた「スタハーノフ運動」の主人公スタハーノフも、この東部重工業地帯を支えるドネツ炭鉱の鉱夫であった。

 独ソ戦開始から4カ月後、ナチス・ドイツウクライナ全土を一気に占領支配した。ドイツは最初から食料と労働者の供給源としてのウクライナを重視し、実際、東部地域から徴発した食料の85%がウクライナからのものであり、ドイツに移送された労働者280万の内230万がウクライナからであった(黒川氏の『物語ウクライナの歴史』より)。ウクライナでも民族主義者に手伝わせてユダヤ人の大量殺戮も強行している(バービ・ヤールの虐殺)。また、このような悪逆非道のナチス・ドイツ軍を「解放者」として迎えた勢力も確かに居た。そうした勢力が多く存在したのは、1939年に社会主義ウクライナに新たに編入されたウクライナ西部地域であった。彼らのその期待と願望はドイツ軍によってすぐに裏切られ、惨めな結末を迎える。ウクライナパルチザン闘争は、ソ連赤軍司令部の指揮・統制下、ドイツ軍侵入の当初から始まった。1941年8月から1942年3月の初めにかけて、3万人のパルチザンが1800以上の支隊に組織された。北部の森林地帯・沼沢地帯、南部の山岳地帯がパルチザン活動の舞台となった。1944年10月、ウクライナ全土がソビエト赤軍によって解放されるのであるが、パルチザン戦士及び村人たちの英雄的で不屈の闘争が無ければ、その勝利は不可能であった、と言われている。『戦争は女の顔をしていない』をまとめたアレクシェーヴィチさん一家もこのウクライナ出身であり、パルチザン戦争の担い手であった。

 F・グルニエはフランスの労働者出身の小説家・代議士で、何度もソ連を訪問している人物であるが、その著『スターリンの国』(1953年1月 黄土社書店刊)の中で、独ソ戦下のウクライナについて、次のように記している。

『戦争もまたソ同盟―この100の民族からなる国家―の民族融合の事実を明瞭に立証した。もともとウクライナ共和国は長い間、民族分離主義者どもの活躍舞台であった。

戦前、反ソ新聞はウクライナの対ソ反感が依然として強いことを人の好い読者に繰り返し信じさせようと努めた。「モスクワのくびきを脱せんと欲する」「クレムリン支配下にある」「いけにえウクライナ」に向けた宣伝戦はいまなお人の記憶するところである。

さてそのウクライナは、戦争初期から占領された。ヒトラーの軍隊がモスクワの門前に迫った時は、この「いけにえ」民族にとって、「支配者のくびきを脱する」絶好の機会であった。ところが事実はどうであったか。占領者たちは…協力的政府をキエフもしくはハルコフに樹立するに足るだけの人間をどうしても見出すことができなかった。

反対に侵略者に対するレジスタンスは極めて激しく、―それもドネツの鉱夫だけでなく、伝説的なユバック将軍(注:かつての民族主義者将軍で農民の支持が厚かった)の勇猛な部下たちの…いた地方においても同様であった。ソ同盟に忠誠を誓った故にナチスに殺害され、流刑に処せられたウクライナ人の数は何十万という数に上っている』と。

 以上のような事実からも、多くのウクライ国民やバルト三国の国民―あるいはソビエト国民全体―が「スターリニズムへの嫌悪」抱いていたとする大木氏の見解が如何に間違っているか、が明らかとなろう。

 つまるところ、ウクライナでも旧バルト三国でも、ドイツ軍を「解放者」などと歓迎した裏切り者はごく一部の民族主義者でしかなく、パルチザン戦士たちは、赤軍兵士と共に、彼ら裏切り者を憎み、厳しく追及し、反撃を加えた。裏切り者たちは、結局ドイツ軍にも裏切られ、そのドイツ軍が敗退した後、皆厳しく罰せられ、悪質な者は銃殺刑に処せられた。ウクライナは元より、バルト三国でも、圧倒的多数の住民が「祖国ソビエト」を擁護し、多くの人民がパルチザン部隊に参加し、協力者となり、ファシスト・ドイツ軍と勇敢に戦っている。これが史実であり、真実である。

 『スタハーノフ運動』の項で紹介したカラシニコフの証言―『戦争中、私が操縦していた戦車には、「祖国のために、スターリンのために」というスローガンが書かれていた。私たちがどれほど彼を信じていたかが分かるであろう』との証言を見よ!

 勿論、この証言は、一人カラシニコフだけのものではない。大木氏には信じられないであろうが、当時の多くのソビエト人民にとって、「祖国」と「スターリン」は同じ一つのことを意味していたのである。

 大木氏は、「スターリニズムへの嫌悪」故に生まれた反ソ的裏切りは、「一部の事実」ではなく「ソビエト全体の事実」であるかのように述べているが、もし「全体の事実」であるというのが真実であるならば、圧倒的多数のウクライナ国民・バルト三国国民がドイツ軍を「解放者」として迎えたことになり、至る所で「全国民的全民族的的」な‶反スターリン・反ソビエト戦争〟が繰り広げられたはずである(例えば、現在の「ウクライナ戦争」におけるウクライナ国民の‶反ロシア戦争〟のように)。そんな事実・史実は何処にもない。大木氏の主張は、白を黒と言いくるめる典型的な「詭弁論法」であり、笑止千万である。

 

 ところで、大木氏も読んでいるはずの、アレクシェーヴィチさんの『戦争は女の顔をしていない』には、裏切り者のいるドイツ軍占領下の村に潜入し、村人の協力を得て勇敢に戦うパルチザン女性兵士(パルチザンは地元の出身者が主力)の英雄主義的史実、密かにパルチザン戦士を匿い、食べ物を与え、こっそり協力する村人たちの英雄的行動を物語る史実が、数多く、詳しく証言されている。

 因みに、次に紹介する証言者ザハロワさんの出身地ゴメリ州(ホメリ州)は、バルト三国の隣国白ロシアの州であり、その全土を1941年6月にナチス・ドイツに占領された(1944年8月末に赤軍パルチザンに解放されるまで)。ナチスの侵略によりゴメリ州は大きな打撃を受け、工場、発電所が破壊され、1,000以上の村が焼き払われた。首都ゴメリは80%以上が破壊され、占領期間中、ナチスによって20万9千人以上が殺害され、4万人以上がドイツに連行されている。

アレクサンドラ・ニキフォロヴナ・ザハロワ  ゴメリ州第二二五連隊パルチザン (人民委員) 

 村の人が助けてくれたの。人々の協力がなかったらパルチザン活動なんてありえなかったわ。民衆はわたしたちと一緒に戦っていた。時には涙ながらにだったけど、とにかく食料を出してくれた。

 「苦しみも分かち合うんだよ、一緒に勝利を待つんだから」と家畜の餌にしかならないこまかいクズ芋を出してくれる。パンもくれる。森に持って行くように袋一杯。 一人一人が出せるだけ、「おまえんとこは?」「イワン、おまえは?」「マリヤ、あんたんとこは?」「みんなと同じ、でもうちは子供たちがいるから」という具合。

 村の人たちがいなかったら、どうにもならなかったわ。大きなパルチザン部隊が森に隠れていたけど、村の人たちの助けがなかったら、私たちは全滅だった。村の人たちは種を蒔いたり、畑をたがやしたり、子供たちや私たちの世話をして、着る物の心配をしてくれたのよ。夜、銃撃のないうちに畑を耕していた。ある村に行った時、年老いた農夫の葬儀に行き遭ったの。夜、殺されたんです。ライ麦を蒔いていて…….しっかり麦の粒を握ったままで、その握りこぶしを開かせることができなかった。麦粒と一緒に畑に埋めました。

 私たちには武器があり、身を守ることができる。でも村人たちは? パルチザンにパ ン1個を与えただけで銃殺よ。私が一夜泊めてもらったら、そのことを誰かが密告すれば、その家の人は全員銃殺。その家には女の人が小さな子供3人と住んでいた。夫はいなかった。女の人は私たちが行くと決して追い返さなかった。ペチカを焚いてくれて、みんなの洗濯をしてくれた。とってあったなけなしの食料も全部出してくれる、「お食べ」。春先のジャガイモはこまかくってまるで豆粒だった。私たちは食べているのに、子供たちはペチカの寝床で泣いてる。その豆粒のようなクズ芋が残っていた最後の食べ物だったの…』

フョークラ・フョードロヴナ・ストルイ   パルチザン

 私はいつも信じていました......スターリンを......共産党員たちを......自分も党員でした。共産主義を信じていた......そのためにこそ生きていた、そのためにこそ生き延びたんです。フルシチョフが第二十回党大会で「スターリンのいくつもの誤り」を報告したあと、私は病気になって寝込んでしまいました。それが真実だとは思えなかったのです。 恐ろしい真実。戦争中私自身叫んでいました。「祖国のために!」「スターリンのために!」と。誰に強制されたわけでもなく......私は信じていた......それが生きているということだった.....。

 パルチザンで戦っていたのは二年間......最後の戦いで私は足を負傷し、意識を失った。 冬の寒さは厳しく、気がついた時には両手が凍傷になっていました。今は生き生きしたよく動く手ですけど、あの時はすっかり黒ずんでいた......もちろん両脚も凍傷にかかっていました。あの寒さでなければ両脚を救うこともできたでしょうけど。出血したまま長いこと放っておかれました。発見されて、他の負傷者と一緒にされたけど、そこもドイツ軍に包囲されました。部隊は退却する......突破を試みます......私たちは薪のように橇に放り込まれました。治療するまもなく、森の奥へと運んで隠してくれました。何度も退却してから、私は最高会議の議員だったのでモスクワに私の負傷が知らされました。 私自身は下層の出身、ただの農民の出ですが、パルチザンの自慢でした。早い時期に人党したんで.....。

 両脚がなくなりました......切断されたんです。やはり、森が救ってくれた......手術用具はもっとも素朴な物しかありませんでした。普通のノコギリで足を切るんです。両足を. ...手術台に載せて、しかもヨードは無し。ヨードをもらいに6キロ先の他の部隊に使いが出されました。麻酔もありません。麻酔の代わりに密造酒1本。何にもないんです......普通のノコギリ以外......家庭大工用の...... 。

 飛行機をよこしてくれるようモスクワに連絡がいきました。飛行機は3回飛んで来たのですが、旋回するばかりでどうしても着陸できません。四方から銃撃されたからです。四回目にやっと着陸した時には、すでに私の両足は切断されたあとでした。それから、イワノヴォーとタシケント市で4回再切断手術が行われました。四回ともまた壊疽を起こしました。毎回少しずつ切ったんです。それで脚の付け根に近い位置で切ることになってしまいました。初めのうちは大声で泣いていました。地面を這って行くことを考えて、もう歩けない、這うことしかできないんだ、と。自分でも分かりません、何が助けてくれたのか、どうやって良くない考えに打ち克ったのか、どうやって自分を説き伏せたのか。もちろん親切な人たちはいました。良い人たちがたくさん。私たちのところにいた外科医は、その人自身も両足がないんです。その人が私のことを言っていたそうです。「あの人には頭が下がる。私はたくさんの男たちの手術をしてきたがあんな人は初めてだ。悲鳴一つあげない」わたしは我慢してたんです...人前ではしっかりしている習慣がついてたんです......。

 それから故郷のジスナ市に戻りました。松葉杖をついて。 今はよく歩けませんが、それは年のせいです。あのころは街を走り回ってました。どこでも徒歩で。義足で走りました。コルホーズにも車で行きました。地区執行委議会副議長に任命されました。大仕事です。執務室にじっとしていないで、始終あちこちの村や畑を回りました。同情されれば腹が立ちました。当時、教育のあるコルホーズの議長は少なく、特別大事なキャンペーンを行うときには地区の代表が現場に派遣されるんです。毎週月曜日に私たちは党の地区委員会に呼び出され、そこで各自が派遣される任務 を与えられます。窓辺に座っていると、地区委員会にみなが続々と出かけていくのが見 えます、私は呼び出されないんです。これが辛かった、みんなと同じにしてもらいたかったんです。

 とうとう、電話がありました。第1書記からです。「ワョークラ・フョードロヴナ、 来てください」村から村へ移動して行くのはとてもとても大変だったのですが、私は大喜びでした。十キロも二十キロも先まで行かされました。乗り物で行けるところもありますが、歩くしかないところもあるんです。森の中を行く時、転んだりするともう起きあがれません。手提げをおいてそれを支えにして、木にしがみついたりして起きあがってまた先に進みました。年金をもらっていましたから、自分のためだけに生きても良かったんです。でも、みんなの役に立ちたかった。私は共産党なんですから......自分のものなんかありません。勲章やメダル、表彰状ばかり、家は国が建ててくれました…

 二人で暮らしています。過去を生きる支えにして。私たちの過去は美しいんです。大変でしたけど、美しく、正直な暮らしでした。私は自分のことで恨んでいません。自分の人生を......私は正直に生きてきた......』

アレクサンドラ・イワーノヴナ・フラモワ   地下組織書記

 友だちのカーチャ・シマコーワパルチザンの連絡員だった。彼女には二人の娘がい た。まだ六歳と七歳。その子たちと手をつないで街を歩きながら、戦車がどこにあるかを記憶する。歩哨に呼び止められると、口をぽかんと開けて頭が弱いふりをする。それを2、3年...。母親は自分の娘たちを危険な目にあわせてました......

 仲間のザジャルスカヤという女性にはワレーリヤという娘がいたんです。七歳だった。 食堂を爆破しなければならなくなって、爆弾をペチカのなかに仕掛けるために持ち込まなければならない。ザジャルスカヤは自分の娘に運ばせる、と言ったのです。手かごに爆弾を入れて、子供の服やおもちゃをいくつか、そして卵を十個とバターの包みを載せました。そうしてこの子が食堂まで爆弾を運び込んだんです。母性本能は何より強いと言われていますが、そうじゃありません。思想のほうが、信じていることの方が、勝る。私はそう思います......確信してます。ああいうおかあさん、ああいう娘がいなかったら、その人たちが地雷を運ぶ役をやらなかったら、私達は勝利できただろうかって。命、これは大事です。素晴らしいこと。でももっと大事なものがあるのです……』

 ここに登場しているパルチザン女性戦士はウクライナ人やバルト三国人ではない。しかし、ここに、「祖国のために!」のスローガンを掲げて戦ったすべてのパルチザン女性戦士の典型があり、真実の姿がある。彼女らの戦い、彼女らを匿い、食料を与え、援助した村人たちの戦いは、実に崇高に満ちている。レーニンスターリンに導かれたソビエト社会主義は、こうした英雄的民衆像を生んだのである。

 レーニンスターリン時代、社会主義ソビエトはこのような素晴らしく、美しい人間像、女性像を創出した。この厳粛な事実は、何人も否定できない。彼女らにとって(その全員とは言わないが)、フルシチョフの「スターリン批判」―「スターリニズムへの嫌悪」の扇動―などは、耐え難く、許し難く、到底認めることのできないものであった。

 

 第3の問題。大木氏は、「大祖国戦争」の呼称は「ナショナリズム共産主義体制の擁護を融合」させるメタファーとなり、それによって対独報復感情の正当性が付与された、という。そして、その「具体的説明」としては、「アメリカのソ連研究者ロジャー・R・リースの説明が有効だ」とし、その説を次のように紹介している。

 『リースは、圧倒的な数の国民がソ連軍に志願するにあたっては、七つの理由が考えられ、それらは内的要因と外的要因に区分できるものとした。内的要因は、自らの利害、個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、スターリン体制の利点に対する評価、先天的な祖国愛である。この祖国愛は、ロシアという歴史的な観念、あるいは、社会主義の実験に向けた信念を基盤にし得た。これら、二つの要素により、必ずし もスターリニズムの国家を支持していなくとも、国民に愛国的な動機付けを持たせることができた。外的とみなされる要因は、国家によって形成されるか、社会的に生成されたものだった。すなわち、志願せず、また、徴兵逃れをして、処罰されることへの恐れ、公式プロパガンダがかき立てた敵に対する憎悪、社会の同調圧力であった。それらの要因によって、ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された上に、対独戦の正当性が付与された』と。

 つまるところ、「ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された」ものとは、具体的には、内的要因としての、①自らの利害、②個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、③スターリン体制の利点に対する評価、④先天的な祖国愛(この祖国愛にはロシアという歴史的な観念が含まれており、必ずしもスターリニズム国家に対する祖国愛ではない)。外的要因としての、⑤志願せず、また、徴兵逃れをして、処罰されることへの恐れ、⑥公式プロパガンダがかき立てた敵に対する憎悪、⑦社会の同調圧力、の「七つ理由」、即ち‶七つの要素〟からなるものだ、という。

 ところで、この「リース説」はただ単に可能性として有り得る「七つの理由」を並列的に並べているだけであって、これは「融合」ではなく、「ごちゃまぜ的総合」ともいうべきものでしかない。要するに、この「七つの理由」の「ごちゃまぜ的総合」が「スターリンソビエトイデオロギー」だというのである。

 いったい、この「七つの理由」の中の、何が決定的な理由であったのか?事実に基づいて、それを追求し、解明することこそが歴史家のなすべきことではないのか?

 この大木氏の「見解」について、筆者の反論を述べる代わりに、ブログ『紙屋研究所』で公開されている《2019-07-29付記事》を紹介したいと思う。紙屋高雪(かみやこうせつ)氏―プロフィールとして「ブロガー・ライター・マンガ好き・コミュニスト」と紹介されている―が、大木氏の著作『独ソ戦』に関して述べた書評である。紙屋氏は、信頼のおける「証言」を取り上げ、深く洞察し、本質を突いた、素晴らしい書評を書いている。部分的には異論があるが、筆者は高く評価する。以下が、その書評の一部である。

 『ぼくも、本書(大木氏著書)の「文献解題」で「一読の価値がある」として紹介されているスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を読んだ時、ソ連の女性兵士たちがどのような経過で志願していくのかを注意深く読んだ。彼女たちはドイツ軍の蛮行を目の当たりにするよりも前に、開戦と同時に志願している場合が多い。共産主義的な動機もあれば、祖国防衛というナショナリズムの感情もあるし、家族を守りたいという素朴な感情もある。しかし、総じて、今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっているように読めた。…「大祖国戦争」という形でナショナリズムに訴えた宣伝が功を奏したことはぼくから見ても間違いないとは思うのだが、ぼくが気になっているのは、リースがあげている「スターリン体制の利点に対する評価」という点なのである。スターリン体制によって成し遂げられた工業化はベースのところでソ連国民によって支持されていたのではないか?と思うのだ。前述の『戦争は女の顔をしていない』で出てくるインタビューには、露骨な体制支持やイデオロギー支持はそれほど多くないが、守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれるが、そういう日常を支持している庶民が、志願をしている。つまりそれは「スターリン体制の利点に対する評価」があったのではないかと推測できるのである。加えて、ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ。それはスターリン体制が工業化を達成したことと不可分の話ではないだろうか』と。

まさにその通りであり、筆者も同意見である。「理由」をただ並列的に並べただけの、形式論的で無内容の「リース説」に対するこれ以上の「批判」「反論」はない。

 ソビエト国民にとっては「スターリン体制によって成し遂げられた工業化」「守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれる、そういう日常」こそが、社会主義ソビエトであり、ソビエト国家であった。彼女らの祖国愛とは、そんな風に存在していたソビエト国家への‶愛〟だったのである。イギリスの知将マウントバッテン伯が『ロシアに長く君臨した王朝の末端につらなるものとして、これを認めることは私にとってつらいことではありますが、ロシア国民はいまや防衛すべきものを持っております。今後は、ロシアは全国民が自分の国を守るために戦うでしょう』と述べたその「自分の国」とは、まさに紙屋氏が指摘している「スターリン体制によって成し遂げられた工業化」された国、「守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれる、そういう日常」を持った国のことであり、ロシア国民にとってはそれこそが「今や防衛すべきもの」―‶わが愛する祖国・社会主義ソビエト〟―であったのだ。女性兵士の証言に、またカラシニコフの伝記の中に、戦場では「祖国のために!スターリンのために!」と祈り、口にしながら戦闘に赴いたとの記述が出て来るが、彼らの愛すべき「日常の国」とはまさに「スターリン体制の祖国」であったのだ。

 紙屋氏は、アレクシェーヴィチさんの『戦争は女の顔をしていない』に出てくる女性兵士のインタビューから、彼女らが「今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっている」様子が読み取れる、としている。また、大木氏は『開戦半年の間に数百万のソ連将兵が捕虜になったのは、スターリニズムに対する一般的な拒否意識の表れだったとするのは、おおかたの西側研究者が同意するところである』などとしているが、逆に、紙屋氏は『ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ』としている。

 残念ながら、同じ本を読んでも、大木氏には、紙屋氏が読み取ったような真実が読み取れなかったようである。「スターリンへの嫌悪」を抱いているのはソビエト国民ではなく、大木氏自身のようだ。

 また、大木氏は『この「大祖国戦争」の名は、ドイツ 軍侵攻の翌日、一九四一年六月二三日の共産党機関紙『プラウダ』に発表された論説に初めて現れ、すぐに対独戦の公式呼称となった』とのみ述べているだけで、その発表・公表にあたって、共産党内部で「ナショナリズム共産主義体制の擁護の融合」について、如何なる論議がなされたかについては、何も語っていない。大木氏の言うように、「大祖国戦争」の名称が「ナショナリズム共産主義体制の擁護の融合」を図るものであったとするなら、それは重大な路線変更であり、党内での大論議が必要となる。マルクス主義者なら誰でもそう考える。

 実際はどうだったのか。そんな論議はなされていない。「ドイツ軍侵攻の翌日、一九四一年六月二三日」の公表、それも初公表である。そんな論議をやっている暇などあるはずがない。また、そんな論議は不要であった。何故なら、それは表現形式の問題であって、路線問題でも思想問題でもなく、特別の論議などまったく不要であったからだ。ソビエト国民は、恐らく、「大祖国戦争」の名称について、誰一人、大木氏のような間違った理解などしなかったであろう。ロシア人民は皆、祖国が1812年にナポレオンのモスクワ遠征を撃退し、偉大な勝利を獲得した歴史をよく知っていた。史上初の社会主義革命を達成した自らの歴史に無上の誇りを持つソビエト人民は、今回の戦争を「大祖国戦争」と呼称する意味をたちまち理解したに違いない。

 

 第4の問題。大木氏は、「大祖国戦争」の呼称を見て、そこに邪悪なナショナリズム民族主義の匂いを嗅ぎ取り、スターリンソビエト国民は「ドイツ人、ドイツ国民、ドイツ民族の絶滅」を目指した、と断定しているが、そんな馬鹿なことをスターリンは本当に言っているのか?言っているとしたら、何処で言っているのか? 言うまでもなく、スターリンがそのような発言をしたという事実は全く無い!

 ロジャー・R・リースの「説明」を「有効なもの」としている大木氏は、ここで、スターリンの発言でもなく、アレクシェーヴィチさんが世に出した女性兵士たちの証言でもなく、ユダヤ人作家エレンブルグの発言を取り上げ、こう語っている。『戦時中、対独宣伝に従事していたソ連の作家イリア・エレンブルグは、1942年に、ソ連の機関紙『赤い星』に激烈な筆致で書いている。《ドイツ軍は人間ではない。いまや「ドイツの」という言葉は、もっとも恐ろしい罵りの言葉となった。〔中略〕もし、あなたがドイツ軍を殺さなければ、ドイツ軍はあなたを殺すだろう。ドイツ軍はあなたの家族を連れ去り、呪われたドイツで責めさいなむだろう。〔中略〕もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、つぎの一人を殺せ。ドイツ人の死体にまさる楽しみはないのだ》このような扇動を受けて、ソ連軍の戦時国際法を無視した行動もエスカレートしていった』と。

 当時、ユダヤ人作家エレンブルグが書いたような、「ドイツ軍」と「ドイツ人・ドイツ国民」を一緒くたにして人種的民族的憎悪を煽り立てる対独宣伝があったことは、事実である。また、エレンブルのこうした宣伝は「大衆受け」したようでもある。『戦争は女の顔をしていない』に紹介されている証言の中にも、しばしば兵士たちが「ドイツ人」「ドイツ野郎」に対する憎しみを爆発させる場面が出て来る。戦争は殺し合いであり、非理性的な感情の爆発は避けられない。が、戦場の彼女彼らにとってそれは一時的なものであって、負傷したドイツ人捕虜に親切を施す場面も多々語られている。

 人種的憎悪丸出しのエレンブルグの宣伝文は、筆者から見ても、あまり評価できるものではない。「低劣な感情」に訴えた宣伝は本当の力を持たず、人民に本当の確信、勇気、戦闘力を与えることなどでき得ない。実は、党機関紙『プラウダ』(1945年4月15日付)もエレンブルグのあまりに酷い内容の宣伝文については批判を加えている。「エレンブルグによる‶ドイツ国民の集団的犯罪〟なる見解は…明らかに誤謬である。ソ連国民は、ドイツ国民と、ドイツを支配する犯罪的ナチ一派とは同一物だとは決して考えない」と(1947年刊・渡辺三樹男著『ソ連特派5年』より)。
 それはさておき、大木氏の最大の過ちは、この問題においても、「スターリンはどう言っているのか」を全く追求していないことである。それ故、私は、ここでスターリンの有名な「ラジオ演説」を紹介したいと思う。独ソ戦争開始から11日後の1941年7月3日に行われた演説であり、それは、「同志諸君!市民諸君!兄弟姉妹諸君!わが陸海軍の戦士諸君!わが友よ、私は諸君によびかける!」で始まっている。その中で、スターリンはこう呼びかけている。

 『…わが国は強いられた戦争のために、もっとも兇悪・狡猾な敵、ドイツ・ファシズムとの決死の格闘に入った。…赤軍将兵の勇敢さは比類がない。敵に対するわが反撃は強化し増大しつつある。赤軍と共に全ソビエト国民は祖国防衛のために闘っている。

ファシスト・ドイツとの戦争を、通常の戦争と考えてはならない。この戦争は、単なる二つの軍隊間の戦争ではない。それは同時に、ドイツ・ファシスト軍に対する全ソビエト国民の偉大な戦争である。ファシスト圧迫者に対するこの全国民的祖国戦争の目的は、わが国に襲いかかった危険を一掃するだけでなく、ドイツ・ファシズムのくびきのもとにあえいでいるヨーロッパのすべての国民を援助することでもある。われわれはこの解放戦争において、孤立しないであろう。われわれはこの偉大な戦争において、ヒトラー支配者どもに奴隷化されたドイツ国民を含めて、ヨーロッパとアメリカの諸国民という忠実な同盟者をもつであろう。わが祖国の自由を守るわれわれの戦争は、ヨーロッパとアメリカとの諸国民の独立と民主主義的自由をめざす闘争に結び付いている。それは、ヒトラーファシスト軍による奴隷化とその脅威に反抗して自由のために闘う諸国民との統一戦線となるであろう』と(ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争・1953年5月・大月書店)。

 ここでスターリンは明確に語っている。「われわれソビエト国民の真の敵はドイツ・ファシズムであり、ドイツ・ファシスト軍であり、ヒトラー支配者どもである」と。更にまた、「われわれはこの偉大な祖国防衛戦争において、ヒトラー支配者どもに奴隷化されたドイツ国民を含めて、ヨーロッパとアメリカの諸国民という忠実な同盟者をもつであろう」と。つまるところ、敵は「ドイツ・ファシズム」「ドイツ・ファシスト軍」「ヒトラー支配者ども」であって、決して「ドイツ国民」ではない。「ドイツ国民、そしてヨーロッパとアメリカの諸国民はわれわれの忠実な同盟者である」と。

 これが、「ラジオ演説」で語られた、独ソ戦を戦うスターリンの思想であり、スターリンイデオロギーであり、社会主義ソビエトイデオロギーである。これ以上、何を付け加える必要があろうか。何もない!

 

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~  (第6回) 

   2022年9月20日更新  次回更新は9月30日

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判

 

 ヒトラーナチスイデオロギー

 

 ここで、独ソ戦第二次世界大戦の戦況に触れる前に、大木氏が「残酷無惨」と酷評している「ヒトラーナチスイデオロギー」及び「スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ―」について、それがどういうものか明らかにしておこう。

 

 まずは、「ヒトラーナチスイデオロギー」である。

 もし、大木氏がこう書いていたなら、問題はなく、敢えて「批判の書」を上梓することもなかった。「ドイツ軍、ナチスヒトラーは、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争(独ソ戦)の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行をいくども繰り返したのである」と。

 しかし、大木 氏は、次のように書いているのだ。

 『独ソともに、互いを妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツソ連のあいだでは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行がいくども繰り返されたのである』と。

 大木氏のイデオロギー・史観によると、「独ソ戦は、ドイツ民族とロシア民族(ソビエト内の諸民族)が互いにそのイデオロギーに基づいて、それぞれの民族の絶滅を目指して、残酷な闘争と蛮行を繰り返し、未曾有の惨禍をもたらした、まったく無意味な戦争であった」ということになる。つまり、大木氏は〝大真面目〟にこう主張しているのだ。「ソビエトナチス・ドイツと全く同類であり、ソビエトスターリンボリシェビキもまた、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすナショナリズムを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ソビエトは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行をいくども繰り返したのである」と。

 後で詳しく触れるが、言うまでもなく、ソビエトスターリンが目指したのは「ドイツファシズムの打倒・絶滅」であって、大木氏が主張するような「ドイツ人・ドイツ民族の絶滅」などではけっしてない。そうであったが故に、英米仏政府もまたソビエトを支持し、ソビエトと連合し、独日伊ファシズム同盟と敵対し、対決し、反ファシズム解放戦争を戦い抜いたのである。従って、大木氏は、その主張によって、ソビエトだけでなく、英米仏をも批判し、反ファシズム連合そのものを批判し、非難しているのである。つまるところ、彼の頭脳は、未だに戦前の日本軍国主義者のそれとまったく同じ思考回路に支配されている、としか言いようがない。

 

 ヒトラーナチス・ドイツが、第二次世界大戦独ソ戦において目指した国家的・戦略的目標とその内容については、既に第二次世界大戦独ソ戦の開始」の項で明らかにしている。それは、ヒトラードイツ帝国宰相ベートマンの「九月綱領」を引き継いでまとめ上げた『東方占領地総計画』であり、その基本的中身は次のようなものであった。

①東方の500万~600万のユダヤ人の絶滅。

ポーランド民族(スラブ系民族)はドイツにとって極めて危険。住人の80~85%(1600万~2040万人)を西シベリアに追放。

ソ連ウクライナ―東ウクライナ―のスラブ人は危険であり、全てシベリアに追放。

西ウクライナ人は北方人種的要素が強いので35%だけ残し、ドイツ人の手でこれを酷使または同化する(65%はシベリアに追放)。

白ロシア民族は75%をシベリアに送り、後は酷使・同化。

チェコ人は比較的ドイツ人に近いので50%は残し、後はシベリアへ追放。但し知識人はドイツ憎悪が激しいので全員追放。

⑥こうして追放した後には25年かけておよそ455万人のドイツ人を移住させる。

⑦各地に「基地」を創設し、ここに強大な兵力を蓄えて置き、反抗の気配があれば直ちに鎮圧する。原住民は不衛生な村落に隔離して住まわせ、死亡率を高め、人口減少を図る、等々。

 これがヒトラーの戦争目的であり、まさに「東方・ロシアの地にゲルマン民族の生存圏を獲得すること」、これこそが至上命題であり、武力戦争によって「スラブ民族ユダヤ民族の追放・絶滅を目指すこと」こそがその最大の目的であり、「総計画」であった。

 言うまでもなく、それは、ベートマンの「九月綱領」を引き継いだものであることからも明らかなように、決して彼ヒトラーの個人的な計画でも、個人的な目標でもなかった。

 1913年(大正2年)生まれで、東大文学部西洋史学科に進み、ドイツ現代史を専攻し、生涯をドイツ史の研究に捧げた村瀬興雄は、『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』(1997年6月・中公新書)を著し、その中で「ヒトラーの異常な歪んだ精神は、不幸で歪んだ家庭環境の産物である」との捉え方を明確に否定し、「異常な性格者の一面もあった」としつつも、「ヒトラーの性格と思想とを、ドイツ保守主義ないし民族主義そのものの性格と思想を元にして眺めないで、ただ異常な面からだけ眺めることには反対である」と明確に述べているが、まったく同感である。

 そこで、このような「総計画」を持つに至るアドルフ・ヒトラーの歩んだ道を、1924年に書かれた『わが闘争』(1973年10月・角川文庫)を紐解きつつ、しばらく辿ってみよう。

 「誇り高きゲルマン民族の子孫」であったヒトラーは、「多民族国家」たるオーストリア帝国で生まれた。この帝国の内部は、ドイツ人、チェコ人、ハンガリー人、ポーランド人、ユダヤ人などいくつかの民族―主としてゲルマン系民族、スラブ系民族、ユダヤ民族―が混在し、複雑に絡み合い、常に緊張が支配し、民族間の争いが絶えなかった。そうした激しい‶民族的抗争の坩堝〟となっていた首都ウィーン―その渦中で育ち、学んだ若きヒトラーは反スラブ民族主義たるドイツ民族主義ゲルマン民族主義に目覚め、自らの思想的基盤を作っていく。そして、1870年代、資本主義の必然の産物たる経済恐慌が荒れ狂い、経済的危機と不安に包まれた首都ウィーンに暮らすドイツ系住民は、「富と地位と高い教育」を得て豊かな生活を築いていたユダヤ系住民に対する憎しみを募らせ、その不満と怒りを彼らに集中させた。更に、1897年に始まったシオニズム運動(ユダヤ人国家建設運動)を目の当たりにしたヒトラーは、「ユダヤ人問題は宗教問題ではなく、人種・民族問題となった」と断ずるに至る。ここから、‶主イエス・キリストをローマに売り渡したユダヤ人〟に対する「宗教的社会的差別」は「人種的民族的差別」へと発展、ゲルマン民族主義は反ユダヤ主義と一体化し、たちまちオーストリア全土に広まっていった。若きヒトラーはこのような時代の中から生まれた、反スラブ的・反ユダヤ的ドイツ民族主義の申し子であった。

 このようなオーストリア国内の激しい民族的抗争を生み出した背景、それこそ他国領土の強奪、植民地の征服、市場の拡張を目指す資本主義国家同士の醜い抗争であった。そして、あたかもヒトラーが青春期を送った19世紀末期から20世紀初頭にかけて、資本主義はその最高の最後の段階たる帝国主義へと昇り詰める。帝国主義的資本主義の主人となった金融独占資本は新市場・新植民地を求めて、新たな侵略的欲望を燃やしていく。すでに世界は幾つかの資本主義国によって分割し尽くされていたが、資本主義の不均等発展は各国の経済力・軍事力の相互関係に変化を生み出し、新たな世界再分割の熱望を生み出し、爆発させた。かくして、1914年7月、第一次世界大戦たる帝国主義戦争が勃発する。戦争準備の過程で、それぞれの帝国主義国はその民族的利害から、一方にドイツ・オーストリア、そしてイタリア(後に離脱)の同盟を形成、他方にイギリス・フランス、そしてロシア(その産業は英仏資本の支配下に置かれていた)の連合を形成、この2群が正面から激突したのである。

 この第一次世界大戦の結果、ロシアの地には「社会主義ソビエト」が生まれ、ドイツの地には「ワイマール共和国」が生まれた。即ち、スラブ民族・ロシアのプロレタリアートは、ウクライナはじめ諸民族のプロレタリアートと結束し、団結し、レーニン、そしてスターリンに導かれたマルクス主義の党ボリシェビキ党の指導下、「帝国主義戦争を国内戦争に転化せよ」とのスローガンを掲げ、ロシア・ツァー帝政を倒し、社会主義革命を勝利させ、「社会主義ソビエト」を誕生させた。一方ドイツでは、プロシアドイツ帝国は戦争に敗れて崩壊したが、左翼一揆主義に指導されたプロレタリア革命の蜂起は失敗、右翼日和見主義たる社会民主主義に導かれる「ワイマール共和国」が誕生した。戦前に、オーストリアから母国ドイツに移っていたヒトラーは、第一次大戦を戦うドイツ軍に従軍し、その苛酷を極めた戦場地獄を体験し、敗戦で荒廃した母国たるワイマール共和国に戻って来た。

  ‶歴史上もっとも民主的〟と言われたそのワイマール共和国は、戦勝国の英仏に押し付けられた苛酷なベルサイユ講和条約に苦しめられ、経済的苦境、凄まじいインフレに見舞われ、更に、終始、左翼と右翼が徒に激突し、破局的な混乱に襲われ、ドイツ国民の不満と怒りが渦巻いていた。そんな時、ヒトラーの目に映ったのは、その中心になってマルクス主義運動・左翼運動を推進している多くのユダヤ人の姿であった。かくして、ヒトラー反ユダヤ主義は反マルクス主義と結びつく。ヒトラーとドイツ民族主義にとって、ユダヤマルクスが創始したマルクス主義ユダヤ民族思想そのものであった。

 ヒトラーマルクス主義社会主義について、こう述べている。『私は今や、運動(社会主義運動)の基礎を研究するために、この教説の創始者たち(マルクスエンゲルス)と親しくし始めた。私は初めに自分で考えていたよりも多分早く目的(マルクス主義の理解)に到達したが、これは私が当時既にただ僅かながらも、ユダヤ人問題の知識を獲得していたからである。その知識があったので、私は社会民主党建設の使徒マルクス)の理論的大言と活動とを、実際に(ユダヤ思想と)比較することができたのである。ユダヤ思想を隠すために、少なくとも偽装するために語った彼ら(マルクスとその信奉者たち)の言葉を、社会民主党が私に理解させ、教えてくれたからである』と。

 そして、こう結論づける。『マルクシズムというユダヤ的教説は、自然の貴族主義的原理(弱肉強食の競争原理)を拒否し、力と強さという永遠の優先権の代わりに、大衆の数と彼らの空虚な重さとを持ってくる。マルクシズムはそのように人間における価値を否定し、民族と人種の意義に異論を唱え、それと共に人間性からその(民族と人種の)存立と文化の前提を奪い取ってしまう。…ユダヤ人がマルクス主義的信条の助けを借りてこの世界の諸民族に勝つならば、彼らの王冠は人類の死の花冠になるだろうし、さらにこの遊星は再び何百万年前のように、住む人も無く、エーテルの中の世界を回転するだろう』と。

 あたかも、1917年11月、スラブ民族の国ロシアでは、マルクス主義に導かれたロシア革命が勝利し、社会主義ソビエトが成立する。反スラブ主義・反ユダヤ主義・反マルクス主義を一体不可分のイデオロギーとしたナチスヒトラーの憎悪の矛先は、「社会主義ソビエト」(ヒトラーにとってのユダヤ思想の国)へと向けられ、やがては「ユダヤ民族の抹殺」「ボリシェビキ社会主義ソビエトの撲滅」を目指すことになる。

 戦場から敗戦の母国に帰って来た‶ドイツ民族主義の革命児〟ヒトラーは、ナチス党(国家社会主義党)を組織し、「ドイツが戦争に敗けたのは売国奴、左翼、マルクス主義者、ユダヤ人による背後からの一撃、即ち‶匕首(あいくち)の一撃〟があったからだ」「国民を苦しめる最大の元凶はフランス・イギリスが押し付けたベルサイユ条約である」と主張し、ドイツ国民の不満と怒りを煽り、突撃隊を先頭に反共・反スラブ・反ユダヤ的ドイツ民族主義運動を大々的に展開。1933年1月、遂にナチスヒトラーは政権を獲得する。

 こうして形成されたナチスヒトラーの「社会主義ソビエトの撲滅」「スラブ民族ユダヤ民族の絶滅」を目指す「総計画」とそのイデオロギーは、既に、1924年に書かれた彼の自伝『わが闘争』において、その骨格が明確に示されている。ヒトラーは、その著書において、自らの思想・イデオロギーを次のように明確に規定している。

 『わたしにとっては、そして全ての真の国家社会主義者にとっては、ただ一つの信条だけがある、即ち民族と祖国だ。われわれが闘争すべき目的は、わが人種、わが民族の存立と増殖の確保、民族の子らの扶養、血の純潔の維持、祖国の自由と独立であり、またわが民族が万物の創造主から委託された使命(現在の優れた人類文化を創造したアーリア人種・ゲルマン民族が全ヨーロッパを支配し、ユダヤ民族・マルクス主義を絶滅するという使命)を達成するまで、生育することを目的としている。およそ思想や理念、教説や一切の知識というものは、この目的に奉仕すべきである』

『国家は目的ではなく、手段である。国家は、勿論、より高い人類文化を形成するための前提であるが、その原因ではない。その原因はむしろ文化を形成する能力のある人種の存在にのみあるのである。地球上に幾百の模範となるような国家がありうるとしても、文化を担っているアーリア人種が死滅したならば、今日の最も優秀な民族の知的高さに相応しい文化というものは、存在し得ないだろう』と。

 そして、ヒトラーは、レーニンスターリンボリシェビキ党に導かれた国・社会主義ソビエトについて、次のように断定する。

 『人々はとにかく次のようなことを忘れてはならない。つまり、今日のロシアの統治者達は血でよごれた下賤な犯罪者であること、またかれらは人間のくずであり、悲劇的な時期の情況に恵まれて大国家を打倒し、その指導者的なインテリ数百万を粗野な残忍さでもって惨殺し、根絶し、今やざっと十年ばかりの間どんな時代にもなかった残酷きわまる暴政を行なってきていることを忘れてはならない。さらにまた、これらの権力者達が、野獣のような残忍さをとらえがたい嘘の技術に非凡な融合方法で結びつけて、自分達の残虐な圧制を全世界に加えるのには今日こそもっともよいという使命感をもった一民族(ユダヤ民族)に属していることを忘れてはならない。次にまた忘れてならないことは、ロシアを今日完全に支配している国際主義的ユダヤ人がドイツを同盟国と見なさず、自国と同じ運命に定められている国家(社会主義革命を起こす国家)と見ているということである。…ロシア・ボルシェヴィズムは二十世紀において企てられたユダヤ人の世界支配権獲得のための実験と見なされなければならぬ』と。

 まさに、ドイツ、ナチスヒトラーは、相手を妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争(独ソ戦)の本質がある。およそ四年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツは、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行をいくども繰り返したのである、と言って間違いない。

 

 では、「スターリン社会主義ソビエトのイデオロギ―」とはいったい如何なるものか。