人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第9回) 

 

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

 

20221020日更新  次回更新は1030

 

 レニングラード・モスクワ攻防戦

 レニングラードロシア革命前のペトログラード1924年1月、レーニンの死去にあたり、町名をペテルブルグからレニングラードに変更)は、亡命先から帰国したレーニンが、最初に‶ロシア革命の号砲〟たる『四月テーゼ』の演説を行った記念の地であり、ロシア革命の聖地である。そして、モスクワは言うまでもなくソ連邦の首都である。

ヒトラーは、こうした歴史と現状から、ソ連邦を自らの支配下に屈服させ、隷属させるために不可欠な作戦として、総力を挙げて首都モスクワ占領を目指すともに、レニングラードの壊滅を目指したのである。

 

  レニングラード攻防戦〉

  1941年9月、ヒトラーは次のような指令を発した。『この都市(レニングラード)を近接包囲し、砲撃と連続空爆により完全に破壊するのが、わが方の意図である…。この都市の明け渡しの申し入れは拒否すべきである。 なんとなれば、住民の生命を救い、これに食料を供給することは、わが方で解決し得ず、解決すべからざる問題である』と。

 シャイラーの『第三帝国の興亡』は、『その数週間後、ゲーリングは…告げた。「今年、ソ連では、二千万から三千万の人間が餓死するだろう。たぶん、そんなことになるのもいいことかもしれない。あの国民は大幅に減らさなくてはならないからだ』と。

 そんな意図を持つヒトラーとドイツ軍の取った作戦は「兵糧攻め」であった。

 ヒトラーとドイツ軍・北方軍集団は、1941年9月6日、この偉大なレーニンの名を冠したソビエト北方の中枢都市・レニングラードへの総攻撃を開始した。ヒトラーの狙いは、まずここを陥落させ、更に北上し、フィンランド軍と合流し(注:フィンランドはドイツとリュティ=リッペントロップ協定を結び、ドイツと共に戦うことを誓い、ソ連に対して宣戦を布告していた)、その上でモスクワ攻撃に向かう、というものであった。ドイツ軍はレニングラードと外部を結ぶ交通の要衝を押さえ、陸路連絡網を遮断し、市内に立て籠るソビエト軍を包囲し、過酷を極めた兵糧攻めを開始した。

 ドイツ軍による包囲は1941年9月から1944年1月までの872日間に及び、63万人以上の餓死者が出た。しかし、20万人以上の市民が義勇軍に志願し、全市民が総出で市の防衛に当たった。圧倒的多数の市民は、撤退、避難を拒否し、戦闘に出動した。食料の備蓄が尽きると、革製のブーツやベルト、油粕など、食べられるものは何でも食べた。零下30度の凍てつく寒さの中、暖房も電気も、ストーブにくべる薪もなく、食べられないものは何であれ家具も本も何でも燃やした。市内のいたるところに設置されたスピーカーからは、昼夜問わずにラジオ放送が流れ、市民を励ました。いつ終わるともしれない凄惨な状況の中、人々は支え合い、助け合い、励まし合い、懸命に生命をつないだ。レニングラードの危機を察知したスターリンは元帥ジューコフレニングラード方面軍の司令官に就け、起死回生を図った。ジューコフはその期待によく応え、戦線を立て直し、ドイツ軍を守勢に追い込んだ。

 レニングラードプロレタリアートと人民は、1971年3月、パリ・コミューンの戦士たちが「降伏するよりも死を!」と叫びながら、敵に屈服することなく、最後までブルジョア政府と戦い抜き、銃弾に倒れていった歴史的事件を忘れてはいなかった。1970年7月、大ドイツ帝国への拡張を目指す北ドイツ連邦の盟主ウィルヘルムⅠ世はフランスへ侵攻し、パリに迫った。恐れをなしたフランスのブルジョア政府は降伏し、屈辱的な「講和」を受け入れた。しかし、パリの労働者と市民は、降伏を拒否し、武装し、バリケードを築き、パリ・コミューンの旗の下、「祖国防衛の戦い」に決起し、敗北を恐れることなく、不屈に戦い抜いた。

 レニングラードの市民・赤軍もまた、「降伏するよりも死を!」合言葉に、断じて敵に屈服することなく、「祖国のために!」「スターリンのために!」の旗を掲げ、ヒトラーとドイツ軍の包囲・兵糧攻めに耐え抜いた。人々は今なおこう語りあっているという。「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」と。

 1942年12月、スターリンソ連最高会議幹部会は、レニングラード市に対して「防衛メダル」を授与し、「英雄都市」の称号を与え、その偉大な戦闘を讃え、激励を送った。ソビエト人民にとって、レニングラードは「勇気と革命的自己犠牲のシンボル」となり、独ソ戦が終わる日まで、ソビエト人民を激励し続けたのである。このレニングラードの英雄的戦い抜きに、ソビエト軍のモスクワ戦での勝利もなかった。そう断言して間違いない。

 大木氏は、このレニングラード攻防戦について、『1943年1月18日に解放されるまで、このドイツ軍の封鎖によって、レニングラード市民が嘗めた悲惨は筆紙につくしがたい』と記しながら、他方でこう記している。『レニングラードの惨状を招いたのは、ドイツ軍だけではない(注:ドイツ軍の責任ではない、というのだ)。革命の聖都を放棄しようとすることをよしとしなかったスターリンは、敵がレニングラードの門前に迫っても、市民の一部しか避難させなかった。その結果、およそ、300万人が包囲下に置き去りにされることになった(注:いったい誰が市民を置き去りにして撤退、逃亡したというのか!)。さらに、レニングラードの防衛態勢を維持するために秘密警察は…動揺する者、統制に従わない者を‶人民の敵〟として狩り立てたのである』と。

 つまるところ、大木氏は、「レニングラードを放棄せよ!」と‶命じて〟いるのだ。「闘うな!避難、撤退せよ!降伏せよ!」「死よりも降伏を選べ!」と。こういう「指揮官」の記す戦史研究論文を誰がまじめに読もうとするであろうか。

 

 〈モスクワ攻防戦〉

 ドイツ軍は緒戦の奇襲攻撃に失敗したものの、それでも、1941年7月半ば、ボッグ元帥率いるドイツ中央軍集団は、モスクワに通じる西の関門たる要衝の地スモレンスクに突入し、これを占領した。モスクワまで後200マイル、320キロの地点であった。

ボッグとドイツ陸軍総司令部の作戦は「このまま進撃し、総力を挙げて敵の神経中枢たる首都モスクワを攻略すべし」というものであった。ソビエト軍の手強さを痛感しつつあったボッグとドイツ軍総司令部は、モスクワに近付きつつあったこの時、総力を投入しての「早期攻略」「早期決戦」を強く主張した。

 ところが、ここに至ってもなお「ソ連、組みし易し」との自信を持ち続けていたドイツ国防軍最高指揮官ヒトラーは、あくまで強気で、モスクワ攻略を多少遅らせても、行き詰っていた北部のレニングラード攻撃、南部のカフカズ油田とウクライナの炭田・食糧地帯占領―補給源の確保―先行させるとの方針を打ち出した。その結果、ドイツ軍総司令部は、ヒトラーの決定に従い、モスクワ攻略部隊たる中央軍集団の一部を援軍として北と南に回し、北、南、中央の三か所で一斉に大攻勢に打って出た。しかし、北と南からの攻略も、中央の攻撃も、完全に失敗に終わった。

 既に秋雨の季節が始まり、冬が間近に迫り来ようとしていた。ドイツ軍総司令部が何よりも恐れていたのは、ナポレオンを敗走させたあの「冬将軍」の到来であった。「短期決戦での勝利」を確信していた彼らにとって、やはり最大の心配の種は、冬に備えた兵站面(兵器・弾薬・食糧の輸送と保存)の不足、遅れであった。

 1941年9月30日、ヒトラー・ドイツ軍によるモスクワ戦線総攻撃《台風作戦》が始まった。ヒトラーは、将軍たちの提言を受け入れ、北と南に出していた機甲部隊(戦車・装甲車部隊)と戦車部隊を呼び戻し、再び中央集団軍の態勢を整えた。この攻撃に参加していたドイツ軍総兵力は、ソビエトのそれよりも、歩兵で1・4倍、戦車で2・2倍、砲と迫撃砲で2・1倍、航空機で2・1倍も上まわっていた。ただ、このような兵力比較が判明するのは戦争が終わった後のことであったのだが。

 ドイツ中央集団軍主力部隊は、10月6日、局地的に降り始めた秋雨がやがてみぞれ交じりの小雪へと変わり、道路網は泥沼と化した中、歩兵が先頭になり、泥まみれになって1キロ、2キロとモスクワへの距離を縮めていった。そして、遂に、モスクワから南西160キロ地点に在る古都カルーガ付近にまで到達。10月13日、南から、北から、西から、ドイツ軍の総攻撃が始まり、モスクワ空襲が始まった。その作戦名通りの強烈無比の<台風>がモスクワに襲いかかった。空軍が敵陣地に爆弾を落とし、この空軍に支援された戦車兵団が先陣を切って突入し、その後に、大量の自動車部隊を擁する歩兵師団が続く。これが、ドイツ軍得意の戦術であり、攻撃スタイルであった。

 スターリン赤軍最高司令部もまた首都モスクワ防衛に備え、この方面に赤軍の主力を配置させていた。スターリンは、レニングラード戦を指揮していたジューコフを呼び寄せ、モスクワ防衛戦の作戦決定に参加させていたが、10月に入ると、レニングラード防衛の責任を立派に果たしていたジューコフをモスクワ防衛の中心部隊である西部方面軍の司令官に任命した。

 フルシチョフや大木氏は認めようとしていないが、赤軍司令部幹部ジューコフ、ワシレフスキー、アントーノフ等は皆、トハチェフスキー粛清後の赤軍再建を担った若き将校団に属しており、彼らこそ赤軍を清新にして若々しい革命的戦闘部隊に生まれ変わらせた中心勢力であった。後に、スターリンと共にスターリングラードの戦いを指揮したのも、このジューコフ・ワシレフスキーらを先頭とする若き軍人・指揮官たちであったのだ。

 空襲警報が、毎夜、モスクワの街に鳴り響いた。首都モスクワを敵に奪われる訳にはいかない。何としても、ここを守り抜かねばならなかった。国家防衛委員会は、急ぎモスクワの政府機関の一部と外国大公使館を600キロ東方のヴォルガ河畔の都市クイブィシェフに移転させる決定を下した。その上で、ソビエト赤軍、モスクワ市民総ぐるみの大反撃が始まった。党の指導のもと、モスクワ市民によって12の人民義勇軍師団が編成された。労働者、技師、学者、芸能人、様々な職業の専門家がこれに参加し、闘いながら軍事知識・軍事技術を学んでいった。その結果、数万、数十万のモスクワ市民・義勇兵が、昼夜ぶっ通しで、首都モスクワの防御陣地の構築に取り組むことが可能になった。

 ボルシェヴキ党西部方面軍軍事会議―党政治委員の集まり―は、全党、全軍、全義勇軍にこう呼びかけた。「諸君!国家危急存亡の時、兵ひとりひとりの生命は祖国のものである。祖国は、われわれひとりひとりに最大の努力、勇気、ヒロイズム、不屈さを求めている。祖国はわれわれに、不落の壁となり、愛するモスクワへ迫るファシスト軍の前に立ちふさがるように求めている。今こそ、警戒心、鉄の規律、組織力、決然たる行動、勝利への不屈の意欲、そして自己犠牲の心構えが要求されている!」と。

 そして、1941年11月7日―「十月社会主義大革命24周年記念日」がやって来た。外国メディアは祝賀行事の開催を危ぶんだが、前日6日にはマヤコフスカヤ地下鉄駅前で祝賀集会を開催し、更にボリシェビキ党中央と最高軍司令部は、断固としに7日当日には「赤の広場」で恒例の軍事パレードを挙行した。

 そして、この祝賀集会と軍事パレード双方の先頭にスターリンが立っていた!最高司令官スターリンは、モスクワに止まり、人民大衆の前にその雄姿を見せ、ソビエト人民を鼓舞激励し、その士気を大いに高めた。その力強い演説はまさに祖国防衛戦争を闘うソビエト赤軍・人民の《戦闘綱領》に他ならなかった。

 『敵は、ウクライナ白ロシア…その他の多くの州を占領し、ドンバスに入り、暗雲のようにレニングラードに垂れこめ、わが光栄ある首都モスクワをおびやかしている。ドイツ・ファシスト侵略者どもはわが国を略奪し、労働者、農民、インテリゲンツィアの労働によってつくられた都市と農村を破壊している。…老若の別なく、わが国の平和な市民を殺害し、市民に暴行を加えている。…わが陸海軍の将兵は、敵を討って血河とし、祖国の名誉と自由を擁護し、野獣と化した敵の攻撃を雄々しく反撃し、剛勇と英雄主義の模範を示している。しかし、敵は犠牲をものともせず、自国兵士の血を少しも惜しむことなく、…次々に新しい部隊を戦線に投じ、冬になる前にレニングラードとモスクワを奪取しようと全力をあげている。何故なら、敵は、冬が彼らに何も良いことを約束していないことを知っているからである。

 わが軍はこの4ヵ月間に、戦死者35万人、行方不明者37万8千人、戦傷者102万人を出した。敵は同じこの時期に、450万人以上の死傷者と捕虜を出した。…既に人的予備を消耗しつつあるドイツが、いまようやく予備を完全に展開しつつあるソビエト同盟よりも著しく弱体化したことは、疑う余地がない。

 ドイツ・ファシスト侵略者どもは、わが国に攻撃を企てるにあたって、1ヵ月半から2ヵ月間で必ずソビエト同盟を〝かたづけ〟て、この短期間にウラルに到達することができると考えていた。今では、この気ちがいじみた計画は徹底的に失敗したと考えなければならない。…  

 これらの有利な条件(注:英米仏など他の諸国との新しい連合が実現したこと、ドイツ侵略によって国内の労農同盟、諸民族の友情、赤軍の士気が遥かに高まったこと等)と共に、赤軍にとって不利な条件も幾つかあり、そのためにわが軍が一時的な失敗をなめ、退却を余儀なくされ、わが国のいくたの州を敵にわたさなければならなくなっているのもまた、真実である。…赤軍の失敗の一つは、ドイツ・ファシスト軍に対抗する第二戦線が存在しないことである。…そのためにドイツ軍は兵力を東西二つの戦線にわけて戦わなくてもよいというのが現状である。…わが軍の一時的失敗のもう一つの原因は、われわれの手に戦車と、いくらかは飛行機も足りないことにある。現代戦では、歩兵が戦車なしに、空軍の空からの十分な掩護なしに闘うことは非常に困難である。…ここ(この二つの原因を取り除くこと)に現在の任務がある…し、どんなことがあっても遂行しなければならない。…

 ドイツは現在、他国領土の獲得と多民族の征服を目当てとする不正義の侵略戦争を行なっている。だから、誠実な人々はすべて、ドイツ侵略者どもを敵として立ち上がらねばならない。…ソビエト同盟とその連合諸国は、奴隷化されたヨーロッパとソ同盟の諸民族をヒトラーの圧制から解放することを目当てとする正義の解放戦争を行なっているのである。…これらの目的を実現するためには…わが祖国を奴隷化するためにわが国土に侵入して来たドイツ占領軍を、最期の一兵にいたるまで殲滅しなければならない。…この任務を遂行し、ドイツ侵略者どもを撃滅することによってはじめて、われわれは、恒久的な、正義の平和を獲得することができる。…われらのやっていることは正しい。勝利はわれわれの側にある!わが光栄ある祖国万歳!』(ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争・1953年5月・大月書店)と。

 記念集会の全参加者は一斉に立ち上がり、「偉大なスターリン万歳!」と叫び、嵐のような拍手を送った。「スターリンはいつもわれわれと共にある!」というこの言葉は、大戦を通じて、常に、ソビエト人民の合言葉となった。そして、この日、赤の広場をパレードした赤軍兵士たちは、スターリンに見送られ、そのまま戦いの最前線へと向かったのである。

 移転地クイブィシェフに滞在していた毎日新聞・渡辺三樹男特派員は、『ソ連特派五年』の中で、「ありのままの記録」として、この日の出来事を、次のように伝えている。

 『緒戦以来、退却また退却を続けて来たソ連軍、銃後では食糧や燃料の不足がようやく深刻ならんとしつつあったその当時、このスターリン演説が国民に与えた印象と感銘は、まことに絶大なるものがあった。何よりもまず、スターリンはモスクワに踏みとどまっている!という事実が、国民に底知れぬ力強さと、スターリンへのいや増す信頼感を与えたことを指摘せねばならぬ。とりわけモスクワからの撤退先となったクイブイシェフでは、引き揚げた旧モスクワ市民も、地元市民も共にスターリンに対する感謝と尊敬の念を特に新たにしたようであった。ラジオを通じてスターリンの演説を聞いた彼らは、みな熱狂せんばかりに〝スターリン万歳〟を唱えたことであった。…うす暗闇のなかで行なわれた閲兵式、特に演説するスターリンの姿と声は、ニュース映画に収められて、間もなく全国に公開された』と。

当然のことながら、ソビエト国民はあらためてスターリンに対する敬慕の情を厚くし、「祖国のために!」の決意を新たにした。

 11月半ば、ドイツ軍は「冬前の決着」を求め、最後の死に物狂いの攻撃を開始した。彼らは損害も犠牲も省みることなく、戦車部隊を先頭に、遮二無二モスクワ目指して突進した。しかし、防衛線の死守を誓うソビエト戦闘部隊は、その敵戦車の突破・突入を一台たりとも許さなかった。まさに夜も昼もない、死闘に次ぐ死闘の連続であった。やがて、秋も深くなり、雨が降り続くようになると、ドイツ軍は泥濘に足を取られ、疲労困憊し、早くも一部の兵士の間に絶望感が生まれ始めた。それは中央方面のドイツ軍だけでなく、南部方面のドイツ軍も同様であった。

 1941年12月6日、スターリンと最高軍司令部の全面的支援の下、ジューコフを司令官とする西部方面軍はモスクワの北と南から総反撃を開始した。この反撃に、北からはカリーニン方面軍が、南からは西南方面軍が参加し、やがて各方面軍が一つに合流し、西部方面への戦略的大進攻が始まった。ヒトラー・ドイツ軍は大打撃を受け、西へ西へと退却、敗走し始めた。西に通じる道という道は全て、彼らの遺棄した大量の兵器と自動車とで埋まった。

 ここが勝負どころと見たヒトラーは、「一歩も後退するな!弾丸の最後の一発、手投げ弾の最後の一個まで守り通せ!」との命令を下し、退却を許さなかった。多くのドイツ軍兵士が無残な最期を遂げた。いよいよ冬将軍―零下8度の大寒波―が到来。ドイツ軍に冬の装備はまったく無く、猛烈な寒気の前に人間も砲も機械類も皆、戦闘停止を余儀なくされた。かくして、モスクワ攻防戦は、ヒトラーの完全な敗北に終わった。

 1941年末、モスクワ攻撃と短期決戦に失敗した責任を問われ(ヒトラーの怒りをかって)、北方軍集団司令官・レープ元帥、中央軍集団司令官・ボック元帥、南方軍集団司令官・ルントシュテット元帥、装甲部隊を指揮したグデーリアン将軍など、ドイツ軍中枢の最高司令官・幹部が、軒並みヒトラーと対立、ヒトラーの手によって、次々と解任或いは罷免或いは「辞任」に追い込まれた。

 大木氏は、このモスクワ攻防戦についても、「固定観念に取りつかれたスターリンは、あの夏のヒトラーの南部攻撃作戦―ウクライナカフカズ占領―を見抜けず、あれこれの戦闘で惨敗を喫した」等という、「後だしじゃんけん」よろしく、戦後に判明した戦況知識による「戦評」を書き連ねている。

 その上更に、大木氏は、モスクワ攻防戦におけるドイツ軍の敗北の原因を「ロシアの天候」に帰している。曰く―

 『ドイツ軍は限界に達していた。12月初頭、ロシアの冬将軍が到来し、豪雪と厳寒をもたらしたのだ。ちなみに、一九四一年から一九四二年は、ナポレオンがロシアに侵攻した一八一二年同様の異常気象、ロシアでもめったにない厳冬であった。長期戦必至の形勢に、ドイツ本国では冬季装備の調達が進められていたが、むろん、いまだ前線には届いて いない。ドイツ軍攻撃部隊は寒さにあえぎ、ソ連軍部隊の抵抗をくじく打撃力を失った』と。

 しかしながら、『第三帝国の興亡』の著者であるシャイラーは「反スターリン」派でありながら、その著作の中でで、この点について次のように指摘している。

『ロシアの冬はすさまじく、当然、ソ連軍のそれに対する準備がドイツ軍よりも良くできていたことは認めるが…でき事の帰趨を決定した主要要因は、天候ではなく、赤軍の熾烈な戦闘力と、あきらめることを知らない不屈の意志力だったことを強調しておくべきであろう。ハルダー(注:ドイツの将軍・参謀総長)の日記や野戦指揮官たちの報告は、ソ連軍の攻撃・反撃の規模と苛烈さに対する驚きと、ドイツ側の挫折と絶望を絶え間なく表明して、そのことを裏書きしている』と。

 大木氏とは異なり、事実を素直に見つめ、率直に認めるシャイラーは、ドイツ軍敗北の主要な要因は決して天候―冬将軍の到来―にあったのではない、赤軍の熾烈な戦闘力と不屈の意志力にあった、と強調し、断定している。称賛すべき見識である。