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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第8回) 第1次早大闘争・全共闘運動と遭遇

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート


 冬休みを終えて東京へ帰り、登校した1966年1月初め、大学のキャンパスはすでに闘争モードに突入していて、スト決行―学園封鎖―に向けて各学部の共闘会議の内部で急速に準備が進められていた。というのも、既に前年10月頃より、新たに建設される第2学生会館の管理権を巡って、全学共闘会議自治会及び学内のあらゆるサークル・部活動組織・クラス代表によって構成された全学的な闘争組織)が、大学理事会に対する抗議活動を活発にしていて、逮捕者も出していた。そこに大幅な学費値上問題が加わり、一気に全学ストライキ突入が日程にのぼって来たのである。
 私も含め、正月・冬休み明けにキャンパスに戻って来た一般学生は、従来の年間授業料の1・5倍もの値上げとなる文化系16万・理工系21万という大幅学費値上げに驚いた。そして、あの慶応大学―当時の世間での評価は早稲田は貧乏学生の多い野人的大学で、慶応は金持ちの坊ちゃんのいく紳士的大学という評価であったその慶応大学―以上の大幅な授業料値上げに衝撃を受け、素朴な怒りを抱き、大学運営問題を真剣に考えるようになっていた。勿論、値上げは新年度・新入生からということもあり、皆が皆そうであったというわけではない。私も下宿に籠って居たり、アルバイトに忙しかったりしていて、最初の頃はまだそれほど熱くはなっていなかった。何しろ、この種の運動に遭遇したのは初めてのことであり、1年次夏休み以来の「ドロップアウト生活」が未だに尾を引いてもいた。ただ、級友の中でも特に親しくしていたH君が、そんな私を積極的に闘争の場に導いてくれた。その結果、感性的にではあったが、私の運動への関心も次第に高まっていった。東京下町生まれのH君は高校生の頃から左翼的思想に触れていて、一定の活動経験もあり、事態の本質をかなり深く掌握していて、クラスの良きリーダーであった。
 1966年1月18日、遂に、法学部・教育学部がストに突入した。「早稲田を揺るがした150日間」の始まりであった。各学部の共闘会議も続々と学園封鎖―バリケード構築を決定、決行していった。教員組合も値上げ反対の声明を出した(但し学生のストには「遺憾の意」を表明)。勿論、文学部も校舎の入り口が机・椅子を針金で縛り合わせたバリケードによって封鎖された。
1月末、期末試験が全学部でボイコットされ、9000人デモにより全学部の期末試験実施が阻止され、中止となった。ここに至り、学費・学館問題は完全に全学的全学生的な問題となった。
そして、2月4日―いよいよ記念会堂で10000余の学生が参加した大学側「説明会」―実質的には大衆団交―が開催される。この大衆団交における大浜総長の「発言」が、多くの早大一般学生の怒りに火を着け、憤激を駆り立て、闘いの爆発的高揚を招くことになる。
 この説明会で、共闘会議執行部の厳しい追求に対して発せられた、総長の「授業料値上げや学館管理は大学行政の問題であって、諸君たち学生の関与する問題ではない。35000の学生が反対しても規定方針を貫く」との発言は、学生との全面的対決を宣言するものであった。更に、決定的に学生の憤激を爆発させたのは、共闘会議執行部の「これだけの値上げをしたら、貧しい学生は早稲田に来られなくなるではないか。それで良いのか!?」という質問に対して発せられた、総長の「学費値上げの結果、貧乏人が早稲田に来られなくなったとしてもやむを得ない」という発言であった。それまで静かにしていた一般学生の中からも、「ふざけるな!」「早稲田の面汚し!」という怒号が飛び交い、怒りの叫びが噴出し、会場の雰囲気を一変させた。私もまた、この発言を聞いた瞬間、まさに怒り心頭に発し、「貧乏人が来なくてよい?! そんな早稲田はもはや必要ない。潰してしまえ!」という腹の底からの怒りが全身を駆け巡り、体中が熱く燃え上がった。私の闘争心に火が着いた瞬間であった。
 ここから闘争―バリケードストライキ闘争(バリスト闘争)―は一気に拡大し、大学本部の封鎖・包囲へと向かう。連日の大集会開催・大デモが敢行され、更に入試阻止に向かった。こうした戦術行動は自治会機関の決定ではなく、共闘会議という自治会組織やあらゆるサークル組織・クラス闘争員会等の代表を結集した大衆的闘争機関の決定によるもので、それは闘う者の下からの総意を結集して行動するという直接民主主義的な組織であり、ここに全共闘運動の最大の特徴があった。
しかして、2月21日明け方、遂に大学当局は機動隊導入を図り、一気にバリケード封鎖解除を強行。逆に学生入校を排除する「逆封鎖」に踏み切り、入試実施を強行した。以後、大学当局は何かあると直ぐに機動隊を導入し、学生排除・逮捕が繰り返され、総勢203名もの学友が逮捕された。大学本部の逆封鎖がようやく解除されたのは入試が終わった2月7日であった。当局は、大量のガードマンを常駐させ、5項目の禁止条項―?屋外集会禁止?教室無断使用禁止?デモ禁止?机・椅子の持ち出し禁止?校舎内宿泊禁止―を打ち出した。しかしながら、大半の卒業生のボイコットにより、商学部以外は全て学部毎の卒業式は中止となり、一部の卒業生のみ参加の「全学統一卒業式」となった。
 3月に入ると共闘会議はバリスト構築を再び決定(当局・機動隊によって一方的に解除されたものを復活させる)。3月29日に政経学部で再びバリケードが築かれ、これをきっかけに全学部がバリスト再構築に突入していった。この時、一部の教職員・体育会部員・右翼的学生による「バリスト再構築阻止」の活動が展開され、学生内部の分化・分裂が表面化して来た。 
1966年4月1日、大学当局は「進級試験再実施」を提示する。が、全学部で再度、試験ボイコットが実施され、試験はまた中止となった。ただ、一部で分離試験が行われ、その中で「有志会」によるバリスト中止運動が生まれ、その動きが急速に強まっていった。試験ボイコットに対して、大学当局から「卒業できなくても良いのか!就職出来なくなっても良いのか!」という脅しが加えられた。そのため、学生内部に大きな動揺が生れ、多くの学生が闘争に対して消極的となってた。試験ボイコット戦術を巡って、2年生・3年生・4年生の内部対立・混乱が急速に拡大していった。当然と言えば当然の流れではあった。文学部もスト続行か、スト解除か、学生内部は真二つに割れていった。
 そんな中、わが国文2Bクラスも「闘争委員会」を組織し、論議を深めていたが、4月5日に「スト続行か中止か、多数決決定する場として、自治会総会の開催を要求しよう」との方針を採択・決定し、4月7日より「総会開催要求の署名活動」に乗り出した。私を含めスト続行派の者はこの方針に反対であったが、署名活動賛同が多数を占め、「クラス決定」となったのである。「結局、ここまで学生内部が分裂・混乱してしまった以上、総会で再決定するのもやむを得ないだろう」というのが、その段階での私の結論であった。「総会に向けて真剣な論議が交わされれば、この闘争の意義も深まり、より強固な運動になっていくはずだ」と。しかし、いざ署名活動を始めてみると、署名に参加する学生は皆、「とにかく早く闘争を止めたい、試験を受けたい。問答無用だ」「4年で卒業出来なかったら経歴に傷が付く。早くストを解除してほしい」という学生ばかりであった。共闘会議・自治会執行部からも、左翼的党派(但し代々木派共産党は除く―この問題については後に詳述する)からも、厳しい批判が寄せられた。「良かれ」と思って始めたこの「署名活動」が、キャンパスにおける重大問題となり、私たちに真剣な検討・学習・討論を求めたのである。私が、本当の意味で第1次早大闘争・全共闘運動を闘い始めたのは、これ以後のことであった。そして、その闘いの中で、私は再び『君たちはどう生きるか』に出会うことになる。
 私が経験したこのような「学園闘争」は現代の日本ではほとんど見られない。確かに「1960年代」の時代相と「2010年代」のそれとは、大きく異なる。異なって見える。だがしかし、その違いは現象的なものであって、その本質においては何なら変わることはない。それぞれの時代、若者はそれぞれの時代が突き付ける問題に悩み、苦しみ、絶望し、或る時は逃げ、また或る時は真実と真の解決を求め、悩みつつ日々を暮らしているはずである。「如何に生きるか」は、それを意識するとしないとに関わらず、時代を超えて、常に若者が抱える人生の本質的なテーマに他ならないのだ。そしてまた、時代は日々刻々変わっていく。歴史は決して一か所に止まってはいない。いずれかの日、現代の若き世代も、「一般学生」であった私と同じように、新たに偶然的に発生する事件・闘争に遭遇し、自らが「如何に生きるのか」を真剣に問う時がくるであろう。
 実際、2015年7月の安倍内閣による「安保関連法案」(戦争法案)強行採決という政治的事件が発生した時、SEALS(自由と民主主義のための学生緊急行動)のメンバーのように、この種の運動に初めて参加したという青年学生が多数出現した。未来に不安を覚える多くの青年学生が自らの解決すべき課題としてこのような政治性を持った運動に参加したのである。3年前の夏、数万人が結集した「安保関連法案」(戦争法案)反対の国会包囲行動に私も参加していたが、その中で、SEALSのメンバーだという一人の女子大生が宣伝カーの上から涙ながらに訴えていた光景を見た。「私は一年前まではごく普通の学生生活を送っていて、こんな場所でマイクを握っていることなどまったく想像もできませんでした」と話し始めた彼女は、自らの経験を率直に語り出した。昨年春、入院していた彼女の田舎の祖母が亡くなった。その数日前、祖母を見舞った時、彼女は、その祖母から、終戦直前に特攻隊員として戦死した祖母の恋人の話を、初めて聞いた。今まで、祖母はこの話を誰にも話したことがなかった。祖母は「戦争はだめ!戦争だけはだめ!絶対に許してはならない!」と、涙ながら彼女に言い聞かせたという。彼女は、その祖母の「遺言」を守るために、この「戦争法案」反対の運動に参加している、というのである。  
 彼女のようなこうした抗議運動に初めて参加した多くの青年学生たちは、以後も、その運動経験を踏まえ、「如何に生きるか」を真剣に考えていくであろう。現代という時代が今また青年学生諸君に、「君たちは如何に生きるのか」と鋭く問い始めているのである。そうした青年学生の間に生まれつつある時代意識の変化が、吉野源三郎著『君たちはどう生きるのか』をベストセラーにさせている背景なのであろう。