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(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第12回)   

 20221120日更新  次回更新は1130

 

 

《ウラン作戦》立案をめぐる嘘とデマについて

 

 こここでは二つの「嘘とデマを」を取り上げたい。

 一つは、ソビエト内部の裏切り者、「スターリン批判」者フルシチョフが持ち出した嘘とデマである。フルシチョフは、スターリン死後の1960年に出版された『第二次世界大戦史』(通称・大祖国戦争史)に、「1942年10月6日、フルシチョフとエリョーメンコは大反攻計画を作成し、大本営に送った。更に10月9日にもより大きな計画案を提示した。その後大本営はそれらの案に基づいて作戦計画を討議し始めた」と記録させ、「スターリングラード戦を勝利させた大反攻作戦の立案者は自分たちだ」と主張している。

 これがウソと偽りの「記録」であることは、ジューコフの『回想録』(1969年2月執筆)が明白に暴露している。曰く『スターリングラード戦線軍事会議(ここにフルシチョフがいた)が、10月6日に独自の立場から反攻の組織・実行を最高軍司令部に提案したとの説もあるが、これについては、ワシレフスキー元帥が…「戦史」に次のように書いている。「10月6日未明、われわれは…第51方面軍の監視所に向かった。…この日の夕方…戦闘司令所で軍司令官(エリョーメンコ)と軍事会議員(フルシチョフ)に会い、最高軍司令部(スターリン)が示した反攻計画(ウラン作戦のこと)を改めて検討した。戦闘司令部では、この計画に対する原則的な反対は何もなかったので、最高軍司令官スターリン宛の報告書を、6日の深夜までかかって作りあげた」。彼が述べた資料から明白なように、反攻作戦の立案では、最高軍司令部と参謀本部が主役を演じたのである』と。

 これについては先にも一度紹介したが、山崎雅弘氏が『新版・独ソ戦史』(2016年刊)の「後書き」で次のように批判している。『過去の独ソ研究では…「大祖国戦争史」とフルシチョフの回想録…を参考文献に挙げるのが慣例となっていたが、本書ではこの二種類の書物は書斎の棚に置いたまま、ほとんど参照しなかった。その理由は、両者とも政治的意図に基づく事実の歪曲や曲解、無視、粉飾などがはなはだしく、既に別の研究によって否定されている部分も多いからである。前者は…断片的なデータは参考になるが、後者は…「作り話」と事実の見極めが難しく、とりわけスターリンの戦争指導についての記述や、第二次ハリコフ戦で自らが果たした役割についての弁明など、他の研究者による実証的研究でほぼ否定されていることもあり、執筆中は混乱を避けるため、これらの文献は仕事机から遠ざけていた』と。「反スターリン派」の山崎氏の証言である。まことに「その言や善し」である。

 二つ目の嘘とデマは大木氏のそれである。氏は次のように主張している。

 『ソ連作戦術(注:大木氏によるとトハチェフスキーが創案したという戦術)は、その主唱者たちが大粛清でパージされたこともあって、いったん後景に退くことになった。また、同じく大粛清によって、作戦次元・戦術次元の指揮にあたる将校が大量に排除されたことにより、ソ連軍が緒戦で、質量ともに優越した装備を生かし切れず、敗北を喫したことはすでに述べた(注:これに対する反論は、独ソ戦の軍事に関する幾つかの「疑問・批判」について」を見よ)。一九四一年以来の大敗と苦難は、追放されていたり、脇役に徹していた将校の復帰をもたらした。参謀次長のアレクサンドル・N・ヴァシレフスキー上級大将は、それらのなかから、優れた参謀将校を選りすぐり、一九四二年夏から秋にかけ、たっぷりと時間をかけて、冬季攻勢の作戦を練らせた。フョードル・E・ボコフ少将を長とする、この小集団がソ連作戦術に依拠して、反抗計画を立案したのだ。従来ジューコフとヴァシレフスキーが起案したとされていた。天王星作戦も、今日では、彼らがつくりあげたものであることがわかっている』と。

 つまり、《ウラル作戦》という大作戦計画・戦略的な大作戦計画を立案したのは、トハチェフスキー派幹部―作戦・戦術次元の指揮にあたった将校クラスの小集団―であった、というのである。大木氏は、こうした主張を、それを支える根拠となる記録・文献をまったく示さず、繰り返し高言している。

 これは先に紹介したジューコフの証言、当の参謀次長ヴァシレフスキーの証言とも、また大木氏も読んでいるはずの『第二次世界大戦』の著者リデル・ハートの次のような見解とも真っ向から対立する。

 リデル・ハート曰くー『損害の増大、挫折感の高まり、厳冬季の到来などにより、攻撃軍(ドイツ軍)の士気は低下しつつあり、予備隊は残らず吸い上げられて、側面援護のための長大な戦線は弾力性を失ったまま延びきっていた。 反撃の機が熟しつつあった。ソ連軍は反撃準備を整え、充分な予備隊を集結して敵の張りすぎた側面を有効に叩こうとしていた。反撃(ソビエト軍のウラン作戦発動)は十一月十九、二十日の両日に火蓋が切られ、そのタイミグも上乗だった。反撃はこの冬最初の厳寒の到来により地面が硬く凍結して敏速な活動に便となり、かつ機動を麻痺させる大雪のこない時期に開始された。これはおりよく、ドイツ軍をその消耗の頂点でとらえた。…ドイツ第六軍と第四装甲軍をB軍集団から孤立させるべく、片刃がそれぞれ数個の先端を有する一挺のはさみが、スターリングラード攻撃軍の左右両側面に突き立てられたのである。それは主としてルーマニア(第三)軍が側面援護を担当している地区だった。作戦を立案したのはソ連参謀本部の傑出した三人、ジューコフ、ワシレフスキー、ウォロノフの各将軍だった。担当するのは《南西正面軍》総司令官ワトゥーティン、《ドン正面軍》ロコソフスキー、スターリングラード(もと南) 正面軍》イェレメンコの各将軍――。 ここで注意しておくが、東方戦線のソ連軍は、モスクワの総司令部(注:そのトップがスターリンであり、その代理がジューコフであった)の直接の指揮下にあって一二個 の《正面軍 》(Front)に分けられていた』と。

 リデル・ハートは『作戦を立案したのはソ連参謀本部の傑出した三人、ジューコフ、ワシレフスキー、ウォロノフの各将軍だった』と明確に断定し、彼らはモスクワの総司令部(中心はスターリン)の直接の指揮下にあった、と明言している。

 そもそも、このドイツ軍大包囲作戦たる《ウラン作戦》は優れて戦略的な作戦であって、トハチェフスキーが創案したという「縦深戦」理論―戦略と戦術を結び付けるという作戦術で、敵の最前線から後方までを、砲兵や航空機、起動戦力によって同時に制圧するという理論―とは全く別次元のものであり、更に言えば、こうした大作戦は参謀本部レベルの指導者によってしか考案されるものでなく、決して、戦術次元の指揮を執っているだけの、しかも「縦深戦」という戦術レベルの理論を信奉する将校クラスの幹部が発案・立案できるような代物ではない。こんな嘘とデマが通用するはずがない。

 

 スターリングラード戦後からベルリン陥落・ドイツ軍降伏まで

 

 1943年1月のドイツ第6軍の降伏をもってスターリングラード戦はその幕を閉じた。このスターリンソビエト軍の勝利は、まさにリデル・ハートが述べている通り、独ソ戦の転換点、即ち第二次世界大戦の転換点となった。そして、この時点からソビエト軍の戦略的反抗、戦略的大攻勢が開始され、その攻勢は1945年5月8日のドイツ軍無条件降伏をもって終わる。

 この2年余にわたる戦いによってソ連邦西部のウクライナ白ロシアベラルーシ)・バルト三国が解放され、ポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニアなど東欧諸国が次々とナチスファシズムの支配から解放され,、独立を取り戻した。

 だが、この戦いにおいても、ソビエト軍は多くの犠牲を払わされている。ドイツ軍は戦局が一転して防御にまわるようになってからも、ソ連アメリカ、英帝国の数百万の軍隊を向うにまわして、二年間も持ちこたえ、戦闘を継続した程に強大であり、しかも、ソビエト軍の対独戦を支援すべき「第二戦線」(ヨーロッパ地域における英米仏を中心とする対独戦線)の構築はなかなか進まず、そのためスターリンソビエト軍はより多くの犠牲を強いられた。

 この2年余の戦いについて、リデル・ハートは『第7部・全面的退潮-1944年』『第8

部・終幕-1945年』において、概括的に次のように述べている。

 『ソ連軍の攻勢には型とリズムがあり、その反復が、初期の段階よりもいちだんと鮮明になってきていた。このことがドイツ軍の抵抗力とその力が広範囲に延び切っていた態勢に、どれほど重圧となったかは想像するに難くない。ドイツ軍の予備隊は減少しつつあるのに、長大な戦線を守らなければらなかった。ソ連軍がますます巧みな変化に富んだ方法で敵の弱みにつけ込むありさまは、彼らの技量の向上をよく物語り、また自軍の新たな優位を活用するすべを身につけたことを明らかに示していた。ソ連軍が…一連の重要拠点を占領するに至った経過を調べてみると、いずれの場合も直接隣接した兵団の前進が進捗してから、目標地点に対し行動を起こす場合でさえ、まず間接的なアプローチによってその場所をほとんど維持できなくするか、あるいはせいぜい戦略的にこれを無価値なものとして、そのあとにこれを占領するという方法をとっている。この一連の間接的てこ入れの効果は、作戦行動の型の中にはっきりと見てとることができる。赤軍司令部は鍵盤上に両手を左右に走らせるピアニストにたとえることができるであろう。…

  • (注:「間接的なアプローチ戦法」について、リデル・ハートは「次から次へと別の地点に対する攻撃を反復し、一か所で抵抗が強化され最初の弾みが弱まると、一時攻撃を中止する。各攻撃はすべて次の攻撃を容易にすることを目標とし、また全部が互いに影響し合うように時を見計らって行われた。このためにドイツ軍は攻撃を受けた地点へ急きょ予備隊を送ることを余儀なくされ、これは同時に次の攻撃を受けそうな 地点への予備隊を削がれることを意味した。行動の自由は束縛され、手持ちの予備隊 はいよいよ減っていった」と説明している。この「間接的なアプローチ戦法」は、言うまでもなくトハチェフスキーの「縦深戦法」とは全く対蹠的な戦法、全く異質な戦法である)

 この戦法は(当時のソ連軍のように)敵に対する全般的優勢を保持してはいても、機動力には限りのある軍隊が攻勢をとる場合に適した方法である。これは、横方向に移動するための交通路線が不足し、そのため一地区における攻撃の成功を利用し、その戦果を拡張するために、別の地区から予備隊を迅速に移動させることがむずかしいような時と場所に好適な戦法である。ただ、そのつど新しい戦線へ突入することを必要とするため、この「幅広く」戦果拡張を行なう場合には、「奥深く」突破する場合よりも犠牲は大となりがちである。また迅速に勝ちを決することはむずかしいが、この戦法を用いる軍が充分な物量の優勢をもってこのような方法をもちこたえることができる限り、勝利は保証されているといえよう。

 この攻勢によりソ連軍は当然ドイツ軍より大きな損害をこうむった。しかし、ドイツ軍は自身の攻勢(スターリングラードへの攻撃)が大きな犠牲を払って失敗に終わった後だけに、受けた痛手はソ連軍の比ではなかった。ドイツ軍にとって消耗とは破滅を意味した。…

 このようなソ連軍の怒濤の進撃を阻止する見込みは、眼病をわずらっていたマンシュタインが解任 (1944年3月30日)されたため、薄らいでしまった。 マンシュタインの解任は、眼病が直接の理由とされていたが、真相はヒトラーとの軋轢にあった。マンシュタインヒトラーの戦略を理解に苦しむと評し、総統がとてものめない主張をしていたのである。こうしてドイツの軍人たちから最高の戦略家と目されていた人物が前線からしりぞいてしまっ た。…その間にもドイツ陸軍は、まっしぐらに深淵へと導かれていったのである。…

 ヨーロッパにおける大戦は一九四五年五月八日の真夜中、ついに公式に終了を告げた。…五月二日、南イタリア戦線におけるいっさいの戦闘は終了したが、降服文書の署名はその三日前に行なわれていた。五月四日、ルーンバーグ・ヒースのモントゴメリー司令部において、北西ヨーロッパ・ドイツ軍代表らが同様の降服文書に署名した。五月七日、ランスのアイゼンハワー司令部において、全ドイツ軍代表者たちが、英米仏ソの代表の参列のもとに厳粛に降服文書に署名した。 …ヒトラーは最後まで自分に尽くしたエヴァ・ブラウンと結婚した翌日、四月三十日、ソ連軍接近の報を耳にしながら 、ベルリンの総統官邸の廃墟の中で新妻とともに自殺を遂げた』と。 

 大木氏は、リデル・ハートの上記のような戦況分析とは全く異なる分析、むしろ対立する分析を持ち出し、この間の独ソ戦において重要な役割を果たしたのは、粛清されたトハチェフスキーが創案した作戦術―「縦深戦法」―であり、それを展開したトハチェフスキー派幹部であったという主張を、至る所で、繰り返している。この主張に対する批判は既に述べた通りである。繰り返しになるが、トハチェフスキー派の「縦深戦法」はリデル・ハートが評価している赤軍の「間接的なアプローチ戦法」とは全く別物で、むしろ対蹠的なものであり、更にまた、リデル・ハートは常に戦略的観点を土台に据えて戦術を論じているが、大木氏は戦略的観点抜きに戦術のみを論じている。どちらが要を得た戦況分析なのか、自ずから明らかである。「ソビエト軍の勝利を実現させたのは復活を遂げたトハチェフスキー派の指揮官・将校集団であった」などという嘘とデマをいったい誰が信用するであろうか。

 

 さて、次に、この間に発生した三つの問題を取り上げ、その中心点を論じておきたい。その第1は「第二戦線問題」であり、第2は「カチンの森事件」であり、第3は「ソビエトの東欧占領政策」である。