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(小林尹夫-哲学ルーム)

 独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第14回) 

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

 20221210日更新  次回更新は1220

 

  

 ソビエト政権の東ヨーロッパ占領の型態

                                           

 1944年夏、独ソ戦決着の目途が着き始めると、米英と「国際世論」の関心は、「ソビエトが解放した東欧一帯には如何なる種類の国家が生まれるのか?」に集まった。即ち「ソビエト赤軍の東ヨーロッパ占領の型態は如何なるものになるのか?」と。

 大木氏は『一九四四年八月二〇日に発動されたルーマニア方面へのソ連軍攻勢は大きな成功を収め、九月末には、ブルガリアに進出する。…ついで、ソ連軍はハンガリーに進撃し、十二月末までに首都ブダペストを包囲、ドイツ軍とハンガリー軍の守備隊を孤立させた。…スターリンソ連にとっての独ソ戦はすでに、生存の懸かった闘争から、巨大な勢力圏を確保するための戦争へと変質していた』と決めつけ、「スターリン批判」を展開しているが、これは、当時のチャーチルら反共勢力、英米独占資本の見方でもあった。

 果たして事実、真実はどうであったのか。

 国際世論の関心に応えるべく、米誌『サタデー・イヴニング・ポスト』特派員記者エドガー・スノーは、スターリングラード攻防戦開始前の1942年6月から1943年初頭まで、そして1944年夏からドイツ崩壊の1945年秋までと、2度に亘ってソ連及び東欧を訪れ、各地を回って取材を敢行、その内容を『ソビエト勢力の型態』(1946年6月・時事通信社)に纏め上げた。その中で、当時国際的に注目されていた「ルーマニアにおけるソビエトの動向」について、次のように伝えている。

 『しかしながら、その明日(注:ソビエト人が、勝利を知らせる花火を見上げ、「一番悪い時は過ぎ去り、明日はきっと違った日が訪れるでしょう」と語った、限りない希望をもった明日)に、欧州には果たして如何なる日が訪れるのであろうか?ヒトラーの運命旦夕に迫り、ソ連の勝利が確保されつつある今日、欧州を訪れんとしている運命は、まさに有史以来未曾有重大事でなければならない。…ともあれ、余はヒトラー主義から解放された世界において、ソ連が如何なる役割を果たすのかを理解するために、スターリン元帥の赤軍の旗の下に最初に慴伏(しょうふく・勢いに恐れ頭を下げる)した枢軸衛星国ユーマニアから始めることにしよう。…

 夏の始め(1944年夏)、我々はそのころ既にソビエト連邦に再編入されていた…プルート河を渡り、ルーマニアに入ったが、そこで赤軍は初めて枢軸国の一国の本土に侵入していた。…この歴史的回廊(注:ドナウ河上流から河口に至る地域)において、新しき生活の形態が描き出されんとしていたのである。…

 赤旗の下に最初に慴伏したこのバルカン国―国民を破滅に追い込み、支配階級をして自殺行為に導いたカロル2世の祖国―たるこのルーマニアに対する勝利を、ソビエト政府は果たして如何に利用せんとしているのだろうか?…ソビエト政府の公式発表によれば、ルーマニア軍はオデッサだけでもソビエト市民約20万人を殺戮したと言われるが、ルーマニアの犯したこの種の犯罪行為に対して、スターリンは如何なる償いを要求せんとしているのであろうか?果たして、クレムリンルーマニアの政治的・社会的・文化的生命をまで支配せんとしているのであろうか?…アントネス将軍(ヒトラーに協力した人物)による宿命的な独裁政治の後に如何なる種類の国家が生まれ出るのだろうか?…

 われわれもまた、赤軍ルーマニア領に侵入した時、モロトフ人民委員会議長が、ルーマニアの国境を尊重し、その内部機構に干渉しないことを約束した、特別の声明を発したことも承知している。赤軍は、ソ連が自ら課したこれらの義務を、果たしてどの程度忠実に守っているだろうか?…これらの問題に対する完全な回答が得られるまでには、多分10年の日時を必要とするというのが、実情であろう。…

 ルーマニアのモルダヴィ地方にある…二つの県は、1944年4月以来、赤軍に占領されている地域だが、余はこの両県において、市長、村役人、労働組合員、農民、或いはルーマニアの警察署長、米国の大商社の代表、修道院の尼僧などと会見した。これらの…全ての者が、期せずして一致した一つのことがあった。それは、赤軍が決して如何なる革命運動をも扇動していないということであった。彼らは皆、赤軍は規律ある正確さを以って、モロトフ宣言を忠実に遵奉していると語った。…

 赤軍は、大衆に対して、共産主義乃至は社会主義を宣伝するような運動は、何一つやっていないように見えた。国王と王妃並びに物故したマリー皇太后の写真は、未だに依然として、そのまま政府機関の諸建築に掲げられていた。然るに、これに対してスターリンの肖像は赤軍機関のある建物を除いては、不思議なくらい見受けることができなかった。少なくとも表面的には、赤軍占領地帯の住民たちが…自由を享受していないことを示唆するようなものは、何一つ見当たらなかった。このことは、その当時ルーマニアが、依然としてソビエトと交戦関係にあった事実を考慮すれば、まさに驚くべきことであった。

 事実、今やルーマニア人の中には、ソビエト側について戦闘に従事したいことを明らかに希望している者が、相当の数に上っていた。…赤軍司令官が余に語ったところによると、ルーマニアの農民たちは毎日彼のところへ押しかけ、赤軍への採用を要請するということだった。…

 しかも尚、この地方における外見的な戦争の損害は、余が訪問したソ連の戦場に比べると、驚くほど少なかった。しかも、赤軍が母国における損害の埋合せとしてのルーマニアにおける略奪行爲を絶対に慎しんだことも、驚くべきことだった。ボトサニ県の全域は、赤軍の大包囲作戦によって、全く戦闘行為が行われずして占領されたのだが、余は占領常時の模様を、エヴリン・メイ・トムリーという白髪の、アイルランド生れの婦人から聞いた。かの女はダブリン出身で、ボトサニには三十年も住んでいるが、いまだにドナウ河までに響きわたるかと思われるようなアイルランド訛を持っていた。かの女はこの訛で語る。「わたし達はある朝、眼が覚めて見たら、そこには一発の銃声もなく、ソヴェト兵がやって来ていました。ソヴェト兵は夜の間に入って来たのです。そして殺された者は一人もありませんでした。」…

 このことだけは明らかだった。即ち、ソビエト政府が、この国の将来に対して何らかの計画をもっているにせよ、これを急いで事実を以って示す必要は感じていないということである。いろいろな事情を総合するに、ソ連はこの戦争がまだ終わらない内にさえ、ルーマニアがその国内問題を、自身の手で解決する事を期待しているかに見えた。事実、赤軍当局の直接の干渉がないにも拘らず、ルーマニアの古き秩序は、その指導者たちが犯した過誤のために、早くも崩壊しつつあった。赤軍の占領は、単にルーマニアが新しい指導者を発見しうる環境を作り出したに過ぎない。

 今までの支配階級、即ちナチス並びにその共感者たちは、すでに逃亡し、その或る者は早くもブルガリア及びトルコに逃げ込んでいた。…両県から逃げ出した連中は、ルーマニア政府の支援の下に、赤軍の到着する以前に、予め逃亡資金その他の支給を受けていたと言われる。…差し当たっては、彼らの所有していた店舗とか工場とかは、県庁によって接収され、これは或る場合には労働者の組織した委員会に貸与されていた。

 各地に労働組合が復活していた。ボトサニ県では、労働者の90%までが新たに組織された7つの組合のいずれかに所属していた。パン焼き労働組合は、雇用者との闘争において、夜間労働の禁止、賃金の50%引き上げ、労働者一人当たり600グラムのパン支給などの待遇改善を獲得した。更に一層興味深いと思われることは、パン製造の原価を引き下げ、パンがあらゆる人々に行き渡るために、パンを全く一つの型に統一する事を、組合が要求したことだ。彼らは、赤軍の支援を得て、この要求を貫徹した。…ルーマニアにも、以前には労働組合があったことは勿論だが、アントネスコは全体主義的方法をもってこれを弾圧し、組合の指導者たちを監獄にぶち込んだ。組合委員たちの語ったところによると、これら指導者たちの多くが、ドイツ軍によって監獄から引き出され、有名なレビアッツ収容所で焼き殺されたということだ。…

 赤軍の統治下においては、労働者階級はもはや、警察にいじめつけられるようなことはなく、地方の指導者たちが確言したところによると、ソビエト当局は労働の争議に干渉するようなところはなかったが、但し、赤軍が労働者側に不利に用いられることはないとのことである(何という大きな但し書きであることよ)。

 しかし、労働組合員は彼らが決して共産党員でないことを主張していた。余は試みに、組合員の内には共産主義の共鳴者もいないのかと尋ねてみたが、組合のスポークスマンが与えた回答は、結局「よく気をつけて下さい。自分たちはただの労働者なんですよ!」と言うにあった。…

 一つ困難な問題があった。それは…ユダヤ人地主たちが、赤軍の到着と共に再び帰って来て、彼らの土地の返還を要求しだしたことである。この問題に対して、赤軍司令官、わずか25歳の…大佐は次のように説明した。

 「…ユダヤ地主の大部分は百姓たちの間に人気が悪い。それで、彼らにその土地を返還しないことに決定した。というのは、ルーマニアにはまだ依然として、ユダヤ人に土地を返還することを禁止した法律があるからでもある。赤軍ルーマニアの法律を変えることはできない。これをするためには、ブカレストに新しいルーマニア政府が組織されるのを待つ必要がある。その間の暫定措置として、これらの土地は、農民たちが自治団体を組織してこれを耕し、その小作料として収穫の半分を国家に納めることとした。」

 農民にとって今一つの驚きは、税金がびっくりするほど、少なくなったことだった。…村長によると、従来10ヘクタールの土地を持った農民は、毎年1000レイ、米貨にして約10ドルの税金を払わされていたが、今ではわずか200レイを払えばいいことになった。…都市の居住者に対しても、いろいろな戦時税が廃止された。然るに、都市、農村を問わず、こうした良き時代を実現したのは、ソビエト当局の善政ではなく、皆ルーマニア地方当局の功績ということにされていた。…

 余は多くのルーマニアユダヤ人と会談した。…ユダヤ人たちは、彼らがもはや虐待などは受けていないことを認めた。決して恐怖におののいて生活するようなこともなく、自由人として暮らすことが出来、もう飢えに悩むこともない、と言っていた。

 或る時、われわれのために赤軍将兵と住民共同主催の音楽界が催されたことがあった。…。この席ではユダヤ人たちが感傷的なダンスを踊り、哀れっぽい歌を歌ったが、特に彼ら(ルーマニア人とユダヤ人の住民)がルーマニア民謡を歌った時、同じ席で、赤軍の将校たちも素晴らしい声で完全に調和の取れ、力のこもった嵐の如き歌を合唱したのと、それは非常な対照を見せた。片方は、ユダヤ人もルーマニア人も共に陰鬱な、指導者のいない、迷う民族である。然るに一方は、満々たる自信を持って、将来への希望に目を輝かせている、教育のある、解放された赤軍将兵である。…元気な若い声で歌われるこの歌(注:ナポレオン戦争の時唄われた「われらの母はわが大砲…われらが父祖はわれらが勝利!」というロシアの古い軍歌)は、天井に跳ね返り、これに聞き入る地方住民はまったく文字通り圧倒され、讃嘆と恐怖との入り混じった感情をもって、このはち切れんばかりの生命力の躍動を見守るのみだった。かかる瞬間において、だれでもが感じる事は、あらゆるソビエト人が過去ではどんな苦しみを舐めたとはいえ、ソ連を今度の様な有史以来未曾有の軍事的栄光に導いた人物としてスターリンを崇拝するのは、まったく当然だということである。…

 要するに、ルーマニアにおける状態は、赤軍が来るまで、逃亡せずに残っていた者たちにとって、決して悪くはなかった。それどころか、大部分の大衆の生活状態は確かに改善されてさえいた。保守的な農民さえ土地を持つことが許され、その収穫物を自分で処理することができた。…労働者も自由を享受し、新しい力さえ感ずることができるほどだった。ユダヤ人は強制収容所から解放されていた。彼らは更に平等の権利と生きる機会とに恵まれるようになった。全ての人々は宗教の自由を有し、教会およびその機関はもはや迫害を受けるようなことはなくなった。

 しかしながら、一方では、ソビエト当局は、ルーマニア人をヒトラーとの同盟に追いやったような指導勢力が再び台頭するが如きことは、断じて容赦しない方針を取っていることを示す兆候も、至る所で見受けられた。…

 余は「サタデー・イヴニング・ポスト」誌に送った赤軍ルーマニア占領に関する報道の最後を、次の文章をもって結んだ。

 「…今や彼ら農民も、漸くにして自分たちにも確固たる運命開拓の機会が与えられていることを知ったのであり、その態度も次第に変わってゆくだろう。ブカレストルーマニアの首都)が陥落するならば、労働者も立ち上がるだろう。…最初はおずおずと、しかしやがて自分たちの力に自信を持つに至るだろう。強制収容所からは、ファシズム以前の知識階級や反ヒットラー派の政治的指導者の生き残った人々が復帰してくるであろう。彼らは、その他弾圧を受けた農民・自由・共産諸党の人々と共に、協力してルーマニアの指導勢力となり、この悩み多き国に住む、暗い、奴隷の如き存在から自由にしてまっすぐに立ち上がれる人間をつくりだすことができよう。しかし、それが如何なるものであろうとも、かくして生れ出る新政権は、その他もろもろのバルカン政権と共に、東方に蟠距する巨人の好意と諒解とに重く依存しなければならなくなるだろうことは、不可避である…」と』。

 スノーが報じたこのソビエトによる「ルーマニアの占領形態」こそ、ファシズム支配から解放された東ヨーロッパの全ての国々に適用された「占領形態」であった。そして、これこそ、マルクス・レーニン主義が指し示している原則「革命は外から押しつけられるものではない」「一国の革命は、内容的には国際的であるが、その形式は民族的である」の忠実な実践であった。

 1944年8月23日、首都ブカレスト共産主義者を中心とするルーマニアの革命派が、赤軍と綿密に連絡をとりながら蜂起し、反ファシズム革命政権を樹立するや、一切の権限はこの革命政権に委ねられた。当然のことながら、この新政権は直ちに対独宣戦布告を声明し、革命軍はソビエト赤軍と共にドイツ本国へ、ベルリンへと進撃を開始したのである。

 

 ところで、ハンガリーポーランドが辿った道はルーマニアとは全く異なるものであった。

 ハンガリーでは、ファシスト政権があくまでもヒトラー・ドイツ軍との同盟を固持し、首都ブタペストを要塞化し、ソビエト軍と正面衝突する道を歩んだ。1945年4月、ソビエト赤軍の前に敗北を喫したハンガリー軍は、隣国オーストリアに退却し、そこで、ドイツ第三帝国が降伏する日まで頑強に抵抗し続け、悲惨な最後を迎えている。

 ポーランドでは、1944年8月1日に決行された反ナチの「ワルシャワ蜂起」が完全に失敗に終わった。この蜂起はロンドンの反共派亡命政府が主導し、彼らがすべて準備し、実行したものであった。それは準備不足で、赤軍頼みの外因論そのものであり、最初から失敗が危惧されていた。亡命政府は、自らが主導したワルシャワ蜂起の失敗について、「蜂起が失敗したのはソビエト赤軍が援軍に来なかったからだ」と言い張り、スターリンソビエト赤軍を激しく非難した。こうした「援軍を出さなかったスターリンが悪い」式の外因論に凝り固まったポーランドの反共派民族主義者に、民族解放・独立など達成できるはずがなかった。

 大木氏もポーランドの反共派民族主義者とまったく同じ見解であり、「スターリンにとってロンドン亡命政権の指揮を受けた国内軍(蜂起軍)は邪魔な存在であった」との説を紹介しつつ、「ソ連軍はワルシャワ近郊に迫っていたにも関わらず、言うに足る支援を国内軍に与えようとしなかったのだ。国内軍は孤立無援のまま、二カ月を戦い抜き、力尽きて降伏した」と断定している。「ソ連軍はドイツ軍の反撃を受けていたため国内軍を支援できなかったという説も唱えられている」としつつも、結局のところ、スターリンは「蜂起軍を見殺しにした」との見方に汲みしている。

 しかしながら、ソビエト政府・赤軍は蜂起に関する情報を最初に受け取ったのは、既に蜂起が始まっている最中のことであった。ジューコフは、その回想録で、『私は、蜂起を助けるためにわが軍隊が全力を上げたことを確認しているが、しかし繰り返して言うが、この蜂起は全く唯の一度もソ連軍司令部と連絡はなかったのである』と、はっきりと書いている。

 当時、東欧現地を訪れていたエドガー・スノーは、その著書『ソビエト勢力の形態』において、「成功したブカレスト蜂起」(ルーマニア)と「失敗したワルシャワ蜂起」(ポーランド)を徹底的に比較・検討し、後者を厳しく批判している。

 『ルーマニア軍が如何に弱い軍であったかはひとまずおくとして、ブカレストルーマニアの首都)蜂起軍―その中には訓練の行きとどかない数千の労働者軍も参加していたのだが―の戦闘ぶりはまさに素晴らしいものがあったことを、認めなければなるまい。…周蜜な計画の賜物であり、4ヵ月前に結成されたルーマニアの反ヒトラー派と赤軍との完全な連絡が、この成功をもたらしたのである。

 この成功は、反ソビエト派のボール将軍(注:ポーランド国内に帰っていたポーランド亡命軍の大将)によって計画され、実行されたワルシャワ蜂起軍の惨憺たる失敗と対比さるべく、この時ボール将軍は赤軍との間に何らの連絡も取らなかったことを想起しなければならない。…

 ローラ=ジメルスキー(赤軍によって承認された新ポーランド軍の司令官)は、赤軍ワルシャワ郊外、ヴィスワの大河の東岸にあるプラガを占領するに至るまでの作戦行動を詳細に説明してくれたが、…彼は極めて明確に、ロンドンのポーランド亡命政権ポーランド祖国軍司令官ボール将軍との共同責任においてなされたかのワルシャワ蜂起は、赤軍との相談も、或いは如何なる種類の連絡もなく、まったく単独で開始されたものだと断言した。

 赤軍ワルシャワ自体に対しては、迂回作戦をとり、赤軍主力はその背後に回ってドイツ軍の退路を絶った。結局、ワルシャワ守備のドイツ軍は、同市が(赤軍によって)完全に包囲された後に降伏を申し出た。然しながら、その間、ワルシャワ市の内部では、ポーランド祖国軍とドイツ軍の間に、猛烈な市街戦が展開され、これがため、市街はその跡を留めぬまでに破壊され、祖国軍は結局殲滅され、この無駄且つ絶望的な蜂起のために数十万のワルシャワ市民がその命を落とした。

 ロンドンの亡命政権は、その当時しきりに、声を大にして、赤軍ワルシャワを強襲してボール将軍…を救わなかったことを「裏切り行為」だとして大いに非難したが、今にして考えれば、非難の対象は赤軍にあらずして、主として、彼ら自身の指導力の欠如並びに致命的な外交的錯覚に置かるべきことが明らかである。

 このワルシャワにおける大失敗があった後には、ロンドンの亡命政権の勢威は急速に崩壊していった。ボール軍の将校だった者たちが何百となくポーランド国民軍(赤軍に承認されたポーランド人民軍)に参加し始めた』と。

 リデル・ハートもその大著で次のように語っている。

 『(1944年)七月三十一日、…ロコソフスキーの一縦隊(赤軍)はヴィスワ川東岸に伸びるワルシャワの郊外プラガの周辺に達した。翌朝、ドイツ軍はヴィスワ川の橋を渡ってワルシャワ市に向かい後退を開始した。これに力を得たポーランド「地下組織」の指導者たちは蜂起を指令した。…

 八月一日夜には、同市の大部分はワルシャワ市民の手中にあって、ソ連軍が川を越えて救援に赴いてくれるのを心待ちしていたおりもおり、砲声は遠のき、不気味な静寂が支配し、市民は困惑し固唾を呑んでいた。すると(八月)十日、その静寂はふいに破られ、猛烈な砲爆撃とともにドイツ軍の同市奪還攻撃が開始された。市中ではブル(=ボール)将軍指揮下のポーランド地下部隊が頑強に抵抗したが、間もなく彼らは一つの小区域に追い込まれ、川向う(ソ連軍をさす)からはなんの救援活動も行なわれなかった。…

 この論争のもつれ(注:赤軍が介入しなかったのは軍事的理由か政治的理由か)をほぐすのは容易でないにしても、この時点でソ連軍が広範囲に進撃を阻止されていたことを考えれば、政治的考慮よりも軍事的要因がものをいったこともまた明らかであろう。

 ワルシャワ前面において最もソ連軍を悩ましたのは、強力なSS装甲三個師団の介入であった。このうち一個師団は南方戦線から、残り一個師団はイタリア戦線から、いずれも七月二十九日に到来したばかりであったが、これらが北翼から反撃に出てソ連軍の突出部にくさびを打ち込み、これを後退させた。同時にソ連軍がヴィスワ川を越えて設けた橋頭堡から進撃を試みたが、ドイツ軍は本国からの増援部隊の助力を得てこれを阻止した。八月第一週の終りまでには、カルパチア山麓およびリトアニアにおけるわずかな進展を除き、ソ連軍は全域にわたって阻止された』と。

 大木氏は、こうしたリデル・ハートなどの戦評について、「そういう説もある」として軽く片づけている。しかし、もしそれが間違いであるというのなら、自らの戦評をきちんと対置し、反論すべきであろう。

 なお、エドガー・スノーは、ポーランドに打ち立てられた「新秩序」について、『ソビエト勢力の形態』で、次のように報告している。

 『ルブリンは、当時、ポーランド解放委員会及びその行政委員会の首都であったが、赤軍当局は既にこの委員会をポーランド解放地区における唯一の政権として承認していた。…

 当時、ポーランド解放委員会の勢力は未だ弱く、これに参加した政党は四つあったが、なお且つ大衆の支持を確保するために…農民党の助力を必要とした。しかしながら、一方では、解放委会の掲げる土地改革計画によって、遠からず農民の支持を受けるに至るだろうこと、また都市労働者に対する直接の呼びかけによって、労働階級の間にも確乎たる地盤を築きあげるだろうことは、既に明らかに予想することが出来た。米英両国の干渉のみを頼りとしたロンドン亡命政権が、解放委員会の如く、ポーランドの土にしっかりと根を下した政権の敵であり得ないことは、はじめからわかりきっていた。かくて、ポーランドの歴史において最初に生れ出たこの親ソ政権の指導者達は、スターリンの支持の下、東プロシヤ及びシレジア地区の割譲を得て、ポーランドにおける安定した新秩序を急速に実現すべく、赤軍進撃のあとに、着々その基礎工事を築きあげつつあったのである。…

 枢軸国(ファシズム陣営)との闘争の始めから、クレムリンはこれを「ソヴェト連邦の祖国戦争」と呼んでいた。ソ連は戦争に追い込まれたのである。世界に思想的な変化を齎す目的を以て先手をうったのではなく、自己の思想をソ連に押しつけようとした者と戦ったのであった。

 それにも拘らず赤き勝利は不可避的に世界の面貌を変ずる。敵を撃破する過程において、ソヴェト連邦は疑いもなく数百万の友、または礼賛者を、或は如何なる程度にせよ深く新しい尊敬を、まぢかに住む諸国民の間にかち得た』と。

 これこそが「大祖国戦争」だったのであり、ここに独ソ戦争の真実であり、スターリンソビエトの真実の姿がある。