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(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第15回)   

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

 

                             202212月30日更新 (最終回)

 

 

 

 終章 独ソ戦争の真実

 

 大木氏はその著書の「第5章」「終章」で、あらためて自らの「独ソ戦争観」を次のようにまとめている。

『ドイツが遂行しようとした対ソ戦争は、戦争目的を達成したのちに講和で終結 するような一九世紀的戦争ではなく、人種主義にもとづく社会秩序の改変と収奪による植民地帝国の建設をめざす世界観戦争であり、かつ「敵」と定められた者の生命を組織的に奪っていく絶滅戦争でもあるという、複合的な戦争だったことが理解されるであろう。…

 これに対し、ソ連にとっての対独戦は、共産主義の成果を防衛することが、すなわち祖国を守ることであるとの論理を立て、イデオロギーナショナリズムを融合させることで、国民動員をはかった。 かかる方策は、ドイツの侵略をしりぞける原動力となったものの、同時に敵に対する無制限の暴力の発動を許した。 また、それは、中・東欧への拡張は、ソ連邦という、かけがえのない祖国の安全保障のために必要不可欠であるとの動機づけにもなったのであった』と。

 そして、自らのこの「独ソ戦争観」を裏付ける根拠として、ここで再びかのユダヤ人記者イリア・エレンブルグの「報復は正義であり、報復は神聖である。…殺すドイツ人が一人もいなければ、機関銃で奴らの珍奇なグラスを粉々にすればいい」との記事を取り上げている。大木氏の著書では取り上げられていないが、エレンブルグは1945年4月に書いた記事にも、「ドイツ人は全て戦争の罪を有するからナチであると否とを問わず罰せられなければならない」と書いている。ナチスによって筆舌に尽くしがたい迫害・虐殺を加えられたユダヤ民族の一員であるエレンブルグが、こうした記事を書いた心情は、それなりに理解できる。また、実際、こうした「ドイツ人憎し」の感情に駆られ、最前線の戦闘現場では、一部に、行き過ぎた報復行為があったことも事実である。それは何もソ連軍に限ったことではない。戦争は「殺し合い」であり、「非理性的行為」である。人間性が破壊され、およそ考えられないような事態が生まれる。日本軍国主義によって戦争に駆り出された日本の一般兵士も、戦場において、普段では考えられないような蛮行を繰り広げた。それが戦争というものである。

 ただ、それだけに、その国の政府・軍のトップ・指導者が、どのような政治思想・政策をもって戦争を指導し、指揮したのかが厳しく問われる。クラウゼヴィッツも『戦争論』の中で繰り返し「戦争は異なる手段をもってする政治の継続である」と教えている。筆者が、この書において、独ソ戦争の指導者であったヒトラースターリンそれぞれの政治思想とイデオロギー・軍事的政策について、詳しく追求して来た理由はここにある。また、多くの紙幅を割いて『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著)を引用し、スターリンの旗の下に戦った彼女ら女性兵士の「祖国のために」という純粋な英雄主義、負傷したドイツ兵の救助に当たった彼女らの高潔な人間性に関わる事実・証言を紹介した理由も、ここにある。

 ところで、大木氏は、自らの「独ソ戦争観」の正当性を証明する根拠として、最終章に至ってもなお、「エレンブルグ」をことさらに大きく取り上げ、「スターリン批判」を展開しているが、はたして、ボルシェヴィキ党中央宣伝部部長アレクサンドロフが、ソビエト赤軍がベルリン攻略の最後の攻勢を開始する直前、即ち1945年4月15日付の党機関紙『プラウダ』紙上で、エレンブルの「全てのドイツ人に報復せよ!」との主張を全面的に否定している事実を知っているであろうか?彼は、次のように述べているのだ。

『イリア・エレンブルグのドイツ国民の集団的犯罪なる命題にソビエト輿論が表明されているわけではない。これは十分考えられた結果のものではなく、明らかに誤りである。ソビエト人民はドイツ国民とドイツを支配する犯罪的ナチス一派とを同一物とは決して考えなかった』と。

 米誌『サタデー・イヴニング・ポスト』特派員記者エドガー・スノーも、エレンブルグを批判した『プラウダ』の記事を紹介しつつ、次のように報じている。

ソ連における基本的な宣伝が戦争の反独的な性質よりむしろ反ファッショ的反ヒットラー的な性質を強調して来たことも事実である。…

 或る人に聞いた所では、ドイツ兵達(ドイツ兵捕虜)の胸中にある真の疑問は、ドイツに残るものを運営するのは誰か、聯合軍は果してドイツの何らかの政権に自由を持たせるだろうか、中央政府を作る可能性はあるだろうか、もしドイツが過去の犯罪を償い了したら、いかに小さくとも統一されたドイツが主権を回復し得るだろうか、反ファッショ的ドイツ国民は自分達の国会を―今から五年か十年のうちに―選出することが出来るだろうか、ということであると言う。

 親ソ的なドイツ人たち(注:自由ドイツ委員会の幹部)は兵士達のこの質問に対して然りと答えた。彼らは俘虜に向かってスター ンがソ連にはドイツ国を滅すつもりはないと言ったと話して聞かせた。スターリンは「ドイツを滅すということは不可能だ」と言っている。彼は常にヒットラードイツ国民とを区別していた。ソ連はドイツ人の生活の基礎を破壊することに興味をもっているわけではなかった(但し敵対的な資本家的勢力とは別だ)。 ただその経済が将来の侵略に利用されないということを確実にしたかったのである』と。

 大木氏の「独ソ両国による絶滅戦争」などいう見方が如何に誤ったものであるか、一目瞭然である。

 

 大木氏に限らず、多くの知識人、「反共派」のみならず「良識派」までもが、「スターリン…」と聞いただけで顔を顰める。哀れにも、彼らは皆、フルシチョフ及び彼と結託したアメリカCIA・米政府の「反スターリン宣伝」に毒され、素直に、率直にスターリン独ソ戦に関する歴史的事実、歴史的真実に耳を傾けることが出来なくなっている。

 それ故に、最後に、あらためてここで、第二次世界大戦独ソ戦争を戦い抜いたソビエト人民のその偉大な指導者・スターリンの演説、その核心的部分を紹介しよう。

『この戦争で、ヒトラー・ドイツとファシスト軍は、過去のあらゆる戦争の際のドイツとドイツ軍よりも、遥かに強力で狡猾で経験を積んだ敵であったことを認めなければならない。

 ドイツはこの戦争で、殆ど全ヨーロッパの生産力と、ドイツに追随する諸国家の相当有力な軍隊とを利用する事に成功したことも、これに付け加える必要がある。

 そして、戦争遂行上、ドイツに有利なこれらの条件にもかかわらず、ドイツがやはり避けがたい滅亡の淵に立ったという理由は、ドイツの主要敵であるソビエト同盟が、力において、ヒトラー・ドイツを凌駕した点に求めなければならない。…

 赤軍が祖国に対する義務を成功的に果たすことができて、ドイツ軍をわがソビエトから駆逐したのは、わが国全体、わが国の諸民族が、銃後から献身的に赤軍を支持していたおかげである。

 全てのソビエト人―労働者・農民・インテリゲンツィアの献身的な活動は、わが国家機関および党機関の指導的活動と同じく、この数年間「すべてを前線のために」という旗印のもとに行なわれた。…十月革命によって生み出された社会主義制度は、わが国民とわが軍に偉大な、超克し難い力を与えた。…銃後におけるソビエト国民の労働の功績は、戦線におけるわが将兵の不滅の勲功と同じく、熱烈な生気を生むソビエト愛国主義をその源泉としている。…

 ソビエト人がドイツ侵略者を憎むのは、彼らが異民族であるからではなく、彼らがわが国や自由を愛する全ての国民に対して、数え切れない不幸と苦難をもたらしたからである。わが国民の間には昔からこういうことわざがある。「狼を殺すのは、狼が灰色だからではなく、狼が羊を食ったせいである」…

 ソビエト愛国主義の威力は、それが人種的乃至は国家主義的偏見に基づかずに、祖国に対する民衆の深い愛着と忠誠心、わが国における各民族勤労大衆間の同胞愛に基づいている事実にある。…ヒトラー一味が今次戦争で蒙った敗北は、単に軍事的であるばかりでなく、道義的政治的敗北でもある。わが国に深く根を張る各民族・各国民間の平等のイデオロギー、民衆の間の友好関係のイデオロギーは、動物的国家主義と人種的憎悪に基礎をおくヒトラー一味のイデオロギーに対して、完全な勝利を収めた。…

 祖国戦争が勝利の終局に向かって進んでいる現在、ソビエト国民の歴史的役割は偉大なものになりつつある。ソビエト国民が、その献身的な闘争によってファシスト虐殺者からヨーロッパの文明を救ったということは、今では誰でも認めている。ここに、人類の歴史に対するソビエト国民の偉大な功績がある。』

   (1944年11月6日、モスクワで開かれた『大十月社会主義革命27周年記念』の祝    

    賀式典における「スターリン演説」より)