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(小林尹夫-哲学ルーム)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第16回) 

 『独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

     2023年2月10日更新  次回更新は2月20日

 

 終章  スターリンソビエト人民の偉大な勝利

 

 大木氏はその著書の「第5章」「終章」で、あらためて自らの「独ソ戦争観」を次のようにまとめている。

 『ドイツが遂行しようとした対ソ戦争は、戦争目的を達成したのちに講和で終結 するような一九世紀的戦争ではなく、人種主義にもとづく社会秩序の改変と収奪による植民地帝国の建設をめざす世界観戦争であり、かつ「敵」と定められた者の生命を組織的に奪っていく絶滅戦争でもあるという、複合的な戦争だったことが理解されるであろう。…

 これに対し、ソ連にとっての対独戦は、共産主義の成果を防衛することが、すなわち祖国を守ることであるとの論理を立て、イデオロギーナショナリズムを融合させることで、国民動員をはかった。 かかる方策は、ドイツの侵略をしりぞける原動力となったものの、同時に敵に対する無制限の暴力の発動を許した。 また、それは、中・東欧への拡張は、ソ連邦という、かけがえのない祖国の安全保障のために必要不可欠であるとの動機づけにもなったのであった』と。

 そして、自らのこの「独ソ戦争観」を裏付ける根拠として、ここで再びかのユダヤ人記者イリア・エレンブルグの「報復は正義であり、報復は神聖である。…殺すドイツ人が一人もいなければ、機関銃で奴らの珍奇なグラスを粉々にすればいい」との記事を取り上げている。大木氏の著書では取り上げられていないが、エレンブルグは1945年4月に書いた記事にも、「ドイツ人は全て戦争の罪を有するからナチであると否とを問わず罰せられなければならない」と書いている。ナチスによって筆舌に尽くしがたい迫害・虐殺を加えられたユダヤ民族の一員であるエレンブルグが、こうした記事を書いた心情は、それなりに理解できる。また、実際、こうした「ドイツ人憎し」の感情に駆られ、最前線の戦闘現場では、一部に、行き過ぎた報復行為があったことも事実である。しかし、それは何もソ連軍に限ったことではない。戦争は「殺し合い」であり、「非理性的行為」である。人間性が破壊され、およそ考えられないような事件が生まれる。日本軍国主義によって戦争に駆り出された日本の一般兵士も、戦場において、普段では考えられないような蛮行を繰り広げた。それが戦争というものである。

 ただ、それだけに、その国の政府・軍のトップ・指導者が、どのような政治思想・政策をもって戦争を指導し、指揮したのかが厳しく問われる。クラウゼヴィッツも『戦争論』の中で繰り返し「戦争は異なる手段をもってする政治の継続である」と教えている。筆者が、この書において、独ソ戦争の指導者であったヒトラースターリンそれぞれの政治思想とイデオロギー・軍事的政策について、詳しく追求して来た理由はここにある。また、多くの紙幅を割いて『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著)を引用し、スターリンの旗の下に戦った彼女ら女性兵士の「祖国のために」という純粋な英雄主義、負傷したドイツ兵の救助に当たった彼女らの高潔な人間性に関わる事実・証言を紹介した理由も、ここにある。

 大木氏は、自らの「独ソ戦争観」の正当性を証明する根拠として、最終章に至ってもなお、「エレンブルグ」をことさらに大きく取り上げ、「スターリン批判」を展開しているが、はたして、大木氏は、ボルシェヴィキ党中央宣伝部部長アレクサンドロフが、ソビエト赤軍がベルリン攻略の最後の攻勢を開始する直前、即ち1945年4月15日付の党機関紙『プラウダ』紙上で、エレンブルの「全てのドイツ人に報復せよ!」との主張を全面的に否定している事実を知っているであろうか?アレクサンドロフは、次のように述べているのだ。

 『イリア・エレンブルグのドイツ国民の集団的犯罪なる命題にソビエト輿論が表明されているわけではない。これは十分考えられた結果のものではなく、明らかに誤りである。ソビエト人民はドイツ国民とドイツを支配する犯罪的ナチス一派とを同一物とは決して考えなかった』と。

 米誌『サタデー・イヴニング・ポスト』特派員記者エドガー・スノーも、エレンブルグを批判した『プラウダ』の記事を紹介しつつ、次のように報じている。

 『ソ連における基本的な宣伝が戦争の反独的な性質よりむしろ反ファッショ的反ヒットラー的な性質を強調して来たことも事実である。…

 或る人に聞いた所では、ドイツ兵達(ドイツ兵捕虜)の胸中にある真の疑問は、ドイツに残るものを運営するのは誰か、聯合軍は果してドイツの何らかの政権に自由を持たせるだろうか、中央政府を作る可能性はあるだろうか、もしドイツが過去の犯罪を償い了したら、いかに小さくとも統一されたドイツが主権を回復し得るだろうか、反ファッショ的ドイツ国民は自分達の国会を―今から五年か十年のうちに―選出することが出来るだろうか、ということであると言う。

 親ソ的なドイツ人たち(注:自由ドイツ委員会の幹部)は兵士達のこの質問に対して然りと答えた。彼らは俘虜に向かってスター ンがソ連にはドイツ国を滅すつもりはないと言ったと話して聞かせた。スターリンは「ドイツを滅すということは不可能だ」と言っている。彼は常にヒットラードイツ国民とを区別していた。ソ連はドイツ人の生活の基礎を破壊することに興味をもっているわけではなかった(但し敵対的な資本家的勢力とは別だ)。 ただその経済が将来の侵略に利用されないということを確実にしたかったのである』と。

 大木氏の「独ソ両国による絶滅戦争」などいう見方が如何に誤ったものであるか、一目瞭然である。

 

 大木氏に限らず、多くの知識人、「反共派」のみならず「良識派」までもが、「スターリン…」と聞いただけで顔を顰める。哀れにも、彼らは皆、フルシチョフ及び彼と結託したアメリカCIA・米政府の「反スターリン宣伝」に毒されていて、素直に、率直にスターリン独ソ戦に関する歴史的事実、歴史的真実に耳を傾けることが出来なくなっている。

 それ故に、最後に、あらためてここで、第二次世界大戦独ソ戦争を戦い抜いたソビエト人民の最高指導者・スターリンの言葉を紹介しよう。

 『この戦争で、ヒトラー・ドイツとファシスト軍は、過去のあらゆる戦争の際のドイツとドイツ軍よりも、遥かに強力で狡猾で経験を積んだ敵であったことを認めなければならない。

 ドイツはこの戦争で、殆ど全ヨーロッパの生産力と、ドイツに追随する諸国家の相当有力な軍隊とを利用する事に成功したことも、これに付け加える必要がある。

 そして、戦争遂行上、ドイツに有利なこれらの条件にもかかわらず、ドイツがやはり避けがたい滅亡の淵に立ったという理由は、ドイツの主要敵であるソビエト同盟が、力において、ヒトラー・ドイツを凌駕した点に求めなければならない。…

 赤軍が祖国に対する義務を成功的に果たすことができて、ドイツ軍をわがソビエトから駆逐したのは、わが国全体、わが国の諸民族が、銃後から献身的に赤軍を支持していたおかげである。

 全てのソビエト人―労働者・農民・インテリゲンツィアの献身的な活動は、わが国家機関および党機関の指導的活動と同じく、この数年間「すべてを前線のために」という旗印のもとに行なわれた。…十月革命によって生み出された社会主義制度は、わが国民とわが軍に偉大な、超克し難い力を与えた。…銃後におけるソビエト国民の労働の功績は、戦線におけるわが将兵の不滅の勲功と同じく、熱烈な生気を生むソビエト愛国主義をその源泉としている。…

 ソビエト人がドイツ侵略者を憎むのは、彼らが異民族であるからではなく、彼らがわが国や自由を愛する全ての国民に対して、数え切れない不幸と苦難をもたらしたからである。わが国民の間には昔からこういうことわざがある。「狼を殺すのは、狼が灰色だからではなく、狼が羊を食ったせいである」…

 ソビエト愛国主義の威力は、それが人種的乃至は国家主義的偏見に基づかずに、祖国に対する民衆の深い愛着と忠誠心、わが国における各民族勤労大衆間の同胞愛に基づいている事実にある。…ヒトラー一味が今次戦争で蒙った敗北は、単に軍事的であるばかりでなく、道義的政治的敗北でもある。わが国に深く根を張る各民族・各国民間の平等のイデオロギー、民衆の間の友好関係のイデオロギーは、動物的国家主義と人種的憎悪に基礎をおくヒトラー一味のイデオロギーに対して、完全な勝利を収めた。…

 祖国戦争が勝利の終局に向かって進んでいる現在、ソビエト国民の歴史的役割は偉大なものになりつつある。ソビエト国民が、その献身的な闘争によってファシスト虐殺者からヨーロッパの文明を救ったということは、今では誰でも認めている。ここに、人類の歴史に対するソビエト国民の偉大な功績がある。』

(1944年11月6日、モスクワで開かれた『大十月社会主義革命27周年記念』の祝賀式典における「スターリン演説」より)

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第15回)   

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

 

                             202212月30日更新 (最終回)

 

 

 

 終章 独ソ戦争の真実

 

 大木氏はその著書の「第5章」「終章」で、あらためて自らの「独ソ戦争観」を次のようにまとめている。

『ドイツが遂行しようとした対ソ戦争は、戦争目的を達成したのちに講和で終結 するような一九世紀的戦争ではなく、人種主義にもとづく社会秩序の改変と収奪による植民地帝国の建設をめざす世界観戦争であり、かつ「敵」と定められた者の生命を組織的に奪っていく絶滅戦争でもあるという、複合的な戦争だったことが理解されるであろう。…

 これに対し、ソ連にとっての対独戦は、共産主義の成果を防衛することが、すなわち祖国を守ることであるとの論理を立て、イデオロギーナショナリズムを融合させることで、国民動員をはかった。 かかる方策は、ドイツの侵略をしりぞける原動力となったものの、同時に敵に対する無制限の暴力の発動を許した。 また、それは、中・東欧への拡張は、ソ連邦という、かけがえのない祖国の安全保障のために必要不可欠であるとの動機づけにもなったのであった』と。

 そして、自らのこの「独ソ戦争観」を裏付ける根拠として、ここで再びかのユダヤ人記者イリア・エレンブルグの「報復は正義であり、報復は神聖である。…殺すドイツ人が一人もいなければ、機関銃で奴らの珍奇なグラスを粉々にすればいい」との記事を取り上げている。大木氏の著書では取り上げられていないが、エレンブルグは1945年4月に書いた記事にも、「ドイツ人は全て戦争の罪を有するからナチであると否とを問わず罰せられなければならない」と書いている。ナチスによって筆舌に尽くしがたい迫害・虐殺を加えられたユダヤ民族の一員であるエレンブルグが、こうした記事を書いた心情は、それなりに理解できる。また、実際、こうした「ドイツ人憎し」の感情に駆られ、最前線の戦闘現場では、一部に、行き過ぎた報復行為があったことも事実である。それは何もソ連軍に限ったことではない。戦争は「殺し合い」であり、「非理性的行為」である。人間性が破壊され、およそ考えられないような事態が生まれる。日本軍国主義によって戦争に駆り出された日本の一般兵士も、戦場において、普段では考えられないような蛮行を繰り広げた。それが戦争というものである。

 ただ、それだけに、その国の政府・軍のトップ・指導者が、どのような政治思想・政策をもって戦争を指導し、指揮したのかが厳しく問われる。クラウゼヴィッツも『戦争論』の中で繰り返し「戦争は異なる手段をもってする政治の継続である」と教えている。筆者が、この書において、独ソ戦争の指導者であったヒトラースターリンそれぞれの政治思想とイデオロギー・軍事的政策について、詳しく追求して来た理由はここにある。また、多くの紙幅を割いて『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著)を引用し、スターリンの旗の下に戦った彼女ら女性兵士の「祖国のために」という純粋な英雄主義、負傷したドイツ兵の救助に当たった彼女らの高潔な人間性に関わる事実・証言を紹介した理由も、ここにある。

 ところで、大木氏は、自らの「独ソ戦争観」の正当性を証明する根拠として、最終章に至ってもなお、「エレンブルグ」をことさらに大きく取り上げ、「スターリン批判」を展開しているが、はたして、ボルシェヴィキ党中央宣伝部部長アレクサンドロフが、ソビエト赤軍がベルリン攻略の最後の攻勢を開始する直前、即ち1945年4月15日付の党機関紙『プラウダ』紙上で、エレンブルの「全てのドイツ人に報復せよ!」との主張を全面的に否定している事実を知っているであろうか?彼は、次のように述べているのだ。

『イリア・エレンブルグのドイツ国民の集団的犯罪なる命題にソビエト輿論が表明されているわけではない。これは十分考えられた結果のものではなく、明らかに誤りである。ソビエト人民はドイツ国民とドイツを支配する犯罪的ナチス一派とを同一物とは決して考えなかった』と。

 米誌『サタデー・イヴニング・ポスト』特派員記者エドガー・スノーも、エレンブルグを批判した『プラウダ』の記事を紹介しつつ、次のように報じている。

ソ連における基本的な宣伝が戦争の反独的な性質よりむしろ反ファッショ的反ヒットラー的な性質を強調して来たことも事実である。…

 或る人に聞いた所では、ドイツ兵達(ドイツ兵捕虜)の胸中にある真の疑問は、ドイツに残るものを運営するのは誰か、聯合軍は果してドイツの何らかの政権に自由を持たせるだろうか、中央政府を作る可能性はあるだろうか、もしドイツが過去の犯罪を償い了したら、いかに小さくとも統一されたドイツが主権を回復し得るだろうか、反ファッショ的ドイツ国民は自分達の国会を―今から五年か十年のうちに―選出することが出来るだろうか、ということであると言う。

 親ソ的なドイツ人たち(注:自由ドイツ委員会の幹部)は兵士達のこの質問に対して然りと答えた。彼らは俘虜に向かってスター ンがソ連にはドイツ国を滅すつもりはないと言ったと話して聞かせた。スターリンは「ドイツを滅すということは不可能だ」と言っている。彼は常にヒットラードイツ国民とを区別していた。ソ連はドイツ人の生活の基礎を破壊することに興味をもっているわけではなかった(但し敵対的な資本家的勢力とは別だ)。 ただその経済が将来の侵略に利用されないということを確実にしたかったのである』と。

 大木氏の「独ソ両国による絶滅戦争」などいう見方が如何に誤ったものであるか、一目瞭然である。

 

 大木氏に限らず、多くの知識人、「反共派」のみならず「良識派」までもが、「スターリン…」と聞いただけで顔を顰める。哀れにも、彼らは皆、フルシチョフ及び彼と結託したアメリカCIA・米政府の「反スターリン宣伝」に毒され、素直に、率直にスターリン独ソ戦に関する歴史的事実、歴史的真実に耳を傾けることが出来なくなっている。

 それ故に、最後に、あらためてここで、第二次世界大戦独ソ戦争を戦い抜いたソビエト人民のその偉大な指導者・スターリンの演説、その核心的部分を紹介しよう。

『この戦争で、ヒトラー・ドイツとファシスト軍は、過去のあらゆる戦争の際のドイツとドイツ軍よりも、遥かに強力で狡猾で経験を積んだ敵であったことを認めなければならない。

 ドイツはこの戦争で、殆ど全ヨーロッパの生産力と、ドイツに追随する諸国家の相当有力な軍隊とを利用する事に成功したことも、これに付け加える必要がある。

 そして、戦争遂行上、ドイツに有利なこれらの条件にもかかわらず、ドイツがやはり避けがたい滅亡の淵に立ったという理由は、ドイツの主要敵であるソビエト同盟が、力において、ヒトラー・ドイツを凌駕した点に求めなければならない。…

 赤軍が祖国に対する義務を成功的に果たすことができて、ドイツ軍をわがソビエトから駆逐したのは、わが国全体、わが国の諸民族が、銃後から献身的に赤軍を支持していたおかげである。

 全てのソビエト人―労働者・農民・インテリゲンツィアの献身的な活動は、わが国家機関および党機関の指導的活動と同じく、この数年間「すべてを前線のために」という旗印のもとに行なわれた。…十月革命によって生み出された社会主義制度は、わが国民とわが軍に偉大な、超克し難い力を与えた。…銃後におけるソビエト国民の労働の功績は、戦線におけるわが将兵の不滅の勲功と同じく、熱烈な生気を生むソビエト愛国主義をその源泉としている。…

 ソビエト人がドイツ侵略者を憎むのは、彼らが異民族であるからではなく、彼らがわが国や自由を愛する全ての国民に対して、数え切れない不幸と苦難をもたらしたからである。わが国民の間には昔からこういうことわざがある。「狼を殺すのは、狼が灰色だからではなく、狼が羊を食ったせいである」…

 ソビエト愛国主義の威力は、それが人種的乃至は国家主義的偏見に基づかずに、祖国に対する民衆の深い愛着と忠誠心、わが国における各民族勤労大衆間の同胞愛に基づいている事実にある。…ヒトラー一味が今次戦争で蒙った敗北は、単に軍事的であるばかりでなく、道義的政治的敗北でもある。わが国に深く根を張る各民族・各国民間の平等のイデオロギー、民衆の間の友好関係のイデオロギーは、動物的国家主義と人種的憎悪に基礎をおくヒトラー一味のイデオロギーに対して、完全な勝利を収めた。…

 祖国戦争が勝利の終局に向かって進んでいる現在、ソビエト国民の歴史的役割は偉大なものになりつつある。ソビエト国民が、その献身的な闘争によってファシスト虐殺者からヨーロッパの文明を救ったということは、今では誰でも認めている。ここに、人類の歴史に対するソビエト国民の偉大な功績がある。』

   (1944年11月6日、モスクワで開かれた『大十月社会主義革命27周年記念』の祝    

    賀式典における「スターリン演説」より)

 独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第14回) 

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

 20221210日更新  次回更新は1220

 

  

 ソビエト政権の東ヨーロッパ占領の型態

                                           

 1944年夏、独ソ戦決着の目途が着き始めると、米英と「国際世論」の関心は、「ソビエトが解放した東欧一帯には如何なる種類の国家が生まれるのか?」に集まった。即ち「ソビエト赤軍の東ヨーロッパ占領の型態は如何なるものになるのか?」と。

 大木氏は『一九四四年八月二〇日に発動されたルーマニア方面へのソ連軍攻勢は大きな成功を収め、九月末には、ブルガリアに進出する。…ついで、ソ連軍はハンガリーに進撃し、十二月末までに首都ブダペストを包囲、ドイツ軍とハンガリー軍の守備隊を孤立させた。…スターリンソ連にとっての独ソ戦はすでに、生存の懸かった闘争から、巨大な勢力圏を確保するための戦争へと変質していた』と決めつけ、「スターリン批判」を展開しているが、これは、当時のチャーチルら反共勢力、英米独占資本の見方でもあった。

 果たして事実、真実はどうであったのか。

 国際世論の関心に応えるべく、米誌『サタデー・イヴニング・ポスト』特派員記者エドガー・スノーは、スターリングラード攻防戦開始前の1942年6月から1943年初頭まで、そして1944年夏からドイツ崩壊の1945年秋までと、2度に亘ってソ連及び東欧を訪れ、各地を回って取材を敢行、その内容を『ソビエト勢力の型態』(1946年6月・時事通信社)に纏め上げた。その中で、当時国際的に注目されていた「ルーマニアにおけるソビエトの動向」について、次のように伝えている。

 『しかしながら、その明日(注:ソビエト人が、勝利を知らせる花火を見上げ、「一番悪い時は過ぎ去り、明日はきっと違った日が訪れるでしょう」と語った、限りない希望をもった明日)に、欧州には果たして如何なる日が訪れるのであろうか?ヒトラーの運命旦夕に迫り、ソ連の勝利が確保されつつある今日、欧州を訪れんとしている運命は、まさに有史以来未曾有重大事でなければならない。…ともあれ、余はヒトラー主義から解放された世界において、ソ連が如何なる役割を果たすのかを理解するために、スターリン元帥の赤軍の旗の下に最初に慴伏(しょうふく・勢いに恐れ頭を下げる)した枢軸衛星国ユーマニアから始めることにしよう。…

 夏の始め(1944年夏)、我々はそのころ既にソビエト連邦に再編入されていた…プルート河を渡り、ルーマニアに入ったが、そこで赤軍は初めて枢軸国の一国の本土に侵入していた。…この歴史的回廊(注:ドナウ河上流から河口に至る地域)において、新しき生活の形態が描き出されんとしていたのである。…

 赤旗の下に最初に慴伏したこのバルカン国―国民を破滅に追い込み、支配階級をして自殺行為に導いたカロル2世の祖国―たるこのルーマニアに対する勝利を、ソビエト政府は果たして如何に利用せんとしているのだろうか?…ソビエト政府の公式発表によれば、ルーマニア軍はオデッサだけでもソビエト市民約20万人を殺戮したと言われるが、ルーマニアの犯したこの種の犯罪行為に対して、スターリンは如何なる償いを要求せんとしているのであろうか?果たして、クレムリンルーマニアの政治的・社会的・文化的生命をまで支配せんとしているのであろうか?…アントネス将軍(ヒトラーに協力した人物)による宿命的な独裁政治の後に如何なる種類の国家が生まれ出るのだろうか?…

 われわれもまた、赤軍ルーマニア領に侵入した時、モロトフ人民委員会議長が、ルーマニアの国境を尊重し、その内部機構に干渉しないことを約束した、特別の声明を発したことも承知している。赤軍は、ソ連が自ら課したこれらの義務を、果たしてどの程度忠実に守っているだろうか?…これらの問題に対する完全な回答が得られるまでには、多分10年の日時を必要とするというのが、実情であろう。…

 ルーマニアのモルダヴィ地方にある…二つの県は、1944年4月以来、赤軍に占領されている地域だが、余はこの両県において、市長、村役人、労働組合員、農民、或いはルーマニアの警察署長、米国の大商社の代表、修道院の尼僧などと会見した。これらの…全ての者が、期せずして一致した一つのことがあった。それは、赤軍が決して如何なる革命運動をも扇動していないということであった。彼らは皆、赤軍は規律ある正確さを以って、モロトフ宣言を忠実に遵奉していると語った。…

 赤軍は、大衆に対して、共産主義乃至は社会主義を宣伝するような運動は、何一つやっていないように見えた。国王と王妃並びに物故したマリー皇太后の写真は、未だに依然として、そのまま政府機関の諸建築に掲げられていた。然るに、これに対してスターリンの肖像は赤軍機関のある建物を除いては、不思議なくらい見受けることができなかった。少なくとも表面的には、赤軍占領地帯の住民たちが…自由を享受していないことを示唆するようなものは、何一つ見当たらなかった。このことは、その当時ルーマニアが、依然としてソビエトと交戦関係にあった事実を考慮すれば、まさに驚くべきことであった。

 事実、今やルーマニア人の中には、ソビエト側について戦闘に従事したいことを明らかに希望している者が、相当の数に上っていた。…赤軍司令官が余に語ったところによると、ルーマニアの農民たちは毎日彼のところへ押しかけ、赤軍への採用を要請するということだった。…

 しかも尚、この地方における外見的な戦争の損害は、余が訪問したソ連の戦場に比べると、驚くほど少なかった。しかも、赤軍が母国における損害の埋合せとしてのルーマニアにおける略奪行爲を絶対に慎しんだことも、驚くべきことだった。ボトサニ県の全域は、赤軍の大包囲作戦によって、全く戦闘行為が行われずして占領されたのだが、余は占領常時の模様を、エヴリン・メイ・トムリーという白髪の、アイルランド生れの婦人から聞いた。かの女はダブリン出身で、ボトサニには三十年も住んでいるが、いまだにドナウ河までに響きわたるかと思われるようなアイルランド訛を持っていた。かの女はこの訛で語る。「わたし達はある朝、眼が覚めて見たら、そこには一発の銃声もなく、ソヴェト兵がやって来ていました。ソヴェト兵は夜の間に入って来たのです。そして殺された者は一人もありませんでした。」…

 このことだけは明らかだった。即ち、ソビエト政府が、この国の将来に対して何らかの計画をもっているにせよ、これを急いで事実を以って示す必要は感じていないということである。いろいろな事情を総合するに、ソ連はこの戦争がまだ終わらない内にさえ、ルーマニアがその国内問題を、自身の手で解決する事を期待しているかに見えた。事実、赤軍当局の直接の干渉がないにも拘らず、ルーマニアの古き秩序は、その指導者たちが犯した過誤のために、早くも崩壊しつつあった。赤軍の占領は、単にルーマニアが新しい指導者を発見しうる環境を作り出したに過ぎない。

 今までの支配階級、即ちナチス並びにその共感者たちは、すでに逃亡し、その或る者は早くもブルガリア及びトルコに逃げ込んでいた。…両県から逃げ出した連中は、ルーマニア政府の支援の下に、赤軍の到着する以前に、予め逃亡資金その他の支給を受けていたと言われる。…差し当たっては、彼らの所有していた店舗とか工場とかは、県庁によって接収され、これは或る場合には労働者の組織した委員会に貸与されていた。

 各地に労働組合が復活していた。ボトサニ県では、労働者の90%までが新たに組織された7つの組合のいずれかに所属していた。パン焼き労働組合は、雇用者との闘争において、夜間労働の禁止、賃金の50%引き上げ、労働者一人当たり600グラムのパン支給などの待遇改善を獲得した。更に一層興味深いと思われることは、パン製造の原価を引き下げ、パンがあらゆる人々に行き渡るために、パンを全く一つの型に統一する事を、組合が要求したことだ。彼らは、赤軍の支援を得て、この要求を貫徹した。…ルーマニアにも、以前には労働組合があったことは勿論だが、アントネスコは全体主義的方法をもってこれを弾圧し、組合の指導者たちを監獄にぶち込んだ。組合委員たちの語ったところによると、これら指導者たちの多くが、ドイツ軍によって監獄から引き出され、有名なレビアッツ収容所で焼き殺されたということだ。…

 赤軍の統治下においては、労働者階級はもはや、警察にいじめつけられるようなことはなく、地方の指導者たちが確言したところによると、ソビエト当局は労働の争議に干渉するようなところはなかったが、但し、赤軍が労働者側に不利に用いられることはないとのことである(何という大きな但し書きであることよ)。

 しかし、労働組合員は彼らが決して共産党員でないことを主張していた。余は試みに、組合員の内には共産主義の共鳴者もいないのかと尋ねてみたが、組合のスポークスマンが与えた回答は、結局「よく気をつけて下さい。自分たちはただの労働者なんですよ!」と言うにあった。…

 一つ困難な問題があった。それは…ユダヤ人地主たちが、赤軍の到着と共に再び帰って来て、彼らの土地の返還を要求しだしたことである。この問題に対して、赤軍司令官、わずか25歳の…大佐は次のように説明した。

 「…ユダヤ地主の大部分は百姓たちの間に人気が悪い。それで、彼らにその土地を返還しないことに決定した。というのは、ルーマニアにはまだ依然として、ユダヤ人に土地を返還することを禁止した法律があるからでもある。赤軍ルーマニアの法律を変えることはできない。これをするためには、ブカレストに新しいルーマニア政府が組織されるのを待つ必要がある。その間の暫定措置として、これらの土地は、農民たちが自治団体を組織してこれを耕し、その小作料として収穫の半分を国家に納めることとした。」

 農民にとって今一つの驚きは、税金がびっくりするほど、少なくなったことだった。…村長によると、従来10ヘクタールの土地を持った農民は、毎年1000レイ、米貨にして約10ドルの税金を払わされていたが、今ではわずか200レイを払えばいいことになった。…都市の居住者に対しても、いろいろな戦時税が廃止された。然るに、都市、農村を問わず、こうした良き時代を実現したのは、ソビエト当局の善政ではなく、皆ルーマニア地方当局の功績ということにされていた。…

 余は多くのルーマニアユダヤ人と会談した。…ユダヤ人たちは、彼らがもはや虐待などは受けていないことを認めた。決して恐怖におののいて生活するようなこともなく、自由人として暮らすことが出来、もう飢えに悩むこともない、と言っていた。

 或る時、われわれのために赤軍将兵と住民共同主催の音楽界が催されたことがあった。…。この席ではユダヤ人たちが感傷的なダンスを踊り、哀れっぽい歌を歌ったが、特に彼ら(ルーマニア人とユダヤ人の住民)がルーマニア民謡を歌った時、同じ席で、赤軍の将校たちも素晴らしい声で完全に調和の取れ、力のこもった嵐の如き歌を合唱したのと、それは非常な対照を見せた。片方は、ユダヤ人もルーマニア人も共に陰鬱な、指導者のいない、迷う民族である。然るに一方は、満々たる自信を持って、将来への希望に目を輝かせている、教育のある、解放された赤軍将兵である。…元気な若い声で歌われるこの歌(注:ナポレオン戦争の時唄われた「われらの母はわが大砲…われらが父祖はわれらが勝利!」というロシアの古い軍歌)は、天井に跳ね返り、これに聞き入る地方住民はまったく文字通り圧倒され、讃嘆と恐怖との入り混じった感情をもって、このはち切れんばかりの生命力の躍動を見守るのみだった。かかる瞬間において、だれでもが感じる事は、あらゆるソビエト人が過去ではどんな苦しみを舐めたとはいえ、ソ連を今度の様な有史以来未曾有の軍事的栄光に導いた人物としてスターリンを崇拝するのは、まったく当然だということである。…

 要するに、ルーマニアにおける状態は、赤軍が来るまで、逃亡せずに残っていた者たちにとって、決して悪くはなかった。それどころか、大部分の大衆の生活状態は確かに改善されてさえいた。保守的な農民さえ土地を持つことが許され、その収穫物を自分で処理することができた。…労働者も自由を享受し、新しい力さえ感ずることができるほどだった。ユダヤ人は強制収容所から解放されていた。彼らは更に平等の権利と生きる機会とに恵まれるようになった。全ての人々は宗教の自由を有し、教会およびその機関はもはや迫害を受けるようなことはなくなった。

 しかしながら、一方では、ソビエト当局は、ルーマニア人をヒトラーとの同盟に追いやったような指導勢力が再び台頭するが如きことは、断じて容赦しない方針を取っていることを示す兆候も、至る所で見受けられた。…

 余は「サタデー・イヴニング・ポスト」誌に送った赤軍ルーマニア占領に関する報道の最後を、次の文章をもって結んだ。

 「…今や彼ら農民も、漸くにして自分たちにも確固たる運命開拓の機会が与えられていることを知ったのであり、その態度も次第に変わってゆくだろう。ブカレストルーマニアの首都)が陥落するならば、労働者も立ち上がるだろう。…最初はおずおずと、しかしやがて自分たちの力に自信を持つに至るだろう。強制収容所からは、ファシズム以前の知識階級や反ヒットラー派の政治的指導者の生き残った人々が復帰してくるであろう。彼らは、その他弾圧を受けた農民・自由・共産諸党の人々と共に、協力してルーマニアの指導勢力となり、この悩み多き国に住む、暗い、奴隷の如き存在から自由にしてまっすぐに立ち上がれる人間をつくりだすことができよう。しかし、それが如何なるものであろうとも、かくして生れ出る新政権は、その他もろもろのバルカン政権と共に、東方に蟠距する巨人の好意と諒解とに重く依存しなければならなくなるだろうことは、不可避である…」と』。

 スノーが報じたこのソビエトによる「ルーマニアの占領形態」こそ、ファシズム支配から解放された東ヨーロッパの全ての国々に適用された「占領形態」であった。そして、これこそ、マルクス・レーニン主義が指し示している原則「革命は外から押しつけられるものではない」「一国の革命は、内容的には国際的であるが、その形式は民族的である」の忠実な実践であった。

 1944年8月23日、首都ブカレスト共産主義者を中心とするルーマニアの革命派が、赤軍と綿密に連絡をとりながら蜂起し、反ファシズム革命政権を樹立するや、一切の権限はこの革命政権に委ねられた。当然のことながら、この新政権は直ちに対独宣戦布告を声明し、革命軍はソビエト赤軍と共にドイツ本国へ、ベルリンへと進撃を開始したのである。

 

 ところで、ハンガリーポーランドが辿った道はルーマニアとは全く異なるものであった。

 ハンガリーでは、ファシスト政権があくまでもヒトラー・ドイツ軍との同盟を固持し、首都ブタペストを要塞化し、ソビエト軍と正面衝突する道を歩んだ。1945年4月、ソビエト赤軍の前に敗北を喫したハンガリー軍は、隣国オーストリアに退却し、そこで、ドイツ第三帝国が降伏する日まで頑強に抵抗し続け、悲惨な最後を迎えている。

 ポーランドでは、1944年8月1日に決行された反ナチの「ワルシャワ蜂起」が完全に失敗に終わった。この蜂起はロンドンの反共派亡命政府が主導し、彼らがすべて準備し、実行したものであった。それは準備不足で、赤軍頼みの外因論そのものであり、最初から失敗が危惧されていた。亡命政府は、自らが主導したワルシャワ蜂起の失敗について、「蜂起が失敗したのはソビエト赤軍が援軍に来なかったからだ」と言い張り、スターリンソビエト赤軍を激しく非難した。こうした「援軍を出さなかったスターリンが悪い」式の外因論に凝り固まったポーランドの反共派民族主義者に、民族解放・独立など達成できるはずがなかった。

 大木氏もポーランドの反共派民族主義者とまったく同じ見解であり、「スターリンにとってロンドン亡命政権の指揮を受けた国内軍(蜂起軍)は邪魔な存在であった」との説を紹介しつつ、「ソ連軍はワルシャワ近郊に迫っていたにも関わらず、言うに足る支援を国内軍に与えようとしなかったのだ。国内軍は孤立無援のまま、二カ月を戦い抜き、力尽きて降伏した」と断定している。「ソ連軍はドイツ軍の反撃を受けていたため国内軍を支援できなかったという説も唱えられている」としつつも、結局のところ、スターリンは「蜂起軍を見殺しにした」との見方に汲みしている。

 しかしながら、ソビエト政府・赤軍は蜂起に関する情報を最初に受け取ったのは、既に蜂起が始まっている最中のことであった。ジューコフは、その回想録で、『私は、蜂起を助けるためにわが軍隊が全力を上げたことを確認しているが、しかし繰り返して言うが、この蜂起は全く唯の一度もソ連軍司令部と連絡はなかったのである』と、はっきりと書いている。

 当時、東欧現地を訪れていたエドガー・スノーは、その著書『ソビエト勢力の形態』において、「成功したブカレスト蜂起」(ルーマニア)と「失敗したワルシャワ蜂起」(ポーランド)を徹底的に比較・検討し、後者を厳しく批判している。

 『ルーマニア軍が如何に弱い軍であったかはひとまずおくとして、ブカレストルーマニアの首都)蜂起軍―その中には訓練の行きとどかない数千の労働者軍も参加していたのだが―の戦闘ぶりはまさに素晴らしいものがあったことを、認めなければなるまい。…周蜜な計画の賜物であり、4ヵ月前に結成されたルーマニアの反ヒトラー派と赤軍との完全な連絡が、この成功をもたらしたのである。

 この成功は、反ソビエト派のボール将軍(注:ポーランド国内に帰っていたポーランド亡命軍の大将)によって計画され、実行されたワルシャワ蜂起軍の惨憺たる失敗と対比さるべく、この時ボール将軍は赤軍との間に何らの連絡も取らなかったことを想起しなければならない。…

 ローラ=ジメルスキー(赤軍によって承認された新ポーランド軍の司令官)は、赤軍ワルシャワ郊外、ヴィスワの大河の東岸にあるプラガを占領するに至るまでの作戦行動を詳細に説明してくれたが、…彼は極めて明確に、ロンドンのポーランド亡命政権ポーランド祖国軍司令官ボール将軍との共同責任においてなされたかのワルシャワ蜂起は、赤軍との相談も、或いは如何なる種類の連絡もなく、まったく単独で開始されたものだと断言した。

 赤軍ワルシャワ自体に対しては、迂回作戦をとり、赤軍主力はその背後に回ってドイツ軍の退路を絶った。結局、ワルシャワ守備のドイツ軍は、同市が(赤軍によって)完全に包囲された後に降伏を申し出た。然しながら、その間、ワルシャワ市の内部では、ポーランド祖国軍とドイツ軍の間に、猛烈な市街戦が展開され、これがため、市街はその跡を留めぬまでに破壊され、祖国軍は結局殲滅され、この無駄且つ絶望的な蜂起のために数十万のワルシャワ市民がその命を落とした。

 ロンドンの亡命政権は、その当時しきりに、声を大にして、赤軍ワルシャワを強襲してボール将軍…を救わなかったことを「裏切り行為」だとして大いに非難したが、今にして考えれば、非難の対象は赤軍にあらずして、主として、彼ら自身の指導力の欠如並びに致命的な外交的錯覚に置かるべきことが明らかである。

 このワルシャワにおける大失敗があった後には、ロンドンの亡命政権の勢威は急速に崩壊していった。ボール軍の将校だった者たちが何百となくポーランド国民軍(赤軍に承認されたポーランド人民軍)に参加し始めた』と。

 リデル・ハートもその大著で次のように語っている。

 『(1944年)七月三十一日、…ロコソフスキーの一縦隊(赤軍)はヴィスワ川東岸に伸びるワルシャワの郊外プラガの周辺に達した。翌朝、ドイツ軍はヴィスワ川の橋を渡ってワルシャワ市に向かい後退を開始した。これに力を得たポーランド「地下組織」の指導者たちは蜂起を指令した。…

 八月一日夜には、同市の大部分はワルシャワ市民の手中にあって、ソ連軍が川を越えて救援に赴いてくれるのを心待ちしていたおりもおり、砲声は遠のき、不気味な静寂が支配し、市民は困惑し固唾を呑んでいた。すると(八月)十日、その静寂はふいに破られ、猛烈な砲爆撃とともにドイツ軍の同市奪還攻撃が開始された。市中ではブル(=ボール)将軍指揮下のポーランド地下部隊が頑強に抵抗したが、間もなく彼らは一つの小区域に追い込まれ、川向う(ソ連軍をさす)からはなんの救援活動も行なわれなかった。…

 この論争のもつれ(注:赤軍が介入しなかったのは軍事的理由か政治的理由か)をほぐすのは容易でないにしても、この時点でソ連軍が広範囲に進撃を阻止されていたことを考えれば、政治的考慮よりも軍事的要因がものをいったこともまた明らかであろう。

 ワルシャワ前面において最もソ連軍を悩ましたのは、強力なSS装甲三個師団の介入であった。このうち一個師団は南方戦線から、残り一個師団はイタリア戦線から、いずれも七月二十九日に到来したばかりであったが、これらが北翼から反撃に出てソ連軍の突出部にくさびを打ち込み、これを後退させた。同時にソ連軍がヴィスワ川を越えて設けた橋頭堡から進撃を試みたが、ドイツ軍は本国からの増援部隊の助力を得てこれを阻止した。八月第一週の終りまでには、カルパチア山麓およびリトアニアにおけるわずかな進展を除き、ソ連軍は全域にわたって阻止された』と。

 大木氏は、こうしたリデル・ハートなどの戦評について、「そういう説もある」として軽く片づけている。しかし、もしそれが間違いであるというのなら、自らの戦評をきちんと対置し、反論すべきであろう。

 なお、エドガー・スノーは、ポーランドに打ち立てられた「新秩序」について、『ソビエト勢力の形態』で、次のように報告している。

 『ルブリンは、当時、ポーランド解放委員会及びその行政委員会の首都であったが、赤軍当局は既にこの委員会をポーランド解放地区における唯一の政権として承認していた。…

 当時、ポーランド解放委員会の勢力は未だ弱く、これに参加した政党は四つあったが、なお且つ大衆の支持を確保するために…農民党の助力を必要とした。しかしながら、一方では、解放委会の掲げる土地改革計画によって、遠からず農民の支持を受けるに至るだろうこと、また都市労働者に対する直接の呼びかけによって、労働階級の間にも確乎たる地盤を築きあげるだろうことは、既に明らかに予想することが出来た。米英両国の干渉のみを頼りとしたロンドン亡命政権が、解放委員会の如く、ポーランドの土にしっかりと根を下した政権の敵であり得ないことは、はじめからわかりきっていた。かくて、ポーランドの歴史において最初に生れ出たこの親ソ政権の指導者達は、スターリンの支持の下、東プロシヤ及びシレジア地区の割譲を得て、ポーランドにおける安定した新秩序を急速に実現すべく、赤軍進撃のあとに、着々その基礎工事を築きあげつつあったのである。…

 枢軸国(ファシズム陣営)との闘争の始めから、クレムリンはこれを「ソヴェト連邦の祖国戦争」と呼んでいた。ソ連は戦争に追い込まれたのである。世界に思想的な変化を齎す目的を以て先手をうったのではなく、自己の思想をソ連に押しつけようとした者と戦ったのであった。

 それにも拘らず赤き勝利は不可避的に世界の面貌を変ずる。敵を撃破する過程において、ソヴェト連邦は疑いもなく数百万の友、または礼賛者を、或は如何なる程度にせよ深く新しい尊敬を、まぢかに住む諸国民の間にかち得た』と。

 これこそが「大祖国戦争」だったのであり、ここに独ソ戦争の真実であり、スターリンソビエトの真実の姿がある。

 独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第13回)   

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

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 第二戦線問題について

 

 第二戦線問題とは何か。小学館発行の『日本大百科全書』(1989年7月)は次のように分かりやすく解説している。

 『第二戦線――戦争において、敵方の戦力を分散させるために、主要な戦線以外に設ける戦線。第二戦線の形成が歴史上でとくに問題となったのは、第二次大戦においてである。

 ドイツの対ソ連攻撃開始以後、ドイツの主要兵力はソ連すなわち東部戦線に集中した。ソ連は、第二戦線として米英軍がフランスへ上陸してドイツ軍の背後を牽制することを要求し、1942年5月にはルーズベルトチャーチルによって第二戦線を設けることが確約された。しかし、フランス上陸作戦よりも北アフリカ作戦及びイタリア上陸作戦を重視するチャーチルの主張によって、米英軍は南ヨーロッパに作戦を展開し、ソ連の不満を買った。テヘラン会談(1943年11月)において第二戦線の設定が確認され、1944年6月、ようやく米英軍は北フランス、ノルマンディーに上陸して第二戦線を形成した。しかし、この第二戦線形成の遅延とソ連の自力による総反撃は、ソ連の戦後ヨーロッパに対する発言権を強めた』と。

 実際、独ソ戦において、早くに第二戦線が形成されておれば、ドイツ軍は二正面作戦を強いられ、その軍事力を二分されることになり、間違いなく、ソビエト軍の被害は半減された。

 先に述べた通り、スターリンソビエト政府は早くから、民主主義の徹底的否定者たるヒトラー・ドイツのファシズム帝国主義の危険性を暴露し、全世界の人民、そして各国政府に対し、反ファシズム統一戦線への参加を呼び掛けていた。しかし、1917年のロシア革命直後、ソビエトに対して干渉戦争を仕掛け、社会主義ソビエトの転覆を謀った実績のある英米仏等のブルジョア政府は、むしろ「ファシズムのドイツと、社会主義ソビエトを相戦わせ、共倒れを図る」という策謀に走った。事実、チャーチル内閣の航空機生産省大臣であったブラバゾンは、独ソ戦の最中、「イギリスにとって一番望ましい独ソ戦の結末は、独ソ双方が疲れ、消耗することだ。そうなればイギリスは第三勢力の役割を果たし、戦争終結後に自分の条件を押し付けることができる」と公言していた。さすがにチャーチルはすぐに彼を辞任させたが、それがイギリスの保守政治家・資本家たちの本音であった。アメリカでは、米国大統領のルーズベルトは、独ソ戦開始3ヵ月後の9月には、「ロシア戦線は持ちこたえ、モスクワは占領されることはない」との見通しを示していたが、アメリカ軍部首脳は半信半疑で、「ドイツの短期勝利」を信じて疑わなかった。また、当時は上院議員であった反共主義者トルーマン(後の米大統領)は、独ソ戦開戦直後に、「もしもドイツが勝ちそうだったらロシアを助け、ロシアが勝ちそうになったらドイツを助ける。こうして双方にできるだけたくさん殺し合いをやらせるのがベストだ」と公言していた。アメリカの大半の資本家たちも同様の意見であった。

 ところが、1941年12月8日の日本軍国主義真珠湾攻撃は、アメリカ政府の「モンロー主義」(孤立主義外交路線)を吹き飛ばし、米国は積極的参戦に転じた。かくして、スターリンソビエトの要求によって、ようやく、1942年5月、英米政府はフランス上陸の第二戦線を設けることを確約した。だが、チャーチルは、フランス上陸作戦に難癖をつけ、ヒトラーの攻撃から英領植民地を守るために早くから開始していた北アフリカ作戦、そしてイタリア上陸作戦を重視し、その約束を守ろうとはしなかった。

 1943年9月、そのチャーチルの主導でイタリア上陸作戦―第二戦線構築作戦―が強行された。だがそれは期待とは程遠い結果しか生まなかった。これについて、リデル・ハートは次のように評している。

 『イタリア作戦の重要性をめぐっては、依然として米英指導層間に大きな意見の食い違いが潜在していた。チャーチルおよび参謀総長アラン・ブルック卿に代表される英国側の見解は、連合軍がイタリアに多数の部隊を注入すればするほど、それだけ多く、ノルマンディーに投入されるはずのドイツ軍を吸引することができるという考え方であった。結局 これは間違いであったが、そもそもの発端は、この方面で英軍が主導権を握って大きな成功を収めたいというチャーチルの願いから発したものであった。それに対してアメリカ側の見解が食い違いを生じた根本の理由は、彼らはフランスこそ主戦場であるという正しい見方をしていたため、フランスに派遣する予定の連合軍戦力を削ってまでイタリアへ増援軍を送ることはないと考えたからであった。彼らはチャーチルおよび英軍首脳部よりも冷静に、イタリアの地形は険しいところが多く、迅速な作戦の進展と戦果の拡張を期待することができない地域であることを見抜いていた。彼らはまた英国側がフランス侵攻(注:第二戦線たるノルマンデイー上陸作戦)という、いっそう困難な任務を回避する口実として、イタリアに焦点を合わせる傾向があるのではないかという疑念を強くいだいていた』と。

 かくの如く、チャーチルは一貫して第二戦線の構築には消極的であった。イタリア上陸作戦も大した成果を生むことなく、1943年11月、テヘラン会談において再度フランス上陸の第二戦線形成が確認されるが、それでもなお、直ぐには実行されず、1944年6月、ソビエト軍によるベルリン攻撃が開始される直前に、ようやくノルマンディー上陸の第二戦線形成が実現されたのである。

 ところで、世界的に有名なアンネ・フランクの日記『アンネの日記』(2010年9月・文芸春秋社刊)には、「第二戦線」に関する記述が、何か所も見られることをご存じであろうか。第二戦線問題は、アンネ一家にとって、隠れ家に潜行していた人々にとって、アウシュヴィッツなどの収容所に送り込まれた全てのユダヤ人にとって、更にはナチスファシズム支配下に置かれたヨーロッパの全ての国民にとって、極めて重要な政治問題であった。

 アンネ・フランクはドイツのフランクフルトに生まれたが、一家はナチスの迫害を逃れ、オランダに移った。父親のオットー・フランクは「娘たちだけでも…」と懸命にアメリカへの移住を追求したが、その難民申請は認められず、切羽詰まり、父親の職場であった会社の裏のビルの4・5階と屋根裏部屋の隠れ家に身を潜めた。

 友人家族を含めた8人の潜行生活は、1942年7月6日から1944年8月4日まで、ナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見されるまで、2年間に及んだ。逮捕された隠れ家住人は、全員がアウシュヴィッツ強制収容所へと移送された。1945年10月、ソビエト赤軍の接近に伴うアウシュヴィッツ強制収容所撤収作戦により、アンネと姉はドイツ国内にあったベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送され、ここで二人はチフスに罹り、その若い命を落としたのである。その時アンネ15歳、亡くなったのは1945年2月末から3月半ばと見られている。

 彼女の日記に描かれた、ラジオBBCのニュースに耳を傾けて一喜一憂する隠れ家の住人たちの様子を見る時、第二戦線がユダヤ人たちにとって大いなる「希望の星」であったことがよくわかる。彼女の日記を紐解いてみよう―

 『1942年11月5日・木曜日――英軍がとうとうアフリカで多少の勝利をおさめました。スターリングラードもまだ持ちこたえています。そんなわけで、この《隠れ家》の男性軍も意気軒昂、今朝は皆してお茶とコーヒーで乾杯しました。…』

 『1942年11月9日・月曜日―― …ソ連では、スターリングラードの攻防戦がすでに3ヵ月も続いていますけど、街はいまのところまだドイツ軍の手には落ちていません。…』

 『1943年2月27日・土曜日――ピム(アンネの父親)は、連合軍の上陸作戦が始まるのを、今日か明日かと待っています。チャーチルは肺炎に罹りましたけど、今はすこしずつ快方に向かっているそうです。…』

 『1944年2月3日・木曜日――連合軍の上陸作戦を待望する気分は、日ごとに全国で高まっています。…』

 『1944年5月3日・水曜日――私も徐々にですけど、近々上陸作戦があるということが信じられるようになってきました。連合軍にしても、ソ連軍だけに名をなさしめているわけにはゆきますまい。…』

 『1944年5月22日・月曜日――20日の日に、お父さんはおばさんと賭けをして、ヨーグルト5瓶も取られてしまいました。未だに上陸作戦が始まらないからです。こう言ったからといって、決して誇張にはならないと思いますが、アムステルダム全市民、オランダ全国民、いえ、南はスペインまで至るヨーロッパ西海岸の全住民が、連合軍の上陸作戦が今日始まるか、明日始まるかと期待し、それについて論じあい、賭けをし、そして…希望をつないでいます。…私たち全員が、必ずしもイギリスに信頼感を持ち続けているわけじゃありません。上陸作戦を楯にとって、しきりに脅しをかけるというイギリスの今のやり口が、必ずしも全員に巧みな戦略として支持されているわけではありません。そうなんです。誰もが見たがっているもの、それは行動です。今こそ遂に立ち上がった連合軍の、はなばなしい英雄的な行動なんです。…』

 『1944年6月23日・金曜日――ここでは何も特別なことは起こっていませんが、英軍はシェルブール(フランス北西部の港町)に対する大規模な攻撃を開始しました。ピムやファン・ダーンおじさんの言によると、10月10日までには必ず私たちも解放されているだろうということです(注:実際に解放されたのは翌年の1945年4月)。ソ連もこの大攻勢に加わっていて、昨日、ヴィテプスク(注:ソ連邦ベラルーシユダヤ人居住地の多い都市)付近で戦闘状態に入りました。ドイツ軍がソ連に侵入してから、今日できっかり3年になります。…』と。

 結局、英米軍はなかなかオランダに進出せず、遂に1944年8月4日、アンネたちは逮捕され、収容所に送り込まれてしまう。アンネ一家は、1944年9月3日にはドイツ国内の収容所からポーランドアウシュヴィッツに移送され、9月6日に到着。10月28日、収容所はソビエト赤軍の接近を知り、多くの収容者を選別し、アンネと姉はドイツ国内のベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送された。父親と母親はアウシュヴィッツに残り、母親はこの収容所で殺害された。英米軍の第二戦線が十分その役割を果たさない中、ソビエト赤軍は多くの犠牲者を出しながらポーランドに入り、1945年1月27日にアウシュヴィッツ解放を実現する。アンネの父オットーは、かろうじて、このソビエト赤軍の手によって救出された。アンネ姉妹が収容されていたベルゲン・ベルゼン強制収容所が英軍の手によって解放されたのは1945年4月15日。アンネ死亡から1、2カ月後のことであった。

 以上から明らかなように、第二戦線問題は、独ソ戦と深く関わっていただけでなく、アンネの悲劇とも深く関わっていた。アンネ一家の救出を遅らせた最大の原因、それはチャーチルの「反共・反ソ主義」であったと言っても過言ではないのである。

 この第二戦線問題の本質を知る人々は、第二次世界大戦において反ファシズム解放戦争を勝利に導いた最大の戦いこそ独ソ戦であり、スターリングラード攻防戦赤軍の勝利であり、決して英米政府と英米軍ではなかったことをよく知っている。ここで、声を大にして強調しておこう。全世界の民主主義勢力を日独伊のファシズム支配から解放した最大の功労者はスターリンソビエト赤軍であり、ソビエト人民であったのだ、と。

 

カチンの森事件」について

 

 ナチス・ドイツ―宣伝相ゲッペルス―によって「カチンの森事件」が全世界に向かって公表・宣伝されたのは、ドイツ軍のスターリングラード大敗から2ヵ月後の1943年4月のことであった。(注:カチンの森は、ソ連邦西部地域にあるスモレンスク市付近のドニエプル河沿いにある森で、ポーランド国境からも近い所にある大きな森のこと)

 1943年4月13日、この日、スターリングラード戦で敗れ、惨めな撤退・敗走に追い込まれていたドイツ政府は、ベルリン放送局を通じて、全世界に向けて次のようなニュースを流した。『スモレンスクからの報告によると、同地の住民は、ドイツ軍当局に、1万人のポーランド軍将校がボリシェビキにより、ひそかに処刑された場所を明らかにしたという。ドイツ軍当局は、スモレンスク西方、12キロのコソゴリというソ連の避暑地を訪れ、驚くべき事実を発見した(注:カチンの森はこの当時はドイツ占領下にあった)。…掘られた穴に約3000人のポーランド軍将校の死体が横たわっていたのである。全員、正規軍装をし、手を縛られ、首の後ろ側に銃で撃たれた跡があった。被害者を特定することは困難ではなかった。…ボリシェビキは死体に身分証明書を残していたからである。…他の埋葬地については調査中である。最終的には、ボリシェビキに捕虜に取られたポーランド軍将校の数は約一万人に達するものと推測される』と。

 この一方的なニュース発表は「天才的宣伝家」たるゲッペルスの発案であった。

 勿論、ソビエト政府(情報部)は直ちにこれに反論した。ソビエト軍がやったことを示す確たる証拠など何一つ無く、完全なデッチ上げ事件であった。むしろ、当時のソビエト政府は、ナチスに敗れて英国に亡命していた反共的なポーランド政府と協定を結び、ポーランド人捕虜に恩赦を与え、ソビエト国内でポーランド軍の創設を許可しており、ポーランド人将校を殺害する何の理由もなかった。

 1943年4月22日、ドイツ政府は直ちに12ヵ国からなる「国際調査委員会」なるものを早々と組織し、現地に送り込んだ。この12ヵ国の内、スイスとスウェーデンを除けば、皆ナチス・ドイツの影響下にある国であった。しかも、この国際調査委員会の現地調査はたった3日間しか認められていなかった。たった3日間で7つもの調査項目(市民との会見、9名の死体の解剖と982人の死体検分・医学報告書作成、遺体総数の確認、森の立木分析、顕微鏡分析と脳髄齢化評価等)をこなすというものであった。何のことはない、詳しい調査は、自らが組織し派遣した「ドイツ委員会」にすべて任すことになっていたのだ。

 ドイツ政府によって発表された調査結果は推して知るべしである。ナチスがやったことを証明する証拠はすべて消し去られ、ソビエト軍が行ったという様々なデッチ上げが行なわれた。全ては後の祭りであり、真実は完全に隠ぺいされてしまった。

 突如として持ち上がった、この「ソビエト軍によるカチンの森虐殺事件」というデマ宣伝はセンセーショナルに取り上げられ、国際的大問題となった。1943年当時は、ナチスによる「ホロコースト」はまだ大きな問題になっていなかった。

 当然のことながら、チャーチルの英国も、ルーズベルトの米国も、こうしたナチスの「デマ宣伝」をまともに取り上げることはなかった。

 しかし、この問題は戦後―スターリン死後―において「ヨーロッパの外交問題」として燻り続けてきた。その中で、1990年10月、当時のソビエト共産党書記長ゴルバチョフは、「新たに発見された資料類はソ連内務機関の関与を想定させる状況証拠となっている」とし、「カチンの虐殺はソ連スターリン)の犯罪であった」と、ポーランドへの謝罪を公表した。ゴルバチョフが根拠にあげた「最高機密文書」の「ベリヤ覚書」なるものは、単なるメモ形式のものでしかなく、「スターリンの署名」なるものもメモの欄外に記されたものであった。 

 (注:フルシチョフは「カチン虐殺事件」を取り上げてスターリンを非難するということができなかった。非難できるような資料がなかったからであろう。ソビエト赤軍が無関係であることを示す資料は―もしあったとすれば―フルシチョフによって処分されてしまい、ゴルバチョフが持ち出した「新資料」はその後に偽造された可能性が非常に高い。「歴史は権力を握った者によって書かれる」ものである)

 社会主義を裏切ったフルシチョフの衣鉢を継ぐゴルバチョフにとって、最大の「邪魔者」はスターリンであり、何が何でも「スターリンこそカチン虐殺の元凶」でなければならなかった。「ゴルバチョフの謝罪」を耳にした当事のポーランド外相オジェホフスキーは『カチンの森事件については二つの見解―ドイツ犯行説とソ連犯行説―があるが、今やどちらを支持するかは、客観的な知識の問題ではなく、政治的な選択、政治的感情の問題なのだ』(1988年3月29日付産経新聞)と語り、すべては権力の政治的都合次第だとしているが、まさにその通りである。

 しかし、カチンの森事件の真犯人はナチス・ドイツである、とする決定的証拠が存在している。その証拠は、日本の推理小説作家・逢坂剛氏が「偶々、ゲッペルスの1943年9月29日の日記の中に、次のような記述があるのを発見した」と『中央公論』(1992年11月号)誌上で報じたことで、一時大きくクローズアップされた。

 ゲッペルス曰く『遺憾ながらわれわれは、カチンの一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが12000人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件はゆくゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない』と。

 まさに、これは、真犯人はナチス・ドイツであることをゲッペルス自身が告白したものであった。この『ゲッペルスの日記 1942年~43年版』は、戦後の1948年になって、ロンドンで出版された。1943年度の日記については全部が残っている訳ではなかったが、9月分は8日~30日までが残されていた(注:これらが本物の日記であることは既に専門研究家によって検証済み)。

 何故、このような重大資料がまともに取り上げられないのか?「全てはスターリンが悪い」という全く根拠の無い“政治的風評”が世を覆っている結果である。

 この「カチンの森虐殺事件」がドイツ軍―ナチス特別部隊―の仕業であったことは、当時の、ナチスポーランドの置かれていた関係、状況を見れば、一目瞭然である。

 ウイリアム・シャイラー著『第三帝国の興亡』には、アウシュヴィッツ収容所で何が行われたかついては詳しく書かれているが、「カチンの森事件」に関する記述はない。が、シャイラーはヒトラーユダヤ人及びスラヴ系民族(ロシア人やポーランド人)対策について、はっきりと次のように語っている。

 『ユダヤ人やスラヴ族は下級人類である。ヒトラーにいわせると、スラヴ族の一部はドイツの主人のために畑を耕し、鉱山で働く奴隷として必要かもしれないが、それを除いてほかのものには生きる権利はない。東欧にある大都会、モスクワ、レニングラードワルシャワポーランドの首都)などを、永久に抹殺するだけでなく、ロシア人、ポーランド人、その他のスラヴ民族の文化もまた根絶すべきであり、彼らには正式の教育をうけさせない。…

 「ロシア人やチェコ人がどうなろうと(それらの種族が栄えようと獣のように飢え死にしようと)、おれにはいささかの関心もない」とハインリッヒ・ヒムラーは一九四三年十月四日、ポズナニで行なった、S・Sの幹部にたいする秘密演説のなかでいった。その当時、ヒムラーは、S・ S第三帝国の全警察機構の親玉として、ヒトラーに次ぐ重要人物であり、八千万のドイツ人ばかりでなく、その二倍以上の被征服民族にたいして、生殺与奪の権力を持っていた。…

 このヒムラーの演説よりはるか前にナチ指導者たちは、東方の民を奴隷化する構想、計画を立てていた。一九四〇年十月十五日、ヒトラーは、その征服した最初のスラヴ族チェコの将来についての決定を下した。…その二週間前の十月二日、総統はやがて征服する二番目のスラヴ族ポーランド人の運命についての構想を明らかにした。ヒトラーの忠実な秘書マルティン・ボルマンは…そのナチの計画について、長い覚え書きを残している。

 「ポーランド貴族は根絶せねばならぬことを、是非とも念頭におかねばならない。どんなに残酷にきこえようとも、彼らはその場で絶滅しなくてはならない。ポーランド人には、ただひとりの主人、ドイツ人があるのみだ。ふたりの主人が並び立つことはできず、そんなものが存在してはならない。したがって、ポーランド知識階級の代表者たち(注:当時の一般的認識では貴族出身のポーランド軍将校こそ第一級の知識人であった)はことごとく絶滅しなくてはならない これは残酷にきこえるだろうが、生命の法則とは、そういったものである。…」』と。

 このヒトラーの命令は、ナチス党幹部とその特別部隊によって忠実に実行された。1939年10月から1940年春にかけて、ヒトラーの片腕ヒムラーは、ポーランド在住ユダヤ人とスラブ系ポーランド人を一方的にポーランド東部地方に追いやり、その途中で、何千という人々を射殺し、また多くの人々を冬の格別の寒さの中に投げ出して凍死させている。ヒトラーポーランド人に対する政策は、一言でいえば「国を全面的に解体する」「ポーランド人知識層が支配者になることは絶対に許さない」「ポーランド人をドイツの奴隷とする」というものであり、また、そのユダヤ人対策とは、言うまでもなく、「ユダヤ民族をヨーロッパから消滅させる」というものであった。その政策の執行は既に1939年10月から始まっていて、1940年春には、彼らは各地の収容所で既に20万ものユダヤ人・ポーランド人を殺害していた。1940年7月には、ポーランド領内に強制隔離収容所アウシュヴィッツが開所され、敗戦までの5年間に、ここだけでおよそ300万ものユダヤ人が虐殺された。こうしたホロコースト(大量虐殺)の執行・推進を担ったのはナチス治安組織―特別出動隊―であり、ヒムラ―やヘスの様なナチズムの思想で頭のてっぺんから足の先まで武装した、冷酷非情の死刑執行官たちであった。ナチスは、一方的に「ソビエト軍カチンの森事件を起こしたのは1940年春だった」と主張したが、この「1940年春」こそ、ナチスユダヤ人の隔離と虐殺、ポーランド人の虐殺と奴隷化を進めた時期であった。ナチスの特別出動部隊は、カチンの森においても、ポーランド各地で執行していた「ポーランドの知識層・指導者層絶滅政策」と同じ政策を、即ち、ヒトラーが命じた「ポーランド軍将校の大量殺害」を忠実に実行していたのである。

 カチンの森事件は、ヒトラーナチス軍団によるポーランド人絶滅策断行という激しい流れの中で生まれた悲劇的事件であり、ソビエト軍とはまったく何の関係もなく、況やスターリンの責任でも何でもない。

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第12回)   

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《ウラン作戦》立案をめぐる嘘とデマについて

 

 こここでは二つの「嘘とデマを」を取り上げたい。

 一つは、ソビエト内部の裏切り者、「スターリン批判」者フルシチョフが持ち出した嘘とデマである。フルシチョフは、スターリン死後の1960年に出版された『第二次世界大戦史』(通称・大祖国戦争史)に、「1942年10月6日、フルシチョフとエリョーメンコは大反攻計画を作成し、大本営に送った。更に10月9日にもより大きな計画案を提示した。その後大本営はそれらの案に基づいて作戦計画を討議し始めた」と記録させ、「スターリングラード戦を勝利させた大反攻作戦の立案者は自分たちだ」と主張している。

 これがウソと偽りの「記録」であることは、ジューコフの『回想録』(1969年2月執筆)が明白に暴露している。曰く『スターリングラード戦線軍事会議(ここにフルシチョフがいた)が、10月6日に独自の立場から反攻の組織・実行を最高軍司令部に提案したとの説もあるが、これについては、ワシレフスキー元帥が…「戦史」に次のように書いている。「10月6日未明、われわれは…第51方面軍の監視所に向かった。…この日の夕方…戦闘司令所で軍司令官(エリョーメンコ)と軍事会議員(フルシチョフ)に会い、最高軍司令部(スターリン)が示した反攻計画(ウラン作戦のこと)を改めて検討した。戦闘司令部では、この計画に対する原則的な反対は何もなかったので、最高軍司令官スターリン宛の報告書を、6日の深夜までかかって作りあげた」。彼が述べた資料から明白なように、反攻作戦の立案では、最高軍司令部と参謀本部が主役を演じたのである』と。

 これについては先にも一度紹介したが、山崎雅弘氏が『新版・独ソ戦史』(2016年刊)の「後書き」で次のように批判している。『過去の独ソ研究では…「大祖国戦争史」とフルシチョフの回想録…を参考文献に挙げるのが慣例となっていたが、本書ではこの二種類の書物は書斎の棚に置いたまま、ほとんど参照しなかった。その理由は、両者とも政治的意図に基づく事実の歪曲や曲解、無視、粉飾などがはなはだしく、既に別の研究によって否定されている部分も多いからである。前者は…断片的なデータは参考になるが、後者は…「作り話」と事実の見極めが難しく、とりわけスターリンの戦争指導についての記述や、第二次ハリコフ戦で自らが果たした役割についての弁明など、他の研究者による実証的研究でほぼ否定されていることもあり、執筆中は混乱を避けるため、これらの文献は仕事机から遠ざけていた』と。「反スターリン派」の山崎氏の証言である。まことに「その言や善し」である。

 二つ目の嘘とデマは大木氏のそれである。氏は次のように主張している。

 『ソ連作戦術(注:大木氏によるとトハチェフスキーが創案したという戦術)は、その主唱者たちが大粛清でパージされたこともあって、いったん後景に退くことになった。また、同じく大粛清によって、作戦次元・戦術次元の指揮にあたる将校が大量に排除されたことにより、ソ連軍が緒戦で、質量ともに優越した装備を生かし切れず、敗北を喫したことはすでに述べた(注:これに対する反論は、独ソ戦の軍事に関する幾つかの「疑問・批判」について」を見よ)。一九四一年以来の大敗と苦難は、追放されていたり、脇役に徹していた将校の復帰をもたらした。参謀次長のアレクサンドル・N・ヴァシレフスキー上級大将は、それらのなかから、優れた参謀将校を選りすぐり、一九四二年夏から秋にかけ、たっぷりと時間をかけて、冬季攻勢の作戦を練らせた。フョードル・E・ボコフ少将を長とする、この小集団がソ連作戦術に依拠して、反抗計画を立案したのだ。従来ジューコフとヴァシレフスキーが起案したとされていた。天王星作戦も、今日では、彼らがつくりあげたものであることがわかっている』と。

 つまり、《ウラル作戦》という大作戦計画・戦略的な大作戦計画を立案したのは、トハチェフスキー派幹部―作戦・戦術次元の指揮にあたった将校クラスの小集団―であった、というのである。大木氏は、こうした主張を、それを支える根拠となる記録・文献をまったく示さず、繰り返し高言している。

 これは先に紹介したジューコフの証言、当の参謀次長ヴァシレフスキーの証言とも、また大木氏も読んでいるはずの『第二次世界大戦』の著者リデル・ハートの次のような見解とも真っ向から対立する。

 リデル・ハート曰くー『損害の増大、挫折感の高まり、厳冬季の到来などにより、攻撃軍(ドイツ軍)の士気は低下しつつあり、予備隊は残らず吸い上げられて、側面援護のための長大な戦線は弾力性を失ったまま延びきっていた。 反撃の機が熟しつつあった。ソ連軍は反撃準備を整え、充分な予備隊を集結して敵の張りすぎた側面を有効に叩こうとしていた。反撃(ソビエト軍のウラン作戦発動)は十一月十九、二十日の両日に火蓋が切られ、そのタイミグも上乗だった。反撃はこの冬最初の厳寒の到来により地面が硬く凍結して敏速な活動に便となり、かつ機動を麻痺させる大雪のこない時期に開始された。これはおりよく、ドイツ軍をその消耗の頂点でとらえた。…ドイツ第六軍と第四装甲軍をB軍集団から孤立させるべく、片刃がそれぞれ数個の先端を有する一挺のはさみが、スターリングラード攻撃軍の左右両側面に突き立てられたのである。それは主としてルーマニア(第三)軍が側面援護を担当している地区だった。作戦を立案したのはソ連参謀本部の傑出した三人、ジューコフ、ワシレフスキー、ウォロノフの各将軍だった。担当するのは《南西正面軍》総司令官ワトゥーティン、《ドン正面軍》ロコソフスキー、スターリングラード(もと南) 正面軍》イェレメンコの各将軍――。 ここで注意しておくが、東方戦線のソ連軍は、モスクワの総司令部(注:そのトップがスターリンであり、その代理がジューコフであった)の直接の指揮下にあって一二個 の《正面軍 》(Front)に分けられていた』と。

 リデル・ハートは『作戦を立案したのはソ連参謀本部の傑出した三人、ジューコフ、ワシレフスキー、ウォロノフの各将軍だった』と明確に断定し、彼らはモスクワの総司令部(中心はスターリン)の直接の指揮下にあった、と明言している。

 そもそも、このドイツ軍大包囲作戦たる《ウラン作戦》は優れて戦略的な作戦であって、トハチェフスキーが創案したという「縦深戦」理論―戦略と戦術を結び付けるという作戦術で、敵の最前線から後方までを、砲兵や航空機、起動戦力によって同時に制圧するという理論―とは全く別次元のものであり、更に言えば、こうした大作戦は参謀本部レベルの指導者によってしか考案されるものでなく、決して、戦術次元の指揮を執っているだけの、しかも「縦深戦」という戦術レベルの理論を信奉する将校クラスの幹部が発案・立案できるような代物ではない。こんな嘘とデマが通用するはずがない。

 

 スターリングラード戦後からベルリン陥落・ドイツ軍降伏まで

 

 1943年1月のドイツ第6軍の降伏をもってスターリングラード戦はその幕を閉じた。このスターリンソビエト軍の勝利は、まさにリデル・ハートが述べている通り、独ソ戦の転換点、即ち第二次世界大戦の転換点となった。そして、この時点からソビエト軍の戦略的反抗、戦略的大攻勢が開始され、その攻勢は1945年5月8日のドイツ軍無条件降伏をもって終わる。

 この2年余にわたる戦いによってソ連邦西部のウクライナ白ロシアベラルーシ)・バルト三国が解放され、ポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニアなど東欧諸国が次々とナチスファシズムの支配から解放され,、独立を取り戻した。

 だが、この戦いにおいても、ソビエト軍は多くの犠牲を払わされている。ドイツ軍は戦局が一転して防御にまわるようになってからも、ソ連アメリカ、英帝国の数百万の軍隊を向うにまわして、二年間も持ちこたえ、戦闘を継続した程に強大であり、しかも、ソビエト軍の対独戦を支援すべき「第二戦線」(ヨーロッパ地域における英米仏を中心とする対独戦線)の構築はなかなか進まず、そのためスターリンソビエト軍はより多くの犠牲を強いられた。

 この2年余の戦いについて、リデル・ハートは『第7部・全面的退潮-1944年』『第8

部・終幕-1945年』において、概括的に次のように述べている。

 『ソ連軍の攻勢には型とリズムがあり、その反復が、初期の段階よりもいちだんと鮮明になってきていた。このことがドイツ軍の抵抗力とその力が広範囲に延び切っていた態勢に、どれほど重圧となったかは想像するに難くない。ドイツ軍の予備隊は減少しつつあるのに、長大な戦線を守らなければらなかった。ソ連軍がますます巧みな変化に富んだ方法で敵の弱みにつけ込むありさまは、彼らの技量の向上をよく物語り、また自軍の新たな優位を活用するすべを身につけたことを明らかに示していた。ソ連軍が…一連の重要拠点を占領するに至った経過を調べてみると、いずれの場合も直接隣接した兵団の前進が進捗してから、目標地点に対し行動を起こす場合でさえ、まず間接的なアプローチによってその場所をほとんど維持できなくするか、あるいはせいぜい戦略的にこれを無価値なものとして、そのあとにこれを占領するという方法をとっている。この一連の間接的てこ入れの効果は、作戦行動の型の中にはっきりと見てとることができる。赤軍司令部は鍵盤上に両手を左右に走らせるピアニストにたとえることができるであろう。…

  • (注:「間接的なアプローチ戦法」について、リデル・ハートは「次から次へと別の地点に対する攻撃を反復し、一か所で抵抗が強化され最初の弾みが弱まると、一時攻撃を中止する。各攻撃はすべて次の攻撃を容易にすることを目標とし、また全部が互いに影響し合うように時を見計らって行われた。このためにドイツ軍は攻撃を受けた地点へ急きょ予備隊を送ることを余儀なくされ、これは同時に次の攻撃を受けそうな 地点への予備隊を削がれることを意味した。行動の自由は束縛され、手持ちの予備隊 はいよいよ減っていった」と説明している。この「間接的なアプローチ戦法」は、言うまでもなくトハチェフスキーの「縦深戦法」とは全く対蹠的な戦法、全く異質な戦法である)

 この戦法は(当時のソ連軍のように)敵に対する全般的優勢を保持してはいても、機動力には限りのある軍隊が攻勢をとる場合に適した方法である。これは、横方向に移動するための交通路線が不足し、そのため一地区における攻撃の成功を利用し、その戦果を拡張するために、別の地区から予備隊を迅速に移動させることがむずかしいような時と場所に好適な戦法である。ただ、そのつど新しい戦線へ突入することを必要とするため、この「幅広く」戦果拡張を行なう場合には、「奥深く」突破する場合よりも犠牲は大となりがちである。また迅速に勝ちを決することはむずかしいが、この戦法を用いる軍が充分な物量の優勢をもってこのような方法をもちこたえることができる限り、勝利は保証されているといえよう。

 この攻勢によりソ連軍は当然ドイツ軍より大きな損害をこうむった。しかし、ドイツ軍は自身の攻勢(スターリングラードへの攻撃)が大きな犠牲を払って失敗に終わった後だけに、受けた痛手はソ連軍の比ではなかった。ドイツ軍にとって消耗とは破滅を意味した。…

 このようなソ連軍の怒濤の進撃を阻止する見込みは、眼病をわずらっていたマンシュタインが解任 (1944年3月30日)されたため、薄らいでしまった。 マンシュタインの解任は、眼病が直接の理由とされていたが、真相はヒトラーとの軋轢にあった。マンシュタインヒトラーの戦略を理解に苦しむと評し、総統がとてものめない主張をしていたのである。こうしてドイツの軍人たちから最高の戦略家と目されていた人物が前線からしりぞいてしまっ た。…その間にもドイツ陸軍は、まっしぐらに深淵へと導かれていったのである。…

 ヨーロッパにおける大戦は一九四五年五月八日の真夜中、ついに公式に終了を告げた。…五月二日、南イタリア戦線におけるいっさいの戦闘は終了したが、降服文書の署名はその三日前に行なわれていた。五月四日、ルーンバーグ・ヒースのモントゴメリー司令部において、北西ヨーロッパ・ドイツ軍代表らが同様の降服文書に署名した。五月七日、ランスのアイゼンハワー司令部において、全ドイツ軍代表者たちが、英米仏ソの代表の参列のもとに厳粛に降服文書に署名した。 …ヒトラーは最後まで自分に尽くしたエヴァ・ブラウンと結婚した翌日、四月三十日、ソ連軍接近の報を耳にしながら 、ベルリンの総統官邸の廃墟の中で新妻とともに自殺を遂げた』と。 

 大木氏は、リデル・ハートの上記のような戦況分析とは全く異なる分析、むしろ対立する分析を持ち出し、この間の独ソ戦において重要な役割を果たしたのは、粛清されたトハチェフスキーが創案した作戦術―「縦深戦法」―であり、それを展開したトハチェフスキー派幹部であったという主張を、至る所で、繰り返している。この主張に対する批判は既に述べた通りである。繰り返しになるが、トハチェフスキー派の「縦深戦法」はリデル・ハートが評価している赤軍の「間接的なアプローチ戦法」とは全く別物で、むしろ対蹠的なものであり、更にまた、リデル・ハートは常に戦略的観点を土台に据えて戦術を論じているが、大木氏は戦略的観点抜きに戦術のみを論じている。どちらが要を得た戦況分析なのか、自ずから明らかである。「ソビエト軍の勝利を実現させたのは復活を遂げたトハチェフスキー派の指揮官・将校集団であった」などという嘘とデマをいったい誰が信用するであろうか。

 

 さて、次に、この間に発生した三つの問題を取り上げ、その中心点を論じておきたい。その第1は「第二戦線問題」であり、第2は「カチンの森事件」であり、第3は「ソビエトの東欧占領政策」である。

 

独ソ戦争―その科学的考察 ~歴史の危機と「スターリン批判」~ (第11回)   

独ソ戦争 絶滅戦争の惨禍』(大木毅・岩波新書)批判 

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  <スターリングラード市街戦>

 ドイツ大軍団によるスターリングラード市への攻撃開始は1942年7月26日であった。スターリングラード市街戦は、この世地獄さながら、3ヵ月に亘り、すさまじい攻防戦が繰り広げられた。まさに、それは独ソ戦の最大の山場としての戦闘であり、第二次世界大戦の命運を決する、一大攻防戦であった。

 7月26日、ドイツ軍は、機甲部隊・機械化部隊を出動させて市街地への直接攻撃を開始した。ドイツB集団軍(中央集団軍)の主力攻撃部隊たる第6軍指揮官パウルスは、ヒトラーに「8月25日までにスターリングラードを占領せよ」と命じられており、必死であった。

 一方、8月初め、ドイツ軍作戦《ブラウ作戦》の全貌を把握したスターリンと国家防衛委員会もまた、スターリングラードの情勢が重大化しつつあることを再認識し、ソビエト軍の総力を投入して戦うとの決定を下した。そして、密かに反抗作戦の検討を開始。いずれ大反撃が始まるとして、それまで何としてもスターリングラードを守りぬかねばならなかったのであり、ソビエト赤軍スターリングラードの市民・人民は、寸土も譲らず、敵に反撃を加え、敵を翻弄し、自らの陣地を死守したのである。その合言葉は「ヴォルガ河の向こうの対岸に我らの居るべき土地は無い!一歩たりとも引くな!」であり、激戦に次ぐ激戦であり、まさに死闘の連続であった。

 8月23日、ドイツ軍は航空機2000機の大空襲を加え、工場、住民アパート、病院、駅、給水施設、石油タンク、輸送船、フェリー等々への無差別爆撃を敢行、至るところに火の手が上がり、市街は瓦礫の山と化した。しかし、逆にその瓦礫が「要塞」となり、ドイツ軍の侵入を防ぐ防御陣地となった。しかし、この日の夕刻、スターリングラード市北方から市街に侵入したドイツ軍の一部の擲弾連隊(小型砲火器で武装した歩兵連隊)が、ヴォルガ河の岸に到達した。ヒトラー歓喜し、「如何なる状況下でも現在位置を死守せよ」との命令を無線電話で送った。

 8月24日朝、ドイツ軍は、スターリングラード市の北方地域を確保すべく、戦車と自動車部隊を繰り出し、次々と歩兵部隊を注ぎ込んだ。この地域にはトラクター工場、兵器工場、トラック工場が配置されていた。瓦礫と化した工場建物の防御陣地に立て籠もった赤軍・市民軍は、ドイツ兵が「まるで魔法のように」と語った通り、次々と瓦礫の中から出現し、頑強に抵抗した。工場の労働者も、水夫も、未成年の青少年も、空襲警報を聞くや、集合地点に駈けつけ、小銃を受け取り、市街戦の前線へと出動していった。

 ヴォルガの岸壁に一番乗りしたドイツ軍部隊は、一時、武器弾薬、燃料、食糧不足から撤退に追い込まれようとしたが、トラック250台の部隊が送り込まれ、ようやく危機を脱した。ヒトラーはこの報を受けるや、ラジオ放送を通じて、直ちにドイツ国民に「勝利の快報」を知らせた。ドイツのみならず、全世界の報道機関が、「スターリングラードの運命は風前の灯である」と書き立てた。だが、ソビエト人民は不屈であり、祖国防衛の為に命を犠牲にして戦うことを恐れていなかった。

 市街戦大戦闘で、ドイツ軍を最も驚かせたのは若い女性志願兵からなるソビエト砲兵隊の反撃であった。この部隊には、高校を出たか出ないかの若い女性兵士が配置され、彼女らが計測、砲撃、偵察を担当していた。皆つい先ごろまで大砲など撃ったことのない者ばかりであったが、自ら志願し、トラクター工場防衛の戦闘に参加したのである。

 ドイツ空軍機が上空から集中攻撃を加える中、ドイツ軍の2縦列80台の戦車が、歩兵を乗せた車両を引き連れ、トラクター工場に襲い掛かった。ソビエト砲兵中隊は上空のドイツ軍航空機を撃ち、女性兵士らの部隊は砲身をゼロ角度に下げて旋回させ、地上を走って襲い掛かるドイツ軍戦車列の先頭車両に狙いを定め、果敢に反撃を加えた。ドイツ軍戦闘機は何度も急降下し、彼女たちが死守する砲台を標的に爆撃を加えた。だが、彼女たちは防空壕へ入るのを拒否して持ち場に留まり、何台もの戦車を撃破し、敵の進撃をくい止めた。彼女らは37台の大砲が全部破壊されるまで砲座を離れず、真正面から敵の戦車と対決し、そして全員が砲座の傍らで戦死を遂げた。

 この攻撃に参加した或るドイツ軍将校は日記にこう記している。「ロシアの女性を〝スカートを穿いた兵士〟と表現するのは完全な誤解だ。彼女たちは長い間戦闘義務を果たす準備をして来たし、能力を認められればどんな任務にもつく。ロシア兵はそういう彼女たちを大事にしている」と。

 8月29日、今度は、スターリングラード市の南部地区で、ドイツ軍の攻撃が始まった。9月2日のこの地域へのドイツ空軍の爆撃・空襲は、特に凄まじかった。唯一の補給路であったヴォルガ河の渡船に対する空襲・砲撃は、夜も昼も間断なく続行され、婦女子・病人・負傷者の対岸への移送も命がけであった。身を隠すための場所―市内のあらゆる建物、掘立小屋、下水口、広場、堀、水路等々が争奪の的となった。両軍とも生活はすべて地下に追いやられた。

 9月半ば、ドイツ軍は、今度は市の南と北の両方面から、市の中央部に在った小高い丘の上の墓地―ママイの丘―にその攻撃を集中させ、この丘を攻略・占領すべく、総攻撃を加えた。この丘の上、そしてその地下には、スターリングラード市街戦の総指揮を執っていた赤軍第62軍司令部があった。両軍の迫撃砲カノン砲が吠え、唸り、市中は完全に瓦礫の山、廃虚と化した。だが、ソビエト赤軍がこの丘を敵に渡すことは、遂に最後までなかった。

 あちこちに両軍の死体の山が築かれた。山の様な死体の中には、ヒトラーによって、故郷から遠く離れたこの地に送られて来たドイツ人、ルーマニア人、ハンガリー人、チェコ人等がいた。そしてまた、侵略者ヒトラー・ドイツと戦い、祖国のために命を捧げた、ロシア人、ユダヤ人、シベリア地方からやって来たウズベック・グルジア等々の非ロシア系民族の数多くの遺体が見られた。

 赤軍機関紙の著名な記者で、ユダヤ人反ファシスト委員会のメンバーであったグロースマンは、作家ショーロフが「皆が戦っている時に、アブラーム(ユダヤ人の代表的な名前)はタシケントソビエト南部ウズベック共和国の首都)で商売をやっている」と非難したと聞くや、前線から、次のような手紙を友人に書き送った。

『ここ南西方面軍には、数千、数万のユダヤ人がいて、吹雪のさなか自動小銃を担いで歩き、ドイツ軍が固守する町へ突入し、戦いの中で倒れている。こういったこと全てを、僕はこの目で見て来た。第1親衛軍の立派な司令官コーガンや、戦車将校たち、偵察隊員たち(注:皆ユダヤ民族出身者たち)にも会った。…必ず彼(ショーロフ)に伝えてくれたまえ、前線の同志たちは彼がどんなことを言っているのか知っている、と。彼は恥じ入るべきなのだ』と(『赤軍記者グロースマン』 アントニー・ビーヴァー 2007年 白水社刊より)。

 こうした事実が証明しているように、ドイツ軍・ファシストの侵略に反対する「ソ同盟大祖国防衛戦争」には、ソビエトの全民族が参加し、共に団結し、力を合わせて戦っていた。勿論、占領された地域の一部がヒトラー軍に参加するなどの事実もあった。しかし、スターリンの旗の下、全民族は結束し、ヒトラー・ドイツの略奪的侵略から祖国・社会主義ソビエトを守り抜くために死力を尽くした。この基本的な事実、基本的な勝利は、何人もこれを否定することはできない。

 先に、若い女性志願兵からなる砲兵隊が最後まで砲台を死守し、砲の傍らで斃れていった英雄的エピソードを紹介したが、『戦争は女の顔をしていない』(アレクシェーヴィッチ著)にも、スターリングラード戦に参戦した女性兵士の証言―悲痛な叫び―が採録されている。

『 タマーラ・ステバノヴァナ・ウムニャギナ 赤軍伍長・衛生指導員

 徴兵司令部に駆けつけてね。綿の粗布で作ったスカートだった。足には白いズック靴を履いてた。普通の浅い靴みたいでね、バックルつきの流行の先端。そういうスカートと靴で頼みに行ったんだよ。戦線に送ってくれって。…歩兵師団に着いた。これはミンスク郊外に駐屯していたのさ。「入隊なんかだめだ、17歳の女の子が戦列に加わるなんて男の恥だ」とか「もうじき敵をやっつけてやるから、女の子はおかあさんのところに帰りなさい」という調子。私はもちろんがっかりしたさ。採ってくれないんだから。どうしたか? 私は参謀長がいる司令部に行った。そこにさっき断った大佐がいるのさ。私は、言ったの。「もっと上の上官殿、大佐殿に従わないことをお許しください。私はやはり家には帰りません、みなさんと一緒に退却します。ドイツ軍にもっと近いところへまいります」あとになっても「もっと上の上官殿」とからかわれたわ。

 戦争が始まって七日目だった。退却が始まった。たちまち血の海にはまった。負傷兵がたくさん出た。…モギリョフの近くで駅が爆撃されていた。そこに子供たちを満載した列車が止まっていて、子供たちを窓から放り出し始めた。三歳から四歳の小さな子供たち。そう遠くない所に森があって、そこにみんな走っていく。すぐあとをドイツの戦車が続く。戦車の列が子供たちを押しつぶして行く。子供たちは跡形もなくつぶされた…その光景を思い出すと今でも気が狂いそうになるよ。…

 でも一番恐ろしかったのはもっと後のこと。 恐ろしかったのは、スターリングードだよ。戦場ったって、あそこは通りのひとつひとつ、家の一軒一軒、地下室という地下室から負傷者を引きずり出すんだよ。体中あざだらけだった。ズボンも血だらけ。曹長にしかられたよ。「これ以上ズボンはないんだ。後からねだらんでくれ」私たちのズボンは乾くとそのまま立てておけたほど。普通の糊付けだって、こんなふうに立ってはいないよ。血のせいだよ。角にあたれば痛いくらい。綺麗なところなんかまったくなし。何もかも燃えてしまった。ヴォルガで。水さえ燃えていた。冬だというのに河も凍らなかった、燃えていた。スターリングラードには人間の血が染み込んでいない地面は一グラムだってなかった。ロシア人とドイツ人の血だよ。それにガソリンとか...潤滑油とか...そこではこれより一歩も引けない、国全部が、ロシア国民が滅びるか勝利するかしかないとみんな分かってたのよ。誰にとってもはっきりした、そういう時が来たわけ。…

 補充兵がやって来る。若い元気のいい人たちが。一日二日でみんな死んでしまって、誰も残らない。私はもう新しい人たちが来るのが怖かったよ。その顔を覚えたり、話していたことを覚えたくなかった。だって、来たと思ったら、もういないんだから。二、三日のことさ。一九四二年のことだった。一番つらい、困難な時だった。三百人いたうち、その日の終わりには十人しか生き残っていないこともあった。それだけしか残っていなかった時、銃声も静まりかえって、みなキスし合ったよ。偶然にも生き残れたんだ、って泣いた。みな身内のようだった。一つの家族だった。

 見ている前で人が死んでいくのさ。どうにも助けになれないと分かっている。あと数分しか残っていない。その人にキスしてやって、優しい言葉をかけてやる。お別れの言葉を言う。でももう何の助けにもなれないのさ。その人たちの顔が今もありありと思い出される。一人一人の顔が見えるのよ。こんなに年月が流れて...誰も忘れないんだから不思議だよ。みんな忘れない、みんな見える。 …

 町中が破壊され尽くして、建物もめちゃめちゃ。もちろんこれは恐ろしかったよ。で も、人々が倒れていて、それが、若い人たちだったら...。息つく間もなくかけずり回って助けようとする。もう力尽きてしまう、あと五分も待てないって気がする。三月で、足下は雪解けの水...フェルト靴は履けない。私はそれを履いて行った。一日中そのまま這い回って、夕方にはびしょぬれでもう脱げなくなって、切り開くしかなかったけど、病気にはならなかった。信じられる? ねえ、あんた。

スターリングラードの戦いが終わって、もっとも重傷の者は汽船で運び出せという命令が下った。カザン市、ゴーリキイ市などへはしけで疎開させる。もう、春のこと。三月、四月。負傷者はいたるところに転がっていた。地下にね――塹壕、地下壕、地下室 に。あまりにたくさんいて言葉では表しようがない。すさまじいことだった!…移送の汽船の中は手、脚を失った人たち、何百人もの結核患者が集められていた。治療をしてあげなければならなかった。静かに言葉をかけながら。笑顔で慰めながら。私たちが移送に回された時、「これで戦いから休めるよ、頑張ったお礼だ」などと言われたけれど、実際はこれはスターリングラードの地獄よりもっと怖かった。スターリングラードでは戦場から負傷者を引きずり出して、応急手当をして、後方への移送車にひきわたせば、ああ、これで大丈夫と思って次の人を連れにまた這って行く。ところが、移送の船では負傷者たちがいつも目の前にいる...。戦場では「生き延びたい」と願って必死で生きようとする…ところが移送船では、食べたくない、死にたいって...その人たちは夜、汽船から水に飛び込んだ。そういうことがないように、見張って守ったけどね。…

 負傷者たちをウソーリエに運んだ。…そこにはもう新しい清潔な家が建っている、負傷者専用の。…汽船で戻る時は、空っぽだから休んでいいのに、眠れない。女の子たちはじっと横になっていて、とうとう、わっと泣き出した。みんなで負傷者たちに手紙を書いたよ。それぞれ分担を決めて。一日に3、4通。 …

 スターリングラードの近くでのこと...負傷兵を二人引きずっていく...まず一人を引きずって行き、また戻って二人目をというふうに交互に引きずっていく。ひどい重傷を負っていて、置いておけない。二人とも、足の付け根ちかくを撃たれて出血している。そういう時は一分一秒が大事なんだ。戦闘の只中から抜け出したところで硝煙が少なくなくなってからよく見ると、一人は戦車兵なんだけど、もう一人はドイツ兵なのさ。あたしは仰天した。すぐそこでわが軍の人たちが殺されているってのに。私はドイツ兵を救っているんだよ。パニックになったよ。...二人とも黒くこげてた。同じように衣服はぼろぼろに焼けて。見ると外国製のロザリオ、外国製の時計、あの呪わしい制服。どうしよう? 味方の負傷兵を引きずりながら考えた。ドイツ人のところに戻るべきか。分かってたんだよ、このまま置き去りにしたら出血多量でそのドイツ人は死んでしまう。あたしはその人の所に這って行った。負傷者を二人とも交互に引きずって行ったよ...スターリングラードでのこと...一番恐ろしい戦いだった。ねえ、あんた、一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。

 戦後何年もたって空を見るのが怖かった。耕した土を見るのもだめ。でもその上をヤマガラスたちは平気で歩いていたっけ。小鳥たちはさっさと戦争を忘れたんだね...』

 まさにこれこそがスターリングラード市街戦の戦場であった。タマーラさんの「そこではこれより一歩も引けない、国全部が、ロシア国民が滅びるか勝利するかしかないとみんな分かってたのよ。誰にとってもはっきりした、そういう時が来たわけ」という言葉が全てを物語っている。実に、スターリングラードの戦いこそ、祖国ソビエトの生死をかけた戦いであったのだ。

 そして、そのスターリングラードの戦場において、彼女は自国ソビエトの負傷兵だけでなく、負傷したドイツ兵をも救出している。こうした実例の証言は『戦争は女の顔をしていない』の各所に出て来る。このどこに、大木氏が酷評したあの「ナショナリズムの惨劇」があるというのか。「敵味方を問わず、たとえドイツ兵であっても負傷して戦えなくなった兵士はこれを救うために最大限の努力を尽くす」という、彼女らのこうした気高い人間性に溢れた行為・行動は、憎むべきは‶ドイツ人〟ではなく‶ナチスヒトラーと野蛮なファシスト〟であり、その魔手からわが祖国、ヨーロッパと世界人民を守るために自分たちは戦っているのだという崇高な信念抜きには、絶対に生まれ得ない。この崇高な信念こそ、スターリン社会主義ソビエトの党と政府が、独ソ戦第二次世界大戦を通じて繰り返し訴え、その強化を呼びかけてきた核心的思想であった。

 こうして、スターリングラードは、ソビエト赤軍と市民・人民の英雄的な闘いによって守り抜かれ、いよいよソビエト軍の大反抗作戦《ウラン作戦》の展開が始まる。

 

 ソビエトの《ウラン作戦》とドイツ第6軍の降伏・敗北

 リデル・ハートは大著『第二次世界大戦』では、スターリングラード市内の攻防戦、市街戦や戦術的決戦、そして《ウラン作戦》の発動・展開、ドイツ第6軍の降伏に至る経過については、あまり多くを語っていない。ただ、その『第五部・転換期(1942年)』の『第18章・独ソ戦局の転換』及び『第六部・衰退期(1943年)』の『第28章・ドイツ軍のロシア戦線撤退』において、スターリングラードの攻防戦におけるヒトラー・ドイツ軍の敗北が、独ソ戦と第二次大戦の決定的転換点となったと断定している。

さて、ソビエト軍の大反攻作戦《ウラン作戦》―ドイツ軍大包囲作戦―は如何に展開されたのかを見てみよう(主たる参考資料はジューコフの『回想録』、シャイラーの『第三帝国の興亡』、山崎雅弘氏の『新版・独ソ戦史』)。

 《ウラン作戦》の第1段階は、1942年11月19日に北部方面から、20日には南部方面から、それぞれ開始された。この作戦に参加したソビエト側の総兵力は、兵員100万以上、500門の火砲、900輌の戦車、1000機以上の航空機であった。このソビエトの大兵力が、即ち、北部の南西方面軍が敵の弱い一環・ドイツ軍外郭部隊のルーマニア3軍に、また南部のスターリングラード方面軍が敵の弱い一環・ルーマニア4軍に襲いかかり、ここを一点突破とし、一気に包囲網完成に向けて進撃を開始したのである。勿論、ドイツ軍総司令部は、こうしたソビエト軍の包囲作戦に、まったく気づいていなかった。ソビエト軍が、吹雪が荒れ狂う11月19日・20日早暁に、この大反攻作戦を開始した時、ヒトラーはアルプス山中の別荘で幹部将官連中と宴を楽しんでいた。そこに、新参謀総長ツァイツラーから「恐慌的通報」が飛び込んで来た。ソビエト軍は、僅か4日後の11月23日にはドイツ軍26万余の包囲を完成させ、包囲の環をじわじわと固く締めつけ、ドイツ第6軍とその司令部を恐怖に陥れていたのである。   

 時あたかも、スターリングラードには初雪が降り始めた。「冬将軍」の到来である。ソビエト軍補給部隊は、最高軍司令部の厳命を受け、ヴォルガ河の東岸から兵員、弾薬、食糧、防寒被服を山のように送り届けた。一方、ドイツ軍の冬用物資は、悪天候とロシア軍の攻撃によってもたらされた列車・道路網の破壊・破損の結果、前線への輸送が完全にストップしていた。ドイツ空軍は制空圏も奪われ、航空機による輸送も最早自由ではなかった。

 1942年11月22日、第6軍司令官パウルスはベルリンに向けて「わが軍は包囲されたり」と打電し、24日には「撤退命令」を求める電報を送った。だが、ヒトラーの命令は「あくまでもスターリングラード攻撃体制を死守せよ」というものであった。ドイツ第6軍は、スターリングラード攻略に向け、最後の総攻撃に踏み切った。5時間にわたって凄まじい白兵戦を展開した。ドイツ軍の一部は一時、ヴォルガ河にまで進出した。しかし、そこまでであった。翌日の夕刻には早やドイツ軍の攻撃は衰えを見せ始めた。

 その瞬間、ドイツ軍第6軍を包囲していたソビエトのドン方面軍と南西方面軍は一斉攻撃を開始し、ドン川に架かるカラチの大鉄橋を目指して進撃し、ここを占領。南方面からはスターリングラード方面軍が圧力を加えた。かくして第6軍を中心とするドイツ軍26万余が、ドン川とスターリングラード市・ヴォルガ河に挟まれた荒涼たる平原地帯に完全に閉じ込められ、完全に袋のネズミとなったのである。

 ヒトラーは、スターリングラードを「瓦礫の要塞」と化した時点で既に「勝利」を「達成」したものと思い込み、ドイツ国民に「祝報」を伝えていた。今更その「勝利」を否定することもできなかった。ヒトラーは、新たな部隊を送り、何としてもこの包囲を突破せねばならない、とした。その包囲突破のための新たな作戦行動の指揮を執ったのは、クリミア攻略でその知将ぶりを発揮したマンシュタイン元帥であった。彼が新たにドイツ軍ドン軍集団司令官に任命された。フランス北部からも急きょ装甲師団が呼び寄せられた。

 1942年冬の12月12日、マンシュタイン軍団は、スターリングラードから南方120キロ地点のコテルニコフから出撃を開始し、鉄道線沿いにスターリングラード市南口を目指して北上を開始した。

 ソビエト軍にとっては、あらかじめ予期し、準備していた《ウラン作戦》の第二段階―救出部隊撃滅・包囲軍殲滅作戦―発動の時が来た。ソビエト最高軍司令部は、赤軍部隊とパルチザン部隊を出動させ、マンシュタイン軍団の進撃を阻み、更に戦車・砲兵隊を投入し、軍団を大混乱に追い込んだ。また、マンシュタインが敢行した飛行機部隊による第6軍への食糧・冬用物資投下作戦に対しても、その飛行機出撃拠点を次々と攻撃、破壊、身動きが取れないようにした。

 マンシュタインは、「第6軍の中でスターリングラード市南部を占領している部隊を脱出、南下させ、こちらの救出部隊と結合させ、包囲網を打ち破る以外にない」とヒトラーに要請したが、ヒトラーは「スターリングラードからの脱出」を認めなかった。12月23日、マンシュタインは、直接、第6軍司令官パウルスに「脱出突破作戦」の強行を求めるが、結局パウルスもこの作戦の実施を決断できなかった。こうしてマンシュタインの救出作戦は完全に失敗に終わった。

 1943年1月8日、ソビエト赤軍のドン方面軍と南西方面軍の司令部は、いよいよ、ドイツ第6軍に「投降勧告」を行なう。彼らはこれを拒否。ドン方面軍は再度攻撃を開始する。ヒトラーはあくまでも「投降拒否」を命令する。が、次々と捕虜、犠牲者が生まれ、ドイツ兵の死体の山が築かれていった。戦死者・行方不明者の数は15万にも達していた。兵士の逃亡・逃走は止まず、もはや戦闘の継続は不可能であった。

 1943年1月31日、ヒトラーはしぶしぶ「撤退命令」を出す。2月2日、パウルス司令官とドイツ第6軍は投降勧告を受諾。ドン川とヴォルガ河の間の南北40キロ・東西60キロの狭い平原地に封じ込められたパウルス元帥以下第6軍26万(一説には33万)余が、遂にソビエト軍の捕虜となった。ソビエト軍の大反攻作戦《ウラン作戦》は完全に成功し、ソビエト軍の完全な勝利に終わった。

 かくして、独ソ戦の最大の山場たるスターリングラード攻防戦は、スターリンに率いられたソビエト赤軍、市民、人民の完全な勝利、ヒトラー・ドイツ軍の完全な敗北となった。1942年の秋の第25回革命記念日祝典の席上、スターリンソビエト人民に約束した『近いうちに、我々の街で、またお祝いをすることになるであろう』という言葉は、嘘偽りなく、見事に果たされたのである。

 《ウラン作戦》を直接指揮したジューコフは、最高軍司令部を代表し、この戦いを振り返り、ソビエト国民に向かって、次のように報告した。

 『スターリングラードにおけるわが軍の勝利は、独ソ戦の転換点となり、以後、戦局はソ連に有利となり、敵軍の退却が始まった。この勝利は、直接敵の撃滅にあたった諸部隊にとっては勿論、すべての軍需品を軍隊に補給するために日夜働き続けたソ連国民にとっても、長い間待ち望んでいた勝利であった。…ドイツ軍将兵ドイツ国民の間に、ヒトラー個人やファシスト指導部に対する不信感が急速に高まり始めた。ドイツ国民は、ヒトラーとその側近たちが国を冒険に引きずり込んだこと、ヒトラーが約束した勝利がドン・ボルガ・北カフカズで破滅した軍隊と共に消え去ったこと、を理解し始めた』(回想録より)と。

 世界的軍事評論家のリデル・ハートもまた、その著書において『スターリングラードではパウルスとその指揮下の第6軍の大半が(1943年)1月31日、降伏した。…「スターリングラードの悲劇」はそれ以後、各地のドイツ軍司令官の心に微妙な毒となって作用し、彼らが遂行することを求められていたその戦略に関する自信のほども、揺らいでいったのである。物質面よりむしろ精神面で、スターリングラードの大敗北はドイツ陸軍に回復不能の痛手を与えたということができる』と語り、ドイツ軍の戦略的敗北を明確に確認している。