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(小林尹夫-哲学ルーム)

『君たちは―』(第10回) 第1次早大闘争の意義

君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)-私の読書体験ノート


 当時、私たちのクラス―明確に党派に属しているものは誰もおらず、いわゆる「ノンポリ」「ノンセクト・ラジカル」の集まりだった―は、この闘争の本質・意義―闘争の正当性・正義性―をどのように捉えていたのか。闘争終結後の1966年9月に編集・発行されたクラス雑誌『塔影』(5号)「総括特集」を参考に、この問題を明らかにすることとしよう。
 私たちの最初の闘争把握はあくまでも「教育の機会均等を奪う大幅学費値上げ反対」という経済的問題中心であった。したがって、あくまでも学内的解決を求めるものであり、機動隊導入に対しても、あくまでも「学問の府を守れ、学の独立・自由を守れ」という立場からの反発であった。
これに対し、共闘会議指導部―戦闘的な新左翼系(反代々木共産党系)党派が中枢を支配していた―は、この学費・学館闘争を明確に、「反権力闘争」として捉えており、話し合いでの解決はありえず、力(バリスト闘争)による解決しかありえない、という立場に立っていた。ただ、民青(代々木共産党系組の学生組織・民主青年同盟)だけは「国庫補助要求、国会請願」を主張し、あくまでも国会・議会活動の強化・拡大を訴えていた。だが、学内における大衆的な闘争抜きの彼らのこの方針は多くの学生から無視され、破綻していた。
 共闘会議指導部は次のような主帳を展開していた。『大学当局は「産学共同路線」を強行し、大学教育の非学問的拡大と組織膨張(マスプロ化)を推し進めている。この産学協同路線は、産業社会(独占資本)の経済的要求に沿ったものであり、私学にたいしては資本の要請に従順な中堅労働力の大量的養成のための特殊的専門学校への道を強制し、中級技術者の大量的養成をめざす理工系学部の肥大化と、管理部門の膨大化にともなう中級サラリーマンの大量的養成をめざす文科系学部の画一化は、まさに産学協同の基本的方向を示している。しかも、独占資本が要請する産学共同に向けた大学膨張拡大のための費用を学生からの搾取と収奪―大幅学費値上げによって実現せんとしているのであり、絶対に認めることはできない。また、早大生産研究所における軍事研究の発覚(1962年)に象徴される大学研究の独占資本への直接的奉仕及び軍学一体化は、帝国主義段階における大学の腐朽の深化、独占資本・国家権力と大学のゆ着の進行を意味している』と。そして『政府権力・大学当局が目指す「大学管理法」「学館管理運営権の剥奪」とは、こうした教育と大学の帝国主義的再編を目指す政府権力に抵抗し、反抗する戦闘的学生に統制と弾圧を加えるものであり、絶対に妥協することは出来ない。実力を以って阻止しなければならない』と。
私たちはこうした共闘会議指導部の闘争方針に影響を受けつつ、学習資料を集め、討論し、なぜ闘わねばならないのか、その意義解明を深めていった。教員を目指す学生が多かったこともあり、「憲法教育基本法」「戦後の再軍備史」「大学自治史」「教育行政」「教科書検定」「教育免許法」「人づくり政策」なども討論・学習の対象となった。それは戦後史の学習であり、歴史を学ぶ、ということは、自分自身の内部に一つの価値観を形成していく作業であり、まさしく「如何に生きるのか」を自らに問う作業であり、それは過去の自分との熾烈な思想闘争を求めた。
 私たち―勿論全員が同じレベルではありえず、個々それぞれであった―が辿りついた結論は、次のようなものだった。『一つは、政治闘争として、即ち政府・権力の反動的な文教政策と産学共同路線を否定するものとしての?反体制的闘争?として。一つは、学問研究の自由と独立を勝ち取るための闘い、或いは学生不在の大学教育行政の改革を目指す闘いとして。一つは、経済闘争としての学費値上げ白紙撤回の闘いとして』と。そして、私自身は「この闘争の根底を支えるのは労働者・人民全体の立場に立つという世界観である」との考えに到達していった。
後に触れるが、「一文(昼間部文学部)学生大会」が6月4日に開かれた際、私は実質的にクラスを代表する形で「ストライキ支持の演説」を行った。その内容の基本点は次のようなものであった―
『この学生大会が何故ストライキ体制強化を目的とするものでなければならないかについて、少し述べてみたいと思います。(正義も時として暴力を必要とするものであり)…闘争というものは常に力と力の対決であります。話合いよし、団交よし。しかし、その背後で学校当局が有形無形の力を行使してくる以上、われわれもまた力をもって対応せざるをえません。そして、われわれの力を今具体的に表現し得る手段とは?試験ボイコット??授業ボイコット?以外にありません。しかし、この力の表現は義務放棄ではなく、権利放棄である点において、非常に苦しいものです。それだけに尚更全学友の主体的な積極的な参加が要請されるのです。(文学部の学友は芸術家であり)…時代の無知と迷蒙・俗見と謬見―偉大な芸術家たちは常にそれを見破り、告発し、勇敢に闘ってきた事実を歴史は雄弁に物語っています。
「我々は何のために、何故闘わねばならないのか」―この疑問に答えることは、即その人の生き方に関わってくるはずです。真剣に考えれば考えるほど深刻にならざるを得ないはずです。今まで自分が抱いていた人生観に、ある意味で、根底的な修正を加えねばならないかもしれません。…
「何のために、何故闘うか」、一言で言ってしまえば、まさに破壊と創造のために、そして早稲田35000の学友のために、今後何十年にわたって入学して来るであろう我らが後輩のために、そしてまた全国の大学に在籍する全学生に身を以ってその範を示さんが為に、さらには全人民のために、大きくは全人類の為に、真に幸福な社会を建設せねばならない重き使命を担っているが故に闘わねばならないのです。
 我々がかつて抱いていた大学への幻想―?学問の府?という幻想は、今や無残に打ち砕かれ、僕らは再び?学問とは何か?という疑問を余儀なく発するのです。大切なことは学問をするということではありません。その学問がいったい何のためになされ、どう社会に役だっていくかこそが、最も肝腎な点です。…勉強をしたい、勉強をしなければならいというのは、学生として当然のことであります。が同時に、我々は学生である以前の人間として、我々の周囲を取り巻く悪なある環境とも闘っていかねばなりません。
 この我々の早稲田大学を、不当な権力に屈することなき難攻不落の砦にするために、我々は粘り強く、真摯に、そして情熱的にこの闘争を展開していかねばならないと思います。…
 たった一人でも良い、誰かの心の片隅に、この僕の発言がその種子を播き得たとすれば、僕はその人に感謝したい』と。
 こうした結論は、まさに「君たちはどう生きるのか」という問いに対する、私自身の答えであった。
 ところで、こうした私の人生観転換の背後には、1966年当時の苛烈な時代状況が大きく作用していたことを付け加えておかねばならない。