人民文学サイト

(小林尹夫-哲学ルーム)

アメリカ発世界恐慌(2008年リーマンショック・1929年大恐慌)とソビエト社会主義(1928年第1次・1933年第2次計画経済) (第7回)

  第一次世界大戦中(1914年~1919年1月)、戦場となることのなかったアメリカ(日本もまた)は、その戦争特需、戦後復興需要を一手に引き受け、空前の好景気を謳歌し、「黄金の20年代」を経て、遂に「大英帝国」に代わる、国際資本主義のトップ・リーダーの地位に上り詰めようとしていた。しかし、「20年代」最後の1929年の10月24日、アメリカは「突如」、未曾有の大恐慌に見舞われ、奈落の底に突き落とされていく。

 大戦後、しばらくは、アメリカは未曾有の好景気「黄金時代」に酔いしれることができた。しかし、ヨーロッパの戦後復興が始まり、特にヨーロッパでも農業生産が再開され始めると、まずアメリカ農産物の輸出が減り、農産物価格が低落し、農民の収入は激減し、農民の生活困窮が始まった。工業部門は、競争力の強い自動車産業は好調を維持していたが、石炭・紡績部門は不振に陥っていた。当然のことながら、戦争特需が終えた結果、農業部門だけでなく、工業部門の実態経済は、確実に「過剰生産」になっていたのである。

 しかし、アメリカ国民も、経済界も、クーリッジ大統領(在任は1923~29)と政府も、こうした実態経済にまったく目を向けていなかった。それは、当面、株式市場は右肩上がり状態の中にあり、世論の勢いや雰囲気は「黄金時代」の夢の中にあり、酔いから覚めることなく、人々は「合衆国は買いだ!」と信じ続けていたからである。

アメリカ政府と中央銀行FRBは、こうした景気後退対策として、公定歩合を引き下げ、大量の貨幣を市中に流し、経済活動の刺激策を繰り出した。だが、過剰生産の下では、その貨幣は生産活動には投資されず、フロリダ不動産売買や株券市場に集中し、不動産バブル、そして株取引バブルを生みだした。

 投機的バブル「フロリダ不動産ブーム」が始まったのは1925年頃からであった。「黄金時代」の記憶―世の中には努力しないで手っ取り早く稼いで金持ちになる方法、そんなチャンスがある―が、人々を「フロリダ買い」に走らせた。「フロリダは暖かく、日光浴には最適で、しかも首都からも遠くなく、レジャー時代の最高の楽天地となる!」とのキャッチフレーズが人々を煽り立てた。こうして「フロリダ不動産ブーム」が一気に膨らんでいった。いかがわしい土地が10%の手付金だけで買えた。「2週間後に売ったら大儲けだ」ということで、人が住めるかどうかなどどうでもよいことであった。しかし、26年に入ると買い手が減り始めた。26年秋には2度のハリケーンに襲われ、400人が死亡し、数千世帯お屋根が吹っ飛び、大ダメージを受けた。実際には「フロリダブーム」は終わっていた。それでも、しばらくは「気候的地理的優位性は変わらない!」との宣伝が繰り返され、ブームが維持された。しかし、28年には債務不履行が続出し、バブルは崩壊した。

 しかし、「フロリダ不動産ブーム」が崩壊しても、人々の「一攫千金」の夢は消えず、こうして「株式ブーム」が始まる。株は1924年後半あたりから値上がりを始めていた。26年には、「フロリダ・ハリケーン」の影響もあり、一時急落・暴落するが、直ぐに市場は反発し、27年から本格的な「上げ相場」が始まったのである。1928年12月、時のアメリカ大統領クーリッジは、一般教書において、「いまだかつてないほど、国内には平和と満足と繁栄期の最高の記録がある」と豪語していた。事実、1929年9月3日の株価―生産活動を活発に繰り広げていた企業の株価―は最高値を示していた。株価は、実体経済―過剰生産―をまったく反映していなかった。

 だが、その僅か1ヵ月半後の1929年10月24日、後に「暗黒の木曜日」と呼ばれたこの日、ニューヨーク・ウォール街アメリカ株価市場は大暴落に襲われ、株価はあっと言う間に半値に落下、大量の会社が倒産に追い込まれ、ついには、株券は紙くず同然となってしまったのである。

 いったい何が起こったのか。